私の場所


まんまるになる。だんごむしみたいに、小さく、まあるく。
わたしの全部がわたしだけのものになる。
わたしの中のどこかわからない場所から、だいじょうぶって声がする。
こんな感じが、とても好き。
きっと、だんごむしも、そうなんだと思う。

風が冷たくなってきた。
わたしはゆっくり立ち上がると、非常階段の、さびついた手すりに、つかまった。

いつのまにか雨は上がっていて灰色だった空は紺色に星の模様をつけている。

夜が来るたび、心の中で、
うれしい気持ちと、がっかりな気持ち、
反対同士の気持ちが二つ、もぞもぞと動き出す。

夜はきれい。夜は素敵。
だけど夜は一人で外にいられない。
帰らなければいけない。

わたしは帰る場所を二つ決められているけれど
どちらも、わたしの場所じゃなくて、わたし以外の人たちの場所だと思う。

わたしはわたしの場所を知らない。
どこにもないのか見つけていないだけなのか、わからないけれど、
とにかく、わたしはわたしの場所を知らない。
知っているのは、わたし以外の人たちの場所と誰のものでもない場所。

誰のものでもない場所にいるのが好き。
とりわけ、誰もが欲しがらない捨てられた場所が好き。
わたしを傷つけるものや邪魔をするものが一つもないから泣かなくていい。

この非常階段は、そんな場所。

のぼり口のところに、
ぐるぐるに巻かれた太いくさりと白いペンキにまだらに浮かぶ茶色いさび模様。

階段の一段目に足をかける時にはいつも、
首が長くてどこか悲しげな目をした動物を思い出して心がちょっとあたたかくなる。

わたしは、あの動物の名前を上手に発音できない。
どうしてかわからないけれど、くちびるの右側がひきつって、
音も顔も、変なふうになってしまう。
きもちわるいって笑われて口に出すのをやめた。
好きな動物は何?って聞かれても何も答えないわたしに、
みんな、つまらなそうな顔をする。
わたしもつまらない。
ほんとはあの動物が好き。一番に好き。

はきだした白い息が大きな夜の中に飲み込まれてく。

帰らなきゃ。
帰りたくないけど帰らなきゃ。
わたしは、のろのろと、
広げていた指人形をポケットにしまって、おしりをぱたぱた叩いて、
それから、一歩ずつ階段をおりていく。

「みゃあ」
みゃあ?




夢を見た。
あれは六才の私だ。
病院に住んでいた頃の。

冷たさ温かさ、匂い、いろんなものが、気持ち悪いほどに鮮やかな夢だった。
暗闇の中で目覚めた時はいつだって
しばらくの間、現実感が揺らいでいるけれど、今日のは特にひどい。
隣で静かに眠る彼の体温や匂いをかき集めて、ようやく、ほっとした。
大丈夫、私はちゃんとここにいる。

それにしても人間の記憶っておかしなものだ。
夢に見るまで、あの頃のことなんてすっかり忘れていた。

母が勤めていた病院の職員寮で親子二人の生活をしていたことも、
その病院の非常階段に、こっそり入り込んで一人遊びをしていたことも、何もかも。

わざわざ手繰り寄せたいような素敵な日々ではなかったものね。
ほったらかしの記憶なんて
押入れの一番奥に入ってる段ボールみたいなものなのだろう。
私は小さく笑って数時間後の未来に気持ちを飛ばした。

朝が来れば
彼も子供たちもみんな目を覚まし、家中に幸せの匂いや色や音が溢れ出す。

ここは私の場所。確かな、私の場所。









BGM   oasis "falling down" 


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