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鈴鹿シリーズ第2戦からヘルメットカラーを変更してきたヨハンソン。このカラーリングは以後 ずっと続いた・・・。
2007.04.24
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“日本一速い男”・・・星野一義 誰が言い出したのかは知らない。でも必ず形容詞で呼ばれる“日本一速い男”『星野一義』。1980年以来 フォーミュラ2のトップでありながら、優勝候補1番からは離れた・・・・。中嶋悟のライバルになっていた・・・。1983年までの地味なカラーではなく、1984年は蛍光オレンジの鮮やかなマシンに乗った。1984年は西日本で1勝しかできなかった・・・。インタビューでは後半になると「・・HONDA V6に乗りたい・・」とずっといっていたような気がします。その願望は1985年に叶うこととなる・・・。1984年開幕戦では、まだ「・・勝てる・・」といっていたような思い出があります。 (撮影:鈴鹿サーキット 改修後シケイン..カシオトライアングルと言いました。)毎レース 必ず星野選手を応援してました・・・・。
2007.04.23
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衝撃だった・・・前年が最悪の1年になってしまったので、国内開幕戦間近のコースで 気分が乗り気にはならなかったが、サーキットに到着し、フォーミュラ2のマシンが走り始めた。独特のV6サウンドが聞こえたので、中嶋選手かI&Iだろうと思ったら、ADVANカラーのマシンが・・・・。すぐにピットへ行ったら、なんとステファンヨハンソンが居た・・・。ウワサには出ていたが 1984シリーズ全戦で また彼を見ることができるワクワク感が出て、開幕戦が楽しみになった・・・。 (撮影:1984/3/8 鈴鹿サーキット改修後のシケイン 公開練習)続き記事へ
2007.04.20
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1983年筑波FJ1600のシリーズチャンピオンを取り、1984年は鈴鹿のフルコースシリーズに参戦。1983年鈴鹿シルバーカップ最終戦に筑波で使用していたマシンを持ち込んだが、鈴鹿では中段グループがやっとのことだった(と記憶してます)。1984年 鈴鹿のコンストラクターの中からFRD(藤村 レーシング ディベロップメント)のマシンを選び、レースのために 鈴鹿に移住までした 右京選手。この頃は マシンを壊さなければ、速かった。マシンを壊したときに FRDの社長に こっぴどく叱られている光景を遠くで見てました・・・。片山右京選手公式ウェブサイト片山右京F3参戦記
2007.04.18
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昔の鈴鹿サーキット・・・6.00415km。絶対コースレコード:1982年11月6日 スピリットHONDA ステファンヨハンソン 1分47秒75今のシステマティックな環境と違い、ノスタルジックな雰囲気があり、またコースレイアウトも、今とは違う・・・。第1~第3コーナー スタート直後に最初に飛び込むコーナー 100R-70R-60Rと徐々にきつくなるレイアウト。 ヘタなレーサーは終盤になると タイヤの使い方がダメで 大アンダーで抜けていく・・・観客も通な人が多く、またトップレーサーでもよく見に来ていた。 今と違いスタンドなどなく原っぱにシートを広げ ピクニック気分(?)も味わえた・・・。今はスタンドがあり、何も逸話がないが、その頃は よく幽●話もあった・・・亡くなったXX選手が見ていた とか・・。S字も今は全貌が見渡せるが その頃は カベがあり見渡せず コーナーを回るといきなりスピンした車や転倒したレーサーと鉢合わせすることも珍しくなかった。逆バンクのひとつ手前のコーナーが ある時期よりニコン看板前と(もちろんカメラのニコンが看板を設置した)言われ名物のひとつとなった。逆バンクにはヘルメットタワーというものがあり、 実況でも“・・ヘルメットタワーの向こう逆バンクから7.8%上り勾配を抜けダンロップ・ブリッジ下へ・・”というようだった。7.8%上り勾配が緩くなるところに あの懐かしい『ダンロップ・ブリッジ』があった。東側と西側に分かれて実況され、ダンロップ・ブリッジを抜けていくと“・・西コース・ヘアピンです。今トップグループがデグナーを抜け 立体交差下からヘアピンへ・・・”というように実況がつながっていくのが、一つの楽しみだった。通称“西コース”はサンデーレースで使用されることが多かった。4輪はシルバーカップという名称。今はバックストレートにピットがあるが、その頃は ヘアピンにあった。今のような整えられたパドックではなく、スプーンカーブ手前の空き地が ひとつのパドック用エリア。また130Rの上の観戦エリアもパドックとして使用していることが多かった。コースはデグナーカーブは今のように2つではなく1つのコーナーで特殊な路面状況だった。デグナーのイン側とアウト側でカント(傾斜)が違っていた!!!アウト側がよりカントがきつかった。デグナーを抜けていくと河合稔が死んだ右110Rをかすめて、ヘアピンへ。今は昔ほど上り勾配が目立たないが、この時代は上っていくのがハッキリと見えるほどだった。ヘアピンから松っちゃんコーナー(右200R)を抜けてスプーンへ。今とは違いもっとスプーンカーブが奥にあり、一歩間違えると いきなりスプーンカーブの外側のカベにクラッシュ。イン側をなめすぎると、インリフトでひっくりかえることが結構あった。観客席はスプーン1個目の上側でとりあえず終わり。2個目の上側は観客席ではなく、長い間に人が踏み固めた場所があった。そこからバックストレートには金網が張ってあり、行けないようになっていたが・・・・。バックストレートは周辺の雑木林を抜けると、そのままコースに出れた!!! 何度も行ったことがあり、いつもマーシャルとは喧嘩して帰ってきていた。バックストレートは1コーナーまで続く、スロットル全開区間!!唯一バックストレートエンドにある魔の130Rを除いては・・・・。浮谷が死んだコーナーで有名。今のように 綺麗になっているわけではなく、あれだけ高速で通過するのに、エスケープゾーンがほとんどといっていいくらいなく、また イン側のカベも高く それぞれが恐怖につながった。1979年のJAF鈴鹿グランプリの予選で中嶋悟選手が トップフォーミュラ(フォーミュラ2)で初めて130Rをトップギア全開で抜けた!!上手く130Rを通過すると 1コーナーまで とにかく全開!! 最終コーナーもコーナーと呼びながらも全開で踏んでいくところだった。今のようにシケインなんて馬鹿げたものもなく・・・・。最終コーナーも その当時はカントが逆につけられていた。 カントゼロと言う人もいたけど 実際に走ると アウト側に勝手にもっていかれたので おそらく観客席側に向けてカントがついていたと思う。この頃は コースと観客席がかなり近く スリックタイヤのグリップ音が聞こえるときもあった・・。全体的に 日本が誇るサーキットとは言ってても、マイナーだったので、こんなものか?という感じで見ていた。 ヨーロッパのサーキットと比べると 貧弱だな~という思いがあった。でも 当時の最高峰のフォーミュラ2の決勝を 3コーナー(現:2コーナー)の土手の上で寝転びながら見れたのも 今はいい思い出になってます。今のように 売店て言えるものじゃなく、屋台でヤキソバやタコ焼きをサーキットの人が売っていたということを 言っても信じていただけないでしょうネ。もうひとつ 決勝レース前に 当時のトップレーサーがグランドスタンドウラの売店で サイン会を無料でしてましたネ。 星野一義、長谷見昌弘、中嶋悟、高橋国光、などなど いっぱい貰いました。そう言えば 70年代半ばまで メインストレートには ピットウォールもなかったね!!(Yahoo!ブログも同じことを書いています。)
2007.04.16
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天才だった ・・ 高橋徹。約束が守られないまま 逝ってしまった・・・・。佐藤琢磨 彼を天才と言うが、彼は天才ではなく秀才で努力家。天才は浮谷東次郎と高橋徹の二人だろう。レーシングカーに乗って いきなりトップグループのタイムを叩き出したのは 二人以外 知らない。でも二人とも マシンとともにいなくなった・・・・。徹と最後に会ったのは 1983年10月6日 鈴鹿のピット屋上。 シルバーカップを見に来ていた彼と会い、「グランプリのとき、また食事にでも・・」と言うと「そうだね・・・うん。」と答えてくれて、それっきりとなって、まさか・・・。(撮影:1982年7月4日 鈴鹿サーキット ゴールデントロフィーFJ1600決勝3コーナー<現:2コーナー>3位になる)
2007.04.13
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