Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2022年01月21日
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カテゴリ: 絶対存在論
神の存否-297
 第三部定理二の備考の後半部では人間の身体と精神の関わりを具体的に述べます。
 第三部定理二の備考の後半部
 実際、今日まで、誰も身体の機能のすべてを説明しうるほど正確には身体の組織を知らなかった。人間の知恵をはるかに凌駕する多くのことが動物において認められることや、夢遊病者が覚醒時にはとてもしないような多くのことを睡眠中になしていること(これは、身体が単に自己の本性の法則のみによって、自分の精神を驚かすような多くのことをなしうることを十分に示している)について説明できないのは言うまでもない。次にどのような仕方、どのような媒介で精神が身体を動かすか、またどのような程度の運動を身体に与えうるか、またどのような速度で身体を動かしうるかを誰も知らない。こうした点から見れば、人々が身体のこのあるいはかの活動は身体の支配者である精神から来ていると言う時、彼らは実は自らの言っていることを理解していないのである。そして彼らがその活動の真の原因を知らず、しかもそれを何ら怪しんでいないということを体裁のよい言葉で告白しているのに異ならないのである。
 しかし彼らは言うであろう。どのような媒介で精神が身体を動かすかを知っていようと知っていまいと、人間精神が思考に適しない場合は身体が不活発であることを自分らは経験すると。また言うであろう。話すことや沈黙すること、その他多くのことが単に精神の力の中にのみあることを自分らは経験する、だからそうしたことは精神の決意に依存すると信ずると。
 だが第一の点に関して私は彼らにこう尋ねる。経験はまた逆に、身体が不清澄な場合には同時に精神が思惟に適しないことも教えはしないかと。なぜなら、身体が眠って静止している間は精神も同時に身体とともに無意識状態にとどまり、覚醒時のように思考する能力を有しないからである。さらにまた精神が同一対象について常に等しく思惟するのに適当しているわけでなく、むしろ身体がこのあるいはかの対象の表象像を自らの中に生み出すのに適当した度合に応じて精神もこのあるいはかの対象を考察するのに適当するということは誰しもみな経験しているところと信ずる。
 しかし彼らは言うであろう。建築・絵画・その他人間の技能のみから生ずるこの種の事柄の原因を、単に物体的と見られる限りにおける自然の法則のみから導き出すことはできない、また人間身体は精神から決定され導かれるのでなくては寺院のごときものを構築することはできまいと。しかし、私のすでに指摘したように、彼らは、身体が何をなしうるかまた身体の本性の単なる考察だけから何が導き出されうるかを全然知らないのであるし、また彼らは、精神の導きなしに起こりうるとは彼らの決して信じなかっただろうような多くのこと、例えば夢遊病者が睡眠中にしてあとで覚醒してから自分で驚くようなことが、単なる自然の法則のみによって生ずることを経験しているのである。なお私はここで、人間身体の構造そのものが人間の技能によって作り出されるすべてのものを技巧上はるかに凌駕していることを付言する。私がさきに述べたこと、すなわち自然がいかなる属性のもとで考察されようとも自然から無限に多くのものが生ずるということを、今は言わないとしても。
 さらに第二の点に関しては、もし沈黙することも話すことも等しく人間の力の中にあるとしたら、たしかに人事はもっとうまくいっていたことであろう。しかし、経験は、人間にとって舌ほど抑えがたいものはなく、また自分の衝動を制御するほど困難なことはないことを十分以上に教えている。この結果として大抵の人々は、我々はただ軽度に欲求する事だけを自由に成すと信じている。そうしたものへの衝動は我々の頭にしばしば浮かぶ他の事柄の想起によって容易に抑制され得るからである。これに反して、激しい感情をもって欲求する事柄に対してはそうはいかないと信じられている。このような感情は他の事柄の想起によっても鎮められえないからである。実際もし彼らが、人間はあとで後悔するような多くのことをなすものであり、また相反する感情に捉われる時は往々にしてより善きものを見ながらより悪しきものに従うものであるということを経験しなかったとしたら、彼らは人間が何もかも自由に行なうと信ずるのに躊躇しなかったであろう。
 このようにして、幼児は自由に乳を欲求すると信じ、怒った小児は自由に復讐を欲すると信じ、臆病者は自由に逃亡すると信ずる。次に酩酊者は、あとで酔いが醒めた時黙っていればよかったと思うようなことをその時は精神の自由な決意に従って話すと信ずる。同様に、狂人・お喋り女・小児その他この種の多くの者は、実は自分のもつ話したいという本能を抑ええないで話すのに、精神の自由決意から話すと信じている。これで見れば、経験そのものも理性に劣らず明瞭に、人間は自分の行動を意識しているが自分をそれへ決定する原因は知らぬゆえに自分を自由だと信じているということを教えてくれる。それからまた精神の決意とは衝動そのものにほかならず、したがって精神の決意は身体の状態の異なるのに従って異なるということを教えてくれる。 各人は自分の感情に基づいて一切を律し、さらに相反する感情に捉われる者は自分が何を欲したらいいかを知らず、また何の感情にも捉われない者はわずかの弾みによってもこっちに動かされあっちに動かされするからである。
 以上すべてからきわめて明瞭に次のことが分かる。それは精神の決意ないし衝動と身体の決定とは本性上同時に在り、あるいは寧ろ一にして同一物なのであって、この同一物が思惟の属性のもとで見られ・思惟の属性によって説明される時、我々はこれを決意(デクレトウム)と呼び、延長の属性のもとで見られ・運動と静止の法則から導き出される時、我々はこれを決定(デテルミナテイオ)と呼ぶということである。
 このことはなお、これから述べることからいっそう明瞭になるであろう。というのは、ここで私の特に注意したい別のことがある。それは、我々は想起しないことは決して精神の決意によってなしえないということである。例えば我々は想起しない言葉を話すことはできない。なおあることを想起したり・忘れたりすることは精神の自由にはならない。そこで人々は想起することについて任意に黙っていたり・話をしたりすることだけは精神の力の中に在ると信じている。しかし我々が話をする夢を見る場合、我々はやはり精神の自由な決意によっで話をすると信じており、しかも実は話をしていない、あるいは話をするとしてもそれは身体の自発的運動から生じているのである。次に我々はいろいろなことを人に隠すという夢を見る。しかも覚醒時に我々が知っていることを人に黙っているのと同じ精神の決意でそうしていると夢の中で思っている。最後に我我は、覚醒時にはとてもしないようないろいろなことを精神の自由な決意によってやってのけるという夢を見る。そこで私はぜひ知りたい、精神の中には二種の決意、すなわち空想的な決意と自由な決意とがあるのかどうかを。もしそんな無意味な結論に到達したくなければ、この自由であると信じられている精神の決意は、表象そのものあるいは想起そのものと区別されないのであって、それは観念が観念である限りにおいて必然的に含む肯定(第二部定理四九 精神の中には観念が観念である限りにおいて含む以外のいかなる意志作用も、すなわちいかなる肯定ないし否定も存しない。を見よ)にほかならないということを人々は必然的に承認しなくてはならぬ。
 こんなわけで、精神のこうした決意は、現実に存在するもろもろの事物の観念が生ずるのと同一の必然性をもって精神の中に生ずる。だから精神の自由な決意で話をしたり・黙っていたりその他いろいろなことをなすと信ずる者は、目をあけながら夢を見ているのである。



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最終更新日  2022年01月21日 06時03分17秒
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