Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年06月29日
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カテゴリ: 霊魂論


ドルフ・シュタイナー
ゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)
第18章 ゲーテの「散文の中の韻」における世界観 佐々木義之訳
●第二段
  私たちが外的な世界に直面するとき、私たちの中に生じる思考内容は真正なものです。私たちは私たち自身が作り出す洞察以外のいかなる認識も求めることができません。事物を説明すると思われるような何か別のものをそれらの背後に探し求める人たちは、事物の本質的な性質に関するあらゆる疑念は私たちの知覚に思考を浸透させようとする私たち人間の必要からのみ生じ得る、ということに気づいていません。事物が私たちに語りかけ、そして、私たちがそれらを観察するとき、私たちの内的な本性が語りかけます。この語りかけの両側面は同一の主要存在から生じます。私たちに求められるのは、それらの相互理解を生じさせる、ということです。認識とは正にそのようなものなのです。人間本来の必要を理解する人たちはそれを、そして、それだけを求めます。そのような理解を欠いている人たちにとって、外的な世界の事物は見知らぬものに留まります。そのような人々が事物そのものの内的な存在から語りかけられるその本質的な性質を聞くことはありません。その結果、彼らは、それは事物の背後に隠されていると想像するのです。彼らは知覚可能な世界の背後にある別の外的な世界を信じるのですが、単にそれらを観察する限り、事物は外的なものに留まります。私たちがそれらについて熟考するとき、それらはもはや私たちの外にあるのではなく、私たちとそれらの内的な側面とは一体化しているのです。私たちにとって、客観的、外的な知覚と、主観的、内的な思考世界の間の対比が存在するのは、これらの世界は相互に帰属しているということに私たちが気づき損ねるときだけです。「私たちの内的な世界は自然の内的な存在」なのです。異なる人々は事物を異なって眺めるという事実によってこれらの考えが反駁されることはありません。人々は異なって組織されており、したがって、ある色が異なる人々によっても正確に同じ方法で見られるかどうかを知ることはできないという理由によってそれが反駁されることもありません。私たちが何らかの事物について正確に同じ判断を形成するかどうかが問題なのではなく、私たちの内的な存在の言語が事物の本質的な特性を表現する言語であるかどうかが問題なのです。個別の判断は個別の組織や観察の観点によって様々ですが、すべての判断は同じ要素から生じ、事物の本質的な特性へと導きます。それは思考の様々なニュアンスの中で表現されるかも知れませんが、それでも、それは事物の特性であることに変わりありません。人間は自然がそれを通してその秘密を打ち明けるところの乗り物であり、世界の最奥の本質は主観的な個性の中で明らかにされるのです。世界の内にある私たち自身を全体性の中にあるかのように感じるとき、すなわち、調和する満足が私たちに純粋で自由な喜びを与えるとき、もし、宇宙が自意識的であったならば、それはその目標を達成した喜びに沸き、それ自身の生成と存在の頂点に驚嘆するでしょう(R.シュタイナーによる注:ゲーテの随筆「ヴィンケルマン」より)。宇宙の目標と存在の真の本性は、外的世界の産物の中にではなく、人間精神の内部に生きているもの、そして、それから生じるものの中に見出すことができます。ですから、ゲーテにとって、装置や客観的な実験によって自然の内的な存在へと貫き至ろうとする科学者たちの試みは、次に示すように間違いなのです。我々が我々の健全な感覚を用いる限り、我々自身が、考え得る最良の、最も正確な科学装置なのです。現代物理学における最大の不幸は、いわば、人間がその実験から引き離されたことにあります。つまり、物理学は人工的な装置によっては検出されないようないかなるものの中にも自然を認めることを拒否するとともに、自然が成し遂げ得ることを制限したり、証明したりするためにさえそれを用いるのです。・・・その他の方法では自らを現せないようなものでも我々の中では表現に至るほど高いレベルで我々人間は存在しています。音楽家の耳に比べて、弦やその様々な区分が何ほどのものでしょうか。実際、我々は次のように問うでしょう。我々がそれらをある程度消化できるためには、我々はまずそれらを手なずけ、変容させなければならないことからして、人間と比べれば、自然そのものの基本的な現象とは何ほどのものなのかと。(散文の中の韻)もし、私たちが人間として事物の本質的な特性を知りたいと思うのであれば、私たち自身の心を通してそれらに語らせなければなりません。私たちは、それらの本質的な特性について、私たち自身の内的な存在の精神的な経験から取られたものについてのみ語ることができます。世界についての結論を引き出すことができるのは私たち自身からだけです。私たちは擬人法で考えなければなりません。私たちが何か非常に単純な事象、例えば、二つの物体が衝突するときのような事柄について語るとき、私たちは擬人化します。ある物体が別の物体に衝突すると結論づけることでさえ擬人法なのです。もし、私たちができごとの単なる観察を越えて行きたいのであれば、私たち自身の体が別の物体を動かすときのその経験にそれを結びつけなければなりません。あらゆる物理的な説明は隠された擬人法です。私たちは自然を説明することによってそれを擬人化します。つまり、人間の内的な経験がそれに投影されるのです。とはいえ、これらの主観的な経験は事物の本質的な内的特性です。ですから、私たちは、客観的な真実、あるいは「物自体」を認識しない、と主張することはできません。何故なら、私たちに可能なのはそれらの主観的な表現を形成することだけだからです。(→に続く)
参考図:擬人化




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最終更新日  2024年06月29日 08時08分34秒
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