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神経質の人が嫁入り後、次のようなことから、神経症がますます悪くなることがある。それは自分が嫁として、良妻・賢母として、誰から見ても非の打ちどころなく、完全な善人になりたいという欲望を押し通そうとし、つまり理想主義にかぶれるために、舅・姑や小姑に対して、日常赤裸々の感情でなく、強いて心をまげてかかるから、周囲からも、かえって不自然なヒネクレのように見られ、自分が善人の義理立てを立てれば立てるほど、かえって周囲から虐待されて、反対の結果になり、その苦しみが重なり重なって、ついには神経症になるのであります。このような人は、入院して精神修養をなし、自然の人情にかえり、心機一転すれば、今までのように、自分が強いて善人になろうとする事をやめ、自分はこれだけのものである。無理に悪人と思われないように、骨を折る必要もないという風に、おうようになり、自然に心も安楽になり、心にこだわりがなくなって、日常生活が、自由自在になり、神経症が治るのである。(森田全集第5巻 205ページ)神経症になるような人は、「かくあるべし」という理想主義、完全主義、結果第一主義、コントロール欲求の強い人が多い。なかなか事実、現実、現状をあるがままに認めようとしない。特徴としては、弁解、言い訳、ごまかし、隠蔽、非難、否定、責任転嫁のオンパレードである。そういう体質の人は、普段からそのオーラを醸し出していて、敬遠されている。他人の行動に対していつも批判的、否定的に見ている人は人望はないのである。人と仲良くしたい、人から尊敬されるような人になりたいという強い欲望はいつまでもかなえられることはない。その悪循環を自覚することが重要である。次に、現実でのたうち回っている自分と、それを見下ろして非難や否定を繰り返して分断している自分を和解させることが必要となる。雲の上にいて、現実の自分を非難・否定ばかり繰り返している自分が地上に降りていく必要がある。つまり自分の中に存在している2人の自分が一人の自分になる事である。森田理論ではその手法については、何項目にもわたって説明している。全部に取り組まなくても、いくつかを心掛けて生活することで、少しずつ近づいていく。そうなれは神経症的な葛藤や悩みは、霧散霧消してくる。そのヒントをこのブログの「事実本位・物事本位」のカテゴリーから見つけ出してほしい。370本の投稿があるので、その中からあなたに合う手法が見つかる事だろう。主な項目を挙げておく。「かくあるべし」の弊害を理解する。事実を観察する。先入観や思い込みは事実から離れていく。真実かどうか実験によって確かめる。相手に伝えるときは具体的、赤裸々に話す。両面観で判断する。相手の話を十分に聞いて理解する。相手と対立したときは話し合いによって調整していく。安易な価値判定をしない。「純な心」から出発する。「私メッセージ」で話す。事実には4つの事実があるので、理解を深める。
2020.04.30
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2017年10月22日に書痙の行方幸吉氏の話を投稿をした。行方氏は、書痙を治すためにドクターショッピングを繰り返したが治らなかった。万策尽き果てて、最初は森田先生のところに入院された。よくならなかった。次に京都の宇佐先生のところに入院された。そこで森田の言わんとすることがよく分かったといわれている。行方氏は、森田療法で書痙そのものは、ついに治すことができなかったといわれている。かっこよく上手に字を書こうと思えば、いつも字が震える。しかし、書痙にとらわれて、仕事から逃げ出すことはしなかった。ここが肝心なところだ。与えられた仕事に一生懸命に取り組んだ。退院直後は、出世コースから外された。健康増進部に配属されたのだ。その時に思ったことは、字を書く以外の仕事で、人並み以上に働いてみようと思った。そして次々と成果を上げて、ついに朝日生命の社長にまで出世されたのである。もしあの時、私がいつまでも主観的な気分に支配されて、会社に出ることをしり込みしていたら、今の自分はどうなっていたであろうか。おそらく、生ける屍となって、一族の持て余し者になっていたであろうと思うといわれている。その行方さんが次のような話をされている。健康増進部の課長は、人の悪口などは決して言うことができない。産業医の診察の報告があまりにも簡単すぎで整理できないといつも愚痴をこぼしていた。課長は産業医に遠回しに訴えるけれども、産業医は全く気が付かない。私は課長からその話を聞いて、それは何でもない。私から言いましょうということで、産業医に実情をありのままに話しました。すると、「ああそうかなあ、なるほど、それは気がつかなかった。それで数年間、問題になっているとは思いがけなかった」といって、さっぱりしたものである。何の感情も害することもなく、改善できた。先日もある料亭で、社から沢山の名士に御馳走をしたことがある。私は課長と一緒に接待役を頼まれた。課長は、接待後のお客様の足を心配されて、タクシーを20台も待機させると言う。これを私が請け負って、お客様に一人一人伺って、「自動車はいかがでしょうか」と尋ねれば、「私はいらない」という人も多かった。また方向が同じという方には、同乗の段取りを取り付けた。その結果タクシーは6台で間に合った。僕は簡単である。先方もさほど悪くは思わぬらしい。行方さんは問題点や課題を認識されて、それを解決するためにどうすればよいかと考えられている。そして考えたことを実際に行動に移されている。かたや課長さんのほうは、観念の世界でやりくりするばかりで、一人で相撲を取っているようなものである。これは森田理論でいうと循環理論という。「こまった」「どうしよう」という考えが行ったり来たりするのである。これでは不安が増悪し、イライラして精神状態が悪くなるばかりだ。どちらが神経症になりやすいかといえば、当然課長さんのほうである。行方さんは、「こまった」状態を、解決するにはどうすればよいのかと考えられた。今の困った現状を明確にさせて、そこから目線を上げて考えておられる。このことを森田理論では、事実に立脚した生活態度という。観念一辺倒から、実践・行動に重きを置いた生活になっている。問題や課題が次々に解決して、仕事の好循環に入っている。神経症を克服すると、ことさら強調しなくても、結果として「事実本位」の仕事ぶりになっているのだ。これを別の言葉でいえば「物事本位」ともいうのである。
2020.04.29
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元ロッテのキャッチャーだった里崎さんは、「ネクストバッターの選手を観察しないキャッチャーはキャッチャーではない」という。そこでの選手の動きを観察することが、攻め方を組み立てる上での一つの指標になるという。意識や注意があらゆるところに行きわたっていることが、大切なのである。ご存じだろうが、ネクストバッターボックスは、バッターボックスの斜め後ろにある。1.5Mほどの円である。ここには4点セットが置かれている。マスコットバット、バットウエイト、すべりどめ、ロジンである。私は今まで、試合の進行を早めるために、ネクストバッターはそこに待機するルールになっているだけのものだと思っていた。深い意味は見いだせなかった。ところが球辞苑で、「ネクストバッタボックス」の特集を見てから、急に関心が高まった。多くの選手は、まじかでピッチャーの球を見て、気持ちを整えて、勝負に臨んでいた。だからネクストにいる時間が長いほど、打撃成績が良くなる傾向がある事がわかっている。前の打者が1球で打ち取られた場合の、次打者の打率は、2割4分2厘、7球粘ったあとは2割6分3厘に跳ね上がっている。ファールで粘る選手の後を打つ打者は、ほとんど打率が高くなっている。ではどのようにして、気持ちを整理しているのだろうか。ピッチャとのタイミングを計っているという選手がほとんどだった。野球ではバットと球のタイミングが一致するということが不可欠なのだ。出会いがしらのホームランというのはタイミングがぴったりと合っている。ピッチャーが球をリリースした瞬間に、自分の打撃のトップの位置と合わせる作業を真剣に行っていたのだ。タイミングを合わせるだけで、実際にバットを振るわけではない。バットを振るのは、投球の合間なのである。巨人の丸選手が面白いことを言っていた。持ち球や配球のデーターは試合の始まる前にすでに頭に入っている。キャッチャーの癖もすでに分析済みである。ピッチャーの調子は、日々刻々と変化している。その日の変化に合わせてタイミングをとる必要がある。真っすぐがきているのか、普段と変わらないのか、きていないのかを感じ取っている。また右手一本でバットを立てて、右目でバットのマークとピッチャーを見ていると集中力が上がるという。球に対しての反応がよくなってくるという独自の判断を紹介していた。国立スポーツ科学センターの森下義隆氏が興味深いデータを紹介していた。ネストバッタボックスで次のことを心掛けて実行することで、成績がアップするというのだ。一つはバットを全力で振ることだ。回数は4回から5回が望ましい。筋肉の活動後増強が起きて、スィングスピードが1~3%速くなる。飛距離にして5Mほど伸びる。ただし欠点は、1分30秒ほどしか持続しないということだ。だからバッターボックスに入ってからも、何回かは実行するとよい。もう一つは、1.7倍を超えた重いバットを振ってはいけないことだった。これをすると、通常順番に動いていた筋肉の運動バランスが微妙に崩れるという。野球では微妙なバランスの崩れは命取りになる。この二つは、数多くの実証実験で明らかにされているそうだ。元ヤクルト監督の真中満氏は、これは現役の時に聞きたかったといわれていた。ここで森田で学習するバランスの重要性がよく分かる。
2020.04.28
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球辞苑という番組で「選球眼」を取り上げていた。この内容は、森田理論の「変化に素早く対応する」というテーマにピッタリと合っていた。これによると、ピッチャーが145キロのスピードで投げたボールが、キャッチャミットに収まるまでの時間は0.46秒であるという。その間にバッターはボールを見極めてスイングする。スイング時間はどんなに速い選手でも0.16秒かかる。目で見て打つか打たないかを判断するのに0.17秒要する。残りの余裕は0.13秒しかない。これが何を意味しているかというと、人間に備わった動体視力では、ボールの動きや変化は見えていないことだ。見ようとすればするほど見えない。「じっくりボールを見て打て」と言われても、不可能に挑むことになる。これではいくら変化に対応しなさいと言われても、物理的に無理だ。どうしてプロのバッターは150キロのストレートや変化球を打ち返しているのか。実は、バッターはあらかじめピッチャが投げる球を予測して待っているのだという。相手ピッチャの持ち球は、対戦する前にデーターとして詳細に調べ上げている。そして配球パーターンもキッチャーのリードの傾向も事前にある程度分かっている。バッターは、それぞれのピッチャーに対して、リリースの前から打つか打たないかは決めている。球種や軌道を予測しているという。予想通りの球だと察知したときに打ちに行く。目線はボールが来るところに置いて、予測したイメージのところでボールを待っているのだそうだ。変化に瞬時に対応できないときは、そういう仮説をたてて待つことしかできないという。心理的イメージと物理的イメージが一致したときにヒットが生まれる確率が高まる。決してピッチャーがリリースしたボールを追っているのではないという。目付をピッチャーやボールから離して、チャンスボールを待つというイメージだそうだ。自分が予測したところにボールが来たとき、自然に体が反応して勝手に動いているという。打ちやすいところや狙っているところにボールが来て、無理なくスィングをしている。川上哲治氏が、「ボールが止まって見える」という言葉を残しているが、仮説が当たると145キロのストレートでも止まったかのように見えるのだそうだ。巨人の丸選手が次のような発言をしていた。練習で狙い球を確実に打ち返す技術を身に着けることは大事だ。そのためにはスイングスピードをつけるなどの猛練習を重ねる必要がある。次には、目付が大事になる。変化をあらかじめどのように予測するかということである。例えば、鋭いスライダーを投げる投手の場合、スライダーが真ん中に来るとボールになる。打ちにいってはいけないボールなのです。スライダーが自分に当たるのではないかと思えるようなボールがストライクになる。本来ならデットボールを恐れて、のけぞるようなボールを積極的に打ちにいかないといけない。予想は7割近く外れる。でも自分の予測したボールしか追わない。予想していないボールは我慢して見送ります。バットを振らなければドラマは生まれないなどというのは、甘い幻想です。逆に、どんなボールでも手を出していると、自分の予測したボールが来たとき、打ち損じが起きる。基本は自分の狙った真ん中付近にきた甘い球を打つしかないのです。ですから予想した変化が起きないと、手を出すことはできないのです。四隅にきたきわどい球がストライクと判定すると、三振になります。それはそのまま受け入れて、次で勝負するしかないのです。どんな球でも手を出して追うようになると、真ん中付近の球も打ち損じるようになります。予想通りのボールが来たときは、積極的に打ちにいきます。ところが、ボールになると分かるときがあります。その時の対応として、バットを止める技術が必要になります。打ちにいくときに手首の返らない、バットの出し方があります。グリップが相手ピッチャーに向いているようなバットの出し方をすると、手首が返りにくい。私が森田で学んだのは、目の前の出来事をよく見て、その変化に合わせて動きなさいということでした。変化が先で、その後で自分がどう行動するかという順序だったのです。プロ野球の世界では、変化を見極めること自体が難しい。そういうやり方では決してうまくはいかないということです。そういう場合は変化を予測して、予測したところで変化が起きるのを待ち伏せすることしかできない。変化を先取りするということです。そのためには事前に情報を集めて、こういう変化が起きると、こうなるというシュミレーションを繰り返す必要がある。仮説を立てて取り組むことです。仮説だから、外れることは多々発生する。それを潔く受け入れる態度が欠かせない。野球の場合は7回失敗しても、3回成功すれば一流プレイヤーだ。失敗から何かをつかんで、次に生かすという姿勢が大事になる。一番ダメなのは、せっかく立てた仮説がうまくいかないからと、すぐに放り出してしまうことだ。いったん立てた仮説は、放り投げるのではなく、精度を高めていく方向に向かわないとまずい。
2020.04.27
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森田先生は「しゃくにさわるときは大いにしゃくにさわらなければいけない」と言われています。当然しゃくにさわるような場面で、その感情が沸き上がってこないということは、感性が鈍麻していることが考えられます。神経質性格の人は、発揚性気質の人から見ると、感性が鋭く豊かであるという特徴があります。この神経質性格はとても優れており、大変貴重なものです。この特徴が消えて無くなってしまうと、鋭い感性を活かすことができなくなってしまいます。神経質の最大の長所を自覚して、活かすことができなくなってしまうと、ただの人になってしまいます。感情には、不安、恐怖、違和感、不快感、嫉妬、うれしい、楽しい、爽快だ、悲しい、ゆううつだ、妬ましいなど様々あります。どれがいいとか悪いとか選り好みするのではなく、どんな感情であろうが、泉のようにこんこんと湧き出てくるということが肝心なのです。この点が自覚できるようになると、次にその感情の取り扱い方を考えてみましょう。注意すべき点がいくつかあります。まず、小さなことがしゃくにさわるような人間はダメだと考えるようになると、神経症になります。小さなことを気にしないような性格改造に取り組むことは、避けなくてはなりません。次に、しゃくにさわった時、自分を抑圧して、我慢する、耐えるというのも問題です。ストレスやうっぷんが蓄積されてきます。それを上手に吐き出すようにしたいものです。自分の気持ちは「私メッセージ」などの手法を使って相手にしっかりと伝える。あるいは、相手の理不尽な言動を日記などで整理しておき、いざというときに冷静に相手と話し合うようにする。さらに、気分本位になって、支離滅裂になり、すぐに言い返す人がいます。短気、瞬間湯沸かし器で、不快な感情をすぐに取り除こうとする。あるいは本能的な欲望を手っ取り早くかなえようとする。その手の行動がその後どんな結果をもたらすか、普通の人はよく分かっており、制御しているのです。自分は制御能力がないと思う人は、人の力を借りてでも、制御する必要があります。最後に、しゃくにさわるという感情にいつまでもとらわれ続けるという人は、森田理論学習で解決してもらいたいと思います。神経症は感情の固着から起きるのです。精神交互作用という言葉をご存じの方も多いでしょう。神経症で、イライラが昂じて、生活が後退するという蟻地獄に落ち込むときは、必ず一つの感情に対して固着現象が起きています。その感情を、山あいの谷間を勢いよく流れる小川のような状態に変えていくことが森田が目指していることなのです。さまざまな感情が次々と生まれては、すぐに流れて動き出す。一時的にとらわれるが、すぐに次のとらわれへと移っていく。それが身についたとき、神経症は影も形もなく、霧散霧消していくのです。
2020.04.26
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4月24日13時30分より4月27日12時までの期間内で、森田療法入門講座がyou tubeで見れます。you tubeの検索画面に「心の健康セミナー」と打ってもらえばすぐに出てきます。今回は、森田療法入門講座 ~不安・うつから回復する手立てとは~中村敬先生(東京慈恵会医科大付属第3病院 院長)時間は1時間30分です。大変分かりやすい内容となっています。ぜひご視聴ください。
2020.04.25
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森田先生は対人恐怖の人が、人前に出ると恥ずかしいという心がなくなったら、それは図々しい「すれっかし」になるといわれています。「すれっかし」というのは、慣れてしまって、感情が鈍磨すると起こる。入院患者の中には、森田先生から、小言を言われても、ビクともしない人がいる。顔色が少しも変わらない。これは面の皮が厚くなったともいう。赤面恐怖が治るには、もっと細かく恥ずかしくなるようにならなければならない。(森田全集第5巻 221より要旨引用)当時大学の先生というのは、一般の人から見ると雲の上の存在だったのだ。その言動は誰でも一目置いていた。当然感情も高まり、敏感に反応した。しかし、入院患者の中には森田先生に叱られることに慣れてしまって、「カエルの面に小便」のように、平気になってしまう人がいたのである。森田先生は、目の前の日常茶飯事にものそのものになって取り組んでいくことで、豊かな感情が泉のように湧き出てくる。それが谷間の小川を勢いよく流れる水のように動き出す。今まで観念の世界で理屈をこねまわしていた人間を、凡事徹底によって、豊かな感情を発生させて、その感情が勢いよく流れることを目指していたのです。その視点から見ると、「すれっかし」というのは、慣れてしまって、当然湧き上がってくる豊かな感情が枯渇している状態です。目指しているところから見ると反対になっているのです。これではお手上げになってしまうのです。慣れてしまうというのは、実に恐ろしいことになってしまいます。これを防ぐには「純な心」を大切にした生活習慣を作り上げることが有効です。素直な心や直観や第一に湧き上がってくる感情を宝物のように取り扱う生活習慣を作り上げることです。例えば、学校行事で子供たちが遠足に行きました。ところが集合時間になっても帰ってこない子供がいた。先生は「何か事件に巻き込まれているのではないか」と必死になって探した。しばらくすると、探していた子供が何気ない顔で帰ってきた。そのとき先生は、「どこに行っていたの。勝手な行動をとってはいけないとあれほど注意をしていたでしょ。けがや事件に巻き込まれたらご両親にどう言い訳をしたらいいのよ」と叱責した。これは第一に湧き起こった感情ではない。それから出発すると、「無事に帰ってくれてよかった。先生は何か事件に巻き込まれたのかもしれないととても心配していたのよ」となります。第一の感情はほんの一瞬で消えていきます。そのあとに、「かくあるべし」を多分に含んだ、第二の感情が沸き起こるようになっているのです。それに基づいた言動は、叱責、批判、弁解、否定などになり、相手と対立するようになるのです。「純な心」から出発する習慣が身につくと、感情の事実をそのまま認めて受け入れることになります。感情はますます豊かになって、勢いよく流れていくようになります。「すれっかし」になって感情の発生が枯渇するということはなくなります。
2020.04.25
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森田先生の話です。近頃、フランスのアランジーという人の書いたものを、桜沢という人が訳して、「西洋医学の没落」と題した本が出ているが、西洋医学を分析医学と名付け、一方を綜合医学といって(ごく適切の名称とは思わぬけれども)、西洋医学を攻撃し、漢方医学などを称揚してある。しかし物事には必ず、利害・得失の相伴うもので、その弊害のみを見て、論を立てる場合には、両方ともに迷妄・弊害のある事は当然のことである。真の識者は、その両方の有効なところを正しく観察・批判することができるのである。(森田全集第5巻 211ページより引用)森田理論の両面観の話である。調和やバランスを意識するということですが、森田では重要な学習項目となります。私は以前に五十肩になって、整形外科にかかった。テレビにも出たことのある有名な医者であった。何回通っても治らないので、漢方や針きゅうを併用することを尋ねてみた。その先生は、漢方や針きゅうのことは知らないと、それらの治療を拒否した。というより、そういう治療をしても治らないと即座に否定した。現代医学の最先端の治療をしているのだという自負が強かった。そんなことを言うのならここには来ないでくれといっているように感じた。私はいつまでたっても治らないので、通院を止めて、針と整体に変えた。自由診療で治療費が高くついたが、1年ほどで完全に治った。今思うとその先生は患者目線に立っていないのではないかと思った。西洋医学の大家かもしれないが、視野が狭く、態度が横柄で不愉快であった。患者の痛みを取ろうとすれば、西洋医学に加えて、整体や針きゅうのことも研究するのが、信頼される医師ではないのか。自分がそこまでは手が回らないというのならば、ネットワークを組んで信頼される鍼灸師を紹介ぐらいはしてもらいたいものだ。西洋医学に偏り、決められたことしかしないというのは、いかにもバランスが悪いと思う。そういう人は、得てして患者を見ることはしないで、一心にパソコン画面と格闘している。まさにその医者がそうだった。タイピングスピードを自慢しているかの如くである。その後変わったことはありませんか。そしていつもの薬を出しておきましょうというのが口癖だった。長い時間待たされて2分から3分ぐらいで診察は終了である。患者はもっと自分に顔を向けて話しを聞いてもらいたいと思っている。朝まで生テレビの司会者の田原総一朗氏を見ていると、議論する場合、まるきっり見解の違う人を呼んでいる。そして意見を戦わせる。時にはけんかに発展することもある。しかし真実は、その相対立する意見を戦わせることで、自然に浮かび上がってくるようだ。森田理論学習では、両面観は特に2つの面で役に立つ。一つは神経質性格の特徴です。神経質性格は、消極的で引っ込み思案、悲観的に物事をとらえやすい面がある。そのようにネガティブに考えていると、お先真っ暗になる。親を怨むようになる。なかには性格改造に取り組む人まで出てくる。神経質性格の学習をすると、この性格はたぐいまれなる優れた特徴を持っていることがわかる。それを自覚して、もともと備わっていた神経質性格を生活や仕事に活かしていくことが、自分の進むべき方向だとはっきり分かってくるはずだ。もう一つは、不安の裏には欲望があるということです。私たちは神経症の蟻地獄に陥った時、不安、恐怖、違和感、不快感ばかりに振り回されていました。森田理論学習のおかげで、その葛藤や苦しみの裏には必ず大きな欲望がある事がわかりました。欲望と不安はあざなえる縄のようなものだと学びました。不安にばかり偏った生活は間違っている。生の欲望をまず優先させていくことが肝心であることがわかりました。その際、欲望が暴走しないように不安を活用していくことも学びました。不安と欲望は、車のアクセルとブレーキの関係にある事が理解できました。神経症に陥った時は、欲望の発揮が蚊帳の外になり、手段の自己目的化が起きていることが理解できました。これが理解できれば、目指すべき方向性がわかりました。あとは生活や仕事に応用していけばよいのです。
2020.04.24
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森田全集第5巻の173ページに、「会社で人を採用する時など、神経質な人をとってはいけないといっている」とあります。私が社員の採用の仕事をしていた時、「YG性格テスト」をするように言われた。目的は消極的で意欲のない人、人間関係作りの苦手な人をふるい分けることだった。そして明るく、積極的な人を選別することだった。甲乙つけがたいとき、最後の決め手としてこの性格テストを参考にした。つまり、神経質性格の人をふるい分けて、落とすためのテストだったともいえる。そして、森田先生の言う発揚性気質の人を選び出す手段として利用していたのである。当時も疑問に思っていたが、今では両方の性格者を均等に採用することが、長い目で見ると会社の存続性が高まると思っている。ちなみに発揚性気質の人は、陽気で、愉快な人で、あっさりしていて、交際上手で、朗らかの人である。交際にも、気持ちよく、気のおけない人で、よく人の世話をやく人である。その代わり、ただうわべばかりで、人に対して、深い思いやりなどは全くなく、自己内省もできない。一方、神経質性格は、自己内省的で何かにつけて、自分のことを観察批判して用心深く、石橋を叩いて渡るという風である。すべて理知的で感情を抑制することが強い。したがって軽はずみではないがヒネクレである。自己中心的で、他人に対して、情愛がうるわしくはないが、信頼をおくことができるという風である。(森田全集第5巻 365ページ)私たちは森田理論学習によって、神経質性格には二面性があると学んだ。その発揮の仕方で、短所が前面に出る時もある。緻密でどんな小さいことでもよく気が付くという特徴を仕事に活かしていけば、どれほど会社に貢献するかわからない。さらに、分析力を活かして、将来のリスク回避を提案すれば、会社の発展にも寄与できる。問題は、先入観と決めつけで、神経質性格は社会にとってはマイナス面が多く、そういう人とは付き合わないほうが無難であるという暗黙の了解があることだ。それに影響を受けて神経質性格の人が、自分の性格は修正しなければいけない性格なのだと思っているとすれば、こちらのほうが問題である。私たちは森田理論学習で、神経質性格の特徴について学んだ。この学習のおかげで、神経質性格の見方は全く変わった。マイナスにみえる性格の裏には、プラスの面が隠れており、そのプラス面を生活や仕事に活かしていけば、これほどはぐくみあいのある性格はない。神経質性格者は、感受性が強い。繊細で感情が豊かである。好奇心が強い。生の欲望が旺盛である。自己内省性がある。責任感が強く粘り強い。森田理論学習に取り組んでいなければ、自分の性格を忌み嫌っていたことだろう。ないものねだりで、発揚性気質の性格に改造するのではなく、もともと持っている神経質性格のプラス面により一層磨きをかけて生きていくほうが有意義な生き方ができる。
2020.04.23
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形外会の会長をされていた香取修平氏は、森田先生の著書によりて、まず不眠症が治り、次に心悸亢進発作を征服し、さらに1回の外来診察で、徒労・倦怠感がなくなったが、なお森田式修養法によって、活動を得、仕事の能率を上げたいと考えて、入院したのであります。(森田全集第5巻 179ページ)全集第5巻によると、香取氏は優れた実業家であったようだ。森田療法により、フットワークよく機敏に行動できるようになったと紹介されている。細切れ時間などを有効に活用して、仕事の能率がどんどん上がっていった。それで、形外会の会長に推挙され、森田先生の病気が重くなった時なども、一番に呼ばれている。その香取氏は森田先生のところに入院されたのは、神経症を治すためではなく、神経質の性格を存分に活かしていくためだったといわれている。当時の入院費はある方が1円だったといわれている。当時の一円は、現在では約一万円ぐらいである。当然自由診療である。決して安くはない入院費である。それにもかかわらず、森田先生のところに入院すると、神経質者としての人生観が確立できると判断されていたということである。ここが認知行動療法をはじめとした他の精神療法と大きく異なるところである。認知行動療法で普通の日常生活を取り戻すことができるようになると、その時点で治療は終わる。表面的には神経症を克服したかにみえるが、神経症の原因となっている、観念を優先した生き方の修正は手付かずのままである。そうなりますと、90年といわれる長いその後の人生は、精神的にはつらくて苦しい人生が待ち構えている。また、認知行動療法で神経症を克服した人たちが、定期的に集まって形外会のような会合を持っているというようなことは聞いたことがない。それは対症療法的な神経症の治癒だけを目的にしているからである。森田療法は昔は形外会、今は集談会という自助組織を持っている。森田療法の全体の枠組みから言えば、神経症の治癒は2割から3割ぐらいのものではないかと考えている。森田理論学習の真の目的は、神経質者の人生観の確立にあるといっても過言ではない。自立した人間本来の生き方、自分の活かし方、教育や子育て、欲望の暴走の弊害、人間と自然との共生などについて重要な考え方を提示している。だからこそ100年経っても生き残り、燦然と光輝いている。さらに世界各地に拡大してきたのだ。森田に出会えた私たちは幸運以外の何物でもない。
2020.04.22
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「迷いの内の是非は是非ともに非なり」は難しい言葉である。森田先生は、次のように説明されている。間違った断定から出発した推理・判断は、それがいかに適切であり、道理にかなっていても、結局は間違いであって、これがいわゆる「迷いの内の是非は是非ともに非なり」というのであります。(森田全集第5巻 184ページ)「迷い」というのは、間違った断定から出発することであると指摘されている。間違った断定とは、私が思うのは「かくあるべし」から出発する態度のことではないかと思っている。「かくあるべし」から出発した場合は、それがいくら理論的に理路整然と説明できたとしても、結局は間違いであるというのである。問題が出てくるというものです。これを例を上げて説明してみよう。父親が胴元になって花札賭博をやっているところを、その父親の子が見つけた。その子は学校で法律に違反するようなことは決してやってはいけないと教えられている。人のものを盗んではいけない。交通法規は厳守しなくてはならない。友達をいじめてはいけない。などなど。こういう「かくあるべし」を生活信条として、かたくなに身に着けているとどうなるのか。隠れて花札賭博やカケ麻雀などをすることも法律違反だ。とんでもないことだ。そんなことをしている人は、たとえ肉親だろうが警察に通報して取り締まってもらうべきだ。その父親は踏み込んできた警察に逮捕された。この子はまれにみる正義感の強い子供として表彰された。でもめでたしめでたしというわけにはいかない。生活費を稼いで、自分を育ててくれている父親が逮捕されたのだ。すぐに自分たちの生活が苦しくなる。父親は、拘置所に入れられ、裁判になり、刑務所に送られるかもしれない。そうなれば父親は前科ものの烙印を押されることになる。自分も前科者の子供という扱いを受けるかもしれない。それでも正義を貫くためにはやむを得ないと考えている子ならば精神異常者と判断せざるを得ない。博打はよくないがやっているのが、実の父親だ。父親をかばって見逃してあげるのが普通の子供がすることだ。ここでの迷いは、法律は絶対に厳守しなければならないという「かくあるべし」だ。それは社会が決めたルールだから厳守するのは建前としてはその通りだ。しかし時と場合に応じて、ルールは活用していくものだ。だから実情に合わなくなれば、ルールはすぐに改訂される運命にある。このような場合、森田では、人情から出発することをお勧めしている。最初に感じた感情を大切にして、そこから行動を開始するということである。そのように心がければ間違いがないと教えてくれている。森田では「純な心」として学習している部分だ。この場合でいえば、「お父さんがよくないことをしている。でもせめて警察に見つからないようにしてもらいたい」という気持ちだろう。そこから出発すると、警察に通報するということはあり得ない。しかし悲しいかな、人間には、そんな感情はすぐにかき消されてしまうという特徴がある。それに替わって、「かくあるべし」を含んだ、第2の感情が発生してくるのである。普通はその感情の影響を強く受けてしまうのだ。それに基づいた行動は常に問題になる。その感情は一見理性的でまともに見えるのだが、肝心の最初のハッとした感情を無視しているので、結果として問題を発生させるのである。「迷いの内の是非は是非ともに非なり」で森田先生が伝えたいことは、「かくあるべし」から出発しないで、純な心を大切にして生活しなさいという事ではあるまいか。事実、現実、現状を素直に受け入れて、そこを出発点とした事実本位の生活になると間違った行動は起こりにくいのである。
2020.04.21
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森田先生は人力車から落ちたことが三度あったといわれている。一度もケガをされたことはない。その理由を説明されている。それは不安定の姿勢、休めの姿勢をとっているからだといわれている。休めの姿勢というのは、片足で全身の重さを支えて、他の方は足を浮かせて、つま先を軽く地につけている状態のことだ。この状態を保っていると、つま先に鋭敏に身体の動揺を感じることができ、すぐに周囲の変化に迅速に適切に対応できるそうだ。(森田全集第5巻 197ページ)これを心がければ、電車の中が込んでいて手すりを掴むことができないとき、電車が揺れたときにとっさの行動ができる。人の足を踏みつけたり、倒れることも起きない。大体そういうときは、もし揺れたときはどうしょうかという心づもりはしていると思う。そのような心づもりのない人がとんでもないリアクションをみせることがある。株式投資をしている人の場合も同じだ。株価はラグビーボールを投げるようなものでどう変化するのかは分からない。自分の予測と外れた場合に、すぐにロスカットをしないと塩漬け株を作ってしまう。これが株式投資の世界では常識となっている。休めの姿勢、不安定の姿勢の説明で森田先生の言いたいことはなんだろうか。それは万が一の変化を予想して、日頃からその対策を立てて、いざというときに素早く適切な対応でできるように心がけて生活しなさいということではなかろうか。変化を先取りするような生活態度を維持していくことが大切なのだと教えてくださっている。そう考えると、東海、東南海地震が発生する確率が高まっていると聞くことが多くなった。これを予想して、いまから準備することは何か。家具の固定、建物の耐震化、避難場所の確認、避難訓練への参加、ヘルメット、懐中電灯、ラジオ、非常食、飲料水の備蓄、簡易トイレの用意など最低限怠りなく行っておく必要がある。津波を想定した準備が必要な場合もある。そのような準備がなく、突然大地震が襲ってきたらどうなるか。右往左往することは目に見えている。下手をすると命を落とすことになる。それとこの話で森田先生が言いたいことはもう一つあると思う。それは精神を緊張状態においておくことの大切さである。このことを森田では「無所住心」という。昆虫が触覚をピリピリと緊張させて、忙しく動きまわっているようなイメージである。そうすると、様々なことによく気づくようになる。感情が活性化してどんどん流れていくようになる。問題点や課題、発見や工夫、アイデアが次々と湧き上がってくるようになる。弾みがついてますます意欲的になる。そういう状態は、注意や意識が一点に集中することがない。一時的にとらわれても、どうにもならないことはそのまま流して、次のことにとらわれていく。諸行無常に世界に入ることができる。神経症とは縁のない世界である。つまり変化を先取りする気持ちを持っていると、気が張って、その瞬間瞬間を大切に生きているということなのだ。課題や目標を意識しているので、生きがいを持てることが大きい。そのためには、毎日の日常茶飯事に手を抜くことなく、丁寧に取り組むことが肝心である。人に依存することは極力避けて、自分のできることは毎日自分で取り組む。日常生活にものそのものになって取り組むことができるようになると、緊張感に満ちた森田的生活ができるようになる。変化を予測して対応する態度を身につけたとき、その人の人生は大きく花開いていく。
2020.04.20
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「馬鹿になれ」ということについて、森田先生が説明されているので、これを取りあげてみよう。森田先生は「馬鹿になれ」と教える代わりに、「偉い人になりたい者は、偉い人を見よ」という。そうすれば自然に、自分は馬鹿のように感じ、これではならぬと努力するようになる。偉い人を見つめよ、うらやめ、あやかれ、そして自分の馬鹿さ加減をよく知り分け、少しでも偉い人の模倣をして、馬鹿でないようになれ。(森田全集第5巻 195ページより引用)これだけでは何のことを言われているのか分からないと思う。早速説明してみよう。普通は偉い人を見ると劣等感を起こして、自己嫌悪、自己否定するようになる。自分の容姿、神経質性格、能力、境遇などを相手と比較して苦しむ材料として使っている。これでは比較すること自体が仇となっている。その弊害を意識して、しばしば学習会では、人と比較するなといわれる。唯我独尊を持ちだして、自分はこの世界でたった一人のかけがいのない存在である。他人のことは気にしないで、自分の信じた道を突き進んでいきなさいといわれる。人と比較することを忌み嫌っているのである。しかし他人がいれば、様々な面から比較しているのが普通の人間である。人と比較するなといわれても、それは無理だと思う。人と比較するのが人間の本来性とすると、比較のやり方を今一度再考してみる必要があると思う。自己嫌悪、自己否定する人は、自分の立ち位置を雲の上のようなところとっている。そこから現実の自分を評価しているのである。他人と比較して劣等感的な物差しをあてて、あれがダメ、これがダメと批判を繰り返しているのである。現実で苦労しながらなんとか生きている人にとってはたまったものではありません。かばってくれるべき身内が歯向かってくるようなものですから。こうなると人と比較することは弊害以外の何物でもありません。しかし他人と比較して自分の今の状態を把握するということは、見方を変えればこんなに役立つことはありません。自分の現在の状態が比較することではっきりと浮かび上がってくるからです。そこを出発点にして、発奮して這いあがっていくための材料として活用すれば、こんなにありがたいことはありません。自分で気づかなくても、他人と比較することで、正確に分析することができるようになるのです。そのためには、「かくあるべし」でがんじがらめになっていてはまずい。現実や現状を素直に認めて受けいれるような状態になっていないと、役立てることはできない。比較するということは、自分に刃を向けるものでもあるし、その役割を自覚しているものにとっては、貴重な発奮材料にもなるのである。森田先生が言われる「偉い人にあやかれ」といわれているのは、そのことだと思う。つまり自分の立ち位置をしっかりと現実において、上を見上げて大いに比較して現状認識を深めていきなさいという事だ。立ち位置が地上にあるので、あとは目標に向かって努力するのみになる。結果として事実本位の生き方になるのです。
2020.04.19
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形外会で早川氏が森田先生に次のように質問した。「人間は一度は煩悶したほうがいいですか」これに答えて、森田先生は次のように発言された。「煩悶したことのない人に、偉い人は一人もいない。しかしこれを切り抜けないで、一生煩悶から脱することのできない人は、憐れなものである」「神経症になって20年も30年もたって、治らない人は、もはや治したいという気力がなくなってしまう。将来の希望がなくなり、無理な骨折りをするよりも、このままに、どうかこうか、日を暮らしたほうがよい、という気持ちになってしまう」(森田全集第5巻 183ページより引用)神経症で苦しんだということは、神様から人生の課題を与えられたようなものです。神様から人生の課題を与えられないで、その日を楽しく過ごせば十分だと思っている人は人間としては哀れというほかない。これを宿命と受け止めて、何とか乗り越えていくしか道はないと思います。それに向かい合うことで、生きがいも生まれてくると確信しています。私たちは幸いなことに、神経症という難題を乗り越えるために「森田理論」という武器を持っています。これを使って、神経症を乗り越えていくのがまっとうな生き方になると思います。それにつけても神経症は20年も30年も経ってやっとよくなるということは避けたいと思います。短期勝負でものにするのがセオリーだと考えています。私はまともに取り組めば約3年で、森田的生き方は身に着けることができると考えています。その手順は何度も提案しています。このブログでも取り上げています。基本を正しく理解して、あとは実践しながらさらに深めていけばよいのです。一旦身につけると、一生の宝物になります。自信を持って生きていくことができるようになります。生活に張りが生まれ、生きがいを感じるようになります。そのための援助は生活の発見会の仲間や先輩会員に頼めばいいのです。森田的人生観を身につけた人は、親身になって援助してくれるはずです。神経症の治療には、薬物療法、認知行動療法などの精神療法などたくさんあります。ところが人生90年時代を見すえて、人生観の確立まで視野に入れた精神療法は森田理論以外には見当たりません。ここが森田理論学習と他の療法の大きく違うところです。森田理論学習はもっともっと普及させていく必要があると考えています。日本で神経質性格者が、仮に1000万人いるとして、その中の1万人から3万人の人が、森田のに関心を持って学習を始めるようになると世の中は変わっていくと思います。理想は10万人ぐらいにならないかなと考えています。そのためには、森田で恩恵を受けた人が、森田を知らない人に対して、あらゆる機会をとらえて、広報活動をしていく必要があると思います。このブログもその一環です。最初20人たらずの閲覧者が1000人を超えるようになりました。これが2000人、3000人と増加してくるような投稿を心がけたいと思います。そして1人でも多くの人に、森田理論学習に関心を持っていただきたい。神経質性格者の1000万人が森田理論を意識した時のことを想像してみてください。世の中が大きく変わってくると思いませんか。広報の手段としては、you tubeの活用、英語などでの発信、集談会活動、スカイプの利用などさらなる充実などが考えられます。それ以外にもテレビ、新聞、SNSの活用などいろいろとあるでしょう。あるいは森田療法が普及している中国や外国から逆輸入するといったことも考えられます。森田で恩恵を受けた人はぜひとも広報に関心を持ってもらいたい。そうしないと森田理論が宝の持ち腐れになってしまう。そして歴史の遺産として埋没してしまうのではないかという危機感があります。
2020.04.18
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森田全集第5巻の180ページに次のような話が紹介されている。元入院患者の奥さんから森田先生に、長文の手紙が届いた。その内容は、主人が私に悪口、乱暴、非人情、不品行なことばかりする。どうか主人に意見して、改心させてもらいたいと依頼する内容だった。森田先生はその手紙を一番弟子といわれる古閑義之先生に見せて、君の見立てはどうかと聞かれた。古閑先生は、この奥さんに同情して、入院してあれほどよくなったのに、奥さんをそれほどまでいじめるとは、ひどいご主人だと思った。森田先生にこのことを話したところ、「それは判断の仕方が悪い。言葉の見かけに騙されている」といわれた。森田先生の見立てはつぎのようであった。この奥さんの言う通りだとすれば、全く理由もないことに、非常識の乱暴をするので、その主人はほとんど精神異常と見なければならない。すなわち奥さんは、ただいたずらにご主人の悪いことばかりを誇張して、しかも自分の欠点・短所は少しも省みないで、自分がどうした場合に、主人が悪口したかという事は、ほとんど少しも書いていないのであります。すなわちこの奥さんは、少しも自己反省の力がなくていたずらに相手のみを嫉視・憤慨するもので、ヒステリー性・低能性のものと鑑定しなければならぬ。森田先生は、この奥さんは自省心がない。また話に具体性がないといわれている。強い自己内省性は神経質者の特徴の一つとされている。これが感じられない。ごまかしたり嘘を言わないで、具体的、赤裸々に自己のことを語ることは、神経症を克服するためには必ず通過する関所のようなものです。この奥さんにはそれが欠けている。森田先生は人を見立てる場合に、その人が事実とどう向き合っているのかを重視されている。その人の言動から、ごまかし、嘘をつく、弁解、言い訳、事実のねつ造、責任転嫁、他人批判、自己正当化、同情を得るなどが見られた場合は、甚だしく事実を軽視しているとみておられるのです。森田理論は、生の欲望の発揮と並んで、事実本位の生活態度の養成が核となっています。ですから事実を軽視している人は決して見逃すことはできなかったのだろうと思います。その点は入院生に対して大変厳しかった。この奥さんの場合は、入院してよくなったにもかかわらず、事実本位の面から見ると、まるっきり反対であった。つまり第一段階の治り方はしたかもしれないが、第二段階の治り方には程遠い。こういう人は、森田理論によって、神経質者としての人生観を確立するというところまで行きつくことはできない。いいところまではいったのに、実に残念な結果に終わったとみるべきであろう。
2020.04.17
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森田療法の専門家の中には、「人のために尽くす」ことを神経症の治療の一つとして患者に勧めている人がいる。これはNPO法人生活の発見会の中で、共通認識となっているわけではない。それに関心を持たない人は、森田先生は「人のために尽くせ」という言葉を、理論的にきちんと説明されていないという。森田先生が説明されていないことを、実践目標として掲げることは如何なものかといわれる。一方では、以前の学習の要点の中に、「人のために尽くす」ことが堂々と記載されていた。それで「人のために尽くす」ことは神経症の克服には大切なものだと考えている人もいるのである。そして既成の事実のごとく頻繁にこの言葉を使われている。この矛盾をどのように考えればよいのか考えてみましょう。いい悪いにかかわらず、人間はもともと自己中心的な生き物です。生まれたときからその本来性に従って生きています。その目的から外れた生き方は、かなりやっかいなことになります。自分の命をいい加減に扱ってしまうようになる。自分の命を粗末に扱っている。自分の命の性を尽くしていない人になります。自分の本来性を押しのけてまで「他人のために尽くす」という考え方、生き方は、元々人間には備わっていないといっても過言ではない。この前提に立つと、「人のために尽くす」ということは、付け焼刃的に自分を奮い立たせないとなかなか意欲的には取り組めないと思う。自分が心から願っていることではない。それでもあえて、この言葉を持ちだすのは、神経症の克服に役立つと考えられているからだと思う。それは、一つには神経症に陥ると、注意や意識が自分の症状ばかりに向いています。「人のために尽くす」ことは全く眼中にはありません。それは周りから見るとあまりにも自己中心的に見えます。ここでいう自己中心的というのは、注意や意識が自分や症状に向いていることを言います。この自己中心的な内向性を外向に転換させないと神経症は治りません。その手段としては、第一に、症状は横に置いて、目の前のなすべきをなすことに取り組むのがよいのは分かっています。さらに「人のために尽くす」を入れると、転換を早める効果が期待できると考えられたのではないか。このように考えて、神経症の治療の一環として「人のために尽くす」を提案されているのではないか。これは理屈で考えると「なるほど」と納得できます。しかし元々そのように考えていない人にとっては、「人のために尽くす」ということが、他人から強要された「かくあるべし」になってしまいます。そんなことを考えてもみなかった人に、それを押し付けると、症状を治すための手段として使うことになります。症状を治すための実践や行動は、症状を治すのではなく、ますます症状を悪化させるといわれます。安易に「人のために尽くす」という言葉を標榜することは、症状を治すのではなく、症状を強めてしまうと考えるのが無難です。それが「人のために尽くす」と書いて「偽」(にせもの)といわれる所以だと思います。もっと拡大して考えれば、あえて意識して「人のために尽くす」という人は、何か魂胆があるのではないかとも受け取れます。私は、「人のために尽くす」というのは目指すべきものではなく、結果としてそこに存在しているものだと考えています。森田理論でいうところの「生の欲望の発揮」に邁進していたら、いつのまにか、世のため人のためになっていた。人から役に立ったと感謝されるようになった。つまりことさら「人のために尽くす」というのではなく、日常茶飯事、課題や問題点、夢や希望に向かって行動しているうちに、気がついたら、結果として「人のために尽くしていた」と考えるのが無理のない妥当な考え方ではないのか。最初から意気込んで「人のために尽くそう」としているのではないのです。不安というブレーキを使いながら、「生の欲望」に一心不乱に取り組んでいたら、周りの人から評価され、感謝された。つまり結果として人のために尽くしていたというのが実際のところです。「人のために尽くす」というのを目標として掲げて意気込んでいると、それが「かくあるべし」になって、事実として人のためになっていないことがあります。むしろ他人に多大な迷惑をかけているというケースが出てくるのではないか。人に親切心でした行為が、「小さな親切、大きなお世話」と言って煙たがられることがあります。それは相手が望んでいないのに、自己満足的なおせっかいの押し付け行為になっているのです。ことさら意識していなくても、森田実践を積み重ねることで、結果として、人びとの役に立っていたという状態を作り上げてゆきたいものです。無理のない自然体の森田実践によって、他人に生活の刺激や生きざまで、感動のおすそ分けを与えられるような人間になりたいものです。
2020.04.16
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高良武久先生は、認識の誤りについて次のように説明されている。対人恐怖症の人に「あなたは社交的か非社交的か」とテストをしてみると、私が見て普通にやっている人が非社交的のところに三重丸をつけたりしている。ところが面白いことに、統合失調症の人は、人と交渉することを極端に嫌うのに、必ず社交的であるというところに丸をつけているのです。どこから見ても非社交的な人たちなのです。このような認識のずれはどうして起きるのだろうか。対人恐怖症の人は、人から嫌われないために、他人の嫌がる言動は抑制しています。だから他人とは表面上険悪な関係にはなりにくい。それを第三者から見ると、その人は人間関係をぶち壊さないように配慮しているとみるのです。そういう人は、社交的か非社交的かと聞かれれば、社交的な方に分類するわけです。対人恐怖症の人は、自分の言動を、相手がどう受け取るかという事に意識が向いています。自分のことを批判、否定、無視、からかい、軽蔑されるようなことがあってはならない。そうなると仲間はずれにされて、社会から孤立してしまう。自分一人では生きていけないわけだから、死ぬしかないだろう。そうした状況は何とか避けなければならない。そのように判断して、自己主張を抑圧して、他人の言動に振り回されているのです。将棋でいえば、攻めることを忘れて、防御ばかりしているようなものです。勝利をつかみ取るという目的は、蚊帳の外になり、負けなければよしとする考え方です。ところが防御ばかりでは、いずれは敗北してしまいます。敗北したときに、自分の人生は一体何だったのだろうか。他人の言動に振り回されてばかりで、自分の人生を生きてこなかった。後悔することになります。その時点ではもう遅いのです。つまらない、味気ない、やるせない人生だった。人間に生まれてこなければよかった。神様から、もう一回人間に生まれ変わらせてあげようといわれたら、絶対にお断りしようと考えるようになります。もう二度とこんな思いはしたくない。防御することは、本来大事なことだと思います。それを無視すると足元を掬いかねません。しかし、専守防御よりも、もっと大事なことがあります。それは自分の人生を生き切るという事です。攻めの姿勢を持って生活するということです。日常茶飯事、自分の考えたこと、やりたいこと、問題点や課題、夢や希望に向かって努力するということです。自分が主人公になって主体的に生きるという事です。さらに自分の考えや気持ちは、相手に説明して打ち出していくことです。自己主張して自分中心に生きることです。そうなれば、他人とは対立するようになるでしょう。人間はもともとお互いに分かり合えない生き物だということを認識して、その溝を埋めていく生活態度が大事になります。妥協や合意を目指して努力するのが、まっとうな人間のやることです。夢や希望などを目指していると、必ず障害物が現れてきます。人の助けを得ながらでも、なんとか乗り越えていくしかないのです。努力しながら、力尽きたとしても、それはそれで立派に生きたといえると思います。それが人間に生まれた私たちの宿命だと思います。森田理論では、「生の欲望の発揮」がとても大事だといいます。森田理論の核となる考え方です。しかしそれを際限なしに追い求めることは戒めています。欲望と不安という単元では、欲望を第一に押し出しながらも、必ず不安を活用して、欲望の暴走を抑制する必要がある。つまり、調和やバランスを意識しない「生の欲望の発揮」は、いずれ自分と周囲の人を不幸のどん底に突き落としてしまうと教えてくれています。パラドックスのような話ですが、これが真理なのです。対人恐怖症の人は、「生の欲望の発揮」を第一に押し出していけば、しだいにバランスがとれてくるものと思います。他人への配慮はしつこいぐらいに身についていますから、この際無視していてもよい。それよりも「生の欲望の発揮」に邁進していくことに注力していく必要がある。そうしてバランスを取り戻していくのです。これが肝心です。そのために真っ先に取り組むことは、日常茶飯事に対して手を抜かないで、ものそのものになって取り組むということだと思っています。「凡事徹底」ということです。
2020.04.15
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誰でも仕事に追われるというのは嫌なものです。やることがたくさんあって、どこから手をつけていればよいのかという気持ちになると、取り組む前からイヤになります。ブラック企業といわれる会社では、その人のキャパを大幅に超えたノルマを与えて、長時間労働に追い込んでいる場合があります。管理職の肩書を与えて残業代を支払わないケースもあります。「こんなにできません」というと、「辞めてもらってもいいんだよ」とか、「仕事のやり方が間違っているのではないのか」などと言い返されることもあるでしょう。こういう場合は、仕事の量を見直してもらうなどの交渉が必要になると思います。今日問題にしたいのは、神経質性格を活かした仕事の取り組みのことです。神経質性格の人はまじめで責任感が強いという特徴があります。また、細かいことによく気がつく。その性格を仕事に活かすとどうなるのか。言葉が悪いのですが、雑仕事、雑事などをよく思いつくという特徴を活かすとよいと思います。それを、宝物のように温めて、きちんと処理するように心がける。野球でいえば、私たちはもともとホームランを打てるような選手ではない。バントや内野ゴロでも足が速くてかろうじて間一髪セーフになるような選手をめざす。私が以前やっていた仕事を紹介します。インテリアの卸会社でメーカーへの支払い業務をしていました。得意先に販売した商品は、売上金額と同時に、仕入れ金額が確定されてコンピーターに打ち込まれます。私の仕事は、その仕入元帳と各メーカーから送られてきた請求書を突合してメーカーへの支払い金額を確定することでした。メーカーは100件ぐらいありました。仕入先元帳と請求金額が一致していればそのまま支払いに出せますので、こんなに楽な仕事はありません。ところが現実には90%一致しないのです。それは得意先の値引き要請に対応して、営業マンがメーカーの了解をとらずに、勝手に仕入れ金額を減額しているケースが多発していたのです。交渉していても、メーカーが値引き伝票を発行していないのです。営業マンにしてみれば、後で交渉すればなんとでもなるという安易な考え方を持っていたのです。それ以外にも欠陥品の返品交換やキャンセルもありました。ひとつの商品に赤黒伝票、さらに単価訂正が加わるととても厄介です。しかもそれらが別々の日付で送られてくるのです。いきさつなどは全く記載されていません。それらが複雑に絡み合っていて、直接得意先とやり取りしていないものにとっては訳が分からないのです。釣り糸が複雑に絡まって、イライラして、解きほぐすのを止めて、はさみで切ってしまうようなことも起きるのです。支払の確定をするためには、まずどこに差異が生じているのか見極める必要があります。メインのメーカーからは1か月に500件から1000件の仕入れがありますので、突合作業はとても骨がおれました。差異は営業マンに確認して一つ一つ解決していきました。営業マンがメーカーと交渉してくれないときは、私が営業マンになり替わって交渉することもありました。月をまたいでいるので、交渉は容易ではありません。メーカーが値引き交渉に応じてくれないケースも多発しました。その場合は弊社の仕入れ金額を修正するしかありません。勝手にはできないので、修正伝票に営業マンや所長の承認印をもらう必要があります。中には原価割れを起こすものもありますので、すぐに承認印がもらえるわけではありません。私は板挟みになるのです。しかし放っておくことは命取りになります。これらを処理するのに神経質性格を活かすのです。まずメーカーから納品書は、日付毎にきちんとファイルしておきます。それとは別に売り上げ伝票もきちんとファイルしておきます。つまり、伝票をお金と同じような感覚で大切に取り扱うということなのです。これらの細かい仕事をきちんとしているかどうか、その後の展開が大きく違ってくるのです。同様の仕事をしている人で、照合が終わった伝票を大きな段ボールに無造作に投げ込んでいる人もいました。そういう人は、問題が起きたときにひっくり返して探すのでとても時間がかかります。私が1分ぐらいで見つけるところを、30分ぐらいも格闘している場合があるのです。時間の無駄をしているのです。仕事の能率が上がる訳はありません。「時間の性を尽くす」ことから見ると真反対のことです。メーカーへの支払いは、それらの違算を差し引いて翌月に支払います。メーカーは請求通りに支払ってもらえないと、腹立たしくその理由を聞いてきます。違算明細書を作って事前に説明しておくことが有効でした。もう一つ大切なことは、その違算を翌月中にはすべて解消させておくことでした。相手が譲ってくれればよいのですが、不可能なら弊社で損失分を処理する。欠陥品は相手に返品しないと赤伝票はいつまで経っても入ってきません。つまり違算を翌々月に繰り越すことになります。それが違算処理をますます困難にしていくのです。当月処理することは、どんなに億劫であっても必ず当月のうちに処理しておく。営業マンはノルマを達成することに忙しくて、返品のことなどあまり頭にないのです。それを得意先に依頼して、最終確認をするのも私の大切な仕事でした。それも月半ばまでに手掛けないと、メーカーからの赤伝票は入ってこないのです。これらは地味な細かい仕事ばかりなんです。森田先生の言う発揚性気質の人が最も不得意とするところです。たぶん自分には向いていなというでしょう。反対に神経質性格の人は、性格を活かすことを意識していればできる可能性があります。思っていても実行しなければ、発揚性気質の人と結果は同じです。これらをきちんとこなすと仕事の能率が格段に上がるのです。仕事にゆとりが生まれて、仕事を追っていく時間も生まれてきます。仲間や上司の評価も上がります。また、細かいことをきちんとこなしていると、メーカーや営業マンが協力的になります。こいつはいい加減なことをしていると後でうっとうしいから、もめないようにあらかじめ処理しておこうと手を打つようになる。あるいはいきさつを報告してくれるようになるのです。つまり意思疎通が図られて、協力的な人間関係が作られるのです。神経質性格を存分に活かして仕事に取り組むと好循環が生まれてくるのです。そうなりますと仕事がとても面白くなります。この仕事は自分の天職だったと思えるようになります。
2020.04.14
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新型コロナウイルスの感染防止のために家の中で過ごすことが多くなりました。普段外で活動的な人で、手持ち無沙汰になって、イライラされている人はいませんか。家の中でやるべきことをたくさん抱えている人は、「退屈だな」と感じることは少ないのではないかと感じています。食事の準備、新作料理への挑戦、掃除、拭き掃除、片づけ、整理整頓、ペットの世話、観葉植物の手入れ、家庭菜園、介護、一人一芸の練習、ストレッチ、you tubeによるカラオケの練習、録画したテレビ番組の視聴、好きな音楽を聴く、書類の整理、読書など家の中で取り組む課題はいっぱいあります。気を付けたいのは、だらだらとテレビを一日中つけて見ることです。また、ゴロゴロと気分本位の生活で時間を浪費してしまうことです。私は昨日は断捨離に挑戦しました。まず、本の整理、書類の整理、CDやMDの整理、領収書や請求書の整理、使用説明書の整理です。もう二度と読まないだろうと思った本はすべて処分することにしました。これで3割ぐらい減りました。そしてジャンル別に並べ替えました。書類も不要なものはすべて処分することにしました。領収書や請求書類は田舎に持って帰り焼却することにしました。使用説明書なども不要なものがたくさんありました。新しいものを持ち込んだ時、古いものを処分していかないとたまるばかりになります。次に衣類の整理に取り組みました。もう何年も来たことのない衣類は思い切って資源ごみに出すことにしました。メルカリなどでほしい人にあげてもいいのですが、やり方がいまいちわかりません。もしかしたらいつか着るかもしれないと思っても、現実は眠ったままになります。これで3割は減らしましただいぶすっきりとしました。残ったものは活用頻度を増やして大切に取り扱いたいと思います。普段は外に出ていることが多いので、外出を控えている土曜日は貴重な断捨離の機会となりました。
2020.04.13
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鈴木知準先生は、強迫神経症の人に「動きを速く」するように言われていたそうです。これを心がけて生活することは、きわめて大切だと思います。なぜ大事なのかを説明してみたいと思います。動きが遅い人は、それが習慣になっています。飲み会、研修会、同窓会、会合などへの出欠連絡などもいつも遅い。報告や処理しなければならないことも、後手を踏んでいます。催促されて、連絡しなければと思っているうちに、すっかり忘れていましたなどという人もいる。そういう人は、動きが早い人と比べると目立ちます。取り纏める人は、連絡が来ないのでイライラします。本人はマイペースというか、ちっとも気にならないようです。実は、これは森田の世界では大変なことなのです。反対に動きの速い人は、フットワークがよいのでとても好感が持てます。集談会で尻軽く行動しましょうということを学んで実行する習慣がついた人は、顔つきや態度が生き生きしています。神経質な人は、小さなことによく気がつきます。それをため込むと、釣り糸のスジが絡まったような状態になります。そうなる前にすぐにできることはどんどん片付けてしまいたい、という気持ちになっているのだと思います。ため込むと、簡単なものが複雑に絡み合い、処理する時間がかかるようになります。手をつけないでいるうちに、処理すべきことが増えてしまいます。そのうち面倒になることもあります。そして投げやりな気持ちになります。いい加減に取り扱うこともあります。森田の雑事を丁寧にするという目標からはどんどんずれてしまいます。凡事徹底は絵に描いた餅になってしまいます。動きの速い人は、気がついたこと、やるべきことをメモしてよく整理しています。そして、たびたび確認しています。さらに納期や優先順位をつけています。そのために、手帳、スケジュール帳、メモ用紙、スマホを携えています。気がついたことを記録しないとすぐ忘却の彼方へと消え去ってしまうことの弊害をよく分かっている人です。動きの速い人は、昼間活動している時間帯は、アンテナやレーダーを張って、精神の緊張状態を保っています。四方八方に神経が行き届き、様々な感情が泉のごとくこんこんと湧き出ているのです。それはぼんやりと何も考えずにブラブラしているのではなく、競歩やランニングをしているイメージです。精神が弛緩状態ではなく、緊張状態を維持しているのです。こういう生活をしている人は、感性も豊かです。気づきや発見、工夫や改善点、アイデアや新しい発想が次々と生まれてくるのです。感情が外向きになり、神経症のことを考える時間が少なくなります。動きの遅い人は、精神が弛緩モードにあります。こういう人は、普通の人がすぐに気づくようなことも、まったく気づかないという現象が起こります。精神は内向きになり、悲観的、ネガティブになり神経症のことを考える時間が多くなります。動きとともに、精神も不活性化されているのです。精神が活発に動いていないので、普通の人がすぐに気づくようなことにも、感じることができないのです。反応できないのです。そういう人は、鈍感な人、人の気持ちを察することができない人だと嫌われます。実はもともとそうなのではなく、動きが遅いために。精神が活動を休止しているために起きている現象なのです。鈴木知準先生が、「動きを速くしなさい」といわれているのは、行動のみならず、精神を緊張状態に切り替えなさいといわれているのです。
2020.04.12
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対人恐怖症の人に限らず、他人とは対立したくない。犬猿の仲、けんか腰の人間関係にはなりたくない。他人とは基本的には和気あいあいと楽しく付き合いたい。暖かい思いやりのある人間関係の中で、みんなと一緒に人生を楽しみたいと思っています。誰でもそういう目的を持って生活していると思います。その方が楽しいし、一人で生きて見せるといきがっても、自滅するだけです。その目的を達成するためには、他人に好かれることを心がけて生活することが有効です。カーネギーは「人を動かす」という有名な本の中で次のように述べています。・誠実な関心をよせる。・笑顔を忘れない。・名前を覚える。・聞き手にまわる。・相手の関心のありかをつかむ。・心からほめる。誰でも簡単にできそうなことばかりですが、真剣に実行している人は少ない。森田理論では、「かくあるべし」を他人に押し付けない。それを前面に押し出していると、人は離れてしまいます。ただし他人の思惑に振り回されて我慢し、耐え続ける事ではありません。自分の気持ちは純な心や私メッセージの手法で吐き出していく。この方法は相手と対立しません。自分の欠点、弱点、ミス、失敗を隠さない。ごまかさない。責任転嫁しない。ありのままの自分をさらけ出して生きていく。不安を活用しながら生の欲望の発揮に邁進する。事実本位に生きている人は、他人と対立しません。むしろ自分の周りに人の輪が広がっていきます。これらを心がけて生活すれば、人に好かれたいという目的はほぼ達成できると思います。はたして現実はその方向に向かっているでしょうか。例えば、他人から無視された。からかわれた。軽蔑された。批判された。否定された。そんな時は誰でも不快になります。すぐに怒りが込み上げてきます。その不快感を取り除いてすっきりしたい。楽になりたい。仕返しをしたい。その気持ちに後押しされて、すぐに反発する。暴言をはき、暴力に訴えることはないでしょうか。人と仲良くなりたいという気持ちとは裏腹な行動をとっていることが多いのではなりませんか。頭で考えていることと、実際の行動があべこべになっています。こんなことを繰り返していると、人と仲良くできるはずはありません。むしろ、ますます他人からイヤな人と嫌われるようになります。ここでの問題は、本来の目的をいつの間にか忘れているのです。そして目的のすり替えが起きているのです。人と仲良くしたいという目的から、途中で目の前に現れてきた怒りや不快感を払しょくするという目的にすり替わっているのです。本来目指している目的をすっかりと忘れ去って、枝葉末節の無視したらよいような目的にとりつかれてしまっているのです。しかもそこに自分の持てる全エネルギーを投入しているのです。これはピエロを演じているようなものですね。自分ではその矛盾点に気がついていないというのが始末に悪いのです。この問題を解決するためには、人と仲良くしたいという気持ち、目的、目標から目を離さないことだと思います。目的を言葉にして机の前に貼っておく。自分なりのキャッチフレーズを作りいつも眺めるようにする。例えば、「一日3つは人の役に立つことを見つける」「一日のうちに一つは人の役に立つことを実行する」などです。日記を書くときに、今日一日、目的を達成するために思いついたことや取り組んだことを書くようにする。さらに、頭に血が昇って、暴言や暴力的になりそうなときは、森田の「不即不離」を活用する。「申し訳ありません。ちょっとおなかが痛くなりましたので、トイレに行ってもよいですか。後でどんな批判でも聞きますで」と中座する。一旦距離を置くことは大切です。そのうち相手も幾分かは冷静さを取り戻している可能性があります。さらに配偶者や親しい友達に、自分はすぐに激高してしまうので、そんな時は注意してほしいと日ごろから頼んでおくことです。「そんなしようもないことをするな。お前はあほか」といわれるだけで、ハッと我に返ればしめたものだと思います。そして本来目指すべき目的を思いだしてみることです。
2020.04.11
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森田先生は、「気分本位」という言葉について次のように説明されている。本位とは、物を測るのに、それを標準とする事で、人生でいえば、人生を観照して批判するところの、すなわち人生観の第一の条件とする観点を何におくかという事について、自分の気分を第一におこうとするものを気分本位というのである。(森田全集第5巻 169ページより引用)少し難しい説明である。ただこの気分本位の気持ちは誰でも持っているのではなかろうか。この点を私なりに説明してみたい。まず、どんな人を気分本位の人というのだろうか。自然に次々に湧き上がってくる不安、恐怖、危険、不快感などの感情に対して、すぐに回避的な行動をとること。どうしたらよいか考えないで、それらに振り回されて右往左往している人。イヤなこと、気が進まないことには、けっして取り組もうとはしない人。不快を避けたいという感情に振り回されてしまう生活習慣が身についてしまっている人。次に、人間には本能的な欲望があります。食べたい、眠たい、子孫を残したい、安全を確保したいなどの欲望です。それらを努力しないで、他人に依存して得たい。自分では何もしない。自分でやるべきことを、人に肩代わりしてもらおうと考えている人も気分本位の人だと思います。後先考えないで本能的欲望が暴走してしまう人です。さらに、所有欲、名誉欲、自己顕示欲などを際限なく追い求めているような人も気分本位の人だと思います。本来欲望には抑制力を働かせて、バランスをとる必要があります。バランスがとれていない。欲望の追及が独り歩きしているような人です。気分本位になると、自分が自分の人生を主体的に生きているとはいいがたい。感情に振り回され、本能的欲望のままに生きているような人です。そして欲望の制御機能が失われている人です。人間というよりは、どちらかというと野生の動物の生き方に近い。気分本位の生活習慣はなんとか避けたいものです。森田でもその方向を目指しています。まず不快感は自動的に回避したいという問題についてはどのように考えたらよいのでしょうか。この場合は、森田理論の「生の欲望の発揮」の学習が役に立ちます。人間はたとえ小さな目標や目的であっても、それは食料と同じで生存には不可欠なものです。そのエサがない状態ですと、人間らしく生きていくことはできないと思います。森田では、日常茶飯事、仕事や勉強はイヤイヤ仕方なしにでも手をつけなければならないといっています。気分を優先するのではなく、形を整える。生活を丁寧にものそのものになって取り組むという習慣を作り上げることが大切です。次に、身体や頭を使わずに他人に依存して楽をしたいという気持ちは誰にでもあります。それに流されると身体は衰えてきます。精神は弛緩状態に陥ります。廃用性萎縮が一旦起きてしまうと、細胞が壊死したようなもので、なかなか元に戻すことは困難になります。森田では依存した生き方から、自立した生き方を目指しています。基本的には自分のことは自分で取り組むという態度を維持することです。また、無所住心と言って、精神を緊張させて生活することを目指しています。本能的欲望、所有欲、コントロール欲求などは、森田理論の「不安と欲望」の単元が役に立ちます。欲望を追い求めることは別に悪いことではない。むしろ人間にとっては大切なことである。問題は欲望が一人で勝手に暴走してしまうことにあります。それを抑制するために、人間には不安、恐怖、違和感、不快感が自然発生するようになっているのです。人間の進化の過程でなぜ淘汰されなかったのか考えてみる必要があります。神経が体中に張りめぐらされているのと同じことです。そのおかげてどんなに助かっているのか考えてみる必要があります。神経症になるとそれらを取り去ろうとする愚行を繰り返しているのです。そういうやり方は間違っているというのが森田理論学習でよく分かるようになります。不安の役割や特徴を理解すると、不安は貴重なものであることがよく分かるようになります。不安を人間に備わった貴重な宝物のように思えるようになり、不安を欲望追及の際の制御機能として活用しようとするようになります。不安と欲望のバランスを意識するようになった人は、気分に翻弄されて、自分の人生を台無しにしてしまうことはなくなるものと思います。私も森田理論学習に取り組む前は、気分本位で後悔の多い人生を送っていました。
2020.04.10
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毎日テレビで天気を予想しています。まだ事実として雨が降っているわけではない。雪が降っているわけでもない。雷が近づいていない。台風が近づいてもいないうちから将来起こりうる事実を予想しているのです。これがとてもよく当たっている。95%ぐらいは当たっている。ここまでよく当たると、地震や火山の噴火も正確に当ててもらいたいという気持ちになります。ここはまだまだですね。つぎに、競馬の予想はどうでしょうか。予想が95%近く当たるようになると、そもそも競馬は成り立ちません。また、株式の上げ下げも天気予報のように、95%の精度で予想することはできません。株式投資の先生は、将来の株価を当てることなどは不可能だといいます。SNSなどで明日上がる銘柄指南をしている人の予想が当たることは少ない。ラグビーボールがどちらに転ぶか分からないようなもので、予想することは無意味だといいます。株式の変動は、横ばいか、上げるか、下げるかの3つしかない。その3つを予想して、どのような変化が起きても、素早く対応することしかできないといわれます。森田理論では、事実を観念で見誤ると神経症を招いてしまうといいます。事実でもないものを勝手に間違いないと決めつけて、それに基づいて行動することは時として取り返しのつかないことになると指摘しているのです。でも天気予報は事実でないものをほぼ正確に予想しているではありませんか。事実として目の前にないものを、正確に予想するためにはどうしたら可能になるのかという疑問が湧いてきます。その疑問を解決するには、天気予報がどのように行われているのか調べてみる必要がありそうです。天気予報を当てるためには、今現在起こっている現象を詳しく観察して分析しているのです。あてずっぽうで予想しているのではなく、今現在の事実の観察を積み重ねることで、自然に将来が浮かび上がっているのです。観念にたよっているのではありません。宇宙には、気象衛星ひまわりが雲の動きを観察しています。雨雲の動向は一目瞭然です。台風の発生はすぐに分かります。地上では「アメダス」があります。全国各地に840カ所もあります。これによって気温、日照時間、降水量、風速、風向きを正確に観察しています。それから気圧の配置図についてのデーター、偏西風の動向も正確につかんでいます。これらのデーターを気象庁のスーパーコンピューターに送って随時分析をしているのです。また目視観測も毎日14回行われているそうです。これは空の様子や、雨や雪などの大気現象を人の目で観察することです。例えば夜星がキラキラと輝いていると、大気が不安定になっており、天気が崩れやすい傾向があるそうです。またツバメが低く飛ぶと、雨雲が近づいているというふうに分析するそうです。それはツバメのエサとなる昆虫が湿気で重くなり、高く飛ぶことができなくなるからだそうです。その他、あの山に傘をさしたような雲がかかると雨になるというような昔からの言い伝えも参考にしているのです。これらの多くの事実をまとめて総合的に判断すると、つぎに起こりえる事実が高い確率として予想できているのです。そのためには多くの人の協力を得て気象情報を詳細に観察するという努力が不可欠なのです。大変な状況に突然出くわして、右往左往するよりも、将来を予想して、その変化に対応できるように仮説を立てておくことは、自分の身を守るためには大変重要になります。その仮説を立てるためには、今の事実を徹底的に観察していくという態度が欠かせません。そうでないと予測はただ単なる希望的願望に終わり、事実とは反対の現象が生まれるということになります。そういう予想は「かくあるべし」に近いものです。自分や他人を不幸に陥れるものであることを忘れてはなりません。天気の予想は、様々な観察を積み重ねることで可能になっていることを忘れてはなりません。私たちはこれに学んで、事実を観察し、実験によって検証するという態度を維持しなければなりません。
2020.04.09
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形外会で立川さんという方が次のように発言されている。私も雑誌を読んでおりましたが、読むと入院当時の症状を思いだしてくるので、かえって悪いと思い、(雑誌の購読を)お断りいたしました。また倉田百三先生の「絶対的生活」という本を読むと、物が回るという事が書いてありますが、私も先ほどから(森田先生の名札を指しながら)この森田先生という字が何百回となく回転しています。これはまだ治っていないのでしょうか。これに答えて、森田先生曰く。然り、治っていないのです。しかし読まなければ治らない。それを治すのは何でもない事であります。(森田全集第5巻 151ページより引用)このような事例は集談会の中でよく聞きます。例えば、電車に乗れないという不安神経症の人の話を聞いているうちに、自分も電車に乗れなくなった。鼻の先が視界に入り気になって仕方がないという人の話を聞いているうちに、自分も気になりだした。髪の毛が少なくて悩んでいるという人の話を聞いているうちに、自分も気になりだした。私は、どもりで電話が取れなくて、仕事に支障があるという人の話を聞いているうちに、実際にどもりになってしまった。会社で電話に出れなくなった。意識や注意が電話にばかり向けられて、仕事の中身のことに向かなくなった。他人の神経症が伝染してくるのである。こんなことがあると、集談会に参加しない方がよかったと思う人が出てくるのは当然だ。集談会で自分とは違う症状で悩んでいる人がいて、それで刺激を受けて自分も同様にとらわれるようになったということだ。どうしてそんなことが起きるのか。我々はちょっとしたことに影響を受けて、意識や注意が固定しやすいという特徴を持っている。だから一つの症状が治れば、また別のことが気になりだして、別の症状と格闘することになりやすい。根治しないと、症状との格闘は、一生涯続いていくとみたほうがよい。神経症の症状は、火山の噴火によく似ている。火山の下には、大きなマグマだまりがある。それが地表の弱いところを見つけて、地上に出てきて、マグマを吹きだして開放する機会を狙っている。弱いところを見つけると、思っても見ない、あらゆるところから噴火が起きてくる。だから神経症になりやすい人は、森田百貨店という人もいるが、いろんなことにとらわれやすいという特徴を持っているのである。これを防ぐことは困難であると覚悟を決めたほうがよいのだ。これを治すには考え方の誤りを根本的に変えないといけない。とらわれやいという神経質の性格特徴を理解することである。とらわれやすいという特徴は神経症に陥りやすいという特徴も確かにある。ところがあらゆることにとらわれやすいことは、感性が豊かというプラスの面もある。高性能のレーダーやソナーを標準装備しているという認識を持つようにしたほうがよい。それを日常生活、仕事、他人への思いやり、芸術鑑賞、小説、音楽、絵画、書道などの創作活用に活用していく方向に進む。こう考えれば、何事にもとらわれやすいという事は自分の最大の長所であるという事がわかる。それは仲間同士で集まっての森田理論学習によって可能となる。神経症の成り立ち、感情の法則、神経質性格の特徴、認識の誤り、不安の役割、不安と欲望の相関関係、生の欲望の発揮、「かくあるべし」の弊害、事実本位の生き方、神経症が治るとはどういうことか、人間関係のありかたなどを森田理論に沿って理解する。そして生活面に応用して検証を積み重ねる。森田的な生活を続ける。それを積み重ねていくと、神経質性格者としての生き方が分かってくる。つまり人生観がまるっきり変わることによって、副次的に神経症が根こそぎ治るという状況が訪れるのです。他人の症状が移るのが恐ろしいと逃げ回っているようでは、自分が気にしている症状一つも治癒することはできないであろう。
2020.04.08
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森田先生は涅槃(ねはん)ということを言われている。仏教用語である。涅槃というのは、死ぬということである。死ぬということでは、大往生が頭に浮かぶ。葬式で、「あの人は長生きされて大往生だった」という話を聞くことがある。反対に、ガンなどの重大な病気にかかって無念の死を迎える人もいる。事業に失敗して、何もかも失って、自らの人生に終止符をうつ人もいる。自然災害、交通事故などに見舞われて、突然に亡くなる人もいる。国家に洗脳されて戦争で命を落とす人もいる。亡くなる状況はそれぞれだが、亡くなる前は生命体として、この地球上で生きていたという事実は同じである。死は肉体が生命活動を永遠にやめて、この世から姿、形が無くなることであるから、本人にとっても、周囲の人にとっても大変な出来事に違いない。そこで、ことさら死に注目してしまうのだが、その人がどういう生き方をし、どういう足跡を残したかに注目してみることが肝心である。生き尽くせば、死に臨んで恐ろしいことには間違いないが、後悔が少なく、満足感のうちにこの肉体を神様にお返しするという気持ちになれるような気がする。長らくお借りして大変ありがとうございましたという気持ちになれるのではないか。森田先生は、死ぬという言葉は、生きるという言葉と対になっていると考えられている。あざなえる縄のごとしである。ですから、死ぬという言葉だけを取り上げていくら議論しても仕方がない。その反面の、生きるということに焦点をあてて思考することが肝心である涅槃という言葉は、必然的にどう生きたかという生き方にたどり着く。あるいはどう生きていけばよいのかという問題に結びついている。森田先生は、今生命体として生きている自分の存在、自分の置かれた境遇や状況、性格、能力、強みなどを精一杯花開かせて、生き尽くすことが何よりも大切だといわれています。ご自分も喘息などの呼吸器系の疾患で随分苦しまれたが、生ある限り、精一杯、生の欲望の発揮に邁進された。植物人間として長生きするよりも、肉体的に苦しい状況の中でも、目線を一歩上に向けて、どん欲に生き尽くされたというのが森田先生である。それが神経症の治療や研究、指導や著作などにいかんなく発揮されている。これに関する森田先生の言葉を紹介しておこう。生の欲望の発揮のことである。人が死にたくないのは、生きたいがためである。強く偉(おお)きく生きるためには、死もなお辞さない。石に噛りついても、生きねばならぬ。この他に、神経質者の往くべき道はない。(森田全集第7巻 496ページより引用)
2020.04.07
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森田先生はとにかく理屈を言わないで、私の指導に従って実践しなさい。イヤイヤ仕方なし、反発してもよいが、私の言うことを信じて素直に従って実践しなさいとくどいぐらいに言われています。ところが、一方で森田療法を「盲信」してはいけないといわれている。我々は常に疑い、絶えず自由に体験し、決して盲信してはならない。物を疑うのは、我々の心の当然の事実だから絶えず疑い試みねばならぬ。そのような人がますます立派な人であり学者・知者などであるのであります。自分も自分の治療法を絶えず疑いつつ進歩しているのである。(森田全集第5巻 148ページより引用)水谷先生が入院していた時、「私の前で3回ぐるぐる回って、ワンと言ってみなさい」といわれた。水谷先生は言われた通りのことをした。森田先生は、「それがいけない。先生や他の人の前でそんな恥ずかしいことは、と頭でも掻いていればよいのだ。君はすぐに私の云うことに盲従することがある」といわれた。一方では素直に実践しなさいと言いながら、他方では盲従してはならないといわれる。どちらが正しいのか疑問に思う人もいるかもしれない。これは正誤の判定をするような問題ではないと思う。森田先生が盲従はいけないといわれている真意をくみ取ることが大事であると思う。盲従の反対は、疑うということである。森田先生はそうは言われているけれども、心の底から納得はできない。疑いを持ちながら、イヤイヤ仕方なしに森田先生の指導通りに従う。正しい治療法かどうか検証してみようという気概のほうがよいといわれている。盲従していないと、その疑いを正しいのか間違いなのかを確かめようとする。確かめるためには現地に行って実際に自分の目で確認する。あるいは、言われたことが正しいのか間違いなのか自ら実験をして確かめようとする。人から聞いたことを間違いはずだとうのみにしてはいけない。自ら事実を確認して、事実の裏付けをとったものを大事にするという態度だ。事実の確認が取れてから、次の対策を打ち出すことが大事なのです。先入観や最初から決めつけてしまう態度は、森田的ではない。それをうのみにして間違っていた場合は、自己責任でしょうと言われるのが関の山です。そういった人が責任を取ってくれません。自分は悔やんでも悔やみ切れないという事になります。森田の考え方で大切なことは、どこまでも何があっても事実に服従するという態度を身に着けることである。その点から考えると、盲従というのは、事実を甚だしく軽く扱っているということになるのである。先入観や決めつけではなく、あくまでも事実を確かめるという姿勢を持ち続けることが、森田の基本をなす態度なのである。事実唯真の説明をするために、盲信の弊害について話をされているのである。
2020.04.06
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昨日は客観的事実と主観的事実を認めて受け入れる態度が重要であるという話をした。今日は客観的事実と主観的事実のバランスをとることについて投稿したい。人間はいろんな欲望を持っています。美味しいものを腹いっぱい食べたい、浴びるほど酒を飲みたい。できるだけ多くのお金を稼ぎたい、結婚したい。他人から評価されたいなどなどです。これらは本能的な欲望といってもよいかもしれません。これらの欲望が次から次へと頭の中で渦巻いています。ところが同時にそれらを抑制し引き留めるような考え方も同時に湧き起こってきます。森田理論で学ぶ「精神拮抗作用」と呼ばれているものです。別の言葉でいえば、人間には欲望の制御機能が働くようになっているのです。例えば、食べ過ぎるとブクブク太ってしまう。生活習慣病にかかってしまう。酒を飲みすぎると、二日酔いで苦しむことになる。肝臓が悪くなる。お金の亡者になると、不正を働いたり、詐欺のようなことに手を出して人様に迷惑をかける。このような考え方が自然に発生して、欲望が暴走しないようになっています。この制御機能が正常に機能しないという人は、双極性障害を抱えている可能性があります。あるいは欲望が暴走を始めて、制御不能な状態に陥っています。不安がないので、天真爛漫で、とんでもないことを思いつき、即実行に移そうとします。欲望に果てしがなく、他人に止められても聞く耳を持ちません。しかし、躁状態が通り過ぎると、借金で首が回らなくなって後悔するようになります。自己嫌悪、自己否定に陥ってしまいます。一方、不安に取りつかれている人は、生の欲望の発揮が蚊帳の外になっています。その不安を取り除いたり、逃げ回ることが習慣になっています。こういうのを手段の自己目的化といいます。本来の目的がすり替わっています。欲望と不安のバランスが崩れており、一人で相撲をとっているような状態です。元々人間に備わっているこの制御機能はとてもありがたいものなのです。不安、恐怖、違和感、不快感などがその役目を担っていますので、大事にする必要があります。森田理論学習で学ぶように、欲望と不安はヤジロベイのようにバランスをとる必要があるのです。天秤でいうとどちらかに重いものを乗せると、つり合いは取れません。つり合いがとれないということは、破滅を招き、どちらも存在を誇示できなくなります。このように主観的事実と客観的事実は、常にバランス、調和を意識しながら生活する態度が欠かせないのです。私がよく思い浮かべるのは、サーカスの綱渡りです。長い物干しざおのようなものを持ってバランスをとりながら、注意深く前に進んでいます。この気合を身につける必要があります。次に欲望をどん欲に追い求め過ぎると、この制御機能は正常に働かなくなるという特徴があります。飛行機が離陸するとき、ある一定の速度に達すると、何らかの不具合が発生しても、離陸を中止することはできないそうです。中止すれば、勢い余って海や山などに突っ込んでしまい、大惨事になります。欲望をどん欲に追い求める人のことを仏教では、「餓鬼」というそうです。その姿はとても醜いものだといわれています。人間本来備わっている制御機能を有効に活用することができなくなるのです。バランスのとれた生活を維持していこうとすれば、普段の生活の中で欲望を意識して制御する必要があります。美食家、グルメ三昧の人は、なるべく家で食事をすることを考えてみる。家庭料理、加工食品づくりなどに精を出すことです。酒のみの人は飲むたびに同じ量の水を飲む。飲むよりも野菜などを積極的に取るようにする。人よりも少し遅めに飲むように心がける。新しいものが欲しくなったら、自分の持ち物を棚卸してみる。壊れていたら、直して再生して使えないかと考えてみる。つまり、欲望の充足率を60%ぐらいのところに置いて生活する習慣を身に着けることが大事になります。自分一人でそのバランスをとれないという人は、第三者の助けを借りる必要があります。
2020.04.05
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不安神経症の人は、特急電車内などの逃げられない場所にいるとパニックを起こす。顔が青ざめ、脂汗が吹きだし、心臓が今にも止まって死んでしまうのではないかという恐怖に取りつかれる。その体験が予期恐怖になり、特急電車や急行電車などには乗れなくなる。緊急搬送されると、心臓の画像診断、血液検査などが行われて、身体的な異常がないか調べられる。不安神経症の人は器質的な病気ではないので、大丈夫ですよと太鼓判を押される。これは心臓の専門家が判定していることだから、信頼性が高い。ところが、不安神経症の人はその診断は間違いではないかと疑う。そして別の医者の診断を仰ぐ。ドクターショッピングを繰り返す。どこの病院に行っても異常ないといわれるのに、いつまでも納得しない。普通の人は、心臓の専門家が下した診断を信じる。ひと安心して、そのことはいつの間にか忘れてしまう。不安神経症の人は客観的な事実を受け入れないのだ。昔の頑固おやじのようなものだ。客観的な事実に対して主観的事実というものもある。自分はいつか突然死するかもしれないという恐怖に陥っている。自分が突然この世からいなくなってしまうと考えると、いても立ってもいられなくなる。そういう不安や恐怖が予期不安となって、苦しくてどうしようもない。何とかこの不安、恐怖、違和感、不快感を取り去りたいと考えるようになる。精神科医の診察を受ける。抗不安薬、SSRI、睡眠薬などの薬を処方してもらう。それでも楽にならない。どんどん悪化して生活に支障をきたすようになる。この場合は、感情の事実、つまり主観的な事実を受け入れることができないのだ。不安や恐怖を人為の力でねじ伏せようとしている。そのことが可能であると信じて疑わないのだ。こうしてみると、不安神経症に陥っている人は、客観的事実も主観的事実も、どちらも納得していない。受けいれていない。受け入れようとしていない。どちらの事実とも対立関係にあるのです。そしてなんとか排除しようとしている。涙ぐましい努力を続けている。しかし容易に排除できないので、葛藤や苦悩でのたうち回っているのです。森田では「事実唯真」という立場をとっています。事実本位の生活態度を身に着けることを、大きな目標として掲げています。不安神経症の人が、この二つの事実を、しぶしぶでも一部分受け入れることができるようになると、もう神経症で悩むことはなくなるでしょう。一つは医者の診断を認めることです。1人の医師の診断で不安なら、3人ぐらいの医師の診断を持って受けいれるようにする。もう一つは、不安や恐怖の感情の事実を受け入れることです。森田理論学習で、神経症の成り立ち、感情の法則、不安の役割、不安と欲望の関係、神経質性格の特徴、「かくあるべし」の弊害などを学ぶことです。一人で学習するのではなく、仲間と一緒に学ぶことが有効です。これらの理解がないと、いつまでも不安や恐怖の感情を受け入れる方向には向かわないと思います。森田の考え方は、きちんと理論化されていますので、集談会で学ぶことをお勧めします。
2020.04.04
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形外会で早川さんが、「暗い夜の道の方が、昼間歩くより疲れないのはどうしてでしょうか」と森田先生に聞いた。森田先生曰く。夜の道はただ下ばかり見て、一心に歩くよりほかに、何の迷いもない。「現在になりきる」ことが多いからである。「現在になりきる」とは、気のないままに、現在の仕事なり読書なりに、ぶつかって、その境遇に服従して、ただボツボツやっていさえすれば、必ずいつとはなしに「前に謀らず、後に慮らず」という心境が現れてくるのであります。最も簡単に言えば、何でもよい。その現在の境遇から逃げる考えを起こしさえしなければ、よいのであります。「現在になる」とは、息が切れれば静かに歩き、上を見れば、また歩く気になり、山下を眺めれば、またその景色に眺め入るという風に、その時々の周囲の状況に応じて、心の動くことである。周囲に対して、何の感じも連想も起こさず、強いて自分の意見を頑張るのが、思想の矛盾であるのであります。(森田全集 第5巻 141ページより要旨引用)森田では、「なりきる」という言葉がよく出てくる。この意味は2つある。一つは、不安、恐怖、違和感、不快感などに対して、やりくりをしない。それらをあるがままに認める。受け入れる態度のことをいう。つまり不安などと一体化するということです。イヤな感情の事実に対して、闘うことをしないので、葛藤や苦悩は発生しません。森田でいう「事実本位」の生活態度のことです。もう一つは、「現在になりきる」ということです。目の前の手掛けていることに一心不乱になって取り組んでいる状態のことです。お使い根性で取り組むのではなく、主体的にかかわっていくということです。森田先生は体調が悪いのに、富士山や筑波山に登られた。元気のよい人には先に行ってもらい、自分は一歩一歩と上を向いて上り、下は見ないといわれている。上りながら、その時の心と力とのベストを実行している。これを大きく言えば、我々は人生の欲望に対して、常に念がけ、あこがれながら、その目的を見失わず、その現在の力の及ぶ限りのベストを尽くしている。「現在になりきる」とどんなことが起きるのか。感情が発生して動いてくる。小川を流れる水のように感情が流れ始めるのである。弾みがついてくると勢いが出てくる。関心や興味、気づきや発見がでてくる。工夫やアイデアが生まれ、意欲的になる。次第に精神が緊張状態に転換してくる。森田理論は感情の理論だという人もいる。感情が一点に留まるのではなく、常に流動変化の波の中に身を任せることができるようになる。それは、今この瞬間においても、高速で流動変化している宇宙の動きに調和した自然な生き方になるということなのです。自然に逆らうよりも、自然に調和した生き方のほうが無理がないのです。
2020.04.03
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森田全集第5巻の中に早川さんの話がある。早川さんは、昭和5年1月から2か月ぐらい入院した人だ。入院中、観念的で理屈ばかり考えることが多く、実践・行動が不足がちであった。そのうち入院していることが苦しくなって、退院すれば楽になると思って退院した。退院の時、森田先生から、「現在たとえ治らなくとも、家の人には治ったといって、普通のように働き、学校へも行かなければいけない」」といわれた。最初はその言葉に従った。しかしその後、自分が全治していないということがしだいに苦になりだして、ついに森田先生の言葉に背いて、「自分はまだ治っていない」ということを家人に告げた。その後6月からは、学校を休校した。家では掃除もしないで散らかし放題。あらゆることが癪に触って、当たり散らしていた。母からはまるできちがいのようだといわれていた。(森田全集第5巻 143ページより要旨引用)早川さんは頭のいい人で、着眼点がよく森田先生によく褒められている。ところが、それに酔ったようなところがあって、実践や行動が進まなかった人だ。その早川さんが強いて退院するとき、森田先生は家人に嘘をつきなさいといわれたのだ。それが「現在たとえ治らなくとも、家の人には治ったと言え」という言葉だ。嘘をつくのは許せないという「かくあるべし」を持っている人にとっては、聞きずてならない言葉かもしれない。医者のくせに神経症を治すことができないで放りだすとはなにごとかと。森田先生の真意はどこにあるのだろう。早川さんには、森田理論を観念的に納得できるまで理解して、深耕させていくやり方はまずい。観念中心の生活態度を益々助長することになってしまう。これでは森田の目指しているところから離れていく。それよりは、規則正しい生活を取り戻す。日常茶飯事に丁寧に取り組み、毎日きちんと学校にも行く。形を整えることに重点を置くことを忠告されているのだと思う。「外相整えば、内相おのずから整う」という言葉があるが、まさにそのことを言われていると思う。森田理論は理論学習と実践・行動が同じ比率で進行していかないといずれ問題が出てくるのだ。これは見落としがちだが、大きな問題なのです。むしろ森田理論を知らない時の方が、まだ苦悩や煩悶が少なくてすむ。私たちの森田理論の学習は、ともすれば理論ばかりに偏っており、実践は各自に任されている。誰も指導してくれる人はいない。それをいいことにして、学習のみにのめりこみ、実践力、行動面、生活面に見るべきものがないという人は問題である。理論面がよく理解できた人は、森田理論学習よりも、むしろ体験、体得学習に軸足を移していく必要があるのである。そして森田理論の理解と実践・行動のバランス具合を検証していくことが肝心である。
2020.04.02
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形外会での篠崎氏の発言です。私は治らない時は、家の人に乱暴なことをいわなかったが、治ってからは、ちょっとの事で、弟と言い争って乱暴な口を聞くようになった。これはどういうことでしょうか。(森田全集第5巻 144ページ)これに答えて森田先生曰く。「根治法」の中に、陸軍中尉は、退院してから、以前と違って、よく部下を思うままに叱り、またよくかわいがるようになったといっているのと同じである。いたずらに自分を善人ぶらずつくろわず、自分のありのままをさらけだすからである。兄弟・朋友でも、いたずらに道学者流に礼儀正しく、常に慇懃であるという事が、必ずしも親密であり、愛情があるということはできない。我々はお互いに少々無理な事をいっても許され、自分の欠点をも知ってくれるのでなければ、本当の平和は得られないのである。これに対して私の感想を投稿してみます。篠崎さんは、治る前は、家族に対して言いたいことがあっても我慢していたのだと思われます。表面的には平穏で、波風が立つことがなかったでしょう。しかし精神的にはつらい状況です。自分の素直で正直な気持ちを抑え込んでいたので、イライラしてストレスが溜まっていたことでしょう。その後、入院されて、自分の正直な気持ちを打ちだすという方法を身につけられました。これは「純な心」の体得のことです。どんな感情も、価値判断しない。反発、反抗、抑圧しないで、そのまま味わう。できればその素直な感情を直接吐き出す。これができるようになった。森田理論が実践によって体得できたということです。そうなると、相手とは意見の相違が生まれてきます。お互いの自我のぶつかり合いが生まれるのです。その時に、自分の主張を押し通して、相手をコントロールしようとすると、喧嘩になります。森田でいう「かくあるべし」の押し付けになっては、以前よりも人間関係は悪くなります。森田では2人の人間がいれば、必ず意見や主張の違いが生まれます。そんな時はお互いに自分の気持ちを出し合う。そして、お互いの見解の違いを確認し合う。そして話し合いをして、妥協点を探り合うための交渉を行う。譲られたり、譲ったりする人間関係を構築していく。この態度は夫婦、これから結婚しようとしている人にとっては、とても重要です。結婚する前に、意見の対立したとき、どうしようかとすり合わせを行うことは必須となります。夫婦というのは、最初はラブラブでもすぐにいがみ合うようになりますから。取り決めたことを文書にして約束し、厳格に厳守することが大切です。離婚寸前の喧嘩をするような時に、この文書を机の前においてやり合うのです。約束を破って離婚に至ったときは、慰謝料を通常の2倍支払うなどという文言があれば、さらに有効になるでしょう。
2020.04.01
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