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日常における異変は大抵の場合唐突に訪れるから煩わしいことこの上ない。朝起きてご飯をよそろうと炊飯器を開けた時、不穏な気配を4分の3ほど寝惚けた頭がかろうじて察した。プラグはコンセントに差し込んである。保温ランプも点灯している。なのに、炊飯ジャーはひっそりと冷えていた。蓋を開ける。炊飯に失敗したと一目で分かるボソボソの不味そうな米飯がやはり冷めた状態で、量だけは無駄にこんもりとある。非常事態発生。即生命を脅かされる危険ではないものの、メシが食えないままならそのうち死ぬので、やはり危険は危険。昨夜と、数日前にも1回、ご飯が上手く炊き上がらなかった。水加減云々の問題ではなく、途中で炊飯が止まってしまうのか炊き上がりが人間の食うレベルではなくなっている。炊飯器の調子が悪いのではないだろうか。そう、懸念した矢先の朝一番の衝撃だった。さて。ここで問題点がいくつか浮上した。最大のものは、炊飯器の迅速な買い替えが必然的である故、財布の中身に見合った商品を販売する店のリストアップ。それ以上に状況が差し迫ったものは、今日の朝メシどうするか。米の飯を腹に収めて出社しないことには仕事など成り立たぬ。胃の中で空気が暴走する音が時報のように鳴り響くだろう。周囲に対する騒音公害より、生命活動の維持のほうが重要なのは言うまでもないが。う~ん。朝食は納豆ご飯。焼海苔をちぎってゴマと一緒に塗して食べる。なら、何とかこの不味そうというより恐らく不味いこの米飯も納豆ネバネバパワーで食することもできるだろう。…。ぱく。むぐむぐ。うん。食えなくはないが、やはり米の飯は普通の炊き上がりがいい。そう言いつつも食べ切る自分にある意味感嘆。さよなら。今朝、生命活動を停止した炊飯器。ゴメンよ、買い換えなきゃ米の飯が食えないんだ。本日の教訓『新しく買った炊飯器を命名、タケル君』
2008年07月31日
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朝、目覚まし時計の代わりにしている携帯電話を掴む。フリップを開くと、アラームの鳴る10分前。大体いつも通りの起床時間。そして、その時刻が浮かび上がる画像はいつもと違う画像。あ、そっか。携帯は昨日の夜から充電中だ。今日は代役として枕元に先代携帯を仕掛けていたんだっけ。昨日の夜、寝る前になってようやくバッグから携帯を取り出す。食事中も歩行中も、使用禁止の電車内でさえピコピコが止まらない携帯依存症の人種からは考えられなかろうが、別に必要性を感じなければ携帯を見なくても日々を過ごすことはさほど困難ではない。外出中に電話が入っても大抵気が付かないため、緊急連絡用アイテムとしての位置付けはかなり微妙と言える。早い話、放置しまくりが常態なのだ。その最たる仕事が目覚ましアラーム。携帯電話としてカメラ機能まで備えて生まれてきてこの境遇は不遇と呼んで差し障りなかろう。そんな不遇なシンデレラ携帯電話、フリップ開くと画面は真っ暗だった。古い携帯にありがちな、バッテリー消耗の早まりだ。電源、完全に切れてるようだ。確か以前にもあったなこんなこと。去年のあの時、この電話の寿命を確信したというのにあたかも通夜の席上坊主の読経粛々と響く中死に装束のホトケが煩そうに眉を顰めむっくり起き上がるように華麗なんだかしぶといんだかよく分からない復活を遂げたっけ。その体験を思い出し、電源を差し込む。ランプに反応はない。再び三途の川で水浴びでもしてんのかコイツ。ちょっと力を入れてみると、やっと点灯した。使い始めてもうすぐ3年、人間で言えばそろそろリストラの危機に晒され不安の募る頃だろう。しかし、人心荒れ果てたと嘆くしかない悲惨な事件の続く昨今、根幹には手軽な非常勤労働力の使い捨てがあるのは疑いようもない。安易に新品の携帯に乗り換えることが最善といえるのか。否。使える間は大切に使い尽くすべきであろう。まだまだ当分の間アラームとしての重大業務を任せられる。そう確信できた瞬間だった。何てことはない。単に、最近の携帯の価格が破格過ぎて買い換える気が失せて仕方がないだけである。本日の教訓『携帯なんてアラームが鳴ればいい』
2008年07月29日
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広がる青空と肌を刺すように照りつける陽射しには高い打撃音を響かせて高々と舞い上がる白球がよく似合うと思うのはかつて親の故郷である祖父母の家で過ごした夏休みの間決まって高校野球中継が放映されていたからだろう。画面から聞こえる大歓声。庭から聞こえる蝉の声。夏は幻のような季節だ。来るべき冬のため作物をたわわに実らせる秋も体を凍てつかせる過酷な冬も季節の移り変わりと生命のサイクルを示す春も生物としての生活感がそこはかとなく漂うが、四季の中で最も暑く熱く燃え滾るはずの夏には死の香りが漂う闇の暗さが付き纏う。朝顔、蝉、線香花火、盆の迎え火送り火、高校野球。何処となく現実味が無く、そして儚い。ふと思う。夏は、人が夢現の間を彷徨う季節ではなかろうかと。どんな夢も、一夏の間なら輝くような気がする。夢と現実の境界線は波に洗われる砂のように曖昧になる。そしてそれは秋の訪れと共に唐突に終わる。夢から醒めた後あれほど鮮明だった色彩は何処に消えるのだろう。夢を見た。叶わないと嘲笑われ続けた遠い夢に手が届くような気がした。けれど、夢はいつかは終わりその後に続くのは現実の日々だ。次の夏の夢を見るために、日々を生きて歩いていく。テレビドラマを食い入るように観たのは久しぶりだ。なまじ原作を知っているだけに映像化されずじまいの幾つかの場面に対する心残りはあったもののそれを差し引いてもお釣りの来る内容だった。映像、音楽、脚本、そして役者の演技。最終回前の番宣ちょい多すぎじゃなかろうか、世間にはウザがる人種も存在するから大丈夫かよオイと思いきやこれは老若男女幅広い人々に観てもらいたいと本気で思った。昨日放映されたドラマ『ROOKIES』の最終回。若さゆえの熱さと、郷愁に訴えかけるような切なさが共存している。野球部メンバーの涙につられてのボロ泣きこそしなかったものの、画面から溢れ出るような夏の輝きが記憶の原風景を揺さぶる。青い空と、白い雲、乾いた茶色い土、茂る蔦の緑。そして、何処かで空を見上げている向日葵の黄色。夏に見る夢は色鮮やかで、その眩しさに目を伏せる。本日の教訓『夏が終わっても夢は終わらない』
2008年07月27日
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一昨日の午後7時過ぎ、例の本は手元に届けられた。遅刻魔武蔵が来たら問答無用でぶん殴る気満々の巌流島の佐々木小次郎の如く待ちわびていた。感慨など後回しにしてもどかしくも梱包を解き、レッツ読書タイム。読み始めると人間の意志薄弱さは露呈する。ここまで読んだらもう寝よう。いや、次の章まで読むことにすっか。待て待て、ここで止めるのはちょっと酷だろ。冷静に考えれば睡眠時間が削減される方が自分自身にとって酷に決まっている。そのまま翌日は仕事だってのにダラダラと携帯料金を万単位で払う通話好きのおしゃべりのように読み続け、東北地方を襲った地震の波の端っこが自宅を揺らしても読みまくり、上巻を読破した時点でやっとストップ。キリのいい所で気分も満足。さて寝るとすっか。翌日木曜も通勤電車行き帰りと帰宅後に本の虫となりて夜中12時ごろ下巻読了。満ち足りた気持ちで布団へゴー。しかし。物事のツケというのは必ず廻りまわり回って巡り来る。昨日今日と、就業時間中に突如意識が彼方の世界に消えかかる。ミルク色の靄のかかった世界への誘いは甘美で破滅の予感を漂わせるほどに強力な引力を感じる。居眠りすんな。しかも原因、本の読みすぎで睡眠不足。理由にならんわ、減点300点。本日の教訓『夜中に本を読む耽るなら休日前』
2008年07月25日
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今日は何の日?大暑の翌日。土用丑の日とウチの親の誕生日の前日。蟹座と獅子座の微妙な境界線。ウチの家から宅配便センターまでは徒歩5分。シングル1曲鼻歌歌いながら聞いてる間に辿り着けそうな場所から使命を帯びて旅立っているはずの営業車が今の所まだ来る気配がない。おそらく。ウチの家は通常夕方まで全員仕事で留守している場合が多く宅配便センターも最近はそこら辺を踏まえたのか誰かしら在宅の6時以降に配達してくる。いやしかし、今日は仕事休みで外出先から3時には戻って来ていたのだが。出先でブルーのあの手提げバッグぶら下げてる人見て早く読みたい気持ちがふつふつこみ上げるの堪えて帰宅したのだが。郵便受けに不在票は無かった。読みたい時に読みたい本は手元にないもどかしさ。今日は何の日?言わずと知れた某有名ファンタジー最終巻の発売日。ハリー・ポッターと死の秘宝本日の教訓『午後11時59分までは7月23日に違いはない』
2008年07月23日
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一見平凡極まりない日常にも所々悪魔の罠としか思いない陥穽は息を潜め待ち伏せをして一歩足を踏み入れたが最後底無し沼に嵌ったかのような絶望感が心身を凍てつかせるが如く蝕んでいく。例えば、左側の上奥歯に感じる違和感。食物を噛み締めた時や冷たい飲料を口に含んだ時、不快な感覚が神経細胞によって伝達される。これは。思い当たった症状を表す単語を打ち消すように頭を振る。馬鹿な。この場所は4月に歯石除去をしてもらった際に初期症状があるということで詰め物をした場所。そこが再び細菌性口内掘削作業を受けているというのか。慌てて歯ブラシを手に取り、通常より5割増丁寧にブラッシング。コレは気のせいだ、決してあの病などではないと言い聞かせつつ自分を欺くかのように縦横無尽に手を操る。その言葉を決して口に出してはいけない。言葉に表すことで不安は立体的に具現化し口内を覆いつくす暗い闇となってしまうだろう。あとの祭りという言葉が存在する以上、人間の歴史は古より愚行と悔恨に満ち溢れている。磨いた所で修復することはありえないと知りつつもとりあえず磨いておくことでそれ以上の崩壊を食い止めようとする人間の浅薄ここに極まれり。本日の教訓『歯は一生の友』
2008年07月22日
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あれから10年もこの先 10年も悲しいほどに子供は非力な存在で大人になれば何でも分かる何でも出来ると無邪気に信じていた頃、空は今よりももっと高く青く見えていて明日は今日よりも楽しいことが起こると考えて眠りに落ちた。時が流れるにつけ目に入る世界には傷や綻びや歪みや影があちこちに転がっているのに気がついて確かに大人になったはずの自分は情けないほどあやふやで頼りなくて思い返す過去の日の方が遥かに輝きに満ちていたと気がつく。しかし、もうそれを取り戻すことは叶わずに、また溜息。テレビゲームをやっていてこれほど切なくなったものはないだろう。スーファミ、PS2、そしてDSとプラットフォームは変わってもそこに広がる世界は合いも変わらずに、厳しくも優しい。DS『ドラゴンクエスト5~天空の花嫁』強く逞しい父と旅をする幼い少年。その広い背中に憧れ追い続けるも、父子の幸福な時間は突如理不尽に断ち切られる。やがて成長した息子は父の遺志を継ぎ広大な世界に旅立つも更なる過酷な運命に翻弄される。彼を支えるのは仲間と、家族の強い絆の存在だった。ゲームの中で経過する年数は20年以上、親子三世代に亘る大河ドラマ的RPG。結婚相手の選択だの保護者同伴ドラクエ最年少勇者だのある意味シリーズ最大の異色作。子供の時に遊ぶのと大人になってからプレイするのとではかなり視点が変わってくる。言い換えれば、大人になっても楽しめる2度美味しいゲーム。ウチの親もこのゲームの印象はシリーズで一番強いようで、後半に出てくる双子の兄妹はしっかり者の女の子が姉でやんちゃな男の子の弟を仕切っているに違いないと言い張り、仲間モンスターのスライムナイトのピエールを主人公含む他の誰よりも強く信頼している。昔からこのゲームをやっている時に思わず口からこぼれてくる歌が渡辺美里の『10YEAR』だ。迷い戸惑い苦悩する青春ソングが、波乱万丈人生のドラクエ5の主人公と被って仕方がない。そして、そのままそれは自分自身を投影している。スーファミ版をプレイしていた頃から10年ちょい、さほど人間的成長が感じられない自分がそこにいる。父パパスのような、カッコイイ大人にはなかなかなれないこの現実。まだウチの幼い主人公は冒険を始めたばかり。傍らには、偉大な父。近い将来否応無く訪れる悲しい別離を彼らはまだ知らない。そしてたとえ知っていたとしても、運命には抗えない。…ちょっと涙ぐみそうだ。もういい年した大人のクセに。本日の教訓『子を持って分かる親の恩、いやまだ実子いないけど』
2008年07月20日
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脚部に違和感を感じたのは昨日の今時分のことだ。右足付け根のやや内側、いわゆる股関節だ。理由など考えるまでもない。左足を踏み出せば右足は後ろへ下がる。普段使わない部位を久々に酷使すると耳には聞こえぬ悲鳴を体が上げるのは道理。ゲームは終わってもまだ人を苦しめ続けるのかボウリングめ。最初に鈍い重さを感じていた右腕は相変わらずで、それに加えて股関節と来たか。しかも、1日経過後。筋肉痛到来の遅れは老化の証拠という忌まわしい常識が頭を過ぎり、慌てて頭を振る。んんん?左の腰、何か調子が悪い気がする。体を右へひねる。うぉ、左腰に来た。今度こそ真剣にまずいんじゃなかろうかと己の体に忍び寄る暗雲を危惧する。たかがボウリング2ゲーム程度で筋肉痛。運動会の保護者参加競技で張り切りすぎてアキレス腱切っちゃうリーマンパパを笑えねぇ。どんだけ鈍り切ってんだろうこの体は。そして今日1日、疲労の残る右腕と、凝りを感じる股関節と、右を向いたり屈んだりが苦痛な左腰を抱えたボウリング三重苦状態に喘ぎつつ仕事をこなす。コレはヤバイ。運動不足はメタボに続くケモノ道。このままでは未来予想図を描くことなど恐ろしくて出来やしない。メット5回叩くんじゃなく腹5回叩けばフ・ト・ッ・テ・ルのサインだ。体をもっと動かさねば。運動する機会を増やそう。器具やウェアの必要もなく、手軽に出来るスポーツって何だろう?…ボウリングとか?本日の教訓『健康作りは運動から』
2008年07月17日
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掌に多少の違和感を感じる。腕の筋肉痛は、まだ来ていないようだ。出来れば明日も何事も無く過ぎ去って欲しい。1日遅れの筋肉痛なんて老化を実感する瞬間に他ならないからだ。昨日は、会社のボウリング大会だった。自分が家畜なら、ボウリング場は屠殺場であり、自分が死刑囚なら、13階段であり、自分が小学生なら、万国旗翻る校庭である。ここに、個人スコアがある。プレイは2ゲーム、トータル111。パチンコだったら大フィーバーのこのゾロ目、1ゲームのスコアでは決してない。ついでにその内40はハンデだ。即ち、2ゲーム合算しても71しかない、ある意味どうヘタ踏んだらこんなスコアが叩き出せるのか自分でも呆れ返るしかないような脅威のヘボボウラー。周囲の人間は適切なアドバイスをくれるのさ。ボールを持つ手は曲げずに真っ直ぐ、右足から1,2,3,4と踏み出して2と3の時に右腕を後ろに引きつけて4で左足を踏み出した時に手を前に振る。前に、転がすような感じで手を放す。ほら。言われたことは頭ではきちんと理解できている。できないのは、頭と動作の連結作業。手を真っ直ぐに振るべきなのに、何故か土壇場では変な方向にボールを転がしてしまう。究極の運動音痴と呼ばれる所以を余す所無く見せまくってどうするよ。つかそんなの誰も見たくない。せっかくの周囲の人間の好意を結果としての数値に残せないこの無念、コレが何よりも心苦しいのさ。しかも、トロトロ投げてたらいつの間にか他のグループ全てがゲームを終えていて、やけにギャラリーの数が増えている。おまけに、このグループ4名の中で最後に名を連ねているのは…。言わずもがな。何だこのお約束どおりのベタな展開。何が悲しくてビリ候補最右翼が大トリまで兼ねなくちゃならないのだ。参加者全員がこっちを見ている。決してナルシスト入った思い上がりなどではなく、事実他に見るものないから見ざるを得ないのだ。集団でジロジロ見てんじゃねー。余計に緊張して上手く投げられないじゃないか。コレを羞恥プレイと呼ばずに何と呼ぼう。最終10投目、連続ガーターで試合終了。我が辞書に『有終の美』という言葉はない。本日の教訓『目立ちたいならゆっくり投げろ』
2008年07月16日
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物を溜め込まずに処分して身綺麗でいることが澱んだ気を洗い流し幸運を呼び寄せる秘訣であると尤もらしく世間一般で囁かれている。となると、ウチの家は幸運から見放されてしまうのは何者も変えることの叶わない宇宙の真理の決定事項となる。とにかく、すごいなどという貧弱な表現では役者が足りないほどウチの家は既に廃棄物の山、ゴミだめと化している。A級戦犯の名は妹その1。息をするように浪費をし、息を吐くように物を散らかす秩序の敵。数年後のヤツは自己破産に陥っていることは想像に難くない。自分の部屋を買い漁ってきた商品で溢れさせたヤツは共有スペースである居間部分にも19世紀の欧米列強の如く侵略を進めテーブルの上にまで私物を放置している惨状。ヤツに言いたいことは最早1つしかない。捨てろ。人の振り見て我が振り直すのが正しき人間のあり方であり、他人に説教たれるには余りに自分の部屋も雑然としているのに気づく。元来捨てられない性質故、部屋を埋める私物は日に日に増えていく。これではあのバカと大して変わらないじゃないかと危機感を抱き、捨てられるものはないかと空き巣のような鋭い目で物色する。先ずは、雑誌類だな。次の土曜が紙ゴミの日だから束ねておこう。マンガ雑誌の山ってのはちょっと怠けると新興埋め立て地区のように途端に高層化する。月毎の定期的処分が適切と理解していても怠け心に負ける辺り人間として精神的に改善の余地がありまくる。さて。本棚を見る。読まない本は捨てるか売るのが筋ではあるが、おいそれと惜しげもなく手放せるような本なら誰が最初から買うかってんだ。図書館で借りて読んで、気に入って文庫版を購入したもの。近所の本屋には無くネットで探して取り寄せたもの。昔から新刊が出るたびに買い足したもの。どれもこれも一方ならぬ思い入れがある。己の構成要素として重要な位置を占めているのが本だ。脳内スキャンをした時に本の字が何処にも見当たらなかったのは当たらぬも八卦にぶち当たったとしか思えない。空き箱に詰められて川を流れてきた子猫を飼おうとしたのに動物嫌いの親に叱られて箱を抱えて夜道を歩く子供がいい人に拾われるんだよと涙ぐみつつ公園の隅に箱ごと猫を置く。立ち去ろうと踵を返すが、すぐに立ち止まる。消え入りそうなか細い泣き声がやけに大きく耳に響く。振り切るように歩き出すが歩幅は次第に小さくなる。見つめた運動靴の爪先が涙で歪む。振り返ると、箱の中から輪郭のぼやけた子猫が頭を出している。この情景で、引き返せないはずがなかろう。背表紙が日に焼けて色褪せた糟糠の本を処分するというのは人が人でいるための大切な部分を切り売り量り売りするような行為だ。心をグラムいくらの挽肉と同じように扱えるかってんだ。でもそうなると、アホ妹の室内侵略行為を肯定してしまうようなものだ。整頓を取るか真心を取るか、これぞ究極の選択、パラドックス。あー。でも、ウチの妹、本なんて買って読んだら後はポイで全然大切に思ってないじゃないか。いいや、お前の心なんて特売の合い挽肉価格で売り払ってしまえ。本日の教訓『本は心の友』
2008年07月13日
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多分それは単にプライドの問題なのだ。確かに自分の運動神経は伝達細胞が破壊されてるんじゃなかろうかと疑うほどに恐ろしく悪い。それは自覚しているし、別段隠し立てする気もない。だから運動全般何をやらせても全然ダメなんだと己がのび太君であることを憚らずに公言しているのだが、それは敢えて苦手を大っぴらに晒しているのではなく出来れば触れて欲しくないからこそ塞がり切っていない傷口を開いて見せているだけだ。「去年の結果、見ちゃった」悪びれもせずに彼女は笑う。去年の大会の個人成績順、それは確かダントツにビリだった。出来れば宇宙の彼方にでも消去してしまいたいがロケットが無い以上それは出来ない相談で、破り捨ててトイレに流すことは出来ても去年の参加者全員の脳内から記憶を削除するのは不可能。しかもその成績表は記録として、誰でも望めば閲覧可能な場所に保管されている。個人情報の管理体制に著しい問題があると言わざるを得ない。「だから言ってんじゃん、ものすごい運動音痴なんだって」「うんうん、あれはちょっとすごいよね。ビックリした」去年入社の彼女は今回が初参加だ。『すごい下手』を自認する彼女でも流石にあの最低記録を更新するのは不可能に近かろう。下には下がいる。その口調が雄弁に物語っていると感じるのは被害妄想の第一歩か。世間一般で運動音痴を自称する人間ってのは大抵が謙遜しているつもりでそう言っているに過ぎない。大してすごくはない、人並レベル。それを一段下げて、自分はダメだと言っているだけだ。そんな人間には多分一生を費やしても分からないことがある。そして、彼女は恐らくその類の人間だ。彼女にはきっと、理解できない話だ。ねえ。体育の時間が来る度、気が滅入ったことがある?運動会が近づく度、憂鬱になったことがある?陸上も球技も器械体操も水泳も、たった一つでも好きなものがないってどんな気分か分かる?例えばバレーボールのチーム分けで、自分が入った方のチームが明らかに戦力的に不利だとすぐ分かる。サーブを打っても相手コートには入らないし、レシーブもトスも満足に出来ない。対戦相手から見たら、蚊帳に大きく空いた煙草の焼け焦げのよう。そこから勝機はどんどん零れ落ちていくんだ。下手な人間がいるから勝てない。誰もが口に出すことはないけど相手チームの歓喜が迸る間に重く立ち込めるスモッグのように無言の雰囲気は濃度を増す。その場所に居ることがつらいって気持ち、感じたことがある?サーブを打つ。と、ボールは何故か背後の方角へ飛んでいく。それはもう何年も時を重ねて笑い話へと昇華するもの。その時その場所で笑えるはずもない。そして、昔話を笑ったとしても、それを心の底から笑えるほどには時間は経過していない。心に今尚残る傷口に気づくのは、不用意に触れられた時だ。人が人を傷つける瞬間ってのは、恐ろしいほどにささやかで、多分知らない間に、自分の言動で他の誰かが不快感を感じている。そしてその痛みは、傷つけられた当人にしか分からない。本日の教訓『笑っている人間が心の底から笑っているとは限らない』
2008年07月11日
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レターセットだのポストカードだのシールだのスタンプだの、こまごまとした紙製品や文具を収集するのが昔から好きだった。そして、もったいなくて使えない。例えばレターセットは必ず便箋封筒一組は保管しておくし、シール類も同じ柄が複数あるものを優先的に使う。コレを日本語で何と言うか分かりますか?ド・ケ・チ。大体メモ紙など用が終わったら丸めて捨ててしまうもの。ちょっと自分用に走り書きしておく程度のことならカラフルなプリントが施されたそれより裏が白いA4の紙を切って再利用した方がいいに決まっている。そんな吝嗇全開の自己ルールを徹底させた結果、ウチには未使用の紙製品が結構な数眠る羽目になっている。ウチの親の会社の友人には小学校3年生の娘さんがいる。半年ほど前、貯め込んでいたシールやカード類を引っ張り出し、同じ柄があるものを抜いて集めてみた。そしてそれを、袋詰めにしてみる。おお。何だこの福袋を選びながら詰めているような高揚感。長く冬眠していた紙製品がやけに色鮮やかに見えるぞ。誰かにあげるプレゼントを作るってすごく楽しい。こんな人を喜ばせる喜びってのはやはり気持ちが洗われる。昔は妹達にこうしておすそ分けをしていたのだが、ヤツらは極悪『ぱなし』ブラザーズ。脱いだ靴下や買って来た菓子すら足元に放置して止まない人間が人から貰ったものを置きっぱなしにすることに躊躇うはずも無い。何をあげても無駄なのだ。喜ぶのはあげた当初のみで、それを過ぎたらその辺に置き去りなど珍しくもなんともない。大切に保管するという技術が揃って欠落しているのだ。そんな連中に大切なものを敢えて分け与える必要があろうか。答えは否である。だからあげない、ただそれだけの話。プレゼントは親に頼んで会社へ持っていってもらう。そこで友人の方に預けてもらえばいいのだ。その日の夜、ちゃんと渡してくれたか確認すると、「もちろん。ちゃんと中身も見た」へ?中身って、わざわざ開けてみたのかアンタ。ウチの親、全く悪びれる様子も無く笑っている。「何が入ってるんだろうって、 会社でみんなで開けて中を見たんだよ。 『色々入ってるよ』って数えながらさ」…。子供に宛てたプレゼントを親たちが先に検閲すんな。刑務所の手紙じゃないんだから。どんだけ暇なんだオバハン連中め。んな変なものなんか入れてないっつーの。ま、贈る相手が小学生女子だからバレンタインチョコと違って覗かれた所で何の不都合もないがそれでも手書きのメッセージカードなど入れなくてよかった。他人に宛てた手紙を読まれること以上に羞恥心を掻き立てられることは少ないからな。その直後、大喜びした娘さんからウチにお礼の電話が掛かってきた。どれも全部気に入ってくれたとのことだ。いやいや、子供はこのくらいの年齢だとやはり反応が可愛い。ウチの妹達などぐんぐん成長しすぎて疾うに可愛いと思える年代を過ぎ去って今は場所だけとって邪魔臭いことこの上ないからな。そして、今月初めが娘さんの誕生日。少し遅くなってしまったが、本日家捜しをするが如くあれこれ誕生日プレゼント用の雑貨類を掻き集めて袋に詰めた。受け取った瞬間の喜び、開ける直前の期待と興奮、中身を取り出して眺める幸福感を想像してみる。うへへ。あげるほうも嬉しくなれる。しかし、当の本人が開封する前に、保護者達の手によって事前に検閲を受ける運命なのだ。オバハンどもは純粋に中身に喜ぶのではなく、何が入っているか見るという行為に関して楽しみを見出している。もう一回言うぞコラ。刑務所の差し入れじゃねぇ。本日の教訓『見られたくないプレゼントは他人に託すべからず』
2008年07月09日
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空には雲。天の川を越えてベガとアルタイルが再会を果たすことも叶わぬ空模様。仮面ライダーゼロノスもさぞかしガッカリだろう。よくよく思い出しても7月7日は雨の特異日と呼ばれぬのが不思議な程毎年悪天候に祟られているような気がするのは牽牛と織女の業の深さ故であろうか。夫婦揃っての職務怠慢というのは斯くも罪深き行為なのか。7月7日が晴れているのはドリカムの歌の中だけだ。ここ1ヶ月ほど、人生のトンネルってヤツは本当に実在してしかも其処にどっぷりハマりまくってさらに青函トンネル並のその長さに驚きつつも疲れている。時折職務上のミスはしでかすもののここまでマシンガン的に連発するってのも初の経験だ。そろそろ笑えねぇ。スランプに陥った某国民的野球選手がホームベースに盛り塩したって逸話も今は笑えない。かつての水戸泉関の如く山盛りの塩を社内にぶちまけたい気分だ。風呂場で久々にストレッチをしたら、手足が可哀想になるくらい縮こまっているのに気がついた。多分精神的ストレスってのが円形脱毛症の形をとらないのが御の字ってくらい溜まりまくってミスの悪循環を助長して生態系並に巨大化させてるのだろう。手を伸ばす。拳を前に打ち込む。爪先立ちでスクワットなどしてみる。ああ。今なら思い切り体を動かしてもいい気分。今が一番悪い時なら、ならそれを乗り越えればこれから先は超楽勝じゃなかろうか。そう思うようにしておこう。本棚から書籍を引っ張り出す。開くと其処には、それを初めて読んだ頃の自分が居る。あの頃は今以上に何も持っていなくて、例えば翌月程度の未来のことすら分からず不安であやふやで世界と自分とを隔てる透明な壁の存在に圧迫されていた。その壁をこの足で蹴破ろうとする力はいつの間にか生まれていた。そうだ。昨今のバリアフリーなこのご時世、不要な壁は突き破って壊してしまえばいい。そう思えるようになれた。ちょっと笑えた。世界はそれを勇気と呼ぶのかどうか知らない。ただ、何かを変えようと決心する契機なんてささやかなものだ。そして、それがたった1冊の本だったとしたら、空が雨でも曇りでも関係無く、逢いたくなった時は、いつでもすぐに逢える。Slam dunk完全版(1)本日の教訓『悲しいことがあると開くマンガの本』
2008年07月07日
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最近最も気に入っているマンガがこのグダグダ系学園コメディ『SKET DANCE』。この、グダグダってかったるい響きが何となく好き。SKET DANCE(4)学園生活支援部、通称スケット団に所属する3人の高校生。パソコンで会話をする情報通のスィッチ。紅一点にして武闘派のヒメコ。ボケとツッコミの2人に挟まれやや卑屈なリーダーのボッスン。このトリオの姿を見ているだけで学園の校則の拘束性の無さが窺い知れる。スケット団とは早い話、学園の便利屋。部活の助っ人、落し物探し、用務員の作業手伝いなど、地味~な活動に明け暮れる日々。たまに悩み事を抱えて相談に来るのも強烈な変人ばかりで部室でボケてツッコんで解決したりしなかったりのインドアギャグがグダグダと表現される所以。しかし、時折真剣な以来が舞い込むこともあり、その時はギャグを排したシリアスな展開とここぞという時発揮されるリーダーの集中力が輝きを放つ。笑いあり涙あり、推理ありパロディありオタクネタあり、足りないものといえば戦闘シーンと恋愛要素くらい。切り口によって様々な表情を見せてくれる。系統としては『銀魂』(←コレも大好き)にかなり近い。何でも屋の男女3人と、非常に濃い周囲のメンツと『コレ書いちゃっていいの?』的ギャグとホロリ要素と台詞回しの上手さの絶妙な匙加減。それでもマンガとして描き出される世界はそれぞれ独特の味があり、決して二番煎じとは思えない。が。雑誌の掲載順序はかなり後ろの方。読者人気と比例するこの恐怖の序列、最後尾作品には改変期打ち切りの不安が常に付き纏う。勘弁してくれよ少年ジャンプ。これから先が面白いって作品を永遠に未完成にするのはやめてくれ。『ライジングインパクト』とか最後まで読み続けたかったし、最近の話では『初恋限定。』が非常にもったいなかった。これだけ作画も物語も質の高い作品がいとも容易く目の前から消されるのは読者として忍びない。派手なバトルマンガが雑誌の顔だろうが、こういった一見地味で良質のマンガにもファンは存在するのだ。明日はまた、月曜日がやってくる。期待と不安は、常に表裏一体だ。本日の教訓『人気と面白さはまた別の話』
2008年07月06日
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掘り出し物という言葉がある。骨董品などを見ても目利きでない身では金銭的価値はおろか作者名も真贋すらも見分ける術はない。自分にとっての掘り出し物とは、意外な場所で偶然発見した割とレアっぽい品物に他ならない。商品の価値というものは主観に拠る所が大きい。それは5,6年前の暑苦しい夏の日だ。人一人が通れる程度の細い通路を持つ小さな古本屋に立ち寄った時、その本は偶然視界に入ってきた。その瞬間を古典的ドラマ風に脚色するならばちょっとわざとらしいスローモーションを入れて画面に花びらを散らすエフェクトも入れてやる。それは言うなれば運命の出会い。そんなクサい台詞を惜しみなく使えるほど、その背表紙に並んだ文字は狂おしいまでに魅惑的だった。『絵物語 シンデレラ迷宮』そう。自分の中での少女小説金字塔と呼べるあの作品がいつの間にか絵本化されていたこの衝撃の事実。しかも、『絵 いのまたむつみ』店内に他の客の姿はないと分かっていてもガツッと速攻で手を伸ばしたのは言うまでもない。いのまたむつみさんの名前は知らなくても、絵はどこかで見たことがあるという方は多いと思う。作品に初めて触れたのは『宇宙皇子』の挿画。柔らかで流麗な線と水彩の透明な色に心を奪われたのも『シンデレラ迷宮』を呼んではボロ泣きしていた時期と重なる。何だこの最強コラボ。何年も前にこんな本が出版されていたなんて知りもしなかった。しかもそんな本を古本屋に出すような不心得者までいる。ま、その人のおかげでこうして入手できるんだから文句どころか礼を言って然るべきではなかろうか。カバーの端こそ焼けて茶色くなっているものの中身は綺麗。本文部分はほぼ全面を使って、中表紙や目次、最後のあとがきや奥付には小さめのカット。最初から最後までいのまたさんのイラストが満載の充実っぷり。コレを、定価1400円の本を500円で入手できたこの喜び。『次に来た時に買おう』等と悠長な発想が通用しないのがアウトレットモールと100円ショップと古本屋。甘い。見つけたらその場で即購入しなければ次にお目にかかれる日は年金受給後の年齢になってからかも知れぬ。この古本屋がある道を通ってよかった。この古本屋に立ち寄ってよかった。この古本に目が行ってよかった。一期一会の言葉の重みが身に染みて実感できる。しかし、この美麗な本もまた絶版状態。日本の出版業界は何をやっているんだと本気で腹が立つ。すぐに読み捨てられるような本を大量に作るのもいいけれど何年か経って読み返してみてもその度違うイメージで心惹かれるような本が永く読み継がれるように作り続けて欲しいものだ。本日の教訓『古本屋の本は即買え』
2008年07月05日
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そのページ全体が薄茶色に変色した文庫本の裏表紙にはバーコードなどついていなくて、税という漢字も見当たらず、素っ気無く定価300円と表示されている。そうだろう。この本を購入したのはまだ元号が変わる前のことだ。氷室冴子著『シンデレラ迷宮』数年前、現代社会住宅事情の困窮が縮図化されたような猫の額どころかハムスターの額のようなウチの本棚を整理した時、どうしても捨てられそうにない数冊を残し昔購入した若者向け文庫本を相当処分した。謂わば本の大量虐殺ホロコースト。身銭を切って購い心の糧とした朋輩を裏切るような行為。悔いが一片も残らなかったといえば嘘になり一層捨てられネーゼ精神に拍車がかかるのだがそれはまた別の話。とにかく、この本は粛清を逃れ生き残った数少ない昭和生まれの本だ。捨てることができなかった。それほど、心を揺さぶるような本だった。記憶を失った状態で不思議な世界で目覚めた少女。そこで出会ったのは踊り子・奥方・姫君・王妃と呼ばれる4人の女性。少女は彼女達の家を順番に訪れながら失った記憶を辿っていく。昔コレを読んだ時、泣いた泣いた、もうボロ泣き。明快で簡潔で歯切れのいい文章で綴られるのは『心の闇』。昨今メディアを賑わす凶悪事件のように闇を刃に変えて当たり構わず振り回す類のものではなく、割れた硝子のような闇はひたすら内側へと向かい心を苛む。主人公の少女を取り巻く心優しい女性達すら、誰もが自らの中に巣食う迷宮に惑い足掻き戦い疲れている。個人が奥深く抱える屈託に同じ形はないけれど、それでも触れられると疼き血を流すのは傷口共通の性質だろう。喪失と痛みと絶望と、それでも最後に残される希望と再生。あの時期、この本に出会えてよかったと今でも思える。しかし、どうも今現在は絶版状態で入手困難なようだ。それは非常にもったいない気がする。書店に行けば心が生み出す異世界ファンタジー物語が数多あるが、20年以上も前に書かれたこの物語はその中に混ぜても遜色なく受け入れられるのではなかろうか。『泣ける!純愛!』などとアオリ文句のついたベストセラーも好きな人にとっては面白いのだろうが、自分的に泣けるのはこっちだとの考えは譲れない。先日他界された作者の氷室冴子さんを悼んで是非復刻して欲しいと切に願う。本日の教訓『大切な本は絶対捨てるな』
2008年07月04日
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一昨日の夜の10時ちょい前のことだ。つけっ放しになっていた居間のテレビを何となく観ていた妹2人が何やら腹を抱えるように大笑いしている。お笑い番組はクイズ番組と並んで飽和状態の双璧であり今時そこまで大ウケするものかと懐疑的に思いきや、ウチのテレビに映っていたのは芸人ではなく横文字の歌、某ドラマのエンディング映像だった。ウチの親に「あまり面白くなかった」と言わしめたこのドラマ、終盤に差し掛かりようやっと話題性に見合うだけの内容の充実を図り始めたのであろうか。いや、どうも妹どもの様子が変だ。「ジ●ンプだ!」「ジャ●プだよね!」興奮気味に全く同じ感想を似たような顔で吐くなよ。つか、ジャン●って何だよ。本日発売の週刊マンガ雑誌じゃないか。ウチにもあるけど。どこら辺を見て●ャンプつってるんだお前ら。理由を問い質してみると、どうもエンディング直前の展開がまるでマンガのワンシーンのようだったらしい。「最後のシーン、まんま●ャンプの打ち切り最終回だよ。『彼らの冒険は始まったばかりだ』とか、もろジ●ンプ」「ドアが開いて向こうが光っていて、 これから一気にラスボスとの最終決戦かって感じ」「『ご愛読ありがとうございました、次回作にご期待下さい』って アオリ文句入ってるよ絶対」「マンガ化してジャ●プに掲載できんじゃね?」「もうコレ今日最終回だよ、コレでうまくまとまってるよ」まだ何週か残っているのにそんな終わり方で引っ張るとは。勇気あるなフ●テレビ。しかし、ジャン●の打ち切り最終回と来たか。マンガ家にとって最も無念で書きたくない場面じゃなかろうか。あのさ。次週予告で主人公ぶっ倒れてっけど、死ぬのか?●ャンプだったらあの世で修行積んで生き返ってきそうだけど。その場のノリでそう自説を展開させると、「あるあるー!」ねぇよ。自分で言っといてなんだけど、どんなドラマだよ。いくら総理でもそこまでの奇跡は起こせねぇっつーの。「何?今日そんなに面白かったわけ?」観ていなかった親が妹その1にさほど興味なさそうに尋ねる。「すごいよ、別の意味で面白かったよ。 あれはもうジ●ンプ以外の何者でもないね」分かる人にしか分からんけどな。それよかお前ジャン●ジャ●プ言い過ぎ。別の意味でお前らHey!Say!Jump。ともあれ、マンガファンの心にジャストミートしたこのドラマ、クライマックスに向けてどこまで視聴者を惹きつけることができるのだろうか。本日の教訓『毎週月曜は某少年誌の発売日』
2008年07月02日
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