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2004/4/8 桜の日々
桜の日々である。
暖冬と言われた今年の冬は、僕達の目に早い桜を映してくれた。開花からしばらくの時が過ぎて、今は木の周囲に薄紅色の花びらを撒き散らしている。
僕が知っている桜の姿の中で、最も美しいのがこのときで、最も悲しいのがこのときである。散り始めた桜は、この時期にあったいろいろな事を思い出させるのだ。
卒業。
校門を通り抜けようとしていた僕に背後から声をかけてきたのは、Yちゃんだった。卒業証書とバッグを持った僕は、声の主に気付いて振りかえった。この数ヵ月、2人で会ってもいないかつての恋人は、可憐な姿で真っ直ぐに僕を見ていた。
僕は多忙な高校生だった。
3年の12月まで続いたラグビー部の練習は、平日は午後9時近くまで、休日は午後2時ごろまでの時間を僕から奪った。土曜日は午後5時ごろに解放されるため、その後はアルバイトをした。はじめたのは2年の夏の終わり頃で、ちょうどYちゃんと会う少し前だった。土曜の午後6時過ぎからのピザハウスでのアルバイトは、3年の1月まで続いたが、それによって土曜日の午後10時近くまでと、日曜日の午後数時間が奪われる事となった。さらにバンドも組んでいた。スタジオでの練習は最低、月に2回はあったし、ライブ前は回数が増えた。そんなときはバイトを休ませてもらった。融通の効く店長で良かった。さらに、と言っては何だが、僕は親元を離れて下宿生活をしていた。1,2年のころは、いわゆる下宿屋で、同じ学校の何人かと共同生活に近い生活を送った。3年になると、親戚の家に移り、少し年を取った伯父と伯母の元で暮らした。1,2年のころは、ラグビー部の練習で泥んこになったジャージを、毎日自分で洗濯しなくてはならなかったし、当然掃除も必要だった。3年で伯父宅にやっかいになると、洗濯は伯母にまかせたが、土日に遅くまでアルバイトをしたりバンドの練習をしたりする事が出来ず、(親戚という事で気を使っていたのだ)午後10時までには帰宅するようになった。下宿屋生活の時より早い帰宅時間になったのだ。
そんな僕に2年の秋、彼女ができた。
Yちゃんは、土曜日の夕方、部室の裏の通路にいる僕を呼んだ。部活が終わって帰り支度をしているときだった。3年はほとんど帰っていて、2年も残りが少なく、1年が帰り支度をはじめたころだったので、僕は残っているみんなに注目されながらグランドの隅にある手洗い場に向かった。部室裏からの視線が背中に突き刺さったまま、僕は陸上部のマネージャーだったYちゃんに告白されたのだった。女の子に告白されるという大事件は、僕にとって初めての経験だったから、心臓が完全停止するぐらい驚いた。と同時に、自分がYちゃんのことを気にしている事を思い出していた。1年後輩の彼女は女の子が少ない工業高校であるにしても、校内で上から数人に順位付けされるほどかわいかったのだ。かわいい女の子を気にしない男はいない。
「ずっと見てました。」
彼女がそのときに言った言葉の中で、僕が鮮明に覚えているのがこの言葉だった。ラグビー部の練習の中で、肩で息をしながら視線をグランドの隅にずらすと彼女がいた。そんな時に、いつも視線が合うような気がしていた。恋愛に対して鈍感で純情だった僕は、その視線の意味を理解できなかったのだ。「つきあってください。」という彼女の言葉への僕の返事は、迷わず「はい。」だった。
すでにアルバイトも始めていた僕は多忙を極めていて、デートは月に1度か2度が精一杯だった。しかも、平日月曜日の放課後である。月曜日である理由は、部活が休みになるからだった。しかもその休みは月に1度しかない。そのときと、アルバイトを休んだ日曜日の午後が、僕達が会う事の出来る時間だった。彼女は、「いつも忙しいね。」という言葉をよく口にしたが、その言葉の裏にある気持ちを汲み取るほどの器量が、僕にはなかった。
今思えば本当に不思議な事だが、そのころの僕は、彼女といっしょにいるよりも、ラグビーやバンドやバイトをしている時のほうが楽しかったようだ。僕にしてみれば普通に付き合っていたつもりだったが、彼女にしてみると相当わがままな彼氏だったに違いない。しかし、彼女にはかなりの忍耐力があったようで、僕らの付き合いは3年になっても続いていた。
冬があけて暖かくなってきたころ、バンド活動がピークを迎えた。月に2回ぐらいだったデートは、月に0回となって、会うのは学校の中だけになってしまった。
初夏のライブハウス。僕が友人から聞いたのは、彼女が泣いていたという話だった。
秋。
ラグビーの練習は、花園に向かってピークを迎えた。バンドは、"学園祭のためにだけやる"とギタリストが言った瞬間にそいつと喧嘩になって脱退した。とにかく、ラグビーがピークだった。
僕の頭の中は、彼女の事を考えている余裕がなくなっていたに違いない。夏休みに1度会ったきり、僕達は会わなくなっていた。学校で会っても、小さい合図を送りあうだけだった。
12月に入って、高校ラグビーに終止符が打たれた。花園の予選で、最終的に優勝する関商工に負けたのだった。準決勝だった。次の日から帰宅部になった僕だったが、彼女に連絡を取る勇気はなく、そのまま自由登校の日々に入っていった。自由登校になって、実家に帰った僕は、3月中旬から始まる新しい生活の準備に明け暮れていた。
3月。
卒業式の日。
「呑みに行くぞ。」という法律違反の誘いを断って帰宅しようとしたのは、単純に実家が遠いからだった。すでに学校から近い親戚の家に行っている親のところに移動しようと、僕は友人達に別れを言い、グランドから離れた。左手に校舎を見ながら校門に向かうと、いろいろな思い出がよみがえった。その中には、もちろんYちゃんとの思い出もあった。それは、もう、思い出だった。
振り向いた僕を真っ直ぐ見ている眼は、やさしい光を放っていた。
「おう。」と、照れながら答えた僕のほうに歩み始めたYちゃんは、笑顔を浮かべながら、「おめでとう。」と言った。それが卒業したことに対する"おめでとう"だと僕が気付いたのは、彼女が僕のすぐ前に立ち止まった時で、僕はさらに照れながら、「ありがとう。」と答えた。
そして彼女は、信じられない事を言った。
それに対して僕は激しく動揺した。眼に浮かんだのは涙で、僕はそれをこぼさない様にするため必死だった。
「そんなことないよ。ごめん。」
それだけ言うのが精一杯だった僕は、"さよなら"も言わずに、握手だけして彼女に背を向けた。
校門の脇には、まだつぼみの固い桜が、花を咲かせる力を蓄えるように、力強くたたずんでいた。
彼女は、"力になれなくて、ごめんね"と、頬に涙を伝わらせながら、小さな声で言ったのだった。
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