Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年08月24日
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カテゴリ: 霊魂論


ルドルフ・シュタイナー
「精神科学と医学」 第四講 1920年 3月23日 ドルナハ*1998.11.21.改訳 本講:本文・解説
第四講本講:本文1-1
 昨日の午後の議論はなるほど極めて興味深いものではありましたが、私が今しがた目にいたしました質問との関連で、既にもう行ったことではありますが、やはりもう一度、次のようなことを強調しておく必要があります。すなわち、個々の治療薬と個々の症状との関連を見い出すために十分な方法は、ここでの考察のなかで前もってある種の基礎的問題を処理してしまってからでないと得られないだろうということです。これらの基礎的問題によってようやく私たちは、人間と人間の外部のもの、この人間の外部にあるものから薬が取り出されるのですが、この人間と人間外のものとの関連についての認識の有効範囲を推し量ることができるようになるのです。とりわけ、個々の治療薬と個々の器官との関係について語ることは、これらの基礎的問題を処理することなしには不可能でなのです。その理由は明白で、この薬と器官との関係というのは全く単純なものではなく、いささか複雑なものであって、私たちがきょう、あるいはもしかすると一部は明日にも処理していくべき基礎的問題を処理してからでないと、この本来の意味を推し量ることはできないからです。それに続いて、この治療薬とりわけ治療処置と、個々の器官疾病との具体的な関係を実際に議論する可能性がでてくるでしょう。けれども、きょうさっそく前置きとして申し上げておきたい今一つのことも、とりあえずは皆さんに取り入れていただきたいのです。そのことからある種の光が当てられることもあるでしょうから。と申しますのは、こういう事柄は当然のことながら最初はショックを与えるものですので、これらはいささかショッキングな事柄なのだということを先に強調しておかなければなりません。昨日の午後ここで検討されたこととの関連で申し上げたいのは、皆さんが物事の別の側面に留意してくださるようお願いしたいということです。昨日ここでまったく特定の治療について非常に啓発される事例が数多く紹介されたことは、私たちにとってきわめて満足のいくことでした。さて、私はこういう治療をおそらくどんどん稀少なものにしていくごく単純な手段を皆さんに示すことができます。けれども私は皆さんがこの手段を用いないようにするためにこそ、これを用いることは当然考えられることですから、この手段をご紹介したいのです。この手段については、むろん人智学的な素養のある方々のもとでしかお話しすることはできません。この手段というのは、皆さんがリッターの治療法(☆1)を普遍的なものにしようとあらゆる策を講じるという点にあると言えるでしょう。皆さんは治療の成功に関しては、自分は個人的としてひとりの医師であるということを尊重するわけにはいきません。なるほど、個人としては次のようなことを意識しておられる方もいらっしゃるかもしれません。つまり、自分はひとりの医師として、大きな医師集団というものに対して戦わなければならない、けれどもリッターの治療法を大学の要件にしたとたんにそれに染まってしまうだろう。もはや反対の立場には立たず、非常に多くの、すべてのとは決して申しませんが、病気が癒されるので、自分の治療の成果は著しく減少するという経験をするだろう。このように意識しておられる方もいらっしゃるかもしれません。現実の生活においてはこういうことがあるのです。つまり、ものごとは普通考えられているのとは異なっていることが多いのです。医師個人としてはひとりひとりの人間を治療することが最大の関心事であるのは当然のことですが、現代の唯物論的な医学は、それどころか、ひとりひとりの人間を治療することに単に挑みかかるしかないということの一種の法的根拠と申しますか、そういうものをこの方法で探し求めてきたわけです。
原注1 リッターの治療法:「M・リッターの光力学的治療の実践的応用のための手引き」(ミュンヘン、1913)及び「神経ー力学的治療法ーー蛍光素材及び発光(ルミネセンス)素材の細胞領域と神経死に対する作用に関する研究と経験との関連で」(ライプツィヒ、1905)参照。
 実際、この法的根拠は、そもそも病気などというものは存在しない、存在しているのは病人だけだと言われているところにあるのです。当然のことながら、人間が病気に関しても、今日外面的に見えているとおり切り離されているのだとしたら、このような根拠も真の根拠となるでしょう。しかし実際に起こっていることは、人間はこのようなことが大きな意味を持つほどには実際に切り離されてはおらず、ちょうど昨日にE.博士が言及されたように、ある種の病気のスパンは、かなり広範囲にわたっており、皆さんがある人を治したとしても、別の場合にはまた別の人たちに病気を押しつけたこともあるかも知れないといったことは決して確定できないのです。個々の病例をプロセス全体のなかに置いてみないと、こういう事柄は個別的にははなはだ驚愕させられるものです。けれども、人類の治癒ということを全体として見ようとする人は、やはり別の角度からも語らなくてはならないのです。このことから、一面的に単に臨床的な方向付けをするだけではなく、完全に病理学をもとにして治療というものを引き出してくることがぜひとも必要となってくるのです。私たちがここで試みようとしていることはまさしく、通常は単なる経験的ー統計的な思考であるものに一種の理性(Ratio)をもたらすことなのです。さて、きょうは誰もがよく知っている事実から始めようと思います。この事実は自然科学的、医学的思考との関連ではまったく正当に評価されておりませんが、人間の人間外部の自然に対する関係を判断するための基礎を提供してくれるものなのです。これは、三つの部分から成る存在としての人間、すなわち、神経・感覚存在としての、循環存在、つまり律動的存在としての、そして新陳代謝存在としての人間は、新陳代謝存在であることによって、外部の自然、植物界において起こっていることに対する陰画(ネガ)として関係づけられているという事実です。次のような事実を魂の前に描き出していただきたいのです。つまり外部の自然において、さしあたりこの自然のうちの植物界だけを観察すると、植物相においては、いわば炭素を集積し、この炭素を全植物相の基盤とする傾向が認められます。私たちは植物に囲まれていることによって、炭素の集積に基づいた本質を持つ有機体、形成物に囲まれているわけです。忘れないでいただきたいのは、この形成の基礎を成しているものは人間の生体組織にも現れているのですが、人間の生体組織はその本質において、形成の過程でいわば発生期状態[Status nascendi]が進行していくうちに、この形成を止揚し破壊して、代わりにその反対の形成を取り入れねばならないということです。このプロセスの端緒は、私たちの内部の、私が先日来下部の人間と呼んできたもののなかに見出されます。私たちは炭素を沈殿させて、いわば私たち自身の力から植物化のプロセスを始め、その後私たちの上部の組織に誘導されて、この植物化に抵抗しなければなりません。私たちは炭素に酸素を対抗させることで炭素を止揚し、炭素を炭酸に加工し、それによって私たちのなかに植物化に対抗するプロセスを形成していかなければならないのです。いたるところでこの外的な自然とは反対のプロセスに注意していただきたいのです。と申しますのも、このことに注意していただければ、皆さんは真実の人間をますます根本的に理解されるようになるからです。人間の重さを計っても、物理学的な研究方法にのっとった他の研究に対しては象徴的にこういう言いかたができますし、人間そのものを理解することはできないのですが、次のようなことを考慮すれば、人間のメカニズムについてすぐさま何らかのことは理解できるのです。つまり、脳の重量は良く知られているように平均千三百グラムあるけれども、この重量で頭蓋の下半分の面が圧迫されることはない、なぜなら脳の自前の重量で圧迫されたなら、繊細な血管が拡がっている部分はすべて押しつぶされてしまうからといったことです。脳が自らの土台を圧迫している重さはせいぜい二十グラムです。これは、脳が脳水のなかに浮かんでいるという事実のために、良く知られたアルキメデスの水圧の原理に従って浮力を得ており、その結果脳の重量の大部分は作用せず、浮力によって止揚されているからです。ここにおいて重さが克服され、私たちが自らの生体組織の重量のなかではなく、重量の破棄のなかに、物理的な重量とは反対の力のなかに生きているということは、人間のその他のプロセスの場合も同様なのです。実際のところ私たちは自然現象(Physis)が私たちとともに作り出すものではなく、自然現象から止揚されたもののなかで生きているのです。さらに私たちは実際のところ、外的自然のなかにも存在していて、植物界においてその最終部分を体験するプロセスとして知覚されるようなプロセスのなかで生きているのでもなく、私たちは植物化を止揚することによって生きているのです。このことは、私たちが病気にかかっている人間の生体組織と植物薬との間に橋を架けようとすれば、当然本質的に問題となってくることです。さて、こういうことは、いわばちょっとした短編小説風に叙述できるかもしれません。世界のすばらしい植物相(Flora)として私たちを取り囲んでいるものすべてに眼差しを向けると、私たちは当然のことながら歓びを、とても大きな歓びを感じると言えるのではないでしょうか。けれども、羊を解剖して、その解剖の直後に別の植物相を目にするときはそうではありません。この羊の体内の別の植物相は、その発生原因という点でも、外部の植物相の発生原因と決定的に類似しているのですが、羊を死後に解剖して、この羊の内部のまったき腐敗臭がこちらに漂ってくるのを感じるとき、この腸内の植物相、すなわち腸菌群落(Darmflora)に対して私たちは歓びを感じるどころではありません。けれども、このことにこそ特に注目する必要があるのです。なぜならば、人間の外部の自然においては植物相を軌道にのせる原因であっても、それは人間においては克服されねばならず、腸内の腸菌群落が発生させられてはならないことは明白だからです。ここにはきわめて広範な研究領域が拡がっており、比較的お若い、勉学中の医学生の皆さんにお勧めしたいのですが、学位請求論文のためにこの領域から多くを役立てられるとよいのではないかと思います。とりわけさまざまな動物の形態、哺乳動物を経て人間にいたる形態における、腸形成の比較研究という領域からは得るところが多いと思います。この領域においては、きわめて重要なことがまだ数多く研究されないままなので、非常に実り豊かな分野が成立するでしょう。とりわけ、羊を解剖すると、その腸菌群落のためにひどい腐敗臭が発散されるのに、鳥類の場合は腐肉を食する鳥の場合でも腐敗臭はなく、解剖しても比較的心地よいとさえ言える匂いを発するのはなぜなのか、一度その隠れた事情を探究してみていただきたいのです。こういう事柄においては、まだ非常に多くのことが今日まで十分学問的に研究されておりません。この領域における腸の形態の研究についてはなおさらです。ちょっと考えてみて下さい。鳥類全体が、哺乳類との、そして人類との本質的な差異を示しているのです。鳥類の場合、例えばパリの医師メチュニコフ(☆2)のような唯物論的な医師たちは、まさにこういう事柄について最大の思い違いをしてきたわけですが、膀胱と大腸は、きわめて未発達なのです。鳥類が走禽類となるところでようやく、大腸の形態、および膀胱の形態におけるある種の膨隆(Ausbuchtungen)が見い出されます。こうして私たちに重要な事実が示されるのです。つまり、鳥においては、排泄物を蓄積したり、一定期間生体組織内にとどめたりしてからその排泄物を随意に排出するなどということはなく、摂取と排泄との間に持続的な平衡状態が成立しているということです。
原注2 Elias Metschnikoff/1845-1905はオデッサ大学で動物学教授で後にはパリのパスツール研究所副所長を務める。
参考画像:Elias Metschnikoff



   (第四講本講:1-1了)

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最終更新日  2024年08月24日 08時14分23秒
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