金沢城余話


金沢城の天守閣はどんな物であったか、資料はない。
慶長7年(1602年)10月晦日の夜 落雷のため
天守閣及び火薬庫に火が移り本丸のほとんどの建物が
焼失した。以来高い天守閣には、雷が落ちると言うことで
建設されていない。
翌年正月中ごろ再建工事は完成したが、18年後の元和6年
(1620年)12月24日城内長局から出火本丸城主の
舘が焼失した。
この火災があってから、僅か11年寛永8年城外の民家に
放火があり
本丸の建物は、全焼した。このときの被害は千余戸にのぼる。

この時藩の勢力は盛んで、ただちに再建工事にかかり、
前にもまして、大きな建物が建てられたという。

この後逆サイホンの応用で、延々水路とトンネルにより、
城内に水を取り入れた。兼六園の霞が池もこの水だ。

宝暦9年(1759年)4月10日金沢城下で空前絶後の
火災がおき、城下の焼失は、一万五百八戸、城内の百二の
建物ほか19の土蔵が焼失、本丸の三層櫓は、この後ついに、
再建されなかった。

この後50年たった文化5年(1808年)正月15日
金沢城は、二の丸御殿から出火重要な建物は皆焼けた。

この時は領民から冥加銀と言う名目で金を五千貫目集め、
宝暦の大火で欠けていた、諸建物を前より豪壮に建てなおした。
兼六園が完成したのもこの頃だ。

明治に入って、金沢城は兵部省の管轄になり、不要の殿閣や倉庫
は、ことごとく破壊された。

明治十四年一月営内から出火石川門、三十間長屋を残し全焼

なんと何度焼けたら気がすむのか、あきれてしまう。

森 栄松著 金沢城より



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