Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年06月04日
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カテゴリ: 霊魂論
ルドルフ・シュタイナー
ゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)
第10章 ゲーテのアイデアというその光の下での認識と行為1-5 佐々木義之訳
3.科学の体系
 十分に発達した科学はゲーテの思考方法という光の下でどのような形態を取るでしょうか。私たちは、まず科学の全体的な「内容」は与えられる一部は感覚的な世界から外的に与えられ、一部は内側から、アイデアの世界から与えられるという事実について明確にしておかなければなりません。私たちのあらゆる科学的な活動は、この与えられるものの全体的な内容がその中で自らを提示するところの個別の形態を克服し、満足すべき形態をそれに付与するということを含んでいます。このことが必要なのは、与えられるものの内的な統一性は、私たちが最初にそれに出会うとき、私たちには隠されており、ただその表面だけが私たちに現れるということによります。これらの統合する関係を確立する方法は、私たちが活動する現象領域によって異なっています。様々な仕方で関連する多様な感覚的要素を扱う領域についてまず考えてみましょう。私たちが私たちの思考を用いてこれらの要素を深く考え始めるにしたがって、それらの相互関係が明らかになってきます。あれこれの要素がある特別な仕方で別の要素によってある程度条件づけられているのが分かるでしょう。あるものを決定づける条件は別のものを考えるときに明らかになります。つまり、私たちはある現象を別の現象から導き出します。例えば、暖められた石という現象は暖める太陽光線の影響として導かれ得るでしょう。したがって、後者は原因であることが分かります。ある事物の中に知覚されるものはそれが別の知覚可能なものから導かれるときに説明されることになります。私たちはいかに理想的な法則がこの領域の中に現れるかを見ます。それらは感覚的な事象を包含し、それらを超えたところに立っています。それらは、あるものが別のものによって決定づけられている限りにおいて、その合法則的な反応を決定づけているのです。ここでの私たちの使命は、一連の現象の必然的な繋がりが明らかになり、それによってそれらが完全に合法則的な総体として機能するのを見る、というような仕方でそれらをまとめることです。このようにして説明することが可能な領域は「無機的な自然」です。けれども、私たちの経験によれば、時間または空間の中で最も近い位置にあるものは、いつでもその内的な性質の意味で最も近いものであるというような仕方で私たちの前に現れるわけではありません。私たちは時空間の中で最も近い位置にあるものから概念的に最も近いものへと進んでいかなければなりません。概念的な領域の中で直近の位置にある現象を探さなければなりません。お互いに補完し、支え合う一連の事実を集めるように努めなければならないのです。そのようにして、私たちは相互作用する感覚知覚可能な要素のグループへと至ります。関連する要因に続く現象が私たちの眼前で一種の透明な仕方で展開します。ゲーテにしたがって、私たちはそのような現象を元型的な現象、あるいは根源的な事実と呼びましょう。「この元型的な現象は客観的な自然法則と同じものです。」。一方、私たちが記述している諸々の関連は、例えば、私たちが水平に投げられた石に影響する諸要因:第一に慣性力、第二に地球の重力、第三に空気抵抗について考えるときのように、心的に確立することができます(*観念論対実証論)。そして、これらの要因から石の軌道を導き出すことができます。逆に、個別の要因を物理的に集積し、結果として生じる現象を待つこともできます。これは私たちが実験するときに行っていることです。自然現象が私たちを当惑させるのは私たちがその影響(あるいは現れ)を知っていてもその原因(あるいは必要条件)を知らないからです。一方、実験によって生じた現象が明確なのはその原因となる要因を私たち自身が集めてきたことによります。「科学的な研究の道とはこのようなものです。私たちは、実際に何が関係しているのかを見るという経験から始め、何故そうなっているのかを実際に観察を通して決定することへと進み、そして、そこにある合法則的な関連が実際にどのようにして自らを表現するかを見るための実験というクライマックスに至るのです。」。残念ながら、これらの観点を支持するゲーテの随筆は失われているようです。それは彼の随筆「主観と客観の仲介者としての実験」の後に続くはずのものでした。私たちはこの随筆からはじめて、私たちが手に入れることができる唯一の情報源、ゲーテとシラーの往復書簡から失われた随筆の推定される内容を再構築してみようと思います。随筆「主観と客観の仲介者としての実験」はゲーテが自らの光学に関する探究を正当化するために行った研究から生じたものです。その後、その随筆は詩人が新たな活力をもってその研究を再開し、シラーとともに自然科学的な手法の基本原則に関する完全で科学的な調査を開始した1798年までそのままになっていました。1798年1月10日に、ゲーテはその随筆をシラーに送ってコメントを求め、1月13日には、その中で提示された観点を新しい随筆の中で拡張したい旨を友人宛に書き送っています。彼はその仕事を続け、1月17日には、科学的な方法の特徴のひとつを概説する短い随筆をシラーに送りました。この随筆は彼の作品カタログには載っていません。それは科学的な方法論に関するゲーテの基本的な観点を十分に評価する上で確かに非常に貴重なものであったでしょう。けれども、1798年1月19日のシラーの詳細な手紙の中にその考えが示されているのを見出すことができます。この手紙が示していることがらはゲーテの「散文の中の韻」によって確認され、補足されます。(後に、シュタイナーによってつけ加えられた脚注:ゲーテ全集34巻XXXVIIIページの序論の中で、私は、経験、実験、そして科学的な知識に関するゲーテの考えを最もよくサポートするその随筆は不幸にして失われてしまっているように見えると述べています。しかし、それは失われておらず、ここで述べるような形でゲーテアーカイブへの道を辿りました。その随筆は1798年1月15日付で、17日にシラーに送られました。それは随筆「主観と客観の仲介者としての実験」の続編です。私はその随筆の中で表明されている考えを書簡から取ってくるとともに、今、手に入るのと正確に同じ仕方で序論のXXXIXページに示しました。内容という意味では、その随筆は私がそこで書いたことに何もつけ加えません。実際、彼の他の著作に関する私の研究を通して得られたゲーテの認識に関する方法や様式に対する洞察があらゆる点で確認されます。R.シュタイナー)。ゲーテは科学的な探求における三つの方法を区別します。さらに言えば、これらは現象に対する三つの異なるアプローチによるものです。第一の方法は「通常の経験主義」です。それは経験される現象あるいは直接的な事実を越えて行くことなく、個別の顕現に没頭します。もし、通常の経験主義が何らかの結果をもたらすべきものであるならば、それはその活動をそれが出会う現象の詳細な記述、つまり、在庫目録を作ることに限定しなければなりません。経験論者の観点から言えば、科学とは個別の事実を記述したものの総体に他ならないでしょう。経験主義に対して、合理主義は次の段階を代表しています。それは「科学的な現象」を確立しようとします。単なる現象の記述に自らを限定するのではなく、原因を見つけたり、仮説を立てたりしながらそれらを説明しようとするのです。この段階では、現象から出発して、それらの原因や関連性についての原因を知性によって引き出すことへと進みます。ゲーテはこれらの立場のいずれもが一方的なものであると考えました。通常の経験主義は粗野で非科学的ですが、それはそれが決して偶然の出来事の単なる記述から逃れられないためです。他方、合理主義は現象世界の原因や関連性を読み解こうとしますが、それらはその内部には含まれてはいません。通常の経験主義は事実の世界という十全たるものから自由な思考へと上昇することができず、合理主義は足下の確かな事実という基盤としての現象を見失い、甘い考えと主観的な幻想に陥っているのです。ゲーテは観察から結論へと突進する熱情を強く非難します。彼の「散文の中の韻」の中では以下のように述べられています。「観察から直ちに結論へと飛びつき、そして、それらを同等に扱うというのは良くないことであるが、しばしば見られることだ・・・。理論とは現象を排除し、イメージや概念、ときには単なる言葉をもってそれに代えようとする性急な知性による拙速の産物である、というのはよくあることだ。それがその場しのぎに過ぎないことが疑われ、また、明らかにそれと見てとれることもある。熱情や党派主義はその場しのぎが大好きなのではないか。いや、確かにそうだ、彼らはそれらをとても必要としているのだから。」。ゲーテは因果的な論理づけを乱用することに対して特に厳格です。合理主義はその野放図な想像力をもって事実がそれを保証しないところで因果律を追い求めます。彼は「散文の中の韻」で、「最も本質的で最も重要な概念「原因」と「結果」の概念は無数の、際限なく繰り返される間違いへと導くような仕方で用いられている」と述べています。人は特に単純な関連への偏愛により、厳密に直線的な仕方で次から次へと続く原因と結果の連鎖における結びつきのような現象を考えがちです。けれども、実際には、以前の事象によって条件づけられるいかなる現象も同時にその他の多くの影響を受けています。このような場合、自然の「長さ」については考慮されていますが、その「幅」についてはそうではありません。ゲーテによれば、いずれの道も、つまり、通常の経験主義の道も合理主義の道も、より高次の科学的な方法への途上にある「中間的な」段階であって、超越されるべき段階であるに過ぎません。合理的な経験主義によってそれは達成されますが、それが扱うのは客観的な自然法則と同じものであるところの「純粋な現象」です。通常の経験主義、つまり、仲介されない経験によって与えられるのは関連のない個別の事実、外的な現われの寄せ集めに過ぎません。それらは科学的な過程の結論としてではなく、その最初の経験として与えられます。科学が私たちに要求するのは、関連性を追求し、個々の事実を相互に関連したものとして眺める、ということです。この意味で、概念化する必要性と与えられた事実の間には隔たりがあるように見ます。認識する精神にとっては関係性だけが存在していますが、自然の中にあるのは分離だけです。精種(あるいは型)を求めますが、自然が創り出すのは個別だけです。結びつける精神の力は内容を欠いており、したがって、それ自身、どんな具体的なものも把握することはできませんが、一方、自然の対象物が分離しているのはそれらの本質的な問題ではなく、それらの空間における表現である、という事実について良く考えてみるとき、私たちはこの矛盾から逃れることができます。事実、私たちが個別のものの本質に至るとき、私たちの注意は種、あるいは型へと引きつけられます。自然の対象物は分離したものとして現われます。したがって、私たちが必要としているのはそれらの「内的な」結びつきを私たちに示すような精神の統合する力です。そして、理性の統一性はそれ自体では空虚であるため、それを満たすための自然の対象物を必要としているのです。こうして、「第三の段階」において、現象と精神的な能力が出会い、「ひとつ」になります。そのとき初めて精神が満足させられるのです。もうひとつ別の探求の領域がありますが、そこでは、個々の事実は別の不連続の事実の結果として現われるわけではありません。したがって、別の同様の事実の助けを借りてそれを理解することはできません。そこでは、一連の感覚知覚可能な要素が統合的な原則の直接的な表現として現われます。もし、私たちがいずれにしても個別の事実を理解したいのであれば、私たちはこの原則へと貫き至る必要があります。私たちはその現象を外的な影響の結果として説明することはできません。それは内から外に向けて展開されなければなりません。以前には決定的な役割を果たしていたものが、今や単なるひとつの影響、あるいは刺激となります。以前に議論した無機的な領域においては、もし、ある事実を他の事実の影響として見ること。つまり、外的な条件からそれを演繹すること―ができるならば、私はいかなるものであっても理解することができました。けれども、今や、私は異なる問いかけをするように強いられます。私が外的な影響を知っていたとしても、やはりその現象がどのように反応するかについては何も確かなことは分かりません。その反応は外的な影響を受ける現象の中心的な原則から演繹されなければなりません。私はこの外的な影響が何を及ぼすかについて語ることはできませんが、その現象の内的な原則はある一定の外的な影響に対してある一定の仕方で反応するということだけは言うことができます。生じることはどんなことであれ「内的な」法則性の結果なのです。私の探求が見出すべきものとは自らを内から外へと形成するものです。「型」とはこの領域におけるあらゆる現象の根底をなす自己構築的な原則であり、私は個々のものの中にそれを探さなければなりません。今、私たちは有機的な自然の領域にいます。私たちが無機的な自然との関係で元型的な現象と呼ぶものは有機的な自然における「型」なのです。型とは有機体の「一般的なイメージ」、あるいは「アイデア」としての動物における動物性のことです。第4章で議論した主なポイントを繰り返してきましたが、それは型についての私たちの考察にとってそれらが重要だからです。しかし、倫理的、歴史的な科学においては、より狭い意味でのアイデアが関係してきます。科学としての倫理や歴史はそれらが探求する現実であるところのアイデアによって導かれます。それぞれの科学の使命は、元型、型、あるいは歴史の場合、指導的なアイデアに到達するまで与えられた素材を吟味するということです。かつて、物理学者たちは我々が元型と呼んだところのものを理解するに至ったが、彼らに間違いはなく、哲学者たちも同様である。彼らは彼らの科学の最前線に到達し、経験的な高みに至ったということ、そして、そこからは経験のあらゆる段階を見降ろし、概観することができるということ、そして、たとえ理論の領域にまで入っていかないにしても、そこからはそれを望むことができるということを確信するようになった。哲学者たちもまた間違いがないが、それは彼らが物理学者たちの結論を取り上げ、それを彼ら自身の仕事の出発点に据えるからである(*色彩論)。哲学者たちの仕事が本当に始まるのはここからです。彼らは元型的な現象を取り上げ、それらを満足のいく内的な関連へともたらします。私たちは今、ゲーテの観点から、形而上学に取って替わるべきもの、すなわち、アイデアによって導かれる観察、元型的な現象の結合と導出を見ます。ゲーテはこのような仕方で経験的な科学と哲学の関係について繰り返し、そして、彼のヘーゲルへの手紙の中では特別な明晰さをもって語ります。彼は「年代記」の中で自然科学の図式について何度も語っています。もし、これが見つかっていたとしたら、彼がいかに個別の元型的な現象の間の関連について考えていたかが、そして、いかに合法的な順番でそれらを整理していたかが分かったことでしょう。私たちは様々な種類の影響についての彼のリストを見ることによって、これがどのようなものであったかを自分で理解することができます。偶発的な-機械的な-物理的な-化学的な-機械的な-心霊的な-倫理的な-宗教的な-天才から生じるような、この階層的なリストは私たちが元型的な現象を秩序づけるための助けになります。
参考画:ゲーテとシラー(Friedrich von Schiller)




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最終更新日  2024年06月04日 15時58分47秒
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