Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年08月17日
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カテゴリ: 霊魂論


ルドルフ・シュタイナー
「精神科学と医学」 第三講 1920年 3月23日 ドルナハ*1998.11.21.改訳 1-2
本講1-2
 19世紀における唯物論的傾向が、いわば魂的なものをすべて神経組織に負わせました。そこから人間において起こっているあらゆる霊的・魂的なものを、その際神経組織のなかに見出され得るはずの平行現象において解明するということが次第に一般化します。ご存知のように私は、こういった類の自然観察に対して、「魂の謎について」(☆2)という著書のなかで異議を申し立てざるを得ませんでした。この本において私がまず第一に示そうと試みたことは、この真実を実証するために経験の面から加えられることは、ほかならぬこの通常の観察法によってこそ数多く得られるのですが、神経組織と関係しているのは、本来の表象プロセスのみであって、感情のプロセスは、間接的にではなく直接的に、生体組織の律動的現象に関連しているということです。今日の自然科学者は通常、感情プロセスは律動組織とは直接関係はなく、この律動プロセスが神経組織に中継されることによってのみ関係している、つまり、感情生活も、神経組織によって営まれるのだと考えます。さらに私は、意志生活全般もまったく同様に、間接的にではなく直接的に、新陳代謝組織と関係していることを示そうとしました。つまり意志のプロセスに関しても、神経組織にとっては、この意志プロセス自体を知覚すること以外の何物も残されていないわけです。神経組織を通じて何らかの意志が実行されるのではなく、意志を通じて私たちのなかで起こっていることが知覚されるのです。私が主張いたしましたことはすべて、生物学上のそれに応じた事実によって完璧に証明されうることですが、他方、これと反対の、魂生活を神経組織だけに組み込む見解は、まったく証明することができないのです。いわゆる運動神経なるものを切断し、感覚神経なるものを切断して、両者をつなぎ合わせることができ、そこからまた均一の神経が生じるという事実がありますが、感覚神経(sensitive Nerven)と運動神経(motorische Nerven)があるという見解とこの事実が、まったく健全な理性をもってすればどうやって関係づけられるべきなのか、ちょっと見ていきたいと思います。感覚神経と運動神経といったものは実は存在せず、運動神経と呼ばれているものは、私たちの四肢の運動、すなわち、私たちが「意志する」ときに私たちの四肢の新陳代謝において起こっていることを知覚する感覚神経にほかならないのです。つまり、運動神経とは実際のところ、私たち自身の内部においてのみ知覚する感覚神経なのです。それに対して、感覚神経と本来呼ばれているものは、外界を知覚しているのです。医学にとって非常に重要な意味を持っているけれども、事実そのものをきちんと見据えることによってはじめて正当に評価され得るものは、この方向にあるのです。なぜなら、昨日私が結核の例を得るために出発点とした病気の諸症状に対しても、感覚神経と運動神経の区別で済ませてしまうことは実際困難だからです。従って、賢明な自然観察者は、どの神経も単に周辺から内部へ、あるいはその逆へと伝わるだけでなく、周辺から中心へ、あるいは中心から周辺へも伝わるということをすでに受け容れてきたのです。同様に、どの運動神経にも二つの回路があるということになります。すなわち、神経組織から、何かを、たとえばヒステリーを説明しようとすると、互いに反対に流れている二つの回路を容認することが必要なのです。つまり、事実に立ち入るやいなや、神経組織についてのそもそもの仮定に完全に矛盾する、こうした神経の特性を容認することがどうしても必要になるのです。たとえばヒステリーの場合に起こっていることのように、生体組織のなかで通常神経組織に定められているものについて知るべきであったことが、神経組織についてのこういう通例の考えかたを習ったことですべてふさがれてしまったのです。私たちは昨日、たとえば結核の場合に起こって、神経によって単に知覚されているものを、新陳代謝における出来事によって特徴づけました。こういうことにこそ留意せねばならなかったのに、そうするかわりに人々は、神経組織の振動可能性や振動のなかにのみ、ヒステリーを探究し、すべてを神経組織のなかに置き換えてしまったのです。こうして、さらにまた別のものももたらされました。とは言え、ヒステリーの遠因のなかにはやはり心魂的な原因もあることは否定できません。心痛、失望感、実現可能なものも不可能なものも含めて何らかの内的な興奮、これらがヒステリーの徴候のなかに入り込んでいます。けれども、神経組織以外の生体組織全体をいわば魂生活から切り離し、神経組織だけをまさに直接魂生活に関係づけたことによって、すべてを神経組織に負わせることを余儀なくされている状況です。これにより生じてきた見解は、第一に、もはやわずかなりとも事実には裏付けされず、また第二に、魂的なものを人間の生体組織にさらに近づける手がかりを何ら与えないような見解です。魂的なものをもっぱら神経組織にのみ近づけ、人間の生体組織全体に近づけることはしないのです。せいぜい、存在してもいない運動神経というものを考え出して、運動神経の機能からさらに循環その他への影響を期待することによって、全体に近づけようとするぐらいですが、この循環その他への影響というのもまったく仮説の域を出ないものです。私が説明いたしましたことは、暗示と催眠といったようなことが現れてきたときに、きわめて思慮深い人たちを結局誤謬の道に導くことになってしまったことなのです。その際ーー少し以前のことになりますがーー、ヒステリーのご婦人がたが、きわめて思慮深い医師たちを誤謬に導き、欺く、といったことが体験されました。こういう人たちが医師の前で披露してみせる、ありとあらゆることに気をとられて、本来生体組織のなかで起こっていることには入っていくことができなかったからです。けれどもこのことに関連してーーこの場合はヒステリーの婦人ではなく、ヒステリーの男性なのですが、もともとこういう事柄に関しては非常に思慮深いのが常であるシュライヒ(☆3)のような医師が、いかなる誤謬に陥ったか、陥らざるを得なかったかををお話しするのも、一興かもしれません。つまりこの時、医師であるシュライヒのもとに、インクのペンで指を刺してしまった男性がやってきて、明日の夜にはきっと死んでしまうだろう、血液が毒されてしまうから、腕を切断してもらわなければならないと言ったのです。当然のことながら、外科医であるシュライヒは切断を敢行することはできませんでした。彼にできたのは、この男性を落ち着かせ、傷口を消毒するなど必要な処置を施すことだけであって、明日の夜には血液が毒されてしまうからなどという申し立てに応じて、この男性の腕を切断することなどむろんできませんでした。するとこの患者は、また別の権威のところに行きましたが、当然ここでも彼の腕は切断してもらえませんでした。しかしシュライヒは事態にいささか不吉なものを感じました。朝になってすぐ問い合わせると、その患者はほんとうにその夜死んでいたのです。そこでシュライヒは、暗示による死と診断をくだしました。「暗示による死」と診断することは、容易に、はなはだ容易に推測できることです。しかしながら、人間の本質への洞察があれば、このやうなやりかたで暗示による死を考えるということはあり得ません。ここでは、暗示による死が診断されるやいなや、原因と結果との根本的な混同がされているのです。もちろん血液が毒されているということはなく、これは解剖により確認されましたが、当の患者は、医師たちには公表されない原因によって死亡したように見えますが、事態を洞察することのできる人にとっては、彼の死はまぎれもなく、生体組織の深部に根ざした原因によるものなのです。この生体組織の深部に根ざした原因が、その数日前からこの人物をぎごちなく不安定にさせていたので、彼はインクのペンで自分の指を突き刺すというような、通常はしないことをしてしまいました。これは彼がぎごちなくなった結果起こったことなのです。そしてこの人が外的ー物質的な意味でぎごちなくなる一方で、内的な透視能力はいくらか高められ、病気の影響で、夜になってやってくる自らの死を預言的に見通していたのです。彼の死は、彼がインクのペンで指を突き刺したこととは全く関係なく、彼が自分のなかに有している死の原因によって感じたことの原因となったのが、この予見された死だったのです。起こったことはすべて、死をもたらした本来の内的プロセスに、もっぱら外的に関連していることにほかなりません。ですからここで「暗示による死」が登場してくるのは全く問題外です。なぜならこの男性が信じていたことや彼の有していたすべてのものは、死を招いたこととは何の関係もなく、もっと深い原因があったからなのです。ともあれ彼は死を予見し、起こったことをすべて、この死の予見に引き込んで解釈したわけです。この例によって同時に、自然における複雑な事象について適切な判断を得ようとするといかに慎重でなければならないか、おわかりいただけたと思います。その際はきわめて単純なことから出発することはできないのです。とはいえ、つぎのような疑問を提出せざるを得ないでしょう。つまり、感覚による知覚(Sinneswahrnehmung)とそれに類するすべてのものは、人間の生体組織に対して薬剤から発せられているはずの、いわば少々異なった種類の影響のための手がかりを私たちに与えてくれるのかという疑問です。さて、正常な状態において人間の生体組織に対する三種類の影響がありますね。第一に感覚による知覚を通しての影響で、これは神経組織のなかでさらに継続されます。第二に、律動組織、すなわち呼吸と循環による影響、第三に新陳代謝による影響、以上の三つです。これら三つの正常な関係は、何らかの方法で外的自然から取ってこなければならない薬剤と、人間の生体組織の間に私たちが作り上げる異常な関係のなかに、何らかの相似物を有しているはずです。しかしながら、外界と人間の生体組織との間に起こっていることがもっとも顕著に現れるのは、神経組織への影響においてなのです。従って私たちは次のように問わなければなりません。人間自身と、人間の外部にある自然であるもの、つまり、その経過としてであれ、実質的に薬剤としてであれ、人間の治療のために私たちが利用しようとする外的自然、この両者の間に、私たちはどうやって合理的な関係を考えることができるのか、と。私たちは、人間と、私たちがそこから薬剤を取ってくる人間の外部の自然との相互関係がどのようなものであるかについて、ひとつの見解を獲得せねばなりません。と申しますのも、水治療法を適用するときでさえ、私たちは何か人間の外部にあるものを用いているからです。適用されるものはすべて、人間の外部にあるものから人間のプロセスへと適用されているのであり、私たちは、人間と人間の外部のプロセスとの間の関係がどういうものなのかについて、合理的な見解を手に入れなければならないのです。ともかくここで、現在通用している医学という学問の組織的関係に代わって純粋な集合体としてまとまりのあるテーマにたどり着きます。医学生は通常まず準備段階として自然科学の講義を聴きます。それからこれを基礎にして、一般病理学および個別病理学的なもの、一般治療学的なもの等が構成されるのですが、いざ本来の医学の講義が始まると、この本来の医学講義で語られているプロセス、つまり治療処置というものが、外的自然の経過といかなる関係にあるのかについては、もはや聞くべきことはあまりないということになります。私が思いますには、今日の医学教育を受けてきた医師達は、このことを、単に外的知性的に欠陥であると感じるだけでなく、実際に病気のプロセスに介入すべきときに沸き起こってくる感覚のなかで、ある感情として、何かを用いようとする際にある種の不確実さの感情として、自らの心のうちに強く刻みつけることでしょう。使用すべき薬剤と、人間のなかで生じている、実際に存在しているものとの関係が真に認識されることは何といってもまれなのです。ここでは、ことの本性そのものから医学という学問の改革の必要性を指摘することが重要です。さて、きょうはまず、人間の外部の自然におけるある種のプロセスを手がかりに、これらのプロセスが、多くの点において人間の(内部の)自然のプロセスといかに異なっているかを明確にすることから始めたいと思います。私はまず、下等な動物や植物において観察できるプロセスから始めて、そこからさらに、人間の外部にあるもの一般つまり植物界、動物界、とりわけ鉱物界から取り出されるものによって引き起こされるプロセスへの道を見出したいと思います。けれども私たちが、純粋な鉱物実質のこういう特徴付けに接近することは、ごく基本的な自然科学的表象から出発して、さらに、例えば砒素や鉛といった薬品ではないものを人間の生体組織のなかに取り入れる際に起こることへと上昇していくときに、はじめて可能になるのです。ここでまず指摘せねばならないことは、人間以外の存在においては、成長における形態変化(Wachstumsmetamorphosen)が、人間内部の自然そのものの場合とはまったく異なっているということです。私たちは、人間のなかの本来の成長の原理、生きた成長の原理を何らかの方法で考えないわけにはいかないでしょうし、人間以外の存在の成長の原理も考えねばならないでしょう。けれども根本的な意味を持っているのは、そこで生じてくる差異なのです。例えば何か非常に身近なもの、通称ニセアカシアと呼ばれるロビニア・プセウドアカシア(Robinia pseudakasia)を観察してみてください。このニセアカシアの葉を葉柄のところで切り取ると、興味深いことに、葉柄が形態変化によっていくらか変形され、さらにこの変形されてこぶ状になった葉柄が、葉の機能を受け継ぐということが起こります。ここでは、私たちがとりあえず仮説的にひとつの力と呼びたい何かが強く働いています。この力は、植物全体のなかに潜んでいて、私たちがその植物がその正常に形成された器官を特定の機能のために用いるのを妨げるときに発現してくる力なのです。単純に成長する植物において非常にはっきりと現れているものの名残りと申しましょうか、そういうものが存在している、ということは、人間の場合も、何らかの理由によって一方の腕あるいは手を何らかの機能のために用いるのを妨げられた人は、もう一方の腕あるいは手がより力強く形成され、物理的にも大きくなるなどといった事例によって証明されます。私たちはこういう事柄を互いに結びつけなければなりません。なぜなら、これが治療法の可能性を認識することに至る道なのですから。
参考画:Robinia pseudakasia




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最終更新日  2024年08月17日 06時13分14秒
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