きよの世界(アメリカ大学院留学編)

きよの世界(アメリカ大学院留学編)

自分を幸せにするもの(続)「事故後」



それからもっと真剣にキリスト教のことを学びたいと思って、日本語の礼拝のあるBethany Churchすなわち今僕が行っている教会に行くようになりました。やっぱり英語じゃなかなか宗教を理解するのは難しいので。そしていろいろなことを学び、いろいろな人に出会い話をしました。そのときイエス・キリストの存在の意味を知りました。人間は罪の塊であって、どうがんばっても罪を犯してしまう存在であること、その甘ったれた人間のために神様が自分自身の身代わり、つまりイエス・キリストをこの世に送ってくれて、人間の罪を背負って死んでくれたこと。

このことの意味を自分なりに考えたとき、これはすごい宗教だなと感じました。ついつい悪いことをしてしまう自分の性格にたいする悩みもこれのおかげで解放されました。事故で危なく死に掛けたけどやっぱり自分はもっと生きていてかまわないし、それを神様も望んでいるんだと思った。そしてキリスト教の死を恐れない精神も学びました。キリスト教において死ぬということは、この世からの脱落というよりも、天国で幸せにいきるためのプロセスであって、よく神に召されたというのもこの考えのためです。事故にあって死ぬほど恐い目にあった僕には本当に大事な考えです。日ごろの行いが悪くて罰が当たったのかとも思いましたが、そんなことは神様はいつも許してくれるし、僕のことを愛してくれるんだということも学んだ。高校の時こんな話を聞いて、なんて調子のいい話なんだ、と感じたけれど、実際に自分はいつ死んでもおかしくない、ということにきがついたとき、これほどありがたい話は無いと思いました。そしてこれは非現実的な誰かが作り上げた虚像なんじゃなく、実に今自分自身に関わることなんだと思わされました。

とにかくうまく説明できないですけど、僕は神の存在を信じるということが自分の生活にどれだけの安心を与えてくれるかを少しわかりました。これからももっと勉強するにつれて自分の信じてる存在の素晴らしさを学んでいくことは間違いないと信じています。世の中には証明できるものと信じるものとがあることも学びました。悔しいですけど神の存在を証明できることは僕にはできません。でも確かに神様に愛されていることは感じます。そしてその自分の感覚を素直に本物であると「信じる」ことができます。神様は事故という形で僕に近づいてきて、神のふか~い愛を僕に示してくれました。他の人にはまた他の形で神様は近づいてくるんだと思います。だからそのとき意地をはらずに、心を開いて、神にちょっとでも近づいてみる努力をすると、また新たな生活への扉が開かれるのではないだろうかと思います。最初は信じることができなくても少しずつこのキリスト教の信頼性といものを見出すことができると僕は信じています。僕にとってはそれほどに聖書とはしっかりしたもので神とは確かな存在です。別に僕の周りの人がキリスト教のことを怪しげなものと思って煙たがっても僕は構いません。いつか神様はその人たちをも導いてくれると信じているからです。

たぶん僕がここで言ってる事も、単純に宗教を信じた馬鹿者のたわごとに聞こえるでしょうが、一度気持ちをオープンにしてみると全然違った見方・考え方ができるものです。それは宗教だけでなく全ての物事に関して当たっているのではないでしょうか?僕みたいに事故って教会にきはじめる人もいれば、ひょんなことから行き始める人などいろいろです。聖書の理解の仕方もひとりひとりばらばらで、多様性があるところがまたキリスト教の素晴らしさであると思います。ま、長くなりましたが、僕の人生を満ち足りたものにしてくれる存在とは、神様のでっかい愛であると僕は思います。そうは言っても、まだまだイエス・キリストの十字架による死の自分なりの意味をはっきりとは理解していないから、洗礼(自分がクリスチャンであると公に宣言すること)はまだ受けてないんだけどね。とりあえず一生懸命生きて少しでも多く聖書のことを学んでみます。みなさんも自分の生活を満ち足りたものにしてくれる存在を自分なりに探してみるといいと思います。

2004年

事故時の写真が次のページに載せてあります。


© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: