神の存否-460 定理六五 理性の導きに従って我々は、二つの善のうちより大なるものに、また二つの悪のうちより小なるものに就(つ)くであろう。 証明 我々がより大なる善を享受することを妨げるような善は、実は悪である。なぜなら(この部の序言 骨子:完全性と不完全性、および善と悪で示したように)物は我々がそれを相互に比較する限りにおいてのみ悪あるいは善と言われるからである。また(同じ理由 完全性と不完全性、および善と悪の比較衡量判断により)より小なる悪は実は(記:暫定的)善である。ゆえに理性の導きに従って我々は(この部の定理六三の系 理性から生ずる欲望によって我々は直接に善に就き、間接に悪を逃れる。により)より大なる善およびより小なる悪のみを欲求するであろう、あるいはそれのみに就くであろう。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 系 理性の導きに従って我々は、より大なる善のためにより小なる悪に就き、またより大なる悪の原因たるより小なる善を断念するであろう。なぜなら、ここでより小と言われる悪は実は善であり、これに反してより小と言われる善は実は悪である。ゆえに我々は(この部第四部の定理六三の系の同上により)前者を欲求し後者を断念するであろう。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 記:ソクラテス「悪法もまた法なり(Bad law is also law)」。仏法補注:この成句の起源については、「法華経‐譬喩品」の「三車火宅」のたとえ話に見る説が有力である。→三車火宅(さんしゃかたく)。「嘘も方便」嘘は罪悪ではあるが、よい結果を得る手段として時には必要である。「方便」は、仏教で仏が衆生を悟りに導くために用いる手だてをいいます。仏教の五戒に「不ふ妄もう語ご戒かい」があるように、うそをつくことはよくないことですが、相手や将来のことを考えて、物事を円滑に運ぶためには、時と場合によって許されるとする考え方です。