きよの世界(アメリカ大学院留学編)

きよの世界(アメリカ大学院留学編)

4年が過ぎ去って


茨城のカシマスタジアムに12日間泊まりこみでいった。
宿泊施設はなんとどこぞの体育館。シャワーはついていたけどあれはひどかった。
そこに何百枚もの布団があった。
正直あんときは家に帰りたいと毎日思ったものだ。
朝8時だか7時だかに起きて午前9時から午後9時まで仕事。
そして体育館に帰って寝る。
まじでそれだけだった。
でも友達もできて楽しかったな。
日立出身のほんわりした後藤真希似のボランティアの女の子に会えたのも思い出深い。

そんな前回のワールドカップからなんともう4年も経ってしまった。
俺がアメリカに上陸したのは日韓ワールドカップのすぐ次の月の7月12日だったかな。
アメリカに2年目くらいのときは、早く4、5年こっちに滞在してアメリカ留学のベテランになりたいなどと思っていたけれど、
きがついたら本当に4年も経ってしまった。
なんとあと1ヶ月とちょっとで留学生活5年目に入るのだ。
こっちにくる前の自分からは全く想像もできないようなことだ。
アメリカ嫌い、英語も嫌いだったのにね。
留学案内なんてのが着たときも
けっ、留学なんてくだらん、と思って捨てていたものだ。

留学することを考え始めたのは実は些細なことからだった。
大学受験勉強中の1月だか2月くらいだったかな。
数人のクラスメートと放課後、将来のことだか
日本の将来のことだかに関して話していたのだ。
そこで留学の話がでた。
外の世界に行ってもっと視野を広げてみるのも悪くないよな~とか
そんなことを通してすげ~大物になれるかもな~とか
そんなことだったかな。
他の人たちはまあそこで話す程度で終わったんだけど
そんときから俺は真剣にアメリカに留学することを考え始めたんだ。

最初はドイツ留学なんてのもかっこいいかもと思っていた。
ドイツといえばいい車はあるし、親父はひげ剃りはドイツ製じゃ!みたいなこと言ってたし
物理学者とかでも有名なやつは何人かいるし
とにかくなんとなく科学技術が発達していると思っていたからだ。
今になって考えると科学技術が最も発達している国は実は日本だったんだけれどね。
でも結局アメリカにした。
だってドイツ語しゃべれてもねえ。
英語喋れたら世界で通用するし。
将来ノーベル賞もらったら英語でコメントしなくちゃいけないかもしれないし。
そういえば当時はノーベル賞なんて俺にとって通過点だぜなんて偉そうなこと言っていたような記憶があるな~。

で、確か実際に留学に関して調べ始めたのは
私立大学の受験の日だったかな。
慶応だったか早稲田だったか。
受験して、こりゃだめだ、絶対受からん、とか思った記憶がある。
帰りに立川のオリオン書房とかいう駅ビルに入ってる本屋で
TOEFLのこと調べたり留学手引きみたいな本を立ち読みした。
読んでいて感じたのが、けっこう遠い世界の話ではないんだなというものだった。

俺は受験勉強しながらずっと思っていたことがある。
このままみんなと同じように大学行っていいのかと。
そのときは物理専攻だったけど、そこまで物理が好きだったわけでもない。
ただなんとなく面白そうだからとりあえずこれでいってみるか、程度だった。
だから正直必死に勉強して大学に行く意味が見いだせずにいて
そのせいで冬休み明けくらいから一気に勉強する意欲を失ったと思う。
俺は夏休み応援団という体育祭のイベントに燃えていてほとんど勉強せずにいた。
だから秋から必死に勉強して遅れを取り戻さなくはいけなかったんだけれど
大学に行きたい強い理由がなかったからその遅れを取り戻すほどに一所懸命になるのはただの苦痛でしかなかった。
しかも自分の高校は進学校だからどいつもこいつも早稲田とか慶応を受けるしで
俺も同じ流れでそういう有名な大学を受験するつもりでいたし
受かるつもりでいた。
まあもちろん俺の考えは甘かったわけだけど。

私立大学は確か慶応、早稲田、東京理科大を受験した。
実際に受かったのは東京理科大だけ。しかも補欠で。
高校受験のとき慶応の1次試験に合格したというしょうもないプライドがあったから
かなりがっかりしたのを覚えている。
第一志望は国立大学の東京工業大学だった。
国立大ではトップクラスに入るこの大学相手の時はさすがにもうだめだと思った。
前期試験受けているときに、数学がめっちゃ難しいと感じたのを覚えている。
一応後期も受けたけど、受け終わった瞬間に俺の東工大への夢は終わったと思った。
後期試験の帰りに本屋に行ってこの前立ち読みした留学のあれこれ的な本を1冊買った。
実は後期試験のちょっと前当たりからすでに留学するきでいたのだ。
(もちろん親はまだ知らない)
だから後期は、試験が難しいのと留学へのあこがれという思いが入り交じってやる気ゼロだった。
てか前期の試験受けてあまりに難しすぎてコテンパに叩きのめされたから
それでもう受験はいいやと思ったのかもしれない。

まあとにかく、日本の大学に行きたい気持ちゼロだったのと、一年間の浪人生活が嫌だった気持ちがあり、
そして何より人とは常に違った道を歩みたいと思っていたから
絶対留学して大物になってやると思ったわけだ。
今思えばただ受験勉強から逃げたいと思っていただけかもしれない。
そんなくだらん思いから始まった留学。

そんなわけでまず母親に相談して、それから親父に相談してめちゃくちゃ怒られ、
2時間の話し合い(というか半分喧嘩?)の末
親父のサポートを得ることができて
それからTOFLゼミナールという留学したい人のための塾に行くことになった。
ここでは主にTOEFLの勉強をした。

さらに母ちゃんの通う教会にいるTimという南カリフォルニア出身の人に出会い
英語を週2回教えてもらうことになった。
しかも無料で!
彼のおかげで俺はアメリカに来たときにはすでにある程度しゃべれたし
そこそこ英語というものに慣れていたのだと思う。
まあある程度と言ってもほんとださい英語だったけど
一応文章は作れたし会話するときも
まず頭の中で日本語つくってそれを英語に訳すみたいなことはしないですんだ。
おかげである程度スムーズな英語は喋れたと思う。(発音は除く)

そんな感じで勉強してバイトして一年ちょっと待って
ワールドカップの警備員をしてある程度がっつりお金を貯めて
そして2002年7月に渡米した。

今思えば大学受験に失敗したのが大きなきっかけだったかもしれない。
俺は基本的にテストというものが好きで
高校の試験も数学なんかはけっこう点数よかった。
だから大学受験もなんとかなるだろうと思っていたんだと思う。
そんなに大きな失敗知らずで生きてきた俺にとって
大学受験は大きな失敗だった。
それに自分のやる気のなさにもびっくりした。
軽く自分に裏切られた気分だった。
これが自分のしたいことを見つめ直すいい機会になったんだと思う。
俺がしたかったことは
いい大学に行くことじゃなかったし
英語をマスターして国際派の人間になることでもなかったし
ノーベル賞をとって有名になることでもなかった。
俺のしたかったことは、人と違う道を歩むことだった。
周りのほとんどが日本の大学に行くなら俺は外に出て行く。
そういうちょっとした世の流れに逆らうのが好きなんだ。
今でも周りの人と同じにならないようにきをつけている。
それでもやっぱり日本人として育った血は濃いみたいで
ついつい周囲ととけ込むことで落ち着いてしまうことがよくあるが
100人いたら2、3人空気が違うやつらの1人でいたいと思うのだ。

でも実際にサンタバーバラに来てみたら
他にも日本人の留学生が思っていた以上にたくさんいて
愕然としたことを覚えている。
なんだよ、けっこう留学て普通じゃん!と思った。
そう世の中にはけっこう留学する人がたくさんいるのだ。
せめて俺のできることと言ったらAをとり続けて
ちょっとは周りと違うかな~と自己満足に浸るくらいだった。

次に他の人と違うことをやる時はいつだろうかと思う。
物理で博士号とってから牧師になるために神学校にでも行ったら
今度こそかなり人と違うんじゃないのかな、などと
しょうもないことを思うのであった。

まあ違かろうがなんだろうが、もうすぐ留学生活4年目が終わりを迎えるのである。
だからなんとなく今年のワールドカップは感慨深いのである。
きっと俺はもう日本に「住む」ことはないのだろう。
アメリカに骨を埋めるなんて、とんでもないことを考えついてしまったものだ。
彼女は牧師の娘だし。
ま、違うということに関してはそれなりに満足だ。
みんなも個性を大事にしよう~。


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