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の~んびり遠州日記
咸臨丸の航海・生涯
咸臨丸の航海・生涯のページへようこそ!史実と想像の世界で咸臨丸を追いかけてみよう♪
1.★★★咸臨丸の船出★★★
安政七年(1860)2月10日 咸臨丸は日米修好通商条約批准のため咸臨丸は品川を出航した。
提督:軍艦奉行木村攝津守
喜穀
よしたけ
艦長(頭取)勝海舟以下
士官17名、水夫・従者を含め総勢96人が乗り組み、サンフランシスコまで
38日間の航海に出た。うち34日は荒天だったらしい。
航海前の人選からドタバタ続きで、やっと決まった艦長の海舟は
航海中も大変だった。
海舟は大揺れする咸臨丸にひどく船酔いし不機嫌を極め、
乗組員は彼の我儘(?)を抑えるのに苦労した。
機関方の岡田
井蔵
せいぞう
(人斬り以蔵じゃないよ)
は釜の炊き方が悪いといって怒られるし、運用方の佐々倉桐太郎には
操舵が下手だから船酔する・・・とまあ、まわり中にあたり散らした
[咸臨丸模型]
と
[勝海舟の肖像]
この様子を19歳(最年少)で乗組んだ士官の赤松大三郎は回顧談の中で
・・・
米国の測量船長ジョン・ブルックに監督かたがた咸臨丸に乗り込んで
貰おうという話があった時、日本の海軍士官は承知しない。
日本人だけで航海いうる自身があるのだから、便乗者として乗るなら仕方ないが
監督などご免こおむりたいという訳で、ついに便乗者の名義で載せて行った。
ところが、太平洋に乗り出してみると、暴風雨や大浪やらの為に、日本の
水夫は途中で弱ってしまって、ついには行くのは嫌だ、日本へ帰りたいなどと
まるでコロンブスのアメリカ発見の話にでもあるような騒ぎになり
そうになったが、その時には、この便乗者のアメリカ水夫が大変役に立った
・・・と記している
海舟は機関室に乗り込んできて機関方の岡田に
「お前さん、海が荒れてるんだよ。もっと釜の温度をあげて船を早く進めるんだよ
お前さんの釜の炊き方がこう悪くっちゃ私しゃ江戸へ帰るしかないね。
まったく何を勉強してきたんだい」などとまくしたてて、デッキへ登って行った
そこには、運用方の佐々倉が懸命に帆を操っていたが、その佐々倉には
操舵が下手だから船酔する・・・とまあ、まわり中にあたり散らした。
その後は自室に閉じこもったまま、艦長らしい仕事もせず
江戸へ帰る。早く船を戻せとわめきながら殆ど何もしなかった。
一方、軍艦奉行木村攝津守
喜穀
よしたけ
の従者福沢諭吉は
「航海中はいっさいブルックの助力は借りず、測量するにも日本人が測量し
彼の測量したものと見合わせるだけの話で、アメリカ人に少しでも助けは
借りなかった」・・・と自伝に残してている
咸臨丸はオランダで建造されたスクーナー・コルベット型小軍艦
1857(安政四年)進水 長さ50m 幅7.3 100馬力 300トン 6ノット
2.★★★アメリカ上陸へ★★★
福沢諭吉は海舟について、航海中自室に閉じこもったまま何もせず
上陸目前になって「俺が艦長だ」といわんばかりの態度に嫌気がさしたという
海舟は海舟で、上陸直前になって勝家の家紋をあしらった軍旗を取り出して
これを艦旗として掲揚しようとしたが水夫がブルックに告げ、木村攝津守
喜穀
よしたけ
が
これを中止させたという
こんな事があってかどうか、海舟と輸吉は生涯仲が悪かったようである
海舟について多少の言い訳けをすると、出航前から風邪気味で体調が
良くなかったらしい
ここのところを海舟に言わせると「おいらにゃ艦長という役目がある
艦長なしで船が動く訳がない。布団の中で犬死にするより
軍艦の中で死んだ方がましさ」・・・と
いかにも海舟らしいホラを吹きながら咸臨丸に乗り込んでいた
このようなドタバタ続きの末一行はついにサンフランシスコに上陸した
港で一行は大変な歓迎を受けた
羽織袴姿で腰に刀を差した小柄な東洋人が珍しかったのでしょう
なかでも小柄な海舟は背伸びをするようにして群集に手を振った
そして、ホテルの玄関脇から乗り込んだ小さな動く箱に仰天してしまった
「おう、背筋がスーとする」船酔いとは違った妙な感触であった
現在のエレベータである
その小さな動く箱はおかまいなしにどんどん上昇していった
さらに驚いたのは扉が開くと、そこは大きなロビーになっていた
一行はここで、初めて味わうワインを堪能し船旅の疲れえを癒した
この航海の裏話は広くは認知されていないようです
私たちが教わった授業では少なくとも・・・
この航海のおかげで咸臨丸も一躍有名になった
そして 咸臨丸の後の運命は・・・
[咸臨丸航海図]
[勝海舟の額]
暢思:心を和して思う
3.★★★咸臨丸の運命★★★
太平洋の荒波を乗り越え無事役目を終えた
咸臨丸はその後どうしたのだろう・・・
慶応二年(1866)八月十九日 北海道開拓のため 榎本武揚率いる艦隊の
一員として箱館を目指した なにしろ、長さ五十メートル 幅七メートル強の
小さな軍艦 それでいて太平洋を往復した咸臨丸は損傷が激しいため
蒸気機関を外され純帆船となり回天丸に曳航されていた
海舟はこの事に落胆し
「小なりとはいえ、軍艦に違いねえ なんてこった」・・・と
この頃になると大きな軍艦が建造、購入されていた時期なので
仕方なかったのでしょう
※この年は
竜馬っちゃ!
が伏見奉行所の捕手に襲撃され危うく
命を落とすところを、お龍が助けた年でもありました
ところが 途中房総沖で嵐に遭い、漂流しながら九月二日駿河の
清水港に入港した
咸臨丸は九月十八日 官軍の富士山丸や武蔵丸、飛竜丸などの攻撃を受けた
白旗をあげて降伏しようとしたが願い届かず多くの乗組員が殺害された
この様子を傍らで見ていた威勢のいい若者が・・・
「官軍さまだか何様だか知らねえが連中白い旗をあげてんじゃねえか。
見えねえのかよ」
そこへ飛び出したのは、着物のすそを絡げた森の石松だった
「まあ待て、石松」
「こいつあ~ 性根は良いんですが、滅法喧嘩はやくて」
小政が仲裁にはいり事なきを得た
世はまさに江戸城焼き討ちを狙う官軍が勢いを増していた時代
少し間違うと次郎長一家も壊滅するところだった・・・
官軍が去ったあとの湾内には幕府軍戦死者の遺体が浮遊していた
地元の漁師たちは「親方 なんとかならねえだか このままじゃ
漁にも出られねえ」
そういって次郎長親分に泣きついた
腕組みし 目を閉じていた次郎長は やがて「おい 若い者を呼べ」
そう言って遺体を引き上げさせ 咎めも恐れず丁重に葬らせた
ところが 駿府藩庁はこれを黙認する訳にはいかない
即位した明治天皇が江戸へ向け九月二十日に京都を発っていた
警備上 徳川色の強いこの地域は危険視されており
次郎長の行動を許す訳にはいかない
詰め寄る訊問官に「死ねば仏だ 仏に官軍も賊軍もあるものか」
そういってはきすてた
これを聞いた藩幹事役の山岡鉄舟は強い感銘をうけ
次郎長が墓石を建てようとした時 鉄舟は「壮士墓」と墓碑名を書いた
※新撰組隊長の近藤勇が下総流山で斬首され
会津では白虎隊の少年ニ十人が自刃したのも この前後です
当の咸臨丸は1869(明治二年)北海道開拓使に交付され、その後廻送業の
木村萬平に渡り北海道の物資輸送で活躍した
1871(明治四年)九月十九日 小樽に向かう途中で座礁し翌二十日破砕さた
こうして咸臨丸は十五年の生涯を閉じた
=完=
=参考文献:日本の歴史(中央公論社)清水次郎長と明治維新(新人物往来社)等=
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