Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2023年09月03日
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カテゴリ: 霊魂論
「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実
第二部 質疑応答 ドルナッハ 1920年10月15日 答弁後半部:
 さて、これからふたつの対極を示すことにします。これは理論とは無関係のように見えますが、実際には大いに関係があります。何故なら、これらのことがらすべては理論以上のものを取り扱っているのであって、それは、もし、私たちのそれについての思考が健全なものであれば、正され得るものであるからです。現実に問題となるのは健全な思考、単に論理的ではない思考を発達させる必要があるということなのですが、その理由は、論理は数学にも適用されるということによります。私たちは論理を数学の中に取り込むことができるのですが、その結果、完全に首尾一貫した構造、つまり、首尾一貫しているにもかかわらず、現実に適用される必要が全くない構造が得られるのです。私たちがこれまでに到達したのは、ものごとはいかなる真の現実感覚をも欠いている行儀の悪い思考方法をいかに当てにしていることか、ということを示すことができる地点です。一方で、ここに現代科学が提供すべきあらゆるものを要約しょうと試みる本があります。この有名な本は、何万という部数、恐らくは7乃至8万部が既に売れていると思われるオズワルド・シュペングラーの「西洋の没落」ですが、ご承知のように、このことはその4、5倍の数の人々がこの本を読んだということを意味しています。このことからも、それが、単にある意味で現代の思想から現れたというだけの理由で、いかに現代の思想にとてつもない影響を及ぼしたかといいうことが分かります。この本の著者は、現代思想が究極的に行き着く先の結果を定式化する勇気を持ち合わせていたのです。シュペングラーはこの本の中で、天文学、歴史、科学、そして芸術が提供すべきあらゆるものを眺望します。彼が大量の証拠を集めたということは私たちも認めざるを得ないでしょう。シュペングラーが真に現代的な天文学者、生物学者、美術史家等の考え方から究極的な結論を引き出す勇気を持っているのは、実際にこのような仕方で考えるからです。例えば、シュペングラーの本は、熱力学の第2法則を明確に証明することができるのと同じくらい明確に、三千年紀の始まりには、西洋文明は完全に野蛮な状態へと堕落しているであろうということもまた証明します。この本は現代文明の没落を示しただけではなく、今日、どのような科学的記述であれ、それを明確に証明することができるのと同様の明確さで将来のできごとをも証明したということを認めなければなりません。現代科学の方法論という意味で、シュペングラーの西洋の没落に関する証明は、いかなる天文学的な証明やその種の証明と比べてみても、確かに有効なものであり、いかなるものであれ相対性理論に関する証明よりは遥かにましなものです。彼の結論の抜け道を探すことができるのは、シュペングラー自身が見ていない要素を見る人たち、つまり、将来において人類にとっての全く新しい衝動を提供することになる人たちだけです。それは人間の最も内奥の核から生まれ出る衝動、現代の思想だけに立脚しているいかなる科学にも見ることのできない衝動です。然し乍ら、シュペングラーの考えとはどのようなものだったのでしょうか。相対性論者とは異なり、オズワルド・シュペングラーは、現実に対応した範疇の中で考えます。けれども、彼が考えることすべてがお互いに整合性がとれているというわけではありません。彼が、天文学、生物学、歴史、建築、彫刻等々について発達させる概念がいつも噛み合っているわけではないのです。それらが形成する構造は、共に成長したいくつかの結晶に比肩できるようなものです。それらはすべて混乱しており、お互いに破壊し合っています。もし、私たちが、シュペングラーの本を読んでいる間、現実感覚を維持しているとするならば、彼の概念は溢れかえっているということが分かります(*保存されていない描画を参照しながら)。オズワルド・シュペングラーは確かにどのように考え、どのように概念を発達させるべきかを知っているのですが、それらはお互いを破壊し合っています。お互いを吹き飛ばし、お互いを切り離しているのです。ひとつの概念がいつも別の概念を無効にするため、全体としては何も残りません。展開するシュペングラーの考え方に私たちの現実感覚を適用するときに見ることができるのは酷(ひど)破壊活動なのです。シュペングラーは現代的な思考におけるひとつの極、異なったあらゆる分野から導き出される概念からひとつの統一を構築する極を代表しています。この傾向に加担する哲学者達は、個々の科学から彼らが導き出すすべての概念が集められ、一点に集約しようとする試みの中で、いわばひとつのシステムへと統合されることができるほどの抽象的なレベルにおいて、あらゆるものを明確に規定します。ところが、それらは一点に集約するかわりに、お互いに粉砕し合い、無効にし合うのです。シュペングラーは現代科学の哲学者として、他の多くの哲学者達に比べてはるかに優れています。他の哲学者達の概念はお互いに破壊し合わないのですが、それは彼らの系統立てがそれらを十分正確に規定する勇気に欠けているからです。他の哲学者達の科学哲学においては、彼らがいわば虎の爪と猫の足とをいつも取り違える結果、個々の科学的な探求における哲学的な帰結と称されるコミカルな構築物が生じてきます。これらの哲学者達をまじめに考察してみるならば、シュペングラーが哲学の習慣にしたがって結果として生じることができるあらゆる科学的なものについてのすべての科学及び認識についての経験を有している、ということが分かります。
 他の極もまたひとりの哲学者、つまり、シュペングラーほどの評価は受けていませんが、それでも人気のある哲学者、ヘルマン・カイザーリンク卿によって代表されます。カイザーリンクがオズワルド・シュペングラーと異なるのは、彼の概念のどれひとつとして、いかなる内容も有していないという点においてです。シュペングラーの概念が脂ぎっているのに対して、カイザーリンクのそれは空疎です。後者の概念は決してお互いに矛盾しません。何故なら、それらは、基本的には、中身のない籾殻のような仕事に過ぎないからです。カイザーリンクの唯一の考えと言えるのは、これもまた空の籾殻ですが、精神は魂と結びつかなければならないというものです。カイザーリンク卿は激しく人智学を攻撃します。例えば、「未来」という雑誌の中で、人間を様々な構成要素であるエーテル体、感覚体、感覚魂等々へと分解した咎で私を責め立てたのですが、実際には、人間はひとつの統一体であり、そのようなものとして機能しています。精神は魂と結びつかなければならないという考えは悪魔的なまでに巧妙ですが、実際、賢いという点では、スーツはひとつの統一体であり、個別の構成要素、例えば、ベスト・ズボン・靴等々に分解すべきではないと云う以上のものではありません。それは全体でひとつの統一体ですから、仕立屋に上着とズボンを別々に作らせ、それに合うように靴屋に靴を作らせたりはしません。これらのすべてはそれを身につけている人間の上でひとつの統一体を形成するというのは当たり前のことです。カイザーリンク卿がその抽象的な理想主義の中でそれらはひとつの統一体であると主張したからといって、上着とズボン、それから多分に靴も一着の洋服として縫い合わせるというのはナンセンスです。これが反対の極です。
 一方には、お互いを破壊し合う概念のシュペングラーがいて、他方には、全体として空虚な概念のカイザーリンクがいます。多少なりとも現実感覚を有している者にとって、シュペングラーを読み、彼の概念のすべてがお互いにぶつかり合い、お互いを粉砕しながら、お互いの中へと押し進むのを見るのはひとつの拷問です。皆さんはこのすべてを本当に経験させられます。いくらかでも芸術的な感受性を持っている人であれば、特にそうなります。シュペングラーの本は完全に非芸術的な構築物のです。ところが、皆さんがカイザーリンクの本を読むときには、一ページ読むごとに立ち止まって息を吸い込まなければなりません。彼の概念はその内部に空気を有していないのです。思考を形成しようとしても、そこには何もないのです。しかし、当(まさ)にそのために、これらの概念は人々にとってきわめて理解し易く、心地よく感じることができるものとなっています。この不能な無思索家がまた人々に、精神科学によって確認される事実の中にはなにがしかの真実が含まれているかも知れない、しかし、自分は霊感を持っているという連中のひとりではないので、それについて確認することはできず、したがって、それらが真実であると仮定することもできない等々の事柄を告げるときには、特にそうなのです。もちろん、この種の話しは、特に人々が自分自身で必要な証拠を提示することができないときには、折りたたまれ、片づけられてしまいます。そのような人たちが、今日、特に好んで読むのは、自分で確かめるのに苦労するような作家ではなく、そのような事実は確認できませんと認めるような作家なのです。特に、カイザーリンクが芸術について書き散らかしていることがらは皆さんの髪の毛を逆立たせるのに十分なものですが、非常に人気があります。このテーマに関して申し上げるべきことはこれだけです。
 「何を」を考えるべきではあるが、「如何に」をもっと真剣に考えるべきであるとゲーテが言うとき、それが何を意味しているかについての感覚を、皆さんはこれまでの議論から発達させているかも知れません。シュペングラーを読むとき、皆さんは「何を」を考えることができますが、それは彼が提示すべき多くの「何を」を持っているからです。しかし、ゲーテは、世界観というものは全体をその配置と組織、そして思考の本来的な調和において、いかに見るかということにかかっているのだ、ということを知っていました。このことは、シュペングラーに関しては、「何を」を考えることになる、と私たちが言う理由です。シュペングラーは確かに「何を」を、それが考えられるべきであるような仕方で、考えるのですが、「如何に」を考えるのには完全に失敗します。ゲーテは、とりわけ、思考はいかに配置されるべきであるかを考えるように促します。カイザーリンクに関しては、彼は「如何に」を有しているように見えると云うことができるでしょう。実際、彼の仕事は「如何に」を束ねたものなのですが、「何を」が、詰まる所ところがないのです。(了)



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最終更新日  2023年09月03日 06時10分09秒
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