さつきのママの部屋 ~一緒に子育てしませんか?~

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長男への思い~中学受験を振返って



某産婦人科で、長男を授かったことを知った。
まだ米粒くらいの大きさであったが、私みたいな頼りないものが
母親になっていいのだろうか?と体が震えた。
帰ってすぐ、めずらしく休みがとれて家にいた夫に
「お父さんよ」と声をかけた。
二人で「ちらし寿司」で乾杯。
だがこの時はまだ出産までの大変さは知らなかった。

平成3年1月11日

出血。「赤ちゃん駄目かもしれない」そう思った。
この日から切迫流産で入退院を繰り返した。

平成3年7月19日

少しお腹が痛いけど大丈夫と9ヶ月診断へ向かった。
院長先生「無理した?子宮口が開いているわよ。」
     病院を紹介するからそちらに入院してね。」

私    「・・・・・」

紹介された病院は,技術は確かだけど大阪でも古い病院で汚い。
ホテルの部屋のようなこの産婦人科で
出産をしようと思っていた私にとってギャップは大きかった。
それから約一ヶ月24時間点滴生活が始まった。
トイレに行くのも点滴を下げて。誰かが「犬の散歩」と言った。
暑い時だったのでお風呂に入れないのが辛い。
クーラーが止まる夜は扇風機をかけても効き目は無かった。

平成3年8月14日

夜9時過ぎ、テレビを見ていて思いっきり笑って破水・・・
陣痛が始まる。「何?この恐ろしい痛みは」と覚悟はしていたけど思った。
分娩室へ。もともと子宮口が開いていたので3時間ほどで
元気な産声をあげてくれた。時に12時05分
小さめだった息子は軽くて頼りなげで壊れそうだった。

入院中、毎日来てくれた実家の母や夫に感謝の心で一杯だった。
体の弱い母はお腹がすくからと「おにぎり」を作って持って来てくれた
ある国家試験直前だった夫は本当に大変だったろう。

元気に育って欲しい。皆の愛情を一杯受け、息子は元気に育った。
突発性発疹や軽い風邪くらいで大病はしたことがない。

幼稚園に入園し、年長になって、5月
彼にとって哀しみが待っていた。妹が亡くなったのだ。
「僕お兄ちゃんになりたい。」そういい続けて来た長男
どれほどショックだったろうか。
まだ年長児の長男は妹の為に貯金箱を入れてあげたという。
もし、この子がいなかったら、私はどうなっていただろう。
健気な長男が私を支えてくれたのである。

色んなことをしてくれて悩んだ小学校の低学年だったが
高学年になって進路の事を考えはじめた。
公立中学校の雰囲気や環境の悪さに不安を感じた私達は
私立中学校への進学を決めた。
舅も賛成してくれた。
近所のK塾に入れたが、校区が違い、問題があったので
進学塾Wに入れた、絶対に合格する、願いを込めて私はこの塾を選んだ。
中学受験は高校受験は大学受験とは違っている。
遊びたい盛りの元気な男の子が学校以外でも拘束される。
周囲はのんびりしたムード。皆が遊んでいる時も自分は塾通い。
日、祝日はもちろん、夏休みも冬休みも、正月も関係なかった。
体をこわさないか本当に心配しない日は無かった。
でもこの子は私達の子、根はあげないと信じていた。
自分との戦いに彼は勝ったのだ。

適度にゲームをして、息抜きをしていた息子でよかったと思っている。
青白い受験生も何人かいたね。と息子と話した時。
「途中で帰った子もいたよ。そんなんが一番損や。」そう言っていた。
6年先、今度はどうしているだろうか?
大学を目指しているか、就職しているか解からない。
今は、いつどうなるか解からない時代

自分の道を全力を尽くして歩いてほしい。
私達、親は見守る事しか出来ない。
その為にも私自身も頑張ろうと思う。




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