さて、人間が夜眠り込んで、さまざまなウンディーネのフォルムに形成されるアストラル的な海に囲まれ、そして目覚めて目覚めの夢を見るとき、この目覚めの夢もまた人生の回想や内部の臓器の比喩という仮面をつけていないとしたら、つまり仮面をつけていない夢を見るとしたら、そのとき人間は、ジルフェの世界と対峙することでしょう。しかし人間にとってジルフェたちは奇妙な姿をとっているでしょう。ジルフェは、太陽が何かを送り出そうとするとき、しかも本来やっかいなしかたで人間に作用する何か、ある種のしかたで人間を霊的に眠り込ませる何かを送り出そうとするときのようなようすをしていることでしょう。なぜそうなのかは、すぐ後ほど聞くことができるでしょう。やはり人間は、もし仮面なしの目覚めの夢を知覚するとしたら、その夢のなかに羽ばたきつつ入り込んでくる何かを、本質的に羽ばたきつつ入り込んでくる光のような何かを見るでしょう。人間はそれを心地よくは感じないでしょう、ジルフェたちの四肢がいわば絡みつき巻き付いてくるのですから。人間は、光が四方から彼を攻撃してくるときのように、光が何か襲ってくるもの、それに対してひどく過敏になってしまうものであるかのように感じます。もしかすると、人間はあちこちでこれを、光が撫でていくように感じるかもしれません。こういうすべてのことで皆さんに示唆したいのは、支え、手探りするこの光が本来ジルフェの形(フォルム)をとって近づいてくるということなのです。次いで火存在たちに移りますと、火存在の場合、これらははかない蝶の本性の補足をしています。蝶はいわば自らその物質的な体、本来の物質的な体をできるだけ作り出さないようにしています、蝶はその体をできる限り希薄にしているわけです。蝶は体に対して光存在なのです。火存在たちは自らを、蝶の体を補完する存在として示します、したがって次のような印象が得られます。つまり一方に物質的な蝶を見て、それをしかるべく拡大したと考え、そして他方に火存在を、火存在たちが一緒にいることはまれで、昨日皆さんにお話ししましたような場合のみですが、それを見るとき、こう感じられるのです、つまりこれらをお互いにくっつけると、翼を付けた人間のようなものが、実際に翼を付けた人間が得られると。ただ蝶をしかるべく拡大し、火存在を人間の寸法に合うように見なければなりません、そうすればそこから翼を付けた人間のようなものが得られるのです。このこともまた皆さんに、火存在たちは本来、実際霊的なものの一番近くにいるこの動物存在の補足をしていることを示しています、これらはいわば、下向きの補足なのです。グノームとウンディーネは上向きの、頭の方に向かう補足であり、ジルフェと火存在は、下へ向かって鳥と蝶を補足します。つまり火存在は蝶と組み合わされねばならないのです。ところで、人間がいわば眠っているときの夢を貫いていくことのできるのと同様のやりかたで、人間は目覚めた昼の生活をも貫いていくことができます。昼の生活では人間はまさにまったく無骨なしかたでその物質体を用います。このことも私は「ゲーテアヌム」誌の論文のなかで述べました。昼の生活では、人間は、次のようなことを洞察するところまで全然到達しておりません、ほんとうは昼の生活の間に常に火の存在たちを見ることができる、火存在たちは人間の思考と、頭の組織から発するものすべてと内的な親和関係にあるからだということをです。ですから人間が、完全に目覚めた昼の意識にあってしかもある意味で自身の外にいるという状態になれば、つまりまったく理性的であって両脚でしっかりと大地に立ち、しかも同時にやはり自らの外にいるーつまりつまり彼であると同時に彼に相対するもの(Gegenueber)である、すなわち自己自身を思考存在として観察することができるーという状態になれば、そのとき人間は知覚するでしょう、火存在たちは宇宙のなかで、もし私たちがそれを知覚すれば、私たちの思考を別の側から知覚できるようにするエレメントを構成していることを。このように、火存在を知覚することは、自己自身を思考する者として見ることに私たちを導いてくれます、単に思考する者としてあり思考を煮詰めるのみではなく、思考の経過を観照することに導くのです。ただ、このとき思考は人間に結び付けられていることをやめます、このとき思考は自らを宇宙思考として呈示します、思考は宇宙における衝動として生き生きと活動するのです。このときひとは気づきます、人間の頭は、あたかもこの頭蓋の内部に思考が閉じこめられているかのように思う幻影を呼び起こしているにすぎないと。思考はそこに反映しているだけなのです、そこにあるのは思考の鏡像です。思考の根底にあるものは、火存在の領域に属します。この火存在の領域に入っていくと、ひとは思考のなかに自己自身を見るのみならず、宇宙の思考内容(Gedankengehalt der Welt)を、本来同時にイマジネーション的な内容である思考内容を見るのです。つまりこれは自己自身から出ていく力であり、思考を宇宙思考として呈示してくれる力です。そう、こう申し上げてよいかもしれません、今や人間の体ではなく、火存在の領域から、つまりいわば地球に入り込んでいる土星の本質から、地上に見られることを眺めると、私が「神秘学概論」で地球進化(☆2)について記述したその通りのイメージが得られると。この神秘学の概要は、火存在の視点から見て、思考が宇宙思考として現れてくるように描かれているのです。こうした事柄に深く現実的な意味があることがおわかりでしょう。けれども人間にとって深く現実的な意味はほかにもまだあります。グノームとウンディーネのことを考えてみてください、これらはいわば、人間の意識の世界と境を接する世界に生きています、すでに境域の向こう側にいるのです。通常の意識はこれらの存在を見ることから守られています、これらの存在は本来すべてが良い種類のものではないからです。良い種類のものは、私が昨日述べましたような、たとえばさまざまなしかたで植物の成長に働きかけている存在たちです。しかしそのすべてが良い種類の存在ではありません。これらの存在たちの活動している世界に進入するやいなや、良い種類のものだけではなく、悪い種類のものもいるのです。こうなると、これらのうちどれが良い種類のもので、どれが悪い種類のものか、見分け方を修得せざるをえません。これはそうたやすいことではありません。私が皆さんに悪い種類のものを描写せざるを得ないしかたから、それがおわかりになるでしょう。悪い種類の存在たちが良い種類の存在たちから区別されるのはとりわけ、良い種類は植物界と鉱物界をよりどころとすることが多いけれども、悪い種類は常に動物界と人間界に接近しようとする、そしてもっと悪い種類は、また植物界と鉱物界に近づく、ということによってです。とは言え、これらの領域の存在たちが持ちうる悪というものについてしかるべき概念が得られるのは、人間と動物に近づこうとする存在たち、本来は高次のヒエラルキアによって植物ー動物界のために良い種類の存在たちに役目として指定されていたことを、人間のなかで実行しようとする存在たちに関わり合うときです。よろしいですか、グノームおよびウンディーネの領域に由来するこのような悪い種類の存在たちがいます、これらは人間と動物に近づき、人間と動物に働きかけて、本来なら下等な動物たちに付加すべきものを人間のなかに物質的なしかたで実現させるのです、人間のなかにはどのみちすでにそれは存在しているのですが。人間のなかにこれを物質的なしかたで実現させようというのです、動物のなかにもです。これらの悪い種類のグノームおよびウンディーネ存在たちがいることによって、人間と動物のなかで、もっと下等な動物ー植物存在が生きるようになります、寄生生物(Parasiten)です。このように、悪い種類の存在たちは寄生生物をもたらすものなのです。とは言え、霊的世界へと境界を踏み越えた瞬間、人間はすぐさまこの世界の策略のなかに入り込む、と申し上げたいのです。実際いたるところに罠があり、人間はまさに小鬼たちから学ばなければなりません、つまり用心することをです。たとえば心霊主義者たちは決して用心することができません。罠はいたるところにあるのです。今やこう言えるかもしれません、悪い種類のグノームとウンディーネ存在たちが寄生生物を発生させるなら、そもそもいったいこれらは何のために存在しているのか、と。そう、これらの悪い種類の存在たちがいなかったら、すなわち人間はその脳塊を作り出す力を自らのなかに発達させることができないでしょう。さてこうして、きわめて重要なことに行き着きます。これを図式的に描いてお見せしたいと思います。人間を、新陳代謝ー四肢人間として、胸ーつまりリズム人間として、さらには頭人間つまり神経ー感覚人間として考えるとき、皆さんにはっきりと理解していただかなければなりません、この下の部分でいくつかのプロセスが進行し、ここではリズム人間は除外しましょう、この上の部分でやはりいくつかのプロセスが進行します。この下で起こっているプロセスを一緒にすると、本質的に、通常の生活ではたいてい誤解されている結果が出てきます、これらは排泄プロセスです、腸を通じての排泄、腎臓を通じての排泄その他、下へと流出するすべての排泄プロセスです。これらの排泄プロセスはたいてい単なる排泄プロセスとしか見られていません。しかしこれはばかげたことです。単に排泄されんがために排泄されるのではなく、上で物質的に脳であるものに似た何かが、出現する排泄物と量を同じくして、下部人間の中に霊的に出現するのです。下部人間において起こっていることは、その物質的発展に関しては道の半分にとどまっています。排泄されるのは、ものごとが霊的なものへと移行するからです。上ではプロセスは完了しています。下では単に霊的にのみあるものが、上で物質的に形成されます。私たちは上に物質的な脳を、下に霊的な脳を持っているのです。そして、下で排泄されるものを、さらなるプロセスのもとに置くなら、その改造を続けていくなら、最終的な変容はさしあたり人間の脳となることでしょう。人間の脳塊はさらなる形成を受けた排泄物です。これは、たとえば医学的な関連にうおいても途方もなく重要なことです、これは16、17世紀においてはまだ当時の医師たちによく知られていたことです。今日、かつての「汚物薬局(Dreckapotheke)」について、軽蔑されて当然な部分もあるとはいえ、非常に軽蔑的に語られております。けれどもそれは、汚物のなかにこそいわば霊のミイラがまだ存在したのだ、ということを知らないからなのです。もちろんだからと言ってかつての数世紀に汚物薬局として現れたものを崇拝しようというわけではありません、私は、ちょうどお話ししましたような深い連関を持つ多くの真実を指摘しているだけなのです。脳はまったくもって排泄物の高次のメタモルフォーゼ[(oehere Metamorphose der Ausscheidungsprodukute)です。したがって、脳の病気は腸の病気と関連し、脳の病気の治療は腸の病気の治療と関連しています。よろしいですか、グノームとウンディーネがいることによって、そもそもグノームとウンディーネが生きることのできる世界があることによって、力が存在します、なるほど下部人間から寄生生物を発生させることもできるけれども、同時に上部人間のなかで排泄物を脳に変容させるきっかけにもなる力です。もし世界が、グノームとウンディーネが存在することができるように作られていないなら、私たちはまったく脳というものを持つことはできないでしょう。破壊の力に関してグノームとウンディーネに当てはまることーー破壊、解体はこのときやはり脳から起こりますーーが、構築する力に関してはジルフェ存在と火存在に当てはまります。これまた同様に、良い種類のジルフェ存在と火存在は、人間から距離をとり、私が示唆しましたやりかたで植物の成長に関わりますが、悪い種類のものも存在するのです。悪い種類のジルフェ存在と火存在はとりわけ、上のほうつまり空気ー熱の領域にのみ存在すべきものを、下へ、水的、土的領域へと運ぶのです。さて、たとえばこれらのジルフェ存在が、上に向かうべきものを、上の領域から下の水および土のエレメントの領域へと運び下ろすときに起こることを研究したいとお思いなら、ベラドンナ(*Belladonna*1)をじっくりとごらんになってください。ベラドンナは、こういう表現が許されるなら、その花がジルフェにキスされ、そのために良い汁であり得たものが、ベラドンナの毒液に変化してしまった植物です。この場合、領域のずれと呼びうることが起こっています。私が先ほど描写いたしましたように、ジルフェが巻き付く力を発達させ、そのとき人は文字通り光に触れられるわけですが、これも上では正しいのですーー鳥の世界がそれを必要としているからです。けれどもこれらのジルフェが下へ降りてきて、そして植物界に関して上に適用すべきことを下で用いると、強い植物毒が生じます。寄生生物的な存在はグノームとウンディーネによって生じ、ジルフェによって毒が生じます、毒とは本来、あまりに深く大地へと流れ込んだ天的なものなのです。人間あるいは動物のあるものが、ベラドンナ、これはサクランボのように見えますが、ただ萼の中に隠れていますーー下に押しつけられているのです、私が今描写したことはベラドンナの形のなかにも見て取ることができますーー、このベラドンナを食べますと、つまり人間あるいはある種の動物がベラドンナを食べますと、それがもとで死んでしまいます。ところが、ツグミやクロウタドリをひとつよくごらんください、これらの鳥はベラドンナの枝に止まり、そこで世界で最良の食料を得ています。ベラドンナのなかにあるものは、ツグミやクロウタドリの領域の一部なのです(*2)。それにしても奇妙な現象です、もともとその下部組織によって大地と結びついている動物と人間たちが、地においてベラドンナのなかで損なわれたものを毒として摂取し、他方ツグミやクロウタドリに代表される鳥たち、つまりジルフェを通じて霊的なしかたでこのまったく同じものを得る、鳥たちは良い種類のジルフェを通じてもこれを得ます鳥たち、上の鳥たちの領域にあるものが下へと運ばれたとは言え、この鳥たちがこれに耐えられる、というのは。鳥たちより大地に強く結びついている生き物たちにとって毒であるものが、鳥たちにとっては食物なのです。こうして、一方においてグノームとウンディーネによって寄生生物が地から他の存在めがけて上昇していき、そして毒が上から滴り落ちてくるようすについて、ひとつの見解が得られるでしょう。これに対して、火存在たちが蝶の領域に属するあの衝動、蝶の進化のために非常に役に立つ衝動で自らを貫き、これを果実のなかへと下ろしてくるなら、たとえば一連のアーモンド類のなかに有毒のアーモンドとしてあるものが生じます。このときこの毒は火存在の働きによってアーモンドの実のなかへと下ろされるのです。そして、いわば私たちが他の果実の場合食しているものが、この同じ火存在によって良いやりかたで燃やされないとしたら、そもそもアーモンドの実というものも生じることができないでしょう。ともかくアーモンドをよくごらんください。他の果実の場合、中心に白い核がありその回りに果肉がありますね。アーモンドの場合、この中心に核があり、回りの果肉は焼き尽くされています。これは火存在の働きなのです。そしてこの働きが節度を失うとき、つまり火存在が実行することが、単に褐色のアーモンドの外皮に入り込むだけならまだ良い種類のものであり得ますが、外皮にとどまらず、外皮を作り出すべきものからわずかではあってもアーモンドの白い核の内部まで入り込むなら、アーモンドは有毒になります。このように、境界のすぐ向こうの世界で隣り合っているこれらの存在たちは、その衝動を実行するとき、寄生生物や有毒の存在の担い手となること、それによって病気の担い手になることについてのイメージが得られます。こうして、病気のなかに人間をとらえることのできるものから、人間が健康な存在としてどこまで抜け出していくかが明かになります。と申しますのも、これは、構築のすべて、自然の成長と芽生え、さらにまた自然の破壊をも可能にするために向こう側に存在せねばならないこれらの存在たちのうちの、悪い種類のものの展開と関係があるからです。これは結局、本能的な霊視から発した、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァについてのインドのそれのようなインテュイションの根底にあるものです。ブラフマーは宇宙領域において、人間に接近することを許されている活動する存在を表します。ヴィシュヌは、構築されたものを絶えず再び取り壊さなければならない、つまり構築されたものが絶えず変化していかざるを得ない、その限りにおいてのみ人間に接近することを許されている宇宙領域を表します。そしてシヴァは、破壊する諸力と関係するすべてを表しています。古代におけるインドの高度な文化の時代にはこう言われていました、ブラフマーは火存在の性質であるもの、ジルフェの性質であるものすべてと密接に関係がある、ヴィシュヌは、ジルフェーウンディーネの性質であるすべてと、シヴァは、グノームーウンディーネの性質であるものすべてと関係がある、と。総じて、これらの古代の表象に遡っていくと、今日自然の根底にある秘密として再び探し出さなければならないものが、具象的に表現されているのがいたるところで見いだせるのです。さて以上のように、私たちは昨日、この不可視の民と植物界との親和性を観察いたしました、きょうは、この不可視の民と動物の世界との親和性を付け加えました。境界のこちら側の存在たちは、いたるところで境界の向こう側の存在たちに干渉し、境界の向こう側の存在たちは、境界のこちら側の存在たちに干渉する、等々です。そしてこの両者の生き生きとした共同作用のことを知るときのみ、可視の世界がどのように展開していくかがほんとうに理解できるのです。人間にとって、超感覚的世界の認識はほんとうに不可欠です、と申しますのも、死の門を通過する瞬間、人間の回りにはもはや感覚世界はなく、このとき別の世界が人間の世界となることが始まるからです。現在の進化において人間はこの別の世界に赴くことはできません、この向こう側の別の世界を指し示す文字を、いわば物質的な顕現から認識することがなかったなら、また、地の動物のなかに、水の動物のなかに、空気の動物のなかに、そして光の動物と申し上げたい蝶たちのなかに、死と新たな誕生との間の私たちの同居人であるエレメンタル存在たちを示すものを読みとるすべを学ばなかったとしたらです。しかし、私たちがこれらの存在について見出すものは、まさにこの誕生と死の間においてはどこでも、粗雑で濃密な部分と申し上げたいもののみなのです。超感覚的なものに属するものは、私たちが洞察力をもって、理解力をもって、この超感覚的世界へと赴くときはじめて認識することができます。 参照画:霊的実質を物質的実質に移行させる図