Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2023年03月03日
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カテゴリ: 霊魂論
「神秘学概論」読解
39 :地球紀5 悪と自由-2
 月紀の段階に停滞するこの霊的な存在(ルツィフェル的な霊たち)が人間に及ぼした作用は、人間に二重の結果を生じさせた。第一に、これによって、宇宙の姿だけを映し出す(*魔法の鏡以外に鏡には自由がない。)という人間の意識の特徴が失われた。なぜなら、人間のアストラル体に意識像を制御し、支配する可能性が与えられたからである。人間は、自分の認識行為の主体になったのである。第二に、人間が主体的に認識する際、その出発点は正にアストラル体であったので、アストラル体の上位に位置する「自我」は、それによって、常にアストラル体に依存し続けるようになった。したがって人間は、それ以降、人間本性の低次の要素をたえず受け続ける。人間生活は、地球紀の月の存在が宇宙進化の中で位置づけてくれた水準からは脱落してしまった。そして、この不規則な進化を遂げた月の存在たちの影響を、人間の本性はたえず受け続けた。この月の存在たち、つまり地球の月から働きかけて人間の意識を宇宙の鏡に変え、それによって、人間に自由な意を附与しなかった霊的存在たちと対立するものは、ルツィフェル的な霊たちと呼ぶことができる。ルツィフェル的な霊たちは、人間の意識の中に自由な活動を呼び起こしたが、それと同時に誤謬と悪の可能性をも人間に与えたのである。(P256-267)
 「鏡」となっていたとすれば、人間はさまざまな問題に対して正答のみ得ることができていただろうが、それはまるで四択問題の解答番号そのものような存在だともいえる。そこに問いを見出しそれに答えようとするプロセスが欠如している。正解だけを答えるマシーンのような存在、此れが人間性の本質だとしたら、人間としてのあなたは何方を選択しますか。人間は「鏡」としての「解答集」を見ることをルツィフェル的な霊たちに妨害され続けているのだが、寧ろそのことで「認識の主体」であること、つまり「自由」の可能性を与えられたことになる。解答を見ることができないが故に、自分でそれを導き出そうとしなければならない。本来は全てが満点しかとり得なかった超優等生が其の事変から、或る意味、酷い(ひどい)劣等生になってしまうことに貶められたともいえるが、反面、人間は自分で考える精神の自由を持つ存在にもなり得たのである。
 自分で考えるということは、間違うかもしれないということでもあり、間違うということは「悪」の可能性でもある。「善」であるための手順や手続きが決まった定型はそこでは存在しえない。それは「自由」によって選び取られるものでなくてはならない。
「自由」であることと「悪」とはコインの両面のようなものなのである。「悪」の可能性がないということは、まるで自動的に機能しているように見える、あるいは普通の感覚や感情を欠いていることにより、機械に似ている「善」のロボット(robot)人間であるということでもある。悪を犯すことが予めプログラムされたロボット。しかしそのときの「善」のなんと深奥・陰影に欠けていることだろうか。その意味では、この地上世界はなんと陰影の深い世界だろうか。地球紀の意味もそこに見出すことができる。
 この「悪」について、キリスト者共同体の代表者でもあったフリードリヒ・リッテルマイヤーは、次のように印象深く述べている。私たちの世界理解が大いなる事柄に対して目覚めると、「悪が妨げられることなく最高の段階にまで発展できるような世界が誕生せねばならなかった」という宇宙的思考の計り知れぬ偉大さにますます驚くようになる。「悪がこのようになすがままにさせられているのには、どのような意味があるのか?」。「悪は何のためにこの世界に存在しているのか?」。私たちが正しい精神をもって悪と戦おうとするならば、これらのことをはっきりと知らねばならない。悪が野放しにされている世界の中で生きると、人間の思考、感情、意志にとって非常に偉大なものが獲得されるのは明らかである。私たちの思考はどうだろうか。神の神聖さとは何であるかは、そこに影としての悪がない限り決して認識できない。別な分野から例をとろう。誰がいちばん印象的に太陽を表現するかというコンテストを画家達がやったとすれば、賞を獲得するのはたぶん、画面の上に明るさだけを表現した画家ではなく、影の中で、深く重い影の中で太陽がいかに明るく強く輝くかを体験させてくれる画家であろう。神の神聖さだけではない。神の善もまた、自分に対立する者にさえ慈悲深く救いを与えつつ頭を下げるときにのみ、その最高の深さを明らかにできる。悪が存在する世界では感情もまた別なものになる。悪事を行なうことから来る全き絶望と空虚、悪意をもつことで内奥の魂の死が体験されるような世界では、人間の魂の最高のものである神的善への愛は全く違った性格をもつようになる。それはずっと意識的で、また特別に深いものになるのである。さて最後に私たちの意志はどうだろうか。神に反する決意が許され、妨げられることとなく、また明らかに一見したところ罰もなくその決意を生きられるような場所、つまり自由がある場所でのみ、意志による意識的で自由な神のための決意が可能になる。これこそ高みにいる霊たち全てが地上の人類に望んでいることなのだ。彼らにはそれこそが人間の霊的高さである。これこそが人間を天界に連れていくものである。(フリードリヒ・リッテルマイヤー著「我らが父よ」キリスト者共同体の会刊 1997年12月/P159-162)



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最終更新日  2023年03月03日 06時10分05秒
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