Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2022年09月01日
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カテゴリ: 絶対存在論
神の存否-518
    記:至福と快楽の違いについて
 インド哲学の中でも権威のある「カタ・ウパニシャッド」と呼ばれる教典があります。カタ・ウパニシャッドの中で死神ヤマは、正しい幸福と間違った歓びについて定義します。方には至福があり、他方には快適なものがある。両者は目的を異にするが、いずれも人間を束縛する。その両者のうちで至福をとる者には善があり、快楽なものを選ぶものは人生の目的からはずれる。(カタ・ウパニシャッド2勝1節) 
 インドの哲学者シャンカラの解説では、この2つは「知識」と「無知」の性質を持っています。知識と無知は互いに対立する関係にあり、両方を追いかけることができません。幸福も快適なものも人間に近づいてくる。賢明な者は、熟考したうえで、二種を区別する。賢者は快適な者よりも幸福を選び、愚者は至福よりも快適なものを選ぶからである。(カタ・ウパニシャッド2章2節) 
 至福と快楽はともに私たちのもとに現れます。しかし、私たちが手にすることができるのはたった1つです。本当の幸福、至福は自分で決意しないと手に入れることができません。なぜならば、相対する快楽の誘惑はとても強いからです。 
 定理四二 至福は徳の報酬ではなくて徳それ自身である。そして我々は快楽を抑制するがゆえに至福を享受するのではなくて、反対に、至福を享受するがゆえに快楽を抑制しうるのである。
 証明 至福は神に対する愛に存する(この部第五部の定理三六 神に対する精神の知的愛は、神が無限である限りにおいてではなく、神が永遠の相のもとに見られた人間精神の本質によって説明されうる限りにおいて、神が自己自身を愛する神の愛そのものである。言いかえれば、神に対する精神の知的愛は、神が自己自身を愛する無限の愛の一部分である。およびその備考 要項:我々の幸福あるいは至福または自由が何に存するかを我々は明瞭に理解する。すなわちそれは神に対する恒常・永遠の愛に、あるいは人間に対する神の愛に存するのである。により)。そしてこの愛は第三種の認識から生ずる(この部第五部の定理三二の系
 第三種の認識から必然的に神に対する知的愛が生ずる。なぜならこの認識からは原因としての神の観念を伴った喜び、言いかえれば、神に対する愛が生ずる。しかも現在するものとして表象される限りにおける神に対する愛ではなくて、永遠であると認識される限りにおける神に対する愛である。そして、これこそ私が神に対する知的愛と呼ぶところのものである。により)。したがってこの愛は(第三部定理五九 すべて、働きをなす限りにおいての精神に関係する感情には、喜びあるいは欲望に関する感情があるだけである。および第三部定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。により)働きをなす限りにおける精神に帰せられなければならぬ。ゆえにそれは(第四部定義八 徳と能力とを同一のものと私は解する。言いかえれば、人間について言われる徳とは、人間が自己の本性の法則のみによって理解されるようなあることをなす能力を有する限りにおいて、人間の本質ないし本性そのもののことである。により)徳それ自身である。これが第一の点であった。次に精神はこの神の愛すなわち至福をより多く享受するに従ってそれだけ多く認識する(この部第五部の定理三二 我々は第三種の認識において認識するすべてのことを楽しみ、しかもこの楽しみはその原因としての神の観念を伴っている。により)。言いかえれば(この部第五部の定理三の系 略:我々が感情をよりよく認識するに従って感情はそれだけ多く我々の力の中に在り、また精神は感情から働きを受けることがそれだけ少なくなる。により)感情に対してそれだけ大なる能力を有しまた(この部第五部の定理三八 精神はより多くの物を第二種および第三種の認識において認識するに従ってそれだけ悪しき感情から働きを受けることが少なく、またそれだけ死を恐れることが少ない。により)悪しき感情から働きを受けることがそれだけ少なくなる。ゆえに精神はこの神の愛すなわち至福を享受することによって快楽を抑制する力を有するのである。そして感情を抑制する人間の能力は知性にのみ存するのであるから、したがって何びとも感情を抑制したがゆえに至福を享受するのでなく、かえって反対に、快楽を抑制する力は至福それ自身から生ずるのである。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。
 備考 以上をもって私は、感情に対する精神の能力について、ならびに精神の自由について示そうと欲したすべてのことを終えた。これによって、賢者はいかに多くをなしうるか、また賢者は快楽にのみ駆られる無知者よりもいかに優れているかが明らかになる。すなわち無知者は、外部の諸原因からさまざまな仕方で揺り動かされて決して精神の真の満足を享有しないばかりでなく、その上、自己・神および物をほとんど意識せずに生活し、そして彼は働きを受けることをやめるや否や同時にまた存在することをもやめる。これに反して賢者は、賢者として見られる限り、ほとんど心を乱されることがなく、自己・神および物をある永遠の必然性によって意識し、決して存在することをやめず、常に精神の真の満足を享有(*天理を保持)している。  (仏陀の悟り・覚りであり涅槃に通ず。)
 さてこれに到達するものとして私の示した道はきわめて峻険であるように見えるけれども、なお発見されることはできる。また実際、このように稀にしか見つからないものは困難なものであるに違いない。なぜなら、もし幸福がすぐ手近かにあって大した労苦なしに見つかるとしたら、それがほとんどすべての人から閑却されているということがどうしてありえよう。
 たしかに、すべて高貴なもの(*人智を超える無冥を超える)のは稀であるとともに困難である。      
                 スピノザの倫理学「エチカ」完



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最終更新日  2022年09月01日 06時10分07秒
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