Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年06月02日
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カテゴリ: 霊魂論


ルドルフ・シュタイナー
ゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)
第10章 ゲーテのアイデアというその光の下での認識と行為1-5 佐々木義之訳
1.方法論
参考図:プラトンのイデア論と光の下での認識



 私たちは科学的な思考を通して達成されるアイデアの世界と、媒介されることなく「与えられる」経験との間の関係を確立してきました。私たちはプロセスの初めと終わり、つまり、アイデアに欠けた経験とアイデアに満ちた現実の概念化について知るようになりましたが、これら二つの間に横たわっているのが人間の活動です。私たちの使命は初めであるものから終わりであるものを活発に展開することです。それを「いかにして」行うかというのが私たちの方法論です。もちろん、科学的なプロセスの初めと終わりの関係を私たちがどのように考えるかということについては特別な方法が求められます。その方法は何に基づけばよいのでしょうか。科学的な思考は私たちが直接与えられるものとして記述した現実の影のような形態を一歩一歩を克服し、アイデアの輝く明晰性へと上昇させなければなりません。言い換えれば、私たちの方法は、あらゆる事実について、それはいかにしてアイデアの統合された世界に貢献するかと繰り返し問いかけることにあります。その場所は世界についての私の概念的なイメージの中のどこにあるのでしょうか。私がそれを理解し、事物が私のアイデアにどのように関連しているかに気づくとき、私の認識に対する必要は満足されます。ひとつだけ不満足の源泉になり得るものが残っていますが、それは私の概念に結びつくことを否定するような事物が現れるときです。私はそれについて次のように言わなければならないようなものによって生じる知的な不満足を克服する必要を感じます。つまり、私はそれが存在していることを理解し、そして、私がそれに出会うとき、それは疑問符であるかのように私に相対するが、私はそのもののために私のアイデアと調和する場所をどこにも見つけられない。私の概念体系をどんなにひねくり回しても、それが私の中に生じさせる疑問は解決されないままであると。これは私たちが対象について考察するときに、私たちが何を必要としているのかを示唆しています。私が最初にそれにアプローチするとき、その対象は孤立したものとして私に相対します。私の思考世界はそれについての概念が横たわる地点に向けて苦労しながら進みます。私は、最初は孤立した現象として私に相対するものが私の概念体系に必須の部分として現れるまで安心することができません。そして、その対象の孤立状態は解消され、より大きな文脈の中で再び現れます。それは今や他のすべての対象についての統合された思考によって照らされます。すなわち、今やそれは全体に貢献し、私はこのより大きな調和の中でその意味を十分に理解します。このすべては私たちが経験の対象に思慮深くアプローチするとき、いつでも私たちの中で生じることです。すべての科学的なプロセスはある現象がこのようにしてアイデアの世界の調和の中に組み込まれる地点に気づくようになることに基づいているのです。これについて誤解しないようにしましょう。それは、あたかもアイデアの世界は閉ざされており、あらゆる新しいものは私たちが既に有している古い概念の意味で理解されなければならないかのようであって、あらゆる現象は既に存在している概念に基づいて説明できなければならないという意味ではないのです。私たちのアイデアの世界が広がるにつれて、私たちはまだ誰にも考えられていないような地点にやってくるでしょう。実際、科学の歴史的な発展は正に新しいアイデアの出現に基づいています。それらのひとつひとつが、何千もの糸によって、他のすべての可能な思考へと結びつけられます。これらの結びつきのそれぞれが独自の形態を取ります。いずれの場合も、結びつきは異なっています。「そして、科学的な方法とは正にこのこと、つまり、ある特定の現象についての概念をアイデアの世界の他の部分との結びつきにおいて示すことなのです。」このプロセスは概念の演繹あるいは証明と呼ばれます。いかなる種類の科学的な思考も、諸概念の間の結びつきを見出すこと、ある概念を他の概念から生じさせることだけから成立っているのです。科学的な方法はこの概念間の行き来を含んでいます。読者の皆さんは私が単に理解可能な世界と感覚世界の間の調和という語りつくされた物語の別のバージョンを記述しているだけではないかと思うかもしれません。その教義によれば、もし、このようにして概念の間を行ったり来たりすることが私たちを現実についての正確なイメージへと導くのだと信じるならば、客観的な世界と私たちの概念の間には調和が存在していると仮定しなければならなくなります。けれども、それは個々の対象と概念の間の関係についての間違った見方なのです。私がある特定の対象あるいは現象に最初に直面するとき、私は、それが「何」であるかについて、何のアイデアも持っていません。私がそれに貫き至り、その概念が私にとって明確になった後ではじめて、私は私が「何」を見ているのかを知るのです。このことは、特定の対象とその概念とは二つの「異なる」ものであるということを示唆するものではありません。そうではなく且つそれらは同じものです。ある特定の対象において私に自らを提示するものは、その概念そのものに他なりません。私がその対象を孤立したもの、現実のその他の部分から切り離されたものとして見るのは、私がまだそれをその本質において知覚しておらず、それがまだありのままの姿で私に自らを提示していないという理由によります。このように考えることにより、私たちは、個別の対象は思考体系の中で特別な内容を示すという科学的な方法の特質をさらに特徴づけたことになります。それはアイデアの世界の全体性に根ざしており、この全体性との関連でのみ理解され得ることです。こうして、あらゆる対象物は必然的に二重の使命を私たちの思考に提示します。私たちは第一に、対応する思考の輪郭をしっかりと確立し、第二に、その思考からアイデアの世界全体につながる糸を打ち立てなければなりません。現実は個々の詳細における明晰さと、総体における深みを要求します。一方は知性の仕事であり、他方は理性の仕事です。知性は現実の個々の側面のために思考形態を創造します。それらをより正確に記述すればするほど、それは輪郭をより鮮明に描き出し、その仕事はより忠実に行われることになります。そして、理性は、アイデアの世界と調和して、それらの思考にそれらの場所を割り当てます。このことはもちろん、知性によって創造された思考内容の内に統一性が既に存在しているということ、つまり、知性は私たちの思考内容のすべてを人工的に分離したままにするけれども、ひとつの生命がそれらに浸透している、ということを前提としています。理性は明晰性を失うことなくその分離を克服します。知性が私たちを現実から引き離す一方、理性が私たちをそれに引き戻すのです。このことは図式的に表現することができます。
挿入図1:α1.2.3.4.5



 すべての部分が全体的な構成の中で結びつけられています。つまり、同じ原則がすべての部分の中で働いています。知性は個々の形態を分離しますが、それは私たちが、与えられた外的な世界の中で(実線で示されるように)、それらに別々に出会うからです。そして、理性は(破線で示される)それらの統一性を認識します。二つの経験-1)太陽が照りつけている、2)暖かい石を仮定するとき、私たちの知性はそれらを分離したままにしますが、それはそれらが「二つの」現象として自らを提示するからです。一つは原因、他方はその結果と考えられます。そこに理性がやってきて間仕切りを取り去り、「二重性の中に統一性」を見ます。知性によって創り出された全ての概念―原因と結果、実質と特性、体と魂、アイデアと現実、神と世界、等々―は統一的な現実を人工的に分離したままにするやり方に過ぎません。他方、理性の役割は知性の明晰性を神秘的な仕方で曖昧なものにしたり、創造された内容を帳消しにしたりすることではなく、多様性の中に内的な統一性を求めることです。こうして、私たちは知性によって遠ざけられた統一的な現実へと引き戻されます。より正確に言うならば、「概念」とは知性の産物であり、「アイデア」とは理性の創造物です。ここで、科学の道は概念を通してアイデアへと導くということが分かります。このような考えは知るということに関する主観的な要素と客観的な要素の間の明確な違いを提示します。私たちの現実が分割されているのは純粋に主観的なことであり、私たちの知性によって創り出されている、ということは明らかです。私は同一の客観的統一体を他の人たちとは異なる個別の思考へと分割することができます。しかし、理性は、その結びつきを通して、私たちがそこから出発した客観的な統一体を復元することができます。
挿入図2:Fig.1-Fig-2.Fig-3



 現実の統合されたイメージ(図1)は、それを理解するために分解することができます。私はある方法でそれを分解する(図2)かも知れませんが、別の人は別の方法で分解するでしょう。私たちの理性はそれを結びつけ、同一の統合されたイメージに戻します。このことは、現実は同じはずであるにもかかわらず、何故、人間はそれについてあれほど多くの異なる概念や様々な観点を有しているかということの理由を理解するための助けとなります。「その違いは私たちの知的なアプローチの違いによるのです。」このことは様々な科学的観点の発達の上に光を投げかけ、哲学的観点における多様性の起源を理解する助けとなりますが、それらの内のいずれをも真実として認定する必要はありません。人間の概念の多様性を考えるとき、問題は単にその概念が正しいか間違っているかということではありません。私たちはいつもある特定の思索家の知的世界がいかにして世界調和の中から生じてくるかということを理解しようとします。つまり、私たちは、たまたま私たちの意見とは一致しない意見を、間違いであるとして糾弾するのではなく、むしろ理解しようとするのです。科学的観点における相違は各人が異なる経験の領域を持っているという事実に関連しています。私たちはそれぞれ、全体としての現実のほんの一部だけに出会いますが、各人の知性が処理するのはその一部であり、そのわずかな部分がアイデアへの道を仲介するのです。ですから、私たち全員が同じアイデアを認識していたとしても、それはいつも異なる領域においてなのです。「最終的な結果」だけが「同じ」である可能性があるのであって、そこに導く道は異なっているかもしれません。私たちの認識を構成する個別の判断や概念が一致する必要はないのです。とはいえ、重要なのは、それらの判断や概念が、最終的には、アイデアが流れる川の中で私たちを泳がせるようにするということです。全てが語られ、そして、為されたとき、全ての人間がこの流れの中で出会うのですが、それは活動的な思考が彼らをその隔てられた観点を越えた地点へと連れていくときです。もちろん、限定的な経験や非生産的な心は「一方的で」不完全な観点へと導きます。しかし、最も限定的な経験であっても最終的には私たちをアイデアの世界へと導いていくはずです。何故なら、私たちがこの領域へと上昇するのは、私たちの経験の広さによってではなく、私たちの人間としての生来の能力によってだからです。限定的な経験の結果として生じるのはアイデアの領域についての一方的な「表現」であるに過ぎません。それは私たちの内に輝く光を生じさせるための私たちの手段を限定的なものにしますが、この光が私たちの内に生じることを完全に妨げるものではありません。私たちの科学的な、あるいは一般的な観点が網羅的なものであるかどうかはそれらの精神的な深さとは全く関係がないのです。ゲーテに戻りますと、彼の多くの叙述はこの章の中で記述された考えから導かれるということが理解されるようになるでしょう。そして、私はこれが著者と解説者の間の唯一の正しい関係であると考えているということをつけ加えておきたいと思います。ゲーテは「もし、私が私自身や外の世界に対する私の関係を知っているならば、私はそれを真実と呼ぶ。そして、誰もが自分自身の真実を有することができるとはいえ、それでもやはりそれはいつも同じものなのだ(散文の中の韻)」と書いています。これはこれまでの考察に基づいてはじめて理解できます。

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最終更新日  2024年06月02日 06時30分36秒
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