うきよの月 0
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前の「青春」な日々の終わりにワタシこう書きました。*****それが終わったら、今度は仲忠くんの「結婚/新婚ものがたり」になります。仲忠くんと涼くんは同時に結婚することになります。それぞれにあった人を。と、同時期に仲忠くんが清原の土地で「先祖の蔵」を開けることによって、祖父・俊陰の日記を発見、その内容を帝に講読する――― すなわち、俊陰の物語をここで語ることになります。仲忠くんも「いぬ宮」という女の子のお父さんになってもうめろめろです。12.田鶴の群鳥/たづのむらどり 別名:沖つ白波/おきつしらなみ13.蔵開/くらびらき〔上〕14.蔵開〔中〕15.蔵開〔下〕*****で、実際の構成としては、この「蔵開」の中で、最初の「俊蔭」を入れたわけですよ。「俊陰」は、うつほ物語 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典【電子書籍】[ 室城 秀之 ]とか宇津保物語(俊蔭) [ 上坂信男 ]とか、平安貴族のシルクロード (角川選書) [ 山口博 ]とか、この物語の持つ「外国」の姿とか、空想的な部分とか合わせて、「そこだけで」語られることが多いざんす。というか、ともかく最初の3つは独立しすぎてるんですね。だから研究者の方々もいろーんな仮説を立てたり、順番で相当悩んだりしていたわけですが。でまあ、あくまで仲忠くん中心話を進めたかったので、これは「作中話」という形にしようと思ったわけです。そうすると、それを持ち出すのはやっぱり帝への講義の時だろーなー、と。そこで入れました。そこ以外は流れは古典のまんまです。足したとこはあります。・仲忠くんは基本現実的なので蔵にはカギがあるよなー、と考えて母上に聞いたこと。 →古典では不思議な力で()・今宮とけす宮の性格づけ・孫王の君そのあたりは引きつづきキャラづけしてます。けす宮は古典のほうだとただひたすらツンツンしてましてデレが全くないのもちょっとバランス悪かったので、……藤英は40歳で11だか12だかの少女のとこに婿入りしたわけです。逆玉……と今では言うでしょうが、当時では有り得る「優良な婿をもらっておく」結婚ですね。だけどこのひとクソ真面目な学者というキャラですので、妻に何かと説教するんですよ。で、妻としては何言ってんだ状態で聞いちゃいない。ちょっとそれだけじゃ、なーー、と。身分の差で妻が見下している、という描写かもしれなかったんですけどね。だって将来有望でも、やっぱり成り上がりに違いないので。でもそうすると今ひとつギスギスしてしまうし……まあ彼女の出番は殆どないので、ちょっと変更。身分関係で言うなら、女一の宮と仲忠くんの結婚も母女御は父親に不服顔してます。「やっぱり育ちが……」と。でまあ。このあとまだ本当に少ししかお気楽訳をしていないので、今度こそ書かねばなのです。更新はちまちまになりますー
2018.01.26
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その十二の六 女達は銘々の道へ、そして梨壺の君の退出 一方、その頃の一条殿には何とも言えない空気が漂っていた。 女三宮や中の君の殿移りの際には、兼雅が車をぴったりつけさせてそっと連れ出したおかげで、その当日には他の女性達も気付かなかった。 だが翌日からはもう大っぴらに女三宮や中の君の物を運び出すやら、部屋の掃除をするやら。残っていた女性達はそれを見て愕然としたのだ。 彼女達が残っていればこそ、兼雅が通う可能性もあり、そのついでに自分達も… という期待があった。だがこの二人が居なくなってしまっては。「ああもう駄目だわ」 一人はそう言って嘆く。「あの方々がいらしたからこそ、それでもここに住めたのに。もう何もかも駄目だわ。一体どうしたらいいの」 また一人、また一人、と嘆きが止まらない。そして嘆きは噂となってそれぞれの縁者へと伝わって行く。* 真言院の律師は、父の妹のために家を購入し「引っ越していらっしゃい」と招いた。 彼女はそれでもなかなか思い切れず、兼雅の出方を見ようと思って一条にしばらく留まっていた。 だが皇女や、宮の縁につながる人々は迎えても、自分達はもう無理だろう、とやがて彼女も気付いた。 彼女から同意の文を受け取ると、ある夜、律師は自ら車を出して迎えに行った。少ない身内である。できるだけ幸せになってもらいたい、と彼は思うのだった。 北の対に住んでいたのは正頼の大殿の上の妹に当たるひとだった。后の宮の御匣殿の異腹の妹でもある彼女は、仕えているうちに兼雅と知り合い、やがて引き取られ世話をされるようになっていた。 顧みられなくなった彼女に、きょうだい達は多少の非難めいた言葉を投げた。「だから、そんな大っぴらな仲にならずとも良かったじゃないですか」 それでも、別納を家にして移し、世話をすることは忘れない辺りが、やはりきょうだいであろう。 西の対に居た梅壺の更衣は、実家である宰相の中将の私邸に引き取られていった。 西の一の対に居たのは、皇女腹の宰相中将だったひとの娘だった。彼女には兄が居たので、そこに引き取られて行った。 仲頼の妹は仲忠が、二条の院のささやかな家に「しばらくの間」と言って住まわせることにした。 その様に女達が立ち去った後の一条殿は、ただ女三宮の家司達が集まり、管理のために家族と住むばかりだった。* やがて花盛りの頃、兼雅は仲忠を一条院に誘った。「一条は人の気配も無いだろうけど、女達がどんな風に住んでいたのか、その跡を見に行かないかい?」 仲忠も気にはなっていたので、あっさりとうなづいた。 まず北の御殿へと入ると、中の君が居た場所に彼女の手でこう書かれていた。「―――夫が通わなくなり、自分も去ろうとする宿なので、やはり名残惜しく涙を流すことよ」 次にに西の対の、梅壺の更衣の居た場所へ行くと、柱に歌が書き付けられている。「―――身近な雲井――― 宮中に落ち着いて奉仕すべきだったのに、風に吹かれる塵の様に惑った私は何という浅はかな女だろう」 彼女は院に仕えていたところを兼雅が無理矢理奪ってきた様なものだった。 そんな若い、浅はかだった頃の思い出を兼雅はしみじみを思い出す。 そしてまた同じ西の一の対を見ると、今度は宰相の君の手でこう書かれている。「―――この一条殿に久しい間夫を待って待ちくたびれて去ろうとするのに、その折りにすら訪ねても来ないのだろうか」 さすがに兼雅も女達の嘆きの声に「ああ可哀想に、一体皆何処へ行ってしまったのだ。どうにかしてこの返歌をしてやりたい」と思う。 次に東の二の対に入ってみると、やはり柱にこんな歌があった。「―――来ない人を待ちわびて(ここを去って行く)私が居なかったら、籬の竹よ、お前は誰を払うのだろう?」 同じ東の一の対にも柱に歌があった。仲頼の妹である。「―――(ここに居ればこそそれでも)訪れて姿を見せた宿だけら、またいつかはと頼みになっってしまったけど、私自身さえ知らない宿へ行ってしまったら、どんなに心細いことだろう」 兼雅はふとつぶやく。「これを書いたひとは一体何処に行ったのかな。母宮の元にはきっと居ないだろうに」 するとそれを聞きつけた仲忠がすかさず答える。「僕が二条の院に移しました。あそこもそのうたち増築されるはずだから、そこで女一宮が淋しくならない様に、話し相手にでもならないかと思ったので」「まだ若くて頼りない境遇のひとだから、色々困ることもあるだろうに」 兄は出家してしまっている。母宮の元にも居ない。そんな不安定な境遇を兼雅は心配する。「大丈夫です。僕が色々用意しました。友人の妹ですし、そのうち、我が家にとっても必要なひとになってもらうつもりですから、それ相応に」 そうか、と兼雅はしみじみとうなづく。そしてゆっくりと辺りを巡り歩く。「昔は女達がそれぞれに我も我もと様々に庭の花など凝らして住んでいたものを。今は花だけだな」 眺めているにたまらなくなった兼雅の目には涙がにじんでくる。「―――心ない花でさえ昔に変わらず美しい色に咲き出たのに、私を待っていると思った人達は皆居なくなってしまった」 すると仲忠がこう返す。「―――長年の間父君を待っていた女達をも遂に去らせてしまった程の宿ですから、春に咲く梅も不安に思うことでしょう」 さりげなく母のことを匂わせる。尚侍に対し、そんな仕打ちをこの父がする訳は無い。判ってはいるが、この光景を見た仲忠としては、やはり一本釘を刺しておきたい。「お前、こんな時にもきついよ」 涙目のまま、兼雅は息子に向かって言う。「仕方ないでしょう。自業自得です。皆それぞれの人生をこれからは歩んで行くんですから。父上もさあ」「さあ、何だい?」「とりあえずは修理するところとか、指図してくださいよ。持ち主のお役目でしょう?」 全くきつい息子だ、と兼雅は思う。それでも彼は最後にはきちんとその「役目」を果たしていった。* 兼雅は一条殿から戻ると、尚侍にため息まじりでこぼす。「ここ数年、一条のことは心に掛かっていたけど、女達が待っているだろうと思うと何となく気が重くて行けなかったんだ」 尚侍は黙って兼雅の話を聞く。このひとは決して強くない。いいひとだが、それが万人に対してのものではない。尚侍はそれを良く知っている。「それで人が居なくなったと聞いたので、今後の建物のことの管理のこともあるし、行ってきたんだ」「そうですか…… 如何でした? あなたから見たご様子は」「辛くなったよ」 そう言って兼雅は尚侍の膝に甘える。「ただただ色々屋がある広い家に、もう住む人も居なくて荒れ果ててしまってね。気配も音も無くて、ただもう草木ばかりが風にそよぐ音ばかり」 荒涼とした風景が尚侍の心の中にも浮かぶ。ああこれは。彼女はふと、自分が昔住んでいた場所を思い出す。京極。 そっと硯を引き寄せると、彼女はさらさらとこう書き付ける。「―――あなたを待ちあぐんで、私はいつも尾上の滝のような涙を流していました。それに比べあなたはその頃、一条に通って住み心地が良かったのでしょう」 ひらり、と彼女はその歌を夫に見せる。「自分のかつての身につまされて同情?」「私は嫌な女ですから、今こうやって『あの頃』とばかりに書けるということが幸福じゃないかと思いますのよ」 実際そうなのだ。 誰を迎えたにせよ、兼雅がずっと過ごすのはこの尚侍の所ばかりなのだ。 女三宮にはあえて贈り物などをする訳ではない。 かと言って冷淡にするという訳ではない。彼女はわざわざ贈り物などされなくとも裕福なのだ。 兼雅の屋敷内に居る、ということだけで、彼女の元には兼雅の家来が何かとあちこちの荘園から物が持ち込まれる。 また同腹の宮達からも、あちこち移り住みする彼女を心配し、何かと贈り物をして豊かな生活をさせている。「あれは生来のものだな」 兼雅はそう思う。自分が居なくとも彼女にはあれこれと世話をしてくれる人が居るのだ。そして彼女自身にもそうさせたくなる様な何ががあるのだ、と。 一方中の君は、と言えば女三宮の様に心配してくれる身内が誰も居ない。なので兼雅や尚侍は、贈り物があるとそれをいつも少しずつ中の君に分けてやる。 そして、兼雅はこの二人の元には夕方に出向くことはあっても泊まることはなかった。* 程なくして、梨壺の君が退出するという噂が立った。聞きつけた仲忠は早速父の元へと向かった。 だがその父は何やら難しい顔をしている。「なあ仲忠、梨壺が退出するらしいが、どうしたんだろう? 東宮の御寝所で奉仕するのが何よりもの勤めなのに。そう簡単に退出が許されるとは思わないのだが」 仲忠はきょとんとして首を傾げる。もしや父は知らないのだろうか。それとも深読みして? ともかく聞いてみる。「そんなこと無いですよ」「どうして」「この間、梨壺の君本人から聞きましたよ。元々、最近はちょくちょく東宮から召されている様だし」「……そうなのか?」「父上、本当に宮中の噂に疎くなりましたね」 強烈な一撃が仲忠から放たれる。おそらく兼雅自身は梨壺の妊娠自体は知っているだろう。だがそれが果たして本当に東宮の胤なのか疑っているのだ。「先日梨壺に挨拶に行った時、彼女自身から聞きましたよ。東宮様から『藤壺も妊娠している様だ』と言われた、と。『も』ですよ」「『も』か」「『も』ですよ。東宮様ご自身がご存じなんだもの。まさか父上、ご自分の可愛い娘が密通などしていた等と疑ってはいませんよね?」 ははは、と兼雅は力無く笑った。「別に疑ってはいないさ。ただ噂というものは怖いものだからね…… まあともかく、退出するというなら、車をやって迎えに行こうか」 はい、と仲忠はにっこり笑った。 車を整えさせながら兼雅はふと考え、そして頼りがいのある息子に問いかける。「あれの里内裏は一条だが、今は荒れ果てたあそこじゃさすがに可哀想だよね」「当然ですよ。そう、母君である女三宮も今は居られますから、ぜひ三条へ迎えた方がいいです」 よしよし、と兼雅は納得し、一条殿にあった調度などを女三宮の住む辺りの西面、西の対にかけて運ばせる。また女三宮にもその旨を伝え、迎える準備を頼む。 その結果、車が十二、先駆もあちらこちらからわらわらといつの間にか沢山現れる。女三宮の女房も二十人程入り、用意は万端となったところで。「どうして当の父上がお迎えに行かないんですか」 仲忠はむっとして問いかける。兼雅は参内のための服に着替えてもいない。「嫌だよ。だって色々と内裏の方でまた噂が立つだろう? お前も行かない方が」「何言ってるんですか!」 とうとう仲忠は怒鳴った。「女性というのは、しかるべき人がお供をすると、自然、立派に見えるものですよ。大体父上、その昔母上を連れてきた時のことを考えてみてくださいよ。父上だったから皆、落ちぶれた家の娘だった母上に関心を持った訳じゃないですか」「お前の母は違うよ。元々が素晴らしい人だから」「そんなのは、母上の姿を見られる父上や僕くらいしか判らないことでしょう? ああそう、女性達もかともかく世間を納得させるためにも」「何に納得?」「こっそり退出するなんて、噂を認める様なものじゃないですか。後ろめたい思いがあるから、と。僕と父上が重々しく迎えに来て、東宮様もそれをしっかり認めるという形を取れば、馬鹿馬鹿しい噂だってすっ飛ぶというものです」「すっ飛ぶ、ねえ…… けどこのこの間の正頼どのの一件、お前も覚えているだろう? 藤壺の御方の所へぞろぞろ引き連れて、東宮様に惜しまれるのはそれは名誉なことだが、結局勘気に触れて、いろいろややこしいことになったじゃないか……」「はいもう面倒だから皆、父上を参内するための格好に着替えさせてやって」 女房達が仲忠の言葉を合図に、兼雅に飛びかかった。*「おお、二人の大将が揃って参内か。梨壺の退出の迎えかな」 しぶる兼雅を仲忠が何とか引きずり出す様にして参内すると、東宮が上機嫌で梨壺へとやってきた。「左大将はまた、久々だな。今年は初めてではないか?」「恐れ入ります。最近は家に籠もってばかりおり、久しく内裏にも参上致しませんでした。突然、我が娘梨壺の君が退出すると聞き、こんな貧乏なので車のお供をする下郎も居ないだろうと私が車添になろうと思いまして」 まあ来てしまったものはどうしようも無い、と兼雅は立て板に水の如く、すらすらと口上を述べてみせる。 東宮は見事に笑ってみせ、機嫌良さげにこう言った。「ずいぶん豪華な車添を梨壺は持っているのだな。貧乏ではなく、とんでもない贅沢者だ。それにしても父や兄という近親を近衛の両大将に持って護衛してくれるなど、昔も今も無いことだ。ありがたいことだな、梨壺よ」 梨壺の君は東宮のその言葉にややはにかんだ様子を見せる。「しかし今退出しなくとも、もう少しゆっくりしてもよかろう? 今月は神祭の行事が多く忙しいというのに。藤壺も退出したいしたいと言っているが、このままではそう簡単にはさせられないな」 そう言って東宮はくっ、と笑った。兼雅の後に控える仲忠はその表情に藤壺の苦労を思った。「……そろそろ。夜も遅くなりますし」 そう仲忠は口を挟む。判った、と東宮は愛想良く仲忠に笑いかけた。* さて、三条堀河の屋敷に退出した梨壺の君は南の大殿にと住むことになった。食事は兼雅の殿の政所からたいそう豪華なものが用意されていた。 その席で兼雅は久しぶりに娘と語り合う。 だが内容はと言えば。「なあ、この度のそなたの妊娠のことは東宮様はご存じなのだろうな? 本当にご信じになられているのだろうな?」 途端に彼女の表情がやや怒った様なものに変わる。「い、いや別に私は何も思っては無いが、人々の噂というものは怖いもので、……色々私もついつい思い悩んでしまって。それに東宮様は藤壺の御方のことも何やら仄めかしたろう? そのことはそなたはどう思う?」「父上……」 はあ、と梨壺はため息をつく。そんな話ばかりではせっかくの御馳走も美味しくなくなってしまうではないか。 彼女はできれば、全てにおいて心のどかに過ごしたい方である。別に藤壺が妊娠しようがどっちでもいい。 自分は自分だし彼女は彼女だ。藤壺が美しく才あることも良く知っているしそれに嫉妬する気も無い。 また東宮の寵愛が藤壺に異様な程だと聞けば、自分にはそこまで執着してくれないで良かった、と胸をなで下ろす方なのだ。 無論自分は藤原の家から入内したのだし、せっかくの背の君なのだからできるだけ愛された方がいいのは判ってる。だが正直、しつこすぎるのは嫌なのだ。 母を見ればいい。女三宮も今では生活も気持ちも落ち着いているが、かつてこの父が今の尚侍の元へと去ってしまった時ときたら。入内した自分のことを忘れたかの様に仲忠のことばかり構っていることを知った時は。 そういうのは嫌だ、と梨壺の君は思うのだ。「東宮様の本当のお気持ちは判りませんけど、私が退出したい、と申し出ましたら、お召しがあってもう少し居て欲しい、とは口にされましたが」「……その、することはちゃんとしているのだろうな」「父上」 むっとした顔で彼女は父を見る。「お召しがありましたら、それ相応のことは致します。当然でしょう。東宮様一筋に」 その強気の言葉に、ああやはり仲忠の妹だ、と兼雅は思う。母は違ってもそういうところばかりは似るのだろうか、と。「……なら、いいんだ。安心したよ。私も嬉しい。実に喜ばしいことだ。そなたの懐妊を東宮様が御承知だということさえはっきりしているなら、あとでどんなことが起ころうと恥じることも無い。ただただ喜ばしいというものだ」 心底ほっとした様に、兼雅はうって変わって明るい声になる。 それからは兼雅も浮かれて、会わなかった歳月を埋めるかの様にあれやこれやと梨壺の君と話をした。そしてそのまま娘のもとにその晩は泊まった。* 明けて早朝、薬湯をすすめられていた梨壺の君の元に、東宮から文が来た。「昨晩は妙に急いで退出してしまったので、私の方も変なことを言ったかもしれない。以前はそんなこともなかったのに、他の妃達に恨まれる様な今では私もみじめで、あなたの退出を心淋しく思うよ。とりわけ今夜は。 ―――あなたが宮中に居ても会わない日が多かったのに、この春の夜は何とも恋しくて眠れなかった――― まあ、あなたから見たら私など空言びとになっているだろうけどね。 では、希う通りの安産であることを。そして早く参内して欲しい」 そう薄い紫の色紙に書いて、梅の花につけられた文を兼雅も手に取り、何度も何度も目を通しては感激する。 そして梨壺に返しながら言う。「ああこれで安心した。この御文は大事に取っておくんだよ」 使いの者には酒を振る舞ったり、物を与えたり、たいそうなもてなしぶりである。 その間に梨壺の君は返しの文を書く。「昨夜は夜が更けたと申して皆がせき立てましたので、落ち着かなくて失礼申し上げました。『空言びと』とおっしゃる方へ、それだけが私の咎でございましょう。 ―――宮中と里との間を自由に出入りなさる方々を私はよそながら羨ましいと見つつ、随分久しい間退出も致さず宮中で堪えておりましたこと…… たとえお側にお仕えしていましても」 一方仲忠は東宮の文が喜ばしいものであったことを受けて、檜破子などを用意した。そして梨壺の女房達に銘々取らせ、振る舞ったという。駒 漆紙 10種セット B4判 7種+3枚入 【 造形 漆紙 うるし紙 和紙 製作 】
2018.01.26
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その十二の五 中の君の殿うつり、そして兼雅に対する女三宮の考え その後仲忠は中の大殿に戻った。 一方、尚侍は賭弓の料に用意しておいた被物を三条へ取りに行かせる。 仁寿殿女御の宮達には、袿袴を添えた女の装いが贈られた。祐純や行正には例の装束を、親純や行純には織物の細長、袷の袴などを。 やがて皆帰途についた。 尚侍は南面に御座をしつらえて、自分の共の者達をそこに控えさせ、自身は仁寿殿女御との会話を楽しんでいた。* それからやや日が経ち、司召の日となった。 この時行純は侍従に、正頼の六男兼純は左衛門佐になった。 自分の使人の中で昇進させたい者が居る場合、それなりの力がさりげなく行使される。たとえば仲忠は、その昔自分が住んでいたうつほのある北山から三条堀河へと移る時、馬添として忠勤に励んでいた者を今回伊予介に、と申し出た。彼は当時大学の允で、蔵人所の雑役をしていた。 さすがにこの任官はなかなか困難なものがあったが、そこは仲忠の力で実現させてしまったのである。* 二月になると、仲忠は三条堀河の兼雅に、以前から言われていた家の券を渡しに行った。「前に父上から頼まれていた家の券です。言われればこの位の家ならすぐに造りますよ。ちなみにこの家は父上ほどの方には残念な程小さくて貧弱なものですけど、これを、ということですので」 無論仲忠は兼雅自身が住むのではないことなど承知している。あの一条の家に住む女性の誰かに与えるのだろう、と予測していた。なので。「家はそのまま、家財道具もそっくり添えて差し上げます。はい、これが目録です」 そう言って、仲忠は家財道具類一式を書き留めた書類を兼雅に渡した。 兼雅はそれを手に取ると、満足そうにうなづいた。厨子、唐櫃、几帳、屏風を始め、一切の道具がある。また蔵も別にあり、その中にも必要なものを用意してある。「何に父上がお使いになるのか僕は知りませんけど、一応、家の周りの雑草は刈らせましたし、垣根もすっかり新しく造って、檜皮の御殿らしくして、いつでも人が住める様にしておきました」「それはありがたい」 目録を戻しながら、兼雅は微笑む。「ところでお前、二条の家の代わりはどうしようか? できれば春渡したいが」「要りませんよ。何も」「いやそれでは」「近江守に僕も一応代わりの家のことを聞いてはみたんですよ。そうしたら、『私をどんなに不甲斐ない者と思ってらっしゃるのか』って恐縮してしまって。そうなるとわざわざ用意するのも逆にあれに可哀想かな、と思いませんか?」 それもそうだ、と兼雅はうなづく。「それでは今日はここでお暇します」「おいおい、用件だけかい? 薄情だなあ」「僕も色々忙しいんで。…あ、父上」「何だ?」「ちなみにこの家へのお移りはいつ?」 兼雅は具体的なことを聞かれ、少し息を呑む。この分では誰を移そうとしているのか、仲忠は知っているのだろう。しかしここではあえて名は出さない。「五日に。お前は格別手を出すことは無いよ」「そうですか。では」 あっさりと言うと、仲忠は三条殿へと戻って行った。* 五日になると、一条殿に住んでいる式部卿宮の中の君のもとへと車が三台用意される。 その中には中の君が三条へ移る時の衣装を入れた箱も乗せている。 お供には気心が知れ、安心できる人を五、六人程選んだ。 夜更けになってから、兼雅は一条殿へと忍びで出かけた。 中の君の対屋へそっと入って行くと、おつきの女房達が四人、童や下仕などが二人、きちんとした装束をつけて控えている。中の君自身も白い衣を沢山重ね、かつての寒そうな様子とは大違いである。 御殿油も灯し、付近が暖かそうな雰囲気に包まれていた。「まあ殿様」 女房の一人が気付いて驚いた素振りで迎える。兼雅はあえて迎えに来る日を彼女達には告げてはいなかった。あたふたと出迎える準備をしようとする彼女達を兼雅は手で制す。 そして中の君に近づき、そっと手を取るとささやく。「突然来てしまってすまないね。この間も格別にしっかりしたことも言わないで。あなたにはずいぶんと不安な思いをさせてしまったことだと思う」「…いいえそんなこと」「それでね」 中の君が何か言う前に、兼雅は本題の口火を切る。 「あなたを守っていきたい、という気持ちは昔と変わらないのだけど、あれから不思議なことに、幼い頃契って、行方も知れなかったひとをある日、見つかってしまったんだよ」 女房達は顔を見合わせる。無論それが世間でも噂の仲忠の母、尚侍であることは彼女達も良く知っているのだ。「そのひとをずっと哀れに思って一緒に何年か暮らしているうちに、ついあなたへの御返事もせずに過ごしてしまったんだ…」 女房達は無論尚侍が素晴らしい女性だということは聞いている。 かつては「色好み」と言われた兼雅を独り占めできる程の女。帝にぜひと乞われて弾き、そのおかげで地位までも手に入れたという琴の腕。そしてあの素晴らしい仲忠右大将の母… 判っている。自分達の主人が彼女と比べ者にならないことは。しかし。「いや、それはまた今度ゆっくり話しましょう」 女房達の不穏な気配を察したのか、兼雅は話題をうち切る。「実はね、今私がその女と住む三条の東角に小さな家を用意したんだ。あなたのためにだよ」「お家を、ですか… 私のために?」 中の君ははっとして兼雅を見上げる。「そう、あなたのためにだよ。これからは近くで、時々様子を見にも行きやすい。そこでのんびりと暮らせばいい。そう思って今日はあなたを迎えに来たんだ」「…そんな、急な…」 それまであまり変化の無い生活を送ってきた彼女には、さすがに兼雅の申し出はあまりにも唐突なものだった。無理だ、と即座に思った。 だが兼雅は畳みかける様に続ける。「持って行く程の家財道具がここにあるという訳でも無いだろう。それでも、というなら残った調度はここに置いて、乳母を留守番にすればいい。向こうにはもう、何もかも揃っているからね」「でも…」「あなたには今日が吉日なんだ。さあ、行こう」 さすがにそこまで言われては、中の君も了承せざるを得ない。 兼雅は車を呼び寄せ、中の君をそこに乗せた。副車にはそこにいた女房達と、当座の荷物を載せる。そしてそっと一条院の西の門から出て行った。 三条に用意された家に着いてみると、中の君の御座所が新しく用意され、近くには美しい屏風や几帳などが置かれている。 中の君はもちろん、女房達も日常の手回り品が全て揃っていることに驚いて口もきけない。「今日はここに泊まるからね。ゆっくりと今までの話をしようよ」 兼雅はそう言うと、食事の用意をさせ、その晩は中の君のもとに泊まっていった。 翌朝早く、辺りがよく見える様になってから兼雅はじっくりと息子が用意した家の中を検分してみる。 鎖を差して鍵を結い付けた美しい唐櫃が唐櫃が二具。よく見ると香木で出来ている様だった。中には様々な衣装が入っている。美しい絹のものもあれば、綿や、様々な紙も入れられている。 衣桁には覆いをして、衾などを掛けてある。 全体的に見て、机や唐櫃といったものが多かった。 寝殿の外に出てみると、他には四尺の厨子が三具、三尺のが一具、覆いをされていた。兼雅はまたそれも開けてみる。すると男女の調度である二段重ねの厨子が十具。覆いをかけた硯の具などもある。 また大きな厨子が二つあり、その中の一つには、唐の珍しい品々がよく整えられて置いてある。他の厨子には、調度や燈台の具などもあった。 また北には新しい長屋も造られており、その中に沢山の区切りをして、様々な用に使える様にしてあった。贄殿、酢酒つくり、漬け物、炭木油などが置かれている。 蔵も一つあった。そこには銭、米、粗末な布などが置かれており、またそこも鎖がかかっていて、鍵は厨子の中にあった。 御厨子所には、兼雅のためのものが良く揃っていた。 そうやってこの新しい住まいをあちこち見ていると、中の君は昨晩兼雅が用意した綾や掻練、織物の細長といった装束を身につけていた。 中の君はもう四十近かったが、非常に可愛らしく、髪も身の丈より二尺程長く、年よりずっと若く見えた。 連れてきたことに兼雅はほっとした。一体あのまま置いておいたなら、一体このひとはどうなっていただろう、と。 兼雅は女房達に命じた。「一条に残った人々へ伝えてくれ。『一条殿にあるつまらない道具類は留守番をする乳母に皆やってしまい、あちこちを掃除して、夕方にはこちらへやってくる様に』と」 そして中の君には家の券に、仲忠から贈られた家財道具類の目録を添えて渡した。「いいかい? この家の券と目録だけは、ちゃんとした所に納めておくんだよ」 中の君は少女の様にこくんとうなづく。 兼雅はこれだけはちゃんと守ってもらう様に、と彼女を真っ直ぐ見据えて言い含めた。「私もいつも来る訳にはいかない。近いから、時々訪ねては来るけどね」 すると彼女の目の中に、不安げな色がよぎる。「ねえ、あなたももう今では若くは無い。両親もお亡くなりになってしまった。私を頼るのはいい。暮らしのことは安心していい。だが家の中のことは別なんだよ。今までの様に何も考えずに暮らして行くことはできないんだよ」「…殿」「乳母どのは向こうで留守番をしてもらう。ここではあなたがこの家の女主人なのだから、女房や下仕えに対しては、きちんとした態度を取るのだよ」「…私に出来るのでしょうか」 弱々しい声に兼雅はふっと表情をゆるめる。脅かしすぎたかもしれない。 「あちらに仲忠の母が住んでいる。今どき珍しい程に心映えが良いひとだから、あのひととは疎々しくなることはせず、仲良くしておくれ」 はい、と中の君は小さく返事をした。* さてその足で尚侍の元へと兼雅は戻って行く。 それまで手のかかる子供の様な女性を相手にしていたせいか、目の前に居る妻の姿に彼はほっとする。 元々美しい人であるが、この時は尚更だった。装束は清らかにし、髪も手入れをしたばかりの様に艶々と、さっき婿取りをした娘の様である。 住居の様子も文句のつけようが無い。 尚侍の居る所は決して明るく無いはずなのだが、彼女自身の姿がまるで光り輝いて見える。使う香の素晴らしさは言うまでも無い。 女房達も美しいのが三十人位いつも出入りし、そのうちの二十人が主人の側を離れずに居る。童や下仕えも沢山居る。 ここ三条堀河の、尚侍の住む殿は元々一町である。 それを尚侍を迎えてより、建て増し建て増しされている。建物だけでなく、庭にしても、趣味を映し、心を込めた殿が造り重ねられているのだ。 兼雅は尚侍の側に座り、話しかける。「可哀想なひとを三条に連れてきたよ」 あああのひとだ、と尚侍はすぐに気付く。「元々ね、父君である式部卿宮は大層多くの財産や荘園を持っていたんだ。それで亡くなった時に中の君はそれを受け継いだのだけど、この数年私が放っておいた間に、仕えていた者達が皆それを無くしてしまったんだ」「…まあ」 胸が痛む。尚侍にとってそれは人ごとではない。自分もかつて、その様にして父の残したものを失ってしまったのだ。「仕えていた人々もだんだん減っていってね。…あなたも今、特別頼りにする人も無い様だから、近しい人として中の君のことを思ってやって欲しいんだ」 尚侍は大きくうなづく。「若いひとが親も無く、世話をしてくれるひとも無いのはどんなに辛いことでしょう。…いえ、それより世の中ですね」 ふっ、と尚侍の口調が珍しく皮肉気になる。「世の中?」「ええ。それほど苦しまなくて良かった私でさえそうでしたから。一応姫育ちで、生活する方法も知らず、親も私に『運が悪ければ、どれだけ幸せを求めても苦労するだろう。運が良ければどれだけ恐ろしい目に遭ったとしても、きっと困難に打ち勝つだろう。全ては神仏の思し召し次第』と言ったきり」 尚侍は苦笑する。「それだけですのよ。実際にどう生活して行くか、なんてこと、誰もまるで教えてくれませんでしたもの。仲忠だって、ちゃんと生まれていたかどうか…」 ふとあの頃世話を焼いてくれていた「さがの」のことを思い出す。そして今まであまり思い出しもしなかった自分を軽く苦々しく思う。「それで両親とも引き続いて無くなりましたから、もう私はあの頃どうしていいのか判らなくなっていました。その私ですらそうだったのですから、宮の御子とも言われる方がそんな不幸な目に遭ったのでしたら、もう何とも」 全くだ、とばかりに兼雅は大きくうなづく。若子君だった彼が出会った頃の彼女の生活もひどかった。夢の様な逢瀬だったから、それはあくまで大人になってから冷静に思い返してみると、だが。 それだけに彼もまたしみじみと言う。「全くだ。私も女の子を大勢持っていなくて良かった。もし私にそんなことがあったら、と思うとぞっとする」 そして娘、という言葉から梨壺――― 女三宮を思いだしたのだろうか。「そうだ、今日は気の毒なひとを訪ねる日にしよう。今から女三宮のところへ行って来るよ」「それが宜しゅうございます」 尚侍はにっこりと笑った。* さて、兼雅は女三宮の元に来るといつも思う。 このひとは非常に気高く威厳があるのだが、そこがどうも近付きがたい印象を与えると。「まあ兼雅殿。お久しぶりですこと」 女三宮は涼しい声で兼雅に声を掛ける。「申し訳ございません」 兼雅はそう答えながらふと思う。 昔はずいぶんと仲睦まじく暮らしていた様な気もする。その時はこのひとも―――いや、それなりに気位の高い所はあったが、これほどによそよそしいことはなかったものの。 それというのも、自分が。「…この数年来、頼りない振る舞いをしておりましたから、せめて近くにおいでいただいている時でも度々こちらへ寄らせてもらいたいと思うのですが」 だったら来ればいいのに、と一方女三宮は思っている。おそらくこの後もくどくどしい言い訳が続くのだろう。昔からそうだった。口が上手い―――「ここに住まわせている、仲忠の母であるひとは、その昔… まだ自分が世間も知らない少年だった頃に出会った女です。ところが子供ができたことすら教えずに何処かへ身を隠してしまって…」 その間に自分の所へ素知らぬ顔で通ってきたのだ。女三宮の表情はますます硬いものになる。「それをひょんなことから見つけてしまい、それ以来ここに居着いてしまいました。あの頃はあなたから離れるなんてほんの少しの間のことだと思っていたのに… あなたはさぞ変だと思っていたでしょう」 思ってはいた。だがその一方で男を信用していない自分の存在にも女三宮も気付いていた。元々兼雅は色好みで有名な男だ。自分もその口に乗ってしまい、…そしてまだ微妙に冷めきれないところがあるのが癪に障るのだが。 兼雅は彼女が黙って聞いているのをいいことにべらべらと続ける。「今はもう、色好みと言われた昔など嘘の様に静かに暮らしております。宮仕えも昔ほどには致しません。そんな風にいつも近くに私が居ますので、ここに住むひともそれに慣れてしまったのでしょうか。もし突然私がまた誰か別の女性の所へ行くと、ふっと姿を消してしまうのではないかと心配で」 結局は尚侍の側に居たいのだ。その理由をひたすらべらべらと喋り立てている。少し煩い、と女三宮は思う。 昔はこの立て板に水の様な口調で自分を褒め称えたものだ。 だが、それは既にこの男には過去のことなのだろう。 兼雅は続ける。「今はもう、子である仲忠がここに居るので、彼女も私をその親として扱ってくれます。そう簡単に何処かへ消えてしまうことは無いととは思うのですが… その仲忠がまた、今の世に珍しく真面目な男なので、私の過去の不行状を見て何かと私を責めるのですよ」「まあ」 ふっと女三宮は可笑しくなる。すらすらと並ぶ言葉の中で、そこは妙に真実味が感じられた。「そのうちに自然ご覧になることもありましょうが、あれは本当に不思議と私に似ない子で、まだ若いのに、先程も申しましたが本当に真面目で、帝の女一宮一人を守っております」 それは噂でも良く聞く。帝や院からの命による婚姻だったというのに、実に仲睦まじく暮らしているという。 あっさり子ができたこともあるが、何よりも仲忠の態度だ。先日の先祖の文を読むべく内裏に詰めた時、何度も何度も女一宮の元に文を送っていたという。「…そんな息子に、若い頃の様に浮かれ歩くのを見られるのが恥ずかしいので、あなたの元に度々伺うことはできないのですが… 忘れている訳では無いのですが…」「何もそんなに次々と言い訳をすることは無いですよ」 女三宮はそこでようやく口を挟んだ。「仲忠どのも、以前はあなたの様に浮気者だと言われたこともありますが、何と言っても女一宮が美しく名高い方だから、大変真面目になられたのでしょう」 そうだろうか、と兼雅は内心思う。女三宮は続ける。「あなたにしてもそうですのよ。そちらの尚侍が美しく賢いことは世の中にも広く知られたことです。そんな方がご一緒だから、私を含めた他の女達を省みなくなったとしても、それはどうしようもないことでしょう」「や、それは…」「私には無理でした。あの方だから、あなたを独り占めすることができたのですよ」 ふふ、と女三宮は笑う。 仲忠の母が、帝の要望で参内して琴を弾き、またその件で尚侍に任じられたことを女三宮は良く知っている。 帝は直接尚侍に会っている。話をしている。その上で琴を弾かせている。彼女の腕と賢さと、そして美貌を目の当たりにし、その上で役職につけたのだ。帝自身が。 これ程一人の女性の評価において確かなことがあろうか。「私のことはいいのですよ、もう。ただ娘の梨壺のことは忘れないでくださいな。それだけが私の願いです」 参った、と兼雅は息をついた。ギフト【送料込み】餅信まんぞくSET 御菓子処 餅信【どら焼き/和菓子詰め合わせ/岐阜/各務原】
2018.01.25
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その十二の四 犬宮の御百日の祝い その頃、正頼の三条殿では大宮の所に、大納言の北の方である七の君が訪れていた。「…呼ばれた理由は判っていますね」 大宮は優しく、しかし毅然とした態度で問いかける。「こんなに自分から離れよう離れようとしていれば、大納言もあなたのことを頼りにならない女だ、と思っているでしょう」 七の君は黙ってうつむいたまま、母の言葉を聞く。「あなたのこの様な態度は父上も良くない、と思うでしょう。…そもそもあなた方、どうしてこんな仲違いをしたのです?」 七の君はしばらくうつむいたまま考えていたが、やがてぽつりとつぶやいた。「…何と申しましょうか、あの方は今では私のことなど人とも思っていない様ですから」 言葉はひどく平板なものだった。「今では私のことなど軽蔑しているだけなのでしょう。そんな人と会うのも何ですので」「…そうは言っても七の君、あなた、幼い子も居るのですよ。それにあなた… その身体」 すっ、と七の君の頬が赤らむ。「また子供ができたのでしょう? ますます良くないことですよ。そんなことじゃ来春早々、大納言も一人で困ることとなるでしょう。今夜にでも早くお帰りなさい」 大宮は一人の母として、七君が一人前の妻であることを望む。 大納言がどんなことをしたのかは具体的に知っている訳では無い。 しかし娘がその様に言って夫を遠ざけている以上、何となく予想はつく。たとえば自分以外の女に軽々しく手を出したとか。 よくあることだ。 そもそも、大宮の夫である正頼にしてもそうだ。 彼は自分と大殿の上の二人を、それぞれ公平に扱ってはいる。だが自分の身の回りの世話をする女房に全く手を出したことが無い訳でも無い。 よくあることなのだ。そのくらいで、妻の立場にある自分や大殿の上が慌てふためくことは無い。 もっとも七の君の場合は、貴宮程では無いにせよ、蝶よ花よとばかりに育てられた一人である。その彼女一人を大納言は大事に守っていた。 そう思っていたとしたら、ちょっとした好き心も七の君にはひどく自分を馬鹿にしている様に感じられたのかもしれない。 だが現在、彼女は「姫」ではなく「妻」である。 大宮は母として、ここはその立場をわきまえる様、強く言わなくてはならないと思ったのだ。 だが七の君はそれからずっと口をつぐんだままだった。強情な子、と大宮は思う。 やはりその辺りは貴宮や今宮とも通じるところがあるのかもしれない、とふと彼女は感じた。 だがこのままではいけない。 彼女と大納言の間には五歳の男の子、三歳の女の子が居る。特に女の子の方は、大納言が大層可愛がっている。 そしてその上、現在もまた、七の君の腹には次の子が居るのだ。きっと次の子も大納言は可愛がるだろう。いい父親になるに違いない。 だとしたら、余計に。 だが押すばかりでは仕方が無いことも、沢山の子を持つ大宮は知っている。「…とにかく二人の子、これから生まれてくる子のこともよく考えなさい。それにあなたのここのところの様子に、五の君が心配していますよ」「お姉様が」 七の君はようやく顔を上げ、母を見つめた。沢山居る姉妹の中でも、同じ大宮から生まれ、歳も近い五の君は、七の君にとって一番心を許しあえる仲だった。「…ああそうそう、五の君はいつも安産でしたね」「お姉様に会いたいわ、お母様」「まあ、子供の様な言い方だこと。五の君にあなたの所に顔を出す様に伝えましょう」 姉の言葉だったら聞くかもしれない。そんな気持ちを込めて大宮は七の君に言う。 五の君の方には、その辺りを言い含めて置かなくてはならない、と一方で考えながら。* その様に女が悩む正頼邸ではあるが、着実に正月の支度は進んでいた。 種松が正頼に届けた米五石と炭五荷は仁寿殿女御と女一宮の元に回されたとのことである。* さて年も明けて、一月一日。 三条殿の正頼が住む北の御殿の東面に、子息達十一人がずらりと並び、大宮と正頼に新年の挨拶をする。 また、仁寿殿女御の元にも、息子達四人の皇子、続いて仲忠が挨拶をする。 彼等はその後に正頼の元へ向かった。そこでは青色の表衣に蘇芳襲の汗衫を着た童が褥や御馳走を運んで来る。 やがて正頼は皇子の一人に杯を持たせると、そこにこう書き付ける。「―――私の大切な人とこうして団欒できることは何と嬉しいことだろう。今日の様に毎春を皆と共々祝いたいものだ」 歌と共に杯が仲忠に渡される。杯の中の歌を見て、仲忠も返しを詠む。「―――たとえ春が来ない様なことがあったとしても、今日のように団欒することは決してありませんよ」 その様な応酬の後はもう皆で酒を酌み交わすばかりであった。* その後正頼の一族は皆で参内することとなった。 この日、内裏には公卿達がずらりと揃う。ただ一人、藤大納言を除いて。 妻である七の君が籠もってしまって装束を整えることができないのだ。仕方なく彼はお気に入りである娘を可愛がってあやしていた。 この様にして上達部達は内裏の右近の陣に到着した。女御腹の皇子五人、正頼、仲忠が帝の元へと向かおうとする。 彼等がいつもの様に女御や更衣の局の前を通って行くと、中宮の女房達の囁き声が聞こえる。「…あの仁寿殿女御の皇子達をごらんなさいよ。ずいぶんとおませなことじゃありません?」「皇子達というより、まるで皇女達が揃っている様に見えますこと…」「この名高い美しい皇子が、どうして仲忠どのに目をつけられたのでしょうね」 など、口さのない言葉がぽんぽんと行列に投げ付けられる。 ちなみに仁寿殿女御腹の皇子は、一宮が三品、帥の宮は四品の位を与えられている。 次の皇子は、親王ではあるが位は与えられていなかった。ただ、この宮も上の二人同様、黄丹色や梔子色の袍を着ることが許されている。 六宮はさすがにまだ大人では無いので、その扱いは受けられなかった。 皆揃って蘇芳襲の綾の表の袴をつけ、御所へと向かって行った。 そんな中、仲忠は一人、目的の場所へと足を進めていた。 彼がまず向かったのは藤壺だった。「まあ、仲忠さま」「久しぶり」 取り次ぎに出た孫王の君の表情がふわりと明るくなる。仲忠もまた、昔なじみの笑顔に気持ちが明るくなる。「仲忠が拝賀に参上した、と藤壺の御方に伝えてくれないかな」 すると相手の表情がふと曇る。「…このところはこちらではなく、上の御局にいらっしゃるのですよ…」「と、言うと?」 怪訝そうな表情で仲忠は問いかける。東宮は藤壺をずっと離さないというのだろうか。「先日、大殿が御方さまをお迎えにおいでになって以来、東宮さまのご機嫌がずっとお悪く…」「引き込んだままってこと?」 孫王の君は黙って苦笑する。「その時一緒に居た女房以外、同じ局であっても近づくことを許されないのです」「誰?」「兵衛とあこぎが一緒でした。それは確かです」「兵衛の君とあこぎなら、まあ安心だ… 他の女房や女童よりは信頼できるしね」「ですので、せっかくおいで下さったのに折角なのですが…」「いやいや」 仲忠はゆったりと首を横に振る。「そういう事情なら仕方無いよ… じゃあまた日を改めて… あなたも元気でいてね」「仲忠さま」 孫王の君は不意打ちの言葉に顔を上げた。ここで仲忠が自分のことを気に掛けてくれるとは、彼女は思ってもみなかったのだ。「僕はこれから梨壺の妹の所に行くけど。他人のことに熱心なのはいいけど、根を詰めすぎてあなたが倒れでもしたらどうするの」「…私は大丈夫ですわ」「そう?」「いつだって、そうだったじゃないですか」 少しの沈黙の後、そうだね、と仲忠はつぶやくと藤壺を立ち去っていった。 その背を眺めながら、孫王の君はつぶやいた。「あなた様こそお元気で」* その後仲忠は、東宮が藤壺の元へ向かった辺りを見計らい、異母妹の梨壺の君の方へ向かった。「まあ、お兄さま」 穏やかで爽やかな気性の彼女はこの日も仲忠を気持ちよく迎えた。 だがこの日、梨壺の君はさらりと、だが心配そうに問いかけてきた。「近頃、東宮さまと正頼どのの間に何かあったらしいのですが、お兄さま、何かご存じですか? 何でも、東宮さまは帝から何やら言われた… とも聞いているのですが… それがまた、私のことらしいので驚いているのですが…」「うん、あなたのことを確かにこの間、帝と東宮さまの間で聞いたよ。内容はぼんやりとしていてあまり判らなかったけど」 本当は知っている。だがそこは本人の前では内容が内容なので、少しぼかす。「最近はあなたはどうなの? 東宮さまのお召しはあるのかな」「先夜お召しがありました。参上致しましたところ、東宮さまは女四宮さまを召したいのだけど、少し前の… ちょっとした騒ぎのこともありまして、どうもその気になれないと…」 確かに、と仲忠は思う。話に聞いただけでも、男としてはためらいたくなるいきさつだ。「藤壺の御方はどう?」「…可哀想です。ただもう東宮さまの御簾の前に居間をしつらえせされて、そこで窮屈な思いをしてらっしゃる様です」 そう言って梨壺の君は自分の広々とした空間と比べるかの様にふっと天井を仰いだ。「あちこちの乳母達も―――、ええ、藤壺に仕える方々も、噂しています。嘆いています。『どういうことでしょう、東宮さまは全くよそ目さえ遊ばさない。お二人は一体どういう御仲でございますのでしょう』と」「まあ、ねえ…」 ふう、と仲忠は一息つく。「ご寵愛が深すぎる方にはそういうこともあるんだろうね。ただ人であっても、愛しい愛しいと思うひとは、一時も離したくないと思うものだもの」「そういうものですか。お兄さまも?」 彼はそれには笑って答えない。逆に問い返す。「で、あなたのことはどう?」「どう、と言われますと?」「父上ったら、あなたの今度のことで、何か馬鹿げた想像もしてるんだよ。今更一体、まさか、ってね」 梨壺は少し考えていたが、やがて頬を赤らめて声を立てる。「まあ、父上ったら」 娘が東宮を置いて誰か別の男と通じたのではないか、と想像しているなど。「そんなことある訳ないじゃないの。東宮さまももちろんご存じでしょ?」「ええ。昨晩『藤壺もそなたと同様に懐妊している様だ、ここ数年そういうことも無かったのに、不思議なことだ』と仰いました」 仲忠は苦笑する。 それまで淡泊だった方が、藤壺が入内したことで、何かしらに目覚めたのかもしれないな、と。* やがて七日になって人々の位階の昇進が発表された。 右大臣正頼は正二位、左大将兼雅は従二位、左衛門左は四位、宮あこと呼ばれていた行純はここで正五位となった。 一方、女叙位の方にもやや動きがあった。尚侍である仲忠の母が三位となったのだ。* さて、一月の最後の子の日である二十五日はちょうど犬宮の御百日に当たっていた。 この日の祝いの席は、祖母にあたる尚侍が賄いをすることになっていた。 当日になると、尚侍は車六台を仕立ててやってきた。 食事の用意となると、犬宮の前に沈の折敷が一二、それに金の坏といったものがずらりと並べられた。料理の入った檜破子は百も用意された。 曾祖父である正頼は司召の夜だったので昨晩から参内し、その場に居ないが、左大臣はやってきた。 仁寿殿女御や男宮達の前にも衝重や破子が並べられる。大宮や女宮、東宮の若宮達、その他の人々隅々にまで、檜破子が用意される。 また、藤壺には檜破子と、普通の破子をやはり十ずつ差し上げようと、仁寿殿女御が文をつけた。「…新年には早速に賀状を差し上げないといけないとは思っていたのですが、不思議にも貴女様はこちらからの文はごらんにならないと承っておりまして。 その様に此方も控えているうちに、犬宮の百日の祝いをする頃になってしまいました。さすがにそれは申し上げない訳にはいけないと思いまして… ―――幾千万の御代を、かねて生まれ出た小松―――犬宮―――に月末の子の日の今日が百日の祝いであることを知らせてきます―――」 女御はその様に青い色紙に書くと、小松につけて送った。 藤壺は月半ばにあった踏歌の夜からは東宮から許されたのか、下屋に居た。おかげでこの消息文も読むことができる。 皆そのことにはほっとしていた。彼女はここしばらくというもの、ずっと東宮の側に居ることを強いられ、窮屈な思いをしてきたのだ。 若宮達もこの折りに母の元を訪ねることができた。 藤壺は送ってもらった檜破子は殿上人に分け与え、その後女御へと返しの文を書く。「誠に不安になる位、この数日は里のお文も見ることができませんでした。お祝いの言葉はぜひ直接お目にかかって申し上げたいです。 犬宮はどんなにか大きくなられたことでしょう。楽しみです。 ―――仰せの通り、幾千万にも及ぶ御代の子の日を迎えるはずの姫松――― 犬宮――― に、私も色々告げてあげたいことがあります――― 退出したいと思うのですが、なかなかそれが思うに任せないのが…」 女御はそれを受け取ると苦笑する。全く大変な妹だ、と。 やがて犬宮に祝いの餅を、と女御が折敷の洲浜を見ると、鶴が二羽と松が設えてある。そこへ兼雅の手でこう和歌が書き添えてある。「―――百日の祝いが乙子の今日だ、と知らせてくれた。その乙子を数えていけば、姫松の齢は幾千年の代を保つだろう―――」「これは大層立派なお手本ですこと」 女御は柔らかに微笑み、こう詠む。「―――生まれてからもう百日の祝いになりましたね。めでたい子の日に当たって小松はその日を幾千代も数える程迎えることでしょう―――」 そしてまた尚侍、女一宮がそれに続き、犬宮の長寿を願う。「―――百という数のの今日を今知った姫松は、どうして千という数を知らないことがあるでしょう―――」「―――めでたい子の日に百日の祝いを迎えた姫松は、これから子の日を数え数えて長寿を保つことでしょうよ―――」 尚侍はそれらの和歌と洲浜を一緒に外に居た仲忠へと渡す。彼はそれを見てまた詠む。「―――姫松は限りない乙子を迎え迎えて先年にもなる春を見るに違いありません―――」 仲忠は元の場所に差し入れたので、この歌は誰にも知られることはなかった。 その後、正頼、仁寿殿の宮達、祐純、行正、親純、行純などが次々に祝いの歌を詠んだのだけど、ここには特に載せない。 仲忠はその後、東の大殿の南の方へと向かった。 そこで藤壺腹の宮達の前に沈の折敷に小さな瑠璃の坏を捧げる。 次いで可愛らしい雛形の小車や銀や黄金で作られた馬等を並べ「宮様達、お出でなさいませ」と声を掛ける。 若宮と呼ばれている一宮はこの時、綾掻練を一襲、袷の袴、織物の直衣を身につけていた。現在五歳で、年の割に大きく、肌の色や髪の筋の美しさは母である藤壺の御方に似ている。高貴さは父東宮譲りであろうか。髪は背中にまで伸びて、海松の様にふさふさとしている。 同じ格好をした弟の宮は一つ下で四歳。髪はまだ短くて、肩までかかり、兄宮の様に気高い。 仲忠は兄宮弟宮の二人を一緒に膝の上に乗せ、話しかける。「あちらに居る、うちの子に餅を食べさせるのですが、まずお二人に召し上がってもらって、そのお下がりを貰おうと思いまして」「大将の子ね。僕、見に行ったことあるよ」 一宮は無邪気に仲忠に向かって言う。仲忠は内心はともかく、にっこりと若宮に笑みを向ける。「そうですか、如何でしたか?」「うーん、けど僕、見られなかったんだ。女一宮が隠しちゃって」「僕がひどく泣いたの。そうしたら見せてくれたよー」 弟宮が割って入る。ぴく、と仲忠の頬が引きつる。「それでね大将、抱っこさせてもらったんだけど、重くてね、落としちゃって。みんな大騒ぎ」 さっと仲忠の顔から血の気が引く。「…そ、そうですか。で、どうでした? みっともない子だったでしょう?」「ううん、すっごく可愛かった! こっちに連れて来ようとしたけど騒いで止められちゃった。ねえ、大将が今抱いてきて」 子供だ子供だ。しかも宮だ。仲忠は内心の苛立ちを必死で押しとどめながら、精一杯言葉を紡ぐ。「…今は汚れていてきっと気持ちが悪いし、色々失礼なこともしますよ。いつか大きくなったら近くにお召しになって可愛がってやって下さいね」「わあい、嬉しいな。遊ぶ子が居なくてつまんなかったんだあ」 ね、と若宮は弟宮とうなずき合う。 子供は純真だ。さりげなく仲忠の言葉の端に、未来の後宮入りを匂わせているのにはさすがに気付かない。 その後は仲忠が手ずから食事の用意をし、宮達にも箸で「あーん」と口まで御馳走を運んでやる。「雛に子の日をさせるために、車を引いてきました」 そう言って用意した小さな車を宮達に渡すと、宮達は喜んでそれで遊びだした。 仲忠はいつもこの様に趣のある玩具をこの小さな宮達にあげたりする。含みが無い訳ではないが、それでも基本的にはこの藤壺腹の宮達は彼も好きなのだ。冬季限定 四季の十二撰 ひとくち上生菓子詰合せ(黒漆箱・風呂敷包み) 和菓子 送料無料
2018.01.24
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その十二の三 様々なものの行き先、様々な人のゆきさき 大晦日になると、あちらこちらで正月の節会の準備の品を持ち寄って来る。 その中でも種松は、正頼と仲忠の両方に、粥の材料を皆揃えて贈った。 正頼には炭を二十荷、米を三十石。 仲忠には炭は十荷、米を十石。その中の炭二荷と米一石を彼は三条殿の女三宮へと贈った。 また同じ量だけ一条殿に残っている仲頼の妹君にへと贈る。その際仲忠は、草刈と馬人が居れば済むところを、童を二人、大きな法師や雑仕をも他から雇い入れて遣わした。 そして「―――先日はもっとお話を伺いたいと思いましたが、日が暮れたので残念でした。その折に貴女にに申し上げた様に、これからはもっとどなたとも仲良くなさって下さい。 さて、この炭は水尾からのものとどうぞ見比べてやって下さい」 と手紙をしたためた。 それを法師の使うような素朴でさっぱりとした紙に包んで、その上に「山より」と仲頼の字に似せて書く。 そして側仕えの上童を呼ぶとこう命じた。「一条殿でね、この間僕に栗を投げつけた方の所へこの文を入れて帰っておいで」 上童は妹君の所へ行くと「水の尾からの使いです」と言って手紙を渡した。 そして手紙に引き続き。「まあ、何ってことでしょう」 急なことに皆が慌てふためく。女房達が騒ぐので妹君も身を乗り出す。 三十を越すか越さないか、くらいの彼女はどちらかというと可愛らしい女性である。生活は質素ながら貧しさは感じさせない。この時もつれづれに琴を爪弾いていたところだった。 するとそこには、精巧な細工をした籠が二十。その全てに炭が入れられていり、それぞれ銭二十貫を入れて、覆いをして結わえてある。 また米俵が粗い絹糸で編んであり、全部で四つ。 そのうち三つには、米を入れずに絹を三十匹ずつ入れ、残り一つには非常に美しい綿が二十屯が入っていた。「まあ…… 私の身に過ぎた節料だわ。兄上からとはあるけれど、今のあの生活をしてらっしゃる兄上からこんなにいただける訳は無いし……」「ですがお方さま。正直、いただけるものは嬉しゅうございます」 女房達の言うのも尤もである。「さて、ではどうしましょうね」 女主人として妹君は彼女達に問いかける。すると乳母が進み出る。「これは全てあの仲忠どのからのものでしょう。……全く何処の誰とも知れぬ懸想人からというならともかく、あの方は、あなた様の背の君の御子で、それに水の尾の御兄上のご友人。きっと真心からなのでしょう。素直にお受け取りなさいませ。それが宜しゅうございます」「そうですわ、早くお返事を」 周囲もそう急かす。急に彼女の周りが明るくなった様だった。そうね、と鷹揚に微笑むと妹君は使いの者達を呼び入れて、彼等に食事や酒を振る舞った。 童の大きい方には白い袿、小さい方には単衣を一枚ずつ渡し、懐に入れさせた。 その間に妹君はお返しの手紙を書く。「有り難く受け取りました。 先日はそちらの仰る通り、申し上げたいことも尽くしませず残念でございました。 山――― 兄の代わりと仰ると、馬のたとえの様な気持ちが致しまして、何とも嬉しゅうございます。 ところで、炭焼きまでなさっていらっしゃいますから、どんなに御手が黒いだろうと思いやられます」 そう書くと彼女は使いにまた託す。 そしてふと視線を巡らすと、頂き物を広げては心から喜んでいる様な家人達の姿に妹君も嬉しくなる。だがあえてこう釘をさしておく。「もう少し静かになさいな。あの方からの贈り物と周りの方々に気づかれたら、きっと私達呪われますよ」 皆はそれを聞いてこっそりと笑い合う。久々のことだったのだ。こんなに暖かな正月の備えができることなど。「あと、皆様にもお分け致しましょうね」 妹君は母宮や水尾へ送る分などを分けて取り置く。宮内卿の所へも送る様に指示する。向こうも困っていることを彼女は知っている。 水尾の兄には仲忠からの手紙も添えて、必要だろう、と男の子二人の装束なども整えて贈った。 種松は兼雅にも絹や綿などを大きな櫃に積んで贈った。錦など世にも希なものである。 また、三条殿に移った女三宮の方にも彼女の持つ領地から節料が沢山送られてくる。 ところで、そんな彼女の元に兼雅が訪ねることが増えたかというと――― 大して以前と変わらなかった。 彼はひたすら北の方の尚侍の元にのみ昼も夜も居続け、食事もそこで摂る。女三宮のところには時々昼間行くことはあっても泊まることは無い。 ある日兼雅は北の方に、一条殿に住む中の君の様子を話した。 彼女の貧しく哀れな様子、別れて帰る時に投げ出された文に尚侍は堪えきれず涙を流す。「親に先立たれて心細い生活をするのはどんなに淋しく辛いことか……」 あなたには判らないでしょう、という皮肉をやや込めて彼女は夫の方を見る。「まだお若い頃にそんなことになられたのです。お辛かったことでしょう…… なのにあなたときたら、そんな方を放っておくなんて…… お父君からも頼まれたのでは無いですか?」「…あなたをうつほで見つけた時、胸が潰れそうになったんだよ、私は」 兼雅はやや拗ねた様な声で言う。「その時、他の女のことは頭から吹き飛んでしまったんだ。あなたのことで頭がいっぱいになって、他の女のことなど思い出しもできなかったんだ」 その言葉には尚侍もさすがに心を動かされるものがある。「だから、仲忠が言うまですっかり忘れていた」「嫌な方」「そう言わないでおくれ。私だって彼女達のことは哀れに思っているんだ。ただ仲忠もああ度々親に向かってそう責めなくとも…」 最後の方は口の中でつぶやく様な声になる。「ああもう。どうやって彼女達を助けてやったらいいのかな。あなたには何か考えがあるのかい?」 急に言われても。尚侍もすぐには考えが浮かばない。 と、その様に二人が話している所に、仲忠からの贈り物が届けられた。「ほぉ、なかなか趣のあるものだな、持っておいで」 近くに持って来させて開けると、それは仲頼の妹君に与えたのと同じようなものだった。「たいそう美しい白絹… そうですわあなた、これをそのまま困っている女君達に分けてくださいな」 それはいい、と兼雅はなかなか考えも浮かばなかったところなので一も二もなくうなづいた。 牛を外した車に破れた下簾をかけさせ、納殿にあった貴重品や衣類、贅殿に保存しておいた魚、鳥、菓物の中からよさげなものを選び、長櫃に入れた炭や油などと一緒にその中へ入れさせる。贈り物なのだ、と。 そこへ文を添えて。「先日はあなたに会ったことで、目がくらみ、頭もぼうっとしてしまったので、大した話もすることができなかった。どうか許して欲しい。今となっては、 ―――亡き父君はあなたを案じて訪ねることもあるでしょうが、今となっては私が訪れても仕方がないことです。 さて、この「こめ」は夏衣でしたね。今すぐという訳にはいかないでしょうが、そのうち役に立つこともあるでしょう。情と同じようにね…」 急な、そしてありがたいはからいに皆一様に嬉しがる。贈り物だけではない。金子もあったのだ。 主人である中の君は、先日の自分の文を見たからだな、と思って返しを書き出した。「先日は思いもかけないお便り… 夢心地でございました。けど、 ―――私の待つ人は久しい間見えませんけど、夕方雲が見えない日はありません」 微妙に嫌味が混じってしまうのは気のせいではないだろう、と彼女自身も思う。こんな思い出した様にぽん、と贈ってくるのも―――悪くは無いが、何よりいつも会えるならもっと嬉しいものである。自分としても、自分の元に集ってくれている者にしても。 ただ兼雅の贈ってきた金子は非常にありがたかった。何せ百両近くあったのだ。 元々その金子は彼女に与えるためのものではなかった。 たまたまこの頃は唐人が渡って来る時期で、兼雅自身、何か珍しいものがあったら彼等から買い求めようと用意していたものである。 中の君はこれで使用人達に衣類を用意してやることができた。皆喜んだことは言うまでも無い。 それがまた噂になり、それまで何かと適当なことを言って彼女の元を飛び出した使用人も戻ってきたということである。 彼女の住む辺りは物が豊かになり、賑やかになってきた。それを見た一条院に残る兼雅の他の女達や、使用人達は非常に羨ましがって騒ぎ立てたということである。* その様にして大晦日当日がやってきた。「父上が?」 三条堀河で、兼雅が自分を呼んでいる、と聞いた仲忠はすぐに出向いた。「何でしょう御用とは」「うむ、ちょっと頼み事があってな」 兼雅はできるだけさりげなく切り出した。「何ですか?」「今度任官した近江守は知っているな」「ええ無論」 即座に彼は答える。知ってるも何も、今度の司召で近江守になった男は、そもそも仲忠の使人の一人である。「その男の現在住んでいる家が是非とも欲しいんだ」「家を?」 仲忠は訝しげに父を見る。「そう。家だ。その代わりに、と言っては何だが、二条の院の東側にある私の家と交換ということでどうだ?」「交換ですか」 ほぉ、と仲忠は兼雅をまじまじと見た。なかなか本気だ、と感じる。「…いや別に、交換などなさらずとも」「しかしそれでいいのかね」「ええ」 仲忠は大きくうなづく。「近江守は僕の目にかなった人物です。今回の司召では、正頼どのからは『まだ早いのではないか』と乗り気ではなかったところを、僕が強引に話を進めて役につけた者ですから」「…強引に、ねえ」 息子にそういう一面があることも知らない訳ではない。だが政治的な場面でもそうだったか、と今更の様にこの父親は思う。「そういういきさつもありますから、近江守はちょっと今回良い目を取りすぎ、ということで話をまとめましょう」「そうか。それはありがたい」 兼雅は微笑する。「守の家は、こちらのお傍にありますね。大きくは無いのですが、とても趣のある造りです。元々宮あこ君――― ああ、今は元服して行純と名乗っていますね。彼が妻にしようと思っているひとのために建てたということですが、彼は若いながらもなかなかの巧者ですので、ちょっとあの家では物足りないでしょう」「…その女のことなら私も聞いているが、何でまた、お前の勧めた女の方ではなく、別の女なんだ?」 さて、と仲忠は軽く目を伏せ、首を傾げる。「彼もまた、いろいろ考えるひとですからね。どうせ紹介してもらうにしても、もっと出世してから、と思ったのではないですか」「出世してからねえ…」 ふむ、と兼雅はふと、正頼宅の息子達のことを考える。「あの家では、今は蔵人の少将になっている親純がなかなかのものじゃないか? 兄弟の中では群を抜いて出世頭だ。気だてもいいし。彼には妻は居るのか?」「以前は居た様ですが… でも今は独り身となりまして、行純と一緒に親元に居る様です。気だて…」 くす、と仲忠は笑う。「何だ」「いやね、見方は色々だと思うのですよ」 兼雅は首を傾げる。「外面はいいのですがね。さすがに同じ屋敷の中に居れば何かと耳に入ることがありまして」「じらさずに言いなさい」 はいはい、と仲忠は口元をゆるめた。「まあそんな女関係のことや、いろんな心がけが実は結構… なので、正頼どのや大宮さまが咎めることもあるのです。が」「が?」「そこで彼は言うのですよ。『そういうことでは自分以上の仲忠が居るじゃないか』ってね。何かな、ずーっと独身でいれば、僕の様に内親王がいただけるとでもいうのかな」 最後の方はやや冗談めかす。こら、と兼雅は小さくたしなめる。「で、正頼どのがまたそれに対して言う訳ですよ。『何を言ってるんだお前は。仲忠どのと女一宮のことは、帝のお言葉で決まったことだ。お前とは違う』と。でも何か思うところがある様で、親純くんの行状はなかなか改まらない訳ですよ」「成る程。お前もなかなか罪作りな奴だな」「僕のせいじゃないですよー。まあともかく、正頼どのは『全く、親の心子知らずだ!』と嘆いてます」 子供が多いとややこしい問題も多いものだ、と兼雅は嘆息する。問題。ふとそこで彼は思いだしたことがあった。「そう言えば、あの兄弟のなかで亡くなった…」「仲純さんですね」「そう、お前と特に仲の良かった… 彼は誰に恋い焦がれていたんだろうな? 女一宮か?」「さあ」 仲忠は素っ気なく答える。「僕ももしかしたら、と気にはなっていたので、正頼どのとの話の折に聞いてみたりもしたんですが、どうやら違うようです。まあもっとも、夜も昼も管弦の遊びのために悩んでいる様なひとでしたし。元々そういう短い命の運命だったのかもしれないし」 ふう、と兼雅はため息をつく。「そういうことがあったから、正頼どのも息子達のことには悩みが尽きないな」 ええ、と仲忠もうなづく。「息子だけではない様ですね。今、七の君が背の君と喧嘩中なのだそうです」「何、喧嘩」「と言うか、七の君の方が一方的に怒っているとか何とか」「はて」「背の君の大納言どのはここ最近毎晩の様にやって来るのですが、いつも簀子で夜を明かす羽目になっているそうです」「そりゃひどい」「それだけじゃないです。最近では七の君が母屋の格子まで早く下ろしてしまって、周りに錠を掛けてしまっています。可哀想に思った女房が大納言どのに話しかける様なことがあったら、後でその女房は激しく責められるとか。だから本当に、簀子でお一人、ぽつんとお休みになるとのこと」 兼雅は呆れて顔をしかめた。「…浮気かい」「それ以外何があります? で、さすがに見かねた兄弟達もどうにかしなくては、と思ったのでしょうね。まずは忠純さんが気の毒に思って大納言どのとせめてお話でも、と行ったら、『夫婦のことに口を出さないで』とばかりに追い出されてしまったそうです」「ほぉ」「で、今日はとうとう正頼どのが七の君の所に直接話をつけるべく向かう、と聞いてはいるんですがね」「大納言は口は軽く冗談ばかり言って軽薄に見えるのだけど、ああ見えてなかなか真面目なのだけどね…」 大変だ大変だ、と兼雅は軽く首を振る。「そう考えてみると、歳を取るというのはなかなか便利なものだね。私も若い頃だったら、女を捨てるなど、考えも付かなかっただろうな」「おや、若返りなさったらいいのに」 薄い笑顔で仲忠は父を暗に責める。兼雅はそれは聞かないふりで。「ちなみに行純は誰が欲しいと思っているのかい?」「忠純さんが三宮にあげようと思って準備している姫の様です」「忠純は行純に、とは考えているのかね?」「全く」 大きく仲忠は首を横に振る。そしてため息混じりに。「だから面倒なんですよねえ」 「忠純にしてもせっかくの娘を行純にあげても何の利も無いからなあ。可哀想だけど行純は全く望みは無いね」「ちなみに」 にっ、と仲忠は笑った。「忠純さんは三宮を表向き、仁寿殿女御にも僕にも頼む、と言ってるんですよね」「…何を企んでいるのやら」 さあ、と仲忠は晴れやかに笑った。「…ではそろそろお暇いたします。家の件は何とかしますから、また何かありましたら僕に言いつけてください。できるだけのことはしますので」 頼むよ、と言いながら、兼雅はついこの頼りがいのありすぎる息子と正頼の息子達を比べてしまうのだった。【和菓子ギフト】聴松庵三笑 吉野のくずもち 9号 YKA-20【くず餅/和菓子/スイーツ/詰合せ/ギフト】
2018.01.23
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その十二の二 東宮の執着の強さに退出できない藤壺の君 やがて三条堀河の家へと辿り着くと、南の大殿に車を寄せ、皆それぞれ降り立った。 この夜の殿移りについては、宮、兼雅、仲忠とそれぞれがしなくてはならないことをそれぞれに分担していたので、移動中はまるで顔を合わせることがなかった。 その三人がここでようやく皆一斉に顔を合わせた。 兼雅はこの晩はそのまま、南の大殿の女三宮のところに泊まることとなった。仲忠は母尚侍の方へと向かった。「今から三条殿の方へ戻ります。でも母上、僕はまた明日も来ますから」 そう言って彼は正頼の三条殿の方へと戻った。 何せ涼に車も返さなくてはならない。向こうものんびりしていてはやきもきするだろう。* さて仲忠が返した車は予定通りに使われることとなった。退出する予定の藤壺の御方を迎えに行くのだ。 中心となるその車に、糸毛の車が三台、黄金作り、髫髮車、下仕えの車、合わせて二十台ほどが添えられる。 前駆もまた凄く、今現在都に居る四位五位の者は殆どやって来ている。 とは言え、実際のところ東宮は藤壺の退出を許した訳ではない。仲忠の読みより更に事態は厄介なことになっていたのだ。 仕方なく、正頼は皆を引き連れ、自分が直接東宮に頼んで退出を許してもらおうと思っていた。 さすがの東宮も、これだけの用意をされては断れないと彼は考えていたのだ。中納言忠純を除く一族の男達を皆連れて行くのだから。 そのまま彼等は朔平門、縫殿の陣に車を引き立てて行く。 一方東宮はと言えば。 正頼達のその様子を寝所にて昼頃から眺めだし、不機嫌そうな声で「妙に気分が悪いな」とつぶやく。その手には藤壺を捉えたままで。「…そろそろお起きにならないと」「嫌だ」 きっぱりと東宮は答える。 外では正頼が東宮に会おうと女房達に取り次ぎを頼む声がする。だが中の様子を聞くと、彼もそれ以上足を踏み入れることは出来ない。 仕方なく下に立ち、息子達はそのまた下、階を昇ることもできず、地面の上で待つ。 正頼は幾人もの人々を間に入れて藤壺に迎えに来たことを告げようとするが、なかなかその言葉が届かない。 そうするうちに、昭陽殿の君に女房が告げる。「うちの御方様と比べ、長年宮仕えをしている訳でもないのに一人寵を集めていた女が、今夜やっと里帰りをなさいますよ。ああ、すぅっと致します」 承香殿では下仕えの童などが、わざと聞こえる様な声で口々に言い立てる。「御方さまー、今日は絶対に吉日ですよー。縫殿の陣の方に、物でも散らした様に車が立ってます」「今日退出するんですよきっと。いえ絶対」「出て行くひとなんて、百本の楚の鞭で打ってやるのがいいですよ」 あははは、と不躾なまでの笑い声が正頼の耳に飛び込んで来る。彼は思わず爪弾きをする。せずにはいられない。 正頼は口走る。「…は、娘を持った親などいい犬乞食だな。娘の中でも出来の良いと思ったのを宮仕えさせたというのに、こうも悪口を聞く様な羽目になるとはな… だったらいっそ、犬や鳥にでもやって大切にしてもらった方がましだったかな」 ちなみにそんな正頼の言葉は東宮にもちゃんと聞こえていた。 女房達に「もう夜が更けました」と正頼が催促しても、知ったことではない、とばかりに無視し続ける。 困ってしまい、彼女達は正頼には「お伝えすることができません」と告げるしかない。 正頼は仕方がない、と孫王の君を呼び立てる。「…殿!」「いいか、藤壺に後ろの方からそっと申し上げるのだ。『度々退出をお願い申し出てもお許しが出なく、また今こうやってあなたに思いもかけず敵が多かったのを知り、心配のあまりお迎えに参りました』とな」「承知致しました」 うなづくと孫王の君はするりと裏側から忍び込む。 だがそれに気付いた東宮は慌てて起きあがる。あっ、と藤壺が思う間も無く立ちあがり、荒々しく出ようとする。 だが運悪くそこに脇息があった。「うわ」 東宮はつまづいて倒れ込む。屏風や几帳がばたばたと倒れ、彼自身は腰をひどく打ち付けてしまった。 孫王の君はうわぁ、と思いつつ、東宮のその様子をしばらく躊躇いながらも眺めていた。 やがて来た時同様、彼女はするりと抜け出すと、中で起きたことを正頼に伝える。東宮たる者のあまりの醜態に、正頼は大きく深く、しかし聞こえない程度にため息をつく。「ああ更に御気分を害したことだろうな」「…恐れながらその通りかと」 孫王の君も聞こえるか聞こえないか程度の声で答える。「だが翁のわしが夜分ここまでやってきたというのに、そのまま帰れるか」 めげてはいられない、とばかりに正頼は息子の一人に命じる。「顕純、そなたが行って東宮に申し上げるのだ。そなたは東宮亮だから、蔵人でなくともお側に上がって申し上げられるはずだ」 しかし顕純も気がすすまない。その役目であるから余計に、東宮の性格は良く知っている。「…ご機嫌が宜しくなさげですので…」「不甲斐ない奴め!」 そして東宮はその様子を聞こえる範囲で聞き耳を立てている。無論聞いていて気分の良くなる話ではない。ただでさえ腰も痛い。醜態を藤壺に見られたことも情けない。 その藤壺は、と言えば、それでもできるだけ平常心を保とうとしている様だった。表情をできるだけ動かさず、失態も見ないことにしようと決めているかの様だった。 だが東宮にしてみれば、それが余計に腹が立つ。彼はぐい、と藤壺を引き寄せた。「そなたが呼び寄せたのか?」「いえ、そんな…」「いや、そうだろう。そしてああやって親兄弟大勢で詰めかけて、私を責め立てるのだ。それも私に黙って」「…知らないことです」「そんなことは無いはずだ。いいか、これから私に黙ってそんなことをしてみるがいい。死んでやる。そなた無しで私は生きていけない」「…何をそんな不吉なことを…!」「いいやそうだ。ああやって皆で詰め寄ってそなたを無理矢理にでも退出させようというのは、一度出してしまったらもう参内させる気がないからだろう。そんなことは許さない。許さないぞ」 ぐっ、と抱きしめる力が強くなり、藤壺はうめく。 その動揺が伝わったのか、彼女の中、五ヶ月に育った子が無闇に動く。騒ぐ。外からも中からも責め立てられ、藤壺はどうしていいのか判らず、知らず、涙を流していた。 さすがにその様子に東宮も力を緩めた。自分に言わず、勝手に退出したがる。軽んじているのか、と憎くなる。だがそれを遙かに越えて、藤壺のことは愛おしい。 自分のその気持ち自体が東宮は嫌になる。そしてついこう口にしてしまう。「そなたが何も言わないからだ」「…」 藤壺は震えて何も言うことができない。「私はそなたのためなら何でもする、と言った筈だ。してきた筈だ。なのにそなたは今でもこうだ。強情なまでに私から離れようとする。誰のせいだ? 仲忠か?」「…そんな」「ああそうだ。入内さえしなければそなたは仲忠と一緒になれたかもしれない。あれと一緒になった妹の様な幸せが待っていたかもしれない。そうだ仲忠。私もとても大好きな男だが、時々居なくなってしまえばいいと思うこともある。親が大事にしている一人子、父帝にとっては、最愛の女一宮の婿に許した男、二つとなく労りたくなってしまう様な!」 違う、と藤壺は声も出ないままに首をただ横に振る。「その様にしていてもそなたはただただ美しいな、藤壺よ。だがその美しさは罪だ。一体そう、仲忠にも匹敵した様な男達が、どれだけそなたのために無用の者となってしまったことか! 天の下全ての人々を悲しませるためのものだな、そなたの美しさは。なのに心は善くない。何故だろうな」 矢継ぎ早にまくし立てられる言葉に、藤壺は水を掛けられた様にがたがたと震えた。 彼女自身、東宮がある程度その様に思っていることは知っていた。判っていた。 だがこの様にあからさまに怒りをぶつけられるとは考えていなかった。 怖い。怖くて仕方がない。彼女は汗と涙でびっしょりと濡れたまま、腹のことも忘れたかの様にうつ伏せで震えるだけだった。 そして東宮は思う。この様な姿をしていて、それでもこの女は美しいのだ、と。どうしようもない程に。「これからは私に隠し事などしないように。いずれにせよもうじき嫌でも出なくてはならないだろうから、それまでの辛抱と思うがいい」 その言葉に、東宮は自分をぎりぎりまで退出させないつもりなのだ、と彼女は気付く。「無理に退出しようとするなら、どうなっても知らぬぞ」 どうなっても。藤壺は脅えた。他の妃達から四面楚歌の中で、たった一人守ってくれなくてはいけない人からこう言われなくてはならないなんて。 彼女はぐっ、と息を詰め、見えない様に拳を握りしめて堪える。 そして強く思う。誰も自分を無条件に守ってくれる者など居ないのだ。 強くあらねば、と彼女は思った。* 正頼達は夜半過ぎまで立ち尽くしたが、結局暁には引き上げることとなった。 朝早く、親純を使いにして藤壺に正頼から文があった。「昨夜は道が心配でお迎えに伺ったのだが、お許しが出ないので暁に退出した。車などの用意をするのも色々と厄介だったのだが… 子供は二十人がところ居る訳だが、そなたばかりを秘蔵っ子扱いに育て、早く人並みになって、光栄ある身になる様にと思ってきた私だ。実際入内させ、次々と皇子を誕生させてくれたことは非常に嬉しく思う。 だが昨夜、そなたを待つ間、そこらかしこで聞こえてきた忌々しいそなたへの悪口に、私は大層気が塞いだ。 …いや私自身はともかく、そなたのきょうだいなど、若い者達に聞かせたい様なことではない、と思った。 どうか早く退出して、皆の気持ちを鎮めてやってくれると嬉しい」 藤壺がそれを読んでいると、東宮は「見せなさい」と言って取る。 父親としての正頼の心については、東宮も「実に気の毒だ」と思う。だがその一方で「退出せよ」との言葉に腹が立つ。 そこで彼は文を持ってきた親純にこう言伝させる。「藤壺を謗る言葉を聞いてしまったことは気の毒だと思う。だがここの他の妃達の女房が勝手にすることにまで私は責任が持てない。正頼よ、そなたにとって面目が立たないというならば、そういう言葉は聞かなければいい。態度が目に余るなら見なければいい」 親純はしぶしぶそれを帰って正頼に伝えた。無論彼の気分が怒るやら悲しむやら最悪のものになったことは言うまでも無い。 そんな夫の様子を見ながら、大宮は呆れ半分、情けなさ半分にこう言う。「だいたいそんな、これ見よがしに子供達皆ぞろぞろと引き連れて行くからいけないんですよ。しかも困った消息までして。あなたはともかく、子供達の将来のために困ってしまいますよ」 一方仲忠はそんな大宮の言葉をまた人づてに聞き、はあ、とため息をつく。 そして。「だから言ったのに。そう簡単に退出なんて無いだろうって。藤壺の御方自身は人並みでなく慎重なひとなのに、ああいうことがあっちゃ大変だ」 そう独り言を漏らしたとのことである。* 十二月。 京官の日がやって来て、左大臣忠雅、右大臣正頼、左大将兼雅が宮中に召された。 そして翌朝早くから、行事が済んだと言っては皆騒いでいた。 この時、正頼の家に関わる者達の中でも、大勢が新たに任命された。 衛門督には忠純の中納言、右近少将には親純、あこ君の一人が内蔵頭兼左衛門尉になった。だが彼等は誰一人として、東宮のもとへと慶びの挨拶には出向かなかった。 仲忠は、と言えば、帝の側に東宮が居ることから、皆に交じって参内する。その場で東宮が仲忠に向かって嫌味めいたことを口にするが、仲忠は気にしない。いちいち気にしていたらお勤めなどできないのだ。 挨拶もきちんとする。「先日は文書の講読で大変お近くに寄らせていただきましたのに、他のことで色々と忙しく、ご挨拶もできなくて失礼致しました。御仏名が終わってから是非、とも仰有られ、ひたすら文を読むようなことが続きそうだったのですが、何かと用事がございまして」 ですので、と仲忠は続ける。「年が明けましたら致すつもりでございます」 その様子を見て東宮は「上手く逃げたな」と思う。彼が決して好きで講読をしていた訳ではないこと位は東宮にも判るのだ。 そんな東宮はと言えば、ここしばらく藤壺を側から離さない。 本来彼女が居るべき藤壺ではなく、自分の御座所の近くに局を特別にしつらえ、そこから出そうとしない。 兵衛の君、孫王の君、あこぎの三人だけを側に置かせ、東宮はこう彼女に言い放った。「用があるならこの三人に言いつけるがいい」 それ以外の者を近づけるな、自分の側から離れるな。 そんな東宮の思いが鋭く彼女に突き刺さるかの様で、藤壺はぞっとする。 怖い。ひどく怖い。だが彼女はその一方でくっと口の中を噛みしめ、心に強く決意する。何も言うものか。脅えてみえるならそれはそれでもいい。 いずれは退出できる。しきたりがそうなっているのだ。しなくてはならない。その時までは心を強く持たねば。 不安になるのは自分ばかりではない。腹心の女房達、いやそれ以上に自分を宮中に入れた父母、一族郎党に及ぶのだ。 怖い。だが。 藤壺は耐える。≪森八≫宝達 7ヶ入【送料別】【のし可】【和菓子】【ギフト】【金沢銘菓】【贈り物】【お土産】【金沢】【石川県】【お取り寄せ】【母の日】【父の日】【御中元】【敬老の日】【御歳暮】【スイーツ】【プレゼント】【楽天グルメセレクション】
2018.01.22
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その十二の一 女三宮を迎えに行く さてその翌日のことである。 仲忠は装束を改め、香をしっかりと薫きしめると女一宮に向かって告げる。「三条の父上の家に行ってくるよ。ずっと考えてた、やらなくちゃならないことをやって来るから」「やらなくちゃならないこと?」「いろいろとね」 その辺りは曖昧にぼかす。こういうことはきちんと出来上がってから自然に知れる方がいいのだ。* 仲忠はまず三条殿の南の御殿へ向かった。涼の所だ。約束は守ってもらわなくてはならない。 やがて、お揃いの装束を整えた男達二十余人を付けて、新しい黄金づくりの車が用意される。 糸毛の車には束帯をつけた身分の低い男の侍が三十人ほど付けられている。 また、四位の者が十人、五位が二十人、六位ともなると三十人……とばかり、沢山の者がお供に、と控えている。 仲忠は彼等に命じた。「あのね、こんな感じにして欲しいんだ」 はあ、と彼等はうなづく。「まず、馬に鞍を置いて。そしてそれを『内緒の通い先から帰る男達』の様に引き連れて父上の家へと向かって欲しいんだ」 ややこしいことだ、とその場に居るものは思う。偉い人はそうなのだろう、と納得する者も居る。 ともかくその様に、との命である。従者達は言われた通りの態度を取る。そして仲忠は一度三条の兼雅邸へ向かう。 そこからは身軽だ。親子揃って一つ車に乗り込み、先駆けも二人ばかりで、彼等は女三宮の一条の家へと向かった。 一条殿に着くと、二人は西の門の方で車から降りた。 仲忠はそのまま女三宮のもとへ挨拶に出向く。 一方、兼雅は前々から気になっていた中の君の様子をこっそりと窺いに向かう。 ちら、と覗くと。 う、と兼雅は思わず声を立てそうになった。そこにあったのは、あまりにも哀れな光景だった。 部屋の中にはうち破れた屏風が一揃い。煤けた夏の帷子をつけた几帳を一つ二つ立てたところに中の君は居た。 そしてまたその姿が。 煤けて黒ずんだ白の袙に、所々破けた綾の掻練の袿を重ねただけ。 そして。やはり煤けた火桶に少しばかりの火を起こし、夜とも朝ともつかない様な食事をしている様に見える。 食台にあるのもごくわずか。白い陶器の椀に姫飯を少しだけ盛って、おかずには山椒と蕪の漬け物、それに固い塩だけ。 また彼女の前の調度と言えば、古びた革の蒔絵の梨地の箱や、硯の箱等が置かれているくらいなもの。 ふと見ると、乳母が櫛の箱の蓋を取りのけて、いつぞや兼雅が彼女にと贈った黄金の粒が入った柑子の壺から残りを掻い出している。 そしてその乳母の娘や孫が、中の君に仕えている様なのだが―――それだけである。他にちゃんとした下仕え一人も居ない。 兼雅は愕然とした。昔は華やかに暮らしていたのに。そのはずだったのに。 思わず彼の目から涙が溢れた。袖がびしょぬれになる程に泣いた。 元々彼は決して悪い男ではない。ただあまりにも正直で迂闊なだけなのだ。 ふっと見渡すと目の前に硯があった。そこから筆を少し借りると、兼雅は懐紙にさらさらと歌を書き、それを硯の上にそっと乗せる。 今すぐに彼女と直接顔を合わせるのは実に辛かったのだ。 一方、中の君は兼雅がそっと来て去って行ったのを知ると、嗚呼、と転がり廻って嘆いた。「あのかたに今のこんな様子を見られてしまったなんて… でもどうしたらいいの、どうにもならないことだわ、もうどうなったっていいわ、私に何ができたって言うの、全てあのかたのせいじゃない…」「御方さま」 乳母はなだめようとするが、彼女の動揺はなかなか治まらない。「それにしても嫌だわ。恥ずかしいわ。あの方にだけは、と隠していたのに。どうして私ばかりがこうなの? 私ばかり不幸なの? 生まれつきそうなる運命だったっていうの? ええきっとそうなんだわ。私のせいじゃない。運命よ。宿世よ。だからどうしようもないじゃない。けど嫌嫌、恥ずかしい…」 自分でもどうしようも無い気持ちをただただ繰り言にする中の君に、乳母もその子もおろおろとするしかない。ただその中で孫の童が一人、彼女に紙を差し出した。「…何」「御硯にかかっておりました」 見覚えのある筆跡に、中の君の表情が変わった。「―――見るからに涙が雨のように降って何もかもわからなくなり、言うべき言葉も見つかりません」 中の君はどう返事をしたものか、と思った。せめて、何か。すぐには浮かばない。 が、結局こう書いた。「―――かつては二人で眺めた雲井を、別れたきりお見えにならないので、独り恨んで眺めています」 さてそれではこの返しをどうしようか、と彼女が思ったとしても――― 悲しいかな、ここには兼雅を追いかけて渡せる様なきちんとした女房が居ないのだ。 中の君は返しを握りしめて、立ち上がり、寝殿に面した柱の辺りにたたずむ。 ちょうど兼雅が東の一の対、女三宮の居る辺りへ行くところが中の君の視界に入る。う、う、と彼女はただ声を押し殺してうめくしかなかった。 兼雅に追いつけないのが悲しいのか、悔しいのか、向かう女三宮が憎いのか、彼女にもよく分からなかった。 ただ暫くの間、じっと男の背中を見据えていることしかできなかった。 一方、女三宮の所には、二十人余りのきちんとした装束の仕える者や青い袙を着た童の姿がまず兼雅の目に飛び込んできた。 ここは昔と変わらない、と彼は思う。建物も、御簾や屏風や几帳といった調度も、その整頓も、そこで仕える人々の立ち居振る舞いも、彼がまだここに住んで居た頃そのままだった。 女三宮は仲忠が先に先触れをしていた為か、兼雅を迎える準備を既に充分していた。彼女は御簾の前に、褥を敷いて夫を待ち構えていた。 ああ本当に変わらない、彼女もまた変わらない、と兼雅は思う。 年こそ少し重ねたが、さほど容貌が劣ることもない。綾掻練の濃いもの薄いものを重ねた細長を季節に丁度良い程にきちんと着こなしている。 火桶もすっきりと手入れがされており、炭櫃には赤々と火が焚かれている。 やがて兼雅の前には昔と変わらず豊かな御馳走が出された。 兼雅は女三宮に向かって言う。「ここ数年は、朝廷からは見捨てられた様なみじめな有様でね。昔はそれなりに自分も出世するものだと思って、皇女であるあなたとそれなりにつり合いが取れるのではないか、と思っていたのだが… 今では私の出世も立場もここ止まりではないかと思っている」 女三宮はそんな兼雅の言葉を黙って聞いている。 無論彼女は、夫の言い分が本当ではないことは判っている。兼雅はあくまで仲忠の母である尚侍一人に心を奪われて、自分達を放っていたのだ。 そんなことは良く判っている。元々そういう人だということも、良くよく判っているのだ。 そんな彼女の気持ちに構わず、兼雅は尚も続ける。「そんな自分が恥ずかしく、わざわざそんな男があなたの様な方についていては、あなたの評判にも関わると思って、似合いの程度の女のところにずっといたのだ。だが私の命もこの先そう長くないと思うので、今私の住んでいる所… まあ、漁雄の住む様な所だが、時々いらしてはくれまいか?」 長い長い前置きの末、ようやく兼雅は本題を切り出した。ああやっと言ったか、と女三宮は思った。「…今では、こんな風にでも生きていけるものだなあ、と思う様になりました」 彼女はおっとりと言う。長い間自分を放っていた相手を恨むという風でもなく。正直、さほど関心が無くなっていたと言ってもいい。「私のことはそれでいいのです。ただ心苦しく思うのは、私同様、妹の女四宮も…… 多少気性も何ですが、夫に見捨てられ落ちぶれてしまった、という評判が多少なりとも立ってしまったことです」 女四宮が現在、東宮から避けられていることは既に噂になっている。「私達自身がどう思おうと、世間の口に戸は立てられません。『親である嵯峨院や大后の宮の面目を潰した』と言われる中、参内もできないこと、それが苦しうございました」 殊更にさらりと言うだけに、彼女の言葉は兼雅に突き刺さる。「以前は『暫くのこと』だとあなたは仰有って、時々はおいで下さったものの、その後… それを思うと、今の妹の様子も非常に自分と重なって悲しく思われることです」 そうかそういう問題もあったのか、と兼雅は思う。女三宮だけの問題ではなかったのだ、と。彼は自分の迂闊さを呪った。「それで先日仲忠どのに申し上げたのです。女四宮のこともあるから、と」 成る程それで熱心だったのか、とようやく兼雅は納得した。 やがて彼の前には、昔と変わらぬ程の御膳部が出てきた。とりあえず何かしら口にしつつ、兼雅は考えることにした。 ふと、彼の目に、見覚えのある女房がよぎった。「そなた、そう、左近と言ったな。昔を思い出して、私に湯漬けをもてなしてくれないか?」 言われた側の左近は、ああ覚えていてくれたのか、と恐縮しつつ、金の坏に湯漬けを用意し、おかずとなるものを一緒に非常に美しく盛りつけて兼雅に差し出した。* 一方その頃、仲忠は仲頼の妹の住む方へと向かっていた。 簀子の辺りに彼が立つと、女性の声がする。「まあ、思いもかけない方がおいでになって。…誰かの所とお間違えになったのでは?」 いいえ、と仲忠はにこやかに答える。「皆さんがあなたをお探しだったから、それをお知らせしようと思って」「そんな人は知らないよ、と仰有ったので、まあそんなお気持ちだったのか、と気が付きました」 妹君はそう言うと、簾のもとに几帳を立て、仲忠に茵と、絵を美しく描いた赤色の火鉢を火を起こして差し出した。「もう少し近くにいらっしゃいませんか? 山に住むあなたの兄君とは僕も仲良くしていて、いろいろお話したものです。あなたもそれは聞いていると思うのだけど」「あなた様のような素晴らしい方のことなど、法師となったひとの知ることではないだしょう。それに兄も、私の所には何の音沙汰も無く」「どう致しまして。とっても良く知り合っている仲です。そう、先日もこれはあなたに言うべきだったと思ったんですが、あなたが彼の妹君だということを知らなくて、大層失礼致しました。父から聞いて、これは大変だとこうして伺った次第です。あの仲頼さんの妹君ならこれはもう、急がなくちゃ、と慌てて」 まくしたてる仲忠に、くす、と妹君の笑う気配がする。「本当言うと、色々聞いてはいました、あなた様のことは、兄から。でも今は疎遠になっていると噂に聞いておりましたので…」 遠慮していたのだ、と仲忠はぼかした言葉の向こうを推し量る。「ねえ、これからは双側に親を持っていると思って欲しいんです。僕は、うちの父と仲頼さん、両方の代わりになりたいんです。僕は大した者ではないけど、あなたにとって、多少の頼りにはなるとは思うんです。どうでしょう? …あ、そうだ」 ぽん、と仲忠は手を叩く。「仲頼さんは出家してしまって… あの奥方はどうなさったのでしょうか。今どちらにいらっしゃるのでしょう?」「ああ、あの方でしたら、親元にいらっしゃいます」「宮内卿どのの所に?」「ええ。先頃お訪ねした時には、私も身につまされて悲しく思いました。吹上から兄が帰還した頃がございましたでしょう。あの頃を思い出したのか、ずいぶんとお泣きになりました。あの頃はとてもあのお二人は仲がよろしかったのに…」「あの頃は、楽しかったなあ。確かに…」 仲忠もしみじみと思い返す。「あの方も、兄同様に出家したいと言われている様ですが、ご両親がお許しにならないので、せめて心ばかりは、と思って日々をお過ごしになられている様です」「彼には子供も沢山いて賑やかだったと思うんですが、男の子だったか女の子だったか… 今幾つくらいですか? どうしてますか?」「女の子が一人、十少し、というところですか。男の子は二人。女の子より一つ二つ下ですわ。女の子は母君のところに、男の子は何やら物を習わすと言って、兄の元に呼ばれています」「へえ、いいなあ」「この上の子が、兄によるとずいぶん見込みのあるらしくて、自分より優れていると言ってましたわ。弟の方はさほどではないので、兄は困っている様です」「彼は楽器なども、大層良いものを持ってたけど。山に持っていったのかな」「子供に習わすから、と後で取り寄せました。ただ女の子には習わせません」「何故でしょう」「さあ… ただ、兄はいつも、今居るところよりもっと山奥へ奥へと入りたい、と言ってよこします」「…どういうつもりなんでしょうね。そういう寂しいところに、幼い子供達と住んで。 ―――睦まじいひとも妻までも捨てて、寂しい山にどうして独りで住む気になったのだろう―――」 そう仲忠が詠めば、妹君はわっと泣き出し、こう返した。「―――頼みにした夫も時々見えた兄も忘れることができないで、独り住みは里にしても心憂いものでございます」 彼女が落ち着くのを待って、仲忠はこう言った。「今日は女三宮が三条にお渡りになるというので参ったのですが、私の住まいもそのうち広くなると思います。その時にはあなたをお迎えしようと思いますので、暫くはご辛抱願えますか」「…そんな」「僕がそうしたいのです。それでは」 そう言って、仲忠は女三宮の居る側へと戻っていった。* やがて時も経ち、日も暮れる頃、兼雅は車の用意を整わせる。 十二月、寒い時期である。政所から炭を沢山取り出し、所々に火を起こさせる。 車に付き添って供や前駆けをする人々には餅や乾き物を出すなどの気遣いも忘れない。樽に入れた酒は貝づくりの器でもって温められる。果物や乾物などもそこに添えられる。 やがて出発の時間が来る。まず髫髮や下仕えと言った者達が控えの車に乗る。 次々に人々が乗って行く訳だが、その様子が外を窺っていた中の君にも判る。「…そうよね、今日は女三宮さまをお迎えにきたのよね…」 乳母達は女主人を心配気に眺める。「私は一体どうしたらいいの。この返しの文さえ、あの方に見せることすらできないままなのかしら」 先程書いたものの、渡せないままになっている文を中の君は握りしめる。 そんな彼女の気持ちが伝わったのだろうか。女三宮を車に乗せて出した後、中の君の所へと足を向けた。 顔を出す訳ではない。だが言葉は伝えなくては、と兼雅は声を上げる。「今日は女三宮のためだから、今度改めて必ず迎えに来るよ」 すると中の君はたまらなくなって、手の中の文を思い切り投げた。 お供の一人がそれを拾うと、兼雅に届ける。彼は後で読む、とばかりにそれを懐に入れ、車に乗り込んだ。 仲忠は馬に乗って、前駆の役をしていた。 その様子を見た世間の人々は驚くやら感心するやら。「…大将ともあろうお方が、継母に当たる宮をお迎えして前駆の役をお勤めになっていらっしゃるとは!」 家に居たものも車を引き出してわざわざこれを見物しに来る。中にはわざわざ馬を駆り立てて来る者も居る。由緒ある檳榔毛の車から簾を上げて身を乗り出し、落ちそうなくらいの姿勢でしげしげと眺めている者すら居る。 さすがにその様子には仲忠も呆れて、見物車の側によるとこう言った。「何をご覧になってるんです? 僕? そうでしょ、僕以外に見るものは無いでしょう?」 くすくす、と笑いながら。そして適当に女三宮からは視線を外させながら。【楮紙】土佐和紙白上仲(手漉き・晒楮)
2018.01.21
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その十一の一 今宮の産養、そこでの仲忠と涼の言葉遊びと懐古 やがて涼の妻、今宮の産屋では七日の産養があった。 涼の里方である紀伊守種松が、その際の御馳走を引き受け、御座所の準備もしていた。 簾の縁には浅黄で緑色の綺をつける。 南の廂に懸けて巡らせた壁代には白綾を使って光沢を出した。 畳には紺の真綿で作った薦畳に紫の裏を張って、唐錦の縁を付けている。席には白い綾を使っている。 茵には上席を敷き、またその上にもう一つ重ねている。それらは簀子にも置かれている。 浅香の机、銀の容器、黄金の土器、外側を檜皮色、内側に金箔を塗った沈製の火桶、そして銀で作られ、内側は黒く塗られた火鉢。その起こし炭までが全て上等なものである。 そのうちに正頼の息子達が皆やって来た。上達部は上に、息子達は簀子に控える。その他の客はまだ来なかった。 そんな中、涼は仲忠にこう招待の文を送ってきた。「―――松風をはらむあなたもおいで頂きたいものだな。生まれた子があなたにあやかる様に――― ぜひ来て欲しいな」「ああもう、こんなに催促されないうちに行こうと思ってたのに!」 受け取った仲忠は苦笑しつつ返事を書く。「―――あえることをご存知のお子さんは、千年を経た待つを吹く野分の様に末が長いだしょう――― すぐにでも行くのに、『和え物』と言われるとちょっと行くのが恥ずかしいですよ」「あそこは流石に人が大勢見えるし、晴れがましい場所なので…」 そう言って仲忠は紅の装束も綺麗にして出掛ける。涼はやってきた友をたいそう喜んで出迎えた。 近衛府の者や奏者などもずらりと既に揃っていた。 やがて平中納言や藤大納言忠俊や藤宰相実正といった人々もやって来る。 料理が出てきて、酒を酌み交わし、談笑などする中で、詩の議論も始まった。 だが涼と仲忠はその仲間には加わらず、二人で話し込んでいた。 涼は仲忠に向かい、しんみりと語る。「人の心程判らないものは無いな。少し前まで、私は自分がここの婿として住むことになるなど、考えたことも無かった。藤壺の御方が入内なさった時は、それこそ絶望のあまり法師になろうか、死んでしまおうか、それとも滋野の帥がした様に、怒りにまかせた文を帝に奉ろうか、などとも考えたものだよ」 仲忠は涼のそれが、言葉遊びを兼ねたものだということを良く知っているので、黙って聞いている。「でも考えてみれば、皆馬鹿馬鹿しいね。そんなことしたって何にもなりはしない。それでまあ、当時は気を紛らわすために多少そこらの女にも手を伸ばしていたんだけど」 くす、と仲忠は笑う。「おやおや、嘘だと思っている。まあどっちでもいいさ。そのうちここの大殿に、今宮の婿にどうだ、ということを言われてね」 何ですか何ですか、と周囲は涼の言葉に耳をそばだてている。それ故に彼は本心ではない自分を作る。「さすがにそれはひどい仕打ちだと思った訳だ。姉は駄目だからせめて妹を、という。だからちょっと大殿を懲らしめてやれればな、と思って了承した訳さ」 内情を知る仲忠からしてみれば、涼の冷静なその話っぷりが可笑しくてたまらない。笑いを抑えるのが精一杯だった。 口を開くと何やらぼろが出てきそうなので、彼はただもう、黙って聞いてやるふりをとっていた。「で、一晩通って、今宮が綺麗な女だったらもう一晩は行ってやろう、可愛かったら二晩は行ってやろう、と思ったのさ。だって、大殿は私のことを融通の利かない田舎人と思ってそういう仕打ちをするのだもの。そのくらいの仕返しもしなくちゃ、と思って二晩は通った訳さ」「実際美しかった訳でしょ?」 仲忠はようやくそう口を挟む。「まあね。だから二晩泊まった訳さ。でもほら、君同様に三日目、帝から召された晩があったろう? あの時はさすがに、もう止めだ、と思ったんだけどね。で、帝の御前で夜が更けるまでお仕えしていたんだけど、そのうちさすがにこのままじゃあ彼女が可哀想だよな、と思ってね。…そんな訳で、今この三条殿で君や皆と一緒に居るのさ。都で生い育った皆だったらこうやって納まってはいないと思うよ」「まあ。ね。でもここの大殿もあなたのことは元々色んな約束を破ってしまったこととか、気にしていたから」 ふふ、と仲忠の言葉に涼は微笑む。「そうかな?」「少なくとも帝や院のお言葉に背いてしまった訳だからね。東宮さまに藤壺の御方を入内させてしまったことは、かなり無理矢理だった訳だし」 そうそう、無理矢理でしたよね、と耳聡い周囲からも同意の声が挙がる。「でもそもそも僕等が当時の貴宮に恋して文を送ったのは、彼女が美しい、という評判からだったでしょ。その点だったら涼さん、あなたの今の奥方もそう変わりはしないでしょう? 小さな頃から大殿も大宮も大事に育ててきた姫なのだから」 そう言いつつも、二人は苦笑をお互いに隠せはしない。 姿形はそう変わらないかもしれない。しかし性格は。 そのことを知っている二人はただもう笑いを噛み殺すしかなかった。 涼は流れにそって話を進める。「だからこそ今こうやって居るんじゃないか。今更何処へ行けるって言うんだい? とは言え、天下広しと言えども、貴宮以上の方が居たかどうか。…と世間の評判だけどね。そうそう、入内されてからなら君は結構見てるんじゃないかい?」「何言ってるんですか。そんなことできる訳が無いでしょ」「ふふーん? さてどうかな? まあ私が知ってるのは、髪がとっても美しくって色が白くて目鼻立ちが整っているということぐらいだけどね。君ならもっと良く知ってると思ったけど」「ふうん。それで、次にご執心のひとのことは?」「さあそんなひと居たかな」「涼さん、今夜は可笑しいよ」「そうかな」「そうだよ」 とうとう堪えきれずに仲忠は笑い出した。周囲はいきなり様子の変わった仲忠に唖然とするが、涼は名の通りの表情で友を眺めているだけだった。 やがて笑いが治まった頃、涼はおもむろに杯を渡す。礼を言って口にすると、人心地ついたのか、仲忠は周囲をぐるりと見渡す。「どうしたの」「うん… 実は、さっきここに来る時に、どっかで見た様な童が居たと思ったんだけど。いい子は居る?」「童ねえ… まあうちには沢山居るからね。さてどの子かな。承香殿女御に仕えていた子も居るけど」「うーん… もしかして、僕がまだ中将だった時、灌仏会の童に召し出された子かなあ」「ああそうそう、その子。『これ君』って言うんだ」「そうなのか。僕が前ここに一日居た時、扇を鳴らして『夕方いらっしゃい』と言った子が居たんだ。なかなか物慣れた子だと思ったら、そういう縁があったのか」「まあそういうこともあるかな。私は童だったら藤壺の御方の所に居る『あこぎ』が一番だと思ってるけどるそれ以上の子は今のところ居ないと思うね。ええと、兵衛の君の弟だったかな」「『あこぎ』は木工の君の弟だよ。そうそうこの間、宮中に呼び出されていた時、結構暇つぶしにあこぎを捕まえてはお喋りの相手にしたな。話しやすいんだ」 そんな風に仲忠も涼も、話ばかりをただただ続け、側にある楽器にも手を触れずじまいだった。 いや無論、自分の子の産養であるし、気分ではないのは仲忠も判る。だがやはり楽器があって名手が弾かないというのは。彼は自分のことを棚に上げて考える。 そこでついこう口にしてしまう。「ところで涼さん」「何だい?」「どうしてあなたは今日この場で、僕を呼んでおきながら、琴を弾くでもなく、話し相手にばかりさせておくの」「いいじゃないか、ここ暫く君もそう来ることもなかったし、せっかく人の親となったことだし、今までを思い出してしみじみと語り合うばかりというのもいいんじゃないかな? だいたい私の琴など聴く人も居ないだろうに」「僕が聴くんじゃ物足りない? 一生懸命に聴くけど」「君の様に、人をとんでもない格好で走らせてしまう程の腕じゃないもの。まあ男は漢才などを身につけるのが一番いい訳で、様々な遊芸はそうそう極めることなどできないのだから、しない方がいいのさ」「成る程。じゃああなたはその琴の腕は今度生まれた子に伝える気は無いんだ」 涼は意味ありげな顔で黙って微笑む。「…うちのは女の子だしなあ… うん。子供はいいよ、涼さん。もう抱っこした?」「…や、まだ…」 それには涼はやや言い籠もる。「まだ汚い頃だから、ちょっと見ることもできなくて」「何言ってるの。僕はもう、生まれたらすぐに懐に入れてたよ。汚いなんてそんなことないって」「そりゃ君の子の様に姫だったらね。でも男の子だし。きっと私より出来の悪い子だよ。けど男の子で、大したことが無いんならどうしようもないね。女の子だったら将来が楽しみなんだけど。琴も習わせるし、色々綺麗なものを与えて、様々な所と交際もさせて… 楽しいだろうな。うちには女の子に必要なものを集めた倉だってあるんだよ。なのに使うこともできない。つまらないじゃないか」「だったら僕に下さいな。あなたに役に立たないなら、うちの子犬ちゃんにあげるから」「そうだね、君のとこの姫がうちの子の妻になってくれるのならね。そう約束してくれるのなら、全部あげたっていい」 くすくす、と涼は笑う。「やだなあ、縁起でもない」「いつかはお后に?」「さあどうでしょう。ただ、生い育つに従って夢というものが出て来るでしょう。その夢が最初から無いというのも、ちょっとね」 成る程、と涼は仲忠にもそれなりの野心があることに心の奥をくすぐられる。「けど涼さん、僕等はまだまだ自分達が子供だと思っていたけど、とうとう親というものになっちゃったんだよね。気持ちの準備はできている?」「…いやあ、その辺りがね」 実を言うと、と涼は目を伏せる。「晦日の夜までは、私は産屋に入れてもらえないんだ。何かしきたりがあってね」「…妙な家風だなあ。僕はもう、親になったかどうかという気持ちも無いまま、ともかく女一宮のところに飛び込んでしまったよ」「…そりゃ帝の女一宮を得た君だもの。誰も止めやしないさ。鬼も神も遠慮してそうそう邪魔もしないだろう。鬼やらいも急がなくていいくらいじゃないかな」「そう言えば」 仲忠はふっと目を細める。「僕等が吹上に出かけていって、あなたと最初に出会って色々遊んだ時には、こんな今が来るなんて思いもしなかったな。あの時は本当、今では思いつきもしないようなことを色々やったなあ」 確かに、と涼は黙ってうなづく。「あの頃僕等はまだ上達部の端くれに引っかかった程度だったけど、今は公卿で。…あの時一緒だった仲頼さんも出家しなかったら、蔵人頭くらいにはなっていた筈ですよね。元々身分の高いひとだったし、帝からも目をかけられていたひとだったのに… そんなひとが山に籠もってしまって… どうしてるかな、最近忙しくて訪ねたりできなかったんだけど… 涼さんはどう? 仲頼さんの所へは」「私は時々出かけているよ。そう、ちょっと前には、寒くなるから、綿入れの着物とかも縫わせて、草餅とかと一緒に送ったり」「年が明けて花盛りの頃になったら、皆で仲頼さんの所には行きましょうよ。行正さんも連れて、皆で詩を作りたいな。懐かしい楽しいことは忘れちゃいけないと思うんだ。今が世知辛いのだったら余計に、あの頃のことはきらきらした思い出として大切に大切にして、ずっと持っていたいよね」「今はそんなに世知辛い?」 涼は問いかける。「ううん、そういう訳ではないけれど。今は幸せさ。本当に。宮は愛しい。子犬ちゃんは目に入れたくない程。だけどそれでもあの頃、僕等男だけでわいわいと何処かで浮かれ騒ぐ、なんていうのはもう思い出の中にしか無いでしょ」 決して今が嫌な訳ではない。けど。「それに今は殿上の間に彼が居なくて、管弦の時なんかもう一層寂しいじゃないの。いつ何が起こるか判らない世の中だもの。聴きたいと思う音楽をいつでも聴けるからって惜しんで聴かずにいて、そしたら何の前触れも無く明日死んでしまうようなことがあるかもしれないじゃない。そしたら何の生きてる甲斐があるんだろ」「…」「それにいつかは僕等も年とって行くんだよ。その時にはいくら身につけた技芸だって、手が動かなくなり声も出なくなるし、頭だってそう。気付かないうちにいろいろ忘れていってしまうんだ」 だからね、と仲忠は涼の手を取る。「ほら今から琴を弾いて下さいよ。平然と雲の上に居る様な顔してないで、この世の中に降りてきて、僕にも帝にも、あなたの養父母にも皆に聴かせてくださいな」「…そうだね」 涼はうっすらと微笑む。「したいことをできる時にするってのはいいね。生き甲斐のある世の中だ。じゃあ君も弾くんだね」「いやそこはまず涼さんから」 そんな戯れ言の様な、そして何処かに本気が混ざっている様な会話をしながら、結局は琴に手を触れない二人だった。 元々弾かせる気はあっても弾く気は無いのだ。できるだけ人前では。【和菓子】三十石船 12個入り【あす楽/関西エリア】【カステラ】【おまんじゅう】【大阪産(おおさかもん)】【ご自宅】【プレゼント】【詰め合わせ】【ギフト】【大阪】【お土産】【敬老の日】【楽ギフ_包装】【楽ギフ_のし】【楽ギフ_のし宛書】
2018.01.19
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その十の二 兼雅が後にしてきた女達のこと、そして正頼体制に対する愚痴愚痴愚痴 その様に仲忠が女三宮と話している間、お供について来た人々は、宮の家司から政所に呼び入れられ、酒などを出されていた。 主人のほうには、美味しそうな果物や乾物などが湯漬けや酒と共に出される。 この賄いをしたのが、昔兼雅の召し使っていた右近というひとだった。今でもその容貌は衰えず、美しいままである。「…ああ、これが、父上が忘れられなかった程の一人ですね」 思わず仲忠は大きくうなづく。「そういうことを? 私の所には、良いとか悪いとかそういうことでは、そう思い出す様な者はおりませんのよ」 宮は苦笑する。「これからは僕もあなたを忘れないよ」 そう言って仲忠は改めて右近に杯を差す。 その様子を見ていた宮は、とうとう自ら几帳の側まで進み、仲忠に度々酒をすすめる。「ああ、ずいぶんと酔ってしまった」「まあ。そんなにすすめた覚えはないのですけど?」「御返事が無いと帰れないし。女三宮さま、どうぞこちらへ置いて下さいな」「まあ」 宮は思わず呆れる。困ったものだと思いつつ、返しを書き出す。「珍しいあなたからの御文は本気でもあるまいと存じますが、不思議にも誠実で熱心なお使に心を惹かれてしまいました。 ―――どれほどの年月をお恨みしていたから存じませんが、その間中泣き暮らしておりました―――」 宮はそう書いて、醜く枯れ、紅葉の、枝にしがみついている様な一差しに文をつけて仲忠に渡した。「夜の錦ということですね」「…あなたが辛いと思うことは無いのですよ、仲忠どの」 それでもやはり、やや申し訳無さそうに仲忠はそこから退出する。* 南の大殿に差し掛かった時、仲忠に向かって柑子を一つ投げつける者が居た。「お、待っていました」 仲忠はそう言うと、それを拾って胸元辺りまで差し上げる。 同じように東の一の対、二の対から、それぞれ橘と大きな栗が投げ出されてきた。 仲忠はそのどちらも拾い上げる。 すると一の対から、三十歳くらいの人が、上品な愛嬌のある声でこう問いかけた。「さあ、誰の所へ投げたのでしょう」 ふふ、と仲忠は笑う。「きっと『浮かれ人』にじゃないですか」 そう言って帰途についた。* そのまま三条の兼雅の家に向かうと、仲忠はまず兼雅に女三宮からの文を渡し、その時の様子を話した。 兼雅は文に目を通しながらつぶやく。「…お気の毒なことを仰る。時めいていた昔でも、皇女としては栄えの無い立場だった。ましてや今は、生きるにも甲斐がないと思うのに… よく承諾したな…」「父上」 咎める様な目で仲忠は父を見る。「ああそうだ、仲忠、一条殿は荒れてはいなかったか? どういう風に宮はお住まいだった?」「奥の方は見ませんでしたが、見える限りでは、格別荒れた様子もありませんでした。政所の家司も沢山居りましたし、下人も多く、倉を開けて物を出し入れしていました」「それは良かった。困っている様子は無いのだな」「はい」 兼雅は露骨にほっとした様子を見せる。「元々あの宮は、嵯峨院から見れば三人目の皇女だが、母君からすれば一人娘だからね。その母君という方が結構な資産家だったから、受け継いでそのまま裕福に暮らしているのだろう。その中でも特に細やかな調度などは、宮の方にあるのだろうね」 成る程、と仲忠はうなづき、納得する。しかし。「…ん? 何かまだ言いたいことがあるのかね?」「ええまあ」 仲忠はそう言うと、懐から先程投げつけられたものを取り出した。 柑子に栗と橘。「これは?」「父上がお忘れの、お気の毒な所を通りかかったら、ひどく打たれてしまいましたよ」 ちら、と仲忠は父を見る。 「…変なことをするものだな。どれ、見せてみなさい」 兼雅はそう言ってまず栗を取る。 するとその栗は、割って中の実を出して入れ物にしたものだった。実の代わりに、檜皮色の色紙に次の歌が書かれて入っている。「―――去ってしまうとしても、来ればお立ち寄りになった道ですのに、今ではお通りになっても過ぎてしまうあなたの無常な仕打ちを見るのは悲しいことですわ―――」 これは、と兼雅の顔色が変わった。 物も言わずに次に彼は橘の方を見る。それもまた、中身をくり抜いた中に、歌が書かれた黄色の色紙が入っている。「―――昔のことを忘れかねて、住み慣れた宿を離れることが出来ないでいます―――」 慌てて兼雅は柑子の方も手に取る。そちらには赤みがかった色紙にこう書かれていた。「―――私の親は私共二人を結んで安心してこの世を去りました。それなのにどういうおつもりで私のことをすっかりお忘れになってしまったのでしょうか―――」 ああ、と一声うめくと、兼雅はその場に泣き崩れた。 その様子を見て尚侍は気付いた。「…このひとは、この様に沢山の、相思ったひとを全て捨てて、私とだけで暮らしてきたのだわ」 そう思うと、様々な思いが胸に沸き上がってきて、彼女もまた涙を流さずにはいられなかった。 仲忠はその母の涙を見て、ここで出すのでは無かった、とやや後悔する。母を悲しませるのは本意ではないのだ。 それでも兼雅は、何とか立ち直ると、ぼつぼつと話し出した。「…この柑子を投げてきたのは、故式部卿宮の中の君だ。父宮が私を呼んでこう仰った。『私はもう長くない。可愛い可愛い娘のことが心配だ。そなたは浮気者だという評判ではあるが、私の娘は大事にしてくれるね』と。そして彼女が十三の時に見初めて、その後まもなく宮はお亡くなりになった」「ほう」 仲忠は冷ややかな目で父を眺める。「堀河へ来てからずっと放っておいてしまった。きっと私のことを恨んでいるだろう」「そうでしょうね」「そう言ってくれるなよ」「だって実際そうでしょう。では栗を投げた人は?」「彼女は仲頼少将の妹だ」「…仲頼さんの!」 仲忠は驚く。自分の親友の。「あのひとは、立派な人の妻に納まるべき素質を持っていた。遊芸の面では、兄の少将にも勝っていただろう」「…そんなにも」「本当に、この様な暮らしをするべき人では無いのだ。姿形も美しく、愛嬌もあった」 仲忠は思わずため息をついた。どうしてそういう人を忘れられたりするんだろう。「では橘の所は?」「あれは先日話したろう? 先の大臣、橘千蔭どのの妹だ。大臣とは腹違いでな、皇女を母とする方だ」「…ちょっと待って下さい父上」 仲忠は手を挙げる。「当時お若かった先の方々はともかく、先の大臣の妹君ということは」「うむ、まあ何というか」 やや言い辛そうに兼雅は口ごもる。「嵯峨院の梅壺の御息所と言って、大変な色好みだった方が当時居られてな…」「無理矢理妻にしたのですか」「…そういうことになる。歳は私より大分上で、親子くらい離れているはずだ」 何とまあ、と仲忠は呆れる。「…他には?」 もう驚かないぞ、とばかりに仲忠は重ねて問いかける。「西の対には、更衣だったひともいる。先の宰相中将の娘だったが、琵琶の名手だった。その女は子供を一人生んだ様だが…」「生んだ様だが、じゃありませんよ! 父上の子供ということは僕のきょうだいじゃありませんか!」 どん、と仲忠は床を叩く。「…い、いや、他にもあるんだよ。数えきれない程にはね」「…威張ることですか」「いいじゃないか、私は『色好み』で通ってたのだから。それが許される立場だったんだから」「他の誰が許そうとも、この仲忠には納得がいきません。…ああもう、その方々に、母上がどんなに恨まれているかと思うと」「…そ、そうか…そういうこともあるな。…うん、ともかくこの中の君には返事を書こう」「どうして中の君だけなんですか! 全部書きましょう全部!」「…全部かね」「受け取ったのは僕ですし。受け取らなかった、父上に見せなかったと思われるのは嫌ですし」「そうか…」 兼雅はやれやれ、という顔になると、人を呼んでこう命じた。「納所にある大柑子の中から、大きくて疵の無いものを三つ持ってきてくれ」 そして底の凹みのある所から中の実を取り去り、壺の様に細工する。「…さて、何を入れたものやら」 細工を終えた兼雅はつぶやく。すると尚侍がすっと小さな桂の箱を兼雅に差し出す。「何かね」「御覧になれば判りますわ」 蓋を開ける。そこには金の粒がぎっしりと詰められていた。「…ああこれは。これなら… 向こうも助かるだろう」 尚侍は黙って微笑む。 渡された金の粒を、兼雅は柑子の壺の中にそれぞれ縁までいっぱいに満たした。その上に蓋として、切り取った部分を乗せ、全体を黄色の薄様の一重ねで包み込んだ。 まずその一つ、柑子の相手、中の君にはこう書きつける。「―――父君と昔固く約束したことを忘れていないのに、あなたと訪ねないという私は真の私ではないのでしょう―――」 栗を投げた仲頼の妹の所にはこう書き付ける。「―――宿を出るとどこと言って当てもなく彷徨うので、どう歩いているのかはっきりしないのです―――」 そして最後の一つ、橘の所には。「―――私が通った宿を形見として、物思いに沈んでいるあなたを哀れに思わない日はありません―――」 そう書き付け、それぞれに印をする。 そして「これは南の大殿、それは…」と区別し知らせる。仲忠はそれを聞いて、御供の中の小舎人の中に居た殿上童を呼ぶと、届ける様に命じた。「ところで父上、除目がありますけど、おいでになりますか?」 仲忠は父に問いかけた。「は、どうして参内なんかできようか」 兼雅は皮肉気に笑う。「また何故」「何故とそなたが聞くのか? そなたにとっても面目つぶれなこの父に」「また面目つぶれなどと」「実際そうだろう。先にそなたが昇進した際も、正頼どのは右大臣になったが私はなかなかなることができなかったではないか」「大臣に欠員が無かったんですから、順番として仕方ないでしょう」「その欠員だ。どうしてその欠員が無かったんだ。誰かが辞職くれていれば良かったではないか。この頃ではもうあの右大臣の一族で独占して、金釘の様に固めてしまった。そなたまでも引き込んでな」「またそんな」「いやいや実際そうだ。だいたいそなたを女一宮の夫にして、一族に組み入れてしまったではないか。そなたを中納言にするべく空けさせた場所には、親である私こそを入れるべきではなかったか?」 仲忠はまた始まった、とこっそりため息をつく。 父は基本的に悪い人物ではない。だが能力の無さを愚痴にするあたりは仲忠もややうんざりするのだ。「正頼どのは仁寿殿女御を大事にするあまり、そなたもまた大事にしてくれる。まあそれはそれでいいんだが、では私は何だ? そのそなたの父親であろう? その私を差し置いて、正頼どのは今は内裏で好き勝手している。全くけしからんことだ」「はあ」「新嘗祭の時もしばらく参上してなかったから、帝の御顔も勿体なく思いつつ行ったら、右大臣が我が物顔に内裏で得意になっているし、孫である女御腹の皇子が選りすぐった玉の様に居並んで、子供達のほうはまたそれに群がる雲の様に着座して跪いていたよ。東宮になるべき藤壺の御方の皇子のことまで考えに入れると、もう私などこういう栄華には縁が無いことだよなあ、と考えるともう気が塞いで気が塞いで」 兼雅はため息をつく。「ああもう、一体どういう人が、そんな素晴らしい皇子達を産む『あそこ』を持つ娘を持つのか、と思うよ。そうかと思えば、もう一つの『それ』があって、こっちはこっちで蜂の巣か何かの様に皇子を産みまくっている。天下の皇子達は皆正頼どののところの『あそこ』から出てきてしまうかの様だな。今度の御産でも藤壺の御方は、きっと男皇子を産むよ。私の梨壺は、今頃妊娠したところで、十二月の月夜の様に誰にもいちいち気にされたりしないだろう、凍える様に弱々しい女皇子を産む程度だろうよ。運が無い者というのはだいたいそういうものだ」「まあ何をおっしゃるのです」 尚侍はさすがに口をはさんだ。「どうしてちゃんとお話にならないで、こんな品の悪い、毒づく様な事ばかりおっしゃるのですか! 昔を思い出して不機嫌になるのではないですか? 仲忠を子に持ったことを嬉しいとは思わないのですか?」 彼女にしては珍しく強気で兼雅に詰め寄った。「まだ腰が曲がる程歳をお取りになっている訳でもありませんから、それなりに出世なさることもありましょう。娘では上手くいかなかったとしても、男の子の子孫にもいい事があるのではないですか? 嫌ですわ、世間の人の様が深く考えもせず口にする様なことをぽんぽんとおっしゃるなんてはしたない。あなたの様な方は、特に口になさらない様にしているはずのことなのに、わざわざ随分詳しくおっしゃること!」 さすがに妻の滅多に見られないその怒った調子に、兼雅は驚いた。決まり悪そうに笑い、何とかこれだけ絞り出す。「冗談、…そう、冗談だよ」 何とか機嫌を直してもらおうと尚侍のほうを向くと、彼女はぷいと背を向けてしまっている。 その背に掛かる髪ときたら長さは九尺くらいで、つやつやと美しく、御座所一杯に広がって、実に見事である。 兼雅はその一房を手に取ると、顔に近付ける。「…そう、この髪の美しい後ろ姿に魅せられて、私は聖人君子の様になってしまったのではないか。美しい女をたくさん家に据えて、女三宮を奪う様にして連れてきて、然るべき御方と崇めて、その一方では人妻にもあれこれ手を出していたなあ。行かないところは無いというくらいに。おかげであちこちの人から憎まれたりもしたものだ」「ほぉ」 仲忠はやや呆れた様に声を立てる。「それに比べ、今時の人は不思議に真面目だな」「それは僕のことを?」「さあて。ともかく私は恐れ多くも天下の帝の御娘を妻にしながら、その宮の御姉妹の皇女達や、人妻なら帝の女御まで残さず自分のものにしてきたものだ。きっと前世の罪が軽かったので、私にはそういうことが許されていたのだなあ」「何ですかそれは」 さすがに仲忠も脱力した。「自慢げに言うことじゃないですよ。僕は独身だった頃に貴宮のことを好きだったこともあったけど、良い機会があっても何もしなかったものですよ」「私だったらそんなことはしないよ。いや今だって。そうそう、その方だって、退出して里内裏に居たら、その時酔っぱらったふりをして、部屋に入り込んでしまうんだ。そうしたら何もできまい」「成る程、酔っぱらったふり、ですか」 仲忠は相槌を打つ。「そうそう。それで傍の者が騒いだら、『ああひどく酔ってしまったな、ここは何処ですか、中の大殿ではなかったですか』とあくまで酔っぱらいを決め込むんだよ」「…ずいぶん悪いことを色々なさってきたんですね?」 ちら、と尚侍は横目で夫を見る。兼雅は慌てる。しまったこんなことまで、と。「仲忠は、父上がどんなことを言っても聞かないように、はやくあちらへいらっしゃい」 はい、と笑いながらうなづく仲忠に、尚も兼雅は言葉を投げる。「けど仲忠。男というものは自分をいちいち反省して、外聞を憚っていたら、理想の妻など得られないよ。普通に文を通わせて、親から許される時を待つという様なまだるっこしいことをしてるだけじゃ、何も出来やしない」 仲忠は何も言わず、口元だけを片方上げる。「相手の隙を見て、奪い取ってしまえばいいんだ。ましてそなたが心を乱して漁り歩いたところで、いい女にぶつかるという訳でも無い。まあ、藤壺の御方と、そっちの涼どのの所の奥方は早くものにするといいよ」「…いつまでもその話をしているのでしたら、もう一つの用件は勝手に決めさせていただきますよ」「もう一つの、とは何だ?」「車のことです。女三宮を迎える時の」 ああ、と兼雅は急に現実に戻った様な声で答える。「できれば新しいものが良いので、そういう所から借りて来ようと思うのですが」「ああそのほうがいいね。今からいちいち作るというのも何だし」「…で、此処暫く、太政大臣どのがご病気ということで――― 父上、何かその辺りで御消息は?」「いや、今はどのくらい病気が重いのかな… 弔いがある様なことがあったら消息もあることだろう」「右大弁の藤英どのの言うことには、大臣の病は重いもので、もう辞表を二回提出されたそうです」「二回か… それはそれは」「そういうこともあってか、何かと皆車が出払っている様で。涼さんに借りようと思っています」「彼の所なら十台くらい軽くあるだろう、お前同様、妻ひとりに一途な様だし、物持ちだし」「そうですね。そうした方がいいかも。ですので父上、お迎えの時にはよろしく。僕も出来る限りのことはしますから、もうどしどしと」* 仲忠が帰ると、兼雅はようやく、とばかりにうーんと伸びをする。 そして傍らの妻に向かって宥める様に囁く。「ああもう、妙なことをする子だ。自分ばかりいいひとの様な顔をして… 全く、母の敵を引っぱり出してくるなど、子として何を考えてるんだ。そりゃ仲忠にも考えはあるんだと思うからいけないとも言えないが…」 と言葉では言うのだが、心の中では仲忠に感謝する兼雅であった。いにしへ 華舞 浴用タオル 約31×81cm レッド 手ぬぐい 和柄 扇 UCHINO ウチノタオル 【内野タオル】 ギフト対応 贈り物 プレゼント
2018.01.19
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その十の一 仲忠、父に本来の正妻・女三宮を迎えさせようとする「い、いつからだ、それは… 東宮さまはご存知か? …まさか梨壺が、何処かの男と…」「何言ってるんですか父上!」 ぴしゃりと仲忠は怒鳴りつけた。「冗談でもそんなこと言わないで下さいよ! 東宮さまがどうして知らないことがありますか! そもそも梨壺の君のところには、…まあ藤壺の御方はともかく、他の妃の方々よりは随分と東宮さま招いているんですよ! ご自分の娘がそんなに信じられませんか?!」「そ、そうか…」 兼雅はほっと胸を撫で下ろす。ああもうこの父は、と仲忠は眉を寄せる。荒げた調子も整えて。「七月くらいからだということです」「そうか… それならまあ、よかったよかった。いやもう、昔梨壺を入内させて、この先頼もしいと思った頃には全くそんな兆しも見えなかったのに…」「こればかりは天の配剤。どうにもならないことでしょう」「だがしかし、こう騒がしい世に、ともかく懐妊したということは、何か不思議だな」「僕が参内していた時、東宮さまも帝に知らせよう知らせようとしていた様でした。東宮さまはこの程は、帝のお側に二日ほどいらっしゃいましたよ。以前よりも御立派になった様な気がしました。御即位が近づいたせいでしょうか」「東宮さまか…」 ふむ、と兼雅は顎に手をやる。「とても御立派な方だとは思う。思うのだが、現在藤壺の御方以外の妃に目もくれない状況というのは困りものだな…」 仲忠は黙って微かにうなづく。兼雅は続ける。「しかし藤壺の御方というのは凄い女性だ。現在はもう、后並みの扱いを受けている様なものだ。次の東宮に成りうる皇子を一人でなく、二人までお持ちだ。こういう幸福を独り占めしている様な人を、何でもない私達只人までが懸想していた訳だ。何とまあお気の毒なことをしたものだな」 どちらにとっても、と兼雅は微妙に含める。「あちらも梨壺同様、またご懐妊だそうです。少し梨壺よりは遅れて、だそうですが」「それは… ふむ。惜しいことだ。明王とおなりになる筈の東宮が、ただいまは大勢の方々を嘆かせておるのだな」「ええ」「藤壺お一人のために、他の妃達が父母同胞と一緒に嘆く。その下も嘆く。一体どれ程の者があの方一人のために嘆くことになるだろうな… 特に嵯峨院の女四宮はどう思っておられるのだろうな」「帝もそれをたいそうご心配に。…それでですね、父上」 口調がやや改まったものとなる。「な、何だ」「父上も東宮さまのことをおっしゃる前に、どうか梨壺の君の母上、女三宮をお訪ねになって下さい」「は? 何を突然」 兼雅は驚く。まさかそこで自分が出てくるとは思わなかったのだ。「帝はこちらにもそう仰られたのですよ。さりげなくですがね。妹君お二人までが似た様な哀しい境遇にあるのはたまらないものでしょう。…と言うか、女四宮の件と梨壺の件があったから、きっともう一人の妹君のことを思い出されたのですよ」「ううむ」「嵯峨院の御世も長くはお続きにならないでしょう。ですから、せめてお元気なうちに。宮にこう申し上げて下さい。『こちらにいらっしゃい』と」「…何故だ? そんないきなり」 兼雅は息子に向かって問いかける。そんな、父の妻に関することに息子が口を出すなどと。 尚侍は不安そうにそんな二人を眺める。「ここはとても広いですから。僕のためにと父上が新築して下さった所にぜひ」「…何でそういうことを言うんだ。ここ三条の家は、そなたの母のためにと上げたところだ。そこに他の者が住むのは―――」「心変わりだ、と母上に思われたくないと。そういうことですか?」「仲忠!」「すみません。お気持ちは非常に素晴らしいことですが、それは父上の独りよがりな思いではございませんか? 母上の気持ちを聞いた上でのことですか?」「いや、それは…」「全く違う宮とか女性ならともかく、おおもとの正妻である女三宮でしたら、母上とて何の不都合も無いのでは?」 ちら、と尚侍の方を仲忠は見る。「それにこの三条の家全てを宮に差し上げるのではなく、お招きして、そこへ時々父上が通うだけなら、何の遠慮がいりましょうか?」「お前そうは言うが」「母上だったら、きっとこう思うのではないですか? 自分が来る前はあんなに遠慮も無く振る舞っていた身分も高い方が、自分のせいで肩身の狭い思いをしている。ああ何って自分は罪なことをしている、辛いことだ、と」「ええ… 確かにそうですわ」 尚侍はそう言ってほろほろと涙を流す。「つい最近まで連れ添った方で、しかも今は宮仕えをなさっている御方までお持ちになっているというのに、今こうして侘びしい生活をしているのとは、どんなに哀しいことでしょう…」 仲忠の言葉に、尚侍は口を添える。「そうです仲忠、何も心配することはありません。母はここ数年ここにこうして居ることで、殿の御心は充分過ぎる程判っておりますから。もし今、殿が母を忘れてしまったとしても、何も恨む筋合いすら無いことです。それより何より、そなたの口からその様なことが出る、それが母はとても嬉しいのです。立派なことです」 二人の会話を聞いて、兼雅は頭を抱え、ため息をつく。「…ああもう、二人で勝手に… 私は知らない。二人の間で勝手に決めるがいい」 そう言って退散しようとする父の着物の裾を、仲忠ははっしと引き留める。「そうはいきませんよ父上」「…一体何をさせようというのだ? お前は」「御文をお書き下さい。『何日に御迎えに参ります』と」「何だと」「それを持っていった上で、向こうの方にはこれからのことは詳しく申し上げましょう」「…そなたの口から言えばいいだけじゃないか。今更私が何を?」「いいえそうは行きません。父上の御文無しでどうして僕は行けましょう」 そう言うとてきぱきと仲忠は硯や墨を揃えて父の前にどん、と置く。「…何を書けばいいんだ? さて。今更別に書くことも無い」 そう言いつつ、兼雅はさらさらと書いた。「数年来、如何と申し上げるのも恥ずかしく、今ではどうおなりかとお案じ申し上げております。 不思議な気がするのですが、どうしたことでしょう。昔の様に歩き回りもせず、無精になったのは。衰えて役にも立たなくなったのでしょうか。もうろくしたのとかさえ考えます。 そういう訳で、そちらにも疎遠になりました。 ここ三条は誰かしらおりますから、嫌だと御覧になる所もあろうかと恥ずかしくて、わざわざ申し上げることもできませんでした。 こちらに住むひとのことは全くご存知ではないとのこと。この際、むさ苦しいところですが、こちらへお引き移りになりませんか? そうなさって下さるなら、当日迎えに参ります。 改めて考えてみると不思議です。 ―――どうして長い間疎遠に過ぎたろうと思います。恨むという時さえ無しに。 詳細は使いに出す仲忠の方からお伺い下さい。仰せは承る様に、と申しつけておきます」「はい、素晴らしい御文です」 仲忠は満足そうに大きくうなづくと、それを押し巻いた。「さすがに今日すぐにということはできませんが、明日必ず参ります。女三宮のことはいろいろと思うにつけて、おいたわしく存じ上げることがありますからね」* やがて日が暮れてから、仲忠は涼のところへと、家司の中でも気の利いた者を召して使いに出した。 「何を」と問いかける父に、仲忠は「少々借りたいものがありまして」と答え、三条の父の家を後にした。 返事は、中の大殿に戻った仲忠が髪をとかせて入浴をしている時に来た。 涼は予想通り「喜んで」と返してきた。仲忠は使いの者に沢山の禄を渡した。「ずいぶんと身支度を熱心にして。どうなさったの」 寝所に入ると、そう女一宮は問いかけてくる。「明日はね、そのまま会うには恥ずかしくなってしまう様な方のところへ行かなくちゃならないんだ」「…何処なの」「嵯峨院の女三宮。あなたの叔母にあたるひとだね。僕の妹の梨壺の君の母にあたるひとだ」「その方のところへわざわざ…?」 怪訝そうに女一宮は首を傾げる。「色々あるの」 そう言うと、仲忠はそのまま休んだ。* 翌日目覚めると、美しい直衣装束を取り出して、薫物をしっかり染み込ませて、仲忠は出掛けることとする。 その途中で藤壺の生んだ宮達が走り回っているのを見て、ふっと仲忠は笑った。* 女三宮の住む一条殿は二町の広さがある。 中の大殿、すなわち寝殿があり、その東西に対の屋。渡殿がそれぞれに通じる様に掛けられている。 寝殿から東の対屋にかけては宮が占めている。 西には、兼雅の子を一人生んだひとや、昔寵を受けて全盛だった人達が、対屋の一つずつに住んでいた。 全体的に、庭の池、木立の佇まいなど、実に良い風情がある。 元々この一条殿は、兼雅が入内する娘、梨壺の君のために作ったものであるが、今ではその母である女三宮が主として住んでいる。 他の人々も、上達部や皇子の娘ではあるのだが、親からは見放された形となっており、ただもう兼雅の世話にだけなって暮らしてきていると仲忠は聞いている。 それだけに現在の様に寵も衰えてしまったというのに、帰るべき里も無い。立ち去ることすらできないのだと。それぞれの使人らしい者も、見込みの無い主人を捨てて、次々と去ってしまったとも。 とりあえず仲忠は、東の一、二の対、南の御殿の前から、宮へと丹後丞を使いとして文を送る。 すると兼雅の妾達についている女房は、こそこそと言い立てる。「…ご主人様を悩ませた盗人の一族が何を! 冗談にも程があるわ。きっとあれよ。ここを寺と間違えたんだわ。そして途方もない願文を捧げてるのよ」 もっともその様に言う者だけではない。今までの生活から救い出してくれる方がやっときた、とばかりに揉み手さすり手をする者も居る。或いは様々な呪文を唱える者も居る。 かと思えば。「…ああ、何って素晴らしい方なんでしょ。あの方を子に持つ方だもの。どうして殿がおろそかになさることがあるのかしら。私達の不幸は全て前世の宿縁が切れたからよ」 そう言って泣く者も居る。 中には自分の不幸も忘れ、仲忠を見て褒め称える女主人も居る。 仲忠はそんな周囲の騒ぎはとりあえず受け流し、静かに歩いて、多くのお供を率いて寝殿の階の所に立った。 すると宮の使う、可愛らしい童が四人程、大人が十人程やってきた。「…宮様はこう仰っております。あなた様に来て頂く筋合いは無い、間違いでしょう、と」「ええ、今日このたびは、私は父兼雅の使いで参りました」 仲忠はそう返させる。 女房達は南の廂に御座を敷くと、可愛らしい童を通して仲忠に「こちらへ」と伝えた。 やがて女三宮と対面が叶うと、仲忠は即刻用件を伝えた。「度々参上したいとは思っていたのですが、いつも何やかや、忙しいことがありまして…」 几帳の向こうに遠く、宮からの返答は無い。「今日は父の使いで参りました。と申しますのも、『この御文を他の者から差し上げても信用なさらないだろう、ちゃんと御覧になる様に』ということで僕が直接」 そう仲忠が告げると、ようやく女三宮は返事をする。「仰る通り。あなたの様なお使いでなかったなら、思い出すこともなかったでしょう…」 そう言って兼雅からの文を受け取る。「…仲忠どの、これは誠に兼雅どのからの文ですの?」「はい」「怪しいですね。一体、本当のお心でこの文をお書きになったのでしょうか」「どうして嘘など。ご安心下さい。父は『三条の館には大勢住んでいますから、昔のようにはいきますまい。もしかしたら不愉快なこともあるかもしれない。だがやはりこちらへ来て欲しいのだ』と」「…」「向こうには大した女人は居りません。ただこの仲忠の母のみが、女あるじの様にして宿守をしております」「その方お一人こそ、世間のさばさばして考えも無い女達大勢より、私には恥ずかしい方なのです。…時々お会いした折りにも、私の側から嫌なこともあったでしょうに、一体どういう」「そんなことはございません」 仲忠はきっぱりと言う。「僕の母、そのひとこそが、いつも貴方様のことを思っては悲しんで父に申しておりました。それ故に、父もこうして思いだし、御文を差し上げるのです」 宮はため息をつく。「仲忠どの、私の人生はまあこんなものです。このままでも生きていけるでしょう。ただ父院が、『私の面目を潰す様な者が生き長らえるのが気がかりだ』と仰るのを聞くのが、大変悲しいのです」 やがて女三宮の目には涙が溜まり始める。「何も気の強いことを申したとて、勇ましい訳ではありません。兼雅どのが私のことを少しでも考えてくれた、と父院のお耳に入れば充分です。本望です」「ああ、それなら」「…ただ、何れにせよ、これとはと人に見られもし聞かれもする位に言い交わした女が、男から忘れられてしまう程情けないことは無いでしょう。そしてあなたの母君、あの非の打ち所も無い、申し分も無い北の方が現在は居るというのに、そこへどうして私が行かれましょう。…でも」 宮は苦笑する。「ここはあなたに免じて、私は参りましょう」「本当ですか?」「嘘は申しません」「ありがとうございます! ああ今日ここに来た甲斐がありました。では二十五日あたりにお迎えに参ります。つきましては、父へその故を少々お書き願えませんか」 そう言って今度は宮からの返事を催促する。「そのようなもの…」 女三宮は躊躇する。「わざわざ書かずとも、私がこう言ったとあなたがおっしゃって下さればいいでしょう」「それは困ります」 仲忠は本当に困った様な表情になる。彼も確約を取れないことには本当に困るのだ。「御返事をいただかないことには、僕のほうが本当にそちらのご意向を伺ったのか、と父上に疑われてしまいます」 そうですね、と宮は考え込む。帯締め 振袖用 正絹 <4色/桜・鞠刺繍> 丸ぐけ 日本製【あす楽 成人式 結婚式 振袖 帯締 帯〆 和装 振袖用 着物 金 赤 水色 青 黄 緑 桜 さくら 鞠 まり 丸ぐげ】
2018.01.18
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その九の三 甘えまくる仲忠と石帯の件 さて、仲忠が勝手にさっさと女一宮を連れて行ってしまったことで、乳母の右近は頭を抱えた。「ああもう仲忠さまときたら! だから申し上げたではございませんか。せっかく御髪をお洗い申し上げたのに、また滅茶苦茶になってしまうではないですか。ああもう、また明日もお洗い致しませんと」 すると女御は苦笑しながら諭す。「静かになさい右近。まあそう言うものでは無い。仲忠どのも夜も昼も御前にいらしたのだから、随分お疲れだろうに。宮と一緒でようやくゆっくりできるというなら、そうなさったほうが良いではないか。何も御髪のことなど、また洗えばいいだけのこと」「その御髪洗いの手間が…」 繰り言を口の中でぐずぐず言っているので。「何もそなたが気にすることではない」 女御はそう言った。さすがに右近もそれ以上こぼすことはできなかった。* 仲忠は結局それからずっと寝所の中に籠もりきりで、翌日の昼になるまで出てこなかった。 御膳部を持ってきて食台などの音をさせても全く聞きつけた様子も見せない。 女房達は困ってしまい、とうとう中務の君が「お食事でございます」と直接仲忠に呼びかけた。 すると仲忠はこう答えた。「…僕今、凄く眠いからね、小さい盤に少しだけ分けてくれないか?」 仕方ない、とばかりに女房達は中の盤に分けて、また別に少し分けた菜などを出すことにする。 仲忠はそれをまず宮に食べさせて、自分はその残りを少しだけ食べて、またごろりと横になってしまった。* その翌日もまた彼等は寝所を出ようとしない。周囲の女房達も、さすがに呆れるというものだった。 しかし。「それでもこれでは出ない訳にはいかないでしょうね」 彼女達はそう顔を見合わせる。「仲忠さま、尚侍さまからの御消息でございます」「母上から?」「どうしてまるでおたよりをくれないのですか。以前からあなたが言っていたことを、こういう時に、と考えておいたのではないですか。今日はそれにとてもいい日だと思うので、こちらにいらっしゃい」「あ、そっか」 そういうことがあったな、と仲忠はようやく思い出したらしい。「ああもうこんな時に」 そう言ってとりあえず「これから行くから何も申し上げない」という意味の返事だけ持たせ、出掛ける準備を始めた。「ずいぶん急ぐのね」 女一宮はそんな仲忠の様子を見ながら、やや呆れた様に言う。「だって母上の言葉には動いた、という噂が広がれば、また他に行くところがすぐにできたら困るじゃないか。お呼びがかかった、ってことが噂にならないうちに急がなくちゃ」「ふーん。そういうもの?」「そういうものなんだよ」 そう言いつつばたばたと仲忠は支度をし、実家の方へと出向いた。 しかし女一宮は首を傾げる。どっちにしたって動いたのは母の言葉くらいなものだ、という事実は変わらないのから急ぐ必要など無いと思うのだけど、と。* 三条の屋敷では、犬宮の産衣の品々が調えてあった。女一宮への贈り物も同じく、その様子は正頼方へ持っていっても引けを取らない程だった。 たとえば洲浜。湧き水の側に鶴が立っているものなのだが、その鶴の足元に、金の毛彫りで葦手書きにした次の歌があった。「―――今夜から鶴の子/犬宮が絶えず流れる水に幾代住むのを、老いた私達/祖父母は見ることができるだろう」 その様な贈り物の数々を尚侍は仲忠に見せる。「これはまた、凄いですね」「全くだ」 兼雅もそれを見て感心する。「それにしても仲忠、ずいぶんと閉じこもっていた様だが?」「えー」 こほん、と一つ咳払いをしてから仲忠は改めて挨拶をする。「ここしばらくずっと参内して、夜も昼も文を読んでおりました。一昨日ようやく退出でき、そのままこちらへ伺いたいと思っていたのですが、どうも気分が悪くなりましたので、その日は一日、中の大殿に居ました。まあその名残でしょうか、昨日も今日もなかなか起き出すことができなくて。それでも母上からの御文がありましたので」「それはそれは」 兼雅はにやりと笑う。「伺おうとは思っていたのですよ。お見せしたいものもあったし、父上に申し上げたいこともありましたし」「見せたいもの?」「これです」 そう言って仲忠は帝から貰った例の石帯を兼雅に見せた。お、と父の表情が変わった。これは一体、とばかりに目を見開く。「例の蔵から、お祖父様の文書が出てきました。そのことを帝に申し上げたら、見たい見たいと仰るので」「成る程それで、か」 納得した様に兼雅はうなづく。「そしてこの帯は、その講読に対し賜ったものです」 そうか、と兼雅は苦笑する。「祐純が言っていたよ。『帝は世の中の貴いものは全て仲忠にやってしまう。皇女の中で最も可愛がっていた女一宮も、いつまでも手元に置きたいと願うような宝物も』ってね。これを見れば、確かにその言葉も間違いじゃあないことが判るな」 そう言って石帯を取り上げてまじまじと眺める。「亡くなった前の右大臣どのの帯だと聞きました」「らしいな」「で、これは僕が持っているより、父上の方がいいのではないかと思って」「私にか?」「だって最近何かぱっとしないですよ、父上」「…それはあんまりじゃないのかい?」「僕はいいんですよ。お祖父様の蔵の中には、唐渡りの品の中に、良い感じの石もありましたから、それを帯に付けて細工させようと思います。その貞信公の石にも劣らない様なものがありますから」 そう言って仲忠はにっと笑う。「…全く、何を言うのだろうなこの息子は。せっかく帝が勿体ないお心でもって下さったものを。節会などに付ければいいではないか。何も私の所へ持って来なくとも。ここには他にもいろいろあるし」 しかし仲忠はそんな父の言葉などさらりと受け流し。「だったら、僕のところの石や、そうそう、角もあるんですよ。拵えて父上に贈りましょう。何かと宝物を持っていると危ないことが起こるところでした」「…そういうことは軽々しく口にするものじゃないよ。それで。他に言うことがあるんじゃなかったのかい?」 石帯のことをきりにしたいと思ったのか、兼雅は次の話をうながす。「ええ。何と言うか、実に珍しいことが起きましたので」「何かあったのか? 宮中で」「ご報告が遅くなって非常に申し訳ないと思っているのですが」「…じらすな。何があったんだい」「梨壺の君ですが」「…ああ、ずいぶん顔も見ていない」 そんなことか、とばかりに緊張気味だった兼雅の表情が緩む。「薄情な父上ですね」「…お前はまあ、そういうことを言いに来たのかい」「まあ近いですが」「…全くお前は本当に私のことを父親と思っているのかい?」「時々疑いますが」「…おいおいあまり私を虐めないでくれ。ともかく話を戻そう。梨壺に何かあったのかい?」「退出する時に、せっかくだから異母妹の顔を見ていこう、と梨壺へと出向きました。御前でおめでたいことを聞きましたので」「おめでたいこと」 兼雅はすぐには判らない様だった。だがやがて。「そ、それはまさか」 兼雅は身体を乗り出す。「ええ、梨壺の君はご懐妊されております」【送料無料】 うば玉 井津美屋【和菓子】【和風】【京都】【もち】【こしあん】【スイーツ】【黒糖】 【smtb-k】【ky】【京銘菓】 【FS_708-9】KY
2018.01.18
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その九の二 石帯の件と久々の女一宮との睦み合い 一方、髪洗いをしている女一宮だが。 髪洗いは実に大仕事である。朝早くから日の暮れるまでその作業は続く。 何せ普段はせっせと梳ることでほこりや何やらを落とすだけのその長い髪を洗うのである。 湯汁で度々洗い、お側の女房達がその側に並び、その度に洗髪料である「ゆする」を通すのである。女一宮の髪は長く豊かなので、その作業も一苦労である。 ゆするで洗った後、清水ですすぐと、丈の高い御厨子の上に褥を敷いて、その上に髪を広げて乾かす。厨子は仁寿殿女御の部屋の前に廂に横様に立てられた。 そして母屋の御簾を上げて風通しを良くした上で、それでも見られてはならないと几帳を立てた。 髪の大本、宮の居る母屋には火桶を据えて火を起こし、薫物をくべて匂わす。そして濡れた髪の湿り気を女房達が集まって拭いて、火に炙って乾かすのである。「…こっちに渡って乾かせばいいのに」 さすがに焦れた仲忠がそう言って寄越すと、女御は娘に苦笑混じりに言う。「ああ言っていることですし、向こうで乾かしたらどう?」「別にこっちでいいわ」 素っ気なく女一宮は答える。 そこに右近の乳母という女が口を挟む。「ぜひそうなさいませ。そのままもし殿が宮さまをお連れして御寝所にお入りになられたら御髪が滅茶苦茶になってしまわれます。御産をなさったその日にもご一緒なさった方ですから、せっかくの御髪にお障りにならないとは言えません」「まあ何って品の無いことを言うの。黙っておいで」 宮はぴしゃ、と叱りつける。 そう言っているうちに、直衣を着た仲忠が、中の妻戸を押し開き、女御の前にやって来てひざまづいた。 ちなみにその場には正頼も居た。 女一宮は姿が丸見えになってしまう、とばかりに慌てて屏風を取り出させたりする。 すると仲忠は呆れた様に、「そのままでもいいのに。早く乾かしてね。…向こうにも御厨子はたくさんあるけどね」 多少妻に対して嫌味など言い、その後女御の方へと向き直る。まずは挨拶から。「今朝宮中で、帝の仰言がありましたから、できるだけ早くこちらへ申し上げようとは思ったのですが、ちょっと気分が悪かったので、なかなか出て来れずに…」「帝は何と仰せでしたか?」 女御は問いかける。「『仲忠が女御に犬宮の乳母の真似事をさせているのではないか』とのことでした」 あら、と女御は首を傾げる。「そういうものかしら。見ると聞くとは大違いだとよく言われますが、成る程、帝はそんな風に思っていらっしゃるのですか。でも駄目ね。今ではこの犬宮を見ずにはいられないわ」 心底嬉しそうに話す。「私も沢山宮達を生んだけれど、皆顔もろくに見ないうちに参内しなくてはならないことが多くて。けど犬宮はもう生まれるその時から見ることができて、今は毎日毎日こうやって世話することができるから、もう可愛くて可愛くて。ええ、あの子を置き去りにして参内なんて、とつい思ってしまうのよ。それに何と言っても、ここは宮中の様に、見栄を張ったりして表向きに気を配る必要もない宮仕えですもの」「これこれ何をおっしゃる。私の子供の中では、あなたが一番果報者だというのに」 正頼は慌てて口をはさむ。「この多くの宮達を全く悪いところも無く育ててくれて、それぞれ将来も頼もしい様子で、元気で走り回り、また兄弟一緒に仲良く遊んでいるところを見ると、私はよくぞ素晴らしい娘を持ったものだ、と有り難く思うよ」「そうでしょうか? 父上。私はこの大将や犬宮を見ていると、天下の后の位も羨ましいとは思いませんわ」「そんな、畏れ多い」 仲忠も小さく口をはさむ。「でしょう? 女一宮は今までもこれからも、比べる人も無いほど幸せだと思いますのよ? 様々な物思いも知らずに来られているのだから。私などそれに比べれば」 仲忠はそれを聞くと笑った。「なかなか耳が痛いですね。女御さまがおっしゃる様なことはこちらには特別には無いのですよ。女一宮ときたら、僕が犬に食われたとしても、そんなことはどうだっていい、という顔をするでしょうから」 まあ、と女御も正頼も笑う。「…それはそうと、帝から、東宮の御即位の儀が近づいた様な仰言がありました」「そうか。朱雀院の修理が終わったらしいし… そろそろ、か」「今回は東宮も殿上にいらしていて、間近で講義を致しましたので、よくお姿を見ることが出来ました。しばらく見ないうちに、また御立派な方に」「いや全く、我が国の帝としては勿体無い程のお方だ」 正頼は大きくうなづく。「で、今回は宮中でなかなか厄介な事を仰せつかりましたので、あの素晴らしい東宮の御前では、さすがに気後れ致しました」 そうかな、と正頼は苦笑する。「その時に五宮もいらしたのですが、あの方は大層派手で、しかもいつも何かしらそこで見つけようというご様子で御覧になるのです。こちらは読むだけと言えば読むだけなのですが、非常にやり憎うございました」「それは難儀なことだったな」 ははは、と正頼は笑う。「しかしまあ、そのおかげで、貴重なお品を帝から賜りました」「どんなものを?」「石帯です」「…ちょっと見せてもらえるかな?」 何か思うところがあるのだろうか、と考えつつ、仲忠は早速その帯を取りに行かせた。 やがて、大事そうに袋に入った螺鈿の箱が持って来られた。 正頼はその中から石帯を引き出してみて驚いた。「これは…」「どうなさいましたか?」「これはまた、世に二つと無いものだ。これを帝が差し上げたい、と思うあたり、凄いものだ」「一体…」「これは小野宮の大臣――― 貞信公秘蔵の石帯で、大変貴いものだ」「そうなのですか!」 仲忠は改めて驚く。「かつて、この石帯を巡ったいざこざの為にあの真言院の律師は家を出て、山に籠もることとなった。元の持ち主である大臣は、我が子が行方をくらましたことに絶望し、それ以来小野に籠もってしまわれた」「そんなことが」「その時に『もうこの帯を譲る者も居ない』ということで嵯峨院に奉られたのがこの石帯なのだ。今の帝が東宮の位に居た時に、院はお渡しになられた。帝はこれを貴い宝としていたものだ。貴重な帯は沢山お持ちだが、これほど大切にしていたものは無いだろう」「…そんな素晴らしいものを――― ですが、これを賜ったのは、藤壺の御方のお陰です」「またあの子が何を」 ふっ、と正頼は笑う。「実は、東宮さまが藤壺の御方に御文を送り、その御返事を待って大層深くお考え込みになっている、そのご様子が僕は気になって気になって。ついつい変だな、と思っているうちに、書を読み違えてしまったのです」「それは」 ぷ、と正頼も吹き出す。「帝がお笑いになったので、これはまずい、困ったことになった、と思って、震え声で続きを読んだのですが… それでいて、『この講読の禄には何がよかろう』などと仰せられ、…結果、この帯が」「それはそれは」「そんなことでもこんな重い禄を頂戴できるものなのですね」 そう言いつつ仲忠は苦笑した。* やがて女御が自身や宮達の前に膳部を供えさせる様にする。仲忠はまだ食事前だったので、正頼が酒を奨める。 そうこうしているうちに、急に邸内が賑やかになった。「どうしたのだ」 正頼が問いかけると、女房の一人が焦り気味に答えた。「源中納言さまの北の方が、ご出産とのことですが、大層お苦しみでいらっしゃるということで」 それを聞いて北の方――― 今宮の父である正頼は女房に命ずる。「典侍をやりなさい。こういう時には、良く心得た者で無いといけないだろう」「は、はい。既に典侍どのは昼頃お召しがありましたので、参上しております」「よし、それではわしも行こう。立って見守るしかできないのが辛いが…」 そう言って正頼は涼と今宮の住む側へと向かった。 仲忠も友人とその妻のために出向きたいと思った。だがさすがに疲れた身体に酒が入っていたので、身体が重く、動く気になれない。 やがて生まれた、との知らせが入った。仲忠は心底ほっとした。 女御はそんな仲忠の様子を見て、考えるところがあったのか、奥へと入る。「宮、髪は乾きましたか? 早く中の御殿へいらっしゃい」 それを聞いて仲忠は屏風を押し開けて中を見る。 女一宮は濃い紫の袿に、黄が勝った鮮やかな赤の細長を重ねていた。髪が湿っているからとその上に白い衣をまとっている。 その白い衣の上に、つやつやと黒い四尺程の長い髪が波打ち、輝いている。 近くには小さな台が持ち出され、その上に湯漬けや菓物などが置かれている。 様々なことが重なった疲れもあろう。仲忠は妻ののんびりとした様子にやや苛立ったのか、その様子を見て言う。「何そんな意地はってるの。中の大殿で乾かそうよ。あっちでもできるでしょ。僕はもう、一人で待ってるのなんて嫌だからね」「ちょ、ちょっと」 女一宮はつかつかと近づいてくる仲忠にやや躊躇する。「さあ行こうね」 そう言うと、仲忠は女一宮を一気に抱き上げ、そのまま中の大殿まで連れていった。そのまますぐに寝所の中へと入り、そこでようやく宮を下ろす。「…ずいぶんと乱暴ね」「だって宮があんまり薄情だから。文を出しても向こうでもこっちでも返って来ないし、僕はただもうあなたの返しや帰宅できることをひたすら待ってたって言うのに」 仲忠はそう言うとさあ寝ようとばかりに宮の手を引く。抱き寄せる。髪の匂いを嗅ぐ。「ああもう、やっと会えた。本物の宮だ。何でずっと知らない顔してたの。こっちは向こうで色々あって疲れたんだから」 はいはい、とばかりに女一宮は甘える仲忠の背を撫でる。「別に格別あなたを嫌がっていた訳じゃないわよ。ただ折角洗ったんだから、ちゃんと干さないと、後でくしゃくしゃになるじゃない。今宮のことも気になっていたし」「けどねえ」「はいはい。それで向こうでは何があったの? そんなお疲れと言うのなら、きっと色々面白い話題があったんじゃなくて?」 受け流して彼女は話題を変えようとする。「意地悪だなあ。まあいいや。…そうそう、確か宮はた君は知っている?」「ええ。祐純おじさまの子でしょう? なかなか頭がいい子と聞くわ」「頭の回転は早いし、可愛らしいけれど、あの子はちょっと軽々しいよ」「そうね。あの子は殿上であちこちふらついていて、こっちでもそれと同じ気でいるのかもしれないわ」「それであなたや妹君のことも見たのかな」「見たかもしれないわね。子供だから油断して」「犬宮も?」「かもしれないわ」「…それは困る。困るなあ。ああもっと犬宮の護りは固く固くしなくちゃ」 少々一宮は呆れる。「あの子はなかなか顔も頭もいいと思っていたけど、その目端が効きすぎるあたりはちょっと憎らしいな。…ああそれで、祐純さんはこっちには来た?」「おじさま? まさか。私の所になど訪ねては来ないわよ」「しっ」 唇に指を立てる。「静かに静かに。あなたのおじさん達は、皆薄情なひとばかりだよ。…一人は亡くなってしまったし…」 ふと仲純のことを思い出したのか、仲忠の目が遠いものとなる。「…全く誰だろうな。叶わぬ恋に身を焦がす様なひとは。誰か大層物思いに沈んでいる様なことはない? 噂にも聞かない?」「変なことを言うのね。そういうことを言うなら、あなただって」「だって今居る女宮達の中では、…帝の御妹君達ではないだろうし、かといって他の方は、皆あなたより小さいもの。だったらあなたしかいないでしょ」「…そういう嫌な冗談を言うなら、私ここから一人でも向こうに戻るわよ」 ぶん、と女一宮は怒る。その顔が大層可愛らしかったので、仲忠は思わずしっかりと抱きしめ直した。「ああもうごめんよ。それというのも長い間離れていて辛かったからなんだ。もう言わないから僕を許して」 その後も周囲の人々がどうしていいか判らなくなる様な言葉が呆れる程続いたが、ここでは記さない。ギフト【送料込み】餅信まんぞくSET 御菓子処 餅信【どら焼き/和菓子詰め合わせ/岐阜/各務原】
2018.01.17
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その九の一 仲忠、帰宅前に異母妹の梨壺へと寄っていく 帝は続ける。「そなたも三日間も昼夜通して講師を勤めたから疲れたであろう。…ところで東宮よ」「何でしょう」 突然矛先が自分に向けられた東宮は身構える。「何かしらの機会が無いと、そなたに会うことも今は難しくなった。いい機会だから、少しそなたに話したいことがある」「…それでは私は」 話題の内容を察した仲忠は、さすがに席を外そうとする。「仲忠はいい。聞いていなさい」 すかさず帝は引き留めた。「仲忠、そなたは将来東宮の後見をするはずの者である。是非聞いていて欲しいのだ。―――して東宮よ、そなたは近頃、殿上にも出てこないとの専らの噂だが」「…それは」「きちんと殿上にお出なさい。そして常に作法に合わせて政事をさせなさい」「…はい」「それに、特に気に召した妃があるというならば、ちゃんと夜に殿上に召して、昼は上局に置くようにすれば良い。…そなたは何かと慣例と違うことをするという評判なので、わしは心配しているのだよ。その中でも弟の五の宮がたいそう嘆き悲しんでいるということだ。なのにどうしてそうもわしを悲しくさせる様なことをするのだ?」「…」「いつかは嵯峨院のお耳にも入ることでもある」「それは、女四宮のことでしょうか」「さてそれは自分で考えるが良い。ともかく院も今ではご高齢になり、あまり心配などお掛けしたくはないのだ。多少そのあたりをそなたは気に留めた方が良いのではないか?」「それはもう、仰せの通りに考えております」 東宮はしっかりとした声で返す。その辺りは彼もまた言いたいことがある様だった。「先日も、宮の元へ渡りました。ところがあの方はここの所どういう具合なのか、私が何を言っても聞く耳を持たず、大層荒々しい様子で私にぶつかって来るので、下手に彼女を刺激しても、と思い、私は少々遠慮していたのです」「だが、その様に宮が振る舞うというのにも、そなたに何かしらの理由があるのではないか?」「まあ確かに。私が親しくしている藤壺を、宮は先頃より快からず思っております。当初は親しくしておりましたものを…」 そう言って東宮は言葉を濁す。「ですが宮の方にもやや問題はあるのです。私が『今日はいらっしゃい』と伝えても、何も返してこず、行き来がいつの間にか絶えてしまったのです。…藤壺が私の所に居ると言って機嫌が悪く、それこそどうしたのかと思うのは私の方です。ですので彼女の怒りが解けるまでは、と色々遠慮していたのですが… 何も女四宮への私の気持ち自体は変わるものではないのですから、何かの機会にはきっと自然に判ってもらえるものと思っております」「それはそうかもしれんが」 帝はうなる。判っていない、判っていないぞ、と内心苦々しく思う。「確かに、いつかは心も離れ、お払い者にしてしまうこともあるかもしれない。多数の妃を持つのだから仕方がなかろう。しかしせめて、院の御在世中にその様なことをお耳にお入れしてしまうのは、非常にお辛いことだとは思わぬか? 或いはそういうことをお聞きになったのだろうか、院の上も宮も出家なさろうとしている。そなたの即位もそう遠くない。できるだけ人から謗りを受けない様になさい」「それは重々」「外つ国でも、誰よりも飛び抜けて一人の女を愛した皇帝は、世の非難を受けたものだよ。そなたもそう言われそうな程の妃を持っている訳だから、あえてわしも忠告するのだ。…その妃だけでなくとも、とりわけそなたの所には、美しい女達が集まっているというのに、これじゃあ無闇に誉めることもできない」「…父上、そういうことを露骨に口にしたのは嵯峨院の宮ですね。言葉も慎まずに言い騒ぐのは彼女しかいませんよ」「これ」「…まあ何とかしましょう」 そう東宮は吐き捨てる様に言う。 心配そうにその姿を眺める仲忠に、帝は少々待つ様に、と指示した。「そなたに相応しいと思われるものがあるのでな。いつか誰かに、と思っていたものだ」 やがて、石帯が多数運び込まれてきた。昔どれもから伝わる立派なものである。 帝はこれでもないあれでもない、と仲忠と見比べた上で、とある一本を取り出した。「おお、これがいい。そなたはこの帯を、朝拝などの際に付けなさい」 は、と仲忠は舞踏し、丁重に受け取った。「そうそう仲忠よ」 帝は退出しようとする仲忠に向かって言う。「はい」「仏名が済んだら、年内にもう一度来て集を読んではくれまいか。素晴らしいものではあるが、めでたい年の初めに読む様なものでも無いから」「承知致しました」「…それにしても、仁寿殿は年内には参内するつもりは無いのだろうか」「…え… はぁ…」 突然変わった話題に、仲忠はふと首を傾げる。「自分のお産の時よりも長く里に滞在するのは、やはり女一宮が母に乳母の代わりをさせているのかな?」 そう言うと帝は口の端を軽く上げる。「あ、その… そんなことは…」「…というのは冗談だが」 判っていても仲忠の心臓は高鳴りする。「そなたからも早く参内する様に言ってはもらえぬかな。以前はこの様なことは無かったのだが… 末法の世になると、女に軽んじられる様なこともあるのだろうか」 仲忠はその言い方に失礼だとは思いつつも、くす、と笑い、帰ることとする。 彼が持ち込んだ文は、皆封をされて、清涼殿の厨子に納められた。 やがて東宮も退出することとなり、仲忠は殿上人や学士と共に、藤壺まで東宮を見送った。戻るが早いが、東宮は寝所に入ってしまったということである。 そのついでに、と仲忠は梨壺へと足を向けた。異母妹の所である。*「まあお兄様」 仲忠が来ると知るや、梨壺の君は席を設けさせ、早く早くと女房達を軽く促した。 女房達もこの「異母兄君」を嬉しく誇らしく思っていたので、いそいそと準備をする。 梨壺の君は心底嬉しそうに微笑んだ。素直な彼女は、評判の良いこの兄のことを本当に慕っている。「ここのところ、帝の仰せで毎日参殿はしていたのだけど、なかなか抜け出せなくて。顔一つ出せなくてごめんね」「そんな。帝の御前ですもの。仕方ありませんわ。ですからこちらからも消息は控えておりましたの。ところでお兄様、最近はお体は如何ですの?」「ありがとう、大丈夫。ところで、身体と言えば、あなたこそ」「私ですか?」 彼女は首を傾げる。「水くさいな。こういうことは真っ先に言ってくれても良かったのに」「…あら、どういうことでしょう」「僕や父上にはすぐにでも伝えてくれていいことがあったでしょ」「あ…」 居合わせた者皆が顔を見合わせる。梨壺の君も兄の話を察すると、ほんのりと頬を赤らめた。「おめでたいことだよ。もう藤壺の御方ばかりで、妃は誰も要らないんじゃないか、と口さの無い連中が噂していた中だもの。あなたがやはり東宮さまからそうやってご寵愛を受けていたことはやっぱり嬉しいし、何より僕等にとっても名誉なことだもの」「お兄様、確かにおめでたいことではありますが、この私の身にもなって下さいな。胸はむかつく身体は怠い、私からすれば何もおめでたいことは無いですわ」 仲忠はごめんごめん、と笑った。女一宮も懐妊中は気分が良くなかったことを思い出したのだろう。もっとも梨壺の君の言葉に悪意は無い。戯れ言の範囲に留まる。 「それで、いつ頃からですか? その」「相撲の節会の頃からちょっと暑気あたりかな、と思う様な気分だったので、その頃じゃないかと…」「七月から…」 仲忠は指折り数える。「もう師走じゃないの。ずいぶんと隠しおおせたものだね。父上は知っているの?」「あら、あの父上が私にいちいち会いにいらっしゃると思いますの? お兄様」「あー…」 仲忠はぴしゃ、と額を叩く。あの父は。「でもお兄様、どうしてお知りになったのですか?」 不思議そうに彼女は問いかける。「実は五宮が」「あの方ですか」 梨壺の君は眉をひそめる。「あの方は前々から私に言い寄っているのです。私に東宮さまの訪れが無いから、と。自分だけは私のことを大事に思う、などと甘い言葉をつらつらと並べたのにまあ。嫌な方!」「何か言われたのですか?」「普段『私だけはあなたのことを大事に思っています』とかおっしゃってました。けどさすがに最近は音沙汰が無くて気楽になったと思っていたものです」「それはまたどうして」「私が身籠もったということで、どうでもよくなったのでしょう」 あはは、と仲忠は笑う。そして妹の素直なだけでない聡明さにも舌を巻く。「五宮はあの東宮の弟君だと言うのに、どうも落ち着かないひとだな。あのひとは世間から色好みだ色好みだと騒がれて、自分勝手に振る舞い、帝に対しても控えめにすること無く、何でもかんでも皆奏上してしまう方だ。あなたも気を付けて」「はい」 梨壺はうなづく。仲忠はやや不快そうな表情になる。「宮中は皆良くない心持ちの者ばかりだ。特に多くの妃やその周囲の女房といった者達の心無い噂などは右から左へと受け流してしまえばいい」「皆悪い方という訳では無いのですよ、お兄様。何と言うか… その… 太政大臣の方のなさることが、何かと他の皆さまの評判まで落としてしまうのです」「…そう言えば、嵯峨院まの女四宮の所へは最近東宮さまもお通いにならないということだけど」「…あの… 何と言うか」 梨壺はやや言いにくそうに。「ちょっとこの春、あの方のところで少々いざござがありまして。…東宮さまの御衣が破られてしまって…」「…女四宮がですか?」 仲忠は思わず目をむく。破るとは尋常ではない。「ええ… 私もあくまで伝え聞いているばかりですが。それに、あちこち東宮さまの御体を引っかいたり傷を作ったりなさったということで…」「それは… ちょっと…」 同じ男として状況を想像してみたらしい。仲忠の表情も微妙なものになる。「でも、だからと言っていつまでもこのままになさったりは… 前はあの方が一番ご寵愛されていましたし。東宮さまは私を御召しになった時にでも、『女四宮を可哀想だとは思うのだが、さすがに今は…』とこぼされることもありますし」「…うーん… そんなにしてまで行きたくないのだったら… もしかして、男として大切な所を傷つけられたのかな。そうだったら大変大変」「まあ! お兄様!」 さすがにそれには梨壺も素早く反応した。さすがに彼女も東宮の妻の一人であるが故、意味はすぐに理解できたのだろう。「そんなことがあっちゃ、男としては確かにお嫌いになってしまうかもね」「嫌なかた!」 ふん、と梨壺の君はそっぽを向く。「それでは僕はそろそろ」「もうお帰りですの?」「うん。さすがにね。二、三日後にまた来るね」「お待ちしてますわ、お兄様」 そう言って仲忠は宮中を退出した。* 三条殿に戻ると仲忠は直ぐに女一宮の居る筈の所へ向かった。会いたくて会いたくて仕方が無かったのだ。 だが妻は、昼間の御座所にも寝所の中に見当たらなかった。不思議なことだ、と彼は女房の中務の君に問いかけた。「宮はどうしたの? 何処かに行ったの?」「ああ大将さま。ほほほ、今日はお髪を洗う日ですので、西の対に」 髪洗い、と聞いて仲忠の表情が重くなる。「僕が帰ってくるって判っているのに何で今日髪洗いなんだよ。もう」 時間がかかるのだ。一日がかりのものと言ってもいい。「そこはまあ、綺麗な姿でお目にかかりたいという女心でしょう」「僕はただもう宮に会いたいだけだって言うのに。ところで子犬ちゃんは何処?」「犬宮さまも向こうに」 ああもう、とやや苛立たしげに仲忠は腕を組むと女房の大輔の君に犬宮を連れてくる様にと呼んだ。 大輔の君は慌てて犬宮を連れてくる。「ただいま~ お父様だよ」 仲忠は犬宮を抱き取ると、じっと我が子を見つめる。 粉で作った団子の様に白くまるまると肥えて、まるで何か知っているかの様に自分に話しかけようとしてくる。 無論本当に話ができる訳ではないが、その様子が仲忠の表情をだらしない程にとろけさせる。「ああもう何って可愛いんだろう」 そう言って懐に我が子を抱きながら、仲忠はもう一方の愛しい相手に文を書く。「四日間も宮中に閉じこめられてようやく帰ってきたというのに、何でこっちに居ないの? ひどいな。よりによって今日髪洗いなんて。 ―――久しぶりに折角会うという大事な今日に髪を洗うとはどういうこと?――― そっちへ僕から行こうか?」 だが特に返事も来ない。さすがにそれには仲忠も閉口した。 仕方ないとばかりに犬宮を抱いたまま昼間の御座にごろんと横になり、しばらく我が子の様子にただただ夢中になっていた。 だがその時がゆるりと過ぎ去ると、一つ思いつくことがあった。「ねえ大輔の君」 未だ控えている彼女に問う。「何でしょう」「僕の居ない間、この子を誰かに見せたりした?」「いいえ何方にも。殿のお留守の間、皆様がたが西の御方へおいでになって『見せて欲しい』とおっしゃったのですが、女御さまがやっぱり今のあなた様の様にお抱きになって、寝所の中にばかり」「そう、それは良かった」 仲忠はほっとする。「ただ…」 大輔の君の声が低くなる。「ただ?」「東宮の若宮達が大殿さまに抱かれていらっしゃいまして」「若宮達が」「ええ… それで私どもも、犬宮さまをお隠し致しましたのですが、若宮さま達ときたら、女御さまや女一宮さまにまで『宮の赤ちゃんを見せてよ、見せてよ』と我が儘をおっしゃって、お二人をぶったり引っ張ったり乱暴なさるので、さすがに宮も…」 黙って仲忠は眉を寄せる。「まあ若宮さま達は、犬宮さまをたいそう大事にお抱きになっておりましたが…」 主人の機嫌が明らかに悪くなって行くことに大輔の君はやや怖れを抱く。「…そういうことじゃないんだよ。大輔の君。小さな頃の出来事って言うのは、大人になっても結構覚えているものなんだ。だから若宮達がたとえほんの子供であったとしても、女の犬宮を抱っこさせるなんて、以ての外のことなんだよ。大輔の君、これからは若宮にも若君にも、ともかく皆から犬宮を隠してくれ」「はい、判りました。ただ、今度のことは、若宮達が、女御さまや女一宮さまの御髪を引っ張って泣いてお騒ぎになったので、お二方にもどうにもならなかったので…」「ああもう」 仲忠は頭を抱えた。【送料無料】紅はるかとろける干し芋150g(天日干し・無添加自然食品)高糖度のお芋のもっちりしっとり鹿児島産紅はるか干し芋が今だけ555円!|国産 干しいも ホシイモ 干し芋 無添加 お菓子 和菓子 おやつ ほしいも 干しイモ スイーツ 健康食品 茶菓子
2018.01.17
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その八の二 俊蔭のものがたり―――琴を手にし帰国してより 俊蔭は天女の言葉に従い、花園より西を目指して歩き出した。 やがて大きな川があったが、突然現れた孔雀が彼を渡してくれた。 三十の琴は、既に例の旋風が送っているはずだった。 更に西へ行けば、今度は谷があった。谷は龍が出てきて渡してくれた。 険しい山は、仙人が出てきて越えることができた。 虎狼が出る山には、象が出てきて越えさせてくれた。 そして更に西へ行ったところで――― やっと七つの山に七人の天女の子の住む場所へとたどりついた。 最初の山には、旃檀の木陰に歳は三十くらいのひとが林に花を折り敷いて琴を弾いていた。 彼は伏し拝む俊蔭に気付くとすぐには声も出せない程驚いた。「…あなたは」 俊蔭は即座に答えた。「私は清原俊蔭と申します。…様々な経緯を経て、天女の仰せにより、ようやくここまでやって参りました」「…何と。そういうことがあったのですか。あの蓮華の花園は、私の母が通って来る場所です。日本から来た只人とは言え、あなたはそちらからいらした。それだけでも、私にとっては仏がいらっしゃるよりも貴いことに思われます」 そう言うと、彼は俊蔭を自分と同じ木の下へ導いた。「さあ今まであったことを、ぜひお話下さい。私はとてもあなたという人に興味があります」 俊蔭は乞われるままに、そう言うと日本から出たこと、流れ着いたこと、阿修羅との出会いのこと、そして天女にこちらへ来る様に言われたことを語った。 その時例の旋風が、琴を運んできた。 天女の子である山の主は、一つ一つその音を確かめる。「おお… 何と素晴らしい」 感に耐えない、という声を漏らす。「どうでしょう。これを持ち、私のきょうだいの元へとご一緒して下さいませんか」「きょうだいの」「私達は七人きょうだいです。皆琴を愛する者です。きっと喜ぶでしょう」 山の主はそう言うと、二つ目の山に俊蔭を連れて行った。「蓮華の花園からの客人なのだ。我等が母上のことを思いだし、つい懐かしく、そなたにも引き合わせたくて連れてきてしまったよ」 俊蔭の事情も説明すると、二つ目の山の主も感動し、他の兄弟に会わせよう、という話となった。 そして次々に同行は増え、とうとう七つ目の山へと入った。 そこの風景はそれまでの六つとは他と異なり、地面は瑠璃でできていた。 花を見れば香りが非常に良いし、紅葉を見れば色が格別美しいし、浄土の楽の声が風に混じってすぐ近くに聞こえてくる。 そしてその花の上では鳳や孔雀が連れだって遊んでいる。 そこへ俊蔭と、六人が連れだって入って行くと、七番目の山の主は喜んだ。「久しぶりですね。どうなさいましたか」「実はこの日本の方が、母上の蓮華の花園からいらしたのです」「おお、それは」「母上絡みということで、ついきょうだいを誘ってここまで来てしまいました。清原俊蔭どのです」「ああ…」 七番目の山の主は、俊蔭に向かってゆったりと微笑みかける。「我々は、天上から来た方より生まれし者達。母上はこの山に下ると、一年に一人、我等をお産みになって、そのまま天上にお帰りになられた。我等は母の乳房も知らぬまま、花の露を養いとして受け、紅葉の露を母の乳として嘗め、今まで生きてきたのである。…母は天上に帰ってのち、天つ風につけてもこちらへはいらっしゃらない。我々が居ることなど知る者もなく、我々は…」 そこで一度主は言葉を切り、ふっと視線を逸らした。「…風に乗りて、母上が東の花園に春と秋にお下りになると聞き、どれ程嬉しかったか。その花園より、と聞けば、それは… 決して罪深い普通の人間が来られる場所ではないのだが、…それでもあなたからはその場所の香りがする。…私はあなたを歓迎したい」 そして彼等はそれから八つの琴を皆で弾き合わせ、七日七晩それを続けた。 琴の音は高々と響き、仏の国まで届いたという。 そしてその国では、仏が文殊菩薩にこう告げた。「ここより東、唐よりは西に、天女の植えた木の鳴る音がするのだが」「はて、それは」「判らぬ。故にそなた、見てきてはくれぬか」 文殊菩薩は獅子の背に乗り、あっという間にその地にたどり着いた。 驚く彼等の前に、文殊は降り立った。そして俊蔭にこう問いかけた。「そなた達は何処のどういう者達だ」 俊蔭以外の七人は、文殊の前に頭を下げて答えた。「我等は昔、兜率天とそつてんの内院に住んでいましたが、いささかの罪を犯した罰として、とう利天の天女を母として、この世界に生まれ変わった者です。この七人、普段はそれぞれ別々の山に住み、会うこともありません。そんな時に、この方が、母の降りる場所から来たということで、懐かしさに集まり、琴を弾き鳴らしていたのです」 そうだったのか、と文殊はうなづくと、再びあっと言う間に仏の元へと戻って行った。 文殊が報告すると、仏はこう言った。「私も行こう」 言うが早いが、仏は文殊を引き連れ、雲の輿に乗った。 近づくと共に、流れる川はいつもと違って荒れ狂い、山自身も大きく震えた。大空もそれは同様だった。 雲の色、風の声が変わり、春の花、秋の紅葉、その他様々な美しいものが、季節を問わず咲き乱れた。 その様子に、俊蔭達もいつも以上に声高く琴を弾いている中に、仏が渡ってきた。雲からそのまま孔雀に乗り、花の上を飛び回った。 その間俊蔭達は、琴に合わせて阿弥陀の名を一心不乱に念じていた。 七日七晩その様なことを続けた後、仏は彼等の前に姿を現した。「そなた達は昔もその勤めは熱心であり、犯した罪は些細なものだった。それ故兜率天の者として生まれたのだ。 しかし先には、呆れるほどあさましい、怒りや恨みというものを見せたものだ。それがそなた達をこの穢土へと生まれ変わらせたのだ。その業がようやく尽きたのだ。 また、この日本から来た者は、生まれ変わり生まれ変わりしても、永劫人の身を受け続ける者なのだ。前世で色欲の悪行がはかりしれない程酷かったのだ。それ故にこの者は、輪廻した一人の腹に生まれ変わり生まれ変わりして八度も宿り、二千人その各々の腹に五度又は八度宿る筈だった。 しかし、昔『大そむはむな』という仙人が居た。物惜しみをし、無慈悲な国王のために滅んだ国が滅び、人々が疲れ果てた時期があった。その時、この仙人が七年の間、莫大な数の衆生に手持ちの穀を与え、尊勝陀羅尼を人々に伝えたという。 その時に、この日本から来た者の前世が、三年心身を慎み、その仙人の食事の世話をし、水汲みをした功徳で、三悪道に輪廻し生死を繰り返す罪が消滅して人間となることができたのだ。尊勝陀羅尼を念じる人を供養したからだ。 現在再び人間に生まれ変わることも難しいことではあったが、今、この山にて私と菩薩を驚かせ、怠けおこたり無慈悲なあの連中に良き心を持たせたことはなかなかのものである。この山の七人は、残った業も尽きることであろう。兜率天に帰るがいい」 はっ、と七人は顔を上げた。「そして日本のそなた。そなたは以上の様な次第でこれからは幸福になるだろう。そしてこの七人のうちの一人を、孫に得るだろう」「私の、孫…」 俊蔭は思いも掛けない言葉に唖然とする。「その孫は、人の腹に宿る様な者では無いが、これも何かの縁である。その者により、そなたの末は、豊かな報いを受けるであろう」 その場に居た八人は皆、仏を拝み奉った。 俊蔭はこの琴を仏と菩薩に一つづつ渡した。するとあっという間に二人は雲に乗り、風に靡いて戻って行った。その時には天地も震えた。 この様を見送った時、俊蔭はもう日本へ帰るべき時だ、と決心した。 そして七人に一つづつ琴を渡した。彼等は涙を流して別れを惜しんだ。「とてもここを離れがたいのですが…」「おお、それは我々とて同様。我々にせめてできることは…」 七人は音声楽でもって、孔雀が彼を渡した川まで送った。「我々は日本まであなたをお送りしたいのだが、残念ながらそれはできない。ですからせめて」 そう言って印を結び、呪文を唱える。 あ、と俊蔭は声を立てる。彼等はその手に傷をつけ、その血で琴に書き付けたのだ。 りゅうかく風。 ほそお風。 やどもり風。 山もり風。 せた風。 花ぞの風。 かたち風。 みやこ風。 あわれ風。 おりめ風。 その様に十の琴を名付け、七人は戻って行った。やがて琴は吹き上げる風に巻き上げられて行った。 俊蔭は来た道を戻り、最初に出会った三人の元へとたどり着いた。「…おお、よくお帰りに」「…様々なことがありました」 そう言ううちに、風が天女の名付けた二つも含めた十二の琴が名を付けられなかった白木のものを加え、彼の前へと降りて来る。「…今までお世話になりながら、何もできずに」「いえいえ、楽しい日々でした」「せめてこれを」 俊蔭は白木の琴を彼等に渡した。彼等が喜んだことは言うまでもない。* 俊蔭はようやく日本へ帰る気になったが、その前に波斯国へと渡った。 帝や后、そして皇太子にこのことを一つづつ報告すると、帝は非常に驚き楽しみ、俊蔭を呼んだ。「この琴だが、まだその音が馴染んでいない様に思える。しばらく弾き鳴らしていくがいい。他国の者とはいえ、既に国を離れて久しいだろう。この国に居るのなら、わしが便宜をはかってやろう」 それは、と俊蔭は返した。「…私は日本に、既に年老いた父母がおります。ですがそれを見捨ててこの様に彷徨い来てしまいました。きっと今は亡くなり、荼毘にふされ、既に塵や灰となってしまっていることでしょう」「だったら尚更」「私はせめて、その白い屍だけでも見たいのです。見なくてはならないのです。…ですから、せっかくの仰せですが…」 そうか、と帝は非常に哀れに思い、帰国を許した。* 波斯国の交易船に乗り、帰途についた俊蔭が日本についたのは、三十九の歳。 故国を出て既に二十三年の月日が流れていた。 父は亡くなって三年、母に至っては五年になるとのこと。 俊蔭は嘆いたが、そうしたところで父母が戻ってくる訳ではない。三年の喪に服し、それからようやく朝廷に帰国の報告をした。「おうおう、亡くなった者も多い中で、よく帰ってきたものだ」 当時の帝は彼の帰国を喜んだ。 俊蔭が長い月日の間にあったことを報告すると、帝は哀れに思ったり、興味深く聞き、彼を式部少輔の役につけた。殿上も許し、東宮の学士に任じた。「学問に道については俊蔭に任せる。順を追い、東宮の才に従って教え、治世のことも心配の無い様にしてくれ」 やがて、その様に帝から頼りにされ、容貌も有様も全てが人より優れている俊蔭には「うちの娘を」と持ちかける者が一気にやってきた。 しかし当の本人は、仏に伝えられた、前世の淫欲の罪を思い、慎んで用心していた。 そのうちに、それでも一人、一世の源氏にあたる女性に出会った。心映えの優れたひとだったので、この人なら、と俊蔭は北の方とし、女の子を一人儲けた。 ようやく訪れた穏やかな幸せに、俊蔭は妻も子もどちらも非常に可愛がった。 やがて位も上がり、式部大輔となり、左大弁と掛け持つ様になった。 そしてその頃から、娘の才能が際だってきたのだ。* さてその娘が四つの夏のことである。 もう技芸を習得するのにちょうどいい年頃になったと俊蔭は感じた。自分が命を賭けて習った琴を娘に全て教えようと決心した。 そこであの波斯国から持ち帰った琴を取り出した。 あの「なん風」「はし風」の二つは誰に言わずに隠しておいた。 残りの十の琴は周囲の人々それぞれに送った。 まず帝に「せた風」を。 「山もり風」は当時の后の宮に。 「花園風」は当時の東宮に。 「みやこ風」はその東宮の女御に。 「かたち風」は当時の左大臣忠恒に。 「おりめ風」を右大臣千蔭に。 残り一つ「あわれ風」も何処かへと送ったのであろうが、やがて行方知れずとなる。 手元には三つだけ残した。 娘には「りゅうかく風」を習得用に。 自分のためには「ほそお風」を。 そして家のために「やどもり風」を。 帝はこれら献上された琴の鳴り響く様子に非常に驚き、俊蔭に問いかけた。「この琴は、どうやって作りあげたのだ。波斯国から持ち帰ったのなら、しばらく手も触れないでいたものであろうが、その声が衰えることもなく素晴らしく鳴り響き、しかもそり七つとも、皆同じ音であるのはどういうことであるか」 そこで俊蔭は、琴の作られた由来をそこで詳しく話した。「そうであったか。では俊蔭よ、この琴の声はまだ慣れてない様だ。そなたが弾いて整えるが良い」 そう言って「せた風」を俊蔭の前に差し出した。 俊蔭はそれを受け取って、大曲を一つ弾き始めた。 響きは凄まじかった。 宮中の建物の瓦が砕けて、花の様に散る程であった。 もう一曲、と掻き鳴らすと、今度は六月の半ばだというのに、雪が凝り固まって降り出した。 帝はこの様子に改めて驚いてこう言った。「何とまあ、この琴は、この調べは素晴らしいものよ。これは『ゆいこく』という曲だ。もう一つは『くせこゆくはら』といあう曲だ。唐の皇帝が弾いた時、瓦が砕けて雪が降った、という謂われのある曲だ。だがこの国ではまだその様なことは無かった」 ふうむ、と帝はほとほと感心する。「俊蔭は、その昔から進士と秀才の二度の試験で、その才を示してきた。素晴らしい者である。とは言え、学問においては、俊蔭を凌ぐ者は居る。だが琴に関しては、今見た通りだ。俊蔭に勝る者は居ないだろう」 全くだ、と周囲に居た者もそれには納得した。「俊蔭よ、そなた、ぜひ学士ではなく、東宮に琴を教えてくれぬか。東宮はこう言っては何だが、わしの子ながら、素晴らしい才能の持ち主だ。心を入れて打ち込み、そなたの持つ全ての曲を東宮に伝授したなら、そなたを公卿の身分に取り立てよう」 帝はそう言って俊蔭に命じた。 だが俊蔭はそれには応じなかった。「…私はまだ十六の歳に、父母のもとを離れて、唐へと渡りました。嵐や波に流され、知らぬ国にうち寄せられました。戻ってきたら、父母は既に亡く、誰も私を迎える者はありませんでした。昔、帝のお言葉にかない、様々な御厚意の上で遣唐使となった私です。しかしその果てにあったものは… 思い出すだけで、悲しくなります。失礼になるのは承知の上で、ここはお断り申し上げます」 そう言って彼は宮中を退出した。* それ以来、俊蔭が出仕することは無くなった。 官位も辞し、三条の末の京極大路に広く趣のある家を建て、娘に琴を習わせることだけに心を打ち込んだ。 娘は一度で一曲を覚えてしまう程の者で、一日に大曲を五、六曲は習ってしまっていた。彼女が掻き鳴らす琴の声は、父に勝る程のものであった。* そんな風にして娘が琴を父から習い始めてから暫く、歳が十二、三になる頃から、容貌の方も際だってきた。 そうなると、周囲にも次第に噂が立つようになった。 帝や東宮は文を送ってくる。上達部や皇子達からは当然である。 だが俊蔭は誰の文にも返事をさせず、皇子や上達部に至っては、見もしなかった。 だが俊蔭自身は、こう帝には返していた。「娘の行く末については天道にお任せしております。その天道に掟があるならば、国王の母とも、女御ともなるかもしれません。無ければ仕方がありません。山賎や民の妻になる、それもいいでしょう。私は貧しく零落した身です。どうして高い身分の方々と交わりができましょう」 困ったものだ。 そう思いながらも帝は俊蔭を捨て置けはしなかった。 もし気が変わったら、とでも思ったのだろう、通りの良い治部卿兼宰相の役を与えておいた。 俊蔭はそれから亡くなるまでずっと娘に琴を習わせることしかしなかったという。 ***「これは尚侍が見るべきものだな」 帝は仲忠にそう言った。「はい。戻りましたらぜひ母上に」「しかし長いものだ。この夜長にも読み尽くせそうにない。これからはこの草子などは自分で読むこととしよう。そなたは歌集や日記などを読んでおくれ。おおそうだ、十二月の仏名会の後にでも」 は、と仲忠はうなづいた。呉文光/{中国/古琴}流水〜中国古琴 悠久の調べ ≪JVCワールド・サウンズ≫ 【CD】
2018.01.16
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その八の一 俊蔭のものがたり―――琴を手に入れるまで 日記は遣唐使に任命され、京から筑紫へ出発し、唐へ渡った間のことから始まっている。 その間の様々な数奇な出来事。 やがて京に戻ってから北の方を貰い、娘のことを心配するその折々に歌がある。 これは少し読み出しただけでも、その母の草子より非常に興味深く心を打つものであった。 帝は一つを途中まで読ませたところで止めた。「この俊蔭の日記は尚侍が見るべきものであろう。そなたの母には見せたのか?」「いいえまだでございます。長いものではありますし。しかし仰せの通り、これは母に見せましょう」 そう言って仲忠がしまいかけると、帝はそれを制した。「いや、終いまで読みなさい。実に興味深い日記だ」 その通り、それは非常に興味深いものだった。 *** その昔、清原俊蔭というひとは、小さな頃から様々な逸話には困らない人だった。 これといって両親が教えもしないのに、七歳の時に高麗人と会った時に、父親の様子を真似て漢詩を作り、応酬した。 それを聞いた世間の人々は何かと俊蔭を褒め称えたものだった。 やがて彼は十二の歳に元服した。 帝はその時、唐に三回渡った文章博士の中臣門人というひとを召して、難しい題を出させて俊蔭を試した。 すると彼は、何度も受験させてきた学生が、手つかずのまま、まごついているところを、さらっと素晴らしい文章を作ってみせた。 天下の人々は皆意外だ、と驚き感じた。 この試験では、最年少の俊蔭たった一人が進士に合格した。 また次の年、同じように秀才となる題を出され、それにもすらすらと答えた。 「方略策」への「対策」が非常に素晴らしかったことから、六位相当の式部丞に任命された。 世間の人々は、俊蔭の才にまず驚いたが、彼の姿形にも驚かされた。 さて。 やがて当時の帝は特に才ある人を大使副使として、遣唐使にした。 この時俊蔭は副使に任命された。十六の時である。 俊蔭の父母は悲しんだ。 二人と無い子である。大切な目でも二つあるが、この子は一人しか居ない。その子を失うこととなったらどうしたものか。 たった一人の子。しかもその子の出来ときたら、とてつもなく素晴らしい。ちょっと帰りが遅いだけでもなかなか帰らない辛さ、無事帰ってきたことの安堵に涙を流す程だったというのに。 そんな子が居なくなることを考えることも恐ろしくも悲しかった。 出立まで父母は彼と額を付き合わせて共に別れに涙を流したものだったという。 それでも帝の命に背くことはせず、俊蔭は舟に乗った。 しかしそれが不運の始まりでもあった。 唐に向かった舟三艘のうち、二艘は嵐でもって沈んだ。 俊蔭の乗った舟は、幸いなことにそれは免れたが、唐へは行かず、波斯はし国の方へと流されてしまった。 海岸に流れ着いた時、彼は涙を流して観音の救いを祈った。 すると、渚に鞍を置いた馬が突然出現した。 俊蔭は観音の導きに感謝し、その使いであろう馬を七回臥し拝んだ後、鞍にまたがり駆け出した。 やがて馬は清く涼しい林へと彼を連れていった。 その林の中、旃檀せんだんの陰に、虎の皮を敷いた三人のひとが並んで琴を弾き遊んでいた。 馬はそこに俊蔭を下ろすと、そのまま消え去った。 俊蔭は立ちすくんだ。 旃檀の林。香り高い仙境である。白の白檀、黒の紫檀、赤の牛頭旃檀、それらの香りが林全体をほうと包み、佇む俊蔭を夢見ごちにさせた。 やがて三人が俊蔭に気付いた。「…そなたは?」 俊蔭ははっとして答えた。「私は日本国王の使いで清原俊蔭という者です」 そしてそれまであったことを話すと、三人は彼に同情し、並んでいた木の陰に同じ皮を敷いて座らせた。「何って気の毒な旅の方でしょう。しばらくここにいらっしゃい」 俊蔭は言われる通りにそうした。 日本に居た頃、彼が最も好きだったのは琴の琴を弾くことだった。 今まさにそれを彼等は弾いていた。 毎日毎日、琴ばかりを弾いていた。 俊蔭は彼等の腕に、曲に、すぐに心を奪われた。「教えていただいていいでしょうか」「構いませんよ」 三人は応じた。 俊蔭はそれからというもの、彼等について、一つの曲をも残さず全部習い覚えた。 花の露、紅葉の滴をなめて命をつなぎながら、彼は三人とそんな日々を続けていた。 至福の時間だった。 翌年の春から、西の方に木を切り倒す斧の音が聞こえる様になった。「ずいぶん遠い所のはずだけど、よく響くなあ。ずいぶん音の高い木なんだろうな」 そう思いながらも、やはり琴を弾き、時にはそれに合わせて漢詩を歌ったりしているうちに、三年が経った。 三年経ってもまだその音は続いている。 毎日毎日聞いていると、どうもその音は自分の弾く琴の音にも似通っている様にも思える。 そこで彼は、三人に問いかけた。「ここは天地が一つに見える程、一目で見渡すことができ、他に世界らしい世界は無いと思われますが、何処からか木を切り倒す音がします」「そうですね」 三人はさほどの頓着も無い様にうなづいた。「でも木は山にあるものです。山は何処にあるのでしょう」「ここから見えない何処かにはあるのかもしれませんね」「琴の音に良く似ているのです」「どうしたいのですか、あなたは」 答えをうながす様に彼等は問いかけた。「この木のある場所まで出掛けて行って、琴を一つ作る分だけ、いただきたいのです」「では、ここを離れるのですか」「随分とお世話になりました」「いいえそんなこと。我々こそあなたが一緒で楽しかった」 別れは悲しかったが、俊蔭はその地から立ち去った。 彼は斧の音が聞こえる方へと足を進めた。今までに無かった程の強い力を振り絞り、海、河、峯、谷を越えてその年は暮れていった。 翌年もその調子で過ぎた。 旃檀の林を出てから三年目、大きな峯に上って見渡すと、頂上が天につく程の険しい山を遠くに見た。 俊蔭は力を奮い起こして、足を速めた。 やっとのことでたどり着いたその山には、千丈の谷の底に根指し、末は空につき、枝は隣の国に生えている桐の木を切る様な者――― 阿修羅が居た。 その頭に生えた髪は、剣を立てた様。 顔は炎のごとく。 足や手は鋤や鍬のごとく。 眼は大きくぎらぎらと光って、まるで金椀の様だった。 だがそんな彼等にしても、女や翁や子供や孫といった者が居て、皆が一緒になって木を切っている。 彼等は阿修羅の眷属なのだ。俊蔭は悟った。 ここまで来たのだ、命をかけてでも、と心を決め、彼は阿修羅達の中へ進んで入っていった。 人間だ。人間だ。眷属達が騒ぎ立てる。阿修羅自身も気付いて驚いた。「何だお前は、何処のどいつだ」 そう俊蔭に問いかけた。 さすがに怖かったが、俊蔭はしっかりした声で答えた。「私は日本国王の使いで、清原俊蔭という者です。この木を切る音を聞いて探し歩いてもう三年になります」「それだけか」 阿修羅の表情が険しくなる。「お前はどういう訳で、こんな所へ来たのか。来ることができたのか。ここは阿修羅の罪業を償うべき場所。萬劫の罪を償うまで、虎、狼、いや虫けらとても、人という人は側に寄せることは無い。そして我等は、そんな山に来る獣は食い物として良いとされておる。ここはそんな所だ」「…そうだったのですか」「それも知らずにやって来たのか! 一体何という! 言え、何故にお前は人の身を持ってここまでやって来られたのか。速やかに話せ。さもなくば」 阿修羅は眼を車の輪の様にくるくるとさせて睨み付け、歯を剣の様に鋭く湯むき出して怒りを露わにした。 俊蔭もさすがにそれには自然と涙が流れた。「何と勿体ない! …無論様々なことがございました」 俊蔭はこの山へやって来るまでのことを話した。炎で焼かれたことも、獣には剣を抜いたことも、毒蛇に立ち向かったことも話した。「それだけではございません」 更に、国から出てきた時のこと、その時の父母との別れに至るまで切々と話した。 阿修羅はそれには感じ入った様だった。「我等はその昔の罪の深きにより、阿修羅と呼ばれる者となった。慈悲の心など持ち合わせの無い者だ。しかしお前のその孝心にはなかなか心打たれるものがある」 はっ、と俊蔭は顔を上げた。 「我もまた四十人の子、千人の眷属は愛しい。気持ちが全く判らない訳ではない。だからお前の命は助けてやる。直ちに我等が前を去り、我等が為に大般若波羅密多経だいはんにゃはらみたきょうを書いて供養するのだ。それを約束するならば、我はお前が日本へ、父母の元へと帰るための便宜をはかろう」 俊蔭はそれを聞いてほんの少し心が動いた。だが次の瞬間、彼は阿修羅の前に伏し拝んで頼み込んでいた。「私はその父母の元を去ってここまでやって来てしまったのです。日本国王の仰せのもとに、彼等の嘆きを振り捨ててやって来たのです。父母は私が旅立つ時、血の涙を流してこう言いました。『そなたが不孝の子なら、私達に長い嘆きを与えるだろう。孝の子なら、我々の嘆きが浅いうちに戻っておいで』と」「だったらそうしたがよかろう」「できません」 俊蔭は悲痛な声で答える。「一緒の船で来た者達を皆死なせてしまい、私だけが生き残っている。そして一人この知らぬ世界を彷徨い、既に十年近くになりました。既に私は不孝の子なのです。その罪を免れるためにも、あなた方の倒された木のほんの少しでもいい、頂いて、その琴の音を聴かせることで、長い間苦労させた父母への不孝の罪の償いとしたいのです」 すると阿修羅は先程以上の怒りを見せた。「お前の子孫代々の命に換えようと言ったところで、この木一寸も得ることなぞできないぞ」「何故ですか」 必死で俊蔭は問いかけた。「教えてやろう。この木は、我が父母が仏になった日に天稚御子あめのわかみこが下られて三年掘った谷に、天女が降りてきて音声楽をして植えた木なのだ。 天女は仰った。『この木は、阿修羅の万劫の罪が半ば過ぎた時に、山より西を指した枝が枯れることでしょう。その時に倒して、三つに分けて、上等の品は仏を始め、?利天に至るまで奉りなさい。中位の品は、前世における親の供養のためにお使いなさい。そしてその残りを、私の行く末の子のために使って下さいな』 とな。 そしてこの阿修羅を山守となされ、春は花園、秋は紅葉の林にあの方々は下られてお遊びになられるところなのだ。 人の子たるお前ごときが容易く来られる場所でも無いのだ。 ましてこの長い年月、我々がこの木を大切にして成長させたのは、何とかして万劫の罪を消滅させたい、自分の様な罪深い身から逃れたいと思うがこそ。育てたからと言って我等には何の得も無い。 それをどうしてお前にほんの少しでも与えることができようか!」 そう言うと、阿修羅は俊蔭を一気に食らおうとした。 その時。 にわかに大空が暗くなり、車の輪の様な大粒の雨が降り出し、雷が鳴りだした。 そしてその間を縫う様に、龍の姿が。「待て!」 その背には一人の子供が。「阿修羅よ、これを見るがいい」 黄金の札を渡して去った。「…天の御使いが、何を…」 阿修羅はそうつぶやきながら、札を見る。途端、その表情が変わった。「―――三つに分けた木の、残りの部分は、日本から来た俊蔭という者に渡すのだ―――だと? 何と」 まさか、と阿修羅は俊蔭の方を見る。「それではお前――― いや、あなたは」 俊蔭は何を言われているのかよく判らないままに、ともかく食われるのは回避できたらしい、と納得できた。「ああ何たること。あなた様があの天女の末裔でございましたか」 そう言って阿修羅は七回彼に向かって伏し拝んだ。「私が… 天女の末裔?」 驚く俊蔭に、阿修羅は慌てて説明する。「だったらもっと早くそれを言って欲しかった! この木の上と中の品は、ほんの少しの木片でも、何でもない土を叩くと、無限の宝物が湧いて出てくるものです。そしてあなたに与えよ、との残りの部分は、その声の素晴らしさによって、永遠の宝となるものです」「声を―――」 それまでのことなど忘れた様に、俊蔭の表情がぱっと輝いた。 阿修羅はその「声の木」を取り出すと、割始めた。 やがてその音を聞きつけたのだろう、天稚御子が現れ、木を琴の形に三十、形作り、再び天へ戻っていった。 次に天女が音声楽と共に降りてきた。そして木に漆を塗り、織女に琴の緒を縒ってすげさせると、やはり天へと戻って行った。「三十も―――」 その様子を俊蔭は呆気にとられて見ていた。 ああこの琴をこの西に当たる旃檀の林で弾いてみたい。 そんな思いで心が一杯になり、すぐにでも飛んで行きたい気分だった。 その思いを聞き届けたのか、突然の旋風が、三十の琴と、俊蔭をその林へと飛ばしていった。 阿修羅はその様子を感慨深そうに眺めていた。 林に移って音を確かめると、三十の琴のうち、二十八までは同じ声だった。 だが二つは特別なものだった。それを弾くと、山が崩れ地が割け、七山が一つになって揺さぶり合うのだ。 それからというもの、俊蔭は清く涼しい林に一人、琴の音を有る限りかき立てて過ごした。 やがて三年の年が過ぎ、その山から西に当たる花園へ移り、そこで琴を並べた。 大きな花の木の下で、故郷日本のこと、父母のことなどを思い出しつつ、特別な音色の二つの琴に手を伸ばした。 春の日はのどかで、山を見ればぼんやりと霞んで緑に、林を見れば、出だした木の芽がみずみずしく、花園は花盛り、何処を見渡しても生き生きとした素晴らしく感じられた。 朝から昼までずっと琴を弾き続けるうちに、その声が大空にまで響いたのだろうか、やがて真昼頃、紫の雲に乗った天人が七人降りてきた。 俊蔭はそれを見るなり伏し拝んだが、演奏は止めることはなかった。 天人は花の上に降りて来て言う。「そなたはどの様な素性の者か。ここは春には花を見、秋には紅葉を見るために我等が通う所であって、自由に飛ぶ鳥すら来ることは叶わぬというのに… もしやそなた、ここより東に居る阿修羅が預かった木を得た者ではないか」 俊蔭はそれを聞くとうなづいた。「はい。私はその木をいただいた者でございます。この様に仏のいらっしゃる所とはつゆ知らず、ただ素晴らしい場所とだけ思い、ここ数年居させていただきました」「そうであったか」 天女は微笑んだ。「そなたがそういう者であったなら、ここに住まうも当然であろうな。天上の掟により、そんたはこの地上で琴の弾き手、その一族の始祖となるべく定められた者なのだ」「何と」「私は些細な罪で地上に降り、ここより西、仏の御国からは東にあたる場所に七年住んだ。その間に七人の子が生まれた。我が子等は極楽浄土の楽において、琴を弾き合わせる者どもである。そのまま地に留まっているはず。そなたは今からそちらへ渡るが良い」「何故にですか」「その者どもの手を受け取れ。そして日本国へ戻るが良い」「帰ることができるのですか」「何を言う」 天女はふわりと笑う。「今までも帰ろうと思えば帰れたことだろう。居続けたのはそなたの琴への執心が為。だがそれも我が子等の手を引き取れば、鎮まるであろう」 おおそうだ、と天女は三十の琴を見てつぷやく。「このうち、特に声が素晴らしい二つに名を付けようではないか。一つ『なん風』。そしてもう一つを『はし風』とせよ」 俊蔭は思わずその二つを手にする。「ただその二つの琴は今から行く山の者達の前のみ鳴らし、彼等以外に聴かせることはならぬ」「何故に」「それはそなたが考えるが良い。我等、この二つの琴の音のする所、人間の住む世界であれ、迷わず訪れるであろう」名入れ 節句飾り 吉祥檜扇飾り(はねうさぎ) TPT-601-200名前入れ飾り 徳永鯉のぼり
2018.01.15
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その七の三 仲忠と女一の宮の文のやりとり 一方仲忠のもとには、三条殿から女一宮の文が届いていた。「昨夜はお帰りになると思っていたのに、結局戻って来なかったのね。夜中休むことが出来なかったわ。でもそんな大切なことがあったの? ―――降り続くということは恐ろしいものです。淡雪でも積もれば山となるんですから。…ちょっと帰れないだけ、と思っていても、それが積もり積もれば、怖いことになるのよ――― ってね。あなたがいつか私につれなくなるんじゃないかしら、とそんなことばかり心配しているのよ。でもちょっとのことだと思って、今は我慢してるの。会える時を楽しみに待っているわ」 仲忠はそれを見てくす、と笑う。そしてさらさら、とその返事を書く。「―――言う通り、雪が山になっては大変だ。越路では、道が途絶えて会うことができないということがあるそうだよ――― それを心配して、一晩眠らずに夜を明かしたよ」 そのうち、雪が高く積もってきた。仲忠はもう一度宮に文を送った。「夜の独り寝はどうだった? 返事が無かったものだから心配なんだ。宮からの文を無駄にする様なことは決して無いのに。 ―――こういう風に会わなければ恋しく思うのに、そのあなたをどうして昔は知らないで僕は過ごしてきたんだろう――― …とこんな風につい書いてしまうのも、思い出して欲しいからなんだ。 それにうちの子犬ちゃんがとっても恋しいよ。あなたの懐に抱いてやっておくれね。今朝の雪は格別寒そうだから」 仲忠はそう書き送る。 そしてこの返事が来てから帝の元には参上しようと思う。昨日の様に色々と見られて騒ぎになるのは御免だったのだ。 * 参上してみると、殿上には涼、藤英、忠純の他に、正頼の子息達も沢山参上していた。「どうして私に教えてくれなかったんだ。君と私の仲じゃないか」と悔しそうに、だが楽しそうに涼は仲忠をつつく。「別に涼さんにだけ教えなかったって訳じゃないよ。他のひとにだって」「だからそこが私と君の仲だろう? 私は君の読む文章を聞きたいと思って、こんなに寒い日なのに、こうやって妻や子の暖かい懐を離れてきたんだからね」 仲忠はそれを聞いて苦笑する。「それは僕も同じですってば。お役目でなかったら愛しい妻や子の側でぬくぬくとしていたいんだから」「そう君はお役目が何より大切だからねえ。私達は皆、お役目でなく、君のためにこうやって駆けつけてきたというのに!」「お役目にもこの様にしっかり来て欲しいものだけど」「またそう言ってつれないんだから。だいたい君はそうやって来た我々に、一言さえ聞かせてくれないじゃないか」 そうだ、とばかりに周囲もやや意地悪な表情でうなづく。「だって帝の仰せだから仕方ないでしょ。高い声で読めないんですってば。それにもうずいぶん長く読み続けて苦しいから、声も出なくって」「それじゃあどうして、昨日は雪を貫き空を駆ける程の声を張り上げたんだい? 私はね、君こそ現在最高の博士だと思ってるよ」「そんな…」「その博士ときたら、酒を呑んで酔っても大声で読んで、我々を腸がちぎれる程感動させ、その声のありったけを聴かせることができた… けどそうして聴いた我々ときたら、その文字一つ覚えていないんだ」 そして涼はじっと仲忠を見る。「ねえ、一体君は私をどれだけ惑わせれば済むつもりだい?」 仲忠はそれには黙って笑う。「またそんな顔で誤魔化す。琴を弾けば、私にすねを丸出しにさせて走らせて転ばせたりして。あの時は宮中の皆にずいぶんと笑われたものだよ」「そんなに簡単にちぎれるなんて、弱い腹だね。涼さん感激屋だからなあ。…でもそれじゃあ聴かないうちは何、宮仕えもできないって言うの?」「だから仲忠、君はあの書を、それこそ物の底に隠す様に読まないでくれないか。できれば」「あのねえ涼さん。そんなこと言うと、石の唐櫃に入れちゃうから」「書の中身も涼どのも一緒に壁の中に塗り込めてしまうおつもりか? 大切なものとして」 藤英がくすくすと笑いながら口を挟む。孔子の「書中壁」の故事からの引用だ。 それを受けて仲忠は答える。「それだったら書の主も埋もれてしまうよ」「貴い書を埋めるなぞ、明君の御代にはあり得ませんよ」 行正もすっと口を出す。今度は「書経」の「明王」の引用である。「この貴い書物が隠される理由からすれば、道理ですね。何と言うか、私の様に凡俗な人間としては、情けない、そう言われると余計に聴きたくなる。いっそ知らない方がましだったかもしれない」 普段は冷静な行正の言葉にも熱が入る。 その様に男達が話に興じていると、藤壺から、と大きな瑠璃製の甕や高坏で料理が運ばれてくる。 他にも果物が皿に盛られ、酒が甕に入れられ、銀の結び袋には信濃梨や干棗、銀の銚子には薬用の地黄煎、炭取には小野の炭といった素晴らしいものが送られてくる。 集まってそれを取り分けていると、やがて若菜の羮を入れた、銀の提げ手のある器が一鍋届けられた。 蓋は黒方を大きな土器の様に作って凹みをつけて鍋をおおったもの、取手には女が一人若菜を摘む姿が象られている。 そこに孫王の君の手で、古歌を引用し、こう書かれていた。「―――貴方様のために、早春の野辺の雪をかき分けて、今日の若菜を一人摘んだ私です――― この様に若菜のあつものを料理致しましたが、召し上がって下さいますか?」 側には小さな瓢を二つに割って作った黄金の杓子と、雉の足を折敷の様な器に沢山盛って添えてあった。 仲忠をはじめ、皆が藤壺からの贈り物を見て笑い騒がずにはいられなかった。 帝は遠くでその様子に気づき、台盤に御馳走を置いてつつきながら、その様子を伺い見る。 酒が到着した頃に、宮はた君は雪の降りかかった枝を持ってやって来た。枝にはすっきりとした陸奥紙が結びつけられている。 おや、と思って帝はよくよく耳を済ますと、宮はたは「女一宮さまからの御文ですよ」と派手にひらひらとさせて仲忠に渡す。「こら、心を込めて認めた御文をそういう風に扱うものではないよ」 涼は宮はたを軽く諫める。だが子供はにこにこと笑うばかりでその場から退くだけだった。「今日はまだましだよ。昨日なんてあの子、帝の御前でああいうことするから、もう…」 そう言って仲忠はふう、とため息をつく。 なかなか困ったものだ、と帝も思う。しかし娘のことを思うと、ついつい内容も知りたくなる。そこでやはり背後からそっと覗いてみた。「不安だ心配だとあなたは言うけど、御前にばかり居るということだから、きっとこの文だってお父様の帝が御覧になっているはずだわ。ところで『思い出すでしょう』と言うけど、 ―――際限なく昔の自分が見えてきて、現在の自分は自分ではない様な気がするわ――― こう詠んでも、詠みきれない様な気がするのよ。今になってようやく世の中というものが判りかけた様な気がするわ。 そうそう、犬宮はあちらの懐にばかり抱かれているわ」 なるほどこれ程しばしば文をやりとりして――― この内容ならば、この男はちゃんと娘のことを思っているだろう。軽んじることなどないはずだ。 帝はようやくそう思いほっとする。 だがもう少し。もう少しここに引き留めておいて、仲忠の反応も見てみたかった。こうなると単なる舅の意地悪であるが。 そう一人で決めると、やっと帝は御座所へと戻る。何も知らなかった様に平気な顔になる。 殿上の仲忠達は、酒を呑み、食事をしながら何かと喋り騒いでいる。「そうそう、鍋の蓋への返しをしなくちゃ」 仲忠はご飯を丸め、物を食う翁の形を作り、洲浜の様なものに据えた。そしてこう書き添える。「―――袖を濡らしながら雪の間を分け入って摘んだ若菜は、一人で食べろと言うのでしょうか――― あついものを食べる時間はまだ過ぎてませんよ」 食事が終わると、仲忠はいただき物が入っていた器類をそのまま集めてそっくり返そうと、孫王の君のところへこう伝える。「この器を全部お返しするのは、すぐにも明日また頂きたいと思いますからでして。その時に器が無いと、皆さんがお困りになると思いましてね」 孫王の君などは、それを聞いてたいそう可笑しがる。「空言ばかり。今でも空目で見てらっしゃるのに」 そうつぶやくと、少し考えて返しの言葉を送る。「大変立派な御厨子所の雑仕ですこと。あら、でもお返しになって下さった器の中でも、いい土器が一つ無くなってますわ。袖を解いてお捜し下さいません?」「君が解いてくれるの?」 ふふ、と孫王の君は笑う。仲忠は彼女にもたれかかる。「冗談ですわ。駄目駄目。今はもう悪戯は」「つれないな。あなたは」「宮を大切になさっているかどうかは、帝が一番ご心配なされてますのよ」 だからそういうあなたが、軽はずみな行いをなさらないで、と彼女は声無き声で伝える。 仲忠は黙って笑顔を返すと、そのまま戻った。 帝から「遅い」と催促が来ていた。「今は駄目ですよ。涼さんにずいぶん酔わされてしまったもの。前後も判らないですから」 実際は大して酔っていない。仲忠は酒には強い方だったし、そもそもそうなるまで呑みもしない。 彼は宮と孫王の君と、二人の女性のことを思いながら、少しばかり休んでいたかった。 帝もその様子を聞くと、仕方が無いとばかりに暫くは呼び寄せることを遠慮した。* やがて昼近くに、青鈍の袴を柳襲にして非常に美しく着こなした仲忠は参上した。 衣類には、麝香や煉香を移す。薫衣香なとも、特に念を入れている。 帝は、仲忠に昨夜の俊蔭の父の文集を読ませた。 長い時間、ただただ読み続ける。ひたすら読み続けさせる。 やがて日もうつろい、暗くなって来る。すると帝が言った。「今日は随分日が高くなってから始めたから、今ここを去ることはならぬ」 休息を取らせることもなく、灯りを沢山点け、続けさせた。 亥の時からは、それまでの文集を一旦止めさせ、小唐櫃の方を開けさせた。中には、唐の色紙を二つ折りにし、厚さは三寸ほどの大きな草子が数冊入っている。「何が書かれておる?」 帝は仲忠に問いかける。「…まずはいつもの女手で、一つの歌を二行に書いてあります。他の一つの草子には草仮名で、前同様歌を二行に。同じように片仮名、葦手で書かれたものが」「それではまず女手のものから読むがいい」 歌集の歌は素晴らしいものだった。 帝、東宮、五宮と仲忠が近く寄り、他の誰に聴かせない。 中宮が、仲忠が文集を読むということを聴いてこの晩は上っていたのだが、その彼女にも帝は聴かせようとはしない。「女房達に聴かせないということはあっても、私にまでお隠しになることはないでしょう?」 そう中宮は不服そうな声で言う。「講師もそうは思わないか? 私が居るというのに。気を付けた方が良くないかしら」 仲忠はそれを聞くと、読むのをぶっつりと止めて、困惑し、畏まっている。「困った朝臣だな。いいから私の言う様にしていればいい」 帝がなだめる様に口をはさんだ。「別に誰が読んでもいいものではあるのだが、書かれているのだよ。血縁以外の者には読ませたくない、と。だからとりあえず仲忠に読ませているのだ」 続ける様に、と帝は仲忠に命ずる。* この様にして時も経ち、暁の頃、帝が言った。「この草子がこんなに感動させるのも無理は無い。この草子を書いた俊蔭の母皇女は、昔有名な能筆で家人だった。嵯峨院の妹君で、先々代の女御から生まれた方だ。その様な方が、その折々に書いておいたものなのだから、見事なのだ。仲忠よ、これはぜひ女一宮に見せたのか?」「一応は…」 仲忠はうなづく。「ただ、見つけたばかりのものなので、宮は中身までは見て無いのでは。題名くらいしか知らないでしょう。いつもいつも『今夜こそは』と構えている様ですが」 すると帝はくす、と笑う。「これは宮にそなたが読んでやるといい。…さてまあこっちは置いて…」 帝は別の草子を示す。「こちらを」 それは俊蔭自身の日記だった。【ランキング1位獲得!年間累計19万個販売!】浜松茶と十勝小豆のとろけるしぐれ菓子茶遊里(さゆり)7個入和菓子 生菓子 詰め合わせ お取り寄せ あんこ 高級 お茶 茶 抹茶 お土産 贈答 お歳暮 お礼日 和菓子 ギフト プレゼント 手提げ 化粧箱 包装 のし あす楽 RCP
2018.01.15
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その七の二 仲忠の講読と聞いて宮達、集まってくる 実際に東宮が参殿してきたのは、午の刻、昼頃のことだった。 立派な装束をまとい、そのまま座布団を敷いて父帝の御前に座る。 父は早速息子に向かい、声を掛ける。「そなたには今、何かと噂が飛んでいる様だが」「そうでしょうか… ところで父上、今日は仲忠はまだですか?」「おお、そうだそうだ。仲忠を呼ぶがいい」 東宮が参殿するまで、と仲忠はまた一度休憩とばかりに下がっていた。 殿上の間にすぐ来る様に、と知らせが行く。だが仲忠は少し休む、と言ってなかなか腰を上げない。 実際彼はかなり疲れていたのだ。帝もそれを慮ってか、それ以上の催促はしてこない。 のんびりのんびり。帝に読まれてしまった文を読み返してみたり、女一宮から送ってきた装束を広げてみたり。 「今度は特別」と女一宮がよこしたのは、蘇芳襲に綾の上の袴など、非常に美しいものだった。「それではそろそろ支度するか」 さすがの仲忠もようやく重い腰を上げた。* 仲忠は参殿すると、前日の様に文を訓読し、音読し、時には声を張り上げて朗読する。 帝も東宮も日が暮れるまでそれを聞いて過ごす。 やがてまた、夕闇が迫る頃となった。「それでは一旦下がらせて頂きます」 仲忠は一息つく。 前日と違い、帝と東宮、二人の前での講義である。さすがの彼も、体中がこわばってしまったかの様だった。 そこで一度帝の元へ蔵人を使いとして奏上する。「一旦退出して、明朝早く参内することにしたいのですが、如何でしょうか」 帝はそれを聞くと、あっさりと首を横に振る。「暮れ難く、明けやすいこの頃、夜が最も興が深い。退出しない方がよかろう。東宮という珍客も居ることだし」 返事を受け取った仲忠は深いため息をつき、仕方がない、と女一宮への文を書き始めた。「今朝はありがとう。あなたの文のおかげで元気が出たよ。今日は退出してあなたの側に戻れると思ったのに、お許しが出ないんだ。ごめんね。ところで『そのわたりに』どうのこうの、とあったけど、それはもう昔のことでしょう? 遠い過去のことだろう? ―――昔は聞き伝えていたのに、身近に恋をして、袖は涙で燃える色になるでしょう――― 昨晩は独りきりの侘びしさをしみじみ思ったけど、きっと今日程ではないと思うんだ。 衣料を一旦返します。子犬ちゃんはどう? 言った通りにしてる?」 仲忠はそう書いて、昨日の装束と共に家に送った。彼は暗くなるまで待ったが、女一宮からの返事は無かった。 そのうち、宿直所に度々お召しがやって来る。返事を待っていたかったが、仕方が無い、と食事を済ませて参上した。「文は夜が何と言っても興があるものだ。今夜はここで聞くがいい」 そう帝が東宮にすすめるうちに、外で降る雪は次第に積もってかなり深くなってきた。 御殿油が来て、短い燈台を左右に立てて点けて行く。 帝の前には琴の琴、東宮の前には箏の琴、五宮の前には琵琶を置き、その前で仲忠は文を読み始める。 昨晩と似た様な、だがやや違うような光景がその場に繰り広げられる。 ふと帝がほんの少し奥に入った時に、東宮は仲忠の文の点を直すための筆を取った。何を、と持ち主が思う間もなく、東宮は懐紙を取り出し、さらさらと書き連ねた。 藤壺の御方宛だ、と仲忠は思った。「今夜は帝が文を聞く様に、と仰るので、心ならずも此方に留まることとなります。 ―――瞬く間に消える白雪の様に儚い世の中だから、たとえ一夜でも一人で夜を過ごすことは何とも侘びしくて物足りません――― せめて短い命の私達がこの世に生きている間は、あなたと一緒に居たいものです」「宮はた」 はい、と少年はちょこちょこと側に寄る。宮はたは藤壺をこの宮中では「親」とし、その殿上童を勤め、またその縁で東宮付きの役もしている。「渡しておいで」 はい、とこの飲み込みの早い子供は、すぐに藤壺へと向かう。 文を見た御方は白い紙にこう書きつける。「―――辛い気持ちをまだ知らない真っ白な雪は、積もるそばから下の方が消えて行き、降っても降っても此の世には留まらないのですが、その白雪に厭われる此の世の中は、一体どういう所なのでしょうか――― その「憂き事」を知らない世の中が来ます様に。そういうことがどうして無いことがありましょう。ええ、無いとは考えられないのです」「宮はた」「はい」「帝や仲忠の大将には決してお見せしない様にね」「必ず!」 少年は美しい主人に力強く約束する。 実際その通り、彼は戻った時、帝の目が少し逸れた瞬間に、東宮へ手渡した。 東宮はそれを取ると、すぐに開いて見る。 ああ、藤壺は世の中を苦しいものだと思っているのだな、心のままに身を任せても、人ごとに心は違うものだな、と思うに連れて、東宮は知らず、涙ぐんだ。 仲忠はそれを見た時、胸の奥が跳ねた。一瞬自分が何をしているのか判らなくなった。何処からだったか、忘れかけた。 帝は急にしどろもどろになった仲忠の様子に気付くと、口を隠す扇の陰でふっと笑った。「…申しわけございません。もう一度読み直します」 仲忠はそう言うと、読み違えた箇所を改めて、更に趣深く読む。素晴らしく響き渡るその声に、周囲の賞賛は鈴を振ったかの様に降り注ぐ。 帝は置かれている琴や琵琶などを、誦する声に合わせて選んで掻き鳴らす。「さて今夜の文の録には何がいいかな…」 そう一人ごちすると、側の五宮が不意に口を挟む。「文は何とかしてこの度のを大将から私も習いたいものです」「それは難しいだろう。そなたも何だが、仲忠の文才には及ぶまい」 東宮と同じ血を引きつつも、やや劣るこの息子に対し、帝はそう優しく拒絶する。「さてこっちの俊蔭の文集はしばらく置いて、こちらのその父君のものを今度は読もうではないか」 そう言ってもう一つの文箱を帝は示す。 仲忠は言われるままに文箱を開き、これまで全く関わりの無かったはずの曾祖父のものを取り出す。 同じ様に読み出すと、やがて帝が満足そうにうなづく。「文才は俊蔭よりも、その父の方が勝っているな。それにこの手蹟。そなたといい、俊蔭といい、この一族は不思議と皆誰もが素晴らしいものだ」 彼等はその様にして明け方になるまで文集を読み続けた。中でも面白いところはやはり繰り返し朗読させて、琴を鳴らし、合わせて楽しむ。 そのうち、明け方頃に非常に面白い箇所が出てきた。 帝はその部分を仲忠に朗読させた後で、自分自身でも同じように口にする。「五宮、そなたもなさい」 はい、と五宮はうなづき、同じように朗読する。彼もまた声がいい。周囲に朗々と響きわたった。「東宮、そなたもどうかね」「皆の様な素晴らしい声では無いので」 苦笑しつつ、東宮は断った。* 文集の講読もついに夜を徹して、明け方になった。 そろそろお開きか、と皆が思う中、帝がこう口にする。「東宮」「はい」「明日、もう一日だけこっちに居なさい。そなたにも満足がいく様なものを見せよう」 そう言って帝は几帳を用意させ、東宮をそこに休ませ、自分も寝所へと入って行く。 一方、五宮は台盤所に入ると、蔵人達の中で休むことにする。 仲忠は侍所へと向かう。「大将大将、僕も僕も」 宮はたがちょこちょことついて来る。仲忠は少し考えたがやがて袖を開く。「そうだね。今日は僕と一緒に休もう。おいで」 はーい、と宮はたは喜んで仲忠について来る。「おや仲忠さま、宮はた君もご一緒で」「仲がいいんだよ、僕達は」 ねー、と宮はたも無邪気に返す。 一緒に寝転がると、仲忠は小さな声で宮はたに問いかける。「君の姉君は大きくなった?」「大きくもならないけど、小さくも無いよ」「髪の長さはどう? 長くて美しい?」「それはもう。長くて綺麗ですよー」 楽しそうに言うこましゃくれた子供に、仲忠はふむふむとうなづく。「父君は姉君を可愛がってる?」 話は微妙に宮はたの父、祐純の方へと移って行く。「どうだろ。今は弟を夜も昼も抱いてばっかりだし」「そっか… その弟宮はどう? 大きくなった?」「やっと立つくらい。可愛いんだ」 思い出したのか、宮はたはにっこりと微笑む。「そう言えば、どうして君の父上は、北の方である宮をあんまり大切にしないのかな」 祐純の妻は、かつて嵯峨院の梅壺更衣と呼ばれたひとの娘である。「うーん…」 宮はたは首を傾げると、やがてああ、と思いついたかの様にうなづく。 「よく判らないけど、母上は南の方にばかり行って、父上が自分を他人扱いにする、って泣くことがあるよ」「君の弟はずいぶんと可愛がるのに?」「弟にはもう、今父上はめろめろですもん。僕や姉上よりも可愛いみたい。ちょっと淋しいなあ。…実はね」 宮はたはこそっと声をひそめる。「あのね大将、父上、三条殿に住むほかの宮が大好きなんだ」「他の宮?」 やっと食いついた、と仲忠は思う。彼はずっと、今朝方の宮はたの言葉がずっと彼は気になっていたのだ。 父上がお好きな方だから自分も、と女一宮あての文を取ろうとしていた。「三条殿にはたくさん居るよね。どの宮?」「そりゃ大将の女一宮しか無いよ」 不躾な言葉に、仲忠は苦笑した。「どうやって父上は、女一宮を御覧になったの?」「父上はどうやってかは知らない。僕はほら、女一宮が内裏にいらした時に、ちょくちょく僕も用事を言いつかって」 子供というのはこれだから、と仲忠は内心ひやりとする。「ちなみにそういう時に、誰かが宮に文をやったりすることはあった?」「…それを言ってもいいのかなー」 仲忠はくすくすと笑ってみせる。「僕も上げたいなあと思ったことはあったけど」「まあまあ。君には僕が上げるから」「え、大将が!」 如何にも嬉しそうな子供の様子に、これはこれで心配無いと仲忠は思う。ただ心配なのは、父親の方だった。 祐純はあの兄弟の中では頭の切れる方である。また期待されていた仲純の死後は、正頼から現在、最も信頼されている。 彼の正妻は位は高いが決して頼りになる経済力を持つ訳でもない。従って婿として家を離れてしまうことは考えられない。 それらのことから、いずれ正頼の跡を継ぐのは彼だろう、と考えられているふしがある。 仲忠自身にとっても、祐純はいい友人である。仲純が死んでからは、あの兄弟の中では確かに一番信頼できる男である。 だからつながりは大切にしておきたいが――― 女一宮のことに関しては別である。「宮はた」「何? 大将」「夜が明けたら、藤壺の御方の所へ行ってこう告げてくれないかな。『いつも参内はするのですが、暇がございませんのでお伺いできなく』と」 はあい、と宮はたは楽しそうにうなづく。時間は少ししか無いが、仲忠は宮はたを懐に入れて、少しだけ眠る。* 早朝、宮はたが起きると仲忠はその髪をなでつけ、装束を整え、藤壺の所へ向かわせた。「あら、宮はた君、とってもいい匂いがするわ」「本当に、一体何処の女の方の懐でお眠りになったのでしょうね」 藤壺つきの女房達は軽く笑いながら少年を出迎える。「女の方じゃありません。右大将仲忠さまと一緒だったんです」 少年は少し顔を赤らめて抗議する。「本当ですか? 女の方じゃなくって?」「本当ですよ!」「まあまあ」 藤壺がなだめる。「右大将どのが内裏においでになるということならば、頼もしいことですね。お暇な折りがありましたらこちらから申し上げたいことがあるのですが」 そう伝えてくれますか、と藤壺は宮はたに頼む。はい、と少年は元気に戻って行った。「仲忠どのは今どちらに?」 孫王の君が「殿上の間に」と答える。藤壺は彼女を側に呼ぶと、仲忠に話すべきことの相談を始めた。【ふるさと納税】みかん大福(和菓子)/まるごと和歌山みかん大福餅 12個セット/簡易パッケージ【冷凍便】紀伊国屋文左衛門本舗
2018.01.15
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その七の一 俊蔭の文章講読、そして仲忠と女一宮の手紙のやりとりを眺める帝 それから少しして、仲忠は帝との約束通り、先祖の文を持って内裏へと出向いた。 帝はやってきた仲忠の姿や態度といった様子に満足する。「こんな翁になってしまったわしは、この朝臣にそのまま会うなぞ恥ずかしい位だな」 せめて女一宮の父として恥ずかしくない様に、と帝は化粧をして身繕いをした後に、清涼殿の御座所の側近くに仲忠を招き入れた。「例の本は何処にあるのだ?」「はい」 仲忠は顔を上げる。 それが合図の様に、沈木で作った文箱が一つ、浅香で作った小唐櫃が一つ、そして蘇芳で作った大きな唐櫃が一つ、次々に運び込まれてくる。 「ほほう、これは実に大荷物であるの」 開けてみるが良い、と帝は命ずる。 まず仲忠は文箱に手をかける。 中には厚さ二、三寸程の箱が二つ。それぞれに唐の色紙を二つ折りにし、揃えて綴じた冊子が入っている。 一つは俊蔭の集であり、自筆の楷書である。もう一つは、俊蔭の父である式部大輔の集であり、こちらは草書で書かれていた。「仲忠、そなたが訓読し、高い声で読むのだ」 帝は命ずる。 はい、と返事をすると、仲忠は楷書で書かれた漢文書を机の上に置いて読み出す。その声はいつもの儀式ばった宴などでする講師の声よりは少し低いものだった。 一冊は七、八枚の紙で綴じられており、その終わりごとに帝は一度は訓読で、一度は漢音のまま仲忠に読ませる。更に、その中でも面白いと思われた文句は節をつけて繰り返させる。 仲忠は生来良い声をしている。それだけに彼が悲しくも美しく読むところでは皆がそれに誘われてしまう。あちこちで袖口で涙を拭う姿が見受けられる。 また、その仲忠自身も感極まって涙を流しながら読むこともあった。 ちなみにこの日は、周囲には上達部や殿上人が皆集まって参内していた。仲忠が何か特別なことをする、というのは既に周囲の噂となっていたのだ。 だが仲忠はこの文を帝以外の者に聞かせるのも何だし、と低い声で読み、帝も聞かせたくない、と仲忠をお側に近付けて読ませていた。 したがって、皆は仲忠が声高く節をつけた時くらいしか、漏れ聞くことも出来なかった。*「…おおもう夕方か」 帝の声に皆が夢心地から覚めた様になる。 参内してからずっと講義を続けていたら、いつの間にか日が暮れてしまった。「この頃は夜も長い。まだまだゆっくりしんみりと聞きたいものだ。まだ帰宅は許さぬぞ」 そう帝に言われ、仲忠はとりあえず休憩に、と御前から殿上の間へと退出した。 できればすることは済ませてさっさと帰りたかったのだが、帝の命なので仕方が無い。 ともかく家の女一宮へと文を出すことにする。「退出したいと思ったんだけど、帝は御聴聞を途中でお止めになって、夜になってから続けて読め、と仰られるんだ。 だから今日は帰ることができません。こんな寒い日なのに、宮はどうしているかと心配になってしまうよ。 できれば南にいらっしゃる女御さまにおいで願って、一緒に休まれるといいよ。そうそう、子犬ちゃんもお側にね。僕が帰るまでは子犬ちゃんは帳台の中から出さない様にね。 こちらのことはご心配なく。あ、でも宿直用の衣服を少し送って下さい。わびしくとも、せめて衣と語り合って寝ようと思うよ。 ―――中務の君、以上の文を、宮にお読み申し上げておくれ」 そう書いた文を三条殿に送ると、すぐに折り返しの使いの者宿直用の衣類をたっぷりと携えてきた。 綾でできた赤色の直垂に綿を入れたもの。 白い綾の袿。 そして六尺ばかりの貂てんの毛皮を数枚継ぎ合わせたものに綾の裏をつけて綿を入れたもの、といった暖かな一揃いが一包み。 口金のついた衣箱もあった。中には赤い綾の掻練の袿が一襲、やはり綾の袿を重ねて三重襲となる夜の袴、織物の直衣、指貫掻練襲の下袴を包み、入れてある。 装束の色合いといい、焚きしめた香といい、打って出した光沢といい、実に素晴らしいもので、滅多に見られないものである。 またその他、蓋が外せる箱に、髪を洗う道具も入れてあった。 文の返事は中務の君からだった。「仰られた通り、女一宮さまに申し上げましたところ、御寝具の類をお送りする様にと言いつかりました。夜寒についてはまだご存知ない、との仰せでございます。犬宮さまについては、そちらさまの仰る通りに、とのことでございます」「うわ、素っ気ない」 思わず仲忠はその返事に声を上げ、苦笑した。それでも届けてくれた宿直の支度はありがたい。早速彼は少し楽な夜の装束に着替えた。 やがて休憩も終わり、とばかりに帝からのお召しがあったので、再び御前へと向かった。 ちょうど夕餉の頃。帝は靱負の命婦を召すと、仲忠と一緒に食事を取るから用意をする様に、と命じた。 膳部のあれやこれやと、帝は仲忠のためにわざわざ心を砕く。そして側に伺候していた后腹の五宮に酒殿から酒を召させる。「文を読むには酒が一番利くよ。近衛の者は酒を取り上げられてしまったら何が出来よう」 帝はそう言って、仲忠に酒をすすめる。そして五宮にも「負けずに呑め」と言う。「はい。こちらには御肴がございますよ」 そう五宮が言うと、「ちょうどいい。ではそなた、仲忠に酒をどんどんすすめなさい。そう、あの去年の十五夜の時のように」 帝は酒の量を見る。「この位なら何でもないだろう」 そう言って仲忠に渡す。 仲忠は仕方無い、と思ってもらう。 実際それは、彼にはなかなか丁度いい分量だった。充分呑んでも酔った様子も見られなく、書物に向かって灯火に照らされた顔や姿がただ実に美しい。 帝はそんな彼を見て思う。『ちょっと見よりも、近くで見たほうが実に美しいな。…こんな素晴らしい男が、わが女一宮を本当に心から思ってくれているのだろうか? もしかしたら、わしの心を察して、その義理から思っている様な態度を取っているのでは?』 そんな疑念が湧く程、文を読む仲忠の姿は帝の目から見て美しい。美しすぎた。 やがて女御や更衣もやって来る。この日は承香殿女御が帝の御寝所に伺候するはずである。 夜が更けて行くごとに、文を読む声、誦す声にも艶が増してくる。帝は琴の琴を持ち出し、声にそれとなく合わせ、掻き鳴らして行く。「…ああ、あの俊蔭が昔、嵯峨院の仰せに従って琴をわしに習わせてくれたなら、どんなにか良かったろうに… いやいや、どうしてもそれはできない、と断ったばかりに零落していったのだ。大臣にもなれる人だったのに…」「祖父は大層失礼な、無遠慮な方だったのですね」 戯れごとに帝はくす、と笑う。「言うな。そなたこそ今、祖父のその態度を見習っているではないか」 仲忠はうっすらと笑って言う。「私が祖父の様でございましたら… 祖父は真に全てに秀でた方でございましたから」「それは嘘だな」「そうでございましょうか」「実際にどちらの琴も耳にしているわしがそう言うのだ。他の者とてそうだろう」 そのまま時が暫く過ぎていく。「丑四つ」 夜警の近衛の官人が時を告げる。もうそんなになるのか、と帝はやや惜しげに、「ずいぶん夜も更けたな。少し休むがいい。また朝早くから始めよう」 そう言い残すと寝所へと向かった。 仲忠もまた、殿上の間で休むことにした。 だが今までの興奮がまだ覚めきらないのか、周囲に仲忠が来ている、とばかりに殿上人が沢山居るせいか、なかなか眠りにつくことができない。 それでも寝転がっていると、忠純が声をかけて来る。「昔はみっとも無い程良く寝ていたものだったのに、どうして庚申の時の様に眠らずに居るんです?」 あなた方がそんなに騒がしくては眠るに眠れないでしょ、とはあえて口に出さない仲忠であった。* 早朝、帝は目覚めるとすぐ、仲忠の様子をうかがいに殿上の間の方へとこっそりと入って行く。「お」 隙間からのぞくと、仲忠は人の見ない間に、とばかりに奥の方を向いて消息文を書いている。「どうして宮自身が返事をくれなかったの。淋しいな。暖かい寝具はもらったけど、 ―――どんなに慣れている宮中でも、独り寝の寒さに袖も凍ってしまいました。寝具などは何の役にも立ちますまい――― 宿直は寒くて、どうにもたまらない気分です。宮、今日も代筆だったら、僕は拗ねてしまうから」 そう白い色紙に書くと、咲いている梅の花につけて、主殿司の方へ向かった。「宿直所に僕の供人が居るから、誰かこれを渡してきてくれないか」「はーい、僕が行きます」「宮はた」 にこにこと殿上童の一人が近づいて来る。祐純の子、八つになる「宮はた」君であった。言うが早いが、彼は仲忠の手から文を奪い取る。「乱暴だね。どうしてそういうことをするの?」「だって女一宮さまの所へでしょう?」「まあそうだけど。それがどうして?」「だって父上がお慕いしている方だもん。お会いしてみたいなって」 楽しそうに言って、殿上口に立つ仲忠の供人へと少年は持って行く。 ふうん、と仲忠は軽く眉を上げた。 そしてその様子を見ている帝は。「…どうやら朝早くから文をやるところを見ると、一宮のことをおろそかには考えていない様だな」 帝は安堵して御座所に戻る。 折を見て仲忠を召すと、彼は昼の装束をまとって御前に参上した。 五宮も引き続き伺候する。 やがてその場に、宮はたが呉竹を手に持って、ばたばたとやって来る。「何ごとだ」「仲忠さまー、宮からの御返事でーす」 差し出す呉竹には、青い色紙が結びつけてある。「ちょ、ちょっと宮はた、今はね――― 今僕が行くから、そんな騒がないで、帝の御前だよ」「よいよい、宮はたよ、それを此方に持って来るが良い」 はい、と元気に宮はたは返事をすると、帝の元へ差し出す。仲忠はそれを見て頭を抱えた。 帝は青い文を開く。確かに娘の手跡だった。「昨夜代筆させたのは、文がもしも他のひとの手に渡ったら… と思ったの。別にあなたを軽んじた訳では無いわよ。 ―――うわべは絶え絶えの様に見えながら、燃える思いでいらっしゃるあなたの袖が、どうして凍りなど致しましょう?――― あ、装束も送りますね。昨夜のはちょっと何だったから。今度のは特別よ」 帝は微かに笑う。「母の仁寿殿女御の手跡に似て、上品で若々しいが、内容はなかなか大人らしくて、世話女房の様でもあるな」 微笑ましい思いでそれを無造作に巻き戻すと、仲忠へと渡す。 仲忠は何とか平気を装いながら文を受け取って懐に入れる。「さて仲忠よ、また今日も続きを頼むぞ。…おおそうだ、五宮」「何でしょうか」「そなたの兄に、東宮に使いを頼まれてくれぬか」「何なりと」「昨日から大層珍しい文を読んでいるから、こちらに是非に聞きに来る様に、と」 五宮はそれを聞くと使いに立とうともせず、露骨な笑いを見せる。「そう仰られても、兄上のこと、参上なさらないでしょう」「ほぉ、それは何故だね」「最近の兄上は少々普通ではございません。とある所に籠もったままなのです」「何と」「侍所の男達も困っております。『この一月ばかり、東宮の御前に伺候いたしません。全くお顔も見受けられません』と皆案じております」「何とまあ。一体何処に籠もっているというのだね」「それはもう」 したり、という顔で五宮は笑う。「藤壺に決まっているではないですか」 仲忠は微かに眉をひそめる。「何もあの御方だけしか知らないのならともかく、兄上は、院の女四宮は一体どうなさるおつもりなのか」 皮肉気に五宮は言い捨てる。「あれは、女四宮の所には通っていないというのか」「今年に入ってからは全くですよ。それどころか、他の妃にしても、兄上には滅多にお会いになれないそうです。―――まあ、どういう暇があったのでしょうか、彼の妹…」 そう言って五宮はちら、と仲忠を見る。「そちらには時々いらっしゃる様ですが。そうそう、その梨壺の御方はこのたびご懐妊だということです」 仲忠はそれを聞いて思わず腰を浮かせ掛かた。帝も五宮もそんな彼には気付いてか気付かずか、続ける。「東宮にも困ったものだ… あれはなかなかよく出来た息子なのでさして心配もしていなかったのだが… それでも色好みの心で動いてしまうこともあるのだな。世の中は大層平穏だと思っていたのだが。古書にも色好みについては書かれている。只人ならともかく、帝王となる者には、いささか…」「どう致したものでしょう」 五宮は半ば困った様な、また半ば楽しんでいる様な表情で帝に問いかける。「女四宮は中でも父院が可愛がっている娘であるからの。今淋しい思いをしているとなると…」「院はどんなに悲しく思われることでしょう」「そうだ。女四宮だけではない。女三宮も可哀想な生活を送っていると聞く。兼雅は一体彼女をどうしようと思っているのだろうな」 仲忠は目を伏せる。父兼雅がその様に女三宮を顧みないのは、全て母尚侍と自分のせいである。 尚侍への兼雅なりの愛情表現であることは判る。ずっと不遇な暮らしをしてきた自分達を、兼雅はここぞとばかりに他を顧みない程に大切にする。 それが彼のやり方なのだと、仲忠も判ることは判るのだ。父兼雅は基本的に単純で愛情深いひとなのだから。 だからこそ自分が救われた部分もあるし、その一方で母を取られてしまってた様な憎々しい部分もある。 そんな仲忠の思いを横に、帝は続ける。「概して女皇子というものは、独り身を通すのが無難ということだろうか。不幸な皇女達がこうも居るというのは心配なことだ」 そうこう言っているうちに、東宮からの使いかやってきた。「おお五宮よ、どうやらそなたの目論見とはやや違う様だな。こちらが誘う前にやって来る様だぞ」 使いの者の姿を帝は認める。【セール】 袴ロンパース お食い初め ベビー 赤ちゃん 女の子 豪華な十二単風の羽織付き♪ 袴カバーオール ベビー 袴 ロンパース (雛祭り 初節句 袴ロンパース 七五三 衣装 羽織袴 和装 和服 フォーマル プレゼント 60 70 80 90)【メール便可】【あす楽】
2018.01.14
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その六の二 藤壺の御方に対する東宮の並々ならぬ執着 女房の噂が姦しい辺りを通り過ぎた仲忠は帝の元へと向かった。 蔵人達に慶びとお礼を伝えさせる仲忠に、帝は喜び、差し招く。仲忠は舞踏して畏まった様子で帝の前に上る。帝はそんな仲忠の様子をしばらく見ながら、暫しの間何も言わない。 一宮はそう悪い出来の娘ではない――― いや、良い出来だと思って降嫁させたのだが、はて、仲忠はどう思っているのだろう。 父親としては、そんな考えもこの青年の前では浮かんでしまう。彼は問いかける。「久しいの」「は」「何故ここ暫く参内しなかったのだ? 先だっても節会などがあったので来るかと楽しみにしていたのだ。そなたが来なくてたいそう淋しかったぞ。一宮の婿のそなたは、他の誰よりも睦まじい間柄であると思っているのに、これでは上達部より疎々しいではないか。もっと参内なさい」 は、と仲忠は恐縮する。「無論でございます。私も毎日参内すべきではございました」「では何故」「…はい、この二、三ヶ月、先祖に当たる人々が残していった書などを、放ったらかしにしておいた場所に見つけまして、ついしばらくそれに夢中になっっておりました」「先祖――― と言えば、清原氏の方か」 帝は身を乗り出す。「はい」「それは良いことだ。学問に身を入れるのは、そなた自身のためだけでなく、公のためにも頼もしいことだ。来年は高麗人が来朝する時ではあるが、博士共も、昔の様に賢い者は少なくなってしまった…」 ふっと帝は視線を逸らす。「藤英にとっては心細かろうな、大した学者が居ない現在は。彼一人の肩に様々なものが重くのし掛かる。だからこそ、そなたを頼もしく思うよ」 ふう、と帝はため息をつく。そしてふと思い出した様に。「ところで、祖先とは、かの清原俊蔭きよはらのとしかげのものか?」「はい。母方の祖父のものが大半です」「記録や文章というものまで見いだして調べていることは素晴らしい。それは皆揃っているのか?」「はい。一覧がありましたので照らし合わせて見ましたら、欠けている書物はありませんでした」「おお、それは良かった」「祖父、俊蔭朝臣は字が上手でしたが、その中でも一番達筆を揮った頃は有識でございました。その祖父が、書物を読んで抄物を書きました。またそれが実に詳細なものなのです」「ほぉ」 帝は感心する。「それはそれで、他に大変なものを見つけました」「それは何だね」 勿体ぶる仲忠に帝はやや心がときめくのを覚える。「清原家の古集の様なものでございます。祖父が唐に渡った日から、その父――― 曾祖父が日記をつけたのが一つ、詩や和歌を書き付けたのが一つ、そして祖父自身のものも」「あるのか」 帝は身を乗り出す。「はい。読んだ時には、非常に嬉しくも悲しくも感じました」「おお仲忠よ、どうして、今までそのことを黙っていたのだ? あの知識人達が悲しんで書いた日記や詩や和歌は、どんなに優れたものだろうな… やはりそなたは、そういう有り難い文章を手にすることが天によって決められていた様だな」「いいえいいえ、めっそうも無い」「うーん、それは一時も早く見たいものだ」「…それらの文書を発見致しました時に、すぐ奏上すべきでしたが、曾祖父の文の序に、『入唐で不在の間の記録は俊蔭が帰って来るまでは他人が見てはいけない。その間霊が付き添ってこの書を護る』と書き付けてありました。また、祖父の遺言としては、『この書は、後継者も無く、娘などの判る文書でもない。二、三代の間にでも後継者たる男子が生まれてきたら、その子にでも譲るものである。その間霊が護るであろう』と記してありまして。…そういう訳で、その遺言を破る訳にもいかず、どうしたものかと」「それはかの有識達が、数代後にそなたを後継者として迎えることを知っていたに違いない」「かもしれません。事実、あの蔵から何かを取ろうと近づいた者はことごとく死んだと聞いています。ですので帝にその様な不吉なものをお目にかけるのは」「ああそれなら、そなたが私に読みきかせるのなら良いだろう?」 さらりと言う帝に、はあ、と仲忠は呆然とうなづく。「まあ今日は止めておこう。そなたの昇進を祝い、近衛司の者達を慰労するんだろうから、そう、落ち着いたらその家集や詩の抄物などを持たせて参内なさい」「上…」「正直私が一番興味があるのだ。特に俊蔭の足取りなど」 判りました、と仲忠は承った。* その後中宮や東宮の元へも向かったが、東宮はたまたま藤壺に出向いていて留守だった。 それでは藤壺へ、と足を向けると、取り次ぎには孫王の君が出てきた。 久しぶりの対面に、二人はにっこりとうなづき合う。仲忠はそのまま孫王の君に二人への言葉を伝えさせる。「久しくご無沙汰しておりましたが、今日は慶びを申しに参上致しました。とりわけお聞き古しになったことで、昇進の沙汰など珍しくも無いでしょうが…」 東宮はそれを孫王の君から受け取り、ぽん、と手を打った。「そう言えば仲忠はこのたび、右大将になったのだな」「そうだったのですか?」 藤壺は驚いた。では、と彼女も言葉を託す。「藤壺の御方からは『この二、三年近衛司にお勤めと伺っていましたが、今度も御転任にならなかったことを嬉しくお祝い申し上げます』とのことです」 孫王の君は仲忠にそう伝える。「何となく、今日の様な慶びはいつまで経っても来そうにないとでも仰っている様だな。あの方もそんな風に、僕のことはお忘れになってしまうんでしょうね」「ふふ」 孫王の君は笑った。「どなたのせいでしょうか?」 熱愛する妻のせいじゃないか、と彼女はほのめかす。仲忠は肩をすくめる。「嫌だなあ、あなたの処にもそういう噂が来ているんだ」「ええ勿論」「僕は今でもあなたのことは大好きだよ、孫王の君」「何を今更。それにあの頃も私、申しましたでしょう? 今あなた様が素晴らしい奥様をもらって幸せなのを聞いて、私はとても嬉しいのですよ」「またあなたはそういうことを言う… 話を変えようか」「逃げますこと」「…東宮さまは藤壺の御方のことをどうお思いなのかな」 孫王の君はやや真剣な表情になる。「昔とお変わりはありません。もう御方一筋で。…畏れ多いですが、ちょっと御方にうるさがられている感があります」 おやまあ、と仲忠はにっこりする。「まあ仲が良いのはいいことだ」「そうなのですが」 孫王の君の表情が曇る。「何か心配なことでもあるのかい?」「お聞きだとは思いますが… 色々とよからぬ噂があちこちで」「ああ…」 仲忠は合点がいったという様にうなづく。「御方さまは東宮さまがその辺りをまるで考えて下さらない、と苛々なさって、いつも里に、三条殿に退出したがっておられます。ご自宅にお帰りになれば、気持ちも落ち着いてすっきりするだろう、とのことなのですけど」「退出の許可が出ない?」 はい、と孫王の君はうなだれる。「…梨壺でもそういう噂はされているんだろうな。そう思うと兄としてはちょっといたたまれない気分になるけどね。こうやって御方のところへ挨拶に来るのもいけなかった様な気もする」「いえそんなことは」 顔を上げ、彼女は慌ててうち消す。「梨壺さまはそんなことは仰らない様です。東宮さまもあの方は以前から一目置かれている様で、藤壺さまに昼も夜もつきっきりと言われている今でも、あの方ばかりは時々何かの折りにお召しになります」「そうか… なら良かった。けど東宮さまにも少し困ったものだな」 ええ、と孫王の君はうつむく。「藤壺の御方を独り占めしたいというのは確かに判るけど、次の帝ともなられる方なんだから、正式にお迎えした他の方にもきちんとした態度でいらっしゃらねば… それにいつでもべったり、というんじゃ藤壺さまが何か東宮さまの側仕えの女房扱いされている様で、確かに外聞が悪いよね」「外聞も何ですが、…それ以上に、藤壺さまの気分がそのことでどんどん滅入っていくことの方が私は心配なのです」「孫王の君」「私はその点気楽なんですわね」 ふふ、と彼女は笑う。「孫王という名をつけられる通り、私は宮の娘で、育ち次第では入内だってあり得た訳です」 でしょう? と彼女は仲忠を見る。「そうだね。…あなたはそういう姫君の暮らしに憧れた?」「こともあります」「あなたは今でも美しいよ。誰かしっかりした人のところに縁付いて、のんびり幸せに暮らしたらどうかな、と僕は思うんだ」「性に合いませんのよ、仲忠さま。生まれはどうあれ、母の思いがどうあれ、私はあの宮の娘で、あの騒々しい家で、だけどのびのびと暮らしてきました」「知っているよ」「ええ、あなたはご存知でいらっしゃる」 かつての昔馴染み。それと知らぬ間に男と女の関係も持っていたけど。「結局それが私の地なのですわ。この騒がしい世界が私はとても好きなのです。誰かに仕えられるよりは、誰かのお世話をしている方が楽しい。あの家に住んでいた時も、私は姫、姫と呼ばれてはいましたが、内実は皆の世話に追われていた身でしたでしょう?」「うん、あなたの手から渡された姫飯はとても美味しかった。今でも忘れない」「その時の綺麗な男の子が急に笑顔で泣き出したのも、私、覚えていますわよ」 彼女はふっと表情をゆるめ、袖で口元を覆う。仲忠もつられて笑顔になる。 が、それは一瞬だった。すぐに二人とも真面目な顔になる。「ともかく東宮さまには、もう少し藤壺の御方の立場のことも考えて行動していただきたいものだね」「全くその通りですわ。…かと言って、私達にどうこうできるものでも無し。東宮さまとて、気付いてはおられるのですわ。きっと」「それでもそうせずに居られない、のだったら… それはそれで困りものなのだけど」 ふう、と仲忠はため息をつく。 ちなみに二人の話はひどく小さな声だったので、御簾の向こうの東宮と藤壺には聞こえていない。* 仲忠と孫王の君が東宮と藤壺の噂をしている様に、話題にされている側も、している側の噂をしていた。「…全く見るたびにあの男は立派になるものだ」「…ええ」「将来何になるべく、この様に生い育ったものかな。今のこの姿は、それこそ、あれの両親ですら、恐ろしいと感じる程素晴らしく感じられるだろうよ」 「一体何を仰りたいのですか」「そなたは」 そう言って東宮は藤壺の顎をくい、と自分の方へ向けさせる。「そなたはあの男のことを思い出すと不機嫌になる」「…そんなこと!」「顔に出ているぞ」 はっとして彼女は顔を背けようとする。だがそれは叶わない。では。逆に視線を合わせる。真っ向から東宮を見据える。「仲忠は、容貌や学芸の点でこそ、わしに勝るだろうが、そなたに対する気持ちでは勝てまいよ」「何を今更! あの方は既に女一宮のもとで良き婿、よき夫として暮らしていらっしゃるというのに」「そう、たった一人の妻をそれこそ天女の様に大切にしてね。ああそうだ、私もそれに倣いたいと切に願うものだ」「それは困ります」「何が困る。女としてそれは嬉しくは無いのか。私の様な地位にある者は、妃一人を守ってはいないものだが、私は違う。そなたと他の妃を同列には扱いたくない。気持ちは無論そうだが、対外的にもだ」「それが困ると…」 藤壺は苦しげに表情を歪める。「ほう。それではそなたは私が側に居るのは嫌だと、邪魔だと言うのか」「…そんなこと―――」「そう、梨壺はそんなことは言わぬぞ。あれは素直だ。見た目はそなた程ではないが、愛らしく、すっきりとしている。それに両親――― 兼雅も、嵯峨院の女三宮も、心映えの優れた方だ。だからわしも、そんな両親や、何よりも仲忠が耳にすると思って、梨壺を時々呼ぶことがあるではないか」「…そんな仰り様、梨壺さまが可哀想です」「そなたがそれを言うのか? その言い方そのものが、梨壺を既に見下しているのではないか?」 くっ、と藤壺は息を呑む。「私は世間の道理のことを申し上げているのです。そもそも東宮さまは、過去からのしきたりを、東宮としてのお役目を怠っているということになりませんか?」「ずけずけと言うな。そこがまたそなたの素晴らしいところだ」「次の帝ともあろう方がこんな風に女一人にかまけているなど… 見下しているも何も、東宮さまがしきたり通りに皆様をきちんきちんとお召しになっていれば、私とて妙な噂を耳にせずとも済みますものを…」 すると東宮はにやり、と笑う。「そうそう、そう初めから言えばいいでは無いか」「…!」「そなたは実に自分勝手だ。その昔、実家でちやほやされて、皆の気持ちを振り回していた頃、その一人一人に気持ちがあるなどとは思ってもみなかったのではないか?」「…! それは、…けど! 皆が皆、私に本当の気持ちを捧げているとも感じられなかったのも確かですわ」「そう思うのはそなたの勝手であろう。仲頼が出家する程そなたを思っていたことは知っていたか?」「…いいえ。あの方は実に慎み深い方でしたから、私も通り一遍の返事をしただけのこと」「あああれは本当に惜しいことをした。あれは賢い男だ。そして哀しい男だ。そなたへの気持ちは忘れがたい。かと言って無碍な行動も取れない。心得ていたのだろう。その結果が出家だ。確かにそれが一番周囲からの批判も少ないだろうな。妻子も悲しんだかもしれないが、あの全てを諦めた姿には、皆好意を持ったろう」「…」「そして一方、実忠の様に泥沼にはまってしまい、一人で抜け出せない者も居る。勝手に思って勝手に病気になって、勝手に隠遁してしまうのも何だが。あれは愚かな男だ。あれの兄弟達が、妻子がどれだけ苦労しているのかも知らず、ただただそなたからどう見られるのか、ということだけで隠遁して気持ちの確かさを見せつけようとなど」「…私はあの方は恐ろしゅうございました」「恐ろしかったか」「ええ」「ならそなたはわしのことも恐ろしいのではないか?」「東宮さま」「わしも勝手な男なのだ。あれと私の違いはたった一つ。地位だ。わしが東宮であったことだけだ。公の力で、そなたを好きにすることができる地位にあったからに過ぎないぞ」「―――その地位を以て、私に退出をお許しにならないと仰るのですか」「ああそうだ」 東宮は言い放つ。「…子供達に会いとうございます」「此方へ呼べばいい。そう、そなたの父や兄弟達とも、宮中で会えるではないか」「私は…!」「ともかく、しばらくの間、わしは決してそなたの退出を許さぬ」* その後、藤壺内でのやりとりなぞ知らぬ仲忠は、梨壺の妹の元へ挨拶に出向いた。「うわ、やっぱり…」 ご昇進おめでとうございます、とばかりに近衛司の人々は彼を出迎え入れた。 あとはもうされるがままである。仲忠は彼等の手で、一気に三条殿まで慶びの音楽と共に連れて行かれた。 その晩、中の大殿では夜が明けるまで祝宴が続いたということである。栗の渋皮煮 300g
2018.01.13
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その六の一 藤英とけす宮の楽しいかもしれない日々 正頼は更にもう一度辞表を送った。 しかしまだ返される。 仕方が無い、と今度は右大弁の藤英を呼んで、改めて作らせることにした。「これは殿、それはまた一体」 この屋敷の婿住みとなっている藤英は驚いた。現在何と言っても政治の場には欠かせない存在である正頼が、一体何を。 そう思うが早いが、無礼を顧みず彼は口にしてしまった。「いや、正直こちらも少し疲れたと思っての」 本心だろうか。藤英は最初の動揺を鎮めると、次の言葉には慎重になる。政治の駆け引きは決して得意ではないが、この屋敷に住む様になれば、自然、彼にも次第に理解できてくるものがある。 正頼は続ける。「これまでにも二度、帝に奏上したのだよ。だがどうしても受け入れていただけない。なあ藤英、この辞任によって、是非仲忠を中納言だけでなく、大将になって欲しいのだよ」「仲忠どのを」 成る程、と藤英は思った。思惑の行き先はそっちだったか。 実際に左大将を辞任しなくても良い。ともかく仲忠の昇進を計ってもらいたい。 その意が伝われば、と正頼は考えているのだ。「私が辞任すれば、一族の誰かに大将の官は回って来るだろう」 まずそれは仲忠に回るだろう。 仲忠は一宮の婿として、この一族に入るから、全体の利益は変わるものではない。仲忠との結びつきがそれでより一層強くなれば、おつりが来るくらいだ、と。「…と、そんな私の気持ちを汲んだ上で、帝を説得できる様な表文を書いて欲しいんだ。―――言葉一つにも注意してな」「は」* 藤英はすぐに戻ると、正頼の意を汲んだ辞表を作ることに専念した。 彼の集中力は凄まじいものである。目の前の紙と筆以外、次第に注意が行かなくなって来る。 健康上の理由――― 年齢上の理由――― 朝廷への差し障り――― 仲忠を推すあたり――― 茶番だよな、と思いつつも藤英は考える。考えることは仕事であれ何であれ、彼は好きだった。 いや好きどころの騒ぎではない。それは既に彼の第二の本能と化していた。 おかげで。「わっ」 机の向こうでじっと自分を見る目にも気付かないでいてしまった。 視線が合う。 うろたえた籐英は思わず尻餅をついてしまう。「ななななななにをしているんですか、あなたは」 そこに居たのは彼の若い妻、けす宮だった。「うーん? いや、いつまで気付かないのかしらー、と思って」「だいたいあなた一人で何やってるんですか! 女房達は」「暇なんだもの。女房達って」 そう言うと、何としゃんと立ち上がるではないか。姫君――― いや今は人妻である――― にしては有り得ない程機敏な動きで。「暇って何ですか暇って」「だってー」 そう言ってまだ少女と言っていい程の歳の妻は頬を膨らませる。「去年までだったら、暇ならお姉様の誰かのとこへ行けば何かしら面白いことがあったんだけど、皆お婿さまが来ちゃったじゃない」「それはあなたも同じでしょ」「そうなのよ!」 どん、とけす宮は床を拳で打ち据える。「あなた私のお婿さまなのよ。私は奥さんなのよ。だからもう少し一緒に何か楽しみたいとか書とか文とか教えてくれたっていいのに、あなたと来たら、連れてきた学生とばかり遊んで」「…う、それは」「別にいいわよ。あなたの得意の漢文は私にはさっぱりだし、あなたという男には全然面白み無いし」「…それは散々な言い草」「そうよ。散々な言い草だわ。だからそう思うんだったらちょっとは私のこと、叱ればいいのよ。父上のことなんか気にせずに」 あ、成る程。 そこまで言われてようやく藤英は気付いた。「えー… つまりあなたは構われたいと」「そうよ。って言うか、そこまで言わないと気付かないから男ってやーよ」「そうですか…」 とほほ、と学問一筋でまるで女のことなど知らなかった秀才は肩を落とす。「でもね、けす宮。今はちょっと困るんですよ」「何が」「今考えてるのは、あなたの父上の大切な書類なのですよ」「どんな?」「色々です」「あー、そこではぐらかす。そこではぐらかしちゃいけないのよ」「いけないのですか」「そうよ。下手にはぐらかすと女は突っ込みたくなるのよ。こういう時はね、少しだけ本当のことを言うの。そうすると、ああ我が夫君はそういう大切なことをやっているのね、じゃあ私は引っ込んでいましょう、と素直に受け取れるじゃない」「しかしけす宮」 そこで反論するところが彼だった。「そうやって言われるままに私が策を講じたところで、相手はあなたじゃないですか。あなたに教わった知識であなたを捲こうというのは無理な相談ではないですか」「何言ってるの。言われた通りにしかできないんだったら、それはあなたの力不足というものよ」 がん、と頭を殴られた様な衝撃を藤英は受けた。「…で、えーと」 彼女はそのまま藤英の斜め後ろにまでやって来て、周囲に書き散らされたものを見やる。「あー、成る程」「判るんですか、あなた」「何となく」 謎だ、とこの妻に関しては彼は思わずにはいられない。 最年少の姫に彼は婿入りした訳なのだが、何やら時々少女というよりは、動作といい、言葉といい、少し華奢な少年を相手にしている様な気分になる。「つまりお父様は、仲忠さまに恩を売ろうってことね」「い、いやそこまでは」「お父様ですもの。そのくらい考えそうなことだわ」「…そんなあなた、はしたない」 彼は思わずため息をつく。「そんなこと言っていると、成り上がりのあなたなんか、すぐに潰されるわよ」 再び、今度は横っ面を張り倒された様な衝撃を彼は覚える。「あ、ごめんなさい。別にあなたが成り上がりってことを責めてる訳じゃないわよ」「本当にそうですか?」 腰砕けになりながら、藤英は妻の方を上目づかいで見る。 三十男が娘ほどの歳の差がある少女にする態度ではない。だが、衝撃からなかなか立ち直れない彼には、自分を客観視することがなかなかできない。「本当よ。そりゃお姉様達みたいに立派な出の婿君が来るんだと思ってたから、それなりに最初は私も落ち込んだんだけどね」「落ち込んだんですか…」 はあ、と大きくため息をつく。するとばん、と勢い良く背中を叩かれる。「何聞いてるの、それは過去形よ!」「過去形」「今は面白いと思ってるわ。だってそうじゃない。いいとこの出の婿君達って、緊張感が無いのよね」「緊張感」「そーよ。それに皆何処か甘いわ。だってあなた聞いているでしょ。実忠さまのこと」「ああ…」 あて宮の恋に狂い、入内後かなりの期間が経つというのに、未だに人と交わるのが怖いのか、小野の里に閉じこもっていると聞く。「私はそんな人は願い下げだわ。情けない!」「…そうですか」 頭が痛くなりそうだ、と藤英は思う。「それに女房達は言うわよ」「何を」 下手なことを耳に入れない様に… と一瞬彼の頭に考えがよぎった。だが彼は聡明だったので、それが徒労に終わることにすぐに気付く。「あのね、どうしてそういう態度なのか、というと、確かにやる気が起きないっていうのもあるんだろうけど、あて宮に自分の思いが純粋だったと思わせるため、ってのもあるって言うじゃない。馬鹿みたい」「…い、いやそこまで言うことは」 その昔、一つの行事や示威行動として、思いは格別無くとも、あて宮へ歌を送ったことがある彼は、同じ男としてつい実忠を弁護したくなる。 しかし彼の若い妻は容赦が無い。「いいえ言います。馬鹿よそんなの。まあ私はあて宮のお姉様じゃないから何だけど、少なくとも今宮のお姉様や女一宮とかは呆れているわよ」「呆れて…?」「見え見えだって。まあその見え見えも含めて一つの作戦としているんだろうけど、と私達お話してたこともあったし。何自分に酔ってるのかしらね、って」 三度目の衝撃が彼を襲った。嗚呼女というものは…「い、今宮というと、確か涼どのの奥方で」「そうよ。一番お話が面白いお姉様だったんだけど、何っか思った以上に結婚生活が面白いらしくって。…まああの今宮がそう思うくらいだし、おかげで私も結婚してもいいかなー、って気になったんだけど」「…そ、そうなの?」「そーよ。今宮のお姉様ってのは、うちの中でも並外れたおかしな姫だったらしいもの。簀子は走る髪は振り乱す。婿なんか要らないって言い出すんじゃないか、って、お父様も何処かひやひやしていたって噂だわ」「けど涼どのには」「そこよ」 ぴっ、と彼女は藤英の目の前に人差し指を立て、顔を近づける。「どうもあの二人、こっそり文を交わしていたんじゃないかって。今宮の方が好きだったんじゃないか、って女房からの情報では」「そ、それは。女の方からなど」「だから、そういうお姉様を涼さまは好きになったんじゃないの?」 大物だ、と彼は涼について思う。「今宮のお姉様は他のお姉様達の様な『しきたり』とか振り回さなかったもの。ずっと話が合ったわ」 だとしたら、それは随分なものだと藤英は思う。「と言っても、私は簀子をばたばた走ったりする様な度胸はなかったから、お父様に言われたらその通り、婿取りしなくちゃならないとは思っていたし。まあそれだったらできるだけ面白い方がいいわねと思ってたのよね」「あなたそんなこと、婚礼の日にも言わなかったじゃないですか」「あんな皆がじろじろ気にしている中でそんなこと言ったら、あなた退くでしょ! ただでさえ『身に余る何とやら』とばかりにしゃちほこばってたくせに! そしたらせっかくの婚礼は台無しだったじゃない!」 それはそうだ。「今だから言うのよ。なかなか私は面白い人と結婚したって」 そう言って、けす宮はにこ、と笑った。 その笑顔が非常に可愛らしいので、藤英は何も言えなかった。* さて帝は、藤英が作った辞表に目を通すと、成る程、という表情になった。「判った。これは受け取っておこう。そして」 帝はとうとう正頼の思いを酌み取る格好となり、仲忠の元に使いを出した。中納言兼大将とする、という御文を持って。 驚いた仲忠はすぐに正頼と大宮の元へ向かい、任官の準備のことを相談する。 やがて内裏からは唐綾、絹をそれぞれ入れた唐櫃が一つづつ、妻である女一宮の元へ送られて来る。「凄いじゃない!」と、今にもお産が始まりそうな今宮からは、赤い唐衣、唐裳、摺裳、綾の細長に三重襲の袴を添えた女ものの衣装が五具贈られてきた。「そちらも大変な時期なのに、嬉しいわ」 一宮は喜ぶ。 今宮――― 涼のところだけではない。そこかしこから、仲忠の昇進を聞いた者達は、この様な御祝いの品を贈って来る。 正頼の処でも祝いの準備がされている。祝品の中には、花文綾などが皆添えられていた。* さて右大将兼雅を左大将に、そして仲忠が右大将に、ということが公表された当日。 めでたい折りということで、仲忠は珍しい薫炉に入れた香を焚きしめた蘇芳襲の装束と綾の上の袴を身につけた。 そして一宮を拝み、仁寿殿女御に慶びを口にし、大宮の元へと向かう。 お供には四位が八人、五位が十四人、六位が三十人ばかり。彼らは随身や前駆する者など、様々である。 行列を眺める正頼の娘達は、その立派な様子にため息をつく。 涼の住んでいるあたりを通った時など、主人の気質が気質だけに、その様子が顕著だった。 その辺りは、薄い斜紋の絹で縁取りされている青い簾を掛け渡しているのだが、中には赤色の唐衣と濃い袿をまとった女性達がみっしりと、姿を見よう見ようと待ち構えている。 簀子には青色に蘇芳襲の、綾の上の袴、濃い紅の袙を揃えて来た童が八人ばかり、高欄にのしかかる様に。 仲忠は立ち止まると童の一人に訊ねた。「涼さんは居るの?」「今朝は内裏へいらっしゃいました」「では北の方に伝えて欲しいな。昇進の慶びを伝えに来たって。でも今回は良い相手無しのままで残念だけど、って」 わかりました、と童は上気した顔で答える。仲忠はそれににっこりと笑い掛けると、次へと進む。 遣水の辺りから来て行き過ぎると、髫髮うない達が思わず扇を打ち、拍子をとって催馬楽の神楽歌を謡い出す。 仲忠はそれを見て笑う。「そう謡われても、僕には判らないよ」 そのまま新左大将となった父の元へと出向き、更に母尚侍の元へと行く。 続いて内裏へと向かう。 近衛の陣に入るや否や、皆が群がって仲忠の姿を見ようとする。 帝の常御殿へ向かうには、後宮の女御や更衣の局の前を進んで行かなくてはならない。 女房達は仲忠の姿を見て何かと噂をする。「もの凄くお久しぶりだわ。けど見ない間に何って立派になられたこと!」「女一宮さまは幸せものだわ。ああもう、憎らしい程羨ましいってものよ! あんな素晴らしい仲忠さまにずっと尽くされていたなんて…」「そうよね、誰とは言わないけど、あの方に言い寄らない女は居ないって程だったのにね…」「そんな方を全く他の女に見向きもさせずに居るなんて、本当に羨ましいやら悔しいやら」「やっぱり母君が素晴らしい方だからよね。仁寿殿女御さまは本当に立派な方だわ」「そうよね。私達同様帝にお仕えしているという立場であるとはいえ、帝のご寵愛を一身に集められているのは、何と言ってもあの方ですもの」「そうそう、それにご本人だけじゃないわ。娘の女一宮さまはこの通り、非の打ち所の無い様な婿君に、二人と無い女と思わせ…」「ああでも、たった一つだけ… ね」「そうねえ。確かにご寵愛は誰よりも深いし、宮さまもたくさんお産みになられたけど、ご自身が中宮の座に上ることも無く、今の弾正宮さまも東宮には…」「それに、確かに一番のご寵愛を受けているとは言っても、それでも時々は他の方も召されるでしょう?」「そうよね。でもそれは帝のなされることだから仕方が無いでしょ?」「でも東宮さまをごらんなさいよ。藤壺さまが入内してからというもの、他の妃さま達が居ることも忘れてしまったかの様じゃないの」「そうよねえ。しかも世継ぎの君を二人も儲けているし…」「おかけで嵯峨院の四宮さまはここのところずっとお泣きだということだわ。『やっと大人になったばかりの小娘に恥をかかされた。だけど父上にそのことを言って戻ったりしたら、ご心配なさるだろうし』って…」「もともと性格は良い方だものね。昭陽殿の太政大臣の方は、何かもう、大声で夜昼神の助けを願い、神仏の御加護の無いことを呪って大変だそうよ」「…まああんまり色々聞きすぎないことがいいわね」はんてん 婦人半天 レディース袢天 パッチ久留米手づくり半纏 全刺し子刺繍 5色 7490袢纏
2018.01.12
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その五の四 弾正宮の気持ち* やがて、餅以外の祝いの食物が膳にのせられ、犬宮が口にする。それが済むと、犬宮は乳母に抱かれてその場を立った。 一方、その日やってきていた弾正宮に、祖母である大宮は話しかける。「ねえ、どうして時々でも、私達の北の大殿へ来て下さらないのかしら? 幸福なことに、私には大勢の孫宮ができましたが、その中でもあなたは格別気高い方。特別大切に思っているのですよ。なのにどうして私達を疎々しくお思いなのでしょうね」 ふっ、と弾正宮はそれを聞いて笑う。「いやいや、今まで私はずっと数の内にも入らないものかと思ってましたよ」「何をおっしゃる。どうしてここを、まるで旅住まいの様によそよそしくなさるのです。誰も彼も、あなたを婿にお迎えしたいと思っているのに」「私を?」 あっはっは、と弾正宮は今度は大声で笑う。「…何故そう笑うのですか」「だって、可笑しくてたまりませんよ」「どうして」「…本当にこのひとの内気な心には参ります」 普段と違う息子の笑い声に、慌てて女御が口を挟む。「母上、この子は昔、あて宮がこちらにまだ居た頃、何の返事も無かったことを悲しんで、ししばらく法師の様な暮らしをしていたことがありますのよ」「まあ」 大宮は驚いて弾正宮を見る。だが彼の表情は変わらない。「ある時などは、『あなたが私をろくなものに生まなかったからだ』とさえ言ったのですよ」「まあそんなことが… まるで知りませんでした」「得てして現実とはそういうものでしょうよ」 そう言って彼は皮肉気な笑みを浮かべる。大宮は不安げに首を傾げる。「私が知っていたのは、弟の兵部卿宮があて宮を思っていたということだけです。そのことを『あるまじきことだ』と右大将が非難していた、ということも聞いています。実忠どのが格別あて宮を深く思い、思い過ぎていたことも知っていました。…でもあなたもそうだったのですね」「ずいぶんとお聞き漏らしの多いお耳だ」 弾正宮のその言葉は大宮の胸を突いた。「その一つがあちらでしょう」 そう言って彼は仲忠の方を伺う。「今となっては一緒に暮らしている方ゆえ、よくお判りになるのではないですか? お祖母様。今になって仲忠の言葉の端々から、思い当たることもある筈です」 無論大宮は、誰があて宮に懸想していたか、ということを、当時ほぼ全て把握していた。同母兄である仲純にすら、疑いを持つことができた程である。 ただそれが外部から見てどうだったのか、は判らない。 彼女はとりあえず孫の言い分を面白く聞くことにした。 仲忠は何を考えているのか、ただ苦笑しながら聞いている。 弾正宮は続ける。「…で、まあ私としては、彼の様に数の中に入れて頂けなかったということが、何やらどんよりと心の奥底にいつもわだかまっているのですよ」「だったらどうして、きっぱり『あて宮が好きだからぜひ気持ちを伝えて欲しい』とあの頃兵部卿宮の様に言わなかったのですか」 大宮は問いかける。「言ったところで」「言わなかった方が何をおっしゃる」 横で聞いている仲忠は思わず目を見開く。「ただただぼんやりと思いを募らせているだけで何が起こりましょう。私達はそういう方々ばかりで何だし、東宮さまからの強い希望があって入内させた訳です」「…」「とは言え、実際させてみれば、あて宮はこうこぼしています。宮中は思った程に楽ではなく、後見にと信頼していた方すら最近は東宮さまはお近付けにならず、色々周囲からもひどい噂が立ち、嫌なことばかりだ、と」「そんなことが…」 弾正宮もさすがにその話には目を眇めた。「そうですよ。なのにあなたときたら、そんなあの子の気持ちも一切推し量らず、ただただ自分はこうだった辛かったとばかり… ああいっそ、入内などさせず、こちらで気楽に過ごさせるべきでした」 そうだったのですか、と弾正宮は肩を落とす。「そうですね。…色々愚痴ばかり、すみませんでした。ただそれでも、その昔、御返事を全くくれなかったことがやはり辛かったので…」 それはあるかもしれない、と大宮も思う。 彼は続ける。「面白いことを書いて文通なさった方も、本当にあて宮のことを心から想っていたとは限りません。ただ私だけは、心だけは昔のままに、と誠を捧げたいと思っているのです」「まあ」「東宮さまの方は心配なさらなくても大丈夫でしょう。入内させた甲斐もありましょう。東宮さまはもう藤壺の方に夢中で、他の方にはまるで心を移されることも無いのですから」「…普段側で見てやれないので、心配ですけど」「先日東宮からお召しがあって藤壺を訪ねたのですが、その時の東宮さまのご様子からして見ても、あて宮に本当に夢中なのだと思いましたね」 そう言いながら弾正宮は呆れた様なため息をもらす。「まあ」「…我々大勢の心を惑わせた彼女を独り占めできるのだから、そのくらいの物思いはあって欲しいものですよ、全く」 ほほほ、と大宮は笑う。「あて宮も昔とは違って、ずいぶん世間というものがお判りになってきた様ですね。私が伺った際にも大層親しく、色々お話したものです。…前々からそういう態度だったら良かったのに、と思うのではあるのですがね… そうすればまた別の未来があったのかもしれない… まあでも、あの方はああなるべきだったのでしょう。最も高貴な方のところへ嫁ぎ、この上無く崇められる―――」「だけどそれで始終物思いが絶えないというのも…」「そういうものでしょう、あの位は」「だけど去年の秋、ちょっと退出させましたら、東宮さまは『あて宮を里からなかなか宮中に戻さないというのは、私を軽んじているからだな』とたいそう憎々しげに仰せられたので、私もずいぶんと困り、仕方なく参内させたものです。あて宮はあて宮で、いつも退出したい退出したい、と言っていて… 東宮さまがそれを許さないので、これはこれでまあ… この月末には一度退出させたいのですが」 ああ、と女御が合点のいった様にうなづいた。「お母様、今宮のお産はいつでしたか?」「近いうちとは聞いていますが、まだそういう気配は見えないようですよ」 今は涼の妻となっている彼女も、一宮よりやや遅れての出産予定であった。「先日お見舞いに行きましたのですが、結構苦しそうで…」 ああ、と大宮は思いついた様に仲忠の方を見る。「その今宮をあなたに、と思ったこともあったのですよ」「僕に?」「ええ。あて宮をあげられなかったことを、殿も私も非常に残念に思いまして… せめてよく似た妹をと思ったんですが、一宮をぜひに、という帝のご意志がございましたのでね」「何ですかお祖母様、そこでもまた何やら食い違いというかあったんですね」 やや呆れた様に弾正宮は言う。それを聞いた女御は息子は諫める。「そういうことを言うものではありませんよ」「はいはい母上。まあ、物事が思う様にはいかないということは多々あるということで」「それでも今幸せであるならいいのではないですか?」 仲忠はひょい、と口を挟む。「おや、言うね、仲忠くん」「僕はどう取り違いがあろうが最初の思いが通じなかろうが、ともかく今幸せですから」「なる程」 くす、と弾正宮は笑った。 * その後仲忠は、一宮の寝所に入ると、犬宮をすぐに抱き上げてしばらく満面の笑顔であやす。「大宮さまは僕等の子犬ちゃんをどういう風に言ってた? 大勢の前に出すのはちょっと、と僕は思ったんだけど…」 すると一宮はくすくすと笑った。「親の私達より優れてる、って」「うーん、それはどう答えたものか」 仲忠は苦笑しながら犬宮に頬ずりする。「ところでお兄様の声が少々大きかった様だけど」「ああ」 弾正宮は女一宮の兄にあたる。「ちょっと彼にしては珍しく愚痴の様なことを仰られてね」「愚痴なの」「昔、あて宮にあの方も思いをかけていたということでね」「…ああ、確かそういうこともあったわね。お兄様もまた、何か一度思いこんだら一途な方だから。でも実忠さまの様に何もかも振り捨てて、とかいう感じでもないし。だから傍目からは判りにくかったんじゃないかしら」「判りにくい」「そのひとがどのくらい自分のことを思っているか、っていうの」 うーん、と仲忠は犬宮を手にしたまま、考え込む。「でも思いの深さから言ったら、実忠さんとか強いんじゃ」「だからそこが男の読みの浅さなのよ!」 たん、と一宮は床を叩いた。「妻子を置いてまで深く思う、ということは、もっと強く思う方ができたら、一度思われた方もまた置いていかれるではないの」 あっ、と仲忠は声を上げた。「成る程、そういうことが女の方には」「たしかあなたもあて宮に文を差し上げてたでしょう?」 まあね、と仲忠は答える。「それにあて宮もあなたには満更ではなかった様だけど?」「だからそれは前々から言ってるように」「そうよあなたはそうだし、きっとあて宮も納得してるんでしょうけど、あなたがあて宮に思いを寄せていた、様に見えた、ということは残るのよ」 ふう、と仲忠はため息をつく。「そんなにいじめないで。それに僕も、宮が相手でなかったら、こんなこと今になって話すことも無いよ」「あらそぉ?」「そう。あなただからだよ。あなたじゃなくちゃこんなこと言わない。それにほら、もう今ではこんな可愛い犬宮だって居る」 そう言うと、再び仲忠は犬宮に頬ずりをする。その様子にさすがに一宮も苦笑する。「あて宮を見た人は皆何処かおかしくなってしまうから、私はそれでちょっと心配だったのよ。あなたもそうじゃないかと思って」「一人の頃だったらそうかもね。でも今はあなたが居るし。たとえ天女が居たとしても、そっちに目を向けようなんて思わないって」「あらそぉ? …あて宮がもうじき退出して来るけど、あなた、大丈夫?」「意地悪なひとだなあ。それじゃ言わせてもらうけど、もし僕がここに来たばかりの頃、他の人があなたを奪ったりしたなら、やっぱりおかしくなったと思うよ」「今でも?」「そりゃ勿論」 そう、と顔をふいっと背けながらも、一宮の頬は真っ赤である。「でもまあ、あなたがそう思うのも当然かもね。私だって、あて宮がこの家から居なくなった頃は、本当に淋しかったわ。今宮と一緒にしょっちゅう泣いていたもの」「今宮… 涼さんの奥方は、そういえば今度お産があるんだったね」「そうなのよ。私のことで皆てんてこ舞いだけど、皆、忘れないで欲しいわ。私あなたと一緒になる前は、あの人と一番仲良かったんだから」「大丈夫、それは」 ぽん、と一宮の肩を叩く。「涼さんがそのあたりは精一杯手を尽くしてくれるさ。何と言ってもあのひとは『宝の王』だ。出来ることは何でもしてくれるだろうね」「そうあって欲しいわ」 しみじみと一宮はつぶやく。* 一方正頼と大宮もゆったりと話をしていた。「なあ、犬宮はどうだったんだい?」 未だに姿一つ見せてもらえない彼は、せめてもとばかりに妻に問いかける。「可愛かったですよ」「…それだけか?」 ほほ、と彼女は朗らかに笑う。「大層立派に成長するでしょうね。女一宮も可愛らしく、今も綺麗に育ちましたけど、あの子はそれ以上です。大人になりましたらどの様になるでしょうね」「そんなにか」 はあ、と正頼はため息をつく。「成る程、今から仲忠が誰にも見せない様に、と気をつかうのは、やはり見事に育て上げようという気持ちからだろうな」「ええ、あれはきっと育て甲斐のある子ですよ」「私も長生きしてその成長を見届けたいものだ」「そうですね」「しかし長生きするにはもう少しゆったりと過ごしたいものだ」 自分が既に年老いていることを正頼はやや強調する。「様々なことを慎んだ方がいい、と占の者も言った。だから少し前に辞表を一度は帝に奉ったのだが、相手にしてもらえなかったのだよ。もう一度送ってみようか」「辞表をですか?」 大宮は驚いた。夫が辞表を出したことは知っている。だがそれはある程度の帝に対する自分の立場の再確認や牽制の意味のものであると考え、本気であるとは思ってもみなかった。「本気ですの?」「わしが本気ではまずいか?」「いえそんなことは」 と言ってみたものの。卒業式 袴 プレミアム国産ちりめん袴セット 女の子[子供服 キッズ ジュニア 和服 着物 アンサンブル 140 150 160 cm 小学校 卒服 和服 初詣 ひな祭り 簡単 はかま 和装 楽天 通販 送料無料]
2018.01.12
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その五の三 五十日の祝い正頼宅は急に慌ただしくなった。 今更の様に仲純の供養が行われ、当時のことを思い出すある者はすすり泣き、またある者はしんみりと亡き人の素晴らしかった点を思い返す。「…だがそういえば」 帝はふと気付く。犬宮の五十日の餅の祝いが近づいているではないか、と。 賄いはきっと仁寿殿女御がするのだろう。帝は考える。ではこちらからは。 彼はそっと、頭中将実頼を呼び寄せた。「犬宮の五十日の祝いに、こちらからもそっと祝いの品を上げようと思ってな。…正頼には気付かれない様に用意をなさい」 は、と実頼はかしこまる。「そうそう、その時の調度などは、納殿にある物を必要に応じて取り出すが良い」「判りました」 言いつかった実頼は早速、父太政大臣の館の曹司でもって用意を始めた。唐風の銀細工師などを呼び寄せて、急ぎで作業をさせる。 その噂が周囲に広がると、あちこちから見事な細工の檜破子が献上されてくる。自分に自分に、と売り込んで来るのだ。 実頼も、上手に作りそうな者には事情を話して寄越す様に言いつける。 帝側でぬかりのある様なことがあってはいけない。実頼は手堅く仕事を進めていった。* そして当日となった。 賄いをする仁寿殿女御は、先輩である母大宮に問いかける。「五十日の御祝いをする日になりましたけど、何をしたらいいのでしょう」 無論女御も何を用意すればいいのか、判らない訳ではない。自分の子を既に沢山持っているのだ。だが彼女も犬宮には一種格別な思いがある。大宮もそれは同じ様だった。「まあ何と言っても、よそのひとには判らない様に、こっそり沢山用意することですね。そうそう、準備はうちだけでも充分できますよ。こういうことは、万事たっぷりとしない位だったら、しない方がましですからね」「それでいいのですか。では大丈夫です。私の方でもたっぷりと用意させました。そちらへ持って上りましょうか?」 無論女御もある程度の目安はつけてあった。それが母の目から見てどうなのかが気に掛かっていたのだ。 「そちらへ上りましょう」「いえ今日だけは」 そんな母子のやりとりがあり、やがて。 女御は帝経由で頭中将が用意した膳部などを持って行く。 犬宮の前にはやはり様々なものが置かれることとなった。 銀の折敷を銀の高坏に乗せて十二。それぞれ四つに餅、乾物、菓物が盛られている。上を覆っている「心葉」という生花や葉を添えた布もまた非常に美しい。 御器は、さしわたし三寸のろくろでひいた沈木製のもの。 親族達の前には、浅香の折敷が十二づつ置かれている。無論大宮、一宮、女御の前へも。 檜破子は全部で五十。沈木、蘇芳、紫檀といったもので作られている。台や朸も同様である。 食物を入れた袋やその口を締める緒、敷物と言ったものも全て美しい。 重破子など、全てがもう送るばかりになっている。それに普通の破子が五十添えられている。中取に乗せて、一宮や仲忠のところへ運ばれて行く。 それ以外にも、典侍や大輔の乳母から始めて、御達まで様々なものが配られる。 また檜破子が三十、普通の破子を五十添えて、尚侍のところへと送られる。 女御は尚侍宛てに、「ご無沙汰しているうちに、五十日の祝いの日となってしまいました。 ―――五十日の祝いとはかねて聞いておりましたけど、その日になって始めて祝いの餅を召し上がる日だとはっきり知りました」 そう書いて付けた。 女御は藤壺にも同じ数だけ檜破子や破子を送っていた。* そのうちに、祝いの餅を赤子に食べさせようという時刻になった。「早く早く」 周囲がそう催促するのだが、仲忠はなかなか犬宮を自分の側から離したがらない。 それでも何とか皆からやいやい言われて離されたのだろう、湯浴みなどさせられた犬宮は綾の着物一襲を着せられ、大輔の乳母に抱かれて皆の前に出された。「まあまあ、ちょっと抱かせてね」 女御がそう言って乳母から受け取り、そのまま大宮に見せる。「まあ! 何て大きくて首がしっかりした子でしょう」 白い絹に包まれたその姿は、柑子の様に丸々とし、可愛らしい。大宮の表情もとろけるばかりになる。「ああもう、こんな可愛い子を今まで見せてくれなかったなんてあんまりなことですよ。私はこういう子は沢山見てきたけど、これ程の子は今まで見たことが無いわ。ここまで美しくなくとも、育って行けばそれはそれなりに相当なものになるんだから、この子ときたら、まあ一体どうなるんでしょう」「さあどうでしょう?」 ふふふ、と女御は笑い、またさっと大宮の前から隠してしまう。「まあ意地悪なこと。まあいいわ。きっと親の一宮や仲忠どのよりも素晴らしくなるんじゃなくて?」 そう言って大宮は犬宮に餅を食べさせる祝いを始める。 その折敷の一つは洲浜になっていた。高い松の下に鶴が立っていて、一つは箸、もう一つは匙を銜えている。 その匙には帝の親筆の歌が書かれていた。「―――みどり子は常に変わらぬ松の餅を食い初めてこれからは千代千代とばかりいうことであろう」 それを見た大宮は白い薄様にこう詠む。「―――寿を保った私が居て松の餅を食べさせましたから、この子は千年を加えて生きると思います」「何がございましたの」 女御は問いかける。大宮は女御に帝の歌のことを話し、その匙を渡す。 また、一宮にはこう歌を詠む。「―――みどり子の犬宮は目出度い松の餅を沢山食べることでしょう」 一宮はそれにはなかなか返事をしない。周囲から「どうしてお詠みにならずにいられましょう」と急かされ、ようやくこう詠んだ。「―――犬宮は常磐の松の餅に心が移って、食い初めの今日、初めて千代を生きるということを知るでしょう」 女御は洲浜の折敷とその歌をそっくりそのまま仲忠へと渡す。仲忠もまた詠む。「―――千年を経た松の餅を犬宮は食べた。今はその松にも劣らない寿命を保って貰いたい」 さてその洲浜の折敷と歌に興味津々な弾正宮が近くから覗き込む。「何を? 見せて下さいな」「いやいや何でも。見ると目がつぶれますよ」 仲忠はそう言って隠し、そのまま簾の中へ入れてしまう。「ああやだね、簾の中に入れない身分の者にする様なことを言うんだね」 弾正宮はそう言うと、簾の中へと入って行く。「忙しいことだな。 ―――姫松/犬宮も鶴/一宮もお揃いなのだから、いつかお目にかかることができるでしょう―――」 そう弾正宮が詠み、書き付けると、大輔の乳母がその側に自分のものを置く。「―――みどり子を千代までと祝うのは、誰でもすることで、特定の御子にする限ったことではございませんわ」 その場で「みどり子」と歌った者達は、「成る程、乳母よ、そなたの言う通りだ」 そう言って笑ったものである。* そのうちに尚侍からの返しの文がやって来た。 使いの者は白い袿袴を被物として貰って行く。 文にはこう書かれていた。「こちらからもお便りしたものかと思ったのですが、この数日取り込みごとがありまして、失礼申し上げました。 それにしても五十日の御祝いだということをよくまあはっきりと御承知になられたとこちらでも驚いております。 ―――いつも同じ様に『いかいか/五十日五十日』と泣いておりますのに、どうして今日がちょうど五十日だということを御承知になったのでしょう――― たいそうお耳の聡いお方でいらっしゃいますこと」 などと書かれていた。お供え お菓子 お歳暮 和菓子 ギフト お年賀 お菓子 ランキング 【あす楽】【和菓子 送料無料】一周忌【ランキング1位】風呂敷包 八菓選 竹かご 老舗 お誕生日【メッセージカード】内祝い お返し 出産内祝い お誕生日プレゼント ご挨拶 引き出物 還暦祝い 古希 喜寿 米寿
2018.01.12
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その五の二 亡くなった仲純にせめてもの 三条殿に戻ると、祐純はすぐに北の大殿の両親の元へと向かった。「用のついでに藤壺へお伺いに行ってきました」 すると正頼は身を乗り出す。「おお、どうだったかね」「ええ…」 祐純は藤壺でのあて宮の憂鬱の件、贈り物の件を二人に詳しく話す。「成る程な。今度のお産の時のことを聞けばついそう思ってしまうのだろう。しかし世の評判はどうあれ、只人には限界があるものだというのにな… まあ、人は見栄えや心や振る舞いが目につくものだ。だから仲忠の様な、その点で何もかもが優れた者と女一宮が結婚したことで、あてこそも嫉妬を感じるのだろう。…もっとも、それで東宮さまを軽んじるというなら少々何だが…」 ううむ、と正頼は腕組みをし、暫し考える。やがて納得した様にうなづく。「しかしまあ、仲忠相手なら仕方が無いだろうな。あれはあまりにも飛び抜けていすぎる。それが共に育った女一宮に、他に女は居ないとばかりに尽くしていると聞けば、宮中にあれども、女という女誰でも嫉妬の一つもするだろうな」「確かに」 祐純も口を挟む。「男である私から見ても、仲忠は何と言うか… 何をしたとしても許してしまいたくなる様な風情がございますからね」 まあ、と男達の話を傍らで聞いていた母大宮は呆れる。「何せ亡くなった仲純なんぞ、あれを妻か子の様にしていたから、何処にも女を作らなかった程ですよ」「仲純か… そう言えば彼奴等は兄弟の契りを結んでいたと聞くものな」「そうです。男同士ですらそうなのです。ですからそういう人と結婚できる機会が少しでもあったのにできず、宮仕人として夜も昼も心無いお仕えをしているとなれば、それはそれで非常に可哀想なのではないでしょうか」 すると大宮は手を挙げ。「しっ、壁に耳ありと言いますよ。祐純、言葉には注意なさい」「それでもね、母上。嘘なら慎まなくてはならないと思いますが、皆ある程度は感づいていると思います。子供の数は少なくとも、あれの母君の様にお育てするのがいいのでは? 何せうちは大勢でも、何やら皆豚の様で、役に立つ者は一人もなくて」「まあ、何てことを」「それでも役に立つと皆で期待していた仲純は若くして亡くなってしまった。それが私には残念で」 仲純、と聞くと大宮はかつての悲しみが揺り返されるのか、ふっと涙ぐむ。「…実は父上、母上」 祐純は意を決して切り出す。「実は、仲純があて宮の夢に現れるというのです」「何だと」「何ですって」 正頼夫妻は同時に驚く。「お聞きしましたところ、道ならぬ罪障のせいで成仏もできず、あの方の夢の中に現れたというのです」 間違ってはいないが、肝心なことを隠して祐純は打ち明ける。「どういうことでそうなったのだろう?」 正頼は首を傾げる。「我々やきょうだいを恨む筋合いなどあれにあっただろうか。…官位は私の地位や、そなた達きょうだいの関係で、あれ以上につけることは無理だったことは仲純も知っていただろうに」「父上、男の執念というものは何と言っても女のことに尽きるのではないでしょうか」「何だと」 正頼は腰を浮かす。「確かに仲忠のことは可愛く思っていたかもしれませんが、それはそれ。奥ゆかしい仲純のことでしたから、色にも出せない恋をしていたのではないかと」「…誰か、心当たりがあるのか?」「ええ」 祐純はうなづく。そして言葉を慎重に選んで。「中の大殿の宮達の中に」 宮、という曖昧な言葉で彼はぼかす。女御の生んだ一宮等は勿論、大宮の生んだ娘も某宮と呼ばれるのだ。 さすがにそれを聞いて、大宮はその場にわっと泣き崩れた。 やはりそうだったのか、と彼女は自分の考えが間違っていなかったことを確信した。「…だがそんな素振りは全く見えなかったが」「ええ、そんな素振りはまるで」 大宮は小さくつぶやく。 そう、決して見せなかった。自分達両親の前では見せまいと努力していたのだ。…それでも、判ってしまうものはあるというのに! 何故あの子は。大宮はふと自分があて宮を憎みそうになっていることに気付く。決して彼女のせいではないというのに。「…ともかく誰であれ、良かれ悪しかれ、男は男、女は女として、別に扱うべきでした。それは私の落ち度です」「いやそなたの」「いいえ、中の大殿の子達に関しては、私のせいです。皆始終一緒に暮らしていて、仲良く楽しそうだったから、それで良かったと思っていましたが… そういうことが起こる可能性もあった訳です。可愛い姫達は大勢居ましたから、何処かで間違った心を起こしたとしても、仕方がなかった… 私のせいですわ」「相手は」 正頼の声にはっと二人は顔をあげる。「女一宮ではないだろうか」 二人は唖然とする。呆れる。そんなこと、想像もしていなかった。「そうだそうだ、女一宮だ。宮はあれに思われても仕方が無いくらい美しい姫だ。現に今、あの仲忠でさえ夢中ではないか」 正頼は自分の確信にやや嬉しそうに手を叩く。 その様子を見て、母子は咄嗟に視線を交わす。祐純は別の件ではっとする。 母は知っているのだ。彼は気付く。 正頼の間違いは可笑しい。だが祐純、そなたはどうなの? そう彼女が問いかけている様に、祐純には思われた。 彼は思う。母には全く敵わない、と。 実際彼は、この現在の時点で、女一宮をほんのりと思っていたのだから。 無論「あの」仲忠が熱愛する妻となった今では、思ったところでどうにもならないと思っている。 それに彼には皇女の妻も居る。過ちを冒そうとは思わない。いつかこの思いも消えて行くだろう、その日を待っている。「仲純には無理やりでも妻を持たせるべきでしたね」「そうですね。その方が良かったかも、と今では私も思います」 大宮も同意する。「誰であれ、それでも情が湧けば、仲純ほどの男のことですから、それを置いて病気になることもなかったでしょう。実忠とは違って」「…あれは少々情けのうございます」 大宮は吐き捨てる様に言う。「まあ言うな。あれはあれなりの純情なのだろう」「…ともかく父上」 実忠への弁明はあまり聞きたく無い様な気もしたので、祐純はすかさず話題を変える。「仲純のために、これから誦経をお願いします。その誦経の文には、執念の罪障を免れしめ給え、と書かせて下さい」「おお、そうだな。今問題なのは仲純のことだ。早速手配しよう」「そう、それも出来るだけ美しく――― 右大弁季英どのにお願いしたいのですが」「判った。藤英に頼もう。仲純のために心を込めて願文を書いてくれ、とな」 それではお願いします、と言って祐純はその場から立った。「…何だねあれは」 正頼のつぶやきに、大宮は首を傾げる。「たいそう真面目な男だと思っていたのに、何故いきなりあの様なことばかり言い出すのだろう。あて宮にせよ、仲純にせよ、そんなこと、考えもできなかったぞ。それが本当であれ何であれ、わしには考えつきもしなかった。いや、そんなことどうでも良いではないか」 このひとは、と大宮は内心嫌な気持ちになる。 正頼には恋をするという感情が無いのだろう、と彼女は常々思っていた。 確かに自分に過去、求婚の形の文を送ったことはあった。大宮も当時はその言葉に胸をときめかせたものだ。 が、一度夫婦として同じ屋根の下で暮らす様になって以来、そんな思いは何処へ行ったのやら。 確かに頼れる人ではあるのだが、若いひとの思いというものに、あまりにも無頓着になっていないか。 そう大宮は感じるのである。 だからつい、嫌味になってしまう。 「誰か綺麗なひとにでも、思いをかけているのではないですか? そのひとに望みが無いと思って、勝手なことを言うのでしょう」 母は気付いていた。祐純の一宮に対する思いを。 だが祐純の思いは決して叶わないだろうし、危ない橋を渡る男でもないことも知っていた。だから傍観していた。 しかしここで夫にそのまま言うのも何だし、―――と。「全く、お互いに親しいのはいいことなんだが、恋愛沙汰まで引き起こすのは困ったものだな… ともかく仲純のためには精一杯のことをしてやろう」 はい、と大宮は答えた。可哀想な子のために、彼女はできるだけのことをしてやりたかったのだ。儀式扇 新白
2018.01.11
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その五の一 祐純、あて宮に会って愚痴と夢の話を聞く 暫くしたある日、正頼が参内し、帝の御前へと伺候した。「ずいぶんと長く顔を見せなかったな」「はい。我が家にお産の穢れがありましたので、その関係でしばらくは」「おお、そうだったな。その間のことはどうだったのか?」 帝は問いかける。彼もまた、娘の初産のことが聞きたくて仕方がなかったのだ。「この頃殿上している男どもが、そなたの所で起こった興味深いことをあれこれと噂するのでな」「は」「そうそう、涼が行正を笑ったとはどういうことかな」「いやまあそれは逆… いえ、別に変わったことはございませんでした。ただ、兼雅の北の方が琴を弾いた時には、非常に趣深うございました」「その琴はどういう由緒があるのか」「何でも、尚侍が昔から弾いていた『りゅうかく』というものだと聞いています。そしてその琴は、生まれた子に与えたとのこと」「おお、その子は素晴らしいものを手に入れたものだな」「全く左様にございます」 すると帝は声を少し低める。「…仲忠はその子のことをどう思っているのかな。可愛いと思っているだろうか」 おや、と正頼は思う。心配なさっているのだろう、と。「存じません。あれがどう思っているか、までは… ただ、こういうことを聞きました。子が生まれるとすぐに、喜んで舞を致したということです。そして毎日、夜昼問わず懐に入れて離さないのでございます」 そしてようやくほっとして帝は微笑んだ。「そうか、満足しているのだな。どういう訳か知らないが、あの一族は女も賢い様だから、良かった良かった。…さて、仲忠にも何か祝いをしてやりたいものだが… 九日の夜の産養に行われた管弦はどうだったか?」「琴を三つ、同じ調子にして弾きました。琵琶を女一宮、下さった和琴は院が大宮に御下賜になった『きりかぜ』という琴でございました。奥に置いておいた笛を誰かれに渡し、仲忠自身は横笛を吹きました」「それは素晴らしい。何につけても心を込めてやったのは、子の生まれたことを嬉しいのだろう。きっと自分の手を伝えようと思っているのだろうな」「本人もそう申しておりました。琴の秘曲を伝える人がなくてどうしようと思っていたところに生まれてよかった、と」「あれにしては珍しく、我を忘れて喜んでいたということだな。仲忠も得意になってそんなことを言ったと見える。面白いことだ。音楽の家なども、なかなかの技量ならば、位を与えられても当然だろう。ところで和琴や琵琶は他には誰が弾いたのだ? 笙の笛は?」 帝は身を乗り出して詳しく聞きたがる。「笙は弾正宮が。琴などは誰だったのでしょうか。何にしても、全てが一つ調子に合って、外れるということがありませんでした」「そういう合奏に、一宮が寝たままで琵琶を弾いたのか?」 そう帝は言うと、嬉しそうに笑う。「仁寿殿も和琴が上手いが。誰も彼もたいそう素晴らしかった夜だな。これを直接聴くことができたらな…」 思う様にならない身を帝はしんみりと嘆く。ことに音楽に関しては並々ならぬ執着を見せる帝のことである。残念だったろう、と正頼は思う。* 一方その頃、藤壺には祐純が居た。 ここ最近の我が家での出来事を彼は暫くつらつらと並べていたが、やがて話題は女一宮の産養に移った。 すると藤壺はふう、とため息をついた。「どうなさいましたか?」 祐純は問いかける。「いえ、宮は幸せですね、と思って」「…それが」「入内した私なんかより、ずっと良かったということですわ、兄上」「! 何をおっしゃいます」「だってそうではありませんか」 ふい、と藤壺は横を向く。「あの方は皆が奥ゆかしい、素晴らしいと評判の仲忠どのと結ばれ、ただ一人の女として守られ、安心してお暮らしなんでしょう?」「…御方」 祐純は言葉に詰まる。「私なぞ、ろくでも無い何かと嫌な噂やら眼差しやら… 東宮さまに嫌なことを吹き込む者も居ます。そんな中に放り出されて、いつも憂鬱です」 声の調子が今までとは違っている。祐純にはそう感じられた。「東宮さまご自身も、さしてぱっとした方ではございませんし、その東宮さまですら、何かと面倒なことが起こりがちなので、最近では顔をお合わせすることもないのです」 何を言い出すのだ、と祐純は驚く。そんな兄の思いなど余所に、彼女は続ける。「東宮さまは、私がいつも不機嫌なのが面白くないのです。私、気が付くと、里に居たころのことばかり考えています。さして長く生きる世の中という訳でもないのにどうしてまあ、こんな所に来てしまったのか、と…」「そんなこと… 御方、何てことをおっしゃる」 祐純は慌てて口を挟む。「ゆめゆめそんなことを口にしてはなりません。東宮さまは性格も学問にも優れた方です。管弦なども誰と比べても劣ってはいらっしゃらないお方です。宮仕えなさる方には競争者が多いくらいの方が良いのです。人を羨んだりするのは…」 そしてふと思いつく。「御方、誰か、昔の懸想人の中に格別お心に止まった方がいましたか?」 藤壺はぴくり、と扇を震わせた。祐純はその隙を突くかの様に言葉を投げかける。 「言い当てましょうか。仲忠でしょう」「それは」 息を呑む音が祐純には聞こえる様だった。「当時彼は身分は低かった。それでもあなたは何かと彼には御返事をしたそうではないですか」「…あの方は筆跡が見事でしたから… それが見たかっただけですわ」「では今はどうですか? 見る機会は今でもございますでしょう。彼はまた大層上手になった様ですが」「先日、女一宮に消息を申し上げたら、あちらから代筆で返事が来ました」「その文を見せていただけますか?」「え…」「無論、何か彼からの私事もあるでしょう。そうそう、昔あなたに文を送った中には、今でも何かと思いをほのめかす者もあるのでは?」「誰も」 ぽつりと藤壺はつぶやいた。「そんな人、誰も居ませんわ、兄上。実忠どのなど、未だに私を恨んでいるでしょう。でもそれこそ、本当に私のことを思っていたということでしょうね。他には私に誠実だった方なんて」「兼雅どのはあなたがお断りしたからこれと言った御消息もなさらなくなったのでしょう」「そうでなくとも、元々仲忠どのの母君以外に脇見をする様なひとではないでしょう」 それはそうだ、と祐純は思う。だがこれだけは、と。「仲忠は、結婚には元々気が進まなかったのです。そこを我等が父上が説き伏せて話をまとめられたのですよ。けどその結果として、彼が今、一宮と楽しく暮らしている訳です。その彼と今でも消息を交わすのはあまり誉められたものではありませんね――― また下手な噂を増やしたくは無いでしょう?」「…」「今でもあなたが入内なさったことを嘆くひとは多いのですよ」「そうでしょうか?」「ええ。例えば弾正宮。彼などはどうしようもなくてあきらめたのでしょうが、それ以来、どんな結婚話にもがんとして首を縦に振りませんのですよ」「彼が私のことを本気でそう思っているとも考えにくかったのです。それに」「それに?」 祐純は問い返す。「人には言えない、もう一つの悲しく思うことが私にはあるのです」「…それは」「兄上にでも、それは言えません」「そこまで仰有っておいて」「口が滑ったのです。どうかお忘れ下さい」「いや、もしかしたらそれは、私があなたに関して、ずっと感じて、様子をうかがっていたことかもしれません。どうか、どうかお話し下さい」 祐純は詰め寄る。「…どうして兄上とてご存知な筈がありましょう」「いいえ、私には判る。仲純のことでしょう」 息を呑む音が、祐純の耳に届く。「そうなんですね。私はずっとそう思ってきました。あれは、あなたのために全てを失った奴です」 ああ、と藤壺の喉から声が漏れる。「…ずっと夢に見るのです」「夢に」「仲純のお兄様は、じっと私を見ているのです。そう、あの生きてらした頃の様に。私は何も返すことができず、ただ…」 そう言って彼女は泣き崩れる。 その姿に祐純も思わず涙を誘われる。「…今までお聞きしなかったのは、こういった静かな機会が無かったからですが… もっと早くお訊ねしておけば良かった。しかし一体、どういう訳でそんなことを…」「言えません」 大きく首を横に振る。「一生懸命に隠してらしたものを。ここで私が口にしてしまったら…」「大丈夫です。大勢の兄弟の中でも、特に私と親子の契りを結んでいたような奴ですから…」「ご存知なのですか。ご存知なのですね。なら、何もお隠しする必要は…」 嗚呼、と藤壺は喉の奥で嘆く様な声をあげる。「最初はまだ小さな頃です。あのお兄様に私は箏の琴を習っていました。だけどその時から、何処かお兄様の様子はおかしくて…」「…そんな時からですか」「そしてあの年頃、泣いて私をお恨みになったのですけど、…応えられる訳が無いことを!」 それは確かに、と祐純は思う。どうしようも無い、叶う筈も無い思いだったのだ。「入内すればそれで何事もなく、ただのきょうだいに戻れると思ったのです。けどそれからも文をお寄越しになって…」 彼女は仲純からもらった最後の文を取り出す。「これを持ってきてから間もなく、亡くなったという知らせが来ました。…このことを自分一人の胸に抱えているのが、ずっと、ずっと苦しかったのです」 そう言うと、堰を切った様にわっと彼女は泣き出した。「…仲純という奴は堅物すぎな男でした。だから自身を亡きものにしてまでも、あなた様に直接、言葉に出さず訴えもしなかったのですね。彼の後生を弔う営みをしましょう。…まあ、言葉に出来ぬ思いと言えば、まだ入内なさっていなかった年の秋頃、あなたの様なひとを妻にできたらな、と思ったことはありましたがね」 そう言うと、藤壺もようやく泣くのを止めて、少し笑う。「亡くなった方の様なことをおっしゃるのですね。仲純のお兄様は物を思い詰めすぎたせいか、はしたないことも少しありました」「…可哀想に」 祐純の口からほろり、とそんな言葉が漏れる。 ただそれがどちらに向けたものかは自分でも判らなかった。「そう言えば」 祐純は話題を変えよう、と思った。さすがに亡き人のことをあまり続けるというのも心が重かった。「彼が生きていたらきっとそうした様に、できるだけこちらへも伺おうと思っていたのですが、さすがに色々ありましてそうもいかず…」 今更の様なことを口に出す。「お忙しいなら仕方がないことです」「いやしかし、いつものことはいつものこととして、どうして今度のお産の御祝いのことなどは、ご相談くれなかったのですか」 藤壺は黙って苦笑する。「女一宮に贈られたものなど、どうしてこういうものが入り用だと、我々におっしゃってくれなかったのです」「それはかねてより東宮さまが、『そういう折りには考えよう。そなたの思うようにさせよう』と仰っていたので、その通りにしたほうがいいと思いました」「しかし贈り物には黄金もずいぶん使ってあったはずです。あれだけのものを用意するのは大変だったでしょう」「…ええ、実は。東宮さまが帝に申し上げて、陸奥の国守から黄金をお召しになったりしました。けどそれでも足りずに、黄金は上の方に、下の方には別のものを入れた、と後で聞きました。…誰かそれを見たでしょうか」「仲忠が取り寄せて、たいそう丁寧に見ていたということです」 ああ、と藤壺は袖で顔を隠した。「何って恥ずかしいこと。よりによってあの方に」 可哀想に、と祐純は思う。 藤壺の趣味の高さを理解できずに安請け合いをし、しかしそれなりに努力した東宮にせよ、決して悪い訳ではないのだが… 祐純は軽い挨拶をして退出する。 それ以上妹に恥ずかしい気持ちで自分の前に居させるのも可哀想だった。:◆ISC銀賞◆大吟醸「旭扇」720ml 専用高級化粧箱入 全国新酒鑑評会金賞受賞 岩手の酒蔵 あさ開 贈答 お年賀 誕生日 お祝い 贈り物 ギフト プレゼント 日本酒 お酒を【P11倍 1/12(金) 11:59まで】
2018.01.11
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その四の三の一 これでもかとばかりのお祝いもの 彼女への贈り物は、まず正頼から、美しい絹が百匹。 それを携えて、兼雅夫婦が正頼の屋敷を出ようとする。 尚侍のお供には、前駆、兼雅の大将、仲忠中納言に続き、四位五位の人々が入り混じって大勢の者がついて行く。 兼雅が自宅へ着いた時、その行列の最後尾、女房の車はまだ正頼の屋敷の門に居たくらいである。 正頼邸と兼雅邸は遠くは無い。一町程度離れている程度である。 この一行がすっかり兼雅邸に入った後、正頼は馬と鷹を贈り物にした。「これはお供の方にお持ち頂くはずでしたが、お急ぎでいらしたので」 そう文が付けられていた。 また、大宮からは蒔絵の御衣櫃が五掛。 担い棒を渡したその内訳としては、着物に二つ、唐綾の類を入れたものが二つ、そして最後の一つが、えび香と丁字香を入れたものだった。 大宮からは尚侍にこの様な文が付けられている。「宮のお側に出産の時にいらっしゃった折にお目にかかりたく思いましたが、騒ぎばかりが続きましたので… おいで頂いて大変嬉しく思いました。 あの折り、あなた様の御琴を耳にしましたこと、余命も短いと思ってあきらめておりましたのに、行先も延びる様な心地が致しました。 心にしみじみと感じ入るあの音、遙かに遠いと思っていた蓬莱という望ましい所も案外近かったのだと思いました。 この品は下々の方へ上げていただきたいと思いまして」 それを見た尚侍は、あの場で弾いたこともそう悪いことではなかったのだな、と改めて思った。 女一宮からは、后の宮から貰った衝重の中に入っていた物そのままと、また別に蒔絵の置口の衣箱を用意した。 その中には夏と冬の装束、それに夜の装束を二襲づつ入れる。 そしてまた、同じ様な蒔絵の置口の御髪箱を四つ用意し、それぞれに沈香、黄金、瑠璃の壺、合わせ薫き物を入れる。 もう一つ別の箱には、麝香が一つづつ入る黄金の壺が十。他に薬を入れたものもある。 それらは全て美しく包まれ、宮からの消息として陸奥紙に書かれた女御からの文が添えられた。「母の代筆で申しわけございません。 私自身が直接書いた方がいいし、そうしたいのですが、今は手が震えて… 今まではずっとお傍においで下さり、たいへん頼りにお思い申し上げておりました。なのに今、お帰りになってしまわれたので、大変淋しゅうございます。 物も判らない程苦しかったあの時も、琴の音のおかげで嘘の様に落ち着きました。あの琴の音が忘れられません。今もお慕い申し上げております。 この品は、うちの子犬ちゃんのおしっこでお濡らしになったお召し物を、ぜひ脱ぎ換えていただきたいと―――」 さてその文が届いた時、仲忠もまだ見送りをしている所だった。 尚侍が女御の手になる一宮からの文を見ていると、彼はふとそれを見たくなった。「僕もまだ見たことが無いんだ。母上、見せてもらえます?」 妻からのだからいいだろう、と彼女が渡すと、仲忠だけでなく、兼雅までがのぞきこんできた。「女御さまの御手はさすがに素晴らしいな」「昔から御手の見事なことは有名だったよ。藤壺の師にも劣らないんじゃないかな」「藤壺の御方のもいつか見たことがあるけど、これよりも上手だったよ」 それを聞いた尚侍はそういうことか、とやや呆れた。 またずらりと並べられた献上品や馬を前に、兼雅がぽつりと言う。「あんまりつきあいの無い間柄の人みたいだ、本当に面倒なほど手数をかけたものだな。ああ、勿体ないことに、后の宮からも頂いたのか。あのひとは仁寿殿女御とは決して仲が良い訳ではないのに、よくもまあ御祝いくださったものだな。まあ仲忠、そなたへの御祝いということなんだろうよ」「ええまあ」 仲忠は苦笑しつつうなづく。「僕の所には后の宮からは度々御消息があったし」「全く面倒なことなのに、皆本当に色々な人々が祝ってくれて恐縮なことだ」「本当に、たいそう鄭重に、儀式ばったことを色々としてくださったなあ。…そうそう、涼さんのところでも、来月あたりは同じ様におめでたいことがあるはずだから、また聞いてみなくてはね。あ、それはそうと父上」「何だ?」「今回はね、梨壺からもずいぶんと心が籠もった御祝いをしてもらったんだ。一体どうしたことかと思ったよ」「ああ…」 兼雅はそうだったな、と贈り物の方を見る。東宮の梨壺の方は、彼自身の娘だった。ついそれを忘れそうになる。「私もそれは見たよ。あちらではそなたのことは決して快くは思ってないだろうに、三宮は一体どういうおつもりで、ああも見事に指図をなさったのだろうな」「僕は時々梨壺に行くことがあるけど、三宮さまは僕には決してその様な素振りはお見せにならないよ。とっても美しい態度でお迎えになって、お話もして下さる」「まだ仕人は居るか? あのひとは私のことをどう思っているだろう」「父上」「あのひとには済まないとは思っているんだ。だからこそ、昨日はずいぶんと心打たれた」 ふう、と兼雅はそう言うと軽く肩を落とした。* やがて大宮の所へ、尚侍からの返事が届いた。「御文をありがとうございました。畏まって受け取りました。 もう暫くお傍に居てお世話申し上げたいと思うのですが、うちの気難しい人、私をすぐにでも退出させようとする夫、兼雅が急がせましたので、どうしようもなく。 まあそれでも、私達の可愛い可愛い子犬ちゃんを見ずには居られないでしょうから、そのうちまた参ります。きっとそちらのご迷惑になるくらいお訪ねすることでしょう。 さて、こんなに色々頂いては、宿守を望む者が増えることでしょう。 本当に、『山近く』と仰られたのは、鹿の音なのでしょう」「あらあらまあ、最後は綺麗にかわされたわね」 大宮はそう言って快活に笑う。「私への御返りも見事なものでしたわ」 母への文を見た女御はそう感想を述べた。* また別の日のことである。 女御は梨壺から貰った黄金の甕の中身と、帝の召し上がり物とを入れ替え、そこに鯉、小鳥、ひぼしを餌袋に入れ、更に藤壺から貰った雉を添える。 帝宛に、と考えてのものだが、彼女はまず靱負の乳母という人のところへ文を出す。 「この頃は忙しくてご無沙汰したけど、どうしてそちらから訪ねてくれないの。 ところでこの品は、うちで最近お産をしたひとの召し上がった残り物だけど、これでも摂って風邪など引かない様にして下さいね。 ああ、この雉とかは帝へ差し上げて欲しいの。 交野の雉とどちらが美味しいのか比べて頂きたい、申し上げてね」 その様に書き、銀の小さな壺に黒方を、黄金の貝五個に蜜を、それに沈で鰹節の様に作ったものを青い紙に包み、五葉の松の枝にぶらさげて贈らせた。 受け取ったのは、ちょうど乳母達が台盤所に居た時だった。 靱負の乳母が受け取ると、ちょうどそこに集まっていた乳母達がそれを見て騒ぎ立てる。「何なに、何処から来たの?」「ずいぶんと素敵なものの様だけど」「仁寿殿の女御さまの女一宮さまの御産屋の残り物だということで下さったんだけど」 へえ、と興味津々の眼差しのもと、包みを開け、またそこでうわ、と驚く。「やっぱり素敵だわ」「でもそれも当然よね。仲忠さまのところの産養ですもの。どうして立派でないことがありましょう!」 などと皆で言い合う。 靱負の乳母はその中から乾物を取り出した。「あなた方、この鰹節を一切れづつ割って分けて頂戴な」「後のものは?」「他のものは風邪薬にしましょう」 なあんだ、という周囲の視線の中、彼女はそう言ってとっておく。 やがて彼女は帝のもとへ、仁寿殿女御から言付かったものと文を持ってお目にかける。「ほぉ、念を入れて立派にした贈り物だな。そう言えばそなた達、先程ずいぶん騒がしかった様だが、何だったのだ?」「あの方はまた、一つのことでも色々楽しめる様にお考えになる方ですかから。贈り物の中の鰹作りを頂かせて、小さく切って皆に分けたのでございます」「成る程な、本当に色々と面白い贈り物だ」 そう言うと帝は、餌袋は后の宮に、鯉や雉は、先頃帝の御子を産んで寵愛されている更衣のところへと送った。 そして女御への返事は自分が書く、ということで。「こちらからお便りしようとしているうちに、靱負のところへ来てしまったね。 もうそろそろ参内なさいな。 この頃世の中が何となく頼りなく淋しいと思うのも、御子達を度々見ないからです。参内する時には、皆を連れていらっしゃい。 そうそう、女一宮にもずいぶん会っていない。大人になったということが不思議で仕方がないよ。 ああ全くあなたというひとは、私を蒲生/かまうの鳥の様に辛い思いをさせるのですね。 ―――中途で停滞した淀川に余所ながら鯉/恋を一つ見つけて嬉しく思っています――― 本当に、早く参内なさいよ」 一方乳母の方では。「つつしんでお受け取り致しました。 私自身参上してご祝辞を申し上げたいと存じましたが、私自身の忌々しいことにあやかる様なことがありましては、とその折を過ごしましたのでご無沙汰致しました。 頂いた風邪薬はちょうど欲しいと思っていたところです。 帝に御文のことを申し上げましたところ、折良く御覧になって、御返事の御文もございます。 全てはお目もじの上で」《誕生日プレゼントに》小倉ロールと和菓子5種詰合せ【送料無料】ギフト お菓子 和菓子 誕生日 プレゼント スイーツ ケーキ 詰め合わせ 老舗 高級限定ラッピング オリジナルメッセージ対応【あす楽】【楽ギフ_包装選択】※北海道・東北・沖縄送料別途
2018.01.10
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その四の二 まだまだ続く祝いごとのうち、赤子は犬宮と呼ばれてた ところでこの夜は、皆唐綾の指貫、直衣、赤い綾の袿を一襲、宮達以下参加者皆同じ服装をしていた。 南の方に寄って、北向きに宮達、西面母屋に向いて大臣達が座っている。 女性の方は、と言えば。 女一宮の側には、身分の高い女房達が付き添っている。 御簾の外には、師純や祐純をはじめとした、正頼の子息達。 最近では中の大殿では男は使わないので、童や大人の女房を呼び出すと、その人々は出て来ない。 「おかしいな」と仲忠が言うと、台盤所から女房や童がやってきた。 赤色の唐衣に綾の摺裳、綾掻練の袿を着た美しい、五位あたりの娘である大人四人。 童四人もまた、赤色の五重襲の表着など、この日に相応しいものを着ている。髪も背より少し短い程度で、とても可愛らしい。* やがて汁物や酒が何度も人々の間を行き来する。 仲忠は「紙を」と家人に命じる。 黄ばんだものと白いもの、色紙がそれぞれ一巻づつ、硯箱の蓋に入れて差し出される。 彼は梨壺の君からの餌袋を持って来させて開けて見せる。 正頼はほぉ、と大きくため息をつく。「実に珍しく、趣向をこらしたものだな」 父である兼雅もうんうん、と何度もうなづく。「きっと母宮が整えられたものだろうな。ああ、どうしているだろうな。あの方は非常に美しい心の方だったなあ」 そう心中つぶやく。 仲忠はその様子を見つつ、黄ばんだ紙の方に黄金の銭を一つづつ入れたものを十包、白い紙の方に銀の銭を同様に包み、正頼達に差し出す。* やがて碁や双六が運ばれて来る。 正頼は「ここには魚や鳥がちっともない」と言いながら、御簾の中へと差し入れる。 かくして御簾の外も内も皆で賭碁を始める。杯が幾度もあちこちで回され、明かりを灯さなくてはならない時間になる。 中には関東で流行している攤碁を打つ童や大人も居る。皆賭碁に熱中していた。 そのうちに夜も更ける。 仲忠は立派な袋に入れてあった琴を三つ、笛も三つ取り出す。その笛の調子に合わせ、それぞれの琴一つ一つで違った手を奏でる。その素晴らしいのは言うまでも無い。 この様に楽器の調子を確かめてから、自分の琴を仲忠は御簾の中の女性達へと差し入れる。「琵琶は一宮に、箏は女御さまにお願いします」 女房達はそれを取って主人達に渡す。女御は突然のことに焦った。「ああ、困ったこと。私なぞに何をさせようと思うのでしょう」 すると尚侍はほんのりと笑って、「そう仰る程のことでは」 そう言って箏の琴を取り、とりあえずとばかりに一曲奏でる。 それなら、と女御もその後に箏を手に取った。 そのうちに一宮を起こし、琵琶を掻き合わせる。 ほぉ、と周囲から声が上がる。仲忠は彼女が琵琶は上手なのを知っていたので、そっとと微笑む。 そして自分は横笛を手に取る。 笙の笛は弾正宮、篳篥は忠純にぜひ、と差し出す。 仲忠は笛を非常に音高く吹き立てる。だが琴と合わせては吹かない。 宴の外、あちこちに居る子息達はそれを聞いて思う。「ここでは聴いたことの無い様な見事な笛の音だな。仲忠が吹いているのだろう」「これはもう、ちゃんと聴かなくてはな」「きっと仲忠の母君がそういうことをおさせになるのだろう」 などと言い立てる。 その中でも、行正は笛の音に感動して、じっとしていられず、ふらふらと出てきてしまった。「おや、行正さん」「やあ涼。さあ、いらっしゃい、こちらへ。ここでは大層素晴らしい音楽がありますよ」 そう言いながら彼らは東の対屋の西の隅の格子の間に入って、仲忠の笛の音に合わせてしばし琴や笛を手に楽しむ。 やがてふと手を止めた涼が口にする。「全くもって凄い笛の音だね」「本当に」「箏の方は仲忠の母君のものだろうな。今までに聴いたことの無い様な素晴らしい箏の音だ。この人達はどうして人には出せない様な音を出すんだろうね」「何も不思議なことは無いですよ」 行正は苦笑する。「物の上手という方には、上手くやれないという心配は無いものです。でもまあ、あのひと達だけ、というのはやはり」「やはり?」 涼は興味深げに行正の顔をのぞき込む。「やはり、あの人達は、一族――― 俊蔭一族の外には秘技を他に伝えないからでしょうな」「何でまた」「おや、君がそう言うんですか?」「駄目ですか?」 いいえ、と行正は首を横に振る。「その位しないことには、帝がお聴きになるにしても、聴き映えがしないというものでしょう」 そう言ってお互い笑い合い、遊ぶ手もこの位で、と止める。* 一方兼雅は気持ち良く酔っぱらっていた。「今夜は女一宮はお出ましにならないの? 淋しいものだね」 それを聴いた御簾の中では、一宮の女房の宰相の君を間に立ててこう言わせた。「只今お休みになっておられますので…」「そうなの。まあでも、唐土よりは近いはずですから通訳も要らないでしょう」 そう言って兼雅は御簾の中へと入り込んで来ようとする。ああ困ったと御簾の中では思い、何とか入ってくるのは防ごう、と女房達は心を決める。 そういううちにも、兼雅は酒の上とばかりに戯れ言を言い放つ。「おや、入れないおつもりか。あの分からず屋が管弦をするからと、酒を呑む量まで制限して私にくれないんだよ。どうか御簾の中のお酒をいただけないものですかね」 仕方ないわね、と女房の一人、宮の君が前に出る。なかなか彼女は女房の中で剛胆な女性だった。「はいはい差し上げることにしましよう」「ふふん、釈迦への供養のつもりですかね」 そういう彼は現在三十八歳。仲忠と良く似た姿は非常に美しい。 一方仲忠は、大きな杯を取って正頼の方へ近づく。この時正頼は五十四歳。しかし歳よりずいぶん若く見える。「―――宮浜の洲崎に降りた鶴の子に波がうち寄せてもしっかりしている。その岸の様子を人々にも見せたいものです」 そう言いながら杯を渡そうとする。 正頼はそれを受け取り、返す。「洲崎に降りた鶴の子と一緒に老い永らえたならば、きっと長閑な岸を見ることになるでしょうな」 そう言って正頼は杯を兼雅に回そうとする。「父上!」 仲忠は宮の君と戯れている兼雅を叱咤する。正頼は大声で笑う。 ようやくやって来た兼雅は、杯を受け取って詠む。「―――潟になっている洲崎に立つだけでも千年は生きるだろう。まだ生まれたばかりで卵の殻がついている田鶴は幾千年生きるか判らないですね」 そのまま弾正宮へと杯は回される。受け取った彼は、兼雅に仲忠を呼んで来る様に頼む。 その様子を見た弟の四宮は、「兄上はいいなあ、そんなことが出来るんだ」とうらやましがる。「口惜しかったらそなたもしてみればいい」 言われた側はうー、とうめく。その様子を見て兼雅は大声で笑う。「望むところですよ。三宮と四宮のお二人にそうやって息子を取り合いされるとは」 弾正宮はふっ、と笑うと、祝いの歌を詠んだ。 そのまま杯は四宮へ、そしてその下の宮や子息達へと回されて行く。その度毎に仲忠への祝いの歌が詠まれ、幼い子の幸福が祈られた。 その中でも忠純は、梨壺から送られた銀の鯉を手にし、「ああしまった、ついこの鯉が生きてるかと思って、料理人に調理させるところだった」 などと言って周囲を湧かせた。* そのうちに仁寿殿女御が、被物にするために涼が一宮に奉ったもののうち、まだそのままになっているものを出してきた。 それを御簾の内に居る人々に一具づつ持たせる。中はその音でざわめく。 すると仲忠は、おもむろに御簾の中へ手を入れ、被物を取り、正頼をはじめ、次々と被け始めた。 師純や祐純あたりまでは女装束を、それより下は白張一襲、と袴一具。宮あこ君も今では元服して六位になっていたので、白張を一襲被けられた。* 翌日の昼頃、御乳つけの君が帰るということで、その贈り物の準備が美しく為された。 尚侍も帰るということで、女御や一宮などに挨拶に向かった。「しばらくの間ご一緒させていただいたので、非常に名残惜しく思います。しばらくこちらに居られたら、とも思うのですが、そうそう家を長くも空けられませんので…」 すると大宮が軽く微笑んだ。「この親子を見ずには居られないでしょうよ。ぜひ近いうちにいらして下さいね」 ええ、と尚侍は答える。実際彼女も、生まれた子からずっと目が離せなかったのだ。「本当にころころと可愛らしい…」「ええ、やはりあなたもそうお思いでしょう?」 女御は思わず手を叩く。そして娘の方をちら、と見る。「それでこのひと達、最近あの可愛らしい子のこと何と二人で呼んでいるのかご存知?」「いえ、それは…」 さすがに夫婦の間の会話のことは、母であっても判りはしない。「可愛い可愛い子犬ちゃん――― 犬宮、ですって」「子犬ちゃん」 そう言えばそうかもしれない、と尚侍は思う。あの首の座りよう、ぷくぷくとしつつもしっかりした足、そしてとても可愛い顔。将来が楽しみな手触りの髪。 思わずぷっ、と彼女は吹き出す。「…失礼しました」「いえいえ、私もそれを一宮から聞いた時には笑ってしまいましたのよ。ほら、私の妹達もなかなか不思議な呼ばれようじゃありませんか」 そう言えば、と尚侍は女御の妹達の幼名を思い出す。「あて宮や袖宮やちご宮はともかく、今宮やけす宮っていうのは、ちょっとなかなかどういう意味か判らなくて、不思議な感じがしません?」 考えてみる。確かにそうかもしれない。「ねえ、お母様。私は最初の娘だったから順当な名でしたけど」「…昔のことについて、あれこれ言うものではありません」「でもけす宮ったら、昔からそれでぶーぶー言っているんじゃなくて? どうして自分ばかりああいう名なのか、って」「今宮と気性が似てましたからねえ… できるだけそういうところは消してしまえればとか色々考えたんですけど」「でもまあ、名前なんてものは実はあまり良く無いほうがいいものてもしれませんわ」 女御はふふ、と首を傾ける。「ほら、結局今宮はあの涼さまを婿に迎えた訳だし、けす宮だって」「そうでしょうかね、けす宮は未だに身分を気にしてぶーぶー言ってますよ」「お母様、あの子は本気で嫌ならてこでも動きませんよ。婚儀の晩に逃げ出すくらい軽くやりますって」 さすがにその女御の言葉には尚侍も驚いた。「そ、そういうことがあるのですか?」「そのくらいやりかねない子だ、ということですよ。冗談です」 ふふ、と女御は笑う。「あれでいて、結構変人と言われる方には興味があったようですよ」「それもまた、ちょっとね…」 大宮はそれを聞いて、軽く額を押さえる。「まあ何とかなるのでは? 私も何だかんだ言って、上手くいってますし」「あなたは本当に大君だこと」 ほうっ、と大宮はため息をついた。「本当、ここでお話するのはとても楽しいですから、またできるだけ早く参りたいですわ」 尚侍は漏れそうになる笑いを堪えながら、そう彼女達に告げる。「私も。できればあなたが来る時に宿下がりできれば良いのですけど」 女御と尚侍は苦笑する。お互いそれぞれの夫を持つ身は大変だ、と目と目で伝え合う。「あちらの方に、贈り物を用意させましたから、ぜひ持ち帰って下さいな」「ええ、ありがとうございます」 尚侍は深々と頭を下げた。【和菓子 老舗】 松江のお留め菓子 一力堂 姫小袖(6個入り)【松江 出雲 和菓子 ギフト】【RCP】
2018.01.09
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その四の一 だらけきった翌日の男達、世をすねる弾正宮、そして梨壺の妹からの贈り物 と、この様に男達の世話をしなくてはならない女達がこの日は沢山居たが、その必要の無いひとも居た。 他ならぬ女御そのひとである。 彼女はあちこちからのお祝いの品を夜通し吟味していた。そしてそれをまた何処へと分けようか、思案にくれていた。 左大臣からは沈木でできた衝重が十二。そして銀の杯。これは尚侍に差し上げよう、と女御は思い、取り置く。 大納言忠俊からは浅香の衝重と御腕は、二つあれば一つ、四つあれば二つを正頼夫婦へ。 涼からの銀の衝重や、蘇芳の長櫃に入れられた色々のものは藤壺のあて宮に。 元々それらの捌き方はおおよそ仲忠によって指示されていたものだった。「酔っていらっしゃった割には良い判断ですこと」 仲忠はそんな女御の讃辞はほとんど耳に入っていない。夢うつつのまま、妻と一緒にごろごろとしている。 さて。 女御は思う。 藤壺に回すものには文を添えなくてはならないが、この分では書けないだろう。仕方が無い、私が書こうと。「昨日も申し上げようと思いましたが、前後不覚に酔っていましたので、後ではと思って今日になりました。 大変面倒な贈り物をお一方でどういう風になさったのかと感心してしまいました。 あなたにあやかって、また目出度いお産を早くする様にと祈っております。 美しくない子供でも大勢あるのは悪くないものだと、今夜はしみじみ思いました」* さて受け取った藤壺のあて宮は「これこそ誉められていい贈り物だ」と返しの文を書く。「昨日は思う様に参りませんでしたから、肩身が狭い思いをなさらなかったかと心配しておりました。 それに、よその聞こえもありますもの。 宮中にも珍しく稀な行事が沢山ありましたのに、それにも出ないで聞いているだけでは、全く生きている甲斐も無く、嘆かわしく思います。 そんな気持ちで鬱々としている中、頂いた贈り物は、思いも掛けない満月の様な心地です。 私からの贈り物を向こうの方は悪くないな、と御覧になったのでしょうか。それとも何故ですか?」 この様に白い薄様一重に、非常に素晴らしい書きぶりだった。* 女御がそれを見ている時だった。「…あ」「母上、これは藤壺の方からですか?」 弾正宮が横から文を取り上げた。「この方と母上の筆跡が世の中では褒め称えられている様ですけど、私はこちらの方が素晴らしいと思いますね」「まあ」「あ、怒りましたか? 母上」 ちら、と弾正宮は女御を見て笑う。そのまま彼は腰を下ろす。「こんな折りでなかったら、まず私など見ることが出来ないでしょうね」「馬鹿なことを言っていないで、お返しなさい」「この文が母上宛ではなく、誰か男の元へ書かれたものでしたら、私はそれを見て妬くも辛くもなったでしょうね。ああ全く、そうでなくって良かった良かった」 女御はそれを聞いてほほほ、と笑う。「何を言っているんですか。それにあのひとは、男のひとに対して書くのはいけないことだと思っていますよ」 だから息子にだけではない、と言いたかったのだが。「ねえ母上。私は時々、東宮でなかったのが辛くなりますよ」「な、何をいきなり」「母上は、私を不幸なものに生んで、物思いばかりをさせるのですね」 何を言うのかこの子は、と彼女は思い、更に笑う。「変なところにかこつけるのね。あんまり深く考えない方がいいわ。そうそう、あなた、いつまでも独り身だからじゃないの? あなたを婿に欲しいと思う方は多いのよ。いい加減何処かのお誘いに返事なさいな」 いいえ、と弾正宮は首を横に振る。「私は独り身を遠そうと思います」「…また何を」「本気です。心が慰められる程のひとは得られないと思いますから。そう、もしかしたら法師にでもなるかも」 そう言い捨てると弾正宮は立ち上がる。「これは貰っていいですね」 そしてそう言いながら、あて宮からの文を手に立ち去る。 全く。女御はため息をつく。何処まで本気なのやら。「…ああもう。あて宮の文も、女一宮へのものは仲忠どのに取られてしまうし、今日のはあの子に取られてしまうし。全く困ったことだわ」 思わずそんなことが声に出てしまった。それもとても愛嬌のある、よく響く声で。*「ほら、どう? 女御は一宮と良く似ていた?」 近くの局に籠もっていた兼雅は、その声を耳にすると北の方――― 尚侍に問いかける。「うーん、何っていい機会なのだろう。あの方のお声を直にこう聞けるとはね。ねえ、どうなのかな」 また何を馬鹿なことを、と思いながらも尚侍は答える。「女御さまのことは知らないけど、いい方だと思いますよ」「うーん。女一宮もそうなんだろうな。仲忠が、ずいぶんと素敵なひとだと誉めていた。あいつがそういうのは滅多にないことだからなあ」「女御も素敵な方ですよ。だからこそ帝が大層ご寵愛で、この頃も、『早くお帰りなさい』と御文がある様です」「ふーん… さてさて、人々はそなたのことはどう見るんだろうな」「私ですか? 別に大したものでは無いでしょう」「いやいやいや、何と言っても私は、様々な素晴らしい女性を大勢抱えていたのに、あなたを手にしてからというもの、…もう他の誰も要らないと思ったんだから」「はいはい」「だからね、こういう妻を持ってしまった、とよく私も公表してしまったと思うよ。男としては何と言うか、その、だからね」「何ですか」「…その。だからね、仲忠の面目のために、今でもやはりうつむいて、いつもの通り立派な着物で人にはお会いなさいね」「仲忠は本当に、親の私から見ても素晴らしい子ですもの」 何を言っているのだか、と思いながら尚侍は答える。「ああそうだ。本当にあれは素晴らしい子だ。あれがいつまで経っても中納言のまま昇進もできないのは、私が右大将のままだからなんだろうなあ…」 そう言いながら、懐から十宮を使いにして女御からもらった杯を取り出す。「何ですかそれは」「さて、何だろうね」「素晴らしい御筆跡ですこと」 尚侍は笑う。 兼雅はそれには何も答えず、枕元にそれを置くと、寝よう寝よう、と妻を引き寄せた。* 夕方になると、女御は乳母を呼び、命じた。「もう日も暮れてきましたし、仲忠どのをお起こしして、御膳部をお上げなさい」 はい、と乳母は仲忠の元へと行く。「御膳部が整いました」 すると仲忠は寝所の中から面倒くさそうな声で答える。「何のつもりで食事なんか勧めるの。ちょうどいい時ってのがあるでしょ…」 そう言って聞かない。乳母は呆れてそのままを女御に伝える。「まあ。全く酔ったひとというのは。人がそうしたら叱るくせに」 そう言ってくすくす、と笑う。 結局そのままその日は暮れてしまった。 * やがて明け方頃仲忠は目覚めた。「…あれ? 今は昨日? 今日?」 などと寝ぼけ眼で言う彼に、周囲の人々は皆思わず笑いを堪えきれなかった。「笑ってる場合じゃないって。九夜のことがあるじゃない」 無論周囲はそれなりに準備をしていたので、ただもう苦笑するしかない。 ともかくこの日の夜が九夜であることに気付いた仲忠は、周囲に命ずる。「前々からお産のことに携わった人達への祝いが延び延びになっていたから、今日は儀式ばらずに、ただお肴だけ用意して、親戚の誰彼の御馳走や禄等も支度しておいて」 皆了解すると共に「あの普段無口なひとが」と驚く。 仲忠は贈り物の用意などには自身で動くのだが、この様な祝いの席に関しては、それぞれの担当に任せ、特に口を出すことが無い。それを特に。 よほどお産に携わった人々に感謝しているんだな、と家人達はしみじみと思うのだった。* やがて夜が近づくと、母尚侍が髪を美しく梳り、掻練の小袿姿という、やや気楽な正装になって祝いにやって来た。 仁寿殿女御もやって来る。その頃には一宮も起きていた。 中の大殿の東西の廂に人々の御座を設けて茵を置いた。簀子にも同様に座を設けた。 やがて仲忠は正頼夫妻に「おいでになりませんか」と使いを出した。そこで彼らもやって来る。 宮達がやがてやって来る。 正頼の子息達も、忠純をはじめとして皆やって来る。「お父上は招かないのかね。今ではもう他人とは言えない間柄なのだから」 そう正頼は口にし、息子を使いにして兼雅を招待する。やがてやってきた彼を、正頼は奥の方へと案内する。* やがて仲忠が用意させた御馳走が全て用意された。 産婦である一宮の前には、白瑠璃の衝重が六つ、下には銀の坏、上には瑠璃の坏などが置かれている。見事な細工のそれからは、中のものが透けて見える。 それぞれの母、女御と尚侍には沈で拵えた折敷を六つづつ出す。 男宮達には浅香の折敷が六つづつ。 仲忠はそれらのことを簀子に控えて家人達に指図する。その前には蘇芳の机が二つ置かれている。 上達部には二つ、そうでない人々には一つづつ。ちなみにこの日は正頼一家に関係無い人は呼ばれていない。 そんな正頼は仲忠に笑いながら問いかける。「仲忠、私は一体誰の側に座ればいいのか、言ってくれないか」 それを聞いた仲忠は、兼雅に向かってこう言う。「父上、正頼どのをお招き下さいな」「私がか?」「そりゃそうでしょう」 苦笑し、兼雅は正頼を呼び入れる。その時彼は忠純を一緒に連れて来た。宜しいか、と軽く問いかけ、それにやはり、無論だとお互いに答える。 その内に、内裏の后の宮から九日の産養の祝いが届けられる。 産養には白いもの、の例のごとく、銀の衝重が十二。 そしてまた銀の坏。 その上に唐綾の覆いが六。 破子くらいの大きさの食器が積んだ折櫃に沢山入っている。* また東宮に仕えている仲忠の妹、梨壺の君からも祝いが届いた。 物が一斗ばかり入る金の甕が二つ。 黄ばんだ色紙で覆われたその一つには蜂蜜、もう一つには甘葛が入っていた。 また、紅葉の造り枝につけた銀細工の鯉が二つ。これがまた生きているかの様に精巧である。 そして瑠璃色の大きな餌袋三つ。 この中の一つには銀の銭を。 一つは黒方を乾し魚などの食べ物の様に見せかけたもの。 そしてもう一つは沈を小鳥の様に見せかけたもの。上に鳥の羽根を集めて、青い薄様を一襲づつ覆って結われていた。 そこに唐製の紫色の薄様一襲に包まれた文が、紫苑の造り枝に付けられていた。 仲忠はおや、と思って手に取る。「ご無沙汰がちで心許なく、心配しておりました。 ずいぶんお見えにならないので不思議だと思っておりましたが、やっと昨日、それはご無理も無いことだと判りました。 ちなみにこの鳥は、 ―――きょうだいのあなたの慶びを祝うために草原まで探して取ってきた鳥ですよ――― もっと早くおっしゃってくれていれば、大鳥を探してきましたのに!」 正頼はそれを見て仲忠に問いかける。「何処からかね? ずいぶんと色っぽい文に見えるが」「何言ってるんですか。梨壺の僕の! 妹からです」「お、そうなのか」 兼雅もそれを聞きつける。「だったら私にも見せてくれないか」 どうぞ、と仲忠は渡す。受け取った兼雅はしげしげとそれを見てつぶやく。「ふぅん、ずいぶんと大人らしい文を書く様になったものだなあ…」 あなたの娘でしょう、と仲忠は嫌味の一つも言いたかったが。 やがて、東宮に仕える左大臣の姫、麗景殿の君からのお祝いもやって来る。 物が二斗ばかり入る銀の桶が二つ。それぞれ、やはり銀の杓子を添えて、白い米の粥がと赤い小豆の粥が入っていた。 また銀の盥八つには、粥のおかずとして、魚料理が四種類、精進料理が四種類。 大きな沈の折櫃に、黄金の大小の食器と小さな銀の箸を添えて入れてあった。 ここでも仲忠に宛てて文があった。「とりあえずはこの麗景殿の君からの粥を皆で食べましょう」 と仲忠は添えて寄越した器に盛って、皆に分け与えた。 彼はその間に梨壺の君への返事を書く。「御文をありがとう。ずいぶんそちらへは行けなかったので、気にはなっていたのだけど。 けど『昨日』というのは、誰が言ったのかな。流行りの大鳥の歌のことをあれこれ言う様な人達だった? 君の心はとても嬉しかったのだけど、僕の女一宮のことを気に掛けてくれなかったのは少し悲しいな。 ―――野辺に棲んでいる多くの鳥よりも、水の中で番として育った亀の御祝いは珍しく嬉しかったけどね」 それを装束の被物をした者に、別の禄を与えて帰した。送料無料 宇治抹茶スイーツお試しセット 抹茶あんみつ 抹茶生チョコレート 抹茶大福 抹茶ロールケーキ 抹茶スイーツ お取り寄せ スイーツ 和菓子 お菓子 訳あり おためしセット ギフト |ケーキ ロールケーキ 抹茶チョコ お歳暮
2018.01.08
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その三の四 夜を徹した宴の果てに さて宴が始まるともう大変である。 酒を無理強いされ、御馳走を食べ過ぎた二の君の婿、中務宮はついに吐いてしまう程。 式部卿宮は浅い木履の片方を何処かにやってしまい、いつもの謹厳さも失っていた。「それでもあの時の涼の姿程じゃないね」 兵部卿宮はふっ、と笑う。「それを言わないで下さいな、兄上」 そうあの時。 仲忠が我が子の生まれた喜びで、思わず琴を弾いてしまった時である。 普段の彼なら絶対にしない様な格好で飛び出してしまったのは、まだ新しい思い出である。「…でもね、兄上。行正だって以前、下袴だけで、すねを出して走ったことがありました」「ほぉ?」「…まあだけど、そんな体たらくでもさすがに舞の師、不作法には見えなかったもので… つまり、私は舞の師でも何でも無いもの。仕方ないですよ」 などと涼も少々拗ねて見せる。周囲もその会話を聞いて笑う。 正頼もふうん、と空を仰ぎ。「そう言えば、うちの息子の中に、いつもより美しく正装し、笏を持って練り歩く様な時に、袴を括って出たことがあるな。誰だったかな」 該当する息子は思わずうわぁ、と両手をばたばたと振る。「あーあ、実忠が出てきていればなあ。こういう時には、ぱっといい突っ込みをしてをして楽しませてくれたろうに」 民部卿がふっとため息をつく。それを聞いて正頼はふとつぶやく。「…あて宮は今夜のことを聞いたらどう思うだろうな。こんな楽しい宴に招待もせずに。きっと父を恨むだろうな。先だって退出したい、と言ってきたのに、そうさせなかったし…」 耳聡い左大臣忠雅はまあまあ、とばかりに正頼を慰める。「仕方ないですよ。いずれにせよ、東宮のご寵愛の深い今は、そうそう簡単に退出もできないでしょう」 それもそうか、と正頼もとりあえずあきらめる。* やがて管弦の遊びも始まった。 琵琶は式部卿宮。 箏の琴は左大臣。 和琴を中務宮。 笙の笛を兵部卿宮。 横笛を中納言。 大篳篥を権中納言が担当する。 仲忠はこの時やっと盃を持って中から出てくる。 紫苑の指貫、同じ薄色の直衣、唐織りの綾の掻練襲を身につけて現れたその姿は、今を盛りとばかりに非常に美しい。 下襲の裾を長くして、その端をひきずり、盃を取って仲間に入る。 すると兵部卿宮が目敏く見つけて声をかける。「おお、珍しい。感心にも外へも出ずに、よく籠もっていたね」 その声に皆も気づき、皆の視線が仲忠に集中した。 いやもう全く見事な程の帝の婿君だ、と皆が思う。涼と比べたことがあったが、今では彼の方が、と思う者も多かった。 仲忠は杯を式部卿宮に差し上げる。宮はいい気持ちになり、こう詠んだ。「―――この宿はいつも姫松が生えるので、今度も立ち寄りたくなる涼しい陰ですな」 仲忠はそれに応える。「―――さあ、まだ男君が立ち寄る様な陰になるかどうかは判りませんが、姫はいつまでも美しく変わらずに居て欲しいと思います」 中務宮がそれを聞いて詠む。「―――立派に成長して涼しい陰を作って、宮人がそこに親しく集まって楽しむほどにおなりなさい」 その後も皆が先を争う様に、仲忠の娘を祝った歌を次々と詠んだ。「で、そのお子さんは何処に? 何でも最初が肝心と言いますよ」 式部卿宮が言い出す。 正頼は「ここに居ります」と答えた後、「輪台」という舞をしるしばかり舞った。 すると御前に居た近衛司の楽人達や舞人達、それに雅楽寮の楽人達が皆「輪台」の楽曲を奏しだした。 太鼓と鉦鼓、鞨鼓を鳴らし立てて一度に打ち、笙、笛、篳篥をも吹き合わせた。 宴の席、黒っぽい掻練の袙を一襲に、薄い藍色の斜文織の指貫、同じ色で同じ織物の直衣に、表が薄赤で裏が濃赤の下襲を身にまとった弾正宮が、杯を取って中務宮の所へ行く。 すらりと背も高く、物腰も気高く、その上匂う様な美しい振る舞いが心憎い程の彼が中務宮に杯を渡す。 弾正宮と同じ歳の二十三歳である中務宮は、前例がある、と言い奨められた杯を三度見事に飲み干した。 これを見た正頼は喜んでこう思う。「いやあ見事なもてなし方。一体誰がこの宮を婿にするだろうな」 一方、左大臣忠雅は「婿君には何を肴にしよう」と催馬楽の「我家」を引きながら、箏の琴で面白くその曲を弾き出す。 式部卿宮も、忠雅と同じように思っていたので、杯を取って舞い始める。 弾正宮はそのまま民部卿宮達の下座に着いた。 杯が回されて行くうちに、正頼がこう言い出す。「腰の曲がった翁の私にばかり舞わせて、それだけで済ませてしまうのですかね」 すると涼がくすりと笑うと立ちあがり、その場で舞い始める。 官位の上下を問わず、この様なことが色々あって非常に宴は面白いものとなっていた。 そのうちに、二十二になる四宮が杯を取って兵部卿宮に回す。 彼は赤みがかった綾織りの練絹の袙一襲に、表裏とも濃いはなだ色の指貫に同じ色の直衣、それに唐綾の表白で裏青の下襲を身につけている。色白で、若くてはち切れそうな程に大きく立派な身体をしている。現在は宮中に住んで居る。 彼は舞いながら杯を涼に渡す。涼はそれを受け取り、次に弾正宮に回す。四宮は弾正宮に続いて席に着いた。 正頼は彼らの様子を見ていたが、不意にこう口を開いた。「この順の舞は、きまり通りでなくとも良いので、ご存知のところを一手舞っていただきましょうか」「では私が」 すっと立ち、万歳楽を舞ったのは左大臣忠雅の長男の忠俊である。正頼はまたそれを見て嬉しそうに言う。「いやいや、この千歳を祝う万歳楽で老年を忘れてしまうだろうな」 そしてまた一方、六宮も同じように杯を取って立ち上がる。 彼は紅の濃い練絹の袙一襲に、表が白、裏が葡萄染の直衣と指貫、それに表が蘇芳、裏がはなだの下襲を身にまとい、忠雅の方へ向かう。 歳は二十歳、ころころと、腕が短く見える程太って可愛らしい。彼は現在、祖父正頼の屋敷で暮らしている。 忠雅はその様に奨められるままに酒をたくさん呑み、また息子の忠俊にも奨める。それを見てまた六宮が舞う。 その中で不意にどう浮かれたものだか、頭宰相実正が「私も舞うぞ」とばかりに立ち上がる。皆おお、と彼を見る。俗楽が奏でられる中、ひょいひょいと滑稽な動きに皆が腹を抱えて笑う。 八宮は浅黄の直衣と指貫に、流行の桜色の下襲をまとい、忠雅に「もうお呑みなさるな」と優しい声で言う。 十七歳のこの宮が、幼くか弱そうに無心な顔でそう言うのに、さすがに忠雅も逆らえない。彼は形ばかりさっと舞うと、またさっと引っ込む。 その様子を見て忠雅はふふ、と笑う。受け取った杯は、面白い舞を見せてくれた、とばかりに実正へと回す。 さてその後に回ったのが兼雅だが。「私はこの位しか舞は知らないなあ」 と言いながら「鳥」の舞を形ばかり舞う。 すると右近の幄から孔雀が、左近の幄から鶴が出てきて、一斉に楽器を鳴らし出す。「こうなったら舞わざるを得ないでしょう」 兼雅は苦笑しながら繰り返し舞う。それにつられる様に、忠雅もまた舞い始める。 するとそこにちょこちょこと小さな宮が顔を出す。十宮である。「おや可愛らしい。何処の子ですか」 知っていても問いかける。女御の末の子で現在四つ。 色白く美しくぷくぷくと肥えて、振り分けに結んだ髪に濃い綾の袿と袷の袴、それにたすきをかけて直衣の広い袖を背の方へと束ねている。 そんな子供に兄宮達は「誰なの誰なの」と問いかける。「誰でもありません」 十宮は可愛い声でそう答えると、ちょこちょこと兼雅に近づき、杯を渡す。 兼雅は跪き、十宮を抱いて膝に乗せる。 ふとその杯を見ると、女御の字でこう書かれている。「―――一夜だけでも久しいという鶴が目の前にちらちらするのですから、千年どころの騒ぎではありませんね」 いつもよりも美しく立派な書きぶりに兼雅の顔もほころぶ。「ああ、久しぶりに女御の御手を見た気がする。…あれから二十余年にもなるというのに、大層上手になられたことだ。やはり並々のひとではないな」 じん、と感動の思いが感じやすい彼の心に響く。そしてその杯を懐にしまおうとすると。「いけません。母上からこの杯にお酒を入れてらっしゃいと言われてきたのです」 十宮に止められた。「んー、でもこれは墨がついてしまっているからね」 そう言うと彼は「こっちのが白いよ」と卓の上にある食器を代わりに十宮に渡す。 十宮は首を傾げつつも、そのままとことこと他の人々を回って行く。 周囲の人々は、兼雅のいつもと違う振る舞いににやりとする。中には昔のことを思い出したのか、ふふ、と笑うものも居る。 皆それぞれの思いを持ちながらも、どんどん十宮の杯に酒を注いで行く。「ちょっと宮さま、お酒、多すぎませんか?」 そう心配する声もあった。実際杯の中は、溢れそうな程にいっぱいになっている。 だが小さな十宮はむきになってか。「大丈夫です」 そうけなげに言うと、そろそろと兼雅の元へと持って行く。「どうも、ありがとうございます」 兼雅は杯を受け取ると、十宮を再び抱きかかえ、次の人へと回す。 その時、順の和歌を行正が書いていたので、硯が近くにあった。 それに気付いた兼雅は、ちょっとした隙をつき、その硯と筆を側に引きつける。そして果物に敷いてある浜木綿の葉を取ると、こう書き付けた。「ああ、何と久しぶりなことでしょう。 ―――いつまでもいつまでもあなたの前に現れるであろう葦田鶴/自分も、どうして昔のことを忘れられましょうか」 そして十宮に「母上にね」と言ってそっと渡す。 何なのか判らないままに、十宮はこくんとうなづくと、そのままとことこと再び母の元へと戻って行く。 そんな一幕が演じられている間に、彼の息子に関する言葉があちこちで発せられる。「それにしても、まあ皆歳を取っても学問はすることはするんだが、この仲忠は、真面目に一体いつの間に、この様に深い学問をしたのだろうね。こんな無礼講の席に出るのは、彼の本意ではないだろうな」 忠雅が言うと、正頼は扇をぱたぱたとはためかせながら笑う。「いやいやそんなことは無いだろう。仲忠も今夜は大役だった。全く本当に」「それじゃどうしてその大役の仲忠の座を低くするんですか。今夜ばかりは彼は上座に。さあさあ」 中務宮も言う。すると聞きつけた兼雅も面白くなり、息子を焚き付ける。「さあさあ早く、皆さんもそうおっしゃってることだ」 仲忠はこの時、殿上人の座のある簀子に居た。そこから皆に押される様にして、上座へと移動させられる。「さあさあこれから、御簾の内の女君達から、お食事のお残りを頂戴致しましょう。蒜の匂いのする御肴をぜひ頂きたいものです」 式部卿宮までもそう言う。続いて忠雅が。「私も兼純も頂戴しましょう。どうか下さいませ」「さあさあ、左大臣が仰らなくとも、遠慮なしに頂きに参りますよ」 中務宮も言う。兵部卿宮も高い声を張り上げて、あれこれと言い立てる。* 次第にほのぼのと夜が明け始める。 その中を、行正が階を降りて「陵王」を繰り返し繰り返し、素晴らしく上手に舞う。 おお、と周囲の皆が驚く。「これはまた、世の中で見たことも無い程、見事な手だな。どうしたことだろう」「嵯峨院の大后の御賀には、宮あこ君が舞われたのが素晴らしかったのだが…」「そうか、行正が伝えたのだな」 皆はあの折りの不思議を納得する。 行正はこの日、いい気分になっていたのだろう。普段は隠しているというのに。こうもあからさまに自分の手を披露してしまうというのは。 成る程、と皆が騒ぐ中、正頼の息子達は、客人達への被物を用意していた。 仲忠は宮達に一度に被物を取って渡す。それは皆、女の装束、産着、襁褓が添えてある。 涼も同じ被物を手早く持ち、未だ舞い続ける行正へと砂子の上に降りて渡す。 その様子がまた非常に美しく、人々の目には映る。 左右の近衛司の幄舎の人々は、行正の舞いや、その舞人に被物をする人々、殊に涼の艶に美しい様子を見てこう思う。「色々と今日はあったけど、これこそ一番面白い見物だな」 被物は続く。 三位中将以上には白い袿が一襲、袷の袴が一具。 四位五位には白い袿が一襲。 六位には白い布で強く糊で張った狩衣。 下仕えには一匹の絹を巻いた「腰指」。 上から下まで、被物の趣味は大層素晴らしいものだった。 そのうち、それぞれの幄舎で唐楽の曲を演奏し、孔雀や鶴の舞いを披露する。 すると御簾の内に居る女君達―――一宮、女御、尚侍をはじめとてた、正頼の娘や御達、それに女房達が、騒いで見ようとする。 その御簾の中から、黄金を柑子ほどの大きさに丸めたのと、小さな銀の魚が二つ出された。 式部卿宮がそれを取り、孔雀に黄金の柑子を、鶴には銀の魚を与えた。 それぞれが、嘴でそれを挟んで舞う様はまた実に面白いものだった。 孔雀の舞人は、禄として袿を、鶴には白い綾の子供の単襲を一具与えられた。 この様にして、皆泥の様に酔って足をふらつかせ、先には転んだりして大変だった。 それぞれが沢山居る子供やお付きの者達に支えられて、よろめきながら戻ることとなった。 正頼も泥酔したのだろう、ずいぶんと大勢の人々を後に従えて屋敷の奥へと戻って行った。 兼雅もよろよろとよろめいている様子だったのを、これまたしどろもどろの仲忠に見送られて行く。 その仲忠は、と言えば、ずいぶんといい気分になっていたらしく、催馬楽の「酒を飲うべて」と歌いながら戻って行く。 あらあら、と女御は御子を抱いて奥の部屋へと逃げ込む。 そんな仲忠が入って行くと、一宮が鳥の舞を見ようと、寝所の柱を抑えて立っている。「何してんの。はしたないよ~」 あら、と一宮は顔を真っ赤にする。そこで仲忠に見咎められるとは思ってもいなかったのだ。 と言っても当の仲忠自身、ずいぶんと酔っぱらっていて、普段とは様子が違う。そう言えば、母もいつの間にか消えているではないか。「…はしたないと言えばあなたの方じゃないの? すごくお酒臭い」「そんなこと言わないでよ。これもおつとめおつとめ…」 そう言いながら仲忠は寝所に座り込む。 そしてそのまま、一宮の手をぐっと引く。「あ」 元々足に力の無い一宮である。引き寄せられるのも容易い。 仲忠はそのまま一宮を抱きしめる。「ああ、もう最近ずーっとお産の後だからって我慢していたけど、もう我慢なんてできないや…」 さすがにその様子に、一宮は仲忠が何をしたいのか判る。まあ気持ちは判らないでもない。 でも一応こう言ってみる。「私疲れているのよ」「いいじゃない。一宮は何もしなくていいから…」「ん、もう…」 熱い男の力に、一宮はそのまま崩れ落ちて行く自分を感じる。 何となくなし崩しという感じもするが、まあこのひとだし、と半ばあきらめ、半ば愛しさが、一宮の手を仲忠の背に回させる。 そんな二人の様子を聞くともなし、寝所の外で伺ってしまった尚侍も、呆れた様なため息をつきながら兼雅の休んでいる方へと行く。 全く男達ときたら、いつまでたっても。 その後を、一宮の乳人子や典侍が装束の後片づけをしていた。 重箱 初桜 hatsuzakura おせち 花見 ピクニック 弁当箱 楽天 お重 仕切り お弁当箱 桜 レジャー 運動会 ランチボックス 行楽 かわいい おしゃれ 2段 2段重 5431860 4973387137101 15057
2018.01.07
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その三の三 皆からのお祝いと贈り物 三日目のお祝いは、兼雅が執り行った。 彼は花文綾の羅を重ねた銀の衝重ついがさねを十二、産着やおむつや内敷を入れた銀の透箱を六、強飯をお握りにしたものを十具ばかり、それに碁手の銭を百貫用意した。 正頼の屋敷に泊まり込んで祝っている殿上人達は、一晩中管弦をしたり、意銭――― 銭打ちの勝負をして遊んでいる。 大宮からも三夜の祝いとして、趣のある様々な品が届いた。* 五日目のお祝いは、正頼が三日の夜同様に立派な祝いの準備をした。 正頼の息子達も、それぞれ趣の変わったお祝いを立派に送る。 やはり皆遊びに遊び、殿上人達は、三日の夜同様に、被物を受け取った。* そして六日目。 仁寿殿女御は麝香を沢山用意させて、栴檀や丁字といった香の材料と共に鉄の臼で搗いて粉にさせた。 そして綿を入れた練絹を袋にこさえると、その一つ一つに搗いた粉の香を入れ、柱と柱の間にある御簾に掛けさせた。 大きな銀製の狛犬の中に収まった燻炉を一宮の寝所の四隅に置いて、その香を絶えず焚いている。 廂の間には、大きな燻炉に火を入れて、良質の沈や合わせ薫き物を沢山くべてその場にいっぱいになる程に置いた。 寝所の四方に掛かる一重の絹や、壁代わりの御簾は香を移す上等の燻炉に入れていたので、その付近は非常に良い薫りが漂っている。 ましてや一宮が居る中は言うまでもない。ほんのちょっとした臭い蒜の匂いなども消されてしまう。 やがて大宮は自分の北の大殿にへと戻る。そこは現在、女御の休息所となっているので、仕える大人も童も皆それに応じた装束をまとっている。 仲忠は――― 仕人達は、いつも居る東の廂に儀式通りにお手水から膳部まで用意しておいたが、当の本人が一宮の居る母屋からまるで出て来ない。「お食事は如何なさります」 と心配した女房が問いかけても、「宮の残りを食べたから平気」 そう返す始末。 昼間の人の居ない時になると、妻の寝所に入りその横で眠る。誰かがやって来ると、そのすぐ外の土居にもたれかかって居眠りをする。そして夜は魔除けの弓弦を一晩中鳴らしている。 簀子には彼と仲のいい公達が揃っていたのだが。* 七日目のことである。「夕方は入浴しましょうね。さあ起きましょう。髪を解いてあげるわ」 仁寿殿女御は一宮に言う。元気を取り戻してきていた一宮も言われる通り、起きあがる。 白い単衣の上に、つやつやした赤の表着を羽織り、台帳の床の端へいざり出て東の方を向いた。 女御と尚侍が一宮のたっぷりとした髪を二つに分けて梳り始める。非常に量が多く、つやつやと美しく、長さは八尺程ある。 髪を上げ整える一切の仕事は、典侍と乳母が行った。「お産の後初めて髪を上げる場合は、縁起を祝うものでございますが…」 典侍が心配そうに口を出す。 すると女御は朗らかに、「何もそなたが気に掛けることは無い。そうでなくとも、この子のは長くて多すぎる位で心配の無い御髪なのだからね」「長さはともかく、髪の筋や見た目の美しいのは、滅多に無いものです。宮はそのいずれの点から言っても申し分の無い御髪ですね」 尚侍もそう口をはさむ。そうそう、と二人の母は楽しそうに、それぞれ分担したあたりを梳っては褒め称える。 非常に艶やかに美しい髪で、お産の後だから、と切れたり薄くなる様なことも無い。 当人の様子にしても、少々顔色が青白い様に見えるが、それが却って尊く上品な印象を周囲に与える。そう、今が盛りとばかりに匂う様に若々しく美しい。 やがてそんな一宮の元に、藤壺からお祝いの品が届けられた。 二斗入りの酒甕が二つ。 物を入れた衝重の沈の折櫃が十二。 蘇芳の高坏たかつきには、腹に龍脳りゅうのう香を詰めた銀の雉の剥製が二羽、大きな松の作り枝に据えられている。 その端にはこう書かれていた。「―――鶴/都留の都に済む雉が今日は珍しく松の枝に飛びましたからお目に掛けますね」 また文も別にやって来た。 東宮坊の次官がやってきて、一宮の元に届ける。あて宮からの文は、薄い萌黄色の色紙一重ねに包んで五葉の枝につけてある。 一宮はそれを見ると思わず笑う。 それを見た仲忠は妻に近づき、迫る。「何って書いてあるの? 見たいな」「人には見せるな、って書いてあるから駄目よ」「僕に隠し事をするの?」 そう言って彼は文を取り上げてしまう。あーあ、と一宮は思わず呆れる。「本当に御満足な珍しいおめでたは、何よりも先にお祝い申し上げたいと存じましたのに、暫くは分別もないような有様でしたので、もしかしたら、万が一にでも見苦しい恥を隠すことができないだろうかと思いまして、とうとう今日までご無沙汰申し上げました。 誠に誠に大変珍しいおめでたが一時に集った時にこそ伺うべきですのに、お目にもかかれず、直接お祝いを申し上げないでしまったことは、この上なく残念に存じます。 入内せず、昔のままおりましたら、こうも切ない思いはしなかっただろう、と思うにつけても心が暗くなります。 ―――昔、中の大殿で二人一緒に住み親しんでいましたのに、今は自分自分の生活に関わって、あなたのお慶びを他人の様に聞いているのですもの――― 繰り返しても足りない程、貴女が羨ましい。 ねえ私の愛しい貴女、こういうことがあった折りには、全く挙措の難しい私のために、必ず必ず、自由にお訪ねできる様にお力添え下さいな」 仲忠はそれを見ると微妙な笑みを漏らした。「何と言うか… 久しくあの方の御文を見ないうちに、ずいぶんと変わられたもんだな。何と言うか、冗談だか本気だか判らない様な書きぶりそのものは変わっていないのだけど」「そうなの?」 一宮は問いかける。一緒に暮らしていた彼女にしてみれば、文の調子の変化はあまり判らない。ただ。「ああでも、確かに少し調子が変わったかも」「あなたもそう思う?」「冗談にでも愚痴など吐くひとじゃなかったもの」 そうか、と仲忠はうなづく。「気になるのかしら」「大変なんだなあ、と思うだけだよ」「それだけ?」「うん。だいたい僕は今、目の前のひとのことで手一杯だし」 まあ、と一宮は「言うわね」と肩をすくめる。「私まだ、疲れちゃって目がしょぼしょぼしてるの。返事はあなた書いて下さる?」「僕が?」「書きたいんじゃないの?」 うーん、と仲忠は一瞬悩む。「別にあなたのことどうこう疑う訳じゃないわよ」「そう?」 仲忠は黙って大きくうなづく一宮を見ると、そうか、とばかりに筆を取った。赤い薄様の紙一重ねを用意させる。「御文を頂いた当人は、床上げしたばかりで、まだ目のほうがおぼつかなく、宮の代わりで失礼致します。以下宮からです。 私のことを意のままに思い通りで羨ましい、と仰ったのは、それは今の貴女が、周囲も狭いと思える程満ち足りているとお思いになっているからでしょう。 いいえ、別に私、貴女の言葉をお恨みしている訳では無いのよ。でも貴女のその言い方がちょっと悲しかったのでね。 ―――あなたのお産をなさった場所で同じ様にお産をした私ですもの。その子供が成長するのは、あなただけでも見守って下さるでしょう?――― とのこと。 私仲忠からは、いやもう、直接御文を差し上げることができない身となっておりますから、一層慕わしさが募るばかりでございます。 ―――久しい間待って、やっとこの一時を得た私は、昔の恋しさ悲しさも一緒に思い出されて忘れかねるのです」 仲忠はそう書くと、同じ薄様の一重ねに包んで、良い感じの紅葉に付けた。「あなたが書いたところ、見てもいい?」「見たいの?」「…」 少し考え、まあいいわ、と彼女はやめておいた。「いいの?」「うーん、何と言うか」 一宮は首を傾げる。「あて宮の恋しい昔って、どういうのだったのかしら、と思って」「宮からはどう見えたの?」「何考えているか判らないひとだったから」「そう」 仲忠は合点が入った様にうなづいた。「それでもあなたにはよく返してたわ、あて宮は」「らしいね。僕も素敵な書きぶりだとは思っていたけど」「けど?」「素敵すぎて、現実離れしていた」「ふーん…」 そういうものか、と一宮は納得した。「だからじゃないけど、僕はあなたと文をやり取りしたかったなあ」「あ」 そう言えば。一宮も気付く。「考えてみたら、私とあなたって全然そういうことしていないのよね」「そうなんだ。涼さんでもできたというのに」「え」「ごめん、ちょっと話に聞いた」 ああ! と一宮は思わず同じ歳の叔母のしたことを思い出す。「あれで涼さんは今宮が好きになったというんだから、文は文で面白いんだろうね。僕がしたことあるのは、あくまで形の上のものはかりだから。そう、何って言うか、碁で次の一手を見定める時の様な緊張感が無いんだよな」「ぜーたく」「そ、そう?」「まあいいわ。そのうちあなたが内裏に詰める様なことがあったら私も書くから」 本当? と笑顔を見せる夫を見て、一宮は生まれた子よりずっと犬っころみたいだわ、と思った。* そんな二人のやり取りをよそに、母親である女御はきびきびと動き回っていた。 非常に美しい女装束を用意させると、弾正宮を呼び、こう言った。「これは普通は被物になどはしない様な装束です。でも今回は別です。この使いのものに差し上げなさい」 弾正宮は言われる通り、あて宮の使いにそれを渡した。そして彼はそのついでに贈り物を見渡した。「ねえ仲忠、これはなかなか凄いものだよ、見てごらんよ」 その言葉に仲忠は早速側に持って来させる。「へえ…」 二斗入り甕かめの片方には、紅の練絹――― 特に光沢を出した打綾が沢山入っていた。 もう片方には、やはり紅の練絹なのだが、上等なものが甕の口元まで畳んで入れてあった。 折櫃おりびつの方と言えば。 まず一つには銀製の鯉。 次に銀製の鯛と沈の鰹。 沈や蘇芳を小さく切って切り身の様にして一つ。 合せ薫き物を三種と、龍脳香をそれぞれ黄金の壺の大きなものに入れたものを詰めて一つ。 「海松みる」と書き付けられたものには、少々の赤い絹と縫い目の無い白い絹、それに続飯を組み合わせて海松の様にしたものが入っており、それが一つ。 白粉に一つ。 残り二つには、えび香と丁字が鰹節の様にして拵えてあった。「いやこりゃ大変なものだな」 仲忠は感嘆し、母尚侍にもそれらを見せる。「これはまあ、素晴らしいものですね」「うん。宮のために、心を込めて整えてくれたんだね。あの方も、入内以前はこういうことに気が付くひととは思えなかったのに、やっぱり御苦労なさっているんだな」「そうかもしれませんね」 尚侍もうなづいた。* 夜になると、大宮が生まれた子の湯浴をさせた。一宮もまた、朝から言われていた通り、入浴した。* そのうちに、涼からも産養の贈り物が届いた。 一宮の前に、銀の衝重が十二。 おなじく銀の台盤に据えて、敷物や内敷も皆見事なものだった。 衝重の中にはそれぞれ色々なものが入っている。 練った綾が一つ。 花文綾の羅が一つ。 色々の織物が一つ。 白い綾が一つ。 練貫が一つ。 練り繰った糸の美しいものが一つ。 練らない糸も美しく一つ。 分量も多く、高く積んで、重い物を据えたので、少しばかり傾いてしまっているのも愛嬌か。 女御の前には沈で作った折敷を、やはり沈で作った高坏に乗せて九つ。 打敷物は特に立派なものである。 沈木で作って黄金で箱の縁を飾った衣箱が六つ。その中には「被物にする様に」と女装束が一具、白い袿が十重、袴が十具。 蒔絵の衣櫃に入れて、物が五斗ばかり入るくらいの紫檀の櫃が五つ。その中には碁や弾棋の賭物の際に使う銭、その他もろもろが入れられて嵩高くなっている。 涼だけではなく、正頼や式部卿宮、民部卿からも様々な贈り物があったという。* そして祝宴の始まりである。 中の大殿の南の廂を開放し、客人達の座を作った。 正頼は四郎連純を使いとして、兼雅や式部卿宮を招待する。「今夜はお七夜ですが、あなた方がおいでにならないと、大変淋しいだろうと思います。誠に誠に恐縮ですか、おいで下さいませんか。私はうちでしたら、下手な舞いでも舞ってお目にかけましょう」 すると「それは素晴らしい、見物のはずだ」と言って、やって来る。 この二人が来ると聞けば、皆もまたじっとしてはいられない。この家の婿君達を始め、名だたる人々が次々とやって来る。 これらの人々の御膳部に関する一切は涼が賄った。送料無料 お年賀ギフト きんつば 人気ランキング1位 お菓子 和菓子 還暦 喜寿 御年賀2018 AA
2018.01.06
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その三の二 仲忠くん、生まれた子にめろめろ、そして一宮に甘えまくる その音は、無論涼が休んでいる北東の大殿にも聞こえてきた。 はっとして飛び起きる涼に、横に休む今宮はどうしたの、と眠そうな声を掛ける。 彼女もまた産み月が近いこともあり、こちらはこちらで連日大騒ぎだった。 それだけに、涼自身も少々疲れており―――その音に気付くのに、少し遅れた。「これは…」「琴… かしら」 寝ぼけ眼の今宮もすぐに音の正体には気付く。「これは… 仲忠だ」「仲忠さま?」「うん、そうだよ今宮、これは仲忠の音だ」「え? でもあの方、滅多に弾かないのでしょ?」「…確か今日――― そうか! おめでたいことがあったんだよ!」「生まれたのね!」 今宮は起きあがって手を叩く。「そうだ、そうだよ! それもたぶん女の子!」 思わず二人は手を取り合う。「ああ見たいわ、私!」「君は女だから、子供は後でもゆっくり見られるよ。それよりまず今は仲忠の琴だ!」「そっちなのあなた! ああ全く琴に関しては皆もう!」「男は皆馬鹿なんだよ。でも耳を澄ませているといい。皆外へ行ってしまってこっちは出てても大丈夫だろう。きっと素敵な音が聞こえてくる」 そう言うと涼はともかく着物と冠を手に外へと飛び出した。 途中で冠を頭に置くことはできたが、さすがに簀子を走る中では指貫も直衣もまともに着ることはできない。「おやおやおや」「天下の色男がまあ」 その場に集まってきた上達部達が思わず苦笑する。普段の彼からは考えつかない様な乱れ方なのだ。「仕方ないじゃないですか。仲忠の奴、この友達の私にすらお産が今日だ、ということを言ってくれないんですから。…いやあなた方も同罪ですよ! 誰もかれももう…」「いやいやいや、そちらはそちらでお産で慌ただしい、ということで皆差し控えたのでしょう。それより早くお姿を整えなさいな」 はいはい、と涼は石畳の上で衣服を整える。 そのうち仲忠は堂々とした曲を思い切って高い音で弾き始める。 と。 ざわざわと周囲がざわめく。風が吹いてきた、という声。空が荒れてきた、という声。 ああこれはまずい、と彼は気付く。いくら嬉しくとも、自分の「本当の音」はこの場では弾けない。弾いてはいけないのだ、と。 自分の音は幻想を作り出す。その場に居る者達はともかく、この懐の愛しい子にまで聴かせてはならない、と。 仲忠は琴を尚侍に渡す。「どうしたの」「今古楽いまこがくを一曲弾こうと思ったんだけど、何か、ちょっと、空が騒がしくなったとか… 母上がこのりゅうかく風で曲を一つ弾いて、鬼神に聴かせて下さいな」 何をいきなり、と尚侍は驚く。だが彼女とて、かつて「なん風」を山で弾いた時に不可思議なことを体験した身である。息子の手にある程度何かを感じていたことは間違いない。 彼女は寝所の床から降りると、琴を受け取る。そして一曲だけ、と奏で始める。「…ああ」 一宮はその音が耳に飛び込むと共に、目をふっと伏せる。 何と心地よい音なのだろう。仲忠の音もとても素晴らしいけれど、尚侍の音は、それだけではなかった。身体が感じている苦痛も、それによって生じた心の疲れも、全てが何処かへ行ってしまうかの様だった。「何となく、うきうきとした気持ちになりますわ」 女御もそっとつぶやく。「命が延びる思い。…お母様、起こして下さいな」 女御は驚く。「大丈夫?」「ええ。尚侍さまの音を聞いたら、何か身体に力が湧いてきて…」 中の動きを感じた仲忠は慌てて問いかける。「一宮、苦しくはないの?」「もう大丈夫。この音を聞いたら、途端に元気になっちゃったわ」「そうなんだよ。これがずっとあなたにも聞かせたかった、母上の音なんだ。誰もが元気になってしまう…」「ああでも今起きてはなりませんよ、一宮」 女御はすっと風が入り込んで来るのに気付く。曲が終わった尚侍もまた、一宮を寝かせようとする。「風邪をひかれます」「…皆心配しすぎだわ」「僕も心配だから、今はゆっくり休んで欲しいよ」 そう言うなら、と一宮は再び横になった。 その枕元には弾き終わった琴が元の袋に入れられ、守り刀と一緒に置かれた。* やがて夜が明けたので、格子を全部上に吊し上げて明るくし、外から見えない様に几帳を立てていると、一宮の同腹のきょうだい達が崩れる様に一緒に階を降りた。 そして正頼の息子や婿達と共に、皆並んで祝いを言うために拝舞をする。 なのだが。 仲忠は未だに生まれた赤子に夢中で、拝舞の答礼もせず、ひたすら子を抱いたままだった。 内裏からは頭中将を使いにして帝からの消息があった。「無事ご安産で、目出度く有り難いことがいろいろ起こる様子、この上なく嬉しく思う。こういう時には慣例として朝臣を昇級させる筈だが、その欠員が現在は無いのが甚だ残念だ」 などとあった。 お産は喜ばしいことではあるが、血の汚れもあるので、帝の消息を受け取る時の普段の作法もしない。しかし勅使ではあるので、仲忠も階から降りて拝舞し、返事をする。 またその一方で、蔵人式部丞を使いにし、尚侍の所にも文があった。「頼み甲斐の無いひとと思われない様に、と思っていたが、心ならずも無沙汰してしまったことを許されよ。 あの初秋の日のしみじみとしたそなたとの対面の時に僅かに弾いた琴の音を忘れがたく思ったからこそ、時々参内せよと申して、公の役につけたのだ。 しかしあなたの夫君はそれを見抜いたのか、実によくあなたの参内を抑えたものだと思う。 私の所でこうあればいいと思ったことが、そなたの所では色々とあるのも、非常に羨ましい。 女一宮のことも心配になるが、女御に加えそなたまでが世話をしてくれたということで、宮は苦しみも忘れただろうと心強く思う。 それにしても、私の出歩きがもう少し容易であったなら。そうしたらそなたの傍らへとすぐにでも行かれるのに。 そなたは内裏には来ないつもりの様だから」 それを見た尚侍は少し困りつつも、返事をしたためた。「畏れ多いことでございます。女一宮のお側に居りますのは、仲忠が私を力にしておりますが故。私などは数の内にも入らないも者でございますが、せめて雑役でも人と一緒に致そうと存じまして参りましただけのこと。 …何やら色々と仰せられますのは一体どういうことでございましょう。私もとうとう孫を持つ身となりましたので、齢比べでも、とお見えなのでしょうか。 参内致しませんのは、こういう里住みでさえまだまだ私には不慣れな気持ちが致しますので、ましてや晴れがましい内裏に参上致しますことなど、気後れが致します。 誠に勿体ない仰言を返す返す御礼申し上げます」 この文の使いにも血の汚れのために禄は差し控えた。* やがて赤子に乳を呑ませる時刻になった。 まず仲忠が自分の懐に入れたまま、赤子に薬をふくませる。 最初の乳を含ませることになっている、連純の北の方が既に待機している。そこへ襁褓むつきにくるんで連れて行く。 その後の乳母も既に決まっていた。一人は民部大輔の娘、あと二人は五位程度の者の娘達。 産湯を使わせる儀式の段になると、全てに生絹すずしの白襲、白い綾が使用される。 浴室に設えた所には、東宮の若宮に迎え湯をした典侍が白い綾の生絹に単襲の袿を上に着て、綾の湯巻きを湯漕にも敷いた。 一方尚侍は、ここでも甲斐甲斐しくお世話をする。迎え湯の役である。彼女もやはり白装束であるが、裳唐衣も付け、その裳を腰巻に結び込むという勇ましい姿である。 仲忠は白い綾の袿を一襲、同じく白の直衣指貫姿で魔除けの弓を弾いている。 正頼の子息達も同じ様に弓を弾く。 白一色の厳粛な雰囲気の中、女御が赤子を抱いて差し出すと、尚侍がそれを抱いて典侍に渡す。そこでやっと産湯を使わせる。 迎湯のために待つ尚侍の姿は、実に生き生きとして美しいものだった。髪は裳に少し足らない位だが、白い装束の上につやつやとした黒い髪が隈無く広がる様は類い希なるものである。 とても今孫を持った様な女性には見えない。せいぜいがところ二十歳を少し過ぎた程度――― 子のはずの仲忠と年二つくらい離れた姉の様にしか見えない。 やがて典侍が産湯を使わせ終わり、赤子を尚侍に手渡す。「……いやぁ、昔から長年、こういうお子さんを見ておりますが、この赤さんより大きくって、身体の汚れも少しもつけておいででない方はいらっしゃいませんよ。この赤さんは二月も湯浴なさった様に綺麗でいらっしゃいます」「僕がついていて、始終懐に入れていたからでしょう」 まあ、と典侍は仲忠の言葉にやや呆れる。「私がお付き申し上げておりますから、大切にお扱い申し上げます。たとえ親の方でいらっしゃいましょうとも、ここからはお離れ下さいませ。御子は女でいらっしゃいますから」「いや、何、その所を上手く取り繕ってくれないかなあ」 典侍はこんなひとは初めてだ、と思う。「何をしていらっしゃいますか。女御さまが早く赤さまを、と」 判ってはいるが、側に仲忠が居るのでなかなかそれができない。「仕方ないわ」 尚侍がさっと赤子を取り上げて、几帳の中へと入り、一宮の側に寝かせた。 するとそのまま、仲忠までも入って来る。「仲忠、あなた、何ですか、人目もあるというのに…」「いいじゃないですか」 駄目だこれは、とばかりに女御はすすす、とそっと一宮の前から外に出てしまった。「…女御さままで出て行かれてしまったではないですか」 尚侍は呆れて息子に向かってつぶやく。「あんまりここのところ眠ってないんだ。宮の側で寝たいんだよ。いいだろう?」 今度は母ではなく、妻に向かって仲忠は言う。母ははあ、とため息をつく。「何を馬鹿なことを言っているの。じっとしてらっしゃいな」 だが既に仲忠は一宮の隣に横になると、そっと囁いた。「こういう子がまた欲しいな。今度は男の子がいいな。この子はあなたに良く似ているから、今度は僕に良く似た」「…何を言っているの。こんな怖いことまたさせようって言うの?」 一宮はお産の苦しみを思うと、しばらくはこんなことはこりごりだと思う。 そう彼女は、初めての体験に既にへとへとだったのだ。 確かに尚侍の琴で元気にはなった。だがそれはあくまで一時的なもので、長い妊娠期間の間だの疲れが取れた訳ではない。 全く男のひとというものは。 呆れた様に一宮は夫を見る。すると既に仲忠はすうすうと眠ってしまっていた。 確かに疲れていたのだろう。気を張ってずっと出産を待っていたのだから。それ以前もひたすら彼女の身を気遣って、世話の殆どをしてきたのだから。 彼女は少し前のことを思い出す。「さすがにそこまではしないわよ」 と、やはり妊娠中だった今宮も驚いた程だ。「じゃあ、あなたの涼さまはどうなの?」「普通よ。いたわってはくれるけど、それ以上のことはないし。ああただ物語本とか今までよりねだると沢山持ってきてくれるわ」 結構愛されてるじゃない、と一宮は思ったものだ。今宮の好きなものを良く知っている。彼女のことを良く知ろうとした上での計らいだ。 だが仲忠のそれはやや違う。 仲忠が妊娠中の一宮に熱心に尽くしたのは、確かに愛情かもしれない。だが一宮の気持ちを考えたものではない。「そんな苦そうなもの」「そうは言ってもね、身体にいいんだから」 そういう言葉で食べさせられたものがどれだけあったろう。実際それで身体の調子が良くなったことはあったが、何となく一宮は首をひねる部分もあるのだ。自己満足じゃないか、と。 だからと言って彼が嫌いになるという訳ではない。人目をわきまえない程のあからさまな喜びなどは可愛らしいものだと思う。 ただ、もう少し自分の気持ちになってもみろ、と思いたくなるのだ。 二番目の子はもう少し後がいいわ。それまでは私とこの子に彼の気の済むまで尽くしてもらおう。 彼女はとりあえずそれで心の折り合いをつけた。 隣では夫が、実に心地よさそうに眠っている。 やがて寝所の西方にあたる母屋に設けられた御座所に、大宮や妹の宮達が集まってくる。皆姉の子がどんなに可愛らしいのか、少女らしい思いをめぐらせている。 一方、西の廂に尚侍の控えの間として設けた部屋には、兼雅がやってきた。お産の様子や、その時の仲忠のうろたえ方などを話すと、兼雅は大きな声で笑った。 ちなみに尚侍の元には大人十人、童と下仕えが四人づつ控えている。彼女の召し上がり物は正頼方から出された。琴セット入門用(9点セット)
2018.01.05
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その三の一 女一宮出産、大きな可愛い赤子の誕生に仲忠思わず琴を弾く やがて産み月も近づいて来て、母である仁寿殿女御が帝に退出を願い出た。 帝は問う。「いつが産み月なのだ?」「十月頃ですわ」「おお、では行くが良い。あなたは前々から身籠もったひとを何かと看護してきたからね。一宮の様子はどうだね」「はい、何も御案じなさることはございません。何でも仲忠どのがもう一宮の懐妊以来、ずっと外にも出ずに付き添っているということです。仲忠どのだけではありません。誰も彼もが大切にしてくれるとのことです」「うーん、そう言えば一宮の顔も久しく見ていないな。どの様になっただろう。また人妻となって、変わったかな。仲忠と一緒に並んでも似合いの夫婦に見えたがね」「よその方の目にはどう映るかは判りませんが、それでもまあだいたい合っているのではないでしょうか?」 ふふ、と女御は扇を口元にあて、笑う。「前に宮と会った時にも、髪ももう長くなって、袿に余っているくらいでしたわ。姿も決して衰えたりしてはおりません」 そうか、と満足気に帝はうなづく。「女二宮はどうかね?」「あちらも帝によく似ておりますのよ。可愛らしいですわ。まだ少々小さいですが、一宮にも劣らないでしょう。そうそう、どちらかというと、一宮よりはふっくらしてますわね。親しみやすい感じですわ」「うーむ。やっぱり場所柄かね」「場所、ですか?」 女御は小首を傾げる。「ああ。娘を沢山育てている正頼の館であるから、そなたの生んだ娘達は、他の子とは違うのだろうね」 恐れ入ります、と女御は父を誉められたことに対して恐縮する。「では安産である様に、私も祈っているよ。思うままに大勢の御子を安産してそなたに一宮があやかることを」 はい、と女御は大きくうなづいた。* その様にして女御は三条殿に退出するとすぐに、一宮と仲忠の暮らす中の大殿へと向かった。「お母様!」 気付いた一宮はぱっと顔を上げると、嬉しそうに目を細める。「あらあらまあまあ、ずいぶん痩せてしまって… 大丈夫? お父上の帝がずいぶんと心配していらっしゃいましたよ」「大丈夫ですわお母様。ただちょっと夏の暑さが堪えたから」「そう。痩せても何でも元気ならいいですけど…」 そのまま、顔をよく見せて、と側に寄る。ああ美しくなった、と女御は感心する。それはまるで、美しく盛りの桜の花が朝露に濡れている様を思わせた。髪は、磨きをかけた様につやつやと輝き、豊かなそれが揺れる様子は、玉が光るかと思われた。 赤い唐綾の表着を一襲身につけ、脇息にもたれかかる姿は、あの藤壺にいる妹に勝るとも劣らないだろう、と女御は思う。「仲忠どのとはどう?」「お母様聞いて下さいな」 何か不都合なことでもあったのだろうか、とふと母は不安になる。「さすがにこう毎日毎日ずっとべったりでは、私も疲れてしまいますわ。時々遊びにでも出掛けてもらわないと」「また贅沢な悩みね!」 くすくす、と女御は笑う。「冗談です。あのひとはともかく私が心配なのです。それでずっと何かと世話をしてくれるの。食事の用意もだけど、このままだと何か、お産の時にも付き添って来られそうな勢いよ」「あらあらあら、それはさすがに駄目ですよ。確かにそこまで思ってもらえるのはとても嬉しいことだけど、男性の方は産屋には入ってはなりません。その位のことは、仲忠どのもご存知でしょう」「そうでしょうか。知ってはいても、それどころじゃあない、とばかりに入ってきそうな勢いですわよ」 半ば面白がっている様に、一宮は母に向かって話す。「でもそれじゃあさすがにまずいですよ。宜しい、私がそのあたりはあのかたに話しましょう」「お母様、わざわざそこまでなさらなくとも、一つ私に考えがあるのですけど」「なぁに?」 耳を貸してね、と娘は母を招き寄せる。女御はそっと娘に近づく。「…ああ成る程。それなら仲忠どのも安心なさるわね、きっと」 そうでしょう、と一宮は笑った。「ああそれと、今宮のことも忘れないでね。涼さまが何かと準備をさせているとのことだけど、皆一宮のことで手一杯で」「妊婦さんが余計な心配をするのではないですよ。抜け毛が多くなっても困るでしょ」* やがて産屋が三条殿に作られる。 白い綾をはじめ、手回り道具を全て白一色の銀に替える準備がされる。 産み月の二月ほど前から不断の修法をさせ、万の神仏に祈りを捧げる。 さすがにこの頃になると、仲忠も「させておけ」という気分になっているのか、ただもう一宮の近くで心配そうにしているだけであった。* そしてとうとう十月二十日に、一宮は産気づいて苦しみ始めた。 東宮の宮達が生まれた時に使った場所をその時同様に産室として用意し、一宮はそこに移される。「どうですか、一宮さまのご様子は」「母上」 五台の車を使って、仲忠の母尚侍も手伝いにやってきた。仲忠は母を車から下ろし、一宮の居る寝所の中へと案内する。 祖母である大宮もやって来るが、臨時の居間を別に据えて、寝所には入らない。 仁寿殿女御はやってきた尚侍の訪れを嬉しく思ってこう言った。「相撲の節会以来ですわね。何もご遠慮は要りませんわ」 尚侍もそれを聞いて嬉しく思い、結局二人だけで産婦の世話をすることとなる。「痛みますか? 宮」「…それほどではないけど… でも、…でも、怖い!」 それは当然だろう、と二人の母は顔を見合わせる。何と言っても初めての体験なのだ。 外には仲忠の父、右大将兼雅もやって来る。館の主人である正頼やその子息達は簀子で悪霊などが取り付かないように、弓弦を打ちながら控えている。 それよりやや内側、格子の内の廂には一宮の兄弟達が、そして仲忠は寝所の前でやはり弓を引いている。 内裏の帝からは一宮の無事を訊ねる使いが何度も往復する。藤壺のあて宮からも使いがあった。 三条殿ではこの辺りに他の女君達の婿達が来ない様に、邸内の他の町と間、中門には鎖をさしている。 その様に皆が緊張して待っている中、寅の刻の頃に、産声が周囲に響きわたった。 慌てた仲忠は、ばっと寝所の帷子を掻き上げ、問いかける。「…み、宮! 女の子ですか、男の子ですか!?」「何です仲忠、いきなり! 失礼ですよ!」 尚侍の叱責が飛ぶ。そのまま彼女は女御の陰に隠れてしまう。 仲忠はそんな母の言葉には構わず、女御が妻の世話をしているのを眺める。一宮は母にもたれかかり、ほっとした表情になっている。 母女御は白い綾の装束に、髪を耳挟みにして、甲斐甲斐しく娘を支えている。その様子は実に落ち着いて頼もしいものであると同時に、気高く愛らしいところがあって、非常に美しいものである。 一方の尚侍もまた同じ白い装束で、女御に劣らず美しく立派な様子である。「一宮は如何ですか?」 女御はその問いかけの意味を察したのか、即座にこう答える。「まだお腹にものが残っております。でも大丈夫」 その言葉通り、後産もすぐ無事済んだ。その様子を仲忠はじりじりとしながら見守っている。 全てがすっかり終わってしまった時、ようやく尚侍は息子に向かって言う。「夜目にもはっきり判りますよ。女の子です」 ぱあっ、と仲忠の顔が輝いた。「本当ですか」「ええ。すぐにお目にかかれますよ」 彼は思わず、その場に立ち上がり、万歳楽まんざいらくを踊り始めた。 繰り返し繰り返し舞うその姿に、一宮の兄、弾正宮が大笑いする。そしてそれを合図の様に、兄弟達もその舞いの曲を高麗笛で吹き始めた。「何事ですか」 笛の高い音に驚き、簀子で控える正頼が問いかける。弾正宮はそれにはさらりと答える。「仲忠が高麗舞をしたので、我々はそれに合わせただけです」「…それだけですか?」 兼雅が実に物足りなさそうに問いかけたので、周囲がわっと湧いた。 起こっていることの意味を察した正頼は仲忠に向かって笑いながら言う。「万歳楽は舞い果てるのが良いのだ。途中で止してはならないぞ」 仲忠もそれには異存は無かったのだろう。再び立つと、これ以上は出来ないだろう、という程の妙技を尽くして舞い果てた。 正頼は仲忠に、鶴の浮紋のある織物の直衣を被ける。仲忠はまたそれを受け取りながら、拝舞をする。 そうしている内に、寝所の中ではまた少し変化があった様で、尚侍が仲忠を差し招いた。「誰か来て下さいな。へその緒を切らなくてはなりません」「ああ母上、何が僕にできる? 誰にでもできることなら僕にもできるけど。あ」 仲忠の視線が切られたへその緒に向かう。「これはこれはまた、ずいぶんと見苦しい蝸牛だ。ええと、母上、何が入り用なのですか?」 跪いて仲忠は問いかける。「あなたの下に履いているものを一つ下さいな」「え、これを?」「早く」「え、ええ…」 驚きながらも彼は穿いていた指貫さしぬきを脱いで母に差し出す。「いいえ、もう一枚」「もう一枚ですか?」「ええ必要なの」 母の笑顔が厳しい。仲忠は指貫の下に穿いていた表袴をも脱ぎ、「長生きをする様に」と祝いの言葉と共に母に渡した。 仲忠はその足で、あて宮の皇子達の住む場所の方へ向かった。代わりの袴等を調達しなくてはならないのだ。 御衣桁みぞかけへと立ち寄ると、そこに控えていた女房達がどっと笑った。「色々と大変な夜でね」 仲忠は半ば照れ隠しの様に女房達に言い、代わりのものを頼んだ。あて宮の使いでこの日やって来ていた孫王の君は、そんな彼に向かい、くす、と笑う。「大変な夜だからこそ、立ち走りやすい格好にさせられたのでしょう」 意地悪、と仲忠は彼女につぶやきながら、代わりの袴や指貫を身につける。 そうこうしているうちに、尚侍が生まれたばかりの赤子を綺麗に拭いて、切り立てのへその緒を袴に包む。 そしてようやく赤子を抱く。 その様子を気取った仲忠は、一宮の寝所の側に跪いた。「まず僕に抱かせて下さいな」 まあ、と尚侍は驚いた声を出す。「そんなことできますか。どうして外に出られましょう? 判らないひとね」 そこで仲忠は帷子かたびらをかぶる様にして、上半身を中に差し入れる。「…あ、大きい…」「でしょう?」 女御もそう言って微笑む。「大きくて――― 首も太くて… 子犬の様にしっかりして… ―――うん、可愛らしい子犬みたいだ」「まあ」 くすくす、と尚侍は笑う。「でも可愛い。本当、可愛い」「ええ全く。こんな、生まれたばかりで可愛らしい子は滅多にありませんことよ」 幾人もの子を生んだ女御は自信を持ってそう言う。「ああ… でもこんなに大きい子だったからこそ、一宮、あなたがこんなに苦しんだんだね。ありがとう、本当にありがとう」 そう言いながら彼は赤子を懐に入れた。 やがてその様子を見た正頼が、自分にも抱かせてくれ、と寄って来る。「すみません。今は誰にもお見せできません」「おやおや」 困った奴だ、と正頼は思う。何はともあれ自分はその子の祖父なのに、と。 だがすみません、とそれでも照れ臭そうに笑う仲忠の姿があまりにも可愛らしかったので、まあいいか、と思うことにした。「今から誰にも見せないつもりなのだな。大変な姫君だ!」 仲忠はともかく手の中の赤子をいつまでも離さない。「珍しいの? そんなに」「うん… それだけじゃないよ。母上。うん、とっても――― とっても、…」 仲忠は言葉に詰まる。どう言っていいのか判らない様だった。尚侍は驚く。 一方一宮はほんのりと笑う。よかった、と思う。仲忠があんな表情を見せてくれるなら、甲斐があったと思う。「母上、あの『りゅうかく風』をこの子のお守りにしてはいけませんか?」 それを聞くと尚侍は明るく笑った。「まあ、すぐにでもこの子が弾ける様になるようなことを言うのね。それにしてもこんな所でも琴! もっと他に言うこともあるでしょう?」「…こういう時だから、言うのです、母上。あの琴の声がする所には、天人が舞い降りて来ると言うから… 生まれた子には、何よりもの贈り物だと」「そうね。急いでうちの方へ取りにやらせればいいわ」 仲忠は慌てて館の方へと使いをやる。「ほら仲忠、君のご所望のものだ」 使いから弾正宮が受け取り、仲忠へと渡す。彼はまだ赤子を懐に入れたままで、唐刺繍の袋を受け取ると、すぐに取り出す。「…ああ、ようやくこれを渡すべき子ができた。―――後々がどうなってもいい、今、僕が託すべき子ができたんだ!」 つぶやくと彼は早速、「ほうしょう」という曲を弾き始める。 仲忠の引く琴の手は、派手に賑やかだが、一方しんみりとしたものもあり、聞く者皆がぐいぐいと惹きつけられる様なところがあった。 さしづめそれは、あらゆる楽器と琴を調べ合わせた様な大きな音の様なものだ。間近で近くで聴くよりは、遠くで響きを楽しむ方が心地よい様な。 そんな音が響きわたったのだ。 この日邸内に住む婿達皇子達は、やった、とばかりに手を叩いて喜んだ。「聴きましたか?」「ええ聴きました。あれはまさしく、仲忠の琴ですよ」「あの滅多に聴くことができない!」「帝の命でも動くことが無い仲忠の!」「皆お聴きなさい、きっとお祝いごとがあったのですよ」「ああ何で我々は気付かなかったんだろう」「そうだ、こんなことをしちゃいられない。側で聴かなくては」「おお、行きましょう」「行きましょう」 とか何とか言いつつ、眠っていた者も起き出して、皆慌てて近くへ行こうと支度をする。 ある者は履き物も穿かず、ある者は着物もちゃんとしないまま、慌てて一宮の産所の前に当たる東の簀子へと集合した。 その大勢が立つ様子ときたら、木を並べて植えたかの如くだった。【お取り寄せ商品 ゆうパケットで送料無料 アウトレット】 舞扇子 1214・藤( 踊り 稽古 日舞 日本舞踊 新舞踊 歌謡舞踊 民謡 舞台 民踊 ダンス 祭り よさこい 演劇 着物 おどり 飾り せんす 踊り扇子 小道具 )
2018.01.05
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その二の二の一 蔵を開けたらお宝が 四、五日後、兼雅邸の家司がやってきて、幄あげばりを拵えた。 やがて大徳だいとこや陰陽師などもやってきて、読経やお祓いをす始めた。 老夫婦とその孫達はその様子をぽかんとして見ていた。 そしてそのうちに、彼らにしてみれば、目の覚める様な素晴らしい殿――― 仲忠が、やってきた。 前駆けや供人を大勢と、蔵を開けさせる者と共に。* 「駄目です。さっぱり」 供人達が次々に仲忠に報告をしていく。「もう何日も陰陽師には祭文を読ませ、大徳にはお経をあげさせましたが、まるで変化はありません」「職人達も皆何とかして錠を開けようとしていますが、何と言いましても、鍵が無いので…」「鍵か…」 ふむ、と仲忠は首を傾げた。「そのまま続けてくれ。僕はちょっと行くところがある」 仲忠さま、と供人が止める間もなく、彼は側にあった馬に乗ると、一人駆け出していった。* やがて彼が戻ると、供人は青ざめた顔で彼に報告する。「何処へ行ってらしたのですか! …大変だったのですよ…」「ちょっと三条の母上の所へ。で、何がどうしたって?」 呑気な顔の主人に、供人達は低い声で返す。「先程、錠を開けようとした者が、怪我をしまして…」 何、と仲忠はその怪我人の元へと向かう。青ざめ、腕から血をだらだらと流している様に仲忠は顔をしかめた。「大丈夫か?」「ああ殿、はい、どうしてもこの錠が開かないので、いっそ壊そうとしたのですが、どうにも堅すぎて…」 見ると、そばに壊れた道具が転がっている。なるほど、と仲忠はうなづく。 そして次に、周囲の者が驚く程大きな声で、蔵に向かい、こう言い放った。「この蔵は、承るところによると、我が先祖の所有である! 御封にはその御名が彫ってある! この世では我を置いて子孫は無い! 母も居るがこれは女である。どうか御先祖の霊よ、この蔵を開けさせ給え!」 よく通る声が、周囲の者達全ての耳に飛び込む。 彼らは仲忠の幼少時の奇跡、そして神泉苑での琴のことも聞いている。 もしかしたら、という期待が彼らの中に高まった。「僕が行ってみる」 仲忠は蔵の扉へと近づこうとする。だが怪我をした職人が駄目だ、と叫ぶ。「あの錠は駄目です。どうしても開きません。私の様な者はともかく、あなた様に何かのことがあったら…」「僕なら大丈夫」 そう言うと仲忠は周囲に微笑みかけた。その顔に周囲の者は思わず何も言えなくなる。ここは身体を呈しても止めなくてはならないのに。 だがその一方で、このひとならやってくれるかもしれない、という奇妙な予感が彼らの中にはあった。 仲忠は蔵へと上ると、錠を確かめる様にしてじっと見た。確かに頑丈だ、と彼はつぶやく。 そのまま身体全体で覆う様にし、何やら一心に祈り始める。 供人も、大徳や陰陽師達も、固唾を呑んで見守る。 と。「…開いた」 仲忠の声が周囲に響く。「あ、開いた!?」「若様!」「開いたよ、皆」 そう言って、彼自身の手で、大きく蔵の扉を開いた。「きっと御先祖の霊が、僕を守ってくれたんだね」「そうです、きっとそう… しかし仲忠さま、何と危険な…」「でもこうやって開いたじゃない」 そうは言われても、と供人は皆ぶつぶつとつぶやく。「さて、僕はしばらくこの中を調べようと思うんだ。そなた達は、一生懸命やってくれた者達に充分な礼をして返してやってくれ」「幄の方はどう致しましょうか」「片付けておくれ。それと、今日は三条の方へ戻るから、と伝えておいてくれないか」 は、と供人は言われた通りに動く。 仲忠はそのまま古い蔵へと入って行く。 すると中にもう一つ「文殿」と書かれた扉と、やはり厳重に掛けられた錠がある。 彼は懐に隠した手から、小さな鍵を出すと、そっとその錠に差し込む。「…母上のおかげだな」 文殿の中を見る。 机には、五色の糸で編まれた紐のついた美しい帙簀ちすに包まれた書が、沢山積まれていた。 奥の方には、手頃な柱くらいの大きさで、赤い丸いものが積んである。 どうしようか、という様に彼はぐるりと辺りを見渡す。 すると入口の側に「目録」とある書が目に入った。 彼はそれを取ると、元の通りに錠をかけた。「あ、もう宜しいのでございますか?」「うん、だいたい中のことは判ったから、帰るよ」 満足そうな主人の顔に、供人は安心する。* 三条の屋敷に戻ると、彼は早速母の元へと向かった。「…ということなのです」「あなたがいきなり、私にあんなこと言うから、何だと思ったら…」 母尚侍は、くす、と笑った。 鍵は彼女が持っていた。 「なん風」「はし風」という最も大切な二つの琴を納めた袋。それを締める紐の先に付けられた飾り。 それが何なのか、彼には判らなかった。彼女にも判らなかった。 ただ最も大切な琴だから、その二つだけは決して手放さなかった。 長じてから、様々な知識を得た仲忠はそれが何か錠の鍵ではないか、とは気付いていた。 だが何処に使うものなのかまでは。「あなたは祟りを信じなかったの? 話を聞くと、あちこちに屍が転がっていたというのに」 母は苦笑する。「老夫婦は別に、そこで直接錠に触れたから死んだ、という姿を見た訳ではないでしょ。そもそもお祖父様もお祖母様も、亡くなられたのは流行病でしょ。だったら、たまたま病にかかった人達がうじゃうじゃやってきて、そこで死んだとも限らない。母上はたまたま塗籠に居たので助かったのでしょうね」「確かに私は誰とも顔を合わせない様にしていましたからね。でも、何でも供人達は、あなたがまた奇跡を起こした、と大騒ぎよ」「言わせておけばいいんです」 仲忠はそう言って笑った。 * 蔵騒ぎが落ち着いてから、仲忠は持ち帰った目録を母の前で開いた。「やあ、これはなかなか凄いものが入っていますよ、母上」「凄いもの?」「漢詩・漢書・和書は勿論、唐土にもそうそう今では見られない宝物まで入っている様です」 まあ、と母は驚き、口に手を当てる。「ええと、医師書くすしぶみ、陰陽師書、人相に関する書、それに妊娠してお産する時の心得や、その手当の方法などという貴重な書も入っている様です」「それはまた、凄いわ。父上はそんな貴重なものの在処を私には教えなかったなんて、わざわざ私を困らせようとしたのかしら…」 母は扇を開き、その陰にうつむく。「いえ、お祖父様は賢い方だったそうですから、そんなことは無かったでしょう。何か深いお考えがあったのですよ」「でも…」「それに母上、もし母上がこれらのものをあの頃持っていたとして、どうお使いになりましたか?」「きついことを言うわね、仲忠。確かに私が持っていたなら、今の今まで残っていることは無かったわ。だけど、少しね…」 だったらもっと、娘のその後についても考えておいてくれても良かったのに、と思うのは彼女の我が儘だろうか。「でも結局は全て良い方向に進んできています。あの頃があったから今がある。そうでも思わないことには、僕や母上はやって来れませんでしたし、これからも。そうでしょう? 尚侍どの」「母をからかうのですか。でもまあ仕方ないと言えば仕方ないわ。もう過ぎたことだし。ともかくそれは開けたあなたのものだから、きちんと管理なさいね」「判っております」 大きく仲忠はうなづいた。 * その後、仲忠はこの文殿の保存には、自分の所領である国々の長官の中でも、土木や建築のことを心得ている者に管理を頼むことにした。 対屋一棟を割り当てて、引き受ける義務のある人々に課して、あの荒れ果てた寝殿の周囲の造営を命じた。 土の垣は二、三百人の男達に命じて、その年の内に拵えさせてしまう。 全てがあっという間のことだった。 その様にして荒廃していた京極をすっかり改めて新築すると、かつて周囲に棲んでいた者達も、当時の殿の子孫が立派になられて戻ってきた、とばかりに改めて集ってきた。 ちなみに、仲忠に蔵のことを説明したあの翁と媼は、政所に召して、布や絹などを多く与えられたそうである* その様に家と町作りが進む中、仲忠は蔵の中身を時々持ち出しては、家族への贈り物としている。「あら、いい薫り」 そうでしょう、と仲忠は一宮に向かって笑う。「今度見つけた家の古い蔵の唐櫃に入ってたんだ。一宮、あなたに」「あら嬉しい」 ふふ、とこれも笑顔で一宮は受け取る。「ああいい薫り。きっと御所のあて宮もこんな薫き物は持っていないでしょうね。差し上げればどぉ?」「またそんな意地悪を…」 仲忠はやや頼りなさげな表情になる。何かとこの妻は軽い冗談で、夫を困らせるのだ。 だがそれを夫はむしろ喜んでいることを妻は知っている。知っていて可愛い悪態をつく。 そんな様子を一宮の乳人子は不思議そうな顔で見ている。それが彼らの日常だった。「でも私だけじゃなくて、尚侍さまにも差し上げたの?」「それは勿論。これは我が家の香だもの。あなたと母上にだけだよ。他の誰にも渡さない」 ふふ、と一宮は笑う。 仲忠は結婚以来、一宮を本当に宝物の様に扱う。 それまでは宮中の女房達にはそれなりにお愛想も言ったし、失礼でない程度に相手もしたが、それも全く途絶えている。 周囲は妻になったのが帝の最愛の娘だから、ということで遠慮があるのだろう、と噂する。 それを聞いた彼女は、彼は「女一宮」との結婚で、それまで仕方なしにやってきた煩わしい人間関係から解放されたのではないか、と推測している。 それだけではない。彼は自分をただ大切にするのではなく、何処か甘えている様子が見られる。 彼女が我が儘を言い、それを叶えているのは仲忠である。 だがその我が儘自体、仲忠がそれを望んでいるのだろう、という見込みあってのものだ。 結果として、言いたいことをずけずけという、身分の割には風通しの良い家庭を築きつつあると言って良かった。【なごみ工房】【匂い袋】誰が袖 極品 5個入り [京都][日本製][天然香料][線香][趣味のお香][部屋焚き][ギフト][アロマ][お香][京都][松栄堂][インセンス][白檀][丁字][桂皮][竜脳]
2018.01.04
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その二の一の二 仲忠くんは京極の跡地を訪ねる それから少し経ったある日、仲忠は供人を数人だけ連れて、京極へと出向いた。「…仲忠さま、この辺りですか?」「そのはずだけど」 そういう仲忠の言葉もいまいち心許ない。 かつて住んでいたと思われる場所は、見渡す限り荒れ果てて草、草、草。 周囲には人家もなく、ただぽつんと昔ながらの寝殿が一つ建っているだけだった。「…あれ… かな」 仲忠のつぶやきに供人達は、あれしか無いのでは、と返しながら、近づいて行く。「うわ、凄いな」「すげえ、簀子も廂も格子も無いぜ」「仲忠さまぁ、塗籠ぬりごめまで丸見えですがぁ… 本当にここに昔住んでらしたのですか?」 まあね、と仲忠は答える。「物騒だから、この塗籠の中で暮らしてたはずだよ… 昔も確かに簀子は無かったけど、うーん、ここまで寂れてしまうのかぁ」 半ば呆れた様子で、仲忠も足を進める。 人の手の入らない野は、草の丈をも尋常で無い高さにまで伸ばさせる。 冬の野の、乾いた草をがさがさとかき分け、他に何も無いか、と見渡す。「仲忠さま」 先駆けをしている者が彼に知らせる。「西北の隅に、頑丈そうな大きな蔵がございます」「蔵?」 仲忠は首を傾げる。「そんなものあったかな。母上の敷地の範囲なのかちょっと確かめてみてくれないか」 供人の一人は、周囲を確かめ、大丈夫だ、と報告する。「よし、あの蔵を調べてみよう」 仲忠は供人達をうながした。 うわ、と先に進んだ供人が不意に尻餅をついた。「どうしたんだ」 仲忠は問いかける。「ひ、人の骨が…」「人の?」 仲忠はひっくり返った供人の居る辺りへと足を進める。 かさかさかさ、と草が乾いた音を立てる。 その足の先、草の倒れた向こうに―――あった。「…確かに骨だね」「仲忠さま! そんな冷静に!」「だって骨は骨だし。…あ、結構あるね」 仲忠さま、と供人達はがさがさとそのまま歩みを進める主人に思わず口を歪めた。それでも何とか主人の踏んだ草の上を獣道の様に進んで行く。 するとそこにはもれなく骨。時にはまだ髪のついている髑髏も落ちている。 供人達が憂鬱な気持ちで進んで行くと、既に仲忠は大きな、頑丈そうな蔵の前に立っていた。「な、仲忠さま」「ねえ、ちょっと皆来てくれないか」 主人の仰せとはあらば。だが良く見ると、何処よりも何よりも、蔵の回りに骨が散乱しているのだ。「な、何でしょう」「開けたいんだけど、開くかなあ」 主人はのんびりした声で問いかけてくる。 供人達は慌てて駆けつける。大きな蔵に似つかわしく、実にがっちりとした錠がかかっていた。「…錠の上に更に金属で封をしてありますねえ。ずいぶんと厳重だ。おや、仲忠さま、何か文字が」 仲忠はその言葉に錠をのぞき込む。 そこには「俊蔭としかげ」と祖父の名が刻まれていた。思わず彼は叫んだ。「そうか、ここはお祖父さまの文庫だったんだ!」「文庫ですか? しかし清原俊蔭どのの文庫だったら、それこそ皆落ちぶれたとなったら手の出し放題、だったのでは…」「うん、僕もそう思ってた。代々学者の家だと言うのに、一枚の書物もなかったからね」「琴についても何かお残しでは」「別に音楽の家では無かったのに、琴があったのも不思議ではあったけど… 琴自体も、十あったと聞くけど、殆ど帝をはじめ、皆さんに差し上げてしまったと聞いてるんだ。だから僕等の手元には殆ど何も残ってなかった」「しかし全く、というのも不思議なものですな」「そう、そのあたりを考える暇もなかったし。よし、開けなくちゃ」 仲忠は大きくうなづき、供人達にその用意をする様に命じ始める。 と。「お止め下され!」 河原の方から、老夫婦が手を上げ、よたよたと進んで来る。 その様子があまりにも必死だったので、仲忠は彼らを供人に連れて来させた。「お願いでございます、偉いお殿さま。ここを一刻も早くお離れ下さいませ!」 老夫婦はそう言って、涙を流して懇願する。「何故その様なことを言うのだ」 供人が問う。「ともかくお離れ下さいませ! その折りに事情を説明致します。この蔵は呪われているのです。多くの人を取り殺した蔵なのです。御覧下さい! この回りに転がった多くの屍を!」「…離れたら事情を説明してくれるのだな」 仲忠は老夫婦に問いかけた。「ええ、ええ! ともかくお離れ下さい! お早く!」 急かされる様にして、仲忠と供人達は、老夫婦の家のある辺りまで引き上げた。「では話してくれるな」 仲忠はそこで膝をつく二人の元に、そっとしゃがみ込んで問いかける。勿体ない、とばかりに更に二人は畏まる。「…かつてこの京極の辺りは、人家も多く、繁盛していた所でした。ところがこの様に、人影もなく滅びてしまって三十年近くになります」 そして彼らは仲忠にその間の話を始めた。「かつてここには、昔、たった一人の子を帝の御命令で唐土に遣わした方の御殿がございました。 しかしその子が帰って来るのを見届けることなく、ご夫婦共々お亡くなりになりました。遣わされた若君が戻ってこられたのは、その後でございます。 その後その若君――― 清原俊蔭さま、というお方でした」 ああ、と供人達は大きくうなづく。それから、と仲忠はうながす。「はい。俊蔭さまはここに非常に清らかに美しいお屋敷をお作りになって住んでいらっしゃいました。 そのうち、姫さまが一人お生まれになりました。 姫さまが小さな時から、ここではこの世では聴くことの出来ない様な微妙な音声楽の声が始終しておりました。それは素晴らしいものでした」 老人はその時のことを思い出したのだろうか、うっとりとした様に目を伏せる。「それを聴くと、気分が良くなり、病気の者も治り、老いたものも若返った気持ちになることから、京中の人々がこの京極の家に集まって、その不思議な音声楽を聴きに来たものです」 それはあり得る、と供人達は思う。仲忠の神泉苑での奇跡を彼らは耳にしていた。「姫さまがお年頃におなりになったので、御門には用心の為か、鎖をして人が通れなくなったのです。 その頃は結婚申し込みの御使いが夜明けになると、家の前にずらりと立ち並んでいたものでした。 しかし文すら受け取ってもらえない者が大半だった様です。その中には帝や皇子、宮、それにあちこちの大臣家からも申し込みがあったと聞いております」「そんな栄えていた家が一体どうして?」 仲忠はあくまで他人事の様に問いかける。はい、と老夫婦は続ける。「それは、俊蔭さまご夫婦がお亡くなりになったからでございます」「…それは」「仲の良いご夫婦だと聞いておりました。 俊蔭さまは奥方さま一人をお守りになり、姫さまと三人、慎ましくも楽しく暮らしてらした様です。 ですがまず奥方さまが病に倒れ、呆気なくお亡くなりになりました。 すると俊蔭さまもそれを追うように… 哀れなのは姫さまの方でした」 そうか、と供人達もその「姫」が誰であるのか気付く。「ご両親を亡くされた姫さまは果たして生きていらっしゃるのかどうなのかねそれすらも判らなくなりました。 するとこのお屋敷自体も、誰かが守るということも無く、加茂の河原に家も無く住む者や、近くの里人がすっかり荒らしてしまい、一、二年で今の様な有様に…」 当時のことを思い出したのか、媼の方が袖を目に当てる。「家の中を打ち壊したり、道具類を盗み取ったりした様ですが、やがてもう何も無いとばかりに、そちらへの狼藉は止みました。そして代わりにそういった者達が目をつけたのが、あの蔵でございます」「では蔵を襲おうとした者は過去には居たのだな」 仲忠は問いかける。はい、と翁が答える。「きっと宝物がたくさんあるだろう、と様々な者達が近づきました。ですが、…」 翁は恐ろしそうにぶるっと身体を奮わせた。「…側に寄った者は、皆すぐに倒れて、…大勢の者が死にました」 うわ、と供人が声を立てた。 それで慌てていたのか、と仲忠は納得する。 翁は更に低い声になって続ける。気のせいか、顔色も悪い。「…それだけではございません。夜になると、人の眼には見えない何者かが馬に乗って警戒の弓弦打ちをしながら、蔵の周囲を回るのです…」「そなた、見たことがあるのか?」 仲忠はそっと問いかける。「おお、そんな恐ろしいことを!」「だがずいぶんと見てきたことの様に話してくれたではないか」「私が見た部分もあります。しかしあの恐ろしい出来事に関しては、もしこの目で見ていたなら、私の命など、とうの昔に尽きていたでしょう。齢百、今の今になるまで生き延びて来られたのは、実にその恐ろしい話を耳にするたびに気を付けてきたからでございます」「しかし、私をよくぞ止めてくれたな」「…この国ではついぞ見ることができない様な素晴らしく美しい方が、祟りなどのために若いお命を散らしてしまう様なことがあったら何とも悲しいことでしょう。ですからこうしてお伝えした次第でございます」「ですが年も年。こうしてぐずぐずと歩くこともままならず…」 媼が続けて言う。 仲忠は二人の様子を暫く眺めていたが、やがて二人の肩に手を置いた。二人は驚いて顔を上げる。「そなた達、よくぞ申してくれた。そうか、ではその祟りとやらのせいで、周囲に人も住まなくなったのだな」「は、はい! 開けようとして倒れた人、どうしても開けてみせる、と意気込んだ者もありましたが、皆駄目でした。いえ、それだけじゃありません。そういう者が出た家は、皆決まって悪いことが起こり、一家全て絶えてしまったのです」「…そうか」 仲忠はつぶやくと、蔵の方を一度見る。そして着ていた袿を一襲脱ぐと、老夫婦に分け与えた。 どういうことか、と二人は驚き、袿と仲忠の顔を交互に見比べた。「二人に少々頼みがあるのだが」「は… はい、何なりと」「これからも先、開ける者があるかもしれない。できたら、でいいのだが、あの寝殿のそばに居て、この蔵にまた同じ様なことをする者が居るか、見張っていてくれないか?」「…そ、それは…」「それと、その蔵の辺り、あまりにも凄いことになっているから、汚れたものや死骸は野辺に捨ててくれまいか?」 頼む、と仲忠は笑い掛けた。* 二人はそのまま住処へと戻ったが、仲忠からもらった袿があまりに素晴らしくて、どうしていいのかさっぱり判らなかった。 何せその袿ときたら、今までに嗅いだことも無い良い香りを放つ、美しい綾の掻練なのである。自分達の手に余る。 どうしたものかと思っている、寺に参詣する人がこの着物を見つけて、多額の金を払って引き取ってくれた。 助かった、と老夫婦は思った。 そこで彼らはその代金を孫達に渡し、仲忠に言われた様に蔵の周囲を綺麗にさせた。【硯石】【宮城県】【雄勝石】すずり石プレート 絆 Φ23cm円形ラフカットプレート 台付 【単品箱なし】【雄勝石】
2018.01.03
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その二の一の一 あまたの人が住みすぎる三条殿 正頼宅の沢山の婿君達はそれぞれ用意された御殿に住みだした。 もっとも、仲忠と藤英以外の彼らには、元々親から譲られたり、自身で手に入れた邸がある。従ってそちらの家にも住みながら、できるだけ通って来るという形を取ることになった。 大概それは広く趣もあり、手回りの道具は勿論、納殿には財宝もある。 さてそうなると、京の都のうち、かなりの部分を正頼の関係者が占める様になってしまった。 一条殿より南、四条より北、壬生二条より東、京極より西には、全くの他人の邸宅というものは無くなってしまったのだ。 その三条殿の今の様子を少し遠くから眺めてみると。 まず東の町。これは大宮三条表にある。 その中の大殿には、女一宮が仲忠と一緒に仲良く暮らしている。 一宮は時々仲忠の前でも琴を弾いたりする様である。 すると「結構上手いじゃないの」と名手である仲忠が軽口を叩く。 一宮はそれに対し「あて宮の側に居たら覚えたのよ」とそれとなくあて宮の名を出してからかったりしている。 東の大殿は、藤壺の御方、あて宮の里となっている。彼女が時々退出する時の御座所である。彼女の生んだ二人の皇子が普段はここで育てられている。 南の大殿は元のまま、仁寿殿女御の里となっている。 北の大殿には大宮と正頼が暮らしている。 次に東南の町。 東の大殿には民部卿実正と、北の方である七の君が住んでいる。 西の大殿には兵部卿宮と、その妻となった十三の君袖宮が。 北東の大殿には左大臣忠雅とその北の方の六の君が。 西南の大殿には大納言忠俊と北の方八の君が。 そして西北の対には、涼と今宮が暮らしている。 ここには仕える人もたいそう多く、また祖父の紀伊守のおかげで実に物も豊富である。 西南の町には、大殿の上腹の子達が住んでいる。 西の隅には中務卿宮と北の方、中の君が。 東の対には平中納言と北の方の十二の君。 また西の隅には頭宰相直正と北の方、三の君。 西北の隅には源中将実頼と北の方、四の君。 東の中の隅には行正と北の方、十一の君。 またあちこちに、大殿の上腹の君達も住んでいる。 その西北の町の一角に、藤英と十四の君・けす宮が暮らしている。 仲忠同様、未だ自邸を持たず、それでいて学者等の訪問者も多い彼にやや広いところを、と宛ったと噂されている。 御帳も立てて、几帳も屏風も新しく整えられたこの辺りは、全ての調度が非常に美しい。 御衣掛には色々の衣が掛かっている。 そんな家に藤英が戻って来る時と言えば、美しい装束に身を包み、車には四十人の供人がついて来る。 大学の衆達は、土に膝をついて彼を迎えるのだ。 彼は集まってくる君達を、宮腹殿腹区別なく、誰にでも漢詩漢文を読ませる。 けす宮との仲はおおむね良好だった。 親子ほどの歳の差はあるのだが、けす宮は歳の割には利発で、そして何と言っても負けず嫌いだった。 そんな彼女に、時々藤英はその日にあったことを話す。 例えば。「今日は東宮さまの所へ参内したところ、兵衛の君を使いにして、あなたの姉君から御言づてがあったよ。命さえあれば、こんな結構な機会にも恵まれるものだね」 「姉君」。すなわちあて宮からである。「そんなに嬉しいの?」 無邪気を装ってけす宮は問いかける。「それは嬉しいでしょう」「ふーん、じゃあ私はこれから毎日あなたに『あめつち』文字一つづつの文を送ることにしようかしら」 と言ったとか言わなかったとか。 その他、三条殿には仁寿殿女御腹の宮も住んで居る。 四宮は左大臣の大君を妻とし、異腹の男の子が一人居る。 六宮は民部卿の大君を。 三宮――― 弾正宮には未だ妻が居ない。 八宮はまだ子供である。 正頼の子息達もあちこちに住んでいる。 太郎忠純は北の方に源氏の娘を迎え、男三人、女一人の子を持っている。 二郎師純の北の方は平中納言の中君。五人の男子が居る。 三郎祐純の北の方のうち、正妻は一世の源氏で、子は二人。また、他に近江守の娘と橘氏の娘も居る。 四郎連純の北の方は式部卿宮の学士の娘で子が三人居る。 五郎顕純の北の方は民部卿宮の娘。 そして宮あこ君と家あこ君は、同じ歳でまだ子供である。 しかしさすがに、これだけの人々が一緒に住んでいるというのは、なかなか狭苦しいものである。 皆、正頼邸で狭苦しくもそれなりに楽しく過ごしてはいたが、いつか自分の家へ妻を引き取って独立しようという者が大半だった。* そんな中、先にも記した通り、仲忠はこの時まだ、自分の家というものを持っていなかった。 その話を女一宮にすると、彼女は首を傾げてこう言った。「でもあなた、昔うつほ住まいする前は何処に住んでいたの?」「あ、そっか」 ぽん、と仲忠は手を叩く。言われてみればそうだった。「忘れちゃったのね。なんて薄情なひと」「いや、昔の家には、何かあまり記憶が無くって」「そういうもの?」「僕が出て行く時、京極の家はもう何もなくて寂れきったところだったから」 でも、と一宮の乳人子が不安気に口を挟む。「大丈夫なのですか? そこは…」「大丈夫って」 仲忠はきょとんとして問い返す。「いくら寂れてしまったとはいえ、そこはまだ仲忠さまと尚侍さまのものなのでしょう? 土地の権利とか、そのまま放っておいて大丈夫なのですか?」 ふむ、と仲忠は持っていた扇を閉じて口に当てる。「そうだね… 権利は大丈夫。まだ母上の元にあるらしい。そうだな、また家を建てようかな。僕は持っていないし」「あらあなた、ここから出るおつもり?」 ずい、と一宮は迫る。「いや、ここは住み心地がいいし、わいわい皆居て楽しいし。でもいつかその、子供とか出来たら手狭になるかもしれないでしょ? その時のこととか」 あら、と一宮の頬が赤らむ。「でもあなたと私の家だったら、父上が近場に用意して下さるって言ってるわ。だからその時に、あなたは私とそっちに引っ越しましょ。京極は遠すぎるもの」「帝が? 一宮、そういう話があるの?」 具体的ではございませんが、と乳人子が口を挟む。「帝は殊の外、一宮さまをお可愛がりでございましたので、いつか御降嫁の折りには、と考えてらした様でございます」「そっか…」 うんうん、と仲忠はうなづく。「確かにそれだったら帝のご意志に背く様なことはしない方がいいね」「あ、嫌ねえ、その言い方」 一宮は大げさに眉をひそめる。「それじゃあこうしよう。京極には家は作る。でもそれは母上に差し上げるってことで」「尚侍さまに?」「うん。元々母上の家な訳だし。あそこは。それにまだ僕自身、母上に尚侍就任のお祝いもしていなかったなあ、と思って」「それがいいわ。でもあなた、いつまで経っても尚侍さまに会わせてくれないじゃないの。こんなご近所なのに」 ぷう、と一宮はふくれる。 「そうなんだよねえ。母上も一宮に会いたい会いたいって言うんだけど。なかなか僕もあちらも色々御公務とか忙しくて」 ふう、と仲忠はため息をつく。「だったらさっさとその機会を作ってよ」「そうだね」 ふふ、と仲忠は笑う。 本当にまあ、とそんな二人の会話を聞いて乳人子は呆れる。 一宮は仲忠には我が儘に徹する、と彼女に言ったが、確かにその様だった。 そしてまた、どうも仲忠はそれを実に楽しんでいる、と。写経セット 5 【 国産硯 三五度 天然硯 】 格調高く、優雅に 9点 『小筆 墨 硯 文鎮 筆置 水滴 写経用紙 下敷き 硯箱』 書道用品 写経用品 【送料無料】 ギフト
2018.01.03
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その一の三 残った縁組の決定と、藤英の恩返し、そして仲頼のこと さてその様に、新右大臣邸で最も重要な婿入りが無事終わった。 そこで正頼と大宮は後の娘達の婿入りに精を出すこととし、調度や仕人も仲忠や涼の時に劣らない様に用意しておく。 だが。「あなた」 大宮は心配そうに夫に訊ねる。「婿君達がこのお話に乗り気で無い様ですけど、どうしましょう?」 今宮の下の姫君達四人に、と打診した者達は「あて宮にふられたばかりですぐにそういう話に飛びつくのは」となかなかいい返事をして来ない。「しかし仲忠や涼にしたって、もともとはあて宮に懸想していた訳なのに、今はあれで幸せそうだ。何とかしてししまえば何とかなるものさ。ともかくもう一度、こっちからも心を尽くした伺いを立ててみよう」 正頼はそう言うと、息子達を呼び出した。「兵部卿宮の元には顕純あきずみ、兼雅どのの所には祐純、平中納言どのの所には兼純、実忠の所には連純つらずみが行ってくれ」 それぞれ多少なりとも彼らに縁のある息子達に文を託すと、正頼は待った。* やがて息子達は、それぞれの成果と被物の女装束を一具携えて戻って来た。 まず顕純が戻って来て報告する。「兵部卿宮さまはご承諾なさいました。『あて宮が入内なさってからずっと、思いあまって隠遁してしまいたいと思っていましたが、こういうお話をもらったありがたさに心も静まりましたから、お受けしたい』ということです」 良かった良かった、と思わず正頼は手を叩く。 次に戻ってきたのは兼純だった。「平中納言どのからはこの様に御文を預かって参りました」 早速正頼はそれを開く。「あて宮に申し上げたことが何の役にも絶たなくなってから、魂まで掻き乱されて当惑し悲嘆し、結婚などということも全く忘れていました。その私にこの様にご親切に仰って下さいまして、何とも有り難く、返す返すお礼申し上げます」 よかったこっちも大丈夫だ、と正頼はほっとする。 だがそれ以降の返事は、はかばかしくないものだった。 祐純は苦笑しながらこう報告した。「右大将どのはこうおっしゃいました。『あて宮がまだ小さい頃から、妻にと思って消息しておりましたが、入内してまだ間もないのに、他の女君に心を向けたとお聞きになったら、本当に可哀想です』とのことです。でも父上…」 ちら、と祐純は正頼を見る。「相撲の節会の時に新しく尚侍になった方がいらっしゃるのです。元々何かの間違いだったと思った方が」 そうだな、と正頼も答える。 実際彼は「三条の北の方」がどういう女性か知らなかったから娘を勧めてみたのだ。だがあの尚侍では。彼は思う。残りのどの娘でも太刀打ちできないだろう、と。「ではまあ、兼雅どのの代わりはまた考えるとしよう。…ところで、実忠の所へ行った連純はまだかね?」 さあ、と兄弟達は顔を見合わせる。「そう言えば遅いですね」「…最近はもうずっと隠りっきりだと聞きますしねえ」 果たして、連純が戻ってきたのは、その翌日だった。「只今戻りました」「おお、それでどうだったね」 はい、と連純は話し出した。「実忠どのは、父上からの御文を読むと、もう涙をぽろぽろとこぼされて、すぐには物をおっしゃることもできませんでした」 その後はこの様な有様だったと言う。 連純は実忠に、妹の方を、という事情を詳しく話した。実忠の強い思いは通じていた、だからこそ彼にはできれば大宮腹の姫を差し上げたい、と。 すると実忠はしばらくためらっていたが、やがてこう話し出したという。「…今はもう、私など誰からも必要とされない者となっております。いたずら人です。宮仕えもせず、外歩きもせず、また訪れる人も無く、誰かと会うこともこうして稀になってしまいました。いつか世の中を心許なく思っている様な者となってしまったというのに、殿のその様な御文が…」 そう言って実忠は涙を流した。「一体前世にどの様な宿縁があったのでしょうか、あて宮に思いをかけてからというもの、生涯を共にしようと誓った妻や、可愛い子供がどうなってしまったのかも構わなくなってしまい、もう自分の心が自分でもどうにもならなくなってしまいました。そんな自分ですから、あて宮が御入内された後は、もう生きる気力も無く、どうしていいのか判らなくなって、こうして山里に引きこもっていました。親の顔を見るのも辛く、世間のことにも関わらず、…あ、ご結婚やご昇進のこともあったのですね、お悦び申し上げます。こんな言い方で何ですが。今日明日にも出家しようと思っていた次第の矢先、こうしてご訪問をいただけ、しかも殿からこんな丁重な御文を… でも私はもう不用の者でございます」 そんな、と言いかけた連純に実忠は最後にこう言ったという。「…こんな風になってしまった私のことを、あて宮がお聞きになってもきっと『可哀想だ』とも仰っては下さらないのだけが大変辛いのです」 連純は少しばかり呆れた、と正頼に向かってぼやいた。 その後実忠は大宮に返事の文を書きだした。「誠に私こと心許ないくらい疎遠になりましたのを、お詫び申し上げなくてはなりません。 それなのに却ってたいそう有り難いお言葉を頂き、恐れ入りました。 この数年来どうしたことでしょう、この世に生きたいとも思ってもいなかったのに、不思議と今まで生き長らえてきましたが、 もうこの上だらだらと生き長らえようとも思いませんので、御目をかけて頂きましても、甲斐の無いことを繰り返しお詫び申し上げます。しかし、 ―――死ぬほどにあて宮を恋い焦がれてきた自分は、たとえ同じ野の花/妹君でも夫としてまみえることは出来ません――― あて宮にお会いしない前でしたら、妹君とも結婚する気持ちもございましたでしょう」 そして連純に何度も杯を交わし、物語などして長い時間引き留めた。出立する時には綾掻練の袿と赤色の唐衣の女装束を一式被物として渡した。 その被物にはこう書き付けが添えられていた。「―――私の染めた紅の袖を、あなたでなくて誰にお見せ致しましょう。恥ずかしくて。/親しいあなただから何一つ隠さず私の悲しみわ打ち明けるのですよ」 それに連純はこう返したという。「―――紅の色は薄くも濃くも染められるから、どうしてそれを思い/愛情の深さ浅さを知る手だてに致しましょう」 その帰りがけに、連純はこの時実忠が暮らしている場所をふっと顧みた。 引きこもっているとはいえ、近くに音羽川が流れ、庭が広く、前栽にも趣がある。音羽山が近くにあり、時雨に色付いた紅葉や、花盛りの秋草が非常に美しい。 その風景をただぼんやりと実忠は眺めている。 一体どうしてこうなってしまったのだろうな、と連純は呆れもするが、やはり胸の痛むものがあったという。 息子の話を聞き終えた正頼は大きくうなづく。「可哀想なことだ。ああ勿体ない。惜しい人物を台無しにしてしまったことだ。父君である太政大臣も残念に思われることだろうな。いつも『実忠を気に掛けてやってくれ』と度々頼まれてはいたのに…」「でもそうすると」 大宮が口を挟む。「二人の姫はどう致しましょう?」「そうだな…」 正頼は考える。他の良い婿がね、そしてあて宮に求婚したことが一度でもある者。「藤英がいい」「…彼ですか?」 大宮の表情がや不安そうなものになる。「あれは優秀だ。今は右大弁だが、すぐに納言や宰相にもなるだろう。右大将の代わりには、そう、行正がいい」「行正どのなら、私も賛成です。では向こうの十一の君を兵部卿宮に、十二の君を平中納言どのに、こっちの袖宮を行正どのに、けす宮を藤英どのに、ということで」「…そのことなのですが」 口を挟んだ女房が居た。「何ですか、突然」「…あの、その話のうち、もしも代わりに行正さまのお名前が上がりそうだったら、一言申し上げたいことがある、と向こうの上さまの御言づてがございました」「向こうの」 大宮と正頼は顔を見合わせる。* 三人がこうやって顔を合わせるのはどれだけぶりだろうか。 同じ屋根の下に居たとしても、正頼とそれぞれの妻、そして妻同士が顔を合わせることはあっても、三人ということはまず無い。 特にこの大殿の上という人は、何ごとも大宮に遠慮する控えめな所がある。この婿取りの問題にしてもそうだった。 自分の腹を痛めた娘のことであっても大宮が主導権が握ることに異論は無かった―――はずだった。「実は、行正どのはこちらの姫と娶せてはいただけないでしょうか」「…それは… 突然どういうことかな。十一か十二の君は、行正と何か約束でも?」「いえ、さすがまだ小さいのですもの。そういうことではありませんわ。ただ」「ただ?」 大宮はその言葉を繰り返す。「行正どのは、顕純の友達で、内裏に出仕しない時には、こちらで休んでいることが多く、私達こちらの者には、皆馴染みとなっていて…」 そう言えば、確かに行正の姿を大宮はあまり見た記憶が無い。 仲純の友であった仲忠や仲頼は良く見たのだが、並び称される彼の姿は。「あの方は、家族も無く、ずっと寂しそうだったので、顕純がこちらへと誘ったのです。それからずっと、私もあのかたのお世話を息子同様して参りました。こちらのあこにしても、近純も皆彼を慕っております。姫にしても、…口には出さないし、まだ幼いとは言っても、…まんざらでは無い様です」 大宮と正頼は顔を見合わせる。「ですので、私は彼を… こちらの婿として迎えたいのです。本当に家族として、迎えたいのです… 駄目でしょうか?」 正頼はうなった。 駄目、という理由は特には無かった。 元々兼雅の代わりの有望な者につながりがあればそれでいいのだ。 それが大宮腹であろうと、大殿の上腹であろうと、彼にとっては格別問題は無い。 正頼は大宮をちら、と見る。「私は構いません」 大宮は言う。そして大殿の上の手を取ると、ふっと涙ぐむ。「そういう事情があるなら、何故もっと早こちらに話して下さらないのですか。水くさいですわ。ええ、では、兵部卿宮に私の袖宮を。十一の君は行正どのに」「…そう言って下さると嬉しいですわ、でも順番が…」「そんなことは。兵部卿宮は私の弟ですから、何とでも言い様もあります。袖宮は私の大事な子、だから弟のあなたにあげると言えば彼もきっと納得しますわ。それより大切なのは、お互いの気持ちですわ!」「あ… ありがとうございます」 女二人でいつの間にか盛り上がっている様に、正頼は唖然として口を挟む隙も無かった。* 結果、婚儀に良い八月が終わる一歩手前、正頼の四人の姫君は、それぞれの婿君を迎えたのだった。 十一の君は行正を。 十二の君は平中納言を。 十三の君、袖宮は兵部卿宮を。 十四の君、けす宮は藤英を。 三日目の所露には四人の婿が全員正頼と対面し、それぞれに常よりも立派な被物をした様は、非常にこの家の富と勢力を感じさせるものだった。 * さてその婿のうち、藤英であるが。 彼はこの時四十才。 右近少将、式部丞、文章博士それに東宮の学士を兼業し、内裏、東宮、そして院の殿上をも許され、彼らの覚えもめでたかった。 ちなみに格別武に秀でている訳ではない彼が少将の役を兼ねているのは、親の代からの敵がある彼に、公から庇護の意味を込めたものだった。 それほど彼は将来を嘱望されているのだ。 さてその藤英はある日、東宮のもとから退出した後、良家の子息十人も混じった大学寮の学生達三十人相手に文などを読んでいた。 そのうちに秀才が四人やってきて、彼らも銜えて物語りなどをする。「そう言えば君は宣旨が下ったのだろう? いつ出立するつもりだ?」 秀才の一人ははい、と答える。「下りました。近い内に都を離れ、任地の方へと向かいたいと思います」「なるべく早く起った方がいいと思うよ」「ところがこの頃忙しくて。史記の講義の方を済ませてから、と仰せられも致しましたし…」「ああ、帝がそうおっしゃられていたなら、まずそちらだろうな。自分のことはそれからにしたまえ」 などと助言を加えたりする。 そんな彼のもとに、ある日あの忠遠ただとおが訪れた。そう、彼が見いだされるきっかけとなった男である。 この時、忠遠は大学寮の判官で、現在の藤英よりずっと低い地位にあった。 藤英は驚き、かつ喜んで彼を迎えた。「どうしたんですか、ずいぶんと久しく顔をお見せにならないから、私は心配しておりましたよ」 すると忠遠は苦笑して、無沙汰を謝る。「何となく、…自分が情けなくて。近頃任官したばかりの人が、幾人か地方へと出立するのに、私は今もって何処へも行かれない… 少しばかり妬ましく、それでいてそんなことを考えている自分が情けなく、何となくあなたの前に出るのが憚られたまです」「そんな!」 藤英は思わず忠遠の両肩を掴んだ。「そんな情けないことを仰らないで下さい。聞いて下さい。先日蔵人に欠員があるというので、その蔵人にあなたはどうか、ということを右大臣どのに推挙致しましたのですよ」「…えっ」「すると大殿は、私にあなたの世話をする気があるのか、と仰ったので、私とあなたの今までのいきさつを詳しくお話致しました。大殿はすぐに奏上しよう、と仰いました。この時の言葉が嘘では無いのなら、―――あなたもこれから成功なさるでしょう」「…しかし、その宮仕えも、運が悪くては…」「そんな風に考えないで下さい。私があなたに受けた恩を忘れているとでも思っているのですか? ええ、公の仕事を忘れてでもここはあなたのために私は奔走すべきでしょう。そうでなくては私はあなたを粗略にしていると思われてしまう。あなたはそう扱われるべき方ではない!」「…あ、有り難う…」 思わず忠遠の目から熱い涙がほとばしる。「もう公からは捨てられたかと思っていた… 私一人ならともかく、年をとった両親や、妻や子のことを思うと…」「仰る通りです。力がありながら世に認められず、人の後について行かなくてはならないことの無念さは、この私がよく判っております!」 ぐっ、と藤英は触れた肩を強く掴む。「大殿と相談致しましょう。そう言えば、長年京で生活なさって、生計の方はどうしておいでになりますか?」「それは…」 忠遠はうつむく。「ええ何も心配することはございません。私は今年の位禄は近江のものを賜りました。まだ取り立てにやっておりませんが、近江守に紹介状をやりましょう。取りにやって、それをお使い下さい」「…でも、あなたが」「私のことなら心配要りません。世話をしなくてはならない人が居るでなし。この身一つなら、特に今困ることも無いので」 さあ、とそのまま彼はすぐに近江守への紹介状を書きだした。 そのまま詩を作ったり酒を呑みかわしたりして、二人はその晩過ごした。 藤英は忠遠が明け方になって帰る時には、綾掻練の袿を一襲に袷の袴をつけて被物として持たせた。* その後、正頼に熱心に頼んだ甲斐があってか、忠遠は蔵人に任じられた。藤英は彼に蔵人の装束を一具送ったり、様々なことで援助してやるのだった。 * この様にして、かつてあて宮に懸想した者達も、人によっては妹君に婿取られ、一緒に住む様になった。 しかしそうなってみると、正頼はそれ以外の懸想人のことも気になった。 特に仲頼に関しては不憫で仕方がなかった。 そこで綾重ねの法服を二つ用意し、宮あこ君を使いにして届けさせた。 その衣の裳には、こう書かれた文が結びつけてあった。「―――元結は不用におなりですが、剃刀はなくてはならない物でしょう」 それを見た仲頼は涙を流し、こう返す。「―――元結が朽ちてしまったほどの涙は今も尽きませんが、その嘆きに沈む私をお忘れなくお訪ねいただき、只今必要な剃刀までお恵み下さる厚いお心を嬉しく存じます」お祝いのおもてなしに。和紙コースター<赤梅>10枚入り
2018.01.02
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その一の二の二 女一宮は仲忠を可愛いと思う さてその結婚生活もしばらくした頃、あて宮から女一宮へ、一通の消息文があった。「お久しぶりでございます。結婚やらそれに伴うことで騒がしくお思いでしょうから、静かになってから、と思っているうちに、とうとう今日になってしまいました。 ―――筑波山の嶺にまでかかっている白雲をあなたが知らずにいらっしゃるとはどうしたことでしょう。/とにかく噂のある仲忠どのにはご注意を――― 私も被害者の一人で、いつでしたか、夕暮れにひどい目に会ったことを思い出しましたわ」 一宮はその文を見て思い切り笑った。その声を聞いて、慌てて近くで書籍をひもといていた仲忠が問いかける。「…何がそんなに可笑しいの?」「い、いえ別に…」 ぷぷぷ、と一宮はなかなか笑いを堪えきれない。 仲忠はその文に謎があるのだな、とばかりに、彼女に近づいた。「何が書いてあるの? 見せて欲しいな」「何でも無いわよ」 ぴしゃん、とはねつける。 一宮は婚礼以来、彼に対してはそういう態度を崩さない。始めが肝心だ、と婚礼直前から意識していたのだ。 見せて、駄目の応酬が二人の間にしばらく続く。周囲の女房達は、二人の無邪気な様にも見える戯れに、ふっと笑みを漏らす。「お願いします。見せて下さいな」 仲忠はとうとう両手を擦りあわせ、拝む様な仕草で頼み込む。「そんなに言うならどうぞ」 ふふ、と笑って一宮は文を渡す。仲忠は開く。「…」「仲忠さま、どぉ?」 くすくす、と一宮は笑う。「…僕がそういうことはしなかったことを、あなた達は知っているというのに…」「あら、そんなこと、判らないわ。とかくこの世は、女がどうこう言っても、男の方の言い募ることには負けてしまうのですから」「怒っているの?」「いーえ」 怒っている訳ではない。一宮は仲忠があて宮には恋してはいなかったことを気付いている。今までの文やら、入内後の対応を見ても判りやすい。「怒らないで」「はいはい。でもちょっとどいて下さいな。あて宮に御返事をしなくちゃ」 するとしょぼん、として仲忠は再び書物に目をやる。 一宮は文を書く準備をさせる。その間も、仲忠はちらちらと一宮の方を気にしている。可愛い、と彼女は思った。 そう、可愛いのだ。 幾つも年上の男を相手にして言うのも何だが、一宮は婚礼以来、仲忠が可愛くて仕方がない。 彼女は元々、人々が賞賛する綺羅綺羅しい彼に惹かれた訳ではない。また機会が無かったので、噂される素晴らしい彼の琴を聞いた訳でもない。 確かにきっかけは綺羅綺羅しかったが、何と言っても彼女は女一宮である。皇女である。自分に釣り合う男、というものを、興味無い素振りの中でも、無意識に推し量っていた。 するといつの間にか、身分やら出世やら、そういう点がどうでもよくなってきた。 そんな折りに、時々仲忠が疲れた様に休んでいる姿を見た。 その時の目が。 何に対しても興味が無い様な、虚ろな目が。 凄く嫌だった。 どうしてそんな目ができるの、と思った。 何もかも恵まれている様に見えるのに。どうしてそんな、疲れた様な。 だが誰かが呼ぶと、すぐににこやかな顔で戻って行く。貼り付けた様な笑顔だ、と彼女は思った。 貴族は確かにそういう表情を得意とするが、それにしては、格差が大きすぎた。 それから何かあると、彼の動作が目に入る様になった。 孫王の君と交渉があることも彼女は知っていた。だから婚礼前に彼女をこっそり呼び寄せた。 乳人子は何故その様なことを、驚いたが、聞きたかったのだ。彼のその瞳の理由を。*「…そう御覧になったのですか…」 孫王の君は一宮の前で、目を伏せた。そして一宮に向かって、深々と頭を下げた。「一宮さま、申し上げて宜しいでしょうか」「言って。孫王の思ったことを、どれだけでもいいから言って」 はい、と孫王の君はうなづく。「仲忠さまは、決して器用ではございません」「そうなの?」「その証拠と言っては何ですが、あの方は私以外には、女房達とも格別関係をお持ちではありません。あの方は、―――女というものを、何処か怖がっておられます」「怖がって? でも孫王――― 孫王は違ったの?」 宮さま、と乳人子は軽く制する。孫王の君は苦笑する。「私はあのかたの、幼なじみなのです」「幼なじみ?」 それは初耳だった。乳人子も知らない、とばかりに首を横に振る。「それも、ずっと忘れておりました」「忘れて」「私は悪い女です。馬鹿な女です。私があの方に、宮さまとのご結婚が決まったなら、もうお付き合いは止めようと言い出した時、あの方の口から明かされました。私が気付いていなかったから」「どういう…」「宮さまのお耳に入れていい類の話ではございません。ただ、私は当時まだ、上野宮の父の元におりました。小さな頃のあの方に私は、少しだけ援助をしたことがある―――それだけのことです」 あとは察してくれ、とばかりに孫王の君は言葉を濁した。*「僕はずっとあなたが好きだった、孫王の君」 仲忠は最後の夜、確かにそう言った。「あなたしか、あの僕に、何の見返りも無く優しくしてくれたひとはなかった。あんなぼろぼろの格好の、汚い子供の僕を抱きしめてくれるひとは居なかったんだ」 そう言って仲忠は、孫王の君をぎゅうぎゅうと苦しくなる程に抱きしめた。「だけどあなたまで、僕を見捨てるんだ」「お見捨てなどしません」「だって僕から逃げようとしているじゃないいか」「私もあなた様のことはとてもお慕いしております。けど」 けど? と仲忠はすがる様な目で、彼女を見た。 そして絞り出す様な声でこう言った。「…僕を捨てないで」 母上の様に、と聞こえるか聞こえないか位の声で言った気がした。*「あの方は、私に自分だけ、というものを求めていらっしゃったのです」「それはできなかったの?」「私はあて宮さまにお仕えする身です」 一宮は眉を寄せる。「それと一体」「あて宮さまもまた、仲忠さまと良く似てらっしゃいます」「あて宮が?」「お二人とも、本当のお気持ちを言える相手が殆どいらっしゃらない」「兵衛は―――」 あて宮の乳人子が兵衛である。「兵衛さんはいい方です。でも優しいひとです。そして宮中は、後宮は怖い所です。時々兵衛さん自身が、疲れ果ててしまう程に」「そんな」「それに仲忠さまは、男の方ですから、男のお友達であったり… 何かと気晴らしなさる術もあるでしょうが、藤壺の御方はそうは」「だってあて宮は、東宮さまに、誰よりも愛されているじゃない!」 思わず一宮は身体を乗り出す。「そう見えるわ、もう露骨にそう見えるじゃないの! 誰よりも足繁く呼ばれているって聞くわ。退出をすぐに許さない程だ、とか退出してもすぐに帰るように、って文が毎日何通も来てたじゃない」 それは一宮も知っている。祖父正頼は、東宮さまのご寵愛が深いおかげだ、とどれだけ嬉しがっていたことだろう。「その辺りは、私ごときには伺い知れません。あて宮さまが、東宮さまをどうお思いになっていらっしゃるか――― ただ、もしそうであったとしても、…」 孫王の君は言葉を切る。何かを探す様に、視線は宙を彷徨う。「私は、女房です。誰かの一人の妻であるより、あて宮さまの女房で居たいと思うのです」「仲忠さまを捨ててでも」「はい」 きっぱりとした声だった。「あの方には、私の様な立場の弱い者がすがりながら支える様なものでは駄目なのです。私では、あの方をどんどん駄目にしてしまうだけです。でも宮さま」 顔を上げる。「仲忠さまは、自分をきつくきつく縛ってくれる様な方が欲しいのです」「殿方は自由でいたがるというけど」 いいえ、と孫王の君はきっぱりと言い放つ。「仲忠さまは、違います」 一宮は、最初の夜から、何となく孫王の君の言うことが判った様な気がした。 あれほど余裕のある公達に見えたのに、自分におそるおそる触れてきた。 怖がるのは、恥ずかしがるのは自分のはずなのに、何故かそれどころでは無くなってしまった。 そして、彼女はその時初めて、仲忠を可愛いと思ったのだ。【特殊紙】まんだら(美濃和紙) 薄口(0.12mm) 選べる108色 (な〜わ行)【ファンシーペーパー 印刷用紙 平らな紙 美濃 和紙 曼陀羅】
2018.01.01
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その一の二の一 今宮、婚礼の夜にどきどきする 二人の結婚三日目と昇進の祝宴とが同時に行われることとなった。 仲忠は靱負ゆげいの君を使いにして、女一宮にこう伝えさせた。「只今退出しました。昇進の悦なども申し上げたいと思いますが、お出で下さいますか」 すると一宮からはこう返事があった。「お悦びは私も嬉しくお祝い申し上げます。只今気分が悪くて…」「いつもこんな風にばかり仰るつもりなんだろうなあ」 仲忠はつぶやき、まあいいやとばかりに太政大臣の大饗の所に、左右大臣と一緒に出向いた。*「…背の君に、ああおっしゃって宜しいのですか?」 乳人子が、仲忠への返事を見て驚く。いいのよ、と女一宮は返す。「だってあの方、誰もがはいはいと言うのなんて、慣れてる様だもの。それで私も同じ様にはいはいと従うなんて嫌ぁよ」「宮さま…」 はあ、と乳人子はため息をつく。 実際、一日目と二日目の寝所の中で、どんなことを二人が話し合ったのかまでは、さすがに乳人子も判らない。 ただ、仲忠が帰る時に、どうも奇妙な表情であった様な記憶がある。「宮さま、何か妙なことを仰ったのでは無いですよね」 乳人子は翌朝、気怠そうな一宮に問いかけた。くすくす、と笑って一宮は何も、と答えた。 その笑みの中に、乳人子はそれまでの一宮と違う様なものを見た気がした。* 一方、涼の方でもくすくす笑いは存在した。 だがそれは、今宮ではなく涼の表情の上に生まれたものだった。 暗がりの中で、最初に逢った今宮は、涼の知っているどの女よりも華奢だった。 いくら普段姫君らしくなく、どたどたと館中を走り回っているとしても、所詮は十五かそこらの少女なのである。 それにしても。 涼は思い出せばくすくすと笑わずにはいられない。 思った通り、彼女があの「女房」だった。 最初は普段、姫君用の言葉を耳に囁き込んだ。だがしばらくして、今宮は「やめて」とばかりに彼を突き放した。 どうしたのか、と問いかけると、彼女は慌てて御免なさい、と言った。「どうしても、そういう言葉はむずむずするから…」 ぷっ、と涼は吹き出した。「ではどういう言葉なら、あなたは楽しんでくれるのかな」「…え、ええと…」 どうしようどうしようとばかりに、彼女は起きあがり、あちこちを見渡している様子だった。 その度に豊かな髪が踊った。 涼はその髪を手に取った。 光が少ない中ではさほどには判らない。 それでも良く知る「姫君」特有の、冷たいつやつやとしたそれとは違う様に思われる。 むしろ、ふわふわと、暖かい様な。 髪を探られていることに気付いて彼女は思わず逃げようとする。涼はいやはや、と思いつつ、両手にそれを巻き付ける。「どうして逃げるの?」「だって、その――― 綺麗じゃあないし」「暖かいよ」「暖かい?」「あなたは、海を見たことがある?」「…あるわ」「ではその近くに住む人々を知っている?」「…知らない」「そこでは女達も皆、強い陽の光の下、楽しそうに働くんだ。時には海に潜ったりもする」「嘘」 こちらを向く気配がする。「本当」 そこを捕らえて、引き寄せる。嫌、と少女は微かにもがく。「興味がある?」「え」「海に。浜に」「…外は大好きよ」 だから、そんなに引き留めないで、とばかりに彼女は首を横に振る。だが男の力は、優しい様で強い。「でも、姫君はそうそう出ちゃいけないって言われてるから」「つまらない?」「…!」 今宮は彼がかまをかけていることを確信した。 それまでも薄々気付いてはいたが、彼の言葉は、次第に彼女があの「女房」であることを確信しようとする口調に変わってきていた。「…からかっているの?」「いいえ」「だって、あなた、気付いているんでしょう?」「何を?」「私が―――」「楽しい文を遠くまで送ってくれた女房の君のことはよぉく知っているよ。私は大好きだ」「…だからそれがからかってる、って」「どうしてあなたがそれで怒るの?」「…言わせるの? 私に」「言いたい?」「…」 どんどん、と彼女は涼の腕を、肩を拳で叩く。「ずいぶんと元気なお姫さまだ」「…元気で悪かったわね」「でも私はそういう女性の方が好きなんだ」 くすくす、と涼は笑う。「だって…!」 即座に今宮は切り返す。何、と涼は優しく問い返す。「涼さま、あなた確か、あて宮にも文を差し上げてたじゃない! 私知ってるわ」「確かに。あれは礼儀。でもあなた、見抜いたでしょう? 私が本気じゃあないことを」「…それは」「私は確かにあて宮に懸想する、という催しに参加した様だけど、―――いや、そう言うと、今の藤壺の御方には失礼だけどね。あの方自身に興味は確かに無かったんだ」「嘘」「どうして?」「あて宮に恋しない殿方は居ないわ」「そんなことは無いよ。だいたいどうして会ったことも、文を交わしたことも無い女性を好きになれるのか、私はその方が判らない」「え」「私は都人の様に、噂だけで恋に落ちることができる様な雅やかなひとじゃあないからね。無骨な田舎者だ。だから、ちゃんと何度も何度も文や言葉を交わしたひとじゃないと、嫌なんだ」 つまり、と彼は付け足す。「私はあなただから、宣旨に従ったんだけど。あなたはどう?」 きゃあ、と今宮は思わず声を上げる。両手で自分の頬を包む。「駄目駄目駄目駄目、そんな、その、あの」「そう言われても、もう駄目」 くすくす、と笑って、涼はとうとうこの夜改めて彼女を捕まえた。 * この二つの婚礼には、皆が祝福した。 左右大臣どちらもが彼らのために大饗を行ったが、その儀式はいかにも堂々として、立派なものだった。 さて、新右大臣の正頼の婿君となった彼らであるが。 新中納言となった仲忠は、左衛門督と検非違使別当を兼任し、女一宮の住む中の大殿に住むことになった。 この中の大殿は、かつてあて宮が住んでいた場所である。そこで帝や正頼の特別な配慮でもって、彼ら夫婦は豊かに、何不自由なく暮らすことができた。 一方、もう一人の新中納言である涼は、右衛門督を兼任する。 彼は正頼邸の中では、他の町の大殿に居場所を設えた。 そこに金銀瑠璃、綾錦などを飾り、教典に言うところの七つの宝を山と積み、上から下までの仕人をこれでもかとばかりに飾り立て、非常に豪奢な暮らしをすることとなった。 障子風スクリーン風和璃(ふわり) 幅88×高さ135(cm) HAYATON ロールアップ すだれ 障子風スクリーン
2018.01.01
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その一の一の二 八月十三日が婿取りの日 その仲忠と涼であるが。 周囲は準備準備で騒がしい。 特に仲忠側では、新尚侍となった母が、張り切って支度を進めている。 確かに当初の二日は忍んで通うのだが、それでも決して恥ずかしい格好はさせられない。何と言っても彼が結婚するのは女一宮なのだ。 三日目の披露の日は、おそらくは参内することが求められるだろう。宣旨による結婚なのだから。その際の準備はもう言うまでも無い。 そしてその折には、と尚侍には一つ考えていることがあり――― そちらも平行して進めていた。 涼の側でも、祖父・種松とその妻が、とうとうご結婚だ、と浮かれ騒ぎながら準備を進めていた。 当人達は、そんな騒がしいお互いの家を行き来して、騒がしい周囲の支度をよそに、二人で話し込んだり箏や和琴をかき鳴らしたり、のんびりと構えていた。 * さて、八月十五日が結婚の三日目にあたっていた。 三条殿に二日続けて通った婿達は、この日、唐突に内裏から呼び出された。 予想はしていたので、披露の席に居た仲忠も涼も、その場に居た上達部や皇子達を率いて参上する。「やあ、素晴らしい婿ではないか。こちらへ」 帝はそう言って二人を近くに招き寄せると、話や管弦の遊びを始めさせた。 だが相変わらす楽器に手も付けようとしない二人に、帝は苦笑する。 その様にして時間が過ぎて行く中で、二人の使者がやってきた。 一人は誰あろう、右大将だった。尚侍からだ、ということだった。「そう言えば今日は十五日であったな」 節会の時の約束通り、帝は尚侍が参内するのを半ば諦めつつも待っていた。その祝いの席でもある。ぜひ彼女に琴を弾いてもらいたかった。 自分と尚侍は今更結ばれることは叶わない。琴の家の血を自らつなぐことが出来ない。 だが代わりに、帝は二人それぞれの息子と娘に託そうと考えていたのだ。 兼雅はそんな彼女の使いとして、帝の元に琴を奉った。「これは尚侍も仲忠も、小さな頃から練習してきた琴で『細緒風ほそおふ』というそうです」 兼雅は別に彼女に参内を止めた訳では無い。尚侍自身がそれをしなかったのだ。 そして自分の代わりに、と昔から慣れ親しんだ琴を渡した。「きっと仲忠は今日くらいは弾いてくれるでしょう」 そう笑顔を残して。 もう一人の使いは、種松だった。 種松は直接ではなく、左衛門督を介して琴を帝に奉った。「これは涼の中将の師、弥行いやゆきがかつて唐から持ち帰った『十三風』という琴だそうです」 そんな凄いものが、と帝は驚く。 一方涼も驚いたが、彼の方は「あ、忘れていた」という程度だった。 「十三風」は仲忠の持つ「なん風」や「はし風」とよく似た琴だった。 吹上からわざわざ持ってきたのか、と涼は祖父母の気持ちを嬉しく思う。 と同時に少し面倒だな、とも思う。この先の帝の仰せが予想されるからだ。 二つの素晴らしい琴をそれぞれの宰相中将に渡すと、さあ楽を始める様に、と命じた。 こうなると帝の力の込め様はいつもと違っていた。「おお、御自ら…」 帝自身が楽に合わせ、唱歌を始めていた。 そしてなかなか琴に触れようともしない二人に「遅いではないか。始めよ」と催促する。 二人は顔を見合わせる。 どうする? とばかりに仲忠は困った様な表情で涼を見る。 この際仕方が無いだろう、と涼は苦笑する。 他の浮かれ騒ぎの時ならともかく、この夜の宴は、この二人の婿達のために催されているのだ。 それが当人の本意であろうがなかろうが、主催は帝。その中で祝われた彼らが弾かない訳にはいかなかった。 もっともこの日、二人は決して悪い気分ではなかった。 と言うのも、彼らにとって、二晩通った相手は、どちらもそれなりに好みだったのだ。 華奢な身体を持つ少女達は、どちらにせよ、自分達に好意を抱いていた。純粋な、格別の好意に感じられた。 この先がどうなるか判らないが、下手に熱の入った恋が絡むより、長い付き合いをしていくには良い相手だろう、と二人とも思った。 だからこの時の二人は珍しく、さほど愚図ることも無く、琴に手を触れた。 かつて神泉苑で仲忠が弾いた「なん風」は、あまりに響く音で、人を惑わせたが、「細緒風」の音はそうでもない。高く荘重に、静かに澄んだ音を放ち、人々の心をしんみりとさせた。 仲忠はそれにほっとしている様だった。普段に比べてのびのびと弾いている様だ、と涼には思われた。 「十三風」もそれに合わせる。初めて弾く琴ではないので、彼もその性質は良く知っている。大きく響くことは知っているが、ここではそれを少し控えた。 やがてその場に居る皆が、二人の演奏に涙を流し始めた。 帝もそれに満足して、仲忠に向かって盃を渡し、こう詠んだ。「―――大切に育てた松/女一宮の林に降り立った鶴/仲忠よ、今夜から、林の様に、群鳥の様に、繁栄して幾久しく仲良くしておくれ」 それに仲忠も返す。「―――松陰に並んでいる多くの田鶴もそれぞれ久しく栄えたいと思うことでしょう」 一方、正頼もまた盃を取って、婿となった涼に渡すとこう詠んだ。「―――数の中にも入らない住の江の姫松/今宮を空高く舞う田鶴/涼はどう見るでしょう/お気に召したでしょうか」 すると涼も盃を受け取り、返歌する。「―――姫松には数え切れない程の田鶴が、各々の長い齢を献げることでしょう。その一羽に過ぎない私が、どうして有数の美しい姫を喜ばないことがありましょう」 そしてその後、しばらく彼らを祝う歌が詠まれ、再び管弦の遊びが行われた。 一段落ついたところで、帝が切り出した。「さてそろそろ、里でも二人の北の方達が待ちわびているだろう。私からは、そなた達を長く留めてしまった罪滅ぼしに『悦』をしなくてはな」 位官昇級があるのか。 予想されていたことであっても、皆その場の人々はざわつく。 この婚儀に関係した者達の位が揃って上げられることとなった。 それに乗じて、その上の位の者も引き上げられる。 左大臣は太政大臣、右大臣は左大臣に。 そこでようやく空く右大臣には、左大将正頼が就く。 そしてそれまで中納言だった左衛門督が大納言に。 仲忠と涼が中納言になる。 そして左大将家の者達、忠純が権中納言、師純が左大弁、祐純が宰相に。 また彼らの友人である行正が、二人の宰相中将が中納言となってしまったため、その空いた役に昇進したのだった。 * さてこの昇進した九人のうち、七人までが一緒に新右大臣正頼の三条殿へと向かうことになる。 その途中で仲忠が実家へと報告したい、と言ったので、一行は二条大路から右大将邸へ立ち寄ることにした。「どうしたのだ、仲忠、一体。改まって」 兼雅はこの日が三日夜であり、また帝からのお召しもあったことを知っていた。 だがまだこの時点では、昇進のことまでは知らなかった。「実は、思いもかけず昇進致しまして」「昇進!」「中納言の位をいただきました。できれば是非、今夜はこの喜びを父上母上のもとで味わいたいのですが、皆が車を止めて待っていて下さるので…」 そうかそうか、と兼雅は息子の両肩をぽんぽんと叩く。 では、と急いで出てしまった息子を見送ると、兼雅は慌てて北の方の尚侍に伝える。「そなたに引き続き、今度は仲忠が昇進だ。中納言になったということだ」「まあ何ってことでしょう… ―――かつては零落の底に身を沈めたと思っていましたが、しっかりと生えた岩の上の松/仲忠の種/自分となれたのでございますね」 兼雅はそれに返す。「―――成長して、小高くなった松/仲忠を見ると、そなたが身を捨てたのもいい結果を生むことになったと嬉しくなります――― 今までそなたにずっと悪かった、気の毒だった… と心の中で辛く思っていたことが、ようやく晴れた気分だ」 それを聞くと、尚侍はにっこりと夫に笑い掛ける。「あなたとそうなってしまったことを恨んだことはありませんわ」「しかし」「私は今、充分幸せなのです」「帝がそなたには御執心なさっておられる」「帝は確かに畏れ多い方です。でも他の誰との間にも、ええ、たとえ帝であられたとしても、仲忠の様な子は生まれて来なかったでしょうし、あなたでなかったら、あの時私達を見つけだしはしなかったでしょう」「そう言ってくれると、私は嬉しい。それを思うと、昔あれ程沢山の女性と睦み合ったことが馬鹿らしく思える」 尚侍はそれを聞くと、一体どれ程の女性に夫は靡いてしまったのか、と思う。 だがその女達に尚侍は嫉妬の感情は無い。 元々その様な感情が薄いためもあるが、引き取られてからずっと、夫が誰のもとへも出向いていないことを知っているからだ。 だからこそ、その女性達の処遇が最近は気になりだした。 こんなに自分だけが幸せであっていいのだろうか、とやや不安にもかられるのだ。 自分はいい。兼雅の最愛の妻というだけでなく、仲忠の母として、そしてついには帝御自らから尚侍という職を、位を賜った。 何も無かった自分だが、今はこの様に、世間に対しても確固たる位置を築いている。 だが… いや、今は考えまい、と彼女は思い返す。 いつか。もっと色々なことが治まってから、その女性達の処遇をも、この陽気で何処か子供の様な夫に何とかさせたい、と。* 一方仲忠は、彼を待つ者達と共に、七人揃って正頼邸へと向かった。 まずは北の大殿に住む大宮のもとに向かい、並んで昇進の報告をして拝舞する。「ご報告恐れ入ります」 大宮はそう受けて、彼らの出世を喜んだ。「今日の悦はこちらにだけ申し上げます」 そう言って、仲忠と涼以外の者はそれぞれの住処へと引き上げた。折り紙 トーヨー 186010 典具ぼかし染め和紙(23x15.5cm)創作にぴったりの長方形タイプ!
2017.12.31
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その一の一の一 正頼さんとこの婿選び「いやはや、凄いものだったよ」 相撲の節会に始まり、新尚侍任命に至るまでの出来事を妻に語る時、正頼はどうしてもこの言葉を差し挟まずには居られない。「それ程、新しい尚侍は素晴らしい方なのですか?」 大宮は夫に問いかける。「無論、実際に姿を見た訳では無いが… あの琴の音、それに宮中の女房達が聞いたという帝への受け答えといい、尚侍として相応しい人物であることには間違いないな。…そう、あの琴の音は、そなたにも是非聴かせたかった」「兼雅どのの奥方であることが勿体ないですか?」 ふふ、と大宮は笑う。「どうであろうな… まあこちらとしては、わが仁寿殿の立場を脅かす様な女性が帝の側に居るのは嬉しいものではないから…」「そうですね。ところで節会も終わったことですし、来月の婚儀のことをそろそろ…」* 相撲の節会が終われば、すぐに八月である。 秋とは言え、未だ暑い日々は続く。 暑さに耐えかねて、皆内裏にも出仕せず、家に籠もっている有様である。 そんな中、左大将家の婿取りが俄に注目を浴びる。 節会の前から、既に宣旨が出されている。 仲忠には、帝の女一宮を。 涼には、正頼の十の君、今宮を。 この二人に関しては、正頼も気合いが入っていた。 姫君達の調度や装束を始め、上下の仕人まで、容姿の美しい者を選び、格別に念を入れて揃えさせていた。* 正頼はそれに加え、その下の未婚の姫君達をあて宮に懸想していた人々にこの際与えてしまおうと画策していた。 一応、正頼夫婦はこの様に考えていた。 大殿の君腹の十一の君を兵部卿宮に。 おなじく十二の君を平中納言に。 大宮腹の十三の君、袖宮を兼雅に。 おなじく十四の君、けす宮を実忠に。 そう思って、正頼はそれぞれの人々に打診し始めたのだが。「何だと、皆断ってきたと?」 何ってことだ、と正頼は驚く。「一体どうして」「はあ、それが…」 使いの者は説明する。 懸想人達は皆あて宮に深く心を捧げていた。それはそれはもう、とても深く。 なのに、入内して間もない今、ここで婿入りの返事をしたならば、あて宮に対して申しわけない。 そう考えている、とのことである。「特に実忠さまのご様子ときたら…」 使者はため息をついて報告する。 成る程、と正頼も思う。「困ったことだ。誰もかれも、私の下の娘では満足しないというのか。…まあ仕方がない。あてこそ以外の姫では嫌だ、というものを無理に勧めてもなあ… と言っても、一人の姫を皆にあげる訳にはいかないし」「そうですわ。気の進まない人と結婚したらそれこそ娘達が可哀想ですわ」 大宮はきっぱりと言う。「そうだな。…だがしかし、どれだけ気が進もうと進まなくとも、仲忠と涼の二人だけはは別だ」 正頼の言葉に思わず力が入る。「あの二人だけは、本人達がたとえどう言おうと、強いてでも結婚させなくては。帝がわざわざ吉日を選んで、女一宮と今こそを娶る様に、と厳命をなさっているのだぞ」 八月十三日が二人の婿取りの日と決められていた。* さて決まってしまうと、気もそぞろになるのが、当の本人達である。 毎日の様に、美しい調度が自分の部屋に運ばれ、衣装が用意される。 自分に果たして似合うのか? と今宮はそれを見ながら首を傾げる。 気が付くと、見知らぬ美しい女房が増えている。自分の側にたむろしていたお喋り好きの者達が微妙に減っている。 あの者達はどうしたの、と乳人子に問いかける。正頼の命で、婿君に似つかわしくない女房は遠ざけられたとのことである。「私ももう少し言葉をゆったりさせる様に、と母に言われましたわ」 乳人子はそう頬に手を当て、ため息をつく。「確かに涼さまが御婿さまとしていらっしゃるのは、私共、とってもとっても嬉しいのですが、そのために仲良しの女房達が消えたり、姫さまより顔だけは小綺麗な女房達が揃えられたりしても、何か、嫌ですよねえ」 伊達に今宮と長く付き合っている訳ではなく、この乳人子も辛辣である。「だいたい小綺麗な女房が涼さまをたぶらかしでもしたら、姫さま、どうなさるんですか」「…お前それ、何か私にすごく失礼じゃない?」「そりゃ、姫さまは、御顔は藤壺のあて宮さまと同じでとっても綺麗ですわ」「じゃあいいじゃないの。だいたい顔なんてそうそう見るもんじゃないでしょ」「結婚すればしげしげと見られますよ。見てもいいのが御夫君なんですから」「…」「で、今宮さま、御化粧とか嫌いじゃないですか。特に御白粉」 う、と思わず今宮は退く。「まあお顔はそれでもいいんです。それより殿方の興味はやっぱり何と言っても御髪の方ですから」「そ、そうよ」「でも御髪だって、確かに色の方は仕方ないとは言え、ちゃんと御手入れすれば、波打つにしたところで、美しいものになるでしょう? それを普段、面倒とか何とかおっしゃるから、絡まって絡まって、いつも私どもは解きほぐすのが厄介で…」 そうなのだ。彼女とあて宮の最も大きな違いはそこにある。 顔の相似は大した問題ではない。だが髪の違いは大きいのだ。「ですから、今日からでも」「…そういうことは、もっと小さい頃に言って欲しかったわ」「はあ? 私も母も散々言いましたが?」 そう言われてしまったら仕方が無い。 今宮は不本意ながら、その日から髪の手入れにいそしむ羽目となった。* 一方、女一宮は既に肝が据わっていた。 元々帝の女一宮、最愛の娘であるという自負。 そして何と言っても、その最愛の仁寿殿女御譲りの美貌。と言うか可愛さ。 特にその髪の美しさは、よくあて宮と比べたと言う。 彼女には不安は無い。仲忠の心以外は。 もっとも、それに関しても既に彼女は「どう仕様も無い」と割り切っていた。 自分は仲忠がずっと好きだった。 だからその仲忠を夫に迎えることができるのは、運がいいのだ。 そう思うことにした。 それ故に、今になってぐずぐず言っている同じ歳の叔母の態度がどうにも煮え切らなかった。 元々は性格は逆だったはずだ。彼女の方がいつも自分を引っ張っていったはずだ。「女房」などと嘘をついて、涼と文通もしていたはずだ。 なのに今はどうだ。「それはやっぱり本当に涼さまのことがお好きになったからではないですか?」 彼女の乳人子がそう答える。「そういうもの?」「宮さまは、仲忠さまはお好きとおっしゃっても、お文を交わしたことはございませんでしょう?」「文を交わすってのはそんなに違うの?」「違うと思います」 そう言って乳人子はうっすらと顔を赤くした。成る程、彼女にもそういう相手は居るのか、と一宮は納得する。「特にその、今宮さまは自分が大殿さまの姫君ということをお知らせせずに御文をお交わしになったのでしょう? 女房相手だと思うと、殿方は結構思ったことをずけずけとおっしゃいますわ」「そのずけずけ加減が好きになったのかしら」「どうなのでしょう。でも私、正直今宮さまは、もうとっくに御正体を見抜かれていると思いますわ」 思わず「えっ」と一宮は乳人子の方へと身体を乗り出した。「だってそうですわ。私達と姫さま達の書きぶりは全く違いますもの。御書きぶりにせよ、御手跡にせよ」「そ、そう?」「ええ」 乳人子は朗らかに笑う。「特にあの今宮さまでしょう? おそらく、涼さまはどんな内容であれ、非常に面白く読まれたのではないでしょうか」 うーん、と一宮は考え込む。「それじゃあどうなのかしら。涼さまとしては、今度の婚儀のことは」「そうですね。殿方はだいたいこうおっしゃいますわね。外面としては、『思いもよらずにこういうことになってしまいました』。当の本人には『ずっとお慕いしていました』」「なぁにそれ」「どうしても何か殿方というのは、一人の女性に縛られている御自分の姿は、あまり信じたくない様なのですわ。全く」「何、お前の――― もそうなの?」「宮さま」 ぴしり、と乳人子は押さえる。「でも、仲忠さまはそういうことは無さそうな気が致します」「え、え?」 いきなり仲忠の話題が振られて、一宮は焦る。「これは宮さまと一緒に仲忠さまのお姿を拝見していた私の感想ですが―――」 何、と一宮は身体を固くする。「あの方は、あれ程皆から好かれているのに、何となくそれを信じていない様に思われるのです」「あ、お前もそう思った?」「はい。もっとも、宮さまがあの方のことをお好きということを知っているから、私にもそう見えたのかもしれませんが…」 そうなのだ。 確かに一宮が仲忠を好きになったのは、彼の容姿や声、とっさの受け答えや、周囲の友人達と遊ぶ様、それらを御簾越しに見たり、女房達から情報を聞いたりした結果だが――― 何よりも、その仕草の中に時々ある、ひどく虚ろな笑み。 それが彼女の胸を突いた。「あの方は、楽しそうにはしてらっしゃいますが、本当に楽しんでらっしゃるのか、…正直私は判らなくなります」 確かに、と一宮は思った。【ふるさと納税】創業文久三年 玉家 白河菓子便り
2017.12.30
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その四の四 帝、蛍の光で新尚侍の姿を見る 夫は――― いつまでも子供の様な可愛らしい夫は、嫉妬するだろう。いや、するに違いない。 おそらく今この時も、自分がここに居ることを知ったなら、もう嫉妬のし通しだろう、と彼女は見抜いている。 帝が戯れに言ったことでも、兼雅は本気に取りかねない。下手なことをされても困る。自分はあくまで藤原兼雅の妻で居たいのだから。 彼女は戯れは戯れのまま、全てを終えたいと思うのだ。「…参内致しますのを咎める者は居りませぬ。あてもなく参内するというのでしたら、夫も承知致しますまいが、主上の仰せということでしたら」「そなたさえ堂々としていれば、何も心配は無いだろう。こそこそとしていればともかく。…それにしても、そなたに対する気持ちはますます深くなるばかりだな。だがいつまでもこうしている訳にも行かない」 そうだろう、と尚侍は思う。彼女としては、いい加減、家に戻して欲しい気持ちだった。「そなたへの気持ちは誰よりも深いと思う。だがこちらばかり焦ったところで、そなたは里だ。私がそちらへ行く訳にはいかない。そなたがやって来るのがいいだろう」 恐れ多いが、勝手なことだ、とも彼女は思う。「近いうちに招きたいが、この月には色々と宮中も忙しい。そう、来月。十五夜にはきっと迎えを寄越そう。今日のこの琴の調子を、約束を違えない様に、必ず十五夜には、と思って欲しい」「十五夜にやって来るのはかぐや姫ではないのでしょうか?」 切り返す。 細々と思いを込めた言葉を言い尽くされるのは嫌ではない。ましてや相手は他でも無い帝である。 だがそれでも。 帝はふと、尚侍が戻る前に、ぜひ一度その姿をはっきりと見てみたいと思う。だからと言って御殿油を灯すのは、明るすぎて露骨である。 どうしたものか、と思っているところに、ふと螢がふわりと飛んで来る。「…おお、そうだ」 帝は思わず立ち上がると、袖に螢を包む。この光で見えないものかと。 だが三、四匹だ。まだ少ない。「童部は居るか? 螢を少し取って来るのだ。あの有名な故事を思い出すが良い…」 だが殿上童達は夜も更けたこの時間には居ない。 代わりに立ち上がったのは仲忠だった。*「…おや、何をしてらっしゃるのですか?」 低く堂々とした声が、仲忠の耳に響いた。「螢を取ろうと思って来たのですが」 ふふ、と仲忠は笑う。 帝が母の顔を見るために螢を求めているから、と出たはいいが、内裏の近くで螢が沢山居るところが仲忠には上手く判らない。 とりあえず水のほとりや草むらで螢を探していたところ。「螢ですか」 響く低い声で相手は答える。「お手伝いしましょう。帝のお召しなのでしょう?」「いえ、それは…」「螢の居場所なら、私は良く知っています」「―――藤英どの」 こっちです、と彼は仲忠を誘ってやや外れた水辺へと導く。 そこには、一面の螢、螢。 淡い光が舞い飛び、絡まり、…何処かへ消えて行く。「…これは凄い」「私にとっては、夏の夜の灯りでした」 あ、と仲忠は藤英の方を見る。「彼らはようやく私から解放されたと思ったでししょうが…」 ふわり、と藤英は袖に一気に螢を包み込む。「どの位必要なのですか?」「そうですね。あなたの顔がはっきりと判るくらいに」「それは困った。ではもう少しお互いがんばりましょう」 ははは、と藤英は笑った。 二人でその場に居る限りと思われる程の螢を捕らえる。「ご一緒に」「ご冗談を」 そう言って藤英は袖から袖へとそっと螢を移す。 では、と手を振る袖から、一匹運のいい螢が飛んで行く。* 袖から袖へ。 螢が今度は仲忠の袍から、帝の直衣の袖へと移し取られる。 だがそれは几帳に隠れて尚侍の目には届かない。 息子がやってきた。何かあったのだろうか。何処かでぼんやりとした光が洩れている。そう感じるだけである。 帝は帝で、この企みがすぐに判るのはつまらない、と考える。 螢を閉じこめたのは薄い羅の直衣。 それを几帳の帷子の向こう側に隠したまま、戻ってきたとばかりに帝は尚侍に話を仕掛ける。 と。 ふっとその袖が動く。 顔の間近に淡い光が寄せられる。 あ、と尚侍は思わず小さな声を立てる。「…駄目ですわ… ―――お召しになっている衣が薄いので、その袖から火が見えますが、びしょ濡れになった海女が住んでいることでございましょう… その姿にはがっかりなさる筈でございます―――」 そう言いながら微笑む姿は、帝の思い描いていた様に――― いや、それ以上に美しいものだった。 琴を弾くその才、それに加えてその容貌、並ぶ人などこの世には居ない、とまで帝には思われた。ほのかな光に見えるその姿は、切ない程である。 満足した帝は尚侍に言う。「年来の望みはこの螢の光で達することができた。 ―――この年頃久しく涙に濡れて暮らしたが、袖の浦/袖の中の螢でほのかに姿を見ることが出来て嬉しく思う―――」* それからも、しばらく話を続けるうちに、とうとう夜も明け、鳥の声なども聞こえる頃となった。「『まれに逢う夜は』というのは本当だな。 ―――暁を知らせる鶏の声を聞かないで、雛鳥/我々が同じねぐら/床に寝る工夫はないものだろうか」 帝はふう、とため息をつきながら言う。 と。「―――卵の中で夢のうちに雛鳥になった私は、高いとぐらを身の及ばない所と思うのでございます/暗い中に帰る筈の私は畏れ多い御寝所とは縁の遠い者でございます」 尚侍はそう返す。 終わりなのですよ、と。 夜が明けるから、と尚侍は退出を急ごうとする。 すると帝がそれに言い返す。「ご覧、これが暁か? 未明でも光は見えるものだ。右大将よ。兼雅よ。今は夜なのか? 暁なのか?」「それは決めにくいことでございます」 兼雅は答える。 自分自身としては、暁だと言い張りたい。だが相手は帝なのだ。冗談であったとしても、暁と言い張ることはできない。彼は息子の様に強情になることはできない。「…ああ、でも木綿付鳥の『昼になる』という声も聞こえます。どちらでございましょう。どちらも違うのでしょうか。ああ、さっぱり判らない… ―――暁の東の雲はまだ暗いのであろうか。はっきりしないことだ。とは言うものの、鶏はせわしく暁を告げているな…――― そういう次第ですので、帝の仰せとは言え、はっきりした御返事は申し上げかねます」 ふふん、と帝は笑う。「尚侍よ、聞くがいい。この様に人が言っている。私はそれを聞いて、いよいよそなたへの思いが募るばかりだ。 ―――たとえほのかにでも、木綿付鳥とさえ聞けば、逢う時が近づいたと思うだろう―――」「―――『逢う』という名だけでも頼みにしたいものですのに、逢うことを許さない逢坂の関は越えることが出来ないそうでございます――― やはり判りませんわ。仰せのことは当たりません」「ああ、言い甲斐の無いことを二人とも言うものだ。 ―――ずいぶんとそなたを頼みにしたのに、縁が浅かったので、遂に結ばれずに絶えるのだろうか――― 私がそなたを思うように、そなたは私を思ってはくれなかったのだ」 それはそうだ、と尚侍は思う。そしてちら、と夫の方を横目で伺う。 こういうひとだ。そして私は帝ではなく、このひとが大好きなのだ、と。 * さて。 その頃左大臣は、新尚侍への贈り物を帝に命じられ、蔵人所へ出向いていた。 その彼がやがて様々なものを用意して戻ってくる。「この辺りで宜しゅうございますか」 帝の前には、すらりと用意されたものが紹介される。 まず蒔絵の御衣櫃みぞびつが二十。これには布の台覆だいおおいを添えて。言うまでもなく、荷物を運ぶための木の棒も。 綾のついた美しい箱が二十ほど。 箱の覆いにする錦は、いざという時のために、と選んで揃えて作っておいたものである。だがこうやって見ると、まるで今日この日のために誂えておいた様にしか見えない。 そして色々の趣あるものを入れた唐櫃。これは作物所の名人に作らせたものである。 蔵人所の方では、唐人が来朝するたびに納め置く綾錦の中でも珍しいものや、香の優れたものを選んで、この櫃に納めていた。 それもこれも、何か突然起こった素晴らしい事の折の料にと、櫃ひつと懸子かけごに用意して、蔵人所に保管しておいたものである。 左大臣はそれを思いだし、そうだこの折りに、と取り出したのだ。 彼はそれらを眺めながら思った。これらの品物こそ、今夜の贈り物としては最も相応しいものであろう、と。 まず何と言っても、贈り物を受ける相手は俊蔭の娘である。 彼女の夫は右大将兼雅である。 そして彼女の弾く手はかの名手俊蔭の残した秘曲なのだ。 天の下、これほど優れた、心憎いまでの技が、いつの世にあろうか… 左大臣はそう思い、取って置きの品を取り出したのだった。 決して帝もそれを過分だと言って咎める様なことは無いだろう、と彼は信じた。 その唐櫃が十掛。 中には、まず花文綾の綾錦。 そしてありったけの種類を尽くした香――― 麝香、沈、丁字など。 これらの香は唐人が来る毎に持ってきたものから選んで取っておいたものである。 やはりそこには美しい覆い布を添えて整えておく。 またその上に、もう十掛の衣入れの櫃を持ち出す。 その内五掛には、内蔵寮の絹の中でも最も良いものを五百疋選んで入れる。 そしてもう五掛には、広さ五尺ばかりの、雪を振り掛けた様な真っ白な畳み綿を五百枚選んで入れた。 また、后宮からからも左大臣同様に尚侍に贈り物をする。 作物所の名工である「しづかはのなかつね」の作った蒔絵の衣箱が五具。 そこに夏の衣類は夏のものとして一まとめ、という様にして四季それぞれの美しい衣装を用意する。 衣装も、形木で染めたものもあり、その色も非常に美しいものである。唐衣、袿などは言うまでもない。 それらをその箱に入れる時にまとめる包みや入帷子なども、素晴らしいものでである。 入帷子は羅で作られ、包みは豪奢な「綺」という織物で作られ、海辺の空を緑色にした「海賦かいぶ」という模様が織り出されている。 どれもこれも皆、唐の物である。 大勢の女御達の中では、仁寿殿だけが贈り物をした。 この夜の尚侍への贈り物として釣り合う様な豪華なものを、他の女御達はすぐには用意ができなかった。 富貴な正頼の大事な娘である仁寿殿だからこそ、他の女御と違って、こういう時に贈り物ができるのである。 ここで贈られたのは、まず銀で組まれた透箱三つ。これらの組目がまた非常に素晴らしいものであった。 一具には、秋山を模して組み据えてある。野には草花や蝶に鳥、山には木の葉の色々に鳥がとまっている様子が、非常に素晴らしいものである。 もう一具は夏の山である。山には緑の木の葉が繁り、鳥がとまってさえずり遊ぶ。また山河や、水鳥の居る様子、それに木の枝に虫達が棲む様子など、非常に生き生きとし、その山里に住む人々の気持ちまでが伝わってきそうな様子である。 最後の一具は春の海である。浮かぶ島には春の桜が咲く様子、渡る船の様子、どちらも非常にのどかで素晴らしい。 次に銀の高坏。これには金属の塗料を使って、足に至るまで、様々な美しい模様が描かれている。 そして衣装。言うまでもなく立派な夏冬のものを透箱に入れて、敷物や上覆い、それを更に上で結んだ組み紐に至るまで、贈り物の包み方が非常によく考えられたものであることが判る。 最後に髪飾りの一式も添えられ、揃えられたその様子ときたら、皆息を呑むしかなかった。 * それらのものを携え、三条の家に尚侍が退出した時には、参内した時の供に加え、このたびの任官を祝う人々の群で大変な程であった。 三条殿では祝宴――― 特に女宴が大々的に行われ、兼雅は妻ほ誇りに思うと同時に、更に愛しさが増し――― そしてその一方で、また参内する様なことがあったらどうしよう、と気を揉むのであった。伝統工芸士 服部正斎作 梅の花 文庫箱 文箱 ブラック ギフト 引き出物 シック ギフト 越前漆器 艶 上品 漆塗 うるし 漆器 高級 日本製 沈金紅白梅 文庫 黒 1013005
2017.12.29
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その四の三の二 さてその頃新尚侍の夫は さてその頃。 新尚侍の夫である兼雅は、この時ようやく、話題の中心が自分の妻であることに気付いた。 簡が回されている間もおかしいとはずっと感じていた。 だが妻の琴を聴いたことが無い彼には決め手が無かった。 仕方なく彼は様子を伺っていたが、自分の家の者に典侍が賄いをしている様子や、人々の言葉からようやく確信が持てた。 一体いつの間に参内したのか? 仲忠は何を知らない振りをしていたのか? 様々に考えることはある。 だがそれはそれとして、彼は思う。 後宮の素晴らしい大勢の女の間に立ち混じっても、妻は決して見劣りしない。いや、それ以上かもしれない。 そう、自分はこんな素晴らしい女を妻にしているのだ――― そう思うと、彼は妻に対し、ますます愛おしさと誇らしさを感じるのだった。 一方、新尚侍を目にした后宮をはじめとする女御達も思う。 成る程、あの兼雅どのはこのひとを妻に持ったからこそ、他の女に目を移さなくなったのか――― 彼女達は納得する。尚侍は素晴らしい女性だ。 容姿は勿論、あの琴の才は何ということだろう。 それだけではない。女として、妻として、母として。 そう、息子はあの仲忠だ。あの様な青年をこの世に生み出すことができた女性。それはもう、この世のものとは思われない… 女性達までもがうっとりする妻の様子に、兼雅は何となく自分までが面目を施した様で嬉しくなる。 だがその一方で不安にもなる。 もしかして帝の手がつきはしないか? そう、彼は知っている。「俊蔭の娘」だった自分の妻を、帝が昔から心に掛けていたことを。 ああどうしようどうしよう、と気になって仕方がない。 だがいつまでもそわそわしていても始まらない。 北の方を送ってきた者の中から、兼雅は政所別当である左京大夫橘元行を召し出した。「どうなさいましたか?」 あー、と兼雅は少しばかり視線を宙に巡らせ、言葉に迷う。「…そなた、…その、送ってきただろう」「北の方さまですか? はあ。仲忠さまの仰せで。…それが?」 やはり仲忠か、と兼雅は思う。「その、だな。…今日にわかに、尚侍の宣旨を受けたのでな」「へ? …北の方さまがですか?」「…そうだ」「一体それは、また」「細かいことまで聞くな…」「はあ」「それですぐそなた、三条へ戻り、尚侍就任の祝いの宴の準備を頼む」「は、はい」「必ず見送って沢山の客人が来るはずだからな、そっちの方も…」「客人の方でしたら、相撲でこちらが勝った時のために、と既に用意はできております。御馳走のことなど、今度は前々から心を入れて準備致しましたから、その辺りは何も御心配なさることは無いと存じます」 そうか、と一端安心した兼雅だが、すぐにいやいや、と首を横に振る。「だが元行、それは相撲に勝った時の準備なのだろう?」「まあ… そうですが」「今度は何と言うか、…急なのだが、尊い宣旨なのだから、女大饗その他のことは、特別に立派にしたいのだ」「ああ…」 元行は承知した、という様に表情を和らげた。「そうそう、御馳走のことは殊に、殊に! 念には念を入れてくれ」「はい」「ただでさえ現在の女官達の中には、身分の高い典侍もおいでになるのだ。あれのためにも、ちゃんとした用意をしなくては」「承りました」「おおそう言えば、準備のために、仲忠が退出しようとするかもしれないな。だがあれには母が退出する時に居なくては都合が悪いだろう。ああ仲忠め。あとでゆっくり事の次第を聞いてやらなくては」「はい。それでは」 元行は主人の慌てぶりに微笑ましい思いをしながらも三条堀河へと向かう。* 一方、帝は帝で、この新尚侍への贈り物を充分立派なものにしたいと考え、左大臣に向かって命ずる。「この尚侍が退出する時には、何かしら気の利いた贈り物をしたい。だが今回は、あまりにも急なことだったなので、格別の用意もしていない」 確かに、と左大臣はうなづく。「そこでそなた、蔵人所や内蔵寮へ行き、少し今風で、それでいて由緒のある贈り物を見繕ってはくれまいか? 仲忠母子は物のあわれをよく解する一族の者だ。そしてまた当人達も気の利いた者達だ。特別に気をつけて取り計らってくれ」 了承した左大臣は早速、とばかりに立ち上がる。后宮や仁寿殿女御なども、尚侍に何かしらの贈り物をしよう、と動き始めている様子だった。 そんな人々の動きを横目に見ながら、退出するまで、とばかりに帝はしきりに尚侍に話しかける。 その中で、ふと帝は思い出した様に彼女に告げる。「そう言えば、今夜そなたの供をしてきた女房の中に、内侍として宮仕えできる様な者は居らぬか?」「内侍… ですか?」「この頃、清涼殿の内侍が一人足りないのだ。そなたが知る中で、物を多少良く知っていて気が利く者が居るならば、そなた付の殿上の女房になさい。そなたが参内する時に、そなたの世話をさせるといい。―――そう、全て女官のことは何でもそなたの自由なのだ」 そう言ってから、帝はふと遠い目になる。「…昔からその様にしていたなら、今はそなたも国母にもなっていただろうに。仲忠ほどの優れた親王が生まれていたかもしれない。そう思うと―――」 尚侍をそれを聞くと、軽く目を伏せる。 悔やんでいる訳ではない。それは無理だろう、と彼女は閉じた目の下で考えている。 仲忠は確かに素晴らしい子だ。自分には勿体無いくらいの子だ。 だが、もし仲忠が兼雅との間ではなく、帝との間に、親王として生まれていたならば? きっとあの様には育たなかっただろう、と彼女は思う。全ては自分が至らなかったからなのだ、と。 時間は巻き戻せない。今ここにあるものが全てなのだ。 だが彼女はそれを帝に言うことはしない。帝は帝でそう信じているし、わざわざそれを自分の口で否定することも無いのだ。 帝は続ける。「そうだな。公には無理でも、私の心の中ではそなたは私の后と思っていよう。これからも度々参内なさい。その時には、そなたが望むなら清涼殿をも明け渡そう。自分は軒下に住んでも、そなたの望みは遂げさせたい」「…おそれ多いことでございます」「そなたが私の側に居ても、誰も悪いとは言うまい。気兼ねなしに参内なさい。そう、右大将は咎めるかもしれないな。そう思うとちょっと情けなくて寂しいものだが――― それにも従わなくともいい。そなたが私の側に来たからと言って悪いことは無いのだ。兼雅が嫉妬することもあるまい」 さてどうだろう、と彼女はくす、と笑う。★送料無料★高級風呂敷付き★加賀もなか4個と選べる加賀プリン4個のセットcool/もなか/プリン【楽ギフ_のし】抹茶スイーツ/ありがとう/ランキング/最中内祝/菓子/デザート/ギフト誕生日/お歳暮
2017.12.29
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その四の三の一 北の方、琴を様々に弾き、その禄として尚侍となる そのうちに夜も更け、それに連れて琴の音も冴えたものとなって行く。 北の方は胡茄の手の中でも興のある曲を弾き始める。すっかり彼女はそれに夢中になっていた。 一方、それを間近で聴く帝の方は、苦しい程に彼女に惹かれて行く自分に気が付く。 昔から「俊蔭の娘」の噂を聞いて、興味は抱いていた。入内を勧めたこともあったのだ。その時の感情が、今ここで膨れ上がっていく様だった。 ああこのひとの音だけを聞いていたら、きっと自分は。 帝は命ずる。「涼、仲忠。そなた達はこの曲を知っているだろう。良い所で拍子を回すがいい。行正は今めいた歌を入れておくれ」 仲忠と、事情を薄々気付いている涼は顔を見合わせ、うなづきあう。 行正は誰か判らないが素晴らしい琴の音を曇らせる様なことになってはいけない、とやや緊張する。そしてその一方で、ここに仲頼が居てくれたら、と一瞬考える。 帝は琴の譜を取り出すと、それを眺めながら、北の方の弾く旋律から曲の見当をつけて、解説を入れる。 彼女はその場にある譜の曲は全て弾き、今ではそこには無い珍しい手まで、心を尽くして弾き続けている。 そのうちの一つに、帝は特に心惹かれる。「『胡婦行このめくたち』という曲だな」 北の方に聞かせる様に、ゆっくりと静かに語り出す。「これはその昔、唐の国の皇帝が戦に負けそうになった時、胡の国の将軍が来て敵軍を平定してくれたことがあった。皇帝は喜びのあまり、自分の七人の妃の中から望みの一人を与えようと約束した。 その中に一人、非常に美しい人が居た。七人の中で、皇帝もその一人を最も寵愛していたので、妃自身『自分が与えられる様なことは無いだろう』と信頼していた。ところが」 そこで一度言葉を切った。「他の六人は絶対に行きたくない、とばかりに絵師に千両の黄金を与え、自分を醜く描かせた。 美しい妃は皇帝を信頼して、絵師には何も与えなかった。絵を見た胡の将軍は、迷わず彼女を指名したのだ」 それが名高い「王昭君」だ、と帝は言う。「皇帝は彼女を離したくはなかったが、『天子は空言せず』という道理があるゆえ、拒むこともできなかった。 王昭君は大層嘆いた。 その彼女の気持ちに、胡の国の笛がずいぶんと哀しく届いた。 それは胡人が喜んで吹いたものかもしれない。彼女の心境を察して悲しんで吹いたものかもしれない。 いずれにせよ、彼女の心にはそう届いたのだ。そして彼女を乗せた馬もまた、悲しく嘶いたのだ。 それを曲にしたのが、この『胡婦行』なのだ。やがて後にこの曲を聞いた皇帝は『もし自分が今ここに手綱を持っていたなら彼女を取り戻しに行くのに』と思ったという…」 やがて曲は「胡原このはら」へと変わる。 帝はそれを聞くうちに、一つの記憶が呼び覚まされるのを感じる。「昔、私はこの曲を聞いたことがあるぞ。…そう、あれは故俊蔭朝臣のものだ。そなたの手は、朝臣のものと等しいぞ」 音は帝の中にも、幾つもの思いを呼び起こさせるかの様だった。「仲忠の琴の手は、聴く者を魅了して、全てのことを忘れさせてしまう」 神泉苑での出来事は、帝にとっても衝撃だった。あの時、自分は何を見たのだろう。あれは本当に現実に起こったことなのだろうか。「だがそなたの音は違う。やはり素晴らしいが、あれの持つものとは何処か違う。そう、そなたの音は、気持ちの深い所へと入り込む。そしてかの故人のことを思い出させたり… 自分では感じることのできない思いを引き出させるものだ。…『いっそ忘れてしまえばそれまでなのに、葦原に鳴く音を聴いては恋しさ侘びしさが増すばかりだ』と言いたくなるな。ついでに、昔覚えた手も弾いてはくれまいか」 帝はそう言って、琴の調子を変える。 北の方はそれにも戸惑うことはなく、従来あった手はそれに加えて弾き、誰も弾いたことの無いものは、細かい所まで巧みに弾きこなす。 「胡原」を弾き始めた時には、仲忠や涼が詩を誦し、行正が唱歌を口にした。 現在の優れた奏者と、過去の優れた俊蔭の手が曲の中で溶け込む。 古いものと新しいものが一つになる。「『胡原』の哀れさは勿論、この音が心凄いまでに聞こえるのは当然であろう。 この手こそは、あの胡の国へと行った王昭君が、胡国と自分の国との境で嘆き悲しんだ調べなのだ。 皇帝に最も寵愛された正妃であったのに、辺境の武士のものとされることになってしまった心地はどんなものであっただろう…」 その様に、と帝は北の方に呼びかける。「そんな思いに勝る悲しみを込めて、そなたが弾く様子も、また非常に美しい」 困ることを言い出した、と北の方は微妙に集中を削がれる。「どうしてそなたには、関守が居るのかな。『胡原』に勝る悲しみの声を上げたくなるよ。そなたは国境を越えた妃に関を通って戻るのを許さない皇帝を、そなたは軽蔑するだろうな」 兼雅が居る今、自分への思いは叶わないのだ、と帝は訴える。 冗談だろう。冗談にしてしまいたい、と彼女は考える。「どんな関守も、帝を拒む訳には参りません」「近衛に居るではないか。固い守りが」 北の方はそれからは黙って弾き続ける。 帝の側でこの音を聴く全ての人々は、男女を問わず、皆残らず涙を流さずにはいられない。*「…さて」 北の方が自分の手を全て出し終わった時、帝は口を開いた。「何を今夜の禄にしたものかな。この手にはどんな禄も足りないと思うが」 ちら、と彼女の息子と涼が並んでいる方に視線をやる。「そう、涼と仲忠への以前の琴への禄もまだやっていなかったな。八月になったら、左大将に催促するがいい。もういい加減、その時期だろう」 ああ、と北の方は思う。息子に女一宮を降嫁させるという話は彼女も聞いていた。 だが様々なことが次々に重なり、なかなかそれは形にならずにここまでやってきてしまった。 それがとうとう。 母としては嬉しい限りだった。「そなたには本当に、何を贈ろう… そうだな、私なぞどうだろう? そなたの息子は禄として私の娘を得たのだから」 ご冗談を、と口の中だけでその言葉を転がす。 帝はやがて、御座所の御前にある日給ひだまいの簡――― 殿上の札を取り、さらさらと何やら書き付ける。「そなたを尚侍に致そう」 北の方は驚く。 帝は彼女のその様子には構わず、その旨を記し、上に歌を詠む。「―――目の前の枝から起こる風/琴の音は実に上達したものだな――― この琴の音が非常に素晴らしかったので」 帝は上達部の方に、署名する様に、とそれを渡す。 まず左大臣がそれを見て首を傾げる。「一体誰だろう。まるで私には判らない」 だが帝の手であることは間違いない。彼は「左大臣従二位源朝臣季明」と署名すると、その傍らにこう書き付けた。「―――風/琴の音は皆さんと同様に誠にあわれと思いましたが、どなたの筋でしょうか――― どうも合点のいかない宣旨でございますな」 そして右大臣に回す。彼もまた首を傾げる。「不思議だな。こんな素晴らしい音を出して尚侍になる様なひとはここしばらく絶えて無かったが… もしや琴を弾くあの清原の一族のあのひとだろうか」 そう推測して「右大臣二位藤原朝臣忠雅」と書き付け、歌を詠む。「―――武隈のはなわの松の親子を並べて秋風が吹く様に、北の方/親も仲忠/子も揃って琴を弾いてくれればいいのだが―――」 左大将が次に受け取る。 正頼が見ている所を皆のぞき込み、これはどうしたことだ、と右大臣に問いかける。「いや、私にも判らないのだが、或いは仲忠の母君ではないかと思いついたので。皆はそう思わないか?」「成る程、それは考えつかなかったですな。それにしてもよく思いつきになりましたな」 そう行って正頼は「大納言正三位兼行左近衛大将陸奥出羽按察使源朝臣正頼」と書き付けて歌を詠む。「―――はなわの松風が寒ので、成る程それで小松の蔭が涼しいのですね。母君のお陰で彼も上手なのでしょう―――」 次は右大将――― 兼雅だった。 それを見た彼は非常に複雑な気分になった。「一体ぜんたい、何があったというのだ… 全くもって私にはわからん…」 すると中から何処か浮かれた帝の声がする。「判らなくとも良いぞ。署名を早く」 仕方なく兼雅は「従三位守大納言兼行右近衛大将春宮大夫藤原朝臣兼雅」と書き付け、やはり歌を詠む。「―――段々強くなる松風のために、後から後からうち寄せる波の様に涙がこぼれることよ」 兼雅は首を傾げつつも民部卿へと回す。彼はすぐに「従三位権大納言兼民部卿源朝臣実正」と書き、歌を詠む。「―――年を重ねても枝さえ変わらない高砂の松の風は、隣の松風にもまさるだろう」 簡は民部卿から左衛門督、平中納言、宮のかみへと回され、その都度歌が詠まれる。 そうしているうちに、新しい尚侍となった北の方は自分の持つ胡茄の手の調べを全て弾き終わった。 帝はこれで終わるのは惜しいと思い、手を止めた新尚侍を制す。「胡茄の手は覚えていないと言ったが、兎にも角にも弾き終わったのだ。少し調子を変えて、もう一度、今度はこの節会のための曲を弾いてはくれまいか」 すると尚侍は琴を「なんかく」の調子に合わせ、ゆっくりと弾きだした。 その音を味わいながら、帝は尚侍に向かって言う。「過去のことは後悔しても仕方が無い。せめて今からでも、立派な節会が一回ある毎に一手ずつ弾いて欲しい。いや、節会でなくとも、春や秋の、花々や草木が盛りとなり、趣がある夕暮れなどに、面白い手を弾いて聴かせて欲しい」 尚侍はそれには答えず、ゆったりと弾き続ける。「いや、千年も経つ間、次々とある節会の度に弾いたとしても、そなたの手は尽きることがあるまい。人生は短い。限りのあるものだ。私とて同じだ。そなたの手を全て聞かぬうちに尽きてしまうだろう。それは何と心残りなことだろう。そなたにも私にも万年もの寿命があるものなら… ―――千年も寿命のある松から出る風の音/琴を誰が永遠に聴こうとするだろう。そなたの琴の音を理解するのは私だけだ―――」 尚侍は弾く手を止めることは無く、歌を返す。「―――声が絶えずに吹く風には、松の齢よりも久しい君がお涼みになることでしょう――― 君とは他でもない、帝のことでございます」「そなたのその言葉は嬉しいが、人生には定めが無いから悲しいのだ」 そう、と帝はつぶやく。「もしそなたが来世で草木となることがあっても、そなたであれば、この琴の音を草木なりに出すことができるだろうから、私はそれを聴こう。私がもし木になるならば、鳥の声に、草となるならば、そこで啼く虫の音に、山となれば、風の音に、海川となれば、高い波の音の中にでもそれを聴こう」 大げさな、と思いながらも尚侍はその言葉には悪い気がしなかった。 これはここだけの言葉。琴の音に誘われて発せられた、ここだけの誓い。 だからこそどんな大きな約束であれ、彼女は驚くことなく受け止めることができる。「そなたも知っているであろう、長恨歌において、楊貴妃が皇帝と七月七日に長生殿で来世を誓った様に、そなたとは今夜、この仁寿殿で約束しよう」 かの漢の玄宗皇帝が、寵姫であった楊貴妃と誓った約束。天にあらば比翼の鳥となり、地にあらば連理の枝となろう、という来世の誓い。「これが決して長生殿の約束に劣るとは思わないで欲しい。 ―――生い立ちの違う姫松それぞれの、千年も続く寿命は別々であるが、同じ川辺の水となって流れるだろう――― そう思って欲しい。私も勿論のこと」「『言出しは…』ということがありますが、お言葉ではありますが、お信じ申すことは出来ませんわ。 ―――淵が瀬になったり瀬が淵になったりする様に変わったりすることはあるまいと思いますが、飛鳥川の例もありますので、そちらの水が中淀み/途中でお心変わりすることでしょう――― そればかりが心配でございます。私としてはひたすら『深き心を』とのみ念じております」 尚侍はさらりと受け流すが、その中でも古歌が二つ引かれている。 言葉を尽くして迫る自分に対するとっさの返事にも冷静な彼女に、帝はますます心を惹かれる。「よし。それでは私の心が浅いかどうか試してみるがいい。 ―――白川の水の様に一緒に暮らして見ましょう。果たしてどちらの水が余計に湧くかどうか―――」 ふふ、と帝はそう言って笑う。 やがて内膳部から、帝と尚侍の双方に御膳部が出された。 浅香せんこうの木で作られた折敷おしきが四十。その台も敷物も二つと無い程のものである。御器が立派なのは言うまでもない。 そこに盛った果物や乾した食物――― それ自体はありふれたものではあったが、非常に結構なものであった。 帝は左近中将の実頼や兵衛督などに命ずる。「今夜ここで琴を弾いてくれたのは、非常に素晴らしいひとだ。そなた達、内膳司に行って、少し趣のあるものをすぐさま調理させるがよい」 それから大変だったのは、内膳司である。 世の中のあらゆる方法を尽くして、経験もあり、老練な殿上人が手づからまな板に向かって料理を始めた。 その道に通じた者達が、三四十人集まって作った料理は、ことに素晴らしいものとなった。* 新尚侍が弾く曲が無くなる頃には、既に暁が近くなっていた。 その間にも、兼雅の三条の北の方が新しい尚侍になったという知らせは宮中の女官の間をあっと言う間に駆け巡っていた。 彼女達、内侍や髫髮うないは慌てた。新しい自分達の上司に挨拶をしなくては。 あちこちの局は勿論、楽や舞を教える内教坊ないきょうぼうに至るまで、正装し、髪上げをして、総勢四十人が仁寿殿へやって来る。尚侍のもとに折敷を差し上げるためである。 その一方で典侍も賄いをするためにやって来る。 ちなみにこの典侍は決して身分の低い者ではない。親王の娘で、源氏を賜っている女性である。 彼女は尚侍のお供の大人や童達への御馳走の采配を奮う。てんさい羽二重 黒豆塩大福 6個入り
2017.12.28
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その四の二 とうとう琴に手を触れる――そして気付いたこと 帝は南廂の御座所から二人を出迎えてくれる。そして北の方の姿が他に知られない様に、殿上の燈台の火を消させる。 そのまま北の方は、御座所へと通される。 帝は、直接彼女に声を掛ける。「案内しよう」 そのまま局の中へと迎え入れる。 仲忠はそれを見届けると、元の場所へと戻った。「おいおい仲忠、一体今まで何処へ行っていたんだ?」 ずいぶんと長く席を外していた息子に、兼雅は問いかける。「帝からのちょっとした御用が。でももう済みましたので」「そうか。ではそうそう抜け出すものではないぞ」 はいはい、とにこやかに仲忠は笑った。兼雅は妻がやって来ていることなど、まるで知らない。 一方、帝は北の方の几帳の側に置いた茵に座ると、彼女に向かって語りかける。「急なことで驚かれたろう」 北の方は黙ってうなづく。「いや…… 賭碁で仲忠が負けたので、私はあれに琴を弾くことを望んだのだが、全く言うことを聞かない。そこで『代わりを』ということで誰か、と思っていたところ、かねがね望んでいた貴女の弾奏を、と私自身切に望んだのだ」「…そういうことでしたか」 北の方はおそるおそるつぶやく。「どうもいつもとあの子の様子が違いましたので、おかしいとは思いました」「あれはそなたには何も言わなかったのか?」 北の方は再びうなづく。「座ってもいられない位に急かされましたので、何のことやら判らずに…… 誠に奇妙な心持ちでございます」「別に奇妙なことも無いだろう。私はいつも、噂で聞くだけではなく、実際のそなたとこの様に向き合ってみたいと思っていたのだ。そう、趣のある夕暮れなどに、参内してくれたなら、色々と話をしたいと思っていたものだが、さすがに人妻ということで遠慮していたのだ」 それは当然だ、と彼女は思う。何せ今頃、外には自分の夫が居るはずだ。「しかしこの様に、会えて話すことができる。こんなに嬉しいことはない」 そう言って帝は、年頃ずっと思っていた、ということを話し出す。「昔、治部卿じぶきょうの朝臣――― そなたの父君が存命中に、琴を弾いて聴かせて欲しい、そなたを宮中に迎えたいものだ、と考えていたのだが、父君はまた、古風な人だったからな。入内を快く思わなかったのだろう」 その話は聞いたことが無い訳ではない。「本気にされていないのかと、きちんと言葉を尽くしてそなたの入内を勧めたこともあった。それでも父君は承知しなかった。そうするうちに、館に引きこもってしまい――― 亡くなられた後は、そなたの行方も判らなくなってしまった。私のそなたへの思いも伝えられなくなってしまったということだ」 北の方は目を伏せる。そうは言われたところで、それはもう過去のことなのだ。「しかし今、そなたはここに居る。心配していた姫君が無事だったことに私がどれだけ喜んでいるか」「私は」 北の方は口を開く。「この十数年というもの、世の中らしい世の中には住んでいませんでした。その以前と今日とが、私にとっては世の中なのでございます」「その間はどの様な所にいらしたのか。昔から何の隔てもなく容易く会うことができているより、こうやって辛うじて会えた今の方が、なおいっそうそなたへの思いが募るというものだが」 困ったことを仰る、と北の方は内心思う。「そう思って見ると、『昔ながら』では目慣れて、ないがしろにする時もあるかもしれない」「…どういうことでございましょう。心が迷ってしまいそうなことを」「覚えてはおらぬか。言わなくとも自然、はっきりと判るものだとは思うが。私の思いを口にし始めたら、私もそなたも、きりが無いと思う。…まあそれはそれとして」 帝は一度息をつく。「今夜は仲忠の代わりとして、そなたには参内してもらったのだから、かの俊蔭から伝授された琴をぜひ早く聴かせてもらいたいものだ」「伝授してくれた人など…」 北の方は言葉を濁す。「そなたまで仲忠と同じ様なことを言うのか。さあ早く」「何のことでしょう。琴のことなど… 一向に仲忠はその様なことは」「あれはそなたには言わなかったのか」「少しも。ただ近衛の陣で見物するように、と言っただけです。御前に伺わせることすら私は知りませんでした。ですのでこの様に普段着のままで急いで参ったのでございます。『御垣のそばに隠れて見物するのにいい葎の陰があります。車からお降りなさい』と言われてやってきたのに、ましてや琴など…」 北の方は言葉を並べながらも、この先のことを必死で考え始めていた。 全くあの子は。内心ため息をつく。「普段は正直な子だけに、それをそのまま信じてこの玉の台の様な御殿まで参上した次第でございます」「ここは『よそ』であって、目的だった葎の下ではなくて悪かったね」 古歌を引用し、そう言って帝は笑う。北の方もまた、それに応える。「いえ、もうその『葎の辺りも閉めていた』様ですから」「心変わりをする人もあるものだ。ところで本当なのか? 仲忠がそなたには何も話していなかったというのは」 はい、と北の方は小さく答える。「成る程な。そもそも今夜、仲忠が私との賭碁に負けたのがいけない」 それは先ほど聞いた、と彼女は思う。それで自分をここに連れて来たのだ、と。「琴が、ということではなく、元々は私の言うことを叶えること。それが今夜の賭物だったのだ。私はずっとあれに琴を弾かせたかった。もう長いこと同じ調子だ。今日もまだ、あれは何かと言い立てて、どうしても弾こうとしない。仕方なく、この様なやり方を取ったのだが、そうしたら『自分は一向に覚えていないから、物忘れをしないひとを連れて来る』と言ったのだ」 そう言って北の方をじっと見る。 外は灯りで明るいとは言え、御簾と几帳に囲まれた中に居る彼女の姿は、暗い中ゆえ、はっきりと見える訳ではない。 だがその気配は感じ取れる。それを帝はもっと強く、と願う。「一族の中に居たのだな」「私は―――」「仲忠にはこの『せいひん』の琴を胡茄こかの調べに整えて出したのだ。そのままの調子で、そなたにこの曲の手を知るだけありったけ弾いてもらいたいのだ」「…」 どうしよう、と北の方は思う。 うつほ時代ならともかく、今、三条で兼雅の北の方としてのんびりしている彼女には、やんごとない方からの申し出にどうしていいのか、それすらなかなか判らない。 それが琴のことなら尚更だ。 帝はそんな彼女の気持ちに気付いてか気付かずか、続ける。「琴には色々調子があるが、胡茄がやはり最もしみじみとしたものに感じられるのだ」「…それでは全くお人違いでございます。琴とは一体何の名でしょう。それすら知らない私でございますのに、…仲忠はどういう風に申し上げたのでしょう。…困ります」 途切れ途切れに北の方は抵抗する。 無論それがいつまでも続くとは思わない。だが言われてすぐに弾いてしまうというのも。「そなたまでそんなことを言う。嫌な気持ちのままずっと居るなぞ、辛いことではないか。そのままずっとこうしているつもりか? さあ気を変えてはくれまいか。そなたの家が琴で有名なのは、誰でも知っていることではないか」「知っているならば、どうして申し上げないことがありましょう。本当に琴は遠くからでも見たことは無いのでございます。父や昔は確かに有名だったのかもしれませんが、私の代になりましては、間近に見ることもございません。本当に琴のことは考えられないのでございます」 一方帝は、いつまでこの抗弁が続くかな、と少し楽しくなってくる。全く頑固な似た者親子――― いや、三代だ、と。「ことに胡茄などというのものは、一向に。誠におこがましゅうございますが、仲忠なら、昔の名高い弾き手達よりも上手に弾くと思われます」 そう言って彼女は差し出された琴には一向に手も触れようとしない。「これまた辛いことだな。長く弾き慣れているものを、そんなに忘れてしまうということがあるのだろううか? 琴の才というものは、若い頃に身につけるものだから、歳を取ったからと言って忘れるものではない。仲忠は自分より琴を良く知るそなたに、私の前で弾かせようと思ったのだろう。しかし」 帝は少し言葉を切る。「もしそなたが本当に忘れてしまったと言うなら、それは何とも残念なことだ。しかしそなたが名手であることは、世間の者達も良く知っていることだ。それを弾けないなどと、ひたすらに強情に言い張らない方がいい」 そう、それは判っているのだ。彼女にしても、いずれは弾かなくてはならないと思ってはいる。 ただ彼女は怖いのだ。 兼雅のところに引き取られて以来、琴には手も触れずにきた。それはそれで事実なのだ。 正直、自分が今どれだけ弾けるのか怪しい。 弦を押さえた左の指は、今でも力を込めることができるだろうか。上下左右に自由に琴の上を行き来することができるだろうか。 帝は言う。「俊蔭はその昔、天下一と言われたが、伝授したのはそなたにだけだ。そういう世に二つと無い手を受けた以上は、誰にでも少しづつでも聞かせることが受けた者の努めではないか? …正直、そなたが真顔で知らない知らない、と言い張るのを聞くのは、私個人として、とても辛いのだ」 本気なのだ、と北の方は思う。 だがもう少し。「『かきなす琴の』と言うではないか。辛いものだ。 ―――よそよそしく琴を弾こうともしないうちに、夜は更けてしまって、私は泣くにも泣けない―――『君がつらさに』とはこのことだろう」 北の方は返す。「『秋の調べは弾くものことあれ』と言います。 ―――秋風が調べる松の音色は竜田姫が弾くことになっていますが、今度のは誰の手でしょうか――― 私を竜田姫とでもお思いなのでしょうか?」「いやいや、この琴には誰も手を触れてくれないので、すっかり塵が積もってしまったよ。 ―――水が浅いので、弾く人もいない山の小川は塵が調べているようだ――― その誰も弾かない琴を、そなたが弾くというならば、そこには深い因縁というもがあるのではなかろうか」「…もし目で見なかったら如何致しましょう? ―――水が『浅い』ために細かい砂まで見える山川が音を立てないように、経験の『浅い』私は秋の調べ/律の調子などはとても弾けないでしょう―――」「そう言っていないで、さあ。 ―――田の水の番をする『水守』さえ弾き始めれば、山川の底から水は絶えず湧き出るだろう。そなたの琴の才は泉の様に湧いて尽きないから――― 私の愛情も、その泉にも増して限りなく深いだろうしね」 北の方は少しばかり胸が騒ぐのを感じる。夫以外の男からその様なことを言われたのは初めてである。しかも――― 帝が。やんごとなき方が。「弾かずに居ようとする気持ちは判るが、それでは退出もできまい。いや、私がさせまい。さあ」 帝はそう言って勧める。 ああもう、これが限界だろう、と思い、北の方は琴を自分の元に引き寄せた。 ほんの微かな音で「胡蝶」などの小さく儚い曲を奏で始める。 指慣らしのつもりだった。ずっとずっと触れていない琴。上手く動いておくれ、と彼女は祈る。 幾つかの小曲を弾いたところで、帝がもういいだろう、と推し量る。「その様におそるおそる弾くのでは、却って心が滅入るというものだ。これは、という曲をぜひ弾いてはくれまいか」 これは、という曲。 北の方は指が覚えていることを祈る。 左の指で弦を押さえる。右の指を動かす。奏でる。ゆったりと。 指に集中するうちに、彼女は次第にここが何処であるのか忘れかけていく。 この琴が、かつて弾いた「なん風」にも劣らない名器であることに次第に気付く。 ああ何て素晴らしい音。それに何て響き。 彼女は自分の出す、その音に次第に酔って行く。 ああ御免なさいね。もっと素晴らしい音が出せるというのに私がこんな、練習などもとうに忘れ果てた様な腕で。 外では何やら面白い調べが聞こえてくる。そう、それに合わせてみましょう。 帝はその様子をゆったりと見守る。 次第に北の方は自分の世界に没頭し始める。 音は彼女に昔を思い出させる。 うつほから出て以来、触れてはいなかった琴。何年ぶりだろう。夫の兼雅にすら、聞かせることはなかった。 …そう言えば、どうして自分は兼雅には聞かせなかったのだろう。 ふと思う。 兼雅は琴を彼女に求めたことはなかった。いや、妻がこれほどの名手だということも知らないだろう。 彼はただ、最初に出逢った女に愛しさを覚えただけなのだ。 あの「若小君」は確かに少女の琴の音に惹かれて立ち寄ったのだろう。 だが大人の「右大将兼雅」にとって、それは大して重要ではなかった。そこに居て、自分と向き合う彼女を再び愛したのだ。 ああそうだ。 仲忠が時々自分に問うことの答えがおぼろげに見えた気がする。 何故兼雅を、と。 普段、仲忠は父のことをさほどに尊敬していない様に彼女には見える。からかっている様な時もある。自分が俊蔭を尊敬した様な、そんな姿はあの父と子の中には無い。 何故だろう、と思うこともあるし、確かに、と思うこともある。 そして時々仲忠は言うのだ。 母上はどうしてあの様な父上を好きになったのですか、と。 もしかしたら、自分の代わりに琴を弾かせた裏には、兼雅より帝の方が自分に似合いだ、という目論見があったのかもしれない。畏れ多いし、邪推だろうが。 だがそれでも。 もしどちらかを選べ、と言われたら、自分は兼雅を選ぶだろう、と彼女は思う。 琴を弾くうちに、目の前の人物が「やんごとない方」から、ただの男に見えてくる。 ではこの「ただの男」の方は、自分から琴を取っても執心してくれるだろうか。 否。 即座に彼女は否定する。 ここでもし話すことによって帝が自分を見直したとしても、まず「俊蔭の娘」「琴の伝授者」ということが頭にある以上、ただの女である彼女を見ていることにはならない。どれだけそこで熱情が深まったとしても。 だが兼雅は違う。 彼は彼女の素性も知らずに恋した。 そして今も何処の誰であったにせよ、琴などまるで弾けなかったとしても、ただただ愛してくれる。誰よりも大事な女として扱ってくれる。 大らかな人の良さが、息子には物足りないのかもしれないが、自分には安らぎである。 そうなのだ。 琴は大切だ。だがそれと同時に彼女にとっては重いものだった。 兼雅はそこから彼女を解放してくれたのだ。*「…おや、何処からか琴の音が」 誰が最初に気付いただろう。「美しい音だ」 外で管弦の遊びをしていた者達も、次第に北の方の琴の音に、手を止める。耳を澄ませる。部下の手を止めさせる。「誰だろう? 今の世の中で、これほどの音を出す者が居ただろうか?」 音の主に皆が頭を悩ませ始める。「仲忠の中将くらいではないか? こんな素晴らしい音は」「でも仲忠どのはあそこに居るし」「藤壺の御方ではないか?」「いや、藤壺の御方は今日はいらっしゃらない。いらしたなら、東宮さまがここぞとばかりに披露させるだろう」「もしや…」 ふと誰かが兼雅を見た。「いや、まさか」「しかし」「大将殿の三条の北の方は、かの俊蔭が手を伝えられているはず」 そうだ、きっとそうに違いない、と噂する声が次第に高くなる。 兼雅はそれを耳にすると、何のことだ、とばかりに首を傾げる。「仲忠、あれはそなたの母上だと皆が言っているぞ。そんなことがあるか?」「さあ」 仲忠は落ち着き払って返す。「不思議な程に素晴らしい琴の音ですね、父上。僕も誰なのか知りたいな」 そのやりとりを聞いていた周囲の者達は、それでは違うのか、では誰、とばかりにしきりに訝しむのだった。お供え お菓子 お歳暮 和菓子 ギフト お年賀 お菓子 ランキング 【あす楽】【和菓子 送料無料】一周忌【ランキング1位】風呂敷包 八菓選 竹かご 老舗 お誕生日【メッセージカード】内祝い お返し 出産内祝い お誕生日プレゼント ご挨拶 引き出物 還暦祝い 古希 喜寿 米寿
2017.12.28
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その四の一 三条北の方、仲忠に言葉巧みに誘われ、参内する 仲忠は無言で立ち上がり、御前から下がる。 それを見た兼雅は驚いて立ち上がる。「何処へ行くんだ。あんなに帝がお召しだったのに、どうして御前を去るんだ?」 黙って彼は苦笑で返す。「変な奴だな。落ち着かない。しばらくはじっとしていなさい」「帝からの仰せ事がありまして」「なら仕方が無いが」 何の仰せ事があったというのだろう。兼雅は首をひねる。 仲忠はそのまま陽明門の方へと向かった。 そして自分の車ではなく、そこに置いてあった父の車に乗って行くことにした。 帝の仰せだ、と言うと兼雅の従者達は皆納得して、そのまま付いて行く。* 仲忠は三条殿に着くと、すぐに母の元へと向かい、簀子からその姿を伺う。「おや、母上、今日は御髪を洗ったのですか」「ええ、日も良いことですし」 たっぷりとした長い髪は、まだ干しきれていない様だった。 だが横になっているという程でもない。 おおよそは乾いている様だった。隙間から見えるそれは、ほんのりとした灯りにもつやつやと輝き、非常に美しい。「どうでした? 相撲はどちらが勝ちましたか?」 母は訊ねる。「左です」 仲忠は答える。「あら、それは残念だわ。もしかしたら右がお勝ちになるのじゃないかと思って、大勢集ってお待ちしているのに」「それはひどいですよ母上。僕が居る左近衛が勝つのが嬉しくは無いのですか? ああ、母上は僕の側が勝ったことより、父上の方が負けたことが悔しいんだ」「あら、そんなことは無いですよ。実はね、仲忠、さっき使いの者があなたを探しに来た時に、相撲の結果も教えてくれたのですよ。だから私からもお祝いをしようと準備していたのに、いつまでたっても来ないから、ちょっと寂しかったの」「では左近衛を引き連れて、左大将どのをはじめ、皆揃って参りましょうね。…あ、でも、今はちょっと駄目だな」「どうしてでしょう?」 北の方は首を傾げる。「実は今、内裏の方では、とても面白いことをしていまして。そう、滅多に無いことなんだ。左近が勝ったからなんだけど…」「まあ、どんなこと?」 少女の様に、北の方は喜ぶ。「世に名高い雅楽寮の舞の師や、歌や笛の師がもう、これでもかとばかりに集められて、様々な演奏や、舞いを行ってるんだ」「まあ…」「で、僕一人で見ているのもつまらないので、母上をお誘いにきました」「あら、それは駄目よ」「どうして?」「畏れ多くも帝が御覧になる様な素晴らしいものを、どうしてこの母が見られましょう?」「僕がそこのところは上手くお膳立てするよ。本当に、極楽浄土の音楽はこうじゃないか、と思った程なんだ。もし母上が少しでも聞きたい、という気持ちさえあれば、僕が何とかするから」「でも、はしたないわ… それに、父上がどうお思いでしょう」 仲忠はそれを聞くと、母には判らない様に口元を歪め、調子を強める。「父上には何も言いませんよ。何も心配無いから。僕がこっそりお連れするだけなんだから… 早くお仕度を」「そうね… はしたないことはしたくは無いけど… でも、あなたの話を聞いていると、とても行きたくなってしまうわ」「僕を信じて下さいな。はしたない様なことをどうして僕が母上に勧めると思うの? そう思われていたなんて、何って残念。さあさあ、行きましょう、お急ぎを」「え、え」「そうですね、少し『これ!』と思う様な趣のある着物に換えて、皆が目を留める様な格好で行って欲しいなあ」「…それは、まあ…」 何だろう、と母北の方は思う。 この息子にしては、ずいぶんと積極的ではないか。そう、こんなことは初めてじゃないか?「着物は――― よく探せば、あなたの言う通りのものは見つかるけど… 私の姿の方は、所詮生まれつきのものだから、何処から取り出しましょうね。しまったところも思い出せないわ」「かたちをよく整えて化粧をなさるのが必要な時もあるんです。さあさあ」 化粧のことまで口を出す。これは本気だ、と彼女は気を引き締める。 何の裏もなく、この息子が自分を人の多い場所へ連れ出すとは思えない。何か必ずあるはずだ。 戯れ言で応酬してきたが、それが仇になったかもしれない、と。 しかし。「では支度しましょう。でも出来上がりにあれこれは言わないでね」 そう言って北の方は、まだ充分乾いていなかった髪を、急いで仕上げる様に女房達に指示する。 仲忠はその間も、何かと母に呼びかける。「それにしても、今日の相撲は残念だったなあ。無論僕の側が勝って、父上の方は負けてしまった、っていうのもあるけど、勝負自体に一回負けてしまったこともあるんだ…」 彼女には弁解に聞こえなくもなかった。「右方の相撲のあるじのお相伴の準備においでになった方々を、母上のお供として一緒に車に乗せて下さいね。僕は馬でお供するから」 そう母に言うと、仲忠は車の用意に急ぐ。「父上がいつも使う檳榔毛びろうげの車と、別に副車ひとだまいを三台添えて参内しようと思う。皆、用意を頼むぞ」 は、と家人達は皆緊張する。「それから、右馬寮の助が今、父上の厩の別当だったな」「は」「僕が乗っても咎を蒙らない様な馬を選んで、鞍を置いておいて欲しい、と」 するとそれを聞いた馬の権助の国時がこれは面白い、とばかりに答えた。「世に言う名高い『龍の駒』であっても、あなた様がお召しになるのでしたら、咎などはございませんでしょう。御厩そっくりお持ちになっても!」「あはは。僕自身、野育ちの馬の様なものだからね。厩の雑用でも何でも大丈夫さ」「駒牽こまびきも近くなりました故、野育ちの馬もその数に入ることもありましょう」 駒牽とは良い馬を集め、帝などの前でお目見えさせる行事である。主に五月の騎射の前に行われるのだが、秋八月にも趣旨は違えども、同じ行事がある。「若様、藤壺の御方をお送り致しますのですか?」 かつて彼が懸想人の一人だったことを国時は揶揄しているのだろう。仲忠はそれをさらりとかわす。「似た様な美しい方をお送りするんだよ。だから馬の支度をしてくれないか?」「いつもの君が好きわざをなさるのですね。 ―――今でも夏衣が透いて見える様ですね。秋/飽きが来れば脱ぎ替えるはずの衣でございますのに」 それを聞くうちに、ふっと仲忠の側を涼しい風が吹きすぎた。「―――秋の夜の涼しい頃に出で立つ/裁つ時は、着替える衣もやっぱり透いて/好いているよ。お前の言う通りさ」「そうですか。まあ戯れ言はそのくらいにしておいて、若様、馬の鞍はどちらに致しましょうね」「移鞍うつしぐらを置いてくれないか。何をしても無礼だろう。それ以外じゃ」「お供の男達には移鞍が無い者も居ますので、あなた様がそっちをお選びになりますと、急なことなので男達は困惑致しましょう」「いやいや、何の遠慮も要らないさ。男共はいつもの通り唐鞍でも倭鞍でも置けばいい。僕は数に入っていないし、世の中にも認められていないから、これでも謹んでいるんだよ」 国時は呆れつつも、厩に三十匹以上居る中で、吹上の浜で引き出物として貰った駁の馬を選び、移鞍を置き、仲忠の前に引き出した。 一方、母の支度も着々と進みつつあった。 洗って乾かした美しい髪を櫛で梳り、花文綾に模様を摺り出した裳に唐裳を重ねることにする。 やや涼しくなってきたので、結局、綾の掻練の袙を一襲に、赤色の表衣、その上に二藍襲の唐衣をまとった。「格別、珍しい装いは出来なくて、…まあ、こんなものですよ」 北の方はそう言って微笑む。 大人が六人、童が四人、下仕えを二人従えて、御簾のもとに出立するばかりである。 仲忠はそんな風に少し跪いて居るのを、庭に灯した松明の光で見る。「…母上」 思わず仲忠は息を呑んだ。 灯りの中、北の方の姿は、照り映えて眩しい程の美しさだった。 髪の長さは身の丈より二尺程長く、普段は少し小さく膨らむ癖があるのだが、洗ったばかりなので、背中一杯にこぼれる程、全く一本も乱れていない。 姿の美しいことは言うまでも無い。身の丈も丁度良く、すらりと美しい。「―――母上、何か、凄く… もの凄く…… 美しいです」「何を言うの、突然」 くす、と母北の方は笑う。「本気です。誰も母上に叶う者は居ないと思う」「あの方はどうなの。藤壺の御方は」「顔も御覧になれない方と、どうして比べられましょう?」「嘘」「それはともかく、僕は今、母上を見て、何処から降りてきた天女なのか、と思った程だよ。父上がこの姿を見られないのはさぞ残念だろうなあ…」 まあ、と北の方はつぶやき、車を寄せる様に頼む。仲忠は車まで几帳を自らかざして母の姿を隠す。 その後に大人二人が一緒に乗り込み、副車に他の女達を乗せて行く。 仲忠は移鞍の馬に乗って、母の車の轅に寄り添って立った。 その後を、兼雅の饗のためにやって来ていた四位から六位の者達、合わせて八十人程が付いて行く。 やがて、大内裏の北の御門――― 朔平門に差し掛かった時、仲忠は「ちょっと待って」と車を止めさせた。「前駆の人達は母上の車の側に居て欲しい。今は僕一人で参内するから」 仲忠はそう言って、仁寿殿へと向かった。 帝は仲忠に気付くとふふ、と笑って問いかける。「どうした? 約束のことは」「車の中に」「そうか。では例の賭けはそれで良しとしよう」 は、と仲忠は帝の答えを有り難く受け取り、その足で梨壺へと向かった。 そこには彼の妹が東宮妃として仕えている。「一寸お尋ね申し上げます」 仲忠は問いかける。「どなた?」 中から梨壺の君の母宮の声がした。「仲忠でございます」「まあ、仲忠どの。娘は東宮さまのお側に居るはずだけど」 朗らかな声が耳に届く。 母宮――― 嵯峨院の女三宮は、かつては一条院で兼雅と仲睦まじく暮らしていた。 だが三条の北の方との再会以来、兼雅はまるでこの人を顧みなくなってしまった。 所在ない彼女は娘を東宮に奉った後は、表向き、娘にかしづくという形をとって、ずっと宮中にばかり棲んでいる。「いえ、母宮さまにお願いが」「何でしょう」「従者の使う御几帳が欲しいのですが、どうも里へ取りにやる余裕がございませんので、少々お借りできないでしょうか」「几帳ですか。ええ、大変汚れておりますが、宜しかったらどうぞ」 ありがとうございます、と仲忠は応える。「ところで仲忠どの」「何でしょう」「いえ、この年頃、まだ若い梨壺が一人きりなのに私、心配になりまして」「母宮さまがいらっしゃるではないですか」「ええ。でも決して若くはございません。いつ何があるか判らない身です。それに、確かに私はここに居りますが… 他の方がお寄りにならないのはともかく、あなたまでが滅多にお尋ね下さらないのは、まるで私のことを疎ましがっているかの様ではないかと」「そんなことは」「…と、口さの無い者達が言うのです」「そんなことはございません」 仲忠は必死で抗弁する。「左大将どのの中の大殿に行った時、母宮さまは、嵯峨院の方ではないかと伺っておりましたた。まさかここにいらっしゃるとは」「そのまさかだった訳ですけどね」 ほほほ、と母宮は笑う。「僕には何も出来ないので、却って恐れ多いことなのですが、梨壺の姫君が東宮さまのお側にお仕えなのですから、頼りない者とそちらが僕のことを御覧になろうとも、他の人よりは特別にご信頼頂ければ、大変嬉しく存じます」「ありがとう、よく仰って下さいました。あの子も可哀想なことです。父君すら今ではあの子のことをお忘れなのですか、もう頼るところなど何処にも無いのか、とつい愚痴の様なことを」「そんなことはございません」「いいえ、全く世間というのは空しいものです。私の同腹のきょうだいにしたところで、こちらのことなど思いだしもしてくれないことです」「僕は同腹ではございませんが、梨壺の姫君はそれでもきょうだいである以上、これからは、格別な用事が無くともお世話させて頂きます」 仲忠は几帳の用意ができた様子を伺う。「色々と母宮さまとは語り合いたいこともございますが、只今は急な用事がありますので、失礼致します」 梨壺で借りたのは、花文綾の帷をかけた三尺の几帳を二具だった。仲忠はそれを母の元へと持って急ぐ。 帝は仁寿殿の南廂に御座を設けて、その西の方に屏風や几帳を立てさせた。そして上達部の席を、中が遠く伺えない東の方へと移した。「あ、祐純さん、少しいいですか」 仲忠は途中で見かけた友人の一人を呼び止める。「何だい?」「実は帝から是非に、と頼まれた方をお連れしたんです。で、あなたの陰に隠して連れて入ってもらえないかな、と」「誰だい? その方は」「まあそれは誰でもいいじゃないですか。ともかく急いでまして」 何だかな、と思いつつも、滅多にない仲忠からの直接な頼みに、祐純はまあいいか、と頼まれる。 身分が高く、かつ親しい人ではないといけない。そういうことだろう、と彼は了解したのだ。 仲忠は几帳を祐純や、極親しい人々に持たせ、自分は兼雅の殿上用の沓を母に履かせるために人に持たせていた。「早くお降り下さいね」 すると母北の方は驚いて問いかける。「降りるのですか」「はい、降りて下さい」「でも、見物なら、車の中で出来るでしょう?」「ええ、でも今は」「降りもしない、桟敷も見えないから、どういうことだろうとぼんやりしてしまいました。降りて何処へ行けとあなたは言うの?」「その辺りには少々目をつぶって下さいな。僕が悪い所に連れて行くことは無いことくらい、ご存知でしょ」「まあ、すっかり騙されたわね、ずいぶんと妙な参内だこと。まさかこんなことになろうとは思ってもみなかったわ。ひどいこと」 しかし母北の方は、うつほで暮らすことを決めた時から、仲忠の言葉には従うことにしていた。自分には何もできないのだ。 彼女は意を決して車から降りた。 童四人が几帳を持って最初に降り立った。 その後に仲忠、北の方、女房達がついて行く。 仲忠は北の方に沓を履かせ、裳を取り、髪の乱れを繕う。その甲斐甲斐しく世話をする仲忠とその母の姿は、端から見ても、大変美しいものだった。 仲忠は身仕舞いをすると、自分も他の君達と一緒に、母の周囲を几帳で囲う。【熊本銘菓】【とんち彦一もなか】★40個入り★香ばしく、パリッと焼かれた最中の皮の中に、北海道産小豆の粒餡と大手亡のきんとん餡をたっぷり詰め込んだ自慢のもなかです!【楽のし】【楽ギフ_のし宛書】敬老の日
2017.12.27
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その三の三 帝、仲忠を言葉で追いつめて母を呼び出させようとする「…そう言えば、藤壺は居ないのか?」 自分の妃達の御簾の中へ入ると、東宮はすぐさまそう問いかけた。「せっかく右大将が仲忠を連れてきたといううのに」「あの方がいらっしゃらないと、私とても寂しゅうございます。あの方がおいでになるのが、私にとっては今日の相撲よりずっと素晴らしいことなのに…」 妃の一人、嵯峨院の女四宮がつぶやいた。 ふむ、と東宮は少し考える。 彼はやがて石や貝についたままの、生の海藻を取ると、藤壺にこう添えて送った。「どうして今日は来ないのだ? 仁寿殿に皆揃っているというのに。 ―――どうして見ようとしないのだ? あなたは海底の玉藻を採ろうと深く潜る海女の様に表に出ようとしないのだな――― 私には不思議で仕方が無い。今からでも遅く無いから出ておいで」 それを見た藤壺はこう返す。「―――人が見る/海松みることから逃れて、海の底に隠れようとする私/藻ですが、見る目/海松布みるめが障りになって潜ることもできません――― 皆様の目が怖くて」 ふうん、と東宮は返しを見てうなづく。そのまま彼はそれを女四宮にふらりと渡す。「ほら御覧。評判ほどじゃあないよ」 彼女はどう言っていいのか迷った。 その間に東宮は一人で帝の御前へと出て行ってしまった。 女四宮は手元に残った返しを眺める。 ああやっぱり素晴らしい手跡だ、と思う。そして同時にこう気付く。東宮は藤壺がこの場に居ないことを喜んでいる、と。 あくまで直感だった。この時は。 やがて仲忠が兼雅に連れられてやって来た。 仲忠は侍従の時代にもその容貌をずいぶんと褒め称えられていた。そして官位も上がった今、その頃に増して、と皆が感じていた。 一方、彼を連れてきた父右大将にしても、まるで親子には見えない。ほとんど歳の変わらない兄弟だ、と眺める皆が感じる。 正頼は他の者と舞いをしている所だったが、二人に気付くと即座に呼びかけた。「仲忠は今日はまた、申し分も無い随身を連れているのだね。けど中将の君が、大将の父君を随身とはまあ」 仲忠は黙って軽く目を眇める。「さてせっかく右近の大将が随身というのに、どうして左近の私がしないでいられようか」 そう言って正頼は兼雅と一緒になって、仲忠を前に押し出す。仲忠は聞こえない程度にそっとため息をつく。「あ、仲忠さまだ」「何処にいらしたのですか」 仲忠を探し回っていた少将達や近衛の者もそれを見ると、慌ててついて行く。 涼もその中にそっと紛れ込む。そして夕映えの光の中、物憂げな仲忠の姿はまたたまらない、とこっそり思う。「やあ、やっと来たな」 帝は左右大将を引き連れるかの様にしてやって来る仲忠を見ると、機嫌良くそう言った。 弾正宮が立って御階みはしから下りて仲忠を迎える。 兵部卿宮や他の若宮、それに続き上達部や皇子達、殿上人と、その場に居るありとあらゆる人々が彼を迎えた。「さて仲忠。宮中に居ながらそなた、どうして私が召した時に来なかったのだ?」 物憂げに首を傾げる息子に代わり、兼雅が口を挟む。「左近衛の幄あく舎で、左大将どのがお盃をしきりにすすめられたのを良いことに、この不肖の息子は無闇に呑んでひどく酔っぱらってしまい、深い葎の下に隠れていたのでございます。草の中で笛の音が聞こえたものですから、そこを探してようやく見つけました」「なるほど、草笛を吹いたのだな」 帝はくっ、と笑う。「隠れんぼをしたのでしょう」「酔っていても遊びの腕前は忘れられないものとみる。 ―――大宮の中で今何も恐れる事を知らない人/仲忠は、何を恐れて誰と葎の下で臥していたのかな――― 今も人なぞ居ない様な態度ではないか」 仲忠はそれを聞いてようやく口を開く。「―――大宮には知り人もない松虫/私は野原の葎で寝る方が気楽なのでございます。相手が居るなど以ての外」 ふうん、とそれを聞いていた東宮も口をはさむ。「さぁて、その葎が何処なのか、私には判るけどな。 ―――松虫が訪れた葎の宿では、一緒に泊まった露が物思いに耽っているだろうよ」 仲忠はあくまで表情を崩すこともなく、返す。「―――おっしゃる野で宿ることを許されたなら、松虫/私はわざわざの葎を頼りどころとは致しません」 東宮はその歌を正頼に回す。「―――もし松虫に宿を貸すならば、秋風に違った香の花が現れるでしょう」 正頼はそう詠むと、歌を弾正宮に回す。「戯れ言でしょうが、懸想人の一人だった私のことも思い出してくれたのですね。 ―――毎年秋になると、野辺に匂う花をよそに見ては、松虫/私は空しく旅に時を過ごすのです――― 私は悲しくて辛い、とそれだけ申し上げたいと思います」 さて、と帝は強情な仲忠を見ながら考える。 どうやったらこの青年に物を言わせることができるだろう。 仲忠はその時、帝からやや遠い席に居たのだが、近くへと呼んだ。 碁盤を持って来させ、相手をするように、と命じた。「…さて、何か賭けようか」 ぴく、と仲忠の頬が震える。「そうだな、大事なものはよそう。ちょっとした口約束がいい。三番勝負だ」 帝はそう言うと、相手に黒石を持たせた。 仲忠はやや躊躇したが、ぱちん、と石を盤上に置いた。 帝の碁の腕はなかなかのものである。宮中の者と勝負しても、大概は勝利する。 それを仲忠が知らない訳は無い。 有利な条件で賭けを持ちかけている。帝も判っている。彼は勝てる勝負を、賭けをしたいのだ。 ただ相手は仲忠である。 彼もまた、非常に強い。気は抜けない、と帝は思っていた。 一方仲忠は。 おかしい、と見ている涼が見るほどにいい加減だった。 魂が何処かに行ったままだ、と思った。 おそらく未だに彼の心は先ほどの藤壺での遊びの中にあるのだろう、と。 思わず涼は額をはたく。何をやっているんだ、と。 彼は帝の考えが手に取る様に読めただけに、ぼぉっとしている仲忠の背をしゃんと伸ばしてやりたい気分だった。 そうこうするうちに、一番は帝が勝利した。 ふと仲忠の目が見開かれた。 涼はちら、と自分の方に向けられた視線に、思い切り顔を歪めてやった。このままだと負けるぞ、と。 その思いが通じたのか、二番は仲忠が勝利した。 だが三番で。「あ」 思わず仲忠は声を立てた。ふ、と帝は笑った。「あそこで打ち損なったな」 結果、一目の差で、帝の勝利となった。「そなたらしくもない」「いえ実力です」「さぁて」 実に楽しい、と帝は心底感じた。仲忠がこんな風に打ち間違えることなど、滅多に無いのだ。 一番にしても、気合いが入っていないことなど、帝にはお見通しだった。 それ故にさっさと勝負をつけた。真剣にさせるために。 だから二番は負けた。これは本気だ、と嬉しくなった。 そして三番で。「さぁて」 実に嬉しそうに帝は言う。「約束通り、言うことを一つ聞いてもらおうかな」「何をすれば」「何、難しいことは無い。もっとも、この趣深い秋の夕暮れなんだもの。私がそなたに言い出すことは並々のことじゃあないよ」「…」「そなたももう少し気を付けて勝負をすれば良かったものを」「自分に出来ますことならば」「そなたに出来ないことがあるのか?」「人間ですから、出来ないことくらいあります。しかしその時には理由を申し上げましょう」「出来ることなら承諾するんだな」「仰せ事を伺ってから御返事申し上げます」 成る程、と帝はやはり一筋縄ではいかないことに気付く。 仲忠の前に一つの琴が持ち出された。涼はそれを見て成る程、と思う。自分に出された琴「せいひん」だった。「これこそ今日の口約束には相応しいことだと思うがな。胡茄こかの調子に合わせてある。それを変えずに音の限り繰り返し弾くのだ」 仲忠はじっと琴を眺めていたが、やがてぱっと顔を上げた。「…畏れながら、これ以外の仰せ事でしたら、死も厭いません。主上がもし『蓬莱ほうらいの不死薬、悪魔国の優曇華うどんげを採りに行け』と仰られても、仲忠は出来る限り力を尽くしますが、只今の仰せ事だけは、蓬莱山や悪魔国に使いとしてお遣りになるよりも難しゅうございます」 すると帝は大声で笑った。「二人と得難い勅使だな。だが今蓬莱の山へ不死薬採りに渡ったところで『使いに立った少年少女ですら舟の中で老い』『蓬莱の島は見えても山が見えないと嘆いて』帰るに過ぎないさ」「…」「機知に富む秦の始皇帝の徐福、漢の武帝の文成でも、とうとう行き着けなかったその蓬莱だぞ。今そなたがこの日本の国から、何処へ行っていいのかも判らずに不死薬を求める使いになるのは、少々面倒ではないのか?」 少々、の部分に帝は軽く力を置いた。「それこそ子供達と同じじゃないか?」「…」「そうそう、それに道中、佳い女に捕まってしまうかもしれない。文成が遊仙窟に留まった様に! ああ、それだとやっぱり『二なき勅使』そっくりと言えるかな」 それに、と帝は今度はやや真面目な口調になる。「悪魔国に優曇華を採りに行くとしたら、逆の心配事が起こるだろう」「逆の」「そなたは両親が心配ではないのか?」 ぐっ、と仲忠は拳を握りしめた。「かの金剛大師が南印度から優曇華を採りに渡った理由は知っているだろう?」 はい、と仲忠は答えた。「彼に悪意を持った当時の皇后が、隣国から親しい人々を迎えて歓待するから、と大師を送り出したのだ。しかし遠い所だ。自然と年月が経ち、親族との死に目に会えずに嘆いたという。そなたも急に親を見捨てて悪魔国に渡るとしたら、どうも少々考えの無い不孝者になるだろうな」 意地悪だなあ、とそれを聞いていた涼は思う。 仲忠にとって確かに両親は大切である。だがその一方で複雑な思いを持っているものである。少なくとも、そのたとえで使われるのは嬉しくないだろう。「だから、私が言っているのはそんな二とない難しいことではなく、ここでちょっとそなたが知っている調べを一つ弾く様なことだ。優しいことではないか」 そうは仰いましてもね、と涼は内心ため息をつく。 ここで帝に「諾」と言ってしまったら、この先どれだけ佳いように使われるか判らない。自分同様、仲忠はそれがたまらなく嫌なのだ。 琴は自分の好きな時に、好きな様に弾きたい。彼と違って人に幻覚を見せる様な腕を持たない自分でもそう思うのだ。ましてや。 しかし帝は続ける。「不可能な使いになど行かずに、ただこの琴を一手弾いて聴かせさえすれば、あの不死薬や優曇華を採ることに劣らないと言っているのだ」 おお、と周囲から声が上がる。それほどに、と皆が驚く。「不死薬を口にした者は一万もの歳を生きるという。かの国の皇帝は困難な使いを遣って、そんなありもしない薬を探させた。優曇華にしたところで同じだ。人の、短い命を長らえさせようとするものだ」 ありもしない。 さらりと流した言葉だったが、そこに涼は帝の聡明さと、仲忠を言葉で責め立てることに楽しみを感じていることを感じた。「そなたが今夜の賭けに負けて薬や優曇華を採りに行くというのを、ああそうかと言って蓬莱山や悪魔国まで勅使として立たせることは私にはちょっと出来ないことだね」 ちょっと、に力を込め、くすくす、と帝は笑う。「私がこんなにもそなたを近くに置いて親しくなったというのに、そういう恐ろしい使いとして遠い遠い所へ旅立たせてしまったなら、私はきっと後悔するよ。ああ何であの時仲忠を行かせてしまったのだろう、可哀想に可哀想に、と。それは今生きて、そなたを育てた人々も同様だろう。両親の嘆きを見たいのか? 不死薬を求めに行く途中に死ぬ様なことがあっては本末転倒ではないか」「…蓬莱は行くには難いところではございません。ただ、不死の薬が枯れてしまったのです」 おや、という様に帝は仲忠を見る。「ほう。だけど今日は玉山にあるという西王母の家に居るかの様だ。西王母は不死薬を持つという。何でも願いが叶う様な気がする」「きっと護衛には少年少女が居りますでしょう」「海は広く風も早いというのに、それをどう止めようというのか?」 仲忠は苦笑する。「尤もでございます。その様な使いはできません」 そしてその一方で、琴の弾けない趣も漢詩に作って帝に披露する。「まったくぬけぬけと言うものだな」 結局自分が負けてしまうのか、と帝は悔しくなる。それでは何か琴以外では無いものか、と考える。 ふと一つのことが浮かんだ。「ああもう仕方が無い。そなたに琴を弾かせるのは無理の様だ」 仲忠の表情が一瞬にして緩む。「では仕方が無い。その代わり、そなたと良く似た手の者を召しだして参れ」「似た手」 仲忠の表情が再び引き締まる。帝の思うところを即座に理解したのだろう、と涼は思う。「そうですね、この筋の手でしたら、右近将監の松方が」「松方の手は度々耳にする。もう少し珍しい弾き方をする者は居ないのか」「―――心当たりはございません」「女の中に居るだろう。思い出してみよ」 ぐっ、と仲忠は唇を噛む。やはりな、と涼はそれを見て思う。「父方の親戚にも母方の親戚にも、女は大変少うございます。女の方で思いつく方は居りませんし、男では松方以外には」「そうか?」「母方の親戚には、祖父の俊蔭朝臣の琴を受け継いで弾く者もありましょう。しかしそれも、さほどのものでは… 少なくとも仲忠の耳には入ってきません」「まあそれはそうあろう。身分の高い殿上人で、俊蔭の才をそのまま伝えた者は居ないのか? 絶対に無いとは言えないだろう。それこそをそなた自身の代わりとするがいい。そう、できるだけ早く!」「主上」「そなたの手すら聴けないのに、それすら無理だと言うのか、何と悲しいことよ」「それは」「連れてきなさい。そなたに直接教えた筋のひとを」 もう断れそうにはなかった。かりんとう・あられ・羊かん詰合せ CB-40 [ お菓子 和菓子 カステラ スイーツ ギフト 詰め合わせ セット]【送料無料キャンペーン】【オリジナル挨拶状OK】
2017.12.26
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その三の二の二 藤壺に隠れる仲忠、涼との合奏で兼雅に見つかり戻される 一方、仁寿殿の方では仲忠の姿が見えない、と大騒ぎになっていた。「退出したのか?」 帝は眉を寄せる。「いえ、その様な知らせは受けておりません。確かに陣からは出てしまわれた様ですが、随身は残しておりますし」「…逃げたか」 帝は思わず苦笑する。「先程まで左近衛の幄舎で箏を様々に弾じていたのだから、まさか退出はしていまい。探して連れて参れ!」 だがその周囲を探す者達はからは口々に「中将どのの姿はありません~」という言葉が続くばかりである。 仕方ない、とばかりに帝は父である兼雅を呼び出した。「お呼びで」「ああ兼雅。仲忠にどうしても会って頼みたいことがあるんだが、あれの居所をそなた、知っておるか?」「おや、只今まで居りましたのに。退出したのでは?」「では呼んで参れ」 はい、と兼雅は素直に従う。 少しして戻ってきた彼は、これまた予想された答えを返してきた。「…退出した様にも見られません。おかしな話でございます。…おや、涼の中将がいらっしゃる」 涼は黙ってすっと頭を軽く下げる。「…もしや、琴をお聴かせする様にあれにお命じになったのではございませんか?」「如何にも」「ああ! それでか! 早々と察知して逃げたのでございましょう。我が子ながら、あれは全くもって変わり者ですから。ともかく琴のこととなると、何かと言うと姿を隠して逃げてしまう」「親にそう言われるまでの変わり者ったのか」 ははは、と帝は笑った。「ともかく暫くは御琴はお隠しになり、涼中将も御前に居ないで退出するのだと言い触らしてお隠しなさいませ。でないと、あれは勝手にそのまま退出してしまうでしょう」「確かに」 助かった、とばかりに涼はその場を立った。 そして近くに居た頼純にこう告げる。「私は退出致しますからね。もしも主上のお召しがございましたら、気分が悪くなったとでも奏上しておいて下さいな」「ちょ、ちょっと涼どの」 頼みましたよ、とばかりに涼はその場からぱたぱたと立ち去る。 彼には仲忠の逃げ場所の想像はついていた。 藤壺だ。*「あー、やっぱり居たな」 誰、と仲忠は振り向き様に誰何した。「私だよ。君のお友達の涼君ですよ」「…何だ、あなたか…」 仲忠はほっと胸を撫で下ろした。「私じゃあ悪かった?」「そんなこと無いよ。でもどうしてここに? 帝からあなたはお召しがあったのでは?」「どの口がそう言うんだい」 そう言って涼は仲忠の口を横に引っ張る。「君が居ないって帝が怒ってらしたぞ。君は私すら秋風の様に袖にしたんだな」「や、そんな訳… だけど。ごめん」「君らしいと言えばそうだけど。帝がしきりに探してらっしゃるよ」「…困ったなあ」「で、ここに隠れた、と」「僕のことなんか、放っておいてくれればいいのに」「そうも行かないさ。琴のこととなると帝も院も皆目の色変えていらっしゃる。で、今君の父上が帝の御命令で、君を探してる次第」「…父上かあ…」 仲忠はため息をつく。「あのひとは、妙に僕を探すのが上手なんだよ」「父上に嫌だとは…」「言えるよ。ふん、今晩は親も子も無い」「そう言うと思った」 はっはっは、と涼は笑った。 女房達もそんな二人のやり取りにこっそりと楽しんでいた。 当代一、二を争う二人仲良くじゃれている姿は女達にとっては目の保養である。「私にも琴を弾く様に言われて、困ったものだったよ」「でしょうね」「一応帝は、畏れおおくも私のきょうだいに当たられる訳だけど、本当、こういう時には肉親もへったくれも無いね。でも君を探す、という口実で何とか抜け出してこれた」「ふふん、僕のお陰を蒙ると、そんな嬉しいことが結構あったりするかも」 彼らがそんな戯れ言を交わす間に、藤壺の奥から二人をもてなす酒の肴が出されて来た。 もてなしを受けつつ、二人は話を続けた。「けど私にも今日は残念なことがあったんだよ」「何?」「君が今日は必ず御前に参上すると思ったからさ」「そんなことで何が残念なのさ」「何言ってるんだ。私だって君の演奏は聞きたいんだよ。左のなみのりが勝つことより、君の演奏のほうが十倍も凄いことだよ」「そんなこと無いさ」「私だって君がそうするなら、と用意してきたこともあるのに」「用意?」「ああ、それも駄目になってしまったなあ。所詮君の僕に対する友情というのは、そんな程度のことなんだなあ」「涼さんまでそういうことを言うんだ」 仲忠はむきになって返す。「でもね、僕だって笙の笛を調べる時、あなたがここに居てくれれば、と思ったんだからね」「そうなんだ?」「そうだよ」「でしたら」 奥から声がした。「ここでお二人の演奏を私にお聴かせ下さい」* その様に二人が藤壺で宜しくやっている間、仁寿殿で帝から仲忠を探すように言われた者達は右往左往していた。 近衛司から派遣された者は屋敷の方へと訊ねてみる。その他の少将等も、宮中を隈無く探し回っていた。 そして兼雅は、と言えば。 彼は何となく、父ならばでの想像がついたのか、殿上童を一人連れて陣ごとに回り、仲忠の行方を求めていた。 車も随身もまだ残されていて、戻った様子は無い。 ならば、と彼は皇后の御殿である常寧殿を皮切りに、後宮の方へと足を進める。 そしてそれぞれの局を一つ一つ伺っているうちに、藤壺のほうから箏と琵琶の合奏が聞こえてきた。 彼は自分の想像が当たったことに苦笑した。「…どうなさいましたか?」「お前、この演奏をどう思う?」「え? はい、とても素晴らしいとは思いますが、以前ちらと聞かせていただいた仲忠さまのとは…」「と、思わせるのがあいつの悪いところなんだよ」 そのまま彼は藤壺へと足を向けた。 上手な奴というのは。彼は思う。こういうことが出来るから厄介だ、と。 彼らはあえて調子を変えて弾いていたのだ。童は誤魔化せても、兼雅の耳までは。 彼は飛び抜けてはいないにせよ、優れた風流人なのだ。* がさ、と人の気配に二人はふと手を止める。「ああ、居た居た」「…父上」「兼雅どの」 童一人だけ連れた兼雅の訪れに、仲忠は本気で驚いていた様だった。「やっぱりなあ。仲忠、帝がお召しだというのに何をやっているのだ? 早く出て来なさい」「…そのまま退出したと奏上してくれませんか? 気分が悪くて」「何処が」 ぽん、と兼雅は息子に言い放つ。「ここでこんな優雅に演奏している奴を、そんな嘘で取り繕うことなんてどうして私が出来ると思うか?」「けど」「ああ全く見苦しいな。だいたい帝も、『退出しました』と聞かれても『では迎えにやれ』とおっしゃられたんだ」「…」 仲忠の表情が歪む。「だいたい随身も乗り物もあるんだから、退出したも無いだろう。屋敷の方には近衛司の連中が行ってるし」「何で僕をそんなに呼びたいんですかね」「決まってるだろう。そなたの琴が優れていすぎるからだ。観念して出て来るのだな。このままじゃ私が『息子可愛さに隠しているのだな』と思われてしまうのだがな」 はあ、と仲忠は大きくため息をついた。涼はそれを見てくす、と笑う。「だいたいそなたはいつもそうだ。殿上の交際にしても、あんまり我が儘なことが多いので、私はいつも冷や冷やしているのだぞ」「私は弾けない時には弾けないと言っているだけですよ」「それが我が儘だというのだ。そもそも帝の御命令に従わない者は居ない。居てはいけないのだ」 兼雅は本気でそう思っている。涼は感じた。良い意味で実に単純だ、と。 しかし息子は違う。「それを畏くも帝ご自身からお召しになり、我々皆一斉に探すようにという程なのに… 宮中に伺候している身であるのに、仰せに背くとは何ってことだ。早く参上しなさい」「今夜だけはお許し下さい」「あのな、仲忠」 道理の判らない息子に兼雅は呆れ半分失望半分で言い諭す。「今ここでそなたの我が儘を通してしまうと、恨まれるのは私なのだよ」「…」「それはたまったものではない。今日何も起こらなかったとしても、後々何があるか判らないぞ」 成る程その様に兼雅は帝のことを思っているのか、と涼は冷静に思う。「ともかく今日だけは引きずってでも行くぞ。そなたはしばしば人付き合いだのしきたりだのを軽んずるが、形だけこなしていれば何とかなる、ということがこの世には多いんだ。帝はそなたが居ないというだけでご機嫌斜めであそばされたのだぞ。ほら」 そう言うと仲忠の手を掴んで立たせ、そのまま引き立てて行った。 御簾の側では、兵衛の君がくすくす、と笑っていた。「どうしました?」 涼は彼女に訊ねる。「いえ、兼雅さまが」「兼雅どのが何か? 大変そうですね」「ふふ。仲忠さまのことで頭が一杯だというのは判るのですけど」「だけど?」 涼はにや、と笑う。彼女の言いたいことが何となく察せられた。「だって、ここが藤壺だというのに、いつか結構ご執心してらした御方さまのことも、ましてや涼さまのことも全く気付かないご様子だったのが、私、可笑しくて」 そう言えば、と孫王の君もくす、と笑う。「仕方無いですね。私は彼ほどの有名人では無い。さてこれから彼の活躍を見に行きましょうか」冬季限定 四季の九撰 上生菓子詰合せ(黒漆箱・風呂敷包み) 和菓子 送料無料
2017.12.26
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その三の二 仲忠、帝から逃亡脱出するが…… その頃の仲忠だが。 彼は左近の幄あげばりで勝利の祝いとばかりに笛を楽しく吹いていた。「珍しい、彼があんなに」 周囲もその妙なる音色を楽しんでいた。 そこへ。「仲忠どの、帝のお召しらしいですぞ」 同僚が囁く。帝と涼の会話を聞きつけたらしい。 まずい、とばかりに仲忠は笛を持ったままその場からそっと抜け出した。 だが何処に隠れたものか、とばかりに彼はうろうろするばかりである。隠れたところで内裏の中である。何とかして人に見つからないところ――― 彼の足は、藤壺に向かっていた。「…まあ、仲忠さま」 彼の姿を見つけるが早いが、孫王の君が声を上げる。変わらない。しゃんとした姿勢。「ああ久しぶり。元気だった?」「元気でしたけど… どういたしましたの? 只今は、まだ相撲が」「うん、その話もしたいけど、ともかく今はちょっと匿って欲しいんだ」「困ってらっしゃるのですか?」 兵衛の君も驚き、そう問いかける。「ええそうなのです。帝の急なお召しで」「それで逃げてらっしゃるのですか? 情けのうございますわ」 容赦の無い兵衛の君の口調に、仲忠は苦笑する。「でもちょっと困るお召しなんだ。退出する訳にもいかないので、ちょっとだけ隠して欲しいなと思ったんだ」「帝のお召しを困る、とかおっしゃる悪い方をどうして隠すことができましょう? 私達が他から言いがかりをつけられるのも嫌ですわ」「別に悪いことをした覚えは無いよ。君こそこっちで一杯悪いことを覚えたのではない?」「私は別に。でも中将さま、こことは言いませんわ。何処かで悪いことをなさってるのじゃあありませんこと? 火の無いところに煙は立ちませんわ」 それには答えず、仲忠は御簾と几帳の間に隠れて、下長押に寄りかかった。 そして奥に確実に居るだろう藤壺の方――― あて宮に向かって直接呼びかける。「今日の様な晴れの日に参殿なさらない方は、ずいぶん罪深い方だと思いますよ。格別の行事でしたから」「そんなに凄かったのですか?」 兵衛の君は問いかける。「ええ勿論。ですから、あんなに結構な素晴らしい行事を御覧にならないなんて、並々ではない罪深い御方だ、と思うのです」 どうですか? とばかりに仲忠はあて宮に向かって問いかける。あて宮は兵衛の君を通して答える。「あなたをここで私が見逃すのも、また罪になるのでは、とのことです」「時々ここに伺候しているうちに、御方さまに僕も似てきたんだろうな」 まあ、と女房達はくすくすと笑う。 言う程彼はここにやって来ている訳ではない。 通っていると言えばむしろ、ここに仕えている孫王の君の元だ。それは女房達の皆が知っていることだった。 孫王の君はそれを顔にも出さないが、周囲の同僚達は、女一宮の婿として選ばれている彼との仲を皆心配していた。「…というのは冗談ですが、ともかくあんな面白いものを御覧にならなかったのが残念でたまりません。いや、本当に面白かったんですよ」「御方さまは、この頃ちょっと体調が優れないので… ところで、どちらが勝ったのですか?」 兵衛の君は尋ねる。実は彼女もそれには興味津々だったのだ。「何言ってるの。左近ですよ左近。僕が居る方なんだから」「だから左では無かったんじゃないか、と思ってたのですわ」「君もなかなか言うね。まあいいや。でもだからこそ、ぜひ御方さまには御覧になって欲しかったのですよ」 確かに、と女房達はうなづく。それに何と言っても、左近の大将はあて宮の父、正頼だ。そちらに勝って欲しいに決まっている。「御方さまがいらっしゃると思っていたので、舞なども張り切っていたのですが、居ないと知った途端、まるで夜の錦の様に張り合いの無い話でした」「仲忠さま、『ここで一曲演奏して欲しい』と御方さまが」 兵衛の君が伝える。どうだろう、とそれを聞いていた孫王の君は思う。おそらく彼は帝から演奏を強いられそうになったので逃げてきたのだ。 仲忠はふんわりと笑う。「御方さまが合わせて下さるなら、いくらでも」 兵衛の君は主人の方を向く。言葉を伝える様に彼女は促される。 仲忠は繰り返されるそのやり取りに、ふとこう口火を切った。「高麗こま人などの様な外国人には通訳が必要ですが、ここもそうですか? 奇妙なことですね」「『独楽こま/高麗を上手にお回しになる方でいらっしゃるからでございましょう』」 その様に通訳混じりの会話を交わすうちに、日も暮れてきた。 * 夕暮れどき。 秋風が涼しく彼らの側を行き過ぎる。「―――秋風は涼しく吹くけど…」 などと上の句だけを詠んで、そこにあった箏の琴を引き寄せ、かき鳴らす。「そうお詠みになるということは、頼みになる女性が何処かにお有りになるのでしょう?」 兵衛の君が笑って問いかける。「ここ以外には何処も」「けど、野にも山にも、というではありませんか」 古歌を引き合いに出す。「―――あなたのせいで、私の浮き名が春の霞の様に野にも山にも立ってしまったではないですか」と。 引用には引用を。仲忠もまた、古歌を引き合いに出して返す。「それは『人の心の嵐』でしょう」「だけど、『真風』とも言いますわ」「けどそれは今は皆『木枯らし』になってしまったよ」「それこそ、空一杯に声が広まりましょうよ」「まず先に、立ってもいませんよ」「春頃から何かと噂が立ってますわ。それは如何ですこと?」「『秋霧の降る音』がどうして聞こえないことがあるかなあ?」「その秋霧が『晴れない』のは見苦しいですわ」「まあね。晴れないのは僕も侘びしいと思うのだけど」「そう仰っても、仲忠さまのためなら、喜んで『宿を貸す人』もあるでしょうに」「けど春の宮/東宮からはそういう訳にはいかないでしょう」「宮中には御宿がありますでしょう」「それを通り過ぎた/逃げてきたのは月影だって見たと思うのだけどね」「それこそ白雲/知らないですわ」「…じゃあ、ちょっと真面目に。何かと決心しかねることが、月日を増すごとに重くなって行くのはどうしたものでしょうか?」 兵衛の君は困った。懸想人の様ではないか、と。慌てて主人の方を見る。 だがあて宮は怒る様子も無い。兵衛の君は仕方なく冗談で返そうとするが、上手く言葉が出て来ない。「真面目な話になると逸らしてしまうんですね」 それはそうでしょう、と兵衛の君は思う。そしてちら、と同僚を見る。孫王の君は動じていない。 何故! と彼女は思う。 その視線に気付いたのか、孫王の君は苦笑する。「ああ、あなたのことではないんだ。世の中で侘びしいものと言えば独り棲みだよ。ねえ君、あの方に判って頂こうというのは無理ってことで」 にやりと仲忠は笑う。ああそうか、と兵衛の君はやっと気付く。言葉遊びだ、と。「今となっては『結ぶ手もたゆくとくる下紐』と申し上げても甲斐のないということで」 と。「『浮気な朝顔の花に下紐を解く』とか聞いてますよ。あなたは私に実を見せてくれるのですか?」 あて宮の声だった。女房達は驚く。 と同時に、これは遊びなのだ、ということが彼女達皆が納得できた。「同じように吹くすれば、あなたのお役に立てる風になりたいと思います。 ―――夕暮れの秋風よ、旅人の草の枕の露を乾かしておあげ――― 独り寝の淋しさに『涙で濡れない暁』はありません」 するとあて宮がそれに応える。「―――色好みの人の枕を濡らす白露/涙は秋/飽き風で一層勝るでしょう。――― あなたが飽きてお忘れになった女の方々は少なくないのでは?」「そんなもの、ありませんよ。 ―――『秋風のむなしき名』は秋風にとって無実の浮き名ですよ。その浮き名ばかりが有名になったものだな――― 目立つことでもないのに、ひどいですね。どちらがあだ人でしょう?」「―――秋風が吹いてくれば、荻の下葉も色付くのに、どうして『むなしき名』と思うことが出来ましょうか――― 真面目には見えませんよ」「それはあなたさまのことではありませんか。 ―――秋風が荻の下葉を吹くと、人を待つ宿では女が心を騒がすだろう」 するとあて宮はころころと笑った。周囲の女房達は主人の珍しい類の笑いに驚いた。「―――籬の荻のあたりをたとえ風が吹いても/私の元にどんな男が訪れても/どうして返事など致しましょう」「それはまた、もどかしいことですね。 ―――多くの下葉を吹く浮気な風に心を動かさず、私にいらっしゃいと言っていただきたいものです」 まあ、とあて宮は再びころころと笑い、仲忠もそれにならった。 そのまま仲忠は軽く箏をかき鳴らすに留めた。安納芋トリュフ10個入 【送料無料】種子島産100% 【お歳暮 内祝い ギフト プレゼント】【スイートポテト チョコ 和菓子 あんのういも】
2017.12.26
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その三の一 節会当日の昼から~帝は自らの女御達を兼雅や兵部卿宮と想像の中で恋人達にして楽しむ 当日になり、まず朝の賄いを仁寿殿女御が担当した。 この日の女御はとっておきの衣装に身を包んでいた。 花文様けもんようのある綾に模様を摺った裳。その下に唐の綾を重ね、赤色の唐衣に二藍襲の表着、そして更に下に掻練かいねりの袿をまとっている。 元々の容貌の美しさも加わり、まずこのひとに叶う女は居ないだろうな、と眺めながら帝は思う。 その昔、帝は仁寿殿女御と右大将兼雅との間を疑ったことがある。 実際は、女御がまだ入内するかしないかの頃、兼雅が言い寄ったことがあるというだけである。 女御はそれをさらりとかわし、入内以後も時々趣のある文を交わす、というだけである。現在はその文のやりとりも特にはしないらしい。 帝は内に居る女御、外に控えている兼雅を見比べる。 二人とも非の打ち所も無い素晴らしい者達だ、と帝は思う。 そしてふと怪しい考えが浮かぶ。 ―――この女御と大将の二人は、一緒に置いても似つかわしい者達だ。 親しめる花盛りの春なり、紅葉の秋なり、そんな風情のある夕暮れに、この二人が睦まじく未来を語り、お互いに深い心を打ち明け、語り合っている場面… それもなかなか良いな。 ふふ、と帝は想像して微笑む。 ―――私ばかりではない。そんな情景が実際にあったなら、聞く人見る人誰もが心を引かれてしまうだろう似つかわしさだ。 いかんなあ、と思いつつも、ついこうも考えてしまう。 ―――いちど二人を揃えて夫婦の様にして見てみたいものだ。 そう思いながら女御の賄いの采配、兼雅の相撲の準備をじっと見比べる。 その立ち居振る舞いや人々に指示する様子が不思議と同じ位に素晴らしいものであるのに驚く。 ―――そう、こんな感じだ。 一つの行事に共に取り組む姿は、夫婦のそれに近いものだ、と帝は想像が現実になっている様な思いにかられた。 ふと見ると、側に女郎花の花が生けられている。 帝はそれを見るとふっ、と笑い、一つ取ると、御座所の外へと差し出し、こう詠んだ。「―――薄く濃く色付いた美しい野の女郎花を、庭に移し植えて、花に置く露の心を知りたいものだ――― さて、この歌の意味を理解して説明できる者は居るか?」 問いかける。 最初に兵部卿宮が受け取って見た。 誰か自分の手の内にある者を外の誰かにやったら? その程度には彼も理解できる。だが帝の本音は判らない。どの女性のことを言おうとしているのか。 だが彼はこの時、承香殿女御にほんのりと懸想している身でもあった。 「色好み」の彼である。あて宮の懸想人であったことは過去として、いつでも恋の一つや二つは身の回りに漂っている。 彼はこう書き付け、兼雅に回した。「―――籬に咲く女郎花が様々に良い香りを放っています。何処の野辺であれ、その女郎花が移し植えられることを待っていることでしょう」 一方、回された兼雅は、正直帝の言わんとしていることがさっぱり判らなかった。 仁寿殿女御への思いは確かにあるのだが、そこは根がお人好しな彼、帝までがそれに気付いているとは思ってもみないのだ。 兼雅は首を傾げながらもこう詠んだ。「―――香り高い女郎花が、仮に賎しい野辺に移し植えられたならば、野辺の蓬は女郎花をあがめてやまないことでしょう」 そして正頼に回す。 彼はさすがに帝の意味するところに気付いていた。 この時の賄いは自分の娘である。それに先日の文比べのこともある。何かしら含むところがあるのだろう、と考えた。「―――私はこの女郎花/娘を双葉の幼い頃から大事に大事に育てて、野辺に移し植えようとは考えてもみませんでした。誰の手も触れずに、籬の中でそのまま老いよ、と思っております」 そう詠んで、正頼は仲忠に回した。 正頼は受け取った仲忠を見る。すると仲忠はにっこりと笑った。「―――撫子/姫を大勢育てた女郎花/親は、美しい撫子を籬/宮中の中に移し植えて楽しんでいるのです。その女郎花を花の親と崇めましょう」 正頼はそれを聞いて、なるほど、とうなづいた。 帝は戻ってきた花と歌を見ると、皆が銘々に受け取り方に楽しくなった。 なるほど、兵部卿宮は承香殿をね。 兼雅はなるほど、思った通りだ。 そして仲忠の歌を見て、帝は思わず笑った。 何て奴だ。こちらの考えていることの更に上を詠んでいるな。「仲忠はどの様に理解した?」 あえて帝は聞いてみる。「深くは存じ上げませんが、…けどさほどに間違っているとは思いませんが、如何でしょう?」「ふふん。なかなか賢く空とぼける奴だ」 帝の笑いは止まらない。* 相撲の勝負が始まった。 そのうちに日も高くなり、御馳走の賄い方も承香殿女御に変わった。 時間が過ぎ、日が高くとも夜の御膳部の時刻となる。 元々は式部卿宮の女御の番ではあったのだが、彼女は事前にこう承香殿女御に「昼の番をお願いできませんか」と頼んでいた。 承香殿女御はこう答えた。「夜も引き続きしてもいいとおっしゃるのなら引き受けましょう」 そんな訳で、夜になっても承香殿女御がその役につくこととなっていた。* 相撲の方は、四人の相撲人が左右それぞれから出場し、皇子達、上達部、大将、中・少将、皆観戦しながら応援していた。 無論音楽の方も忘れてはなるまい。 帝は、面白い勝負が続いたため、賄いの女御の容貌や装束が素晴らしかったにも関わらず、気を止める余裕すらない。 十二番勝負が終わった時には、勝敗は五分五分だった。 左右それぞれが決着をつけるために全員引っ込んだ時に、ようやく彼女の姿を見ることができた位である。 夕暮れの光の中、承香殿女御は不思議な程に美しかった。 時間のせいだろうか、光のせいだろうか、彼女の美点という美点が格別際だって見えた。 帝はちら、と彼女と噂の立った兵部卿宮の方を見る。 ―――今日この日、この二人はただそのまま見過ごしてしまうことの出来ない人々の中にいるのだな。彼も彼女もお互いに見交わしてしまっては、たとえ身の破滅となろうとも、私としたところでそのままにはしておけないだろう。 などとまた、帝は先ほどの仁寿殿女御と兼雅の様に想像、もしくは妄想にふける。 ―――ああ、よく見ると兵部卿宮も承香殿も、何と素晴らしい組み合わせだろう。表には見せず、深い心持ちを隠しているところがある二人――― として、どその限られた条件の中で、どんな恋の囁きを伝えあうのだろう? 世の中の少しでも見所聞き所のある良い言葉は残らず語り尽くしているだろうあの二人が言い交わす様子をぜひ見てみたいものだ… ふふ、と帝は含み笑いをし、食事をしながらも承香殿女御に向かって囁く。「今日の賄い方は、皆にお酒を奨めるはずだ。とりわけあなたは、誰かにおっしゃることがあるのではないか?」「賄い方としての私が、御酒を差し上げたい様な方はございませんわ」 女御はさらりと返す。 その言葉を兵部卿宮が聞きつけた。「今日は御盃の頂ける相撲の節ですよ。ぜひ私に」 彼はやや茶化した口調で言う。帝はそれを聞いて笑う。「そんなふうに、おいしく頂きすぎて倒れる方も居るだろうね」「倒れる方/負ける側に廻れば、思いが叶って勝つことになりましょう」 なるほど、と帝は思った。 兵部卿宮の言葉といい、様子といい、切実な思いは隠そうとしても隠しきれないものなのだ、と。 そして思う。 ―――さぞ苦しいだろうな。こうして二人を並べてみるとこれもまた実に似つかわしい二人なのに。 さて、杯を女御に上げる様な者が、本当に無いものか、そっと試してみよう。 帝は承香殿女御に向かってこう詠みかける。「―――つわもの/兵部卿宮の心の中に、あなたが宿るのは私にとって辛いけれど、乙箭/あなたが甲箭/兵部卿宮と並ぶと、お似合いだ。 だから私はあなたを咎めないよ」 女御はそれを見て返す。「―――世間によくない評判が聞こえておりますので、射ら/いらいらして心配致しております」 東宮がそれを取った。「―――秋の夜を待ち明かして数を書かせる鴫の羽を、今は乙箭/承香殿の側に並べましょう。 同じことなら、その様に二人が一緒になるのが宜しいでしょう」 そして兵部卿宮に回す。「―――大鳥の羽は独り寝の寂しさと降る霜のために片羽になったようだ。今度は乙箭に霜が降って片羽になるでしょう/私達は皆さんのおっしゃる程深い関係は無いのです。 覚えのないことですね」 そう詠んで弾正宮に回す。「―――夜が寒いのに、羽も隠さない大鳥/風聞の羽に降った霜/古い評判がまだ消えないものですね/あなたのことは前々から評判なのですよ。お隠しにならないから。 はじめに評判されたのがよくなかったのですね」 次に正頼に回す。「―――消えてしまわないで、夏をさえ過ごす霜を見ますと、そのために冬の霜は甚だしかったのだろうと思います」 弾正宮の歌を受けた正頼は兼雅に回した。「―――花/承香殿にさえ早く飽き/秋が来て冷淡/霜になれるのだから、野のあたりの草が思いやられます。 あなたのそら言が恐ろしくなります。私は知ってますよ」 などと皆で、ここぞとばかりに「色好み」の兵部卿宮を冷やかすのだった。 最後に兵部卿宮がそれに返した。「―――美しいのも美しくないのも、秋の野辺の花さえ見れば、浮気な人は先ず差別なく摘んでは捨て、捨てては摘んでばかりいますね、確かに」 やはり「色好み」と昔言われた兼雅に対する皮肉のつもりだったが、自分自身にも返って来ることを、彼自身やや悔しく思った。* そうこうしているうちに、左右を決する試合が始まることとなった。 ということで、左方からは、名だたる「下野のなみのり」が出てきた。 なみのりは今まで三回上京しては、相撲の試合に出ている。だがその中の一回は、あまりにも強すぎて、相手が居なくて帰ってしまったという天下の強者である。左方の相撲人の中で、なみのりの相手になる者は居ないのだ。 正頼はここ一番では彼しかない、とばかりになみのりを出してきた。「今度の試合で勝負が決まる筈だから、どうしても左方右方お互いに張り合って奮戦するだろう」 正頼はそう思う。 一方右方は「ゆきつね」を頼りにするしかなかった。皆神仏に祈願を立て「勝たせ給え」と念じていた。 人々は思う。「今回の相撲の勝ち負けが決まらないと、きりが無い。まさにこの二人の最手で決まるのだな」 帝はその様子を見て命ずる。「左方にせよ、右方にせよ、今日勝った方は、ここに参上している人を分けて、負け方の司や官人を送りなさい」 よし、とばかりに最後の勝負が始まった。 ―――左が勝った。 勝った左方から、四十人の舞人が出てきて、御前に出て舞いを始めた。 それを皮切りに、楽人など、皆一斉に管弦の遊びを始め、その場は大騒ぎとなった。 正頼は杯をなみのりに渡す。そして自分の袙を脱いで、褒美として取らせた。 相撲の結果を満足そうに帝は見る。「近年、嵯峨院の御時にも、私が即位してからも、見所のある行事はさほどになかったが、今日の相撲は非常に面白かったな。現在の左右大将達のおかげだろう」 そう一人、つぶやく。「後の人々に、仁寿殿の相撲の節は吹上の九月九日に匹敵すると言わせたいものだ」 それを聞きつけた東宮が口を挟む。「何と言っても、今日のこれこそは、と思われたことは左右大将以外の人達には出来ませんよ。多くの者に勝っている、天下のあらゆる物事が今日は出尽くしたと思われます」「それで終わりのつもりか?」「いいえ」 東宮はふっと笑う。「仲忠や涼なら大将達のしたこととは違う、それでいて素晴らしいことをすることでしょう」 は、と帝は軽く口元を上げる。「彼らは手強い。そう簡単には我々とて、動かせるものでもなかろう。…とは言え、いつもいつも断られているというのも癪に障るな。ともかく涼を呼ぶがいい」 帝がそう言うと、すぐに涼が呼ばれて来る。「何か」「おお、涼。今日の相撲の節は素晴らしいものだったな」「は。非常に面白うございました」「そうだろうそうだろう」 帝は大きくうなづく。「いつもの節会よりずっと面白い日だ。そこで、だ」 ほら来た、と涼は思った。彼は自分が呼ばれた時から嫌な予感がしていた。「もう一つ面白いことをして、出来ることなら後代の手本とできたら、と思うのだ。人がそうそうしない様なことをしたい。そこでそなたともう一人を思い出した」 仲忠のことだな、と涼はすぐに気付く。「院がそなたの所を訪れた時の九日の催しは、唐土にもそうそう無い珍しい例となった。今日のこの節会もぜひそうさせたいものだ」「はあ…」「そこで、だ。そなたがあの日弾いたという琴を」「…それは」「院の前で弾けて、私の前では困るというのか?」 くく、と帝は笑う。困った、と涼は思う。「無論帝の仰せなら何でもお応えしたいと思います。ですがここしばらく、あの折りに弾いた琴は今後は弾くまいと決心致しまして…」「ほぉ、それはまたどういう」「精進しなくては、と。心を入れ替えて、それまでの技術も全て捨ててしまったので、ここでご披露できる様な手はまるで覚えておらず…」「何を言っている。そういうことは私に言うべきことではない。ああ全く、仲忠もそなたも山賎共にも等しい奴だな。それではそういう者達の言葉は今後聞かないことにしよう」 涼は困った。 無論帝の言い方からして戯れ言であるのは判っているのだが、仲忠の普段の態度が態度である。帝はおそらくそれを思い出してやや苛つくのだろう。「いえ、少しでも思い出すことができるのなら、お弾き致します。ただ、さっぱりかけ離れてしまって」「涼よ」 ずい、と帝は軽く涼に迫る。「そなたが拒めば拒むだけ、私は仲忠の琴をも聴けなくなるのだよ。あれはともかく私の言うことは聞かない。琴を弾く者の性状だとは思ってはいるのだが――― そなたはどうなのだ? あれの琴は聞きたくは無いのか?」 聞きたい。涼は思う。箏ではなく琴。あの人々の心を幻の中に陥れる様な琴をまた聞きたいとは思う。 だが一方で「それは危険だ」と警告する声もある。 仲忠は自分の琴の持つ力を知っていて、自重している。だがその意味を帝をはじめ、誰も判らない。 そしてそれは、自分の口から言うべきものでもない。涼は思う。 帝はそんな涼の思いには構わず、続ける。「弾く曲を覚えていないで全く不安であるのは当然のことだろう。だがそもそもそなたには深い才があるのだから、琴に向かって手を触れさえすれば、自然に思い出してくるものではないのか?」「…」「半分くらいは覚えていよう?」 そう言って帝は側にあった「六十調」という琴を胡笳こかの調子にして差し出し、命じた。「胡茄の声で折り返して、笛に遭わせて弾きなさい。そなたの師、弥行いやゆきから伝えられた『このは』を琴の音の出る限り弾くのだ」「困ります。一向に他の手など、まして胡茄の手など… どうぞ、この調をやめて、元に戻して下さい」「まだ言うか」 微妙に帝の声に怒りが混じる。まずい、と思った瞬間だった。「―――仲忠となら」 涼の唇から一つの名がこぼれた。「仲忠の朝臣が一緒でございましたなら、彼の弾く調子に、失われた記憶も僅かながらに思い出すことでしょう」 なるほど、と帝はにやりと笑う。「あれとて、涼、そなたが一緒に弾くというならばその気にもなるかもな」 それはいいかもしれない、と帝はうなづく。「仲忠は何処だ?」【送料込3,083円】中味が選べる!大粒栗入り最中とお饅頭の15個入り詰め合わせ| 起き上がり最中 岐阜 お歳暮 お供え物 あんこ スイーツ お供え 和菓子 お年賀 お菓子 お正月 お年始 新年 挨拶 お見舞い 長寿祝い おまんじゅう 合格祈願 内祝い 贈答用 お土産 手土産 帰省土産
2017.12.25
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その二の二 節会はいつが素晴らしいのか、そして正頼の他の娘の結婚について「お帰りなさいませ。まあ、どうなさったのですか」 戻るなり難しい顔になり、どん、と座り込んでしまった夫に大宮は驚く。 帝からの急のお召しだった。何か粗相があったのか、近づいている相撲の節会のことで難しい依頼があったのか、と大宮はとっさに想像を巡らす。「いや、仁寿殿に参上したらな、例の中将達のことを切り出されてな」「中将どの達の?」 どの中将だろう、と大宮は一瞬迷う。「仲忠と涼のことだ。神泉苑での褒美の話を覚えているだろう?」「ええ、でもあれは所詮口約束だったということでは」「確かにそうかもしれない。しかし帝が仰せられるには、やはり彼らの処遇はきちんとしておきたいということなのだ」 まあ、と大宮は身を乗り出す。「それで、何と」「帝はあの折り、仲忠に女一宮を、と。そして涼には今宮を、と仰るのだ」「今宮… ですか」「帝は仲忠の琴の才を子孫にお伝えしたいらしい。ともかく女一宮と仲忠を、というあたりを強調された」「女御は何と」「帝が仰るのなら、と微妙に奥歯に物が挟まっている様な感じだったがな」「まあ」 娘の危惧するところは母には容易に想像がついた。 しかし母は娘ほど深刻に考える質ではなかった。仲忠という人物はどんな生まれであれ、現在はとても素晴らしい若者だ、と彼女は信じていたのだ。「婚儀は八月半ばに。もうこれは決定だそうだ」 はあ、と大宮は目をできる限り大きく広げた。「…まあ、想像はしていた。だからこそ、あれに来た文はお互い見せない様に処分していただろう?」「それはそうですが、いざ現実に、というかこの忙しい時に、というか」「まあいつだって我が家はごたごたと忙しいから、そのあたりは慣れているからいいだろう。一気に済ませてしまうというのも一つの手だろうな」「そうですね」 大宮はうなづく。「…しかしそうなると、他の姫達のことも気になりますね。皆もう一応結婚はできる様になりましたし…」「向こうの姫もか?」「ええ、あちらの方から聞きましたの」 成る程、と妻達の仲の良さに、正頼は感心する。「今宮は涼に。正直、彼は同じ源氏だし、物持ちの向こうの財目当てではないかという評判が立つのではないか、と心配ではあるのだよ」「でも帝の仰せでしょう」「それが救いといえば救いだな。しかし何というか、婿取った者がこっちの後見でもって出世していくのを見るという楽しみには欠けるな… まあ、あとは今宮自身が果たしてきちんと奥方に収まってくれるか、だが…」 うーむ、と正頼はうめいた。しかし大宮はあっさりとこう答える。「何とかなるでしょう」「…あれがか?」「一度度胸を決めたらあの子は強いと思いますわ。私だってそうでした」「そ、そうなのか?」「ええ。私の子ですもの」 母は強し。正頼はそう感じずには居られなかった。「さてそれでは、その下の子達はどうしたものかな。あて宮に懸想していた方々に差し上げるのが一番丸く治まると思うのだが」「……そうですね、実忠どのは特にそう思いますわ。どうしたものでしょうね」「実忠と兵部卿宮と右大将、それに平中納言に十一の君から十四の君は差し上げよう。さて誰に誰が似合うかな」「そうですね、私の子の方しか、誰がこうとは申し上げられませんですが、袖宮には右大将どのが良く似合うと思いますわ」「そうだな。袖宮は右大将にもよく似合う。それに彼の好みに合っているだろう。けす宮は――― あれも少し今宮と似たところがあるな、何やら自分の好みがある様だが」「けす宮を実忠どのに、ではどうでしょう」「そうだな。それでは向こうの人とも相談してみよう」「皆それぞれ美しく育ってくれて嬉しい限りだ」 正頼はふとつぶやく。「今宮もなかなか美しく、堂々と成長したものだと思うな」「あの子は顔だちなどはあてこそとそっくりなのですが、髪と、あの気性が…」 大宮は苦笑する。「それを考えると、あて宮は何処といって非の打ち所の無い、見るからに素晴らしく生い育った子だとは思いますが…」 完璧すぎるのだ、とは大宮は言わなかった。「まあだからこそ、東宮さまの現在まのご寵愛も無理ないことだろう。今宮を内裏に入れてしまったら、どういう騒ぎが起こることか、想像するに恐ろしい」 正頼はふとため息をつく。「…もっとも、あの子がああなったのは、あて宮が完璧すぎたからかもしれませんが」 大宮は思う。 自分のあて宮に対する何処とない隔意が、今宮をあの様に奔放な子にしてしまったのかもしれないと。 およそ姫君には相応しくない、はきはきした言動だの、好奇心旺盛なところだの、理屈に走りがちなところなど。 姫君としての美点を全て兼ね揃えたあて宮にはそれは存在しない。 大宮は自分で生んだ子ながら、そのあたりが空恐ろしく、ついつい年子である今宮にはそのあたりについて厳しくすることを無意識に怠ってしまったのかもしれない。 まあそれはそれでいい、と彼女は思う。涼がそんな彼女を気に入らなければ、自分がずっと一緒に居るだけだ、と。 できれば相手が物好きであってくれれば嬉しい、と半分思いつつも。 その様にして正頼の三条殿では、相撲の節会の支度と平行して、沢山の婿を迎えるための支度が行われれつつあった。 *「なかなか大変そうであるな」 上達部や皇子達が仁寿殿に参上した日、帝が正頼に向かって言った。 この日、正頼は三条殿から果物や酒を取り寄せていた。 未だ暑さは残るとは言え、空や風の何処そこに秋の気配を感じる日のことである。「ようやく風も涼しくなってきたことだし、今度の秋の節会は面白く満足できるものが見たいものだな」 帝は東宮に向かって言う。「人の寿命は短いものだ。生きているうちは楽しいことを見て暮らしたいものだ」「毎年次々とある節会ですが、同じことなら父上の御代に於いて珍しい『例の』行事としたいものですね。昨年、院が吹上行幸の折りに行った九月九日の節会は、いつもより面白いものとなったでしょう。そういうことがまたあったらいいのだが」 最後の言葉は周囲の上達部に向けたものだった。「年中行事の中で、どの節会が特に良いものだろうな。皆はどう思う?」 すると正頼が答えた。「年中行事の節会はどれもこれも趣があって良いものではございますが、中でも朝拝や内宴の折りのご様子がたいそう面白く、美しいものだと思います」「ほほう。例えば?」「三月の節会は、桜が早く咲いた時にはまずそれが大層素晴らしいものでしょう。五月の節会は、花は菖蒲の他にはさほどにありません。ですが短い夜が明ける頃、時鳥の声がほのかに聞こえる様子や、雨の降る日の明け方の菖蒲の風情なども宜しゅうございます。また、ほんの少し時期を過ぎた橘などが残っている時には、その香りもほのかに、大層趣の深いものでございます」「では七月七日はどうだ?」 東宮は問いかける。「七月七日は、残念ながらさして格別な面白いことはございません。やることは決まっておりますから、その時々の工夫によりましょう」「だが私は索餅さくへいは好きだぞ」 くす、と東宮は笑う。七夕の節会には、内膳司から索餅という、麦の粉を固めてねじって縄の形にした菓子を供する行事がある。 それを微妙にかわして正頼は続ける。「九月九日は、あの吹上の折りが、格別素晴らしいものでした。それより後の年中行事は、五月五日の節には劣ると思われます」 うむ、と帝はその答えを聞いて納得した様にうなづく。「良い答えだな。私もそう思う。五月五日の節会に勝るものはない。花橘や柑子などが、その季節が過ぎて古くなったとしても、珍しいものの一つとして称えられるのが面白いものだな。それに騎射や競馬もやはり面白いしな」 そう言って帝は笑った。「それにしても、まだ陽の光は厳しいな。夕暮れとなってもこの様子だ」「いい加減涼しい風が吹いて欲しいものですね」 皆でそう言いながら、夕暮れになるまで物語を続けていた。「吹いて欲しいな。確か今日は立秋でしょう」 誰が言ったのだろうか。七月十日、確かに秋の始まりとされる日である。 だが夕暮れとなっても、西日はきつく、むっとした大気は人々の頬をどんよりと撫でて行くばかりである。「秋らしい風よ、吹けーっ」 誰かが思わず天に向かって叫んだ。 と。 ふわり、と風が吹いた。 その中に微かに混じる涼しさに、そこに居た皆が秋を感じた。 帝は笑って言う。「ほほう、皆の祈りが天に通じた様だな。 ―――珍しく吹き始めた風が涼しいのは、今日が初秋だと知らせているのだろう」 それを御簾の中で聞いていた仁寿殿女御が、こう応える。「―――いつの立秋でも、秋らしい様子を知らせますけど、特に今日は風が秋を深く感じさせますね」 すると帝は笑った。「だが秋風はまだ外に居て、あなたの居る御簾の内には入っては居ない筈だよ。 ―――秋は来たものの、まだ御簾のうちにも入らない初秋を、心にしみるほどに知らせる風は、どんな風だろうね――― その通りだ、と応える風は無いかな」「それはどうでしょうね」 正頼が娘をかばう様に詠みかける。「―――訪れて外に立つ/秋が立つことを頼んだ訳でもございますまい。浮気な秋は、出てきても過ぎ去ってしまうものなのでしょう」 それを聞いた帝は立ち上がった。「清涼殿へ戻る」 もしやお怒りを、と正頼は少しばかり危ぶんだが、帝の女御への言葉で救われた。「今夜はおいでなさい。あなたときたらここのところ、こちらから迎えを出しても、何かと返してしまうのだからね」 御簾の内から女御の声も少し柔らかにこう伝わってきた。「返しやすい使いですので――― 嘘です」 笑う気配がする。「―――夏でさえも衣を隔てていましたのに、どうして秋/飽きの風を今更厭ったり悲しんだり致しましょう。迷わず参上致します」「早くいらっしゃい」「すぐにでも」「いつもの様に使いだけを返したりはしないように。…まあその時には、私から出向けばいいな」 あっはっは、と帝は笑った。 上達部達は帝について清涼殿へと向かって言った。 やがて清涼殿から女御に使いがやってきた。女御は早速清涼殿に上っていった。* 正頼が三条殿に戻ると、中の大殿では十四の君をはじめ、大殿の上腹の若君達が涼んでいた。「やあ、皆居るね」「先ほど涼しい風が少し吹きましたので、皆で涼もうと」「お久しぶりですわお父様、さっきから上の上のお兄様がずーっと何か言いたげですのよ」 十四の君、けす宮は今宮にも似た口調で父親に向かってもずけずけと話しかける。 彼もまた、この末娘に対してはやや甘くなる。「何かね、忠純」 は、と忠純は遠方の国々から送られてきた絹や糸の相談を始める。「どういうものがあるのか、持って来させてくれ」「用意してあります」「準備がいいな」「だから、ずっと待ってらしたって言ったでしょう?」 くすくす、とけす宮は笑う。これ、と大宮は娘を軽く叱る。 長兄はその様子を丁重に無視し、その場に届けられた絹や糸を並べる。「なかなかの出来ですわね。…そう、相撲の節会の時の、女御やあて宮の装束はどうしましょうね」「言うまでもない。この賄いで全て染物縫物をさせればいい。とは言え、よくよく注意してさせなさい」「裳のほうはもう山藍やつゆ草などで色々の模様を染めさせましたわ。唐衣はまだですけど」「おお、準備がいいね」「何かと忙しくなりますもの」 大宮はそう言うと、ふふ、と笑った。 それを聞いているけす宮は、何処か他人事の様である。大宮はまだ彼女には直接結婚のことは伝えていない。 * 相撲の節会の準備は家司達にとっても大仕事である。 中でも家司の少将義則は、それまでの同僚が左遷されてしまったことで大変な目に遭っていた。「どうやって御盆にはいつもの数を揃えたらいいんですか?」 部下が義則に問いかける。いつもだったら、少将和政がそういうことは先に指示していた。彼の居なくなったことは痛い。「早稲の米を使うところなんだが… 今年は収穫が遅いんだよなあ…」 どうしたものか、どうしたものかと彼は考え込む。 同じ困るでも、同等の者が居ると居ないではずいぶん違うのだ。全くあの治部卿が! 内心彼は毒づいた。 * 節会の前日には、内裏でも帝の妻にあたる女性達が、自分達の当日の役割分担をしたり、化粧を整えたりしていた。 当日の朝の賄いは仁寿殿女御。 昼の賄いは承香殿女御。 夜には式部卿宮の女御が担当となる。 その他、更衣のうち上位の十人もその役目を負うこととなった。彼女達は滅多に見られない有紋の裳唐衣を身につけて働いていた。 御息所達で賄いの手伝いをしない者は無く、髫髮の少女達だけが、何もしないで待っていた。 女蔵人も皆高貴な身分の人々の娘達で、五節の舞姫になった者も居る。 最も賎しい仕事をする蔵人でも、他の人にひけを取らない要望や身分の者で、髪上げをした様子も実に立派である。 その十四人のうち、半分は五節のお召しの蔵人、半分は雑役である。 また、昇殿を許されている命婦の三人、許されていない内侍にしても、皆それぞれにかなった立派な姿をしている。 仁寿殿に当日奉仕する予定の美しい女達は、すぐにでも参上できる様に準備している。 やがて、右近衛大将をはじめ、多くの人々が集まりだした。楽人も準備が整った。 皆たふさぎの上に狩衣袴、という相撲装束をつけ、各組を示すひさご花の飾りを髪に挿している。 左右近衛はおのおの、幄舎を設けて控えている。 普段から立派な人々なのだが、この日は更に皆、二藍の美しい装束を身につけていて、非常に素晴らしいものである。送料無料 人気和菓子 洋菓子 詰め合わせセット 魅惑スイーツ福袋 クリスマス お試しに 誕生日プレゼント お祝い AA
2017.12.24
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その二の一 女一宮の結婚に対する仁寿殿女御の不安 さて、あちこちでは節会のために改めてあつらえた装束が仕上がりつつあった。 右大将家もまた然り。「ほほう、これは素晴らしい」「母上、とてもいい感じです」「喜んでもらえて嬉しいわ」 北の方は微笑んだ。 彼女は彼女で気合いを入れて、夫と息子のために絹綾を沢山取り出して、染め物や裁縫を指示したのだ。 しかし。「…どうした仲忠、せっかくの母上の装束だぞ。そんな浮かぬ顔をしてどうした」 兼雅は息子に問いかける。「…いえ、何と言うか、東宮さまの所へ参上したいと思うのですが、どうも何となく行きかねて」「何だ何だ。参上して藤壺の御方と話をすれば気分の悪さなど吹っ飛ぶだろう?」「父上は単純でいいですね」 あっさりと言う息子の言葉に、う、と兼雅は押し黙った。「ああすみません父上。でもちょっと今考えているのはそういう類のことではないので」「まあ、お前は私よりずっと賢くて、何考えているか判らないところがあるからなあ。それだからこそ、藤壺の御方が入内する前にも懸想人の中では良く返事をもらったのだろうなあ。私など全くもらえなかった様なものだし」「父上……」 北の方の前だったことに気づき、兼雅は思わずぱっと口を手で押さえた。 * その様に左右近衛府が大騒ぎしている間にも、帝は帝で悩みがあった。 ぱちん。 石を打ち、仁寿殿女御は顔を上げる。「…どうなさいました?」 帝は囲碁が大層好きだ。宮中でも強い方である。 そしてまた、仁寿殿女御もなかなか強い。二人はいい勝負相手となることが多かった。「え?」「碁のあいだに考えこまれるなど、お珍しいですわ」「うん、まあ…」 帝は言葉を濁す。「心配ごとなら、私にもどうぞ分けて下さいまし」「うん、そうは思うのだがな…」 ぱちん、と帝も石を置く。 女御は帝の様子を伺う。確かに最近、帝は何かと考え事ばかりしている様だった。 ぱちん。「私のことより―――」 盤上に目をやりながら、帝は口にする。「あなたこそ最近身体の調子がいまひとつの様だが、大丈夫か?」「暑さのせいでしょう」「そうかな? 誰か通う者が居るのではないか?」 ぱちん。「何をおっしゃいます」「昨夜蔵人をそちらに使いにやったけど、来なかったね、いや、最近よくそういうことがあるじゃないか。何か私に恨み言でもあるのかね?」「そんな。本当に暑さのせいですわ」 ぱちん。「まあそれならそういうことにしておこう。けどそんなに気分が悪いというのも何だね、もしかして、おめでたかな」 ぱちん。「今はそういうことはございませんわ…」「さあ、今は無くてもね」「『夏虫の…』ということもありましょうに」 ぱちん。 そんなことは今は無いこともご存知でしょうに、と女御は帝の間男のほのめかしに対し、古歌にぼかして言う。 だがこの日の帝はややしつこかった。「実際この頃はあなたを思う人が大勢居るらしいよ。熱心に言い寄られればいくらあなたが堅いひとだったとしてと、とろけてしまうのではないかな」 ぱちん。「まあ、誰に濡れ衣を着せようと仰られるのですか、全く… 昔ならともかく、今のこの私にそんなことがあるとお思いになるのでしょうか」 ぱちん。「…ああ、何という相盗人達でしょうねえ」 帝は嘆息する。「全く何方のことを仰るのですか」「右大将はいい男だね」 ぱちん。「まあ。そんな昔のことを今でも仰られるなんて!」「昔のことかな。今でも文を交わしてはいるのではないかな」「冗談でも、そんなこと仰らないで下さいな」 ぱちん。「冗談じゃあないね。兼雅は色好みではあるけど、そのあたりを差し引いてもいい男だと思うから私もつい疑ってしまうのだよ。…そうそう、弟の兵部卿宮もそうだな。別に身内だから誉める訳じゃあないよ。彼もまたいい男だから言ってるんだ… そうだね、私が女だったら間違いなく落とされているだろうね」 ぱちん。「まあ確かに宮は素晴らしい方ですが」「そうだろう。だから私も心配になるのではないか。少し心ある女だったら、あの兵部卿宮がここぞ、と狙いを定めて口説きにかかったら、まず逆らうことなんてできやしないだろうね。そう思ってみれば、もしあなたがそうであったとしても無理もないだろうなと思うので、私は何も見て見ない振りをするんだよ。兼雅もそうだな。何かあっても、何となく許したくなってしまう…」 盤面を見ながら帝はつぶやく様に言う。 戯れ言だ、と女御は気付いている。 言葉遊びに過ぎない。こちらの手を狂わそうとする目論見かもしれない、と女御は思う。 帝は自分にそんなことがあるなどと、全く信じてはいない。周囲の女房達は微妙にはらはらしている様子が伺えるが、子を沢山為した、夫婦としての付き合いも長い。冗談と本気の区別くらいはできる。「それで?」 ぱちん。戯れ言の続きをうながす。「兵部卿宮にしても同じだね。彼は自分を見る女に、自分を恋させる様な魅力があって、そうそう、吉祥天女であってもそれには負けてしまうだろうなあ」 ふふ、と女御は笑う。「あなたの凄いところは、そんな宮にも兼雅にも深入りしなかったところだね。ただし今どうなっているかは判らないが」 ぱちん。「嫌ですこと。最近の宮は、妹の方に懸想している様でしたわ。私のことなどすっかりお忘れになった様子で、母宮にもずいぶんとくどくどと仰っていたご様子。私など全く全く」「藤壺の――― あて宮か」 成る程、と帝はうなづく。それまでと微妙に声の調子が変わる。「あて宮なら仕方がなかろうな。およそ男と名のつく者、あて宮に恋しない者は居なかっただろう。何せあの滋野の致仕の大臣や高基の朝臣さえ狂わせてしまった程だ。いやもう私は高基に恋ができるものかとびっくりしたものだったよ」 ぱちん。さすがにその折りのことを思いだし、女御は苦笑する。「その一方で、私は不思議に思うことがあるのだよ」 帝は腕組みをして盤面をにらむ。「…どうやら私の負けの様だな」 ふふ、と女御は笑う。「まあ仕方なかろう。心が千々に乱れている時に勝てる訳がない。あなたのことといい、仲忠のことといい」「まあ、不思議なのは仲忠どののことですの?」「仲忠が、というよりあて宮が、だな」「妹が?」 盤と石を片づけさせ、二人は改めて差し向かいになる。「どんな天下に珍しいしっかりした女でも、仲忠の方にさえ気持ちがあれば、女の方でも心は動かされないという様な男だ」 確かに、と女御は思う。 孫王の君などいい例だ。 女御はあて宮の使いで度々やって来る彼女と話をするたびに、しっかりした女性だと感じる。殿上人達のからかいにもさらりと返して負けることが無い。それでいて嫌味も残さない。 そんな彼女も、仲忠には落ちた。 身分がどうという問題ではない。続いていることが問題なのだ。 彼女は仲忠との仲を続けさせている。彼女自身が仲忠のことをとても好きなのだ、と女御は思う。「そんな仲忠に、よくもまああて宮は心を動かされなかったと思う。感心するよ。よほどゆかしい心持ちなのだな」「…そうですね」 違う、と女御は心の端でつぶやく。妹はそういうものではないのだ、と。 他の妹より出来の良いとされている美しい妹。今でも東宮が側に置いて、端から見苦しいまでに寵愛されているという。 だがその気持ちはどうだろう。 奥ゆかしい。外側から見ればそうかもしれない。 父母が言うには、誰が示唆した訳でもないが、東宮以外には冷淡な返事しかしなかったらしいという。 だがそれは東宮に気持ちが靡いていたからという訳ではないと彼女は思う。 例えば自分。 何も知らない少女の頃に、正頼の大君ということで入内が既に予定されていた。父も母もそのつもりで彼女に教育を施した。それが当然だと思っていた。 だが妹は違う。 確かに東宮のもとに入内させるに相応しい歳ではあったが、そうと決まっていた訳でもない。 選択肢は色々あったはずだ。実忠あたりなど、本気を出せば正頼とて許さなかったことはないだろう。 だがあて宮はそうしなかった。させなかった。 東宮に、という意志がそこには存在した。 それは「ゆかしい」とは違う。 違うと女御は思う。逆だ、と。 彼女は東宮妃に、という強烈な意志をそこに持っていたのではないか、と。 ただ少しだけ、女御には気になることはあったが…「それでも仲忠どののことは嫌いでは無かった様ですわ。他の方より沢山返事はしたということですし。とは言え、二人とも本気で思い合うというところまでは行かなかった様ですが」「うーん。二人の間に交わされた文はどんなに趣深いものだろう。見てみたいものだな。そう、仲忠か…」 ふう、と帝はため息をつく。「やはり物思いがございますね」「仲忠。そう、仲忠なのだよ。それに涼だ」「涼どの」 突然出てきた名に、女御は驚く。「神泉苑の宴の時、二人に約束しただろう。素晴らしい二人の琴の腕に、あて宮を涼に、そして私達の女一宮を仲忠に、と」 確かにそういうことがあった、と女御は思い出す。「あて宮のことでずいぶんとばたばたしておりましたから、すっかり忘れておりましたわ」「薄情な方だ」 帝は笑う。「そろそろそっちも何とかしなくてはならないと思うのだ。で、涼にはあて宮の下の妹をあげたらどうかと思う」「今宮ですか」 驚いた様子を女御は見せる。予想はしていた。実家からの知らせで、最近は今宮の元に何かと求婚者が文をよこしているというのだ。 ただ父母は何か考えることがあるのか、それらの文を全て今宮の目に触れさせることはなく捨てているという。「今宮は構わないと思うのですが… 女一宮はどうでしょう。降嫁させるには、仲忠はまだ位がやや低く、頼りないのではないでしょうか」 いやいや、と帝は手を振る。「心配なさるな。天下の何処を探しても、現在の世の中で仲忠ほどの婿がねは居まい。見ただけでもこっちの気持ちが良くなる様な男だ。放っておいても出世もするだろう。婿にということで地位も上げてやることもできる。だからあなたが賛成してくれればもっと嬉しいのだが…」「…涼どのに一宮、今宮を仲忠どのに、というのではいけないのですか?」「ちょっと考えることがあってな。そのあたりで少し悩んでいたのだが…」「私は」 母としての心がぬっと彼女の中から突きだして来る。「仲忠どのは確かにいい方だと思うのです。だけど少しだけ気になって… その」「うつほ住まいのことかね」 黙って彼女はうなづいた。 確かに現在の仲忠は素晴らしい人物だ。疑うことない事実だ。 しかし彼がその昔、山のうつほで貧しい暮らしをしていたというのも事実だ。それが彼女の心を迷わせる。 普通の貴族の没落した貧しさ程度ではなかったという。 兼雅に近しかったことで、彼女のもとには新しくやってきた妻と息子の情報は事細かに伝わってきていたのだ。 兼雅が流した奇跡の賜物の様な素性も、かなりが虚構だということを彼女は殆ど知っている。 つまりは、流れ者に近いものではないか。 流れ者の成り上がりじゃあないか? 素晴らしい公達だ、努力の賜物だ、と思う一方で、そう思ってしまう自分が居るのだ。「…ですから私には決められません。一宮が、あの子が可愛いからこそ、どうしても私にはそのあたりが決められないのです」 成る程、と帝は大きくうなづく。「彼の素性を気にするあなたの気持ちは判る。だが大切なのは現在だろう。それに彼はこれからもどんどん素晴らしい人物になっていくだろう。心配は要らない。相応しい位を与えれば、彼の中身もきっとそれについてくるだろう。仲忠はそういう人物だ」「……いま少し考えさせて下さい」「左大将と相談かね? きっと正頼は嫌とは言わないだろうね。むしろ孫である一宮より、今宮に娶せたくて仕方ないのではないかな」 そうかもしれない、と女御は思う。「本音を言えば、私は女一宮との間に、琴の名手の血を伝えさせたいのだよ。左大将とそのあたりも話したいものだ」 琴か。 それでは仕方があるまい、と女御は覚悟を決めた。 彼女とて、その点だけは何を置いても認めざるを得ないのだ。「父上をお呼びなさい」「花の都」 和菓子 詰め合わせ 送料無料 老舗 送料込み 香典返し 引き出物 日本のお土産 京都のお土産 京菓子 プチギフト ブライダル 内祝い 京都 お菓子 ギフト 激安 金平糖 結婚式 【楽ギフ_のし】 【楽ギフ_包装】 スイーツ 高級 お取り寄せ プレゼント 敬老の日
2017.12.24
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