Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2022年11月07日
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カテゴリ: 霊魂論
第3章 眠りと死(31節/13)
13 エーテル体分離後の死後の浄化
 死後、まず生前の体験が記憶像として現れる。その後、アストラル体はエーテル体から離れ、単独で先に進む。このとき、生前アストラル体が肉体と結びついていた頃に身に着けたものが、すべてアストラル体内に残っている。自我は、身体的諸器官とのかかわり抜きで、霊我、生命霊、霊人を形成し、育て、それを維持する。さらに、まさに此の 自我こそは、外的器官なしで自己知覚ができ、また自分と一体になったものを維持できる。ここで、「睡眠中の自我は、なぜ発展した霊我、生命霊、霊人を知覚できないのか」、という問いが生じうる。そしてその答えは、地上「生体」では自我が肉体に拘束されているからである。睡眠中の自我は、アストラル体と共に肉体から離れるが、それでもアストラル体の活動が肉体を向いているので、肉体と密に結びついている。それゆえ自我も感覚界の知覚に向いていて、霊の直接的開示を受け取れない。自我が霊の直接的開示を見るのは、肉体・エーテル体から解放される死後である。魂は、生前に自らを束縛していた物質界から離れた瞬間に輝く別世界を見る。… ところで、この時点でも外的感覚界との結びつきがすべて解消したわけではなく、物質的欲望が残っている。この欲望は、自我を意識する人間自らが作り出している。低次の三構成要素に由来する欲望や願望は、外界でしか作用し得ず、この三体の消滅と共に消える。たとえば、肉体によって生じる空腹は、自我が肉体から離れればなくなる。自我が自らの霊的本性に由来する欲望しか持たず、他の欲望を持たなかったなら、死と同時に、新たな居場所である霊界だけですべてが充足される筈である。ところが自我は生存中に、肉体器官由来ではないが肉体器官によってしか充足され得ない別種の享楽を持つようになる。霊界には存在しえない享楽を、自我自身が物質界で満足させる。つまり、生涯を経る中で、自我は二種類の願望を持つ。第一は体に由来する願望で、体なしでは充足しえないが、体が崩壊すれば消滅する。第二は、自我の霊的本性に由来し、自我が体に宿っているときには体的諸器官を介して満たされる願望である。第二の願望が存在するのは、体的諸器官には隠れた霊的作用も開示し、感覚体験が同時に霊的体験でもあるからである。この霊的体験は、やや変形はするも死後も存続する。感覚がまったく消えた後でも、自我が感覚界で求めた霊的なものはすべて残る。ここで、自我が地上生において感覚世界で作り出した第三の願望が加わらなければ、死とは、感覚によって充足されうる欲望から、霊界の開示によって充足されうる欲望へ移行に過ぎなかった筈である。しかし、霊的開示を伴わない感覚界の事柄にも、自我は享楽を見出してしまうのである。… 最低次の楽しみ、たとえば空腹時の食事から受ける充足も霊的開示のひとつでありうる。食事によってのみ霊的に満たされるなら、食べることによって霊ははじめて進化できる。しかし自我は、栄養摂取による霊的充足以外の楽しみ、たとえば美食への欲求を持つこともあるし、同様な欲求は他の感覚的事柄でも生じる。その結果、自我が感覚界に巻き込まれなかったなら決して生じ得ない、しかも自我の霊的本質に由来しない願望が生じる。
 自我は霊的であるにしろ、身体内で生きるがゆえに必然的に感覚的な楽しみを持つ。なぜなら、霊は感覚的なものに開示するからである。感覚界にあっても、自我が霊的な光に満たされたものだけを求めていれば、霊的なものを享受している。したがって、その霊的な光の仲介者である感覚物がなくなっても、自我はその霊的な光を享受できる。しかし、前述のような、感覚界にあって霊とは無縁の享楽は、霊界では満足されようがなく、死後はそれに浸る可能性は失われる。美食の楽しみは口や舌などがなければ生じ得ない。肉体がなくなるとこれらの器官は失われ、自我が求めるそうした享楽は満たされることがない。霊に相応しい楽しみも、身体器官がなければ満たされ得ない。霊に相応しくない、単なる享楽を自我が求めていると、その享楽は死後も願望として残り、その充足を激しく求める。そうした死者の様子は、水がまったくない砂漠で焼け付く喉の渇きに苦しむ様子に喩えることができる。これが、死後も外界の享楽を追い求め続けながら、それを満足させる器官を失った自我の様子である。当然ながら、死後の自我が経験する灼熱の渇望は、この世のどのような渇きより激しいものであり、また、この比喩は他の満たされえない享楽すべてに当てはまる。自我は次の段階で、外界へのこの執着を断ち切る。自我は自らの内でこの執着を浄化し、そこから離れなくてはいけない。身体内で自我によって生じた非霊的願望は、すべて消されなくてはならない。… 物体が火で焼き尽くされるように、上述の欲望は死後、解消され、破壊される。この時、超感覚的認識が「霊の業火」と呼ぶ世界に入っている。感覚的欲望が霊に相応しくない場合、「火(火炎・業火・劫火のいずれかにしろ)」に包まれる。この経過は無慈悲で恐ろしいものと思われるかも知れない。充足のために感覚器官を要する願望はすべて、死後には絶望に変わり、物質界でしか充足されない望みは、焼けるような渇望になるというのは確かに恐ろしく聞こえる。しかし、これら願望や欲望が高次の意味では望ましくなく、人生における破滅的力であることを理解すれば、その思いはなくなる。自我は感覚界から役立つものも受けとるが、この破壊的な力によって自我が必要以上に強く感覚界と結びついてしまうのである。自我が感覚界における霊的な開示を受け取ろうとしなければ、身体感覚を介して開示する霊性は受け取ることもできない。霊の声を聞かずに感覚界を求めてしまうがために、自我はこの世において真の霊的現実から遠ざかってしまう。感覚的享楽を霊の表現として受け取るなら、自我を高め進化させるが、そうでなければ自我を貧しくし、荒廃へと導く。それゆえ、感覚界でその種の欲望を充足させていると、自我荒廃化の作用は死後も残る。ただ、生きているうちはこの破壊的な働きが自我には見ること能わず、同じ欲望を繰り返し求めることで、自らを自分自身でますます深く「業火」に投げ込んでいることに気づかない。死後、生前に自分が投げ込まれた場の本質が明らかになり、それによってさらに、業火の後に救済と安らぎがもたらされることを知る。人を愛するときには、身体器官の感覚だけを介して惹きつけられているわけではないにしろ、身体的感覚は死後のは確実に失われる。しかし、身体器官をあるものを見るための手段としてだけ用いていたなら、死後にはそのあるものが見えてくる。その出現を妨げているのが、身体器官だけで満足されうる欲望である。この欲望が浄化されなければ、死後、愛する人を意識的に知覚することはできない。こう考えれば、超感覚的認識が伝える死後の体験に対する印象は、無慈悲で恐ろしいものから、深い満足感と慰めに満ちたものに変るだろう。



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最終更新日  2022年11月07日 06時10分05秒
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