アメリカの支配層がソ連消滅後に始めた旧ソ連圏での侵略戦争はウクライナで大きな山場を迎えている。この戦争におけるアメリカ/NATOの敗北が決定的な状況になっているのだ。
1990年代、西側の有力メディアはビル・クリントン政権に対して軍事力の行使を要求したが、当初は動かなかった。1997年に国務長官がウォーレン・クリストファーからマデリーン・オルブライトへ交代すると侵略戦争へ向かって動き始めている。
オルブライトは1998年秋にユーゴスラビア空爆を支持すると表明、99年3月から6月にかけてアメリカが主導するNATO軍はユーゴスラビアへの空爆を実施した。4月にはスロボダン・ミロシェビッチの自宅、また5月には中国大使館がそれぞれ爆撃されている。ソ連が消滅、「唯一の超大国」になったアメリカの行動を止められる国は存在しないという傲慢さのなせる業だと言えるだろう。
一方、旧ソ連圏ではウクライナで2004年から05年にかけて新自由主義の手先を大統領に据えるために「オレンジ革命」を実行され、元ウクライナ国立銀行総裁のビクトル・ユシチェンコが大統領に選ばれた。この「革命」を指揮していたのはアメリカ政府で、現地の拠点はアメリカ大使館だ。
しかし、ユシチェンコの新自由主義は米英の巨大資本やその手先であるウクライナ人に富を集中させ、大多数の庶民を貧困化させた。ウクライナは石油会社や穀物メジャー、それらを支配する金融資本に蝕まれていく。それに反発したウクライナの有権者は2010年に実施された選挙でビクトル・ヤヌコビッチを選んだ。オレンジ革命で西側支配層が排除した政治家だ。このヤヌコビッチを再び排除するために仕掛けられたのが2013年11月から14年2月にかけてのクーデターにほかならない。
アメリカを戦争へと導いてきたシオニストのネオコンは、アメリカが軍事力を行使してもソ連/ロシアは対応できないと1990年代から信じていたが、2013年から14年にかけてのクーデターでもロシアは動かなかった。
そして始まった今回のウクライナにおける戦闘だが、西側に支援されたクーデター政権が反クーデター派が支配する東部のドンバスへ大規模な軍事攻勢を始めようとした矢先、2022年2月24日にロシア軍はウクライナに対するミサイル攻撃を開始、ドンバス周辺に集まっていたウクライナ軍を壊滅させてしまった。その際、アメリカの国防総省がウクライナに建設していた生物化学兵器の研究開発施設も破壊、機密文書を回収している。ここから始まるロシア軍による攻撃でアメリカ/NATOによるロシアを征服する計画は破綻した。
ネオコンが2003年3月に始めた中東での侵略戦争も彼らの想定通りには進まず、アメリカの「同盟国」だったサウジアラビアがイランやロシアに接近している。2020年1月3日にはサウジアラビア政府に対するイラン政府の返書と携えてイラクのバグダッド国際空港へ到着したイスラム革命防衛隊の「コッズ軍」を指揮していたガーセム・ソレイマーニーをアメリカ政府はイスラエルの協力を得て暗殺したが、それで流れを変えることはできなかった。 サウジアラビア、イランは中国の仲介で国交正常化で合意、2023年3月10日にサウジアラビア、イラン、中国は北京で共同声明を発表している。
その中東では現在、アメリカやイギリスの軍事支援を受けたイスラエル軍がガザでパレスチナ住民を虐殺している。イギリスからキプロスを経由してイスラエルへつながる兵站線が存在、それにはアメリカも関係している。アメリカやイギリスがその気になれば虐殺はすぐに止まる。
イスラエルの「建国」が宣言されたのは1948年5月14日。アラブ系住民が住んでいた場所に新たな「国」を作るため、その先住民を排除するため、シオニストは1948年の4月上旬に「ダーレット作戦」を開始、ハガナから生まれたテロ組織のイルグンとスターン・ギャングはデイル・ヤシンという村を襲撃、住民を虐殺した。
襲撃の直後に村へ入った国際赤十字の人物によると、住民254名が殺され、そのうち145名が女性で、そのうち35名は妊婦だった。イギリスの高等弁務官、アラン・カニンガムはパレスチナに駐留していたイギリス軍のゴードン・マクミラン司令官に殺戮を止めさせるように命じたが、拒否されている。(Alan Hart, “Zionism Volume One”, World Focus Publishing, 2005)
こうした虐殺に怯えた少なからぬ住民は逃げ出した。約140万人いたアラブ系住民のうち、5月だけで42万人以上がガザやトランスヨルダン(現在のヨルダン)へ移住、その後1年間で難民は71万から73万人に達したと見られている。国連は1948年12月11日、パレスチナ難民の帰還を認めた194号決議を採択したが、現在に至るまで実現されていない。
その間、1948年5月20日に国連はフォルケ・ベルナドットをパレスチナ問題の調停者に任命した。彼は6月11日から始まる30日間の停戦を実現したものの、7月8日に戦闘が再開され、9月17日にはスターン・ギャングのメンバーに暗殺された。
イスラエルをパレスチナに「建国」する計画は19世紀から始まっている。ロシア嫌いで有名なベンジャミン・ディズレーリは1868年2月から12月、74年2月から80年4月まで首相を務めているが、その間、75年にスエズ運河運河を買収している。買収資金を提供したのは反ロシアのライオネル・ド・ロスチャイルドだった。(Laurent Guyenot, “From Yahweh To Zion,” Sifting and Winnowing, 2018)
1880年代に入るとエドモンド・ジェームズ・ド・ロスチャイルドはテル・アビブを中心にパレスチナの土地を買い上げ、ユダヤ人入植者へ資金を提供しはじめた。この富豪はエドモンド・アドルフ・ド・ロスチャイルドの祖父にあたる。
ロスチャイルド家を含むイギリスの支配層は金融資本であり、シティを拠点にしている。その金融資本の手足として活動してきたのがイギリスの情報機関MI6にほかならない。このMI6をモデルにして創設されたOSS/CIAは事実上、ウォール街の機関だ。MI6は19世紀からロシア支配層の内部にネットワークを築いていたが、そのキーパーソンは有力貴族のフェリックス・ユスポフだ。
ユスポフを中心とする貴族グループは資本家と手を組み、ドイツとの戦争を推進しようとする。それに反対したのが大土地所有者や皇后を後ろ盾とするグレゴリー・ラスプーチンという修道士である。
戦争反対の皇后は戦争回避の方策を相談するため、1916年7月13日にラスプーチンへ電報を打つのだが、それを受け取った直後に彼は見知らぬ女性に腹部を刺されて入院してしまう。8月17日に退院するが、その前にロシアは参戦していた。
しかし、参戦してもラスプーチンが復活すれば戦争を辞める可能性がある。そうした中、1916年12月16日にラスプーチンは暗殺された。川から引き上げられた死体には3発の銃弾を撃ち込まれ、最初の銃弾は胸の左側に命中、腹部と肝臓を貫いていた。2発目は背中の右側から腎臓を通過。3発目は前頭部に命中、これが致命傷になった。暗殺したのはフェリックス・ユスポフだとされているが、止めの銃弾を打ち込んだ銃弾はイギリスの軍用拳銃で使われていたものだ。
暗殺現場にはイギリス外務省が送り込んだMI6のチームがいた。中心はサミュエル・ホーアー中佐で、ステファン・アリーとオズワルド・レイナーが中心的な役割を果たしていた。
アリーの父親はロシアの有力貴族だったユスポフ家と親しく、アリー自身はモスクワにあったユスポフの宮殿で生まれたと言われ、レイナーはオックスフォード大学時代からユスポフと親密な関係にあった。
臨時革命政府はドイツとの戦争を継続、両面作戦を嫌ったドイツは即時停戦を主張していたウラジミル・レーニンに目をつけた。そこでドイツ政府は国外に亡命していたボルシェビキの指導者32名を1917年4月に「封印列車」でロシアへ運んだのである。その後、紆余曲折を経て十月革命でボルシェビキ政権が誕生、ドイツとの戦争を止めることになる。そこでソ連とドイツはナチスが台頭するまで関係は良かった。
MI6を動かしていたイギリスの支配層の中心にはセシル・ローズの人脈が存在していた。ローズのスポンサーだったナサニエル・ド・ロスチャイルドはライオネル・ド・ロスチャイルドの甥にあたり、NMロスチャイルド&サンズを経営していた。ローズはNMロスチャイルド&サンの融資を受け、ダイヤモンドや金が発見されていた南部アフリカへ1870年に移住、財を成した。
1890年にケープ植民地の首相となったローズは96年にレアンダー・ジェイムソンを使ってトランスバールへの侵略戦争を始めたが、失敗。ローズは失脚し、イングランドのサウスハンプトンに戻ってナサニエル・ロスチャイルドと会い、ジョセフ・チェンバレンからのメッセージを渡した。このチェンバレンが侵攻作戦を秘密裏に承認した人物だといわれている。ロスチャイルドはウィリアム・ステッド、レジナルド・ブレット(エシャー卿)、そしてアルフレッド・ミルナー(ミルナー卿)と緊急会談を開いて対策を練った。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)
ロスチャイルド、ステッド、ブレット、ミルナーのほかサリスバリー卿(ロバート・ガスコン-セシル)、ローズベリー卿(アーチボルド・プリムローズ)らへローズは1890年、アングロ・サクソンを中心とする世界支配のアイデアを説明している。
ローズはアングロ・サクソンを最も高貴な人種だと考えていた。彼は1877年6月にフリーメーソンへ入会するが、その直後に『信仰告白』を書き、その中でアングロ・サクソンが住む地域が広がれば広がるほど良いと主張している。領土を拡大して大英帝国を繁栄させることは自分たちの義務であり、領土の拡大はアングロ・サクソンが増えることを意味するというのだ。(Cecil Rhodes, “Confession of Faith,” 1877)
こうした考え方は当時のイギリスでは珍しくなかったようで、A・コナン・ドイルはシャーロック・ホームズ・シリーズのひとつである『独身の貴族』で、「われわれ子どもたちがいつの日かユニオン・ジャックと星条旗とを四つに区切って組み合わせた旗のもと、同じ世界国家の市民になることを妨げるものではない」とホームズに言わせている。
ローズの後、イギリスの支配グループを率いたのはアルフレッド・ミルナー。この人物はRIIA(王立国際問題研究所、通称チャタム・ハウス)を創設した人物としても有名で、「ミルナー幼稚園」や「円卓グループ」も彼を中心に組織されたという。(Carroll Quigley, “The Anglo-American Establishment”, Books in Focus, 1981)
イスラエルの「建国」にもこの人脈が関係している。1917年11月2日、イギリス外相だったアーサー・バルフォアはウォルター・ロスチャイルドへ書簡を送るが、この書簡が大きな意味を持つ。その後、先住のアラブ系住民(パレスチナ人)を弾圧する一方でユダヤ人の入植を進めた。
同じ人脈は19世紀に東アジア侵略も開始している。その手始めが中国(清)を狙ったアヘン戦争だが、海戦で勝っただけで内陸部を支配できない。そうした時に始まったのが日本に対する工作だ。イギリスは長州や薩摩を支援して徳川体制を倒し、「天皇制官僚体制」というカルト国家を建設することに成功した。明治体制下の日本はイギリスやアメリカの代理人として東アジア侵略を始めている。当初、最も大きな影響力を持っていたのはシティだったが、関東大震災以降はウォール街の影響が強くなった。
アングロ・サクソンの戦略は19世紀からロシア、パレスチナ、東アジアをひとつのものとしている。