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BS各局で映画を再放送している。昔の評判の映画や最近封切られたばかりの映画も放映するときがある。時が経っていない映画は恐らく再配給できない興行成績しか上げられずにネットワークに売却されたのかもしれない。テレビで見る映画の扱いの便利なところは、録画しておいて後で見ることができる点である。落ち着いて鑑賞できるので、作品の細かいところがよくわかるのだ。小津監督の作品が一挙一週間にわたって放映されたことがある。「東京物語」かっら始って「秋刀魚の味」まで小津監督の代表作である。東京物語に出ていた女優原節子のセリフの言い回しが、秋刀魚の味の岩下志麻と全く同じと言うのには気づかなかったが、これも連続で鑑賞したからこそだろう。女優に全く同じ演技指導をする監督、岩下は恐らくだが原の言い回しを何度も聴いて練習したに違いない。小津の演技指導はこまかいことで定評があるそうだ。エピソードに有名なのがある。どうしても彼がOKを出さないシーンがあった。何度も繰り返させられる女優が思い切って理由を聞くと、まばたきするタイミングが異なっているとの指摘。これは小津自身にも最初わからなかったそうだ。なぜ自分がこの演技を気に入らなかったのか。何度も彼女の演技をやり直させているうちにわかったそうである。このような監督の偏執的な演技指導のせいか、彼の作品は独特の小津ワールドと言われるまでに共通したものがあった。しかし反面、リアリズムを追求する点から行くと彼の作品は評価が分かれていた。安心して見れるのが小津監督の作品で、それ以上のものはなかったようだ。見事なまでに共通の各作品のかたちは、まさに上演回数を誇る演劇のそれとも言うべき精度まで練り上げられていた。見ようによってはマンネリであるが、何となくもう一度見たくなるような味を持っていると思う。もう一つの彼の作品の特色は、別な意味でのリアリズムである。家族や友人、恋人間の出来事をきれいごとで描かず、本当にありそうな筋書きで物語は流れていく。しかし、映画の中の登場人物、とりわけ女優さんたちの美しさを引き出すテクニックは素晴らしいと思う。前述したところのまばたきのタイミングはまさにそれに違いない。リアリズムと登場人物の非現実的なありようこそ映画の魅力で、小津さんはそのあたりを引き出す名人だったのだろう。往年の名監督と言われる人は、最近のリバイバル風潮とあいまって,大した作品でもないのにほめそやされたりけなされたりと、口やかましい評論家たちの材料である。しかし、この人の作品なら劇場に行ってもいい、安心して人に勧められるというブランド感こそが映画人の骨頂だと思うのだ。映画だけではなく今の評論家たちは作品をじっくり味わうこともなく、ネットを検索して他人の嗜好を仕入れて自分なりにアレンジするものが多い。それはそれで悪くはないが、まず鑑賞する姿勢が大事だ。
2022.12.29
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いま二人の人物がマスコミににわかに浮上した。一人は安倍元首相狙撃犯人の山上徹也、もう一人は小川さゆりさん(仮名)である。山上の犯罪はまわりまわって犯罪実行に至る動機のひとつであるある反日宗教団体の実態をさらけ出し、また小川さんはその犠牲者のシンボルとして連日のごとくマスコミに登場している。前者の犯罪動機はある意味達成されつつあると思うし、また殺された安倍前総理の生前の実態を暴くことにもつながると思うからだ。二人のつながりは山上の犯罪がきっかけで、後者小川さんはいまや国会にも招致されて参考人となり、まさに反宗教団体排斥の旗手的存在、それらの動きは安倍の生前の疑惑ともどもいい方向に向かっていると思われる。狙撃犯山上徹也の犯罪は結果として稀なことだが、日本社会の暗部を照らし出した。それと引き換えに安倍総理が生前に生んだとされる数々の疑惑と帳消しになるとすれば、悔しい話である。死人に口なしで、岸田政権も安部が死亡しているので、生前の行いに対しては調査は難しいと明言している。警察畑に任せた方がこんな場合はうまく行くのではないだろうか。被疑者が死亡しても犯罪調査はほとんどが整然と行われるのが常、政治家たちは犯罪捜査のプロではないので、政治家の犯罪はやはり警察、餅は餅屋だろう。小川さんのマスク姿で時折見せる落涙の風情は日本国民を十分に教団憎しの感情を湧き上がらせた。湾岸戦争時の重油にまみれた水鳥の映像はイラクを世界の悪役に仕立てることに成功、図らずも今回この宗教団体を悪者として定着させることに貢献したのだ。善良な信者たちは戸惑い、心のよりどころを失ってしまうのは目に見えている。このあたりはほとんど何も考えていない野党の議員の浅はかさが残念ではある。恐らくだが、犯人山上が長期間観察と言う名目で世間から遮断されているのは、彼の供述はそのまま安部元総理の悪行を暴くことにつながっているのではないだろうか。これを当局は恐れているのかもしれない。
2022.12.10
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ソビエト時代はいわゆる「ソ連」と呼ばれていて、韓国の旅客機を撃墜したり、世界のあちこちで核をちらつかせて脅したりと、とにかく昔から悪いイメージしかなかった。しかしロシア人は別で、旧ロシア時代の文化は世界でもリードしていたように思う。文学や音楽のジャンルで独特の曲がりくねった厳寒地方の閉鎖的な考えと言うか醒めた思考と言うか、独特の地位を占めている。ロシア人が今の世界の文化に貢献したのは民族として最大ではないかと思っている。今の映画音楽の基礎は共産党支配になってから自由諸国に亡命したロシア人作曲家の影響大だし、これまた国外追放になったソルジェニーツィンとかピアニストのブーニンとかが著名である。もっとも自由諸国の戦略で、ソビエトを忌み嫌うこれらの文化人をこぞってほめそやしてノーベル賞だの国際的ピアノコンクールでの優勝などを演出した可能性はある。いまでもノーベル賞は中国で収監されていた作家や思想家に賞を送ったりしているから恣意的なところはあるのだろう。純粋な(ソビエト)人として世界的に有名なのはショスタコビッチぐらいではないかと思う。彼の交響曲は確かに有名だが、それは純粋な芸術作品としてではなく、ソビエトと言う特殊な国で生きるために彼が悩んだ末の作品としての研究対象としてではないかと思う。彼のファンには恐縮だが、彼の作風はとにかく勇ましく、それいけドンドン式行進曲風が多い。評論家が言うところの「共産党ににらまれないための工夫」が隠されているというのもなにか重すぎる。わたしなどは「自由諸国をやっつけるテーマソング」としてソビエト当局に歓迎されたのではないかと思っている。人間の悩み、葛藤、喜びなどを体験できるのが芸術鑑賞の楽しみだと思うが、彼の交響曲はナチス時代ににさかんに発表された政権礼賛美術や音楽などと同列にあると思う。閑話休題ロシアのウクライナ侵攻は、近代まれに見る蛮行であり、プーチンと言う愚劣な一人の人間が起こした犯罪だが、彼を生んだロシアという国はまちがいなくわたしの中ではイメージダウンでしかない。ヒットラーと同列に評価される人間であることは間違いない。まともな人間ではない指導者に率いられる国民ほど哀れなものはない。
2022.10.30
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柳田国男風に書くと、いまちまたで流行るもの、統一教会とコロナとウクライナ、この三題でマスコミはしばらく飯を食える。コロナは社会問題としてではなく純粋に公衆衛生の問題だから、わたしの言いたいことから外したい。ウクライナも一部の狂った指導者の問題だから外したい。となるとやはり旧統一教会を考えてみたい。わたしなりに今までの報道を見聞きして判断すると、まずこの団体が宗教というよりは、日韓関係の軋轢で生まれた一種の圧力団体だということだ。最初は反共団体として日本の政治家に近づき、そのまま定着、いまこの団体はなんと韓国の反日団体と深くかかわっているということがわかってきた。情報の出どころはわからないが、韓国を植民地化した日本はエヴァ国家(賠償する側)であり、韓国はそれを享受する側のアダム国家だといかにも宗教受けするような言葉を使ってその本質をさらけ出した。となると、反共の仮面をかぶっていたこの似非宗教団体の正体を見破れなかったというか、無関心だったというべきか、ただ利用するだけしていた日本の政治家の狡猾さと無能さ、また利用されるふりをして実は日本の政治中枢に深く入りこんでいるこの団体やおそらくバックについているだろう韓国当局の能力にはただ驚くほかはない。旧統一教会の一連の報道のきっかけになった、銃撃事件の被害者安倍晋三はなんとおよそ一年前にこの団体の集会にビデオメッセージを寄せていたというのだ。やはり安部の政治感覚は狂っていたとしか言いようがない。引退後とはいえ、自分の影響力がどのぐらい残っていたかなんては恐らく考えも及ばなかったのだろう。軽率なやからではある。狂っていたのは彼だけではない。日本の政治中枢にある政治家、特に与党の感覚は全く政治家としての基本である清廉、公平、不動の姿勢が見られず、首領岸田に至っては安部政権の踏襲に過ぎず説明しない、できない、聞くのは聞いているんだろうが、そのアウトプットがない。安部以来、首相の座にあるものはその実力を落としてきた。安部がその先陣を付けた本人でうそをこく(東北ではウソをつくことをこくという。この言葉遣いは、ウソをつく人間に対して最大の侮蔑を込めたもので、放屁と同じ動作を示す動詞である。安部の最大の罪は国会や予算委員会を通じて国民を愚弄し、侮蔑に晒し、国際的にその軽侮を喧伝した事であろう。安部の長期政権に彼を批判するものは出なかった。野党よりも与党の方から出るべきだったが、政治家の劣化は野党にも及び、ゆ党なる造語もできたほどだ。唯一の反安部の象徴だった石破は哀れはしごを外され、東京駅の雑踏を付き添いもなくたった一人で歩いていた。幸い彼は暗殺されるほどの憎しみを受けるほどではなかったのだろう。東京駅で暗殺されれれば彼は三人目の遭難者となり、床に道標が設置されたはずである(笑)安部の政治家としての資質は最低だったが、唯一点数を稼いだとすれば、間接的に憎悪を培養していた「魔弾の射手」山上の放った弾丸で落命したことで世間の同情を得たことだろう。しかしこの悲劇ももとはと言えば安部自らが招いたことでもある。
2022.10.10
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さいきん、ニュースショーにも身近で斬新なテーマが取り上げること多し、その一つが民主主義の国は共産主義に比べて決していいものではないという話で、これはコロナ禍の三年間、非民主国の代表である中国が経済の回復も人的損害の回復も民主主義国に比べて圧倒的に速かったという事実を示すグラフだ。左はここ5年ほどの縦軸のGDP成長度を表している。横軸には民主主義と非民主主義(共産主義)を中央にゼロを持って来て左には中国のような非民主国家、右には米国のような民主国家をプロットしている。右のグラフは、左の民主主義度合いを表す横軸を持ってきて、縦軸にはここ3年ほどのコロナでの死亡者を表している。まず左の経済発展率グラフは、非民主主義代表の中国がダントツにGDPを成長させ、方や右の米国や日本やフランスはほとんど成長していないのだ。次に右のコロナ禍での損傷度ともいえるグラフだが、やはり死亡者数は中国が最も少なく、対照的にわが日本は民主主義の筆頭でありながら世界で最も死亡者が少ない。これこそ世界に誇ってもいい事実なのだが、これは民主主義というよりも国民の衛生意識の高さなのではないだろうか。マスクをすることに抵抗もない国民て、そんなに多くはない。この日本のグラフの位置は特殊な物だろう。この2つのグラフを見て、あるエビデンスを導くことができるだろう。つまり共産国家は意思決定早く、すぐに行動に移すから時間的ロスが少ない。これはコストにもつながることだ。反面民主主義国家は個人主義が発達しており、全体としての国家の決定は遅れる。あらゆる意見をくみ上げ、調整するからだ。共産主義国家の長所はそのまま民主主義の欠点となる。ある意味で子供でも分かる理屈だろう。子育ての最中に親が強制的に子を従わせている家庭は表面上子供は素直ではたから見ても親の言うことを訊くよいこの典型、反面いつ子供がぐれるかわからないリスクを持つ。かたや民主的な家庭は子供に言いたいことやりたいことをやらせ、親が適当にコントロールしていくが、自主性はあくまで持たせるという環境だと思う。子供は勉強は自主的に行い、平均点は強権的に勉強させる家庭よりも弾くだろう低学年のうちは・・・。しかし思春期を迎え、悪いことも覚え始めれば強権的家庭の子供はあっといううまにヤサぐれてアウトサイドする確率は高いだろう。方や自主性をもって育った子供はアウトサイドすることはなく、すくなくとも人格に幅があり、許容性を持っているのだろう。他人にも思いやりがある子に育つのは間違いないところである。閑話休題東ドイツが西ドイツに併合された時、所得格差は1/4。GDPは1/6、またすべての経済数値は劣り、国民の衛生格差が問題となり、差別の対象になった。この時西側社会(民主主義陣営)は勝ち誇って世界にそれを喧伝、ソビエトの崩壊につながったのである。しかし残る共産主義の筆頭国家中国は鄧小平をして「先に富める者から富め」というスローガンで共産主義の欠点である生産性の悪さと個人競争の原理を取り入れて米国をも抜く勢いの国家に成長させたきっかけを作った。例えば個人それぞれの意見を尊重して意見を収斂させていく民主主義国家と比べて共産主義は意思決定早く、全員無条件で右ならえ式であるから、指導者にとってこんな楽なことはない。世界中数々の新興国家が勃興したが、最初は民主主義的に選ばれた首脳部が、やがてその時間経過とともにろくな結果を得られないのに業を煮やした国民あるいは軍がクーデターで政府をひっくり返して政府に収まり、強権的政治でとりあえず混乱を防ぐという光景があちこちで見られる。アフリカ新興国、ミャンマーなどもこの部類か?(将来民主主義に移行するのかはわからないが)これに目を付けたのがまたまた習近平、新興国に金を貸し付け、影響下に置こうという狡猾さ、新興国は哀れにも中国の言いなりとなる。これまた共産圏の拡大となるのだ。いわゆる国家の利益が国民に優先する共産国家の国民はどう思っているのだろうか。民主主義国家の国民に比べて幸せなのだろうか?中国人は国が富み、強くなっていれば安心で、国にすべてを任せて個人的にはそれなりの所得と娯楽があれば文句は言わないものだ。このp傾向は民主主義国家の国民も同様で、イタリーの総督がかつて言った「うまいパスタとカンツォーネが流れていれば国民は幸せなのだ」というのは俗説だが、これに近いものがあるだろう。共産国家の施政システムの末端である隣組では町内会長がある程度の国権施政をまかされ、これをもとに会費を徴収したり不穏な動きがあったら上に知らせるシステムがある。人間は権力を少しでも持つと米屋の親父が憲兵に早変わりするという例は多々変わらず、町内会はミニマム的に大変な権力を持つのだ。これで賄賂、忖度があるのは民主主義も同じだが、自浄作用があるのとないのでは大きな違いがある。習近平は目を三角にして賄賂を取り締まっているが、限度がある。共産党は組織のかたまりだから、賄賂が行われた組織の上部がにぎりつぶせばそれで発覚することはない。かえって民主主義国家では不正があれば告発があり、それは新聞やマスコミで取り上げられ、糾弾されることが多い。政府も勝手なことはできず、憲法に縛られており、改憲するのも一存ではできないのだ。従って民主主義ははなはだ国家間のケンカには向かず、国内の運営に威力を発揮するのだ。不正があれば、国民自体が自浄作用を持って対処するが意見集約には時間がかかるのだ。それをいいことに、しばしば中国やロシアは独裁政治に近い形態をもって恫喝政治を行い、それによって国民から支持を受けて政権を維持しているという特殊な形態がある。ほとんどのこれらの国民は政府を信頼しているので、いったん政府が外部に弱腰を見せると国民は遊離する可能性が高く、独裁政権はこのことに心を砕くのである。さように民主主義国家とは欠点をたくさん持っており、グラフでわかる通りに共産国家に劣っているのは間違いない。しかしわたし個人としては周囲の密告を恐れたり、自由な表現や議論もできない国にはなってもらいたくない。それゆえに日本の現政権にはまともな姿であってほしいのである。岸田政権もまた安部の悪いところをすべて受け継ぎ、説明不足、事柄隠ぺい、臭い物に蓋をする主義らしい。民主主義はコストがかかり、国民生活をある程度犠牲にして維持するものであるから、これを安部のように私物化して勝手な権力の維持に使うものではない。そのいみで安部以降の政権は落第である。真の意味で民主主義を実行できる政権の出現をのぞみたい。
2022.08.30
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昨日、6チャンネルのニュースショーで、ひきこもりの原因の一つにSNSによる仮想空間での認識違いが挙げられていたが、人生経験の多い老人層には少なく、ほとんどが若者世代であるとの見解を評論家がしていた。この意見は極端ではあるが、当たらずとも遠からず?わたし自身SNSを利用するし、こうしてブログも上げている。わかものはSNSに上がる毎日の利用者のコメントのほとんどが自慢話であったり、楽しい時の体験だったりで、つらいことや悲しかったことはそのままあげられていない。たとえ挙げられていても、それはこうして克服したとかのいわば自慢話の一つであって、悲嘆にくれるコメントではないから、これを若者は読んでますます自己嫌悪に陥るのだろう。けっか孤独感にさいなまれてひきこもりとなるのかもしれない。反面老人の場合、実際にやることは若者に比べてはるかに少なく、体を動かすこともない。これと言って趣味もないし、友人もいない。ひきこもり同然の暮らしだが、自分はそう思っていないという人も多いのだ。このような人はひきこもりとは言わない。ただ友人=知人と区別のつかない人はここで当惑して他人不信に陥る場合がある。信頼できる友人がいても、これからの残り少ない人生には大した役に立たないと割り切っていたほうがいいかもしれない。自分を孤独に追い込み、それに耐える力をつけたほうがいいのかもしれない。
2022.08.29
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日本は異常な国だと外国から見られることがまた増えた。安部の政治家としての評価も定まらないうちに、安部が射殺された責任を幹部が取るという。メディアが奈良県警の落ち度を揃ってキャンペーンを張った。しかも「後からなら何でも言える式」の元警察官評論家を使ってだ。日本の警察官は世界的に見てもそんなに優秀ではない。こと対銃器の分野ではことさら。元々アメリカなどと違って、威圧的な方法というよりは、国民生活に溶け込んで防犯に役立たせるという存在、いわば化学反応での触媒的役割なのだ。コトが起きなければそれに越したことはないというのが日本式だろう。警察の役割は本来要人警護ではなかったのだが、三木総理殴打というのがあってから日本はアメリカのマネをするようになった。しかし日本の銃器犯罪率の低さとその民主主義的存在が今回の批判の対象となったと思うのだ。また冷静に考えて、現職の総理大臣でもないものが射殺されたからってクビのすげ替えまでやることか?と思う。またよく指摘されるところの現場の一般人の銃声に対する反応の無警戒ぶりを批判するやからもいるが、よく考えれば、これは日本のいいところだと考えられないものだろうか・平和な国日本を象徴しているのではないだろうか。結果安部と山上の今回したことで評価できるのは、悪質な宗教団体の本質を世間にむき出しにしたことではなかろうか。
2022.08.28
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さて、日本は世界で最初に戦略爆撃と言うものを小規模ながら敢行した国である。蔣介石の国民党政府が揚子江を遡行して重慶に逃げ込んだのを追って日本海軍が双発爆撃機で爆撃したのである。空から降る爆弾など見たことも経験したこともない中国人はたちまちパニックになり、地下壕に避難した市民は圧死や窒息死を遂げた。これが毎夏続いたが、爆撃機の規模が20機前後と小規模だったため、市民の敵愾心をあおる結果になった。これは先に書いたドイツ空軍の偽装爆弾散布と同じ結果であった。この時の日本軍指揮官は数人変わるが、戦後「最後の海軍大将」として有名になった井上成美の言動を紹介したい。彼は参謀に過ぎなかったが、爆撃隊の指揮官に対して「目標を定め、一般人に危害のないように努めよ」と指示したとの話がある。伝聞なので確かではないが、おそらく後日井上の評価が高まるにつれて出来上がった伝説なのかもしれない。しかし目標は前と同じ揚子江の中州で、住宅が密集した区域であったから、日本側には一般人に被害が及ばないようになどと言う考えはなかったのかもしれない。井上の指示と言うのは怪しいものではある。参謀が直接現地の指揮官に指示するのはあり得ないからである。まったく逆の話だが、米軍捕虜を死刑にした罪で絞首刑になった岡田資と言う陸軍軍人がいた。彼は当時軍管区の司令官で、捕虜を斬首する前に陸軍の法務将校に何度も確認をして執行したと言う(このあたりは大岡昇平の作品を読んでください)。東京裁判の際に、岡田はB29の搭乗員をして無差別爆撃を行った爆撃機の搭乗員を処刑したのは当然という論法を主張して連合国側の矛盾を暴露したが、しょせん勝者の裁判など何の価値もないのだからここでは論じない。検事から、斬首された捕虜の家族に対して謝罪する気はないか?と問われても岡田は「そのようなことを考えていたらきりがない」と言い放ち、はなはだ検事側の心証を悪くしたという一本気の軍人であった。おそらくこの問答は、日米の軍人たちの考えを象徴しているのかもしれない。家族の心情をおもんばかる米軍の検事とそんなことは恐らく考えの枠外だったろう日本の軍人との差である。米軍検事は製薬会社の経営者だが、有事になって志願して将校となり、司令官の副官となった人、司令官は陸軍大学を出たカチカチの軍人だったが、彼はいわば民間出身で社会的常識を持っていた。軍人は社会的常識など持っていても役に立たないというのは世界の常識だが、米国ではこのような軍人の欠陥を補佐する役目の人事も行われていた。家族とはなにか?軍人だろうがサラリーマンだろうが坊主だろうが、個人的には最高の、また最後の心のよりどころだというのが古今東西共通しているが、それは軍人の血生臭い任務とは相反している。アメリカ側は常にそれを基準としてモノを考えることができた。これは両国の軍人の教育課程を見れば明らかである。日本の軍人はドイツの模倣に始まったせいもあって、プロシャ式軍人を生育した。家族はあくまで滅私奉公の支えであり、家族よりも天皇を優先した。軍人の養育は早くから始まり、幼年学校は15歳で入学でき、18歳で陸軍士官学校に入学すればエリートコースを歩んで将校となる。さらに上をめざせば陸軍大学校があり、ここを卒業すると超エリートとなって国を左右する将軍をめざせた。他の道はないのである。社会的な常識は嫁さんに任せて自分は任務に没頭するというのが日本式の軍人だった。これに対してアメリカの軍人は多彩である。前述したドゥリトル(最初の東京爆撃指揮官)は曲芸の飛行士で、メキシコとの定期便などもアルバイトし、密輸にもかかわった。空母から陸上爆撃機を発進させるという素人同然のアイデアに飛びついた彼の度量は、東京爆撃にぴったりだった。1930年代名声を博したピアニストのエディ・デューチンは元薬剤師で、戦中は志願して駆逐艦隊の副長として勤務し、少佐まで昇進した。どんな経歴かはわからないが、日本ではこんな人間は生まれ得なかった。米軍航空隊の最高指揮官アーノルドは純粋な軍人教育しか受けていないが、そのアイデアと積極性は慎重さを欠き。しばしば部下を当惑させた。若いスタッフが叱責されて目の前で卒中で死亡したこともあるほどだった。陸軍長官から何度も注意されたが全く効果はなかった。言い放ったのは「私の任務は敵国の上空で多くの爆弾を落とすことで、あなたの叱責を受けることではない」これも与太話に近いが、彼の性格を表している。これまた日本ではありえないタイプである。米国軍隊の特徴は、師団長や艦隊司令官クラスの副長または参謀には娑婆では医師だったとか会社の経営者だったとかいう経歴の人間をつけて部下との間を取り持たせたことにある。常に米軍の組織には新しい新鮮な空気が流れており、高官が部下に対してハラスメントなど行うと新聞記者が早速記事にした。シシリー島を制圧したパットンが砲弾病になった兵士を叩いたと新聞にかかれ、ブラッドレー(パットンの上司)が平謝りしたこともあった。このようなニュースは日本やドイツには考えられないことだった。ハルゼー提督が艦内のアイスクリーム製造機の前で並んでいると、水兵の集団が割り込んだ時がある。ハルゼーの星の数に気づいた水兵がすぐに最後尾に回り、事なきを得た。ドイツや日本の軍人は若くして従兵がつき、洗濯や靴磨きなどの身の回りの世話をするように仕向けられていた。今でも付き人と言う習慣が残るのはその名残である。ここで気づくのは、アメリカは軍隊も民主主義的な思考プロセスを重ねるということだろう。これが民主主義と言うのであれば、まさに民主主義は敵にも気を配り、戦争とは一方的な力の行使だけではないということに気づくはずだ。日本が降伏するのに必要な戦力を見積もったアメリカは、まだまだ日本人が改悛していないとのことで原爆を使用したというのは自然な成り行きである。無条件降伏をした日本とドイツに対して、大統領は軍の糧秣庫を開かせ、飢えた国民に供与を与えた。これが戦後、アメリカが同盟国を増やした原因でもある。
2022.08.10
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まだ書き足りないこともあるし、原爆投下の意味を米軍の記録から探っていきたいので続編です。思想の流れを大まかに書くと次のようである。第一大戦で短時間のうちに何千人もの荘重が死んでいくのを各国の軍人たちは何とかせねばと思っていた。その中で有名なのはイタリア軍人ドゥーエの発表した理論である。まだ飛行機は完成された兵器とは言えない時代だった。彼は言う。もし飛行機が敵国の都市を直接攻撃できたらこんな戦死者は出ないで済むだろう、兵士はみんな国家の働き手の世代であり、いわば戦死させるにはもったいない資源なのである。兵士の損害を少なくするには短期間で敵の生産力、戦意をくじき戦争の終結を早くすることだと言う。ここに戦略爆撃の思想は生まれた。陸戦を援護するための空軍力とは別に全く新しい思想であった。米国はその地勢上敵を国境に接していず、大西洋、太平洋と言う大きな海に挟まれているから、国防上は大変に有利な地形でもあった。海軍とともにそれを援護する空軍力はどうしても必要だったのだ。必然的に飛行機は大型となり、航続距離は伸びなければならない。海軍の空母艦載機とともに陸上から直接支援できる爆撃機に思想が走ったのは当然である。第一次大戦後、債務国から世界の債権国に変身した米国は豊富な資金でシアトルの豊富な木材資源を背景に発達した製材所が発端のボーイング社がその先鞭をつけた。陸軍航空隊から示された仕様書をもとにして施策された飛行機は1934年に4つのエンジンを持った長距離を飛べるもので、これが戦略爆撃機の原型となる。当初は沿岸警備を任務としたが、大きな積載能力は爆弾を積むこともできた。ドゥ―エの理論は正しかったが、飽くまでそれは二国間の戦争で片方しか持たない技術としての話しで、両国ともお互いの都市を攻撃できる能力を持てば、お互いに持久戦となって「どっちが先にくたばるか」と言う結論に落ち着いた。ドゥーエの戦争を早く終わらせ、自国の荘重をいたずらに消耗させないという願いは消滅した。結局のところ技術開発の速度競争となり、米国は航続距離の長大な4発機の開発によって優位に立ったのだ。第二次大戦が始まり、英独相互の都市攻撃が始まった。ベルリン、ロンドンの市民は至って元気であった。チャーチルもヒットラーも市民が疎開するのを阻止、両氏とも演説の名手であるから、素直に市民は従った。米陸軍航空隊の指揮官たちは英国民の爆撃体験を聞きとり、心理学者がこれを分析した。その中で興味深い1件があるので紹介したい。ドイツ空軍がローマに偽装爆弾を散布したことがある。偽装爆弾と言うのは、人形や万年筆、カバンなどに爆薬を仕込んで触れると爆発する仕組みである。この行為に対してイタリアの市民はドイツ軍を非難、枢軸から連合国に変身する原因の一部となった。心理学者はこのことを航空隊幹部に報告した。「卑怯な手段の攻撃は著しく戦意を上昇させる」というものである。米軍もこの同種の計画をしていたが、直ちに中止した。心理学者はさらにこの種の攻撃は卑劣だが、空襲による被害で著しく自分たちの生活環境が変わった場合は正反対となり、厭戦、政府に対する怨嗟などがみられるとした。これはロンドン市民が地下鉄内に避難した時の証言をもとにして分析した結果である。「すなわち「帰る家があるうちはまだじっと我慢できるが、帰る家が破壊されたらパニックになり、指導者たちを恨み始める」のだ。この問題は軍としても十分考慮する必要があり、政治家チャーチルの人たらし演説と国民を奮い立たせる行動がそれをある程度防いだ。ヒットラーはベルリンに飛来する英国爆撃機を撃墜するのに高射砲を増やし、国民の見ている前で敵機が撃墜され、その効果は絶大だとする彼独特の見解であった。チャーチルの英空軍はさらに工夫して新しい作戦を考えた。まさに悪魔の仕業ともいうべきもので、第一撃の攻撃を行った二時間後にさらに大規模な空襲をかけるというものだった。この二時間と言う時間は、消防隊やボランティアが被害区域に到着して救出や消火活動をしているときである。これを見計らった空襲は、ドイツ国民に内なる打撃を与えたが、日本人と共通して国家を恨み反戦に走るようなものは皆無だった。このあたりが全体主義国家の特徴である。英国の議員にもさすがにチャーチルを非難するものはいたが、チャーチルは毅然として言い放った。「敗北は私にとって個人的に恐怖である。縛り首になるのはあなたでなくこの私だ!」とにらみつけた与太話もある。チャーチルの非情さは自国のコベントリー市が爆撃された時にも現れる。諜報活動によって同市が爆撃される日時がわかっていたのだが、諜報網の存在が明らかになるのを恐れた彼はこれを黙殺、コベントリーの市民に多数の死傷者が出た。転じて今でも被害国の日独は、東京裁判とニュルンベルク裁判で裁かれた以外、自国での戦犯追及はしていない。全責任をヒットラーやA級戦犯に押し付けて戦後をのうのうと生きているのだ。閑話休題米国の航空隊首脳にはドイツ系軍人が多く、同じ姓をなのる敵国人がいても不思議ではない。また日独の軍人と異なり、一般教養を大学で身に着けていたので、建築や美術、あるいは学者の著書が納められた図書館などを破壊するのにためらいがあったのは事実である。日本にも目を向ける軍人はいて、彼は京都、鎌倉などの古都の風景を思い浮かべていた。この両市が被害を免れたのはこのせいだと言われる。また次の目標になる都市には予告ビラを撒いた。この効果は一石二鳥で、市民をパニックに陥れるのと同時に一般市民への攻撃への非難をかわせる口実になった。こうして見てくると、米国にのみ、敵国への攻撃には常にモラルを持って当たったということになってしまうが、残念ながら米国以外の国にはこの種の公的記録がないのである。続く
2022.08.09
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保坂さんは故半藤勝利さんとともに、昭和史を深く研究している人、明快な思想はちょっと左っぽくて知性的なものだが、この記事はどうだろうな。「政治テロ」を定義するのもつまらない話だが、世の中の悪を一掃しようとする内面的な精神力をして行動に至らせるのがテロだとわたしは思うのだ。2.26事件の青年将校たちなどそのいい例で、自分たちは恵まれた環境に育ち、軍人としてエリートコースを歩んだ人たちだが、農村の疲弊とその実情を部下から聞いて立ち上がったというのが動機の一部でもある。直近のフランスでの乱射事件もまた移民や宗教に対する扱いに不満を持ち爆発したのではないか?だとすれば、安部晋三射殺容疑者の山上はこれらに当てはまらない。彼は母親が宗教に狂って一家をぶち壊したのを恨み、心情をすぐれた文章力で表現し、それを保坂さんは解釈したのだと思う。しかし山上はそれを社会に公表しようとしたわけではなく、鬱積した感情を書き留めただけである。その感情は文章にぶつけるだけでは飽き足らずに行動に移したということではないだろうか。いわば自己破滅型の行動を取ったとみるべきで、彼は自分を意識的に生活苦に追い込み、犯行へのエネルギーにしたのだろうと思う。もし彼がきちんと仕事をし、納税をしていたら、そのような感情は外部に爆発することはなかったろうと思われる。社会的に衝撃的な事件は、文筆家にとっていわば食うためのチャンスでもある。まあ週刊誌を買って読んでみてまた再考はします(笑)
2022.08.07
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残虐な犯行に及んだ犯人だからなのか、世間が忘れたころに死刑を執行したなどと実名と写真入りで報道されるってなんだかなあ。刑が確定する前、裁判中はその経過を逐次報道するのは当然だが、わざわざ実名をまたも挙げて世間に忘れるなよと言っているような感じを受ける。それに伴い死刑の執行は現内閣で何人目とか発表するが、これはいいと思う。死刑が法律としてある以上、執行は当たり前の話であるが、中には一度も死刑を執行しなかった内閣もあった。これはこれで国民の評価を受けるべきである。犯人を憎む気持ち、あるいは犠牲者を弔う気持ちは人それぞれである。しかしこの報道でその感情が再度揺り動かされるようなことになってはまずいことだと思う。加害者の遺族、被害者の遺族、両方の遺族の思いは複雑で、それを恣意的とも思われる過剰報道と判断されても仕方のないような報道はまずいと思う。それとも、殺人と言う犯罪に大小があるとすれば、それを計るのは被害者の数が手っ取り早い。1人殺害しても7人殺害しても同じ死刑である。マスコミはこれを勘案しているのかもしれない。実名をそのたびに公表してその名前と憎むべき犯行を大衆に知らしめると言うのが諮らずとも合致しているかもしれない。不謹慎な理論だが、死刑の執行の方法で加害者は罪を償うことができるとしたら、法として釣り合うのかもしれない。思い出すのは中学校で習ったハンムラビ法典だ。「目には目を歯には歯を」という「同態復讐」が基本となっている。この基本は今でもそんなに違っていないと思う。殺害されたのが一人でも何人でも、加害者が一人である以上は死刑は一回で、犯行の大きさが被害者の数と比例するならば、考慮しなければならないのかもしれない。先の不謹慎な理論はあんがいと当を得ているかもしれない。死刑になるまでの死刑囚の心理は心理学者や法学者あたりが研究しているのだろうが、執行の方法を何段階かに分けるのも一方法かもしれない。江戸時代の刑罰の一種で、往来に首だけ出して罪人を埋め、かたわらに竹で出来たのこぎりを置いて、通行人に必ず一回挽かせるというものがある。死亡までに至る時間が長く、罪人の苦しみは言うまでもないが、フランスで考案されたギロチンは一瞬で命を絶つので、よく使われたという。この両方の刑を比べれば、同じ死刑でもおのずと軽重がわかるというものだ。50年代の米映画で「私は死にたくない」と言う社会派の映画では、死刑になった主人公が薬剤注射か電気椅子かを選択できるシーンがある。また最近の映画「グリーンマイル」では公開死刑が行われ、電気椅子での死刑が凄惨にすぎ。立会の検察官や陪審員が倒れたり退場したりするシーンがある。日本では死刑はただ一つの方法、絞首刑であり、採用されている理由は被執行者の苦痛がほとんどないとされているからであるが、本人に確かめようもないので確かではないと思う。閑話休題とにかく、いまの死刑執行の実名での報道は、死刑と言う刑罰を受けたまっとうな人間に対してふさわしくないと思う。
2022.07.31
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泥棒に追い銭のタイトルで数日前に投稿したが、あちこちで被疑者安部さんの国葬決定と言うのがくすぶりだしている。岸田さんの決定はいかにも数を頼んで拙速に過ぎる愚策で、もう少しあちこちの意見を聞くべきだった。気象庁の梅雨あけ宣言が外れたのとは違い、こちらは重大な責任を伴う決定だ。国際的には安倍さんが国内で何をしでかし、何を疑われているかなんてはどうでもいいことで、要はカネをもらったり貸してもらったりした恩義があれば犬と同じく尻尾を振って飼い主に媚びる。しかし国内ではきちんと検証して疑惑があれば徹底的に調査して国民のもとに晒さなければならない。これは当たり前の話で一党独裁とは違うのである。下手すれば岸田政権の命取りになるかもしれない。またこの問題は別なところに新しいベクトルを発生させ、成長しつつある。ろくに名前を憶えていないのだが、「旧統一教会」と言う宗教団体である。朝のモーニングショーはまさにこれ一色で、現職の国会議員や弁護士がこの団体について数々のコメントを発表、ベクトルは確かにある方向に向かって整合されつつあるようだ。調査が進み、安部さんは被害者であるのにまるで自業自得みたいになってしまうかもしれない。これもひとつの世論ではあるが、犯人に対する同情ももちろんあるとみていいだろう。メディアはこんな時弱者の味方をする。勧善懲悪で桜吹雪と御白州の前ではウソはつけめえと国民総金さん気分かも。新聞やテレビと言った機構もニュートラルではなく、世の中を忠実に映しているわけではない。かつて柳田国男さんは長年やってきた新聞の切り抜きを突然やめた理由にこれを挙げている。報道も人間が作る限りは世相を表しているわけではないとのこと。大事なのはその報道の中から真実を読み取ろうとする観察眼であるとのことだ。あやかるのは難しい。世捨て人にはなかなか成れないからだ。
2022.07.19
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安部元首相射殺犯の横顔がだんだん報道によってわかってきた。彼が投かんしたという手紙の内容は、彼は優れた分析力と意思と思いの調整力とを備えており、冷静に自分を見つめていることがわかる。なぜ彼ほどの人物がこのような度外れた犯罪を?と言う疑問は考察する気もないが、一言で言えば彼は彼なりに意思を貫徹、実現したということだ。いろいろな方向から彼を見ることができようが、彼は理不尽極まる宗教団体の犠牲者ともいえ、少々乱暴な理屈だがもっと関連付ければ、安部元首相には因果がめぐって来たともいえるのだ。優秀な人間が宗教団体によって挫折するという図式は多いのだろう。しかも韓国生まれのこの団体、朝のモーニングショーのソースだが、日本人のエリートをターゲットにもしているという。わたしには韓国が宗教団体の隠れ蓑をかぶって日本を思想テロの標的にしているとも考えられるのだ。日本が宗教の自由、結成を憲法に謳っていることを利用し、かつてのオウム真理教への捜査が遅れに遅れ、数人の犠牲者まで出たことを忘れてはならないと思う。
2022.07.18
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福島大学がなぜ他県の国立大よりしょぼいのか?と言う動画、タネを他人のブログから拝借している(汗)まあ冗談半分と言うか100%にしかとれませんが、いまだにしょぼいのは戊辰戦争の敗戦のせいと言うネタ、キャッチーなネタとして捉えればいいと思うが、しかしこの作者はよく各大学の実情を調べ上げており、なかなか痛いところを衝く力作だろうと思います。正直知人のお医者さんによれば、なぜ福大って福島医大と合併しないのか?という疑問がすべて福島県の後進性を表しているというよりも、超保守性、非積極性、事なかれ主義を表していると思われる。その結果、確かに人口が約半分の山形県の国立大学に後れを取っている。理由は明確にはわからないが、作者の言うことは恐らく間違いではない。会津の優秀な高校生は会津高校ではなく、峠を越えて山形東高校へ進学している事実がある。同じ戊辰戦争で冷遇されたとすれば、山形の方がはるかに先進性があったと言えるだろう。実際に山形には国立音楽高校があり、歴史も古い山形交響楽団がある。東北の雄都仙台の通勤圏にありながらその文化程度は高く、福島県とは比べにならない。ジャズ喫茶もまだ数件残っており、そのオーディオ感覚は日本でも有数と思われる音質である。野口英世の出身県とは思えない福島県は数々の不名誉を残して今あるわけだが、やはり戊辰戦争と言うよりは、根底に県創立時の県庁移転のごたごたが後を引いていると言ってもいい。福島県は地政的に南北に交通が発達し、東西は山岳部で隔絶して往来が不便な地形となっている。県庁はけっきょく県北の福島市に置かれて不便をかこつことになっている。このため、県境近くの自治体は福島県の指揮を受けるというよりは他県のおこぼれちょうだいと言う傾向があり、福島県の存在は極めて薄いものとなっている。茨城県に隣接するいわき市は県庁までの距離は120km強、会津若松市からはおよそ100km南端の白河からはこれまた100km弱、これほど分散している自治体を持つ県は他に類を見ない。しかも明治時代に日本で最初の県議会ができたと自画自賛するわりには、県庁を中央の郡山市に移転させる決議がなされた後も数々の福島市側の妨害工作で決議が覆されたという民主主義からは程遠い県議会の体たらくを示した。このあたりが今でも県内自治体の結束が薄く、自治体はみな(県北を除く)わが道を行くスタイルであることと、福島大学のしょぼさは案外と連結しているのかもしれない。また県庁所在地の福島市そのものが仙台市と距離が極めて近く、ほとんど経済圏に飲み込まれており、県民が寄せるであろう県庁所在地としての風格にはほど遠いのも事実、人口は県内でもいわき市、郡山市の後塵を拝している。県はこの批判をかわすために戦中に建てられた県庁本庁舎を建て替えることもできず、耐震補強でお茶を濁し、みっともない姿をさらけ出している。また県は空港を中央部に設置する事、また付帯設備として阿武隈高原道路を作ったが、ほとんど交通量はなく、空港と合わせて超赤字のお荷物施設となっている。これに不満を持つ県民は何度も県庁移転運動を起こしているが、そのたびに施政者、議会は肝を冷やすという図式でもある。しかし県庁移転運動そのものは、その使命が極めて公的な物であるにかかわらず、一部の政治屋の名誉欲のみで行われ、善良な多数の支持者を失望させて失ったのは現状維持派にとっては幸運であったろう。わたしとしては新たな指導者の出現を望むの見である。閑話休題大儀的に見て、戊辰戦争の敗戦は県民の感情の奥底に残っていることは間違いないが、それと福島大学のしょぼさはほとんど関係がないと思われる。
2022.07.16
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あちこちのネットニュースを見ていると、ブラジルが喪に服した、インドもだあの国もだ、弔電があの国から来たなんだかんだ、これは事実であるが、在任期間が歴代首相で最長なんだから当たり前の話である。決して彼が特に外交に長じていたとかではないのだ。わたしから言わせればただの一人芝居がおおく、空回りしていただけと見る。こんな安部さんを美化する文章も多い。故人を美化するのはけっこうなことだが、こと彼に関してはことさらの美化はいけない。これから彼の生前の数々の疑惑が解明されなければ民主主義の国が聞いてあきれる。野党はこんな時のためにある、一緒に引きずられて喪に服すようでは政党の資格はない。長期政権の驕り高ぶりが行政の自殺者を生み、ウソが噓を生んで安部さんの周りは限りなく黒に近いグレーに塗りつぶされているのだ。行政は彼を恐れ、忖度し、数々の疑惑を秘匿しているはずだ。もう恐れる必要はない。徹底的に暴くチャンスなのだ。凶事変じて福と成すということわざはないが、まちがっても個人を祭り上げてはいけない。有名な戒石銘に「民をだますのはたやすいが、天を欺くことはできない」とある。これなど安部さんに捧げる墓標銘にふさわしい。
2022.07.11
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BSチャンネルで「リバティ・バランスを撃った男」を見た。ネタ明かしすれすれになるが、米国が銃社会から法治国家に成長?する過程で、こんなこともあったろうなと言う筋書きの社会派ドラマ、監督はウエィンとコンビを組んで長いジョン・フォードだ。1962年の映画だが画面はモノクロ、色を識別する必要がないので、そのぶん画面構成や人物の表情を読むことができる。このあたりの機微をフォード監督はわかっていた?この時代のカラーフィルムは日本ではかならず「総天然色」と言うキャッチが入って、ポスターも今に比べると毒々しい原色に近く、いい仕上げとは言えなかった。しかしフランス映画ではモノクロと総天然色とバージョンがあったのを憶えている。例としては、イブ・モンタンの「恐怖の報酬」があり、YOUTUBEにカラーの方がアップされていたことがある。しかし、モノクロに比べて色調がどぎつすぎて作品としてはモノクロの方が好ましいと思った。今の人には理解できないだろうが、昔はピンク映画と言うジャンルがあり、要するに今でいうポルノ映画の走りだが、カラーフィルムの節約のために画面がなんてことないときはモノクロ、ことに及ぶ画面はカラーになっていた。なので観客はモノクロ画面の時は寝ていて、カラーになると目を開けていた(笑)閑話休題話題を戻すと、ジョン・ウエィンはフォード監督とともに西部劇のジャンルを切り開いた一つの方向で、いわゆる勧善懲悪、銃をもって銃を制すという筋書きだったが、この映画はちょっと違って、ウエインがベラ・マイルスに失恋するという物語、彼は常に強者だったのに降られた彼は泥酔いして自分の家に放火し、従者のウディ・ストロードに助けられるという、恋愛弱者を演ずる。また、マイルスが弁護士のジェームス・スチュアートに惹かれていることを知り、反面弁護士が銃の所持に反対していることを決して否定せず、批判はしながら最後にはスチュアートを助けるという役割は難しかったに違いない。ウエィンの表情の変化はなかなか彼が大根役者ではないという証明になるだろう。なんせ彼の真骨頂は、馬に乗ってインデアンや悪者を追い回し、拳銃では小さすぎるのでウィンチェスター73を乱射しながらやっつけるという役割が長かったから、とかく批判もあったのである。特に社会派の西部劇「真昼の決闘」でのゲーリー・クーパーとの演技の対比が西部劇ファンを二つに分けたのだ。クーパーの重厚な演技に対して、ウエインはただの大根役者と言うファンと、いやいやウエィンこそ本当のアメリカ人だというファンであった。クーパーなど弱虫で、助太刀を求めに街中探し回った挙句みんな逃げだし、最後に一人で悪漢に立ち向かうというストーリーは男らしくないというファンと、いやいやそうではない、彼こそアメリカ人の鏡じゃよと言うファンと、いろいろな方向で論争があったが、これもアメリカが世界の最強国だったころの国民の考え方だった。今でもアメリカに漂う銃規制と反対の流れのぶつかり合いはこのような映画の批評からも読み取れる。
2022.07.03
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前回の「狭められる正常範囲」に続き、どうしても書きたいことがある。精神科は一般に手術設備が不要だから、初期投資が少なくて済む。必要なのは患者との対面部屋だけである。最近わたしが住む街にやたらと神経科、精神科が増えたのはそのせい?「恋のやまい」ってのがある。妙齢の箱入り娘が突然かかる病気で、両親がいくら看病しても治らない。ただ食事ものどを通らず、日に日に痩せていく病気である。番頭が心配して江戸中の名医を探し、連れてきたのがただの坊主で、その坊主が娘と対面したとたんに病気は治ってしまった。娘は法事で見かけた若い坊さんに恋焦がれていたのであった。精神病の原因は百人百様で、その原因を取り払うのが一番の妙薬なのだが、これを薬で治そうとする現在の薬学ってどれだけなのか。コロナ禍で借金を増やし、ノイローゼになってしまう経営者。眠れない日が続き酒量が増え、精神科医の門をたたくが、いくら精神科医の治療を受けたところで借金が減るわけでもなし、これにやがて気づいた経営者は自殺の道を選んでしまうという実例がたくさんある。まさに役立たずとは言わないが、診療科目の中で禁煙治療とともにこれほど利益まるだし科目があるだろうか。脱線するが、自殺者を減らすためには精神科医よりも経済学者と政治家の出番ではなかろうか。悩みなんて考え方一つだよと言うのが精神科の骨子でもある。確かに悩み多い人は、たった一言で救われることもある。しかしそれは精神科医ではなく、友人や家族や格言や何気ない他人からのヒントである。精神科医の門をたたくときはかなり病状は進行している。精神科医は最後の砦なのかもしれない。わたしの知り合いに「自称うつ病」の人がいた。彼女は自分はうつ病だと言うことを宣言し、わたしにも気を使ってほしいと要求するのである。そりゃうつだろうが何だろうが対人関係には平等に気を使っているつもりなのだが、彼女は事細かに要求するのである。会話の中に禁句を挙げ、それを絶対につかうなとか、なにかマウンティングしたがるのだ。わたしは病人なんだから気を遣えってのはわかるが、言い出されると少し反発もわくということをこの人は知らないのだろう。なぜ「頑張って」って言っちゃいけないのか?なぜうつ病の患者にそれを言っちゃダメなのか説明もなしでは納得できない。わたしに要求するなら説明をせよと言ったら医者でもないのだからできないと言った。こんなのが最近増えたような気がするのは精神科医の氾濫のせいかも・・・考え方と言うか、見方を変えてみる。精神科医の役目は、自分が病気だと思っている患者を励まして、君は病気などではないとわざと診断し、自信を付けさせることかもしれない。経験したことがあるのだが、体調不良でそこか悪いのではと医師の診断を受ける時がある。精密検査をやってその結果、「アンタどこも悪くないよ、気のせいだよ」と言われれば不思議と体調は良くなってしまう。これは医師を信頼している場合で、気のせいなら多分あのことかとかこの事かとか自分で原因を探るのだ。精神科医に必要な絶対条件とは「信頼」だろう。ろくに患者の訴えも聞かずに睡眠薬を出すようなのは論外である。難しい科目ではある。
2022.06.22
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ろくなことを書かない地方紙に乗っていた論文が、「障害が増え続ける不気味さ」副タイトルとして「狭められる正常」、この記事に引き付けられた。どういうことかと言うと、精神病の研究をしている投稿者が気付いたことだが、その分野の新しい病名が次々と発表されることだという。これは喜ばしいことなのだろうが、投稿者はその理由を心理学者から聴いてはたと思い当たる。心理学者が言うには、「新しい病気を発見すれば、それは学者の実績になるということだ」そうである。なので次々と研究者は根掘り葉掘り既存の病名のどれにも当てはまらない疾患を探すのだという仮定である。一つ新病を発見すれば、講演の依頼や著書の出版などの機会は増える。逆に正常人?は減り病人は増える。タイトルの「正常者の居場所がなくなる不気味さ」はわたしが感じてつけたもので、思い当たることが多い横文字病の氾濫はそれをあらわしているのではないかと思うこの頃だ。目新しいところでは心的外傷後ストレス症候PTSDで、第一次大戦後に新たに発見された疾病だ。ケガしているわけでもないのに、原因不明の発作が出て社会復帰困難な帰還兵が続出、精神科医がこの病名を付けて治療法を探しているところだ。この病名がつかなかった頃は、この発作を抱えた兵は臆病者とされて社会から抹殺されたり、現役将校で軍法会議にかかった例もあった。アスペルガー症候群と言う症例は戦後有名になった疾病だが、わたしなぞは恐らく幼少のころはまさにこの病気だったのだろう。ヒトと話すのを極端に恐れ、いつもひきこもっていたことがある。母の田舎に移住して半年ほど暮らして、従兄や周囲の友人と川遊び、山登りなどして自然と治ったのだが、これを病気とすべきなのかは今でも論争がある。というのはこれらほとんどの精神病に治療法は確立されていないからだ。治療法がない病気と言うのは病気ではない可能性もある。病気の定義はまず患者がいることだが、精神科医が外来患者を診断し、あんたの病気はアスペルガー症候群だよと言ってさらに患者がわかりましたと納得すれば病気は成立するのだ。一次的な発達段階で見られる症状を病気として取り上げ、太鼓打ち鳴らし旗を振って騒いでいるだけではないのか?と言う悪評もある。しかし反面、これらの心理的ストレスを抱えて苦しむ人たちもいるのは事実で、現にPTSDが過酷な戦場で経験したものに発症するということを証明した病理学者のおかげで、幾多の将兵の命が軍法会議で死刑宣告を逃れて救われたのは事実だ。PTSDがまだ知られていないとき、これにかかっている兵士が敵前で逃亡し、軍法会議で死刑を宣告されtた例はいくらでもあるらしい。また投稿者の記事によれば、最近発表された疾患名で「夜食症候群」てのがあるらしい。これは夜になるとやたら食いたがる病気だそうだ。「注意欠陥多動性症候群」は子供に多くみられ、落ち着きがないのが特徴だそうだが、子供って落ち着いていたのでは子供でないような気もするが・・・。逆に「緩慢認知症候群」てのもある。これは普通の子供よりもゆっくり動く子供のことを言い、これも治療できるそうだ。こうして投薬する機会も比例的に増えていき、製薬会社の株価は上昇、医薬業界は官学軍三位一体と似たような構造を作っているのかもしれない。これが今の不気味さなのである。しかも老人ではなく、子供に焦点を当てて新しい病名がついていく傾向があるのは恐ろしいことではないだろうか。理想の人材に向けて盆栽のように矯正し、肥料の調整をして理想の納税者に仕立てていく国家の理想ではないのか?やがてフツーの人間て居場所がなくなるのではないか?
2022.06.20
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小学生のころの記憶では、ご近所のお父さんがスバル360を乗り回していて、たまに乗せてもらった。小学生にはそんなに小さい車体だとは思えなかったし、前足を思う存分伸ばすことができるほど前部のスペースはゆうゆうだった。たしかサイドガラスは引き戸形式で、半分しか開かなかった。フロントガラスのすぐ下に室内から操作できる換気ハッチがあって。雨天時にはそこから雨水が足元に滴り落ちた覚えもある。しかし、当時良くて三輪車、ふつうは自転車や人力車が駅前にたむろし、バイクなどはいいほうだから、4輪で動く車から市内を見渡すのは人生最初の優越感を感じたと思う。しかし上には上がいて、普通車のコロナやダットサンや英国ライセンス生産のヒルマンミンクスが向こうからくると自然に進路をゆずり、向こうは鷹揚に手を挙げて挨拶を返すと言った風景が日常、差別社会を感じたのもこのころである。いつかは普通車だなあと思ったのも懐かしい。さて、最近の軽自動車の規格や性能、値段を見るに、昔の軽自動車が設定されたころの動機を失っているような気がしてならない。戦後まもなく、日本の発展のためには自動車は不可欠で、国民車として誰でも乗れる低価格の自動車を政府として設定したのが始まりだったはず。たとえばスバル360は1958年発売で425.000円、ダットサン1000は標準価格で71万円ぐらい、倍近い開きがあった。軽自動車はおよそ普通車の6割ぐらいと見ていいと思うが、今の価格差はどうか?逆に軽自動車の方が高い場合も多い。中古車になると軽の方が高くなる逆ザヤである。市場がこうなってしまった以上、政府はこれを元に戻さなければならないだろう。昨今の事情がEVにシフトするときである。部品点数はガソリン車の三分の一で済むというEVは寸法も従来の軽自動車の規格内に収めればかなりの低価格になるはずだ。いま宅配大手は中国からの軽EVを輸入するというし、飲料メーカーもまたEVに切り替えている。しかし日本国内生産のEV(写真)はなんと価格が170万円もする。このナンセンスが何か日本をして自動車メーカー保護政策に入っているような気がしてならない。今自動車業界のパラダイムシフトが起こりつつある中で、チャンスはいまが最適だ。新車の標準価格が200万円前後なら、その6割の120万円前後価格帯を設定すべきだろう。またEVの価格が高止まりしている現状、あと6割はさらに落とせるはずだ。EVの普通車は120万円前後、軽EVは70万円前後で買えなければならないと思う。
2022.06.11
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構力をかじった身として、理屈はわかるのだがデータを出してほしかったなあ。例えばアメリカ側沈没艦艇の沈没時の状況などを日本側のそれと対比すればわかりやすかった。記事の言う通りの要素は確かに少しはあったと思う。しかしわかっている限りだが、初戦のころ、インドネシア海域でのいくつかの海戦で沈没した連合軍巡洋艦はほとんど砲撃と雷撃で横転沈没している。(大東亜戦史より)また日本側もミッドウエーでの大損害の時になかなか沈まなかった空母の大半は味方駆逐艦の魚雷による自沈である。また大戦末期の米巡洋艦インディアナポリスの沈没も、沈没の状態を詳細に描いた単行本によると、乗組員は傾斜して乾舷が低くなった方から海へ脱出したとなっている。真珠湾で転覆沈没した戦艦オクラホマの例もある。この筆者の主張する中央の隔壁が日本艦艇の損害を大きくしたとするのは早合点ではないだろうか。そこまで主張するなら、前述したように日米艦艇の沈没状態を詳しく調査して対比させればもっと真実味はあったろうに。かといってわたしも反証するつもりはないから調査する気にはならない。この記事の狙うところは、単に日本艦艇の設計のまずさを指摘し、してやったりとすることなのだろう。しかし小めんどくさいことに、造船中将として名高い平賀教授をほめあげたり、筋の通らない記述はいくつもある。しかしわたしが新たに思いを深くしたのは、日本のように国力の劣った国のわりには、戦闘で大損害を受けた軍艦をあきらめるというのは案外早かったという事実である。アメリカは損害を受けた場合、ただちにその手当てをする班を編成し、その訓練も常にしていた。日本ではその手の乗組員の余裕はなく、訓練もほとんどしていなかった。日本の大型空母大鳳,信濃が簡単に沈んでしまった例もあるが、原因は損害を修復する技術が稚拙だったからで、隔壁のせいではない。いわゆるダメージコントロールは米海軍の方が上手であった。記事ではこのことも触れているが、これと縦隔壁の有無の問題は別である。日本は攻撃第一で防御には考えが及ばず、陸軍でもその傾向は強かった。神風特攻の体当たりで大損害を出した空母フランクリンは、一時行動不能に陥ったが、修理チームがボイラーの復旧に成功し、ハワイまで自力で帰ったという経歴を持つほどである。自沈と言うのは、動けなくなった艦艇を自軍の手で沈めてしまう行為で、漂流したまま敵手に渡ることを防ぎ、艦隊の行動に支障をきたさないためである。この手の自沈が実に多く、これは逆に、日本艦艇がなかなか沈まなかったという根拠になるのではないだろうか。また戦艦長門がビキニ環礁に引っ張り出されて原爆実験に使われた時、最後まで浮かんでいたという説もある。日本の当時の技術陣の名誉のために多少えこひいきしたかもしれません。
2022.06.11
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韓国人は日本人の先祖だという人がいる。確かに言葉の文法や、発音など似ているし、また半島から日本列島に渡ってきたというのも自然にうなづける話である。その逆と言うのはあまり考えられない。ちなみに頭の中を空っぽにして両方の言葉をただ音の羅列として聴いていると、日本語と韓国語の区別がつかなくなる時がある。ネットには、いやそうではない、日本人と韓国人のDNAは違う、むしろイスラエル人に似ているのだなんて目新しいだけの記述もあるが、やはり地勢的にも日本海を渡ってきたと考えるのが正しいと思う。さて本題だが、「シュリ」は20年ほど前ビデオで見たことがある。その時感心したのは、アクションシーンでの出演者や兵士の動きのリアルさである。わたしの韓国への偏見が吹っ飛んだのはこの映画からだ。韓国はいまも徴兵制だから、ほとんどの男子は銃器の扱いや展開運動の訓練を受けている下地があるのだろう。日本のそれとはけた違いの俊敏さで、その動きは本物だった。監督の演出の細かさもあるだろうが、敵味方に分かれてしまった男女の会話も観念的でない率直さがあった。第二のコリアショックはテレビドラマ「チャングムの誓い」を見た時だった。主人公の美しさもだが、筋の通った当時の宮廷の内部を事細かに描いて毎回楽しみに見たほどである。主人公の肌の美しさは、カメラのアップにも全く瑕疵が見えず、これだけの女優をよく探してきたもんだなあと感心したりもした。しまいには休みに本場まで行ってロケ現場(入場料を取る観光施設になっていた)に行って偶然母の敵役の女優さんに会うことができた。彼女の美しさもまた画面よりも数段上で、いっぺんにファンになったほどである。彼女は放送局のアナウンサーも兼務するプロで、人材の多彩さも感じたものだ。これに比べて最近の日本映画の話題作を見ると、なにかこれでいいのかと言う感がある。とにかく監督の自画自賛的な作品ばかりが受賞し、視聴者の側に立っていない映画ばかりである。一部批評家受けする作品ばかり狙って作っているとしまいには観客が遠ざかるのではないだろうか。 まず公開前に実績を作ってしまい、それを基に宣伝する手法はもう通用しないと思う。一発勝負で観客とスクリーンで対峙するような映画って作れないものだろうか。直近BSで放映された「闇に鎖された男」も思わせぶり演出は少しもなく、娯楽映画としても社会はドラマとしても通用する作品、人間の性善説をたたえる映画でもあった。日本人は韓国人と同じ遺伝子(違うという人もいる)を持っていながら、こうも違うのは、やはり前者が島国に居住して、独自の文化を持ち、四方の海によってそれが守られてきたのに対して、後者は周囲の大国に影響されながら独自の文化を守ったというレジスタンス性があり、率直な物言いと意思の伝達が不可欠だったからとは言えないだろうか。映画も人間関係の縮図だとすれば、前者はモヤモヤ関係、後者はハッキリ関係とも言えるかもしれない。
2022.06.07
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【合本版】興亡と夢(全5巻)【電子書籍】[ 三好徹 ]価格:2970円 (2022/6/2時点)楽天で購入今から数十年前だが、まだ若輩のころに通ったジャズ喫茶で読んだ若者向けの週刊誌に連載されていたのを出版したのがこの本である。わたしが歴史好きになったのもこの本の影響大で、家には父親が残した膨大な書籍があったことはあったが、ほとんど読む暇も整理するヒマもなく、忙しいサラリーマン生活を送っていたのだが、この本はそんなわたしにも興味をそそられる内容が盛りだくさんだったのだ。と言うのは、通常の歴史ものって肩ぐるしいかんじ、やたら感じが多くて遠ざかってしまうが、この本は副題に「僕たちの昭和史」とあるように歴史を揺るがす大事件の他に、並行して当時の世相や流行、人の考え方など身近な著述を満載していたからである。最初の書き出しは平易な感じで始まる。2.26事件の起きた昭和11年からなのだが、すぐには事件には触れず、まずこの年に合った日劇ダンシングチームのデビューや、当時世の中を騒がせた「阿部定事件」を取り上げ、この事件を詳細に描くあたり、歴史ものと言うよりもドキュメントと言うタッチで引き込まれたのだ。犯人阿部定や被害者の生涯も描かれていて、その時代に引き込まれるような刹那を仕事の合間に少しの時間だったが味わえたのである。とかく歴史本には人名が連なるが読み方不明のもの多く、適当に読んでしまうが、この本はルビを振っているのも読みやすい。どうしても著者が元軍人だとか、大学教授とかだともうそれだけで入口が狭いが、三好さんはさすがに記者の出身だけあってわかりやすい表現もその助け、文庫本になって少し窮屈ではあるが、文体が平易なのでどんどん読み進んでしまう。最近また再読し始めたが、あらためて昭和と言う時代を満喫できる本である。
2022.06.02
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全く何の先入観もなく、この作品を見に行ったわたし、知人が見たいというので付き合った経緯があります。まず一般的な最近のシネコンの傾向ですが、やたらと音量が大きく、迫力があるのはいいのですが、映画によっては興ざめすることはなはだしい時もあるので、再考を促したいところですね。静かなホームドラマの会話のシーンでなぜかビールを注ぐ音がやたらでかく、なにかこのシーンには意味があるのでは?なんて変な方向に勘が働くときがあり、疲れるんです。さて、ネタバレしない程度に作品を評価する前に、素直に鑑賞後感想を言いますと、上映開始から半分ぐらいまでは病的殺人犯の心理描写や主人公のかかわりぐあいがからんだあたり、なぞとしてぐいぐい引き込まれるのですが、後半になって登場人物がどんどん出てきて絡み合い、しまいには訳が分からないと言うか、考えるのが面倒になり、退屈感を憶えてしまいました。優れた映画いなら、鑑賞者を画面に引き込んで離さない魅力が常にあり、画面の隅々まで神経が行き届いているものですが、セリフが陳腐で意味が通らず、原作がどのようなものかはわかりませんが、後半の複雑なストーリー展開はほとんどセリフでしか語られず、画面はついていけない感がありました。最近の日本映画の傾向なんでしょうが、音だけはオーディオ的快感を味わえるようになっていますが、このあたり若者のヘッドフォン感覚?聴力低下の遠因にもなります。画面のバランスや、カメラのカット割りなど全く考えられていないようで、このあたりは韓国映画に負けています。箇条書きにすると後半は見るのが疲れる(人間関係をもっと丁寧に描写すべきでした)グロテスクなだけで必然性なしの画面多しセリフと画面が遊離している総合評価は、タイトルが大業で空回りしている映画でした。5段階評価で
2022.05.29
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LGBTSの人たちが人口に対してどのぐらいの割合なのか、公式の見解はないそうだが、あちこちのネットを見るとだいたい4から10%の間と言うことらしい。意外と多いのに改めて認識不足を感じたが、Maxの10人に一人であれば、周りにけっこういることになる。少々乱暴な確率だが、いま日本の15歳未満の人口は約1500万人、このうち半数が男女それぞれ同数とすれば750万人、日本人総人口が1オクとしてLGBTSに遭遇する割合は、男子中学生と遭遇する割合とほぼ同じと言うことになる?だがほとんど見分けがつかない。世間で言われているほどの数字ではないのではないか?と言う疑問もわく。もっとも見分けがつかないからどうだということではなく、身の回りには普通にいるということなのだろう。このことは、若いころの実体験としてあるのだが、それを書いてみようと思う。社会に出て無我夢中で働いているころは、周囲にはそんな連中がいたとは意識できなかった。しかし小学校、中学校時代にはそれらしき友人はいた。団塊世代の真っ最中で一クラス60人近い大所帯だが、女言葉を使う友人が二人いた。この比率などおよそ3%で、うなづけるかもしれない。当時はアルファベットで簡単に略してしまうような言葉など存在せず、「おとこおんな」とか「おかま」とか呼ばれていた。しかしそれはあくまで校外での話であって、我々友人や先生との間では全く普通に交友していたと思う。成績優秀な人が多く、話題も豊富で女生徒との会話もうまく、われわれはおこぼれちょうだい的に彼らの周囲に集まっていた。また外見的な仕草とは裏腹に、運動神経もよくて、バスケットやサッカー、あるいは相撲や柔道など格闘技にも強くて対抗試合などよく出ていたものである。要するに現在のLGBTSという作られたイメージでは全くなく、正々堂々と生きていた。我々も全く彼らを差別などしなかったし、彼らもまた、今様のカミングアウトの感覚はまったく持ち合わせていなかった。彼らには独特の魅力があり、流ちょうに女言葉を使うのもかっこよく見えた。社会人になって、彼ら(彼女ら)が経営するクラブやスナックはその特性を生かして繁盛している店が多い。いま、LGBTSに対する世論は、メディアや知識人によってなにかマイナーに受け取られ、それをもって生まれた欠陥のように扱っているが、彼らにとってみれば余計なお世話だろう。親だって心配しすぎるのは理解するが、世間に相談すればするほどおかしな方向に行ってしまうことが多い。最初から市民権を得ていたものが、なにかいったんマイナーにされてしまい、それから我々が後押しをしますから頑張ってくださいなんて図式が出来上がっているように思える。メディアが知識人や有識者を使って重箱の隅をほじくるようなことをやり、彼ら(彼女ら)が普段着でいることを神経過敏にしてしまったような気がする。周囲の人間が寄ってたかって「君たちにも人権があるんだからどうどうと生きなさい」と言っているようにわたしには聞こえる。全く余計なお世話である。言われたほうは「え?わたしたちってフツーなのになんでそう思われるのかなあ。もしかしてそのとおりなのかも」と不安に思うだろう。言われれば意識せざるを得ない。何かぎくしゃくしてくる第一歩だろう。数多いLGBTSの人たちの中には、そんな世間の風潮に影響されて迷っている方々も多いだろう。それには同じ境遇の先輩の助言や、専門家の指導を手厚くするということだろう。それを看板にして活躍しているタレントさんも大勢いる。彼らはごく普通に当たり前に自分の特質を理解して仕事しているのだが、メディアは彼らのここまでに至る経験を例外なくいかにも悪環境にめげず頑張ってきたように作ってしまうから始末が悪い。影響のあるテレビ番組だからこそこのあたり注意して制作してもらいたいものだ。特別視するからそんな風になる。当たり前にみれないのかなあ。
2022.05.26
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わが日本では、現職首相が暗殺されるという事件が何件か起こっているが、おとといの5月15日は犬養首相が暗殺されて90年経っている日である。今では日本は戦争を放棄して、敵国攻撃能力を備えるか否かで大もめするほど平和国家なのに、このころはいまの北朝鮮も逃げ出すほどの軍備と全体主義を持つ不気味な国家だったのだ。日本が戦争大好き国家になったのは、政治家が軍人に抑えられてしまったせいだとよく言われる。浜口首相の暗殺もこの影響で、犯人は統帥権干犯と言う難しい言葉を理由にしたが、取調官に「では統帥権干犯とは何か?」と訊かれるとろくに答えられなかったというほど、その雰囲気に支配されていたのである。この権利は簡単にいえば、軍隊は天皇の命令で動くので、政治が口を出すのはけしからんという考えである。軍人たちがなぜ暴走したのか?たくさんの書物がこの件で書かれ、かなりの量になっているが、簡単にいえば、せっかくかなりの戦死者を出して勝利した日露戦争以後、日本の政治家たちは腰抜けで任せておけないという感情が一部軍人たちに充満していたのが原因らしい。いまでこそまさか自衛隊が国会に乗り込んで国防を論ずるなんてことはないが、当時は当たり前、軍人が政治家となって日本刀を引っ提げて議事堂に出入りしていたのだ。なぜ軍人がこうも幅を利かしていたかと言うと、当時は軍人になる専門の学校が各所にあり、なんと12歳の小学校を出たばかりの子供から優秀な生徒を選んで入学させていたのだ。青田刈りの典型だが、この学校は文部省ではなく、陸軍省の管轄だったからこのようなことができたのだ。この年代から軍人精神を叩きこまれたらどうなるだろうか。二十歳ごろになったら精神的に少し片寄った人格ができてしまうのではなかろうか?などと心配する人はいなかった。この入学制度は全国津々浦々に及び、一見進歩的なのは外国と比べて平等に入学資格があったということだ。学費も寮費も無料と言うことで、家が貧しくても優秀であれば軍人と言う出世の道が開けるというので、当時の農家の次男三男坊が入学者の多くを占めた。軍はこのころプロパガンダとして貧農出身の野口英世を利用、頑張れば功成り名を遂げて出世できる話を大々的に扱った。外国では、政治家や軍人は貴族出身者が占めており、そんなに簡単に入学できるところではなかったのだが、日本はこのころ富国強兵政策で、外国に追いつけ追い越せというスローガンで、早期の軍人養成を図ったのだ。一見平等で民主的なように見えるこの制度は、社会的に人格的に偏った軍人を大量生産した。どこの国の軍隊と言えども役所と同じく組織で動くのだが、日本では一部の軍人に政治への不満が出始め、これを政治家のせいと考え、日本人に備わったDNAともいうべき天皇崇拝と相まって、政治家を抹殺して天皇が直接政治を行うべきと言う単細胞的思想に変わったのが始まりである。この一派が起こしたのが5.15事件である。もちろん、正常な軍人たちも黙ってはいず、この皇道派と呼ばれた軍人たちを中央から遠ざけたり、予備役にしたりと冷遇したので、ますます焦った彼らは4年後に2.26事件と言う大事件を起こすのだ。軍が優秀な人材を国内に求めるため、先物買い、青田刈りを積極的にやった結果、日本を亡国寸前にまで追いやった政治の罪は深いのだろう。しかしそれは、誰もが備えている怯懦、妥協、差別といった負の感情で、彼に対抗する正義感、理想、勇気などがそれら負の感情を抑えるのだろうが、いまそれがうまく行っているとは思えないのである。勇ましい言葉や意見がネットにあふれ、そんな政治家がもてはやされることではいけないと思う。
2022.05.17
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きのう「ドライブマイカー」を散々こき下ろしたが、製作者側の都合ではなく、視聴者のニーズに合わせた映画は魅力的で、時間を忘れさせ、現実を忘れさせる、人生での清涼剤である。俳優や監督やカメラマンはそれで飯を食っている。清涼剤は身近なところにあった。シネコンまで片道80kmを走ったあげく見た映画だからこそ失望感は大きかったのだが、その分BSテレビで元を取ったような気分である。ストーリーはごくありふれたテーマで、文字にしても全くつまらないものだが、映画に仕立て上げてこそ、監督が、俳優が、カメラマンが映画をすぐれた作品にするのだろう。ストーリーは「フラガール」に似ていて、炭鉱町に住む少年と父親の愛と葛藤の物語、ここまではまったくありふれた描写でしかない。しかし筋が進むにつれて、父親が息子に強要していたボクシングよりも、息子がバレエに進む決心をしてからの両者の激突と葛藤の描写がていねいで、映画製作の醍醐味がここにあると言っていい。少年に絡むLGBTの友人と、彼の才能を見出したバレエ教師、費用をねん出するために父親が少年のためにスト破りをする描写などがあって、いずれの筋も少年が炭鉱町を脱出してバレエ界にデビューするまでの過程を丁寧に描く。反対する父親の前で、決心した少年はダンスを踊ってその決意のほどを示すのだが、その迫力に圧倒された父親は自分の考えが誤っていたことを悟り、資金捻出のために炭鉱のスト破りをやり、兄と衝突する。父親は息子とともにバレエ学校に行き、面接に臨むが、彼の階層とのあまりの違いに困惑するところも面白い。このあたりは階層社会の落差を皮肉っているのかもしれない。ラストシーン、白鳥の湖をバックに、成長した主人公がソロダンサーとしてステージに躍り出るシーンは感動モノであります(涙)
2022.05.09
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映画を見てない人も、この車はご存じの人は多いはず。ああ「ドライブマイカー」なんて何の工夫もないタイトルの映画だよね と言えるぐらい、コロナ禍が薄らいでくる世相にこの赤い車が走りまわった。世間の評判がこれほど先行した映画ってあまりないと思うが、ロードショー途中でアカデミー賞受賞したから余計にその評判はうなぎのぼりになった。いったん上映を契約通りで打ち切ったシネコンも、朝一番のブログラムとかにスポット上映するようになり、かくいうわたしも一度は見とこうと片道80kmをマイカードライブして海岸通りにあるシネコンに行った。ちなみに村上春樹さんはせいぜいジャズポートレートシリーズを文庫本で持っているぐらいで、興味はない。また演劇も苦手で、ほとんど見たことはない。あのオーバーアクションの割に登場人物が小さいので(映画に比べて)見にくいので自然と遠ざかった。そんなわたしなので、この映画はちとしんどかった。半分寝ていたようで、隣の友人に起こされる始末。よほど退屈だったのだろう。そのため、ストーリーは支離滅裂、しかしこの映画そのものが、雰囲気を映像を楽しむようにもできているようなので、鑑賞には十分だった。第二の主人公とも言えるサーブは、実はわたしが輸入車を商売にしていたころの車種の一つで、ユニークな車であったことを憶えている。スエーデンの車は知識人に人気があり、ボルボとともにけっこう売れた車でもある。さて映画の出来だが、半分寝ていたわたしには批評する資格はない。だが、言えるのは、村上さんの小説に心酔している人なら、受け入れるんだろうなあと言うことぐらいしか言えない。ただ三時間はきつい。好奇心で、有名な映画批評コラムではどんな評価を受けているのか覗いてみると、五つ星満点で一つ星を付けている批評には二種類あるのがわかった。村上春樹に心酔していながら一つ星と、のっけから拒否反応で一つ星とがあるのだ。前者は期待を裏切られたという多少の怒りもあいまってより辛辣な内容だが、後者の方はいたってノーテンキに金返せ!とか、イミフメーとか罵倒するのが面白い。わたしも金返せ!と言いたいが、もう少しひねって罵倒したい。「飽食した映画製作者たちのはなもちならない芸術遊戯」いかがですか?
2022.05.08
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