Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2023年08月30日
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カテゴリ: 霊魂論
ルドルフ・ジョセフ・ローレンツ・シュタイナー
「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実
第二部 質疑応答 ドルナッハ 1920年3月31日 前半
◎質問:通常の数学は形、表面、そして固体、液体、気体の力線を包含しています。熱、化学、そして生命の領域についての数学はどのようにイメージされるのでしょうか。答弁:第一に、今あるような数学の分野は、もし、私たちが数学に似たやり方で、但し、それは類比以上のものではないのですが、より高次の領域を記述したいということであれば、適切に拡張される必要があるでしょう。皆さんも恐らくご存じのように、数学を拡張する必要性は既に19世紀には明らかになっていました。別の機会に、昨日もそうだったと思いますが、議論した点について少し触れさせていただきますと、19世紀の終わりには、ユークリッド幾何学を補い、より高次の次元を含む計算を遂行することができるような非ユークリッド幾何学が必要であるということが明らかになっていました。当時の数学者たちは、数学は拡張されなければならないということを示唆していたのです。対照的に、通常の、重さのある物質について考えている限り、三つの通常のユークリッド次元以外の次元を適切に用いるという必要はありません。けれども、今日の数学者たちにとっては、熱や化学的な影響、あるいは生命の要素についての領域に関して適切な観点を探求しようという傾向があまりにもないために、数学的な思考をこれらの領域に拡張することは、本当に大変な問題になります。数学者たちが今日提議している観点は、ものごとの本質を把握することはできないという物理学の側からの告白に対して釣り合いを取るものには確かになりません。そして、物理学者たちが首尾一貫した立場を取るとすれば、物理学は光の本質を取り扱うものではなく、ゲーテが光の像と呼んだところのものを扱っているに過ぎないということを認めないわけにはいきません。当然のことながら、分別ある物理学者は、職業人として、ものの本質を探究することは拒絶するでしょう。その結果、事態は不幸な状態、すなわち物理学者たちがものごとの本質をいかなるレベルにおいても扱うことをしないという状態になるということを認めないわけには行きません。そして、通常の唯物的な物理学の観点から哲学をでっち上げる連中は、単にものごとの本質を探究するのを拒否するだけではなく、そのようなことは不可能であるとさえ主張するのです。その結果、私たちの今日の地球に関する観点は非常に一面的なものとなっています。何故なら、物理学は単に地学の問題なのでは決してなく、一般的な知識のためにそのような特殊な分野が産み出すことができるものの総体を扱うものだからです。こうして、私たちは物理学が時間の経過の中で発達させてきた機械論的で非数学的な世界観からくる不幸な結果に直面することになるのです。ゲーテが、私たちは光の存在や性質について語るべきではない、むしろ、それに関する事実、つまりその行為と苦しみ、それらは光の本性についての完全な記述となりますが、それについて知るように試みるべきであると言ったとき、彼が意図していたのは、決して、光の本性の問題については原則として考えることを拒否するということではありません。彼が指摘したのは、正に、昨日ここで議論したような方法で構築される真の現象学は最終的には問題になっているその存在のイメージを本当に与えるということです。物理学は、それが真の現象学であるか、あるいはそうであろうとしている程度に応じて、現象の本質、少なくとも力学の本質についてのイメージを本当に与えるのです。ですから、私たちが単に物理学的な現象の力学的な側面を扱っているのではないとすれば、つまり、私たちが力学以外の分野を扱っているとすれば、力学的な観点は、ものごとの本質を認識しようとする私たちの能力を妨げます。そのとき、その程度に応じて、私たちは、ゲーテが意図していた現象学、それはゲーテ主義の中で涵養させられますが、それと、ものごとの真の性質に近づく可能性を排除するところの原則を有するあらゆるシステムとの間の根本的な違いを強調する必要があります。そのことは、自然をコントロールしたいという私たちの欲求にとっての力学的な方法の優位性とは何の関係もありません。技術や力学の分野、それはここ数世紀の間に大きな勝利を収めました。そして、自然を理解するためのその力学的な基盤は、自然をコントロールしたいという私たちの欲求をある程度満足させるであろうということはよく理解できます。しかし、別の領域においては、この自然を理解し、コントロールしたいという衝動は、技術が希求したようなタイプの知識に向けて押し進むことを拒否したためにどれ程の遅れをとったのでしょうか。技術あるいは力学と、物理学に始まり、化学から生物学へと続く学問との間の違いは、これらのより高次の分野は単に定性的であるか、あるいはそのようなものだけを扱うということではありません。その違いは、力学と力学的生理学が非常に基礎的で、簡単に把握できる側面であり、そのため、私たちのコントロールへの欲求を少なくともある程度は何とか満足させたということに過ぎません。けれども、この時点で、私たちがより高次の、より非力学的な分野に移行するとき、コントロールしたいという私たちの欲求をどうやって満足させたらよいのかという疑問が生じます。私たちは、将来的には自然を単なる技術を超えた方法により、少なくともある程度は支配できるということに頼らざるを得なくなるでしょう。私たちは、技術的な分野においてさえ、自然を理解しコントロールすることに失敗することがよくあります。もし、誰かが力学の法則に関する十分な知識なしに鉄道橋を造るとしたら、その橋はいつかはその上を列車が通っているときに崩壊するでしょう。私たちは間違った情報に基づく不十分な制御に対してはすぐに反応します。しかしながら、力学に基づくのではなく、現象学を発達させるプロセスから導き出されるより複雑な領域に基づく制御のときには、それはいつもそれほど簡単に証明されるというわけにはいきません。三番目の列車が通っているときに崩壊する橋は、関連する力学を理解するには不十分に動機付けられた誰かによって造られたに違いないということはそれほど差し支えありません。患者を死なせる医者の場合、その開業医の理解への欲求と彼あるいは彼女の自然に対する制御との間に同様の結びつきを確認するのはそれほど簡単ではありません。医者が、病気は治したけれども、患者を殺したというとすれば、それは技術者が、欠陥のある橋を設計したというほど簡単ではないのです。要するに、私たちの自然についての力学的な観点が、単に力学的な技術の領域において、この欲求を満足させることができることを証明したからといって、自然を制御したいという私たちの欲求の重要性を性急に強調することには慎重であるべきです。自然に対する別の見方も、制御したいという私たちの欲求を別の仕方で満足させることができるでしょう。昨日、確か別の観点から触れたことについて、もう一度指摘させていただきますと、私たちは真の現象学的なアプローチを適用することなしに、世界についての力学的な観点と人間との間の溝に橋を架けることは決してできません。ゲーテの色彩論は、色の物理的、生理学的な現象を提示するだけでなく、色の感覚的、道徳的影響を探索することによって、その課題全体を人間に適ったものとします。私たちは、精神科学の仕事をする中で、ゲーテによって指摘された色の影響から人間存在全体を理解するというより幅広い課題、そして自然全体を理解するというさらに幅広い課題に移行することができます。



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最終更新日  2023年08月30日 06時10分07秒
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