私の沼

私の沼

トイレの男たち


 通勤電車はいつも通り満員で、向ヶ丘遊園から小田急線に乗り込む俺は当然のように急行電車に乗っていて、で、その電車がどんな状態かというと、本厚木あたりから乗り込んでくるオヤジどもで朝から臭いのなんのって。
 ま、俺だってあと10年もしたら人に言えない状態になるんだと思うけど、今は遠慮なく言わせてもらうぞ、お前ら、臭い。
 昨日は風呂に入ったのか?夜じゃだめだ、朝に入って来い!
 まぁそんなことはいい。
 下北沢を過ぎた辺りから急に・・・。
 ってゆーかこれかなりヤバイ。
 東北沢の駅の看板が見える。っていうことは俺の乗換駅でもある代々木上原が近いって言うことだ。
 は、腹、痛え。
 それも、半端じゃなく痛え。
 これヤバイよマジで。
 俺は胃腸が弱い。
 で、昨夜はなんかどうだっていいような社内の飲み会で、なぜか俺は相当に飲んだらしいのだ。 ちなみに、店は韓国焼肉屋。
 キムチ旨かったなあ。
 ってゆーか、俺、キムチ食べると毎回腹が下るんだった。
 必死に堪えたが、脂汗が出てきた。
 なんだってこんな時に、急に来るんだ。
 次の停車駅、代々木上原の駅に着くと、俺はドアが開くのももどかしくダッシュした。
 階段を下りると公衆トイレがあったような気がする。
 俺は駆け下りた。しかし。
 階段がまずかったのだろうか。
 尻のあたりに嫌な感触が。
 あああああああ。
 男子トイレの看板が見え、俺は必死に走り込む。
 しかし、状況としてはもう、取り返しのつかないことになっていることを俺は頭のどこかで理解していた。
 もう、ダメだ。

 いわゆる、水状便ってやつなんだよな。
 俺は、煙草に火をつけながらぼんやりと考えていた。
 人間、我慢していたものを出した後って言うのは、ほんとぼんやりするよな。
 最近、ハイライトからマルボロライトメンソールに変えたばかりの俺。しかし、今の気分にはロングピースが似合うぜ畜生。
 しかしさあ、どうすりゃいいんだよ。とりあえず俺、このままじゃ会社に行けないじゃん。
 俺の足元には、下痢便だらけになったスーツのズボンが転がっている。
 この小汚い公衆トイレの中で、俺のズボンが一番汚いという事実。
 当然、トランクスも糞だらけだ。
 そんなこんなで、俺は下半身裸のままで便器に座り、一服してる訳だ。

 これ、女は呼べないよな。
 俺は最近付き合い始めたばかりのユリのことを思い浮かべた。
 まだ3回くらいしかやってないって言うのに、こんなところに呼んだら、まず、振られるよな。
 でもまあ、3回くらいしかやってないのに早速彼女ヅラするところがちょっと鬱陶しいから、この際、いいか。
 ここに呼んで、さ・・・・。
 この窮状を、救ってもらうか。
 しかし、俺だってまだ、あと10回くらいはユリとセックスしたいと思っているのだ。
 派遣社員のユリはまだあと半年は契約が残っていると言っていたし、やっぱり、やめとこう。
 それに、別れた後に、会社でこんなこと言いふらされたらちょっと嫌じゃん、俺。

 俺は必死に、なんとか頼れそうな人材を考えてみた。
 会社の同僚は・・・ダメだろ。
 だってもう会社に着いてるころだよな。
 親は青森だし。
 かあちゃん来てくれ、っていうわけにも行かないし。
 友達、ねえ。つーか今日はみんな仕事に行ってるよ。
 使えねえヤツしかいねえじゃん。
 俺は携帯を取り出すと、まず、会社に電話を入れた。
 幸い、同期のヤツが出たので、腹が痛いので午前中休む、と伝えた。
「へー、大丈夫?お前昨日調子良かったからなぁ。3次会のカラオケで延々部長に『ハゲ!ハゲ!』って言ってたぞ」
「あ、そう・・・」
 そうなのか。
 ずいぶんいい調子だったんだな、俺。
 まぁいいか。過去のことで悩んだってしょうがない。
 俺は常に前向きな男だぜ。
 しかし・・・。とりあえず、今の現実はなんとかしねえとな。
 電話を切ると、俺は外の様子を探った。見ると、誰もいない。ちょうど、ラッシュの時間が過ぎたようだ。今しかない。
 俺はズボンとトランクスを床から拾うと、手洗い場へ行き、とりあえず汚れものを洗い始めた。なんにせよ、そのままでは穿けないし、臭いし・・・・・。



 俺はイライラしていた。朝からかみさんとケンカして、家を飛び出してきたからだ。
 かみさんとケンカして、家を飛び出すなんて情けないと人は思うだろう。
 が、しかし、出勤時間が過ぎていたのだからしょうがない。
 しかしあいつの、今朝の言い草はなんだ!言うにことかいて、あんなこと言うヤツがいるだろうか。
「あー、ヤダヤダ。なんでわたしったら、小田急の駅員なんかと結婚しちゃったのかしら。お見合いの話は一杯あったのにさ!せめて京王電鉄にすれば良かった。ってゆーか、JRか営団地下鉄にすれば良かった!ヤダヤダ、小田急の駅員なんか!あなたなんかキライ、サイテー」
 うちのかみさんは、生理前になるとイライラするらしく、まるで機嫌の悪い猛獣のようになり、全く手がつけられない。
 言っていることにも、理論は一切通っておらず、理屈抜きの悪態をこれでもかとばかりに繰り出してくるのだ。
 これが、泣かずにいられようか。
 俺だって、あんな女と知っていたら、結婚なんかしなかった。
 お見合いの話は俺にだって一杯あったのに・・・・。
 というわけで、俺は朝からイライラしている。
 しているんだ。
 イライラしてるって言ってるだろ!
 俺がむっとした顔で駅構内を歩いていると、乗客らしい男が寄ってきた。
 俺は立ち止まった。
「あのー、すみません」
「どうしました?」
「あのー、ちょっと外から見ただけなんですけど、そこのトイレに、下半身裸のヤツがいるんですよ。なんか様子がおかしいなと思って・・・」
「そうですか、わかりました」
 俺はそう言いながらうなずくと、公衆トイレをにらんだ。
 こんな朝っぱらから下半身裸だと?しかも男子トイレで?変態行為も大概にしろっていうんだ。
 乗客の後姿を見送り、俺は公衆トイレに向かった。
 なんにせよ、すぐに現状を確認しなければ。
 トイレに一歩入ると、異臭が鼻をついた。
 く、臭い。
 まさか。
 見ると、洗面所で、若い男が下半身剥き出しで、なにやら洗っているようだ。
「ちょっと。どうしたんですか」
「あっ。あのー、腹が痛くなっちゃって・・・」
 こいつ。なんと朝から糞をもらしやがったんだな。
 見ると、スーツのズボンとパンツを水につけている。
 俺は個室を覗いてみた。床まで糞だらけだ。
 まぁでも、普段の俺なら、親切に対応したかもしれない。
 俺はこれでも優しい駅員さんとして勤続15年になる男だ。
 が、しかし、今日の俺はいつもと違うぞ!虫の居所ってやつが違うんだ!
「ちょっと、困るんですよね。それになんですか、その格好は。あんたね、トイレの個室以外で下半身剥き出しにするのは、軽犯罪法違反ですよ」
「だって、じゃ、どうすりゃいいんですか」
「それに、トイレの床を必要以上に汚す行為も禁じられています」
「だって、俺だってわざとじゃないんですよ」
「ご家族の方に着替えを持って来ていただかないと」
「俺、一人暮らしですよ」
「じゃ、どなたか責任者の方を呼んでください」
「責任者って、俺の??」
「当たり前でしょ。こんなに床を糞だらけにして。こんな行為は許されません。あんたみたいな人がたくさんいるから駅はどんどん汚れて行くんだ!」
「ちょ、ちょっと落ち着いてくださいよ」
「いや、この際だからはっきり言おう。俺はこの仕事に誇りを持っている!お前に何を言われようとも!」
「ってゆーか、それ誰に言ってんですか?駅員さん」
 若い男にそういわれて、俺は我に返った。
 そうだ、いかんいかん。
 つい興奮してしまった。
 俺としたことが。
 が、しかし、こいつを許すわけにはいかん。
 こういうのがいるから日本の公衆道徳というのが乱れて行くのだ。
 ・・・なんだかちょっと違うかもしれない。
 が、虫の居所がいつもと違うから、いいんだ。
「お・ま・え・だ」
 俺はゆっくりと息を吐き出しながら言った。
 俺と若い男は、まるで銅像のように立ち尽くしながら、静かに睨み合った。
「ってゆーか」
 若い男が言い始めた。さっきよりもワントーン声が低い。
「ひどくないですか?これって不慮の事故でしょ。俺別にわざとこんなことしたわけじゃないですよ」
「だからなんだって言うんだ。こんなにトイレを臭くして。恥ずかしくないのか。お天道様に申し訳ないと思わないのか」
 若い男は逆ギレしたらしく、わなわなと体を震わせた。
「なんだよ、うるせえな!駅のトイレなんかもともと臭いじゃねえかよ。あんたにそこまで言われる筋合いはねえよ」
「もともと臭いとはなんだ!だったら来るな!」
「しょうがないだろ、ここは俺が乗り換える駅なんだから!ここ通らないと俺は会社に行けないんだ!」
「乗り換えるだと!まさか千代田線じゃないだろうな!」
「千代田線に決まってるだろ!俺は大手町まで行くんだよ!」
「だからなんだ!」
「なんだってなんだよ!うるせーな、糞もらしたぐらいでなんだって言うんだよ!」
「いい年して糞なんかもらすな、バカ!」
「バカって言ったな、なんだこの糞オヤジ!」
「糞はお前だ!この糞野郎!」
「なんだよ畜生!」
 洗いかけでまだ汚いズボンが思い切り投げられ、俺の顔面に当たった。
 ゴングが鳴った。
「千代田線がなんだっていうんだ!そんなに京王やJRがいいのか!うおおおおおお」
 俺は思い切りとび蹴りを食らわせてやった。



 他の駅員が来て止めてくれるまで、殴る蹴るの乱闘は15分ほども続いたのだろうか。
 トイレの外から眺めていた乗客の一人が、他の駅員を呼びに行ってくれたようだ。
 俺は駅の中の応接室で、着替えを貸してもらえることになった。
 タオルやお絞りもたくさん貸してもらうことができ、俺はすっかり清潔になった。
 ってゆーか、俺はあの駅員に負けたのだ。
 いやぁ、すごい迫力だったなあ。
 つーか、あの人、一体なんだってあんなに暴れてたんだろうな?
 扉が開いて、上役らしいオヤジがやってきた。
「いや、ほんとにどうもすみません。お怪我はありませんか」
「いえ、こっちこそ、トイレを汚してしまって・・・」
「そんなとんでもない。不慮の事故ですから、それは。それよりも、大丈夫ですか」
「いや、大丈夫ですよ。別に、ケガもないし。それより、さっきの駅員さん、大丈夫なんですか」
「それはもう・・・。いや、本当に申し訳ありません」
「俺はいいっすよ。服も貸してもらえたし。家に帰って着替えて会社に行きますから」
 俺は煙草を取り出して火をつけた。
 ちょうど目の前にデカイ灰皿があったのだ。
 一服して一休みすると、俺は小田急線に乗って家に帰った。

 次の日の朝、俺はまた小田急に乗った。
 代々木上原に着くとダッシュして向かいに待っている千代田線に乗るのが俺の日課だ。
 千代田線に乗り込み、一息つくと、駅のホームに昨日殴り合いになった駅員が立っているのが見えた。
 そいつは申し訳なさそうに目礼をしてきた。
 俺も軽く挨拶して、つい笑ってしまった。

 ほんとさあ、飲みすぎには気をつけないといけねえな。



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