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森田先生は、神経症を治すには、思い切って僕の言う事を聞くと簡単に治る。治った人の真似をすれば治る。屁理屈を言う人は治らない。誠に厄介者です。「こんなことをして治るというのは不思議なことだ、合点がいかぬ」と思いながらも、黙々とその通りに実行するのを素直とか従順とかいうのである。(森田全集第5巻 431ページ)最初の段階では、日常茶飯事に取り組むことで、神経症が治るとは到底考えられないと思ってもよいのです。たとえ、不安、恐怖、違和感、不快感などを、軽減させ、取り除くことができないような医者はやぶ医者に違いないと思ってもよい。掃除や炊事などをさせて、高い入院費をとるのは、悪徳医者かも知れないと思ってもよい。さらに、こんな医者はけしからん。悪事の数々を暴いて、世間に公表してやろうと思ってもよい。反発するという事は、それだけのエネルギーを秘めているから頼もしいのだ。その当時は、こういう、反発心のある人が多かったのだ。入院して炊事、掃除、植物や動物の世話などをさせられるので、腹を立てる人が実際にいた。奥さんがやってきて、そんな夫の姿を見て、涙が出たという人もいた。現在はそれだけの反発心のある人がとても少ない。つまりどちらかというと、生の欲望が希薄なのである。治るのだったらよいが、治らないのだったらそれでも仕方がないといった感じなのだ。何が何でも神経症を治すのだという気迫が乏しい。生の欲望が強いという事が、森田神経症適応の条件になっているので、そもそも森田療法に親和性のない人が増えてきていることが問題なのです。これはその人の責任ではない。社会、政治、経済、教育が生み出してきた弊害とみている。河原宗次郎さんが、初めて森田先生の診断を受けたときのことを、次のように書いている。診察料の10円(当時の1円は現在の1万円といわれている)を前払いして診察を受けた。倉田百三さんの本を見てきたので、よほど偉い先生かと思っていた。案内されて二階に上がり、粗末な机の前に座っていると、間もなく、和服を無造作に着た、痩せて小さな猫背の老人が現れた。それが森田先生であった。この人が、私のむずかしい病気を治せるのかと、少したよりなく思った。その時の私の服装は、偉い先生にお目にかかるのだからと思って、略礼装の黒上着に折目正しい細縞のスボンをはいた、りゅうとしたいでたちであった。(形外先生言行録 51ページ)何ともやりきれない、割り切れない気持ちになられたことであろう。第一診察料が10万円というのは法外に高すぎる。その後どうなったか。反発して騙されたと思って、逃げかえることもできたのだ。河原さんは、そのまま40日間入院された。これが森田先生の素直、柔順という事であろう。森田先生は、最初は田舎のお爺さんみたいな人なのですが、噛めば噛むほど芳醇な味が出てくるするめのような人だったのだ。実際敬愛の念が膨らんでいったという。森田先生のことをするめに例える不謹慎はお許しいただきたい。そういう第一印象の悪い人についていくということは、まかり間違えば洗脳されてとんでもないことになる。しかし疑いながら、いったんは素直に言われる通りのことに取り組まないと、その先には進めない。ある程度の期間は、物まねでもよいので、その信じる人を信頼して真剣に取り組んでみる。自分に合わない、信頼できないと思ったら、その時点ですっぱりと見切りをつける。別の方法を探す。中途半端な気持ちでは、何も身につかないし、洗脳されて抜けるに抜けられないことになる。そのころ合いは難しいのですが、森田療法は開発されて、もうすでに100年を超えた歴史があります。歴史の重みは安心感が持てることだ。信頼して取り組んでみる価値はあると思います。信頼して、3年間は死に物狂いで先輩について学習に取り組む。学習と実践を繰り返すことをお勧めしたいのである。そして素晴らしい人生観を身に着けようではありませんか。
2020.08.31
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森田先生曰く。赤面恐怖の人は、恥知らずになり、不潔恐怖の人は、ますます不潔になる。普通は赤面恐怖の人は人に失礼にならないようにいつも気を付けている。注意しているのだから、自己中心になって、人様に迷惑をかけるはずはないと考えます。しかし事実は違うということです。昔海外に単身赴任する人がいた。海外赴任が珍しかった時のことだ。羽田空港に会社や家族の人たちが見送りに来ていた。ところがその輪の中に肝心の奥さんがいない。実は空港まで見送りに来ていたのだが、その奥さんは赤面恐怖症だった。自分の症状を見て、みんなが変に思うに違いない。ダメな人間だと判断されるかもしれない。そうなれば夫に迷惑がかかる。自分だけならよいが、夫の評判を貶めることには耐えられない。そういう思い込み、先入観でいっぱいになり、その輪の中に入ることができなかったのだ。その思いとは別に、見送りにやってきた人は、なんと心の冷たい奥さんなのだろうと思った。本人にはそう気持ちが全くないにもかかわらず、非難される羽目になったのだ。不潔恐怖の人は、人のさわった物は黴菌がついているに違いないと思う。電車に乗ってもつり革が持てない。お金を取り扱う事もできなくなる。胃の中にピロリ菌がいる。皮膚には常在菌が住んでいる。腸には無数の腸内細菌が住みついている。こういった話を聞くと排除しなければ大変なことになると考える。普通に生活することよりも、雑菌を排除することが人生最大の目標になる。不潔恐怖にとらわれて、日常生活が停滞し、葛藤や苦悩に振り回されるようになる。不潔恐怖の人がますます不潔になるかどうかよく分かりません。でも日常生活に支障が起きてくることは間違いありません。プロ野球で近鉄の監督を務められていた西本監督がネクストバッターに次のように指示した。高めのストレートだけには絶対に手を出すな。その選手はものの見事に高めのストレートに手を出して三振した。西本監督から大目玉を食らった。それはそうだ。監督の指示を無視したのだから。ピッチャーでもここは大事な場面だから、絶対にフォアボールだけはだすなと助言されると、不思議とストライクが入らなくなるという。注意や意識が、高めのボールやフォアボールに吸い寄せられてしまうからだ。絶対に避けなければならないと思う気持ちが高まる事で、意に反して最悪の事態を招いてしまう。不思議なことですが、これが真実に近い。バッターの場合はベルトから下の球を狙っていけ。ピッチャーの場合は思い切って腕を振ってふって投げてみろ。このように指示されると、注意や意識の集中がなくなるので、最悪の事態を回避することができる。森田先生は、自分は素直・従順であり・人に対して、思いやりがあるという人は、みなその反対であるから、よくよく自省してください。また自分は礼儀正しい・人に親切を尽くしている・という人は、常に人の嫌う事や・迷惑をも顧みず、無理に自分の礼儀を押し通し、親切の押し売りをする人であるからよくよく気を付けてください。(森田全集第5巻 433ページ)「こうであってはならない」「こうならなければいけない」という気持ちを強く持てば持つほど、注意や意識がそちらの方に吸い寄せられて、最悪の結果が現実のものとなりやすい。これを森田理論では「かくあるべし」の弊害とみているのです。その弊害を徐々に少なくして、事実を素直に認めて受け入れるというのが森田の大きなテーマとなっています。体得することは簡単ではありませんが、その方向を目指しているかどうかが肝心です。
2020.08.30
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公益財団法人 メンタルヘルス岡本記念財団のホームページにて、8月31日12時までの期間限定で森田療法のビデオセミナーが放映されています。今回の講師は、岩木久満子先生(顕メンタルクリニック院長)です。演題は、外来森田療法について ~森田正馬の神経質概念とは~です。森田ではとても有名な先生です。とても分かりやすい講話となっています。ぜひご覧いただきますように、ご案内いたします。いくつかに分かれていますが、1から順番にご覧ください。
2020.08.29
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形外会(主に退院した人たちの森田先生を囲む懇話会)はだいたい午後3時ころから始められている。出席者はとても多い。地方からの参加者も多い。50名は普通だった。森田先生の弟子といわれる医師の参加者も多かった。終了時間は夜中になる。9時とか11時に及ぶこともあった。途中で夕食をとることになる。準備も大変だったことだろう。森田先生は全員で会食をすることで、よりアットホームな雰囲気を演出されていたのかもしれない。それと特質すべきことは、余興が数多く取り入れられていたことである。それも機会を作って、何度となく行われているのである。そのために、出演者は相当の練習や準備をされたのだと思う。神経症で苦しんでいる時間は残されていないといった感じである。第39回形外会(昭和8年11月19日開催)の記録から紹介してみたい。夕方の7時から余興に移る。入れ替わり立ち代わり、その後4時間に及んでいる。1、まず会員の番外飛び入り。あやつり人形一座。水谷・石井・長谷川の諸君。屏風の内に、身体を隠し、指先の操り人形にて、東京音頭・大島おけさなどあり。皿回し 布留文学士。どこで覚えたものか、なかなか手に入ったもの。2、落語 根岸病院・田村氏話は、「八百屋お七は、地獄の活躍」で、満座、腹の皮をよじらせて笑い転げた。3、漫談 秀粋君轟き渡る獅子吼と大辻司郎ばりのナンセンスに、満座笑いの爆発。4、芸者衆の手踊り5、落語 都々一坊扇歌君ヒイキ力士の負けた悔しさの亭主が、その腹いせに、女房と角力をとる。力あまって、女房が戸外に放り出される。お巡りさんがやってきて、「博打をやっていたろう」という。その証拠には、「サイが転がっている」で落ち。6、尺八・琴合奏 佐藤先生・山田夫人番外 長谷川君の俚謡、山野井君の一口話、水谷・多田両君の謡曲あり。森田先生のおどけた紹介ぶりもおかし。最後に形外会のそろいの浴衣・赤手拭いの盆踊り。東京音頭・木曾踊り・大島おけさ・房州よいとこ・港の灯などレパートリー豊富である。大先生、野村・古閑両先生はじめ、会員の大団円。(11時散会)この中で、私自身も皿回しを得意にしている。みんなにもやらせてみるが、上手にできる人はまずいない。手本を見せても、すぐにはできないのである。ちょっとしたコツを会得すれば、すぐにできるようになる。これは理屈ではだめだ。それこそ体得こそがすべてなのだ。そのうちだれでも両手で4つの皿回しができるようになる。それにしても、そろいの浴衣を取りそろえるほどの熱の入れように驚いた。私は森田先生の「鶯の綱渡り」という宴会芸の話を聞いて、一人一芸に取り組んだ。アルトサックス、獅子舞、浪曲奇術、ドジョウ掬い、腹話術などである。一心不乱に取り組んで、老人ホームや地域のイベントなどで披露してきた。これらは上手にやるよりも、わざと間違えたりする方が受けがよいことが分かった。これを徹底すれば、神経症は克服できるという感触を持つことができた。楽しみながら神経症が克服できれば、望外の喜びである。
2020.08.29
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森田先生は練習と本番は違うといわれている。練習はどうも背水の陣を引くことが難しい。失敗してもよいという気持ちが入っているので、上達が遅れる。およそ練習という事は、型であり・模擬であり・畳の上の水練である。これが実際生活から遠ざかるほど、ますます虚偽になってしまう。練習が役に立たないというのは、その方の弊害の点を強調していったままでの事で、それが全く必要ではないという意味ではない。何事も常に、実際に当面する時には、真剣になるから、多くは我ながら予想外に、うまくできるものである。(森田全集 第5巻 437ページ)この話をさらに発展させて考えてみようと思う。森田先生も基本の反復練習の必要性は認めておられる。そうしないといつまでたっても型が身につかない。型が出来上がってないと、自己流になる。いわゆる型無しである。最初から自己流では、本番で成果を出すことが難しい。しかしいったん型が出来上がった人は、本番を想定して、真剣になることが必要だといわれているのだ。一心不乱になる必要がある。普通は練習の段階で、早く型を身に着けようと一心不乱になる。型を身に着けてしまうと、いつでもどこでも練習通りできるという自信が出てくる。すると練習の時に、気を抜くようになる。これが問題なのです。これは「型崩れ」ということです。この時精神の緊張感がなくなり、弛緩状態に陥るのです。これが最も危惧されるところです。一旦型を身に着けたときに、「だいたいコツは掴めた。もう安心だ」と思って、そこに安住してしまうと、もうその後の進歩はなくなる。そのうち練習時間も短くなり、練習に飽きてくる。その程度のレベルでは、本番では「もしうまくいかなかったらどうしよう」というプレッシャーで苦しむようになる。つまり、練習通りの十分なパフォーマンスを出すことができなくなり、自己嫌悪に陥る。反対に型を身に着けたとき、「やっとスタート地点に立つことができた」と思ったらどうだろうか。そこにとどまってはいないはずだ。新たな課題や目標に向かって動き出す。成果を上げているライバルを目標にして、努力精進していくはずだ。プロ野球の選手もそう思って取り組んでいる選手しか大成できない。「守離破」という言葉があるが、この段階は「守」の段階だと思っている。この段階が最終地点ではないのだ。これからは努力精進を重ねてさらに進歩させていく。「離」の段階に進むのだ。その過程で、気づき、発見、工夫、アイデア、意欲の高まりがどんどん増えていく。改善や改良を積み重ねて、もとの型とは違ったものが出てくる。自分にぴったりと合う感覚が自然に身についてくる。これは森田理論でいう「努力即幸福」の世界です。感情も一つのことにとどまっている段階から、どんどんと勢いよく流れるようになる。神経症とは縁のない世界に入ることができるようになる。さらに弾みがついて、今までになかったような段階に到達すると「破」の段階に至る。その道の達人といわれるような域に達する。本番が大切だというのは、ますます感情を刺激して、精神の緊張状態が継続し、一心不乱になる度合いが高まることであると思う。
2020.08.28
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森田先生は、神経症が治ったかどうかは自分ではよく分からないものだといわれている。たいていの人は、主観的に気持ちの上でよくなるよりは、客観的に事実においてよくなる。本人が気づくのはずっと遅い。ここでは一切、自分の気分や想像で、「よくなった」とか、「わかった」という事は問題にならない。ただ治ったという事実が大切です。終日よく働く・機転が利くようになったとかいう事実を観察して、初めて治ったという事が、決まるのである。倉田百三さんが、強迫観念で苦しんでいた時、原稿など書く気になれないという。その時、森田先生は次のように助言した。「気分などは、どうにでもよいから、それに無関係に、ともかくも筆をとる方がよい」という事をいった。その後の、倉田さんの話に、面白い事はその「ともかくも」と書いたものが、その後興に乗って書いたものよりも、一番出来が良かったとの事である。ちなみに、その小説は「冬鶯」という作品です。この小説は森田先生も出来のよい代表作品だと評価されています。(森田全集第5巻 448ページ)だいたい神経症にかかった人は、気になることが気にならなくなり、やりたいことに専念できるようになった時が神経症を治した時だと思っている。そういう実感が持てないと治った気がしない。これは気分を問題にしているのですね。森田先生は、この診断は間違っていますといわれている。神経症が治ったかどうかは、第三者に判断してもらう方がよい。自分で自分を診断していると間違った診断結果が出やすい。それは気分がどうなったかを判断材料にしているからである。精神科医、カウンセラー、集談会での先輩会員、配偶者、家族、友人などに見立ててもらう方がよい。私もその人の普段の生活を見たり聞いたりしていると、その人の治り具合や森田理論の活用度合いが大体分かります。診断の時、第三者は、神経症で苦しんでいる人の精神状態が、どうなっているかは、ほとんどわからない。それでも神経症がどのような回復状態であるのか、正確に診断できる。診断にあたっては、その人の苦しみや葛藤が軽減されているのかどうかは、全くといってよいほど問題視していない。ここが肝心なところです。規則正しい生活ができているか。日常茶飯事、仕事、勉強、家事、育児、介護などの取り組み状況はどうなのか。凡事徹底への取り組み状態はどうなっているのかを見ているのです。気づきが多くなり、手や足が動いているかどうか。本人の気分がいかに苦しかろうが、目の前のなすべきことを淡々とこなしていればよいという考えなのです。森田先生もそうですね。例えいまどんなに苦しかろうが、将来を見据えた場合、神経症のことを考える度合いが減少していくことが予想できるからである。この減少する方向に進んでいるかどうかがポイントです。神経症との葛藤の比率が減少しつつある人は、早々と神経症の克服宣言をしているのです。神経症的な不安は誰にもあるものです。それは生きている限り入れ代わり立ち代わり湧き上がってくるものです。そのようなものなのに、跡形もなく、なくなったかどうかを詮索していくことは問題にならない。神経症に苦しんでいる本人にとっては、納得できないかもしれません。その気持ちはよく分かります。でもその方向性を目指すことは考えものなのです。そういう方は、神経症が治るとはどういうことかを今一度学習してもらいたいと思います。
2020.08.27
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他人を責める人は、自分を責める人である。他人を許せない人は、自分も許せない人である。他人に「かくあるべし」を押し付ける人は、自分にも「かくあるべし」を押し付ける人である。そんなことはないと反論する人もあるだろう。他人を非難、否定することは、自分の立場や主張を擁護して肯定していることだから、これは全く間違っているというのが言い分です。それが真実ならば、何も問題はありません。ところが冷静になって考えると、他人を責めることが多い人は、自分を責めることが多いというのが真実に近いのではないでしょうか。私自身の体験上そう思います。なぜそんなことが起きるのか。それは非難、否定することが多い人は、すべてをそのように思考するパターンが身についているからだと思います。すべてにわたって、懐疑的、否定的に考える思考回路が強固に出来上がっているのです。好意的、肯定的な考えが入り込まない体質になっているのです。回りまわって、他人を否定する人は、自分にも否定的に対応するようになるのです。人間は一方で他人を非難や否定していながら、片方でまるっきり反対の対応をとることは難しいのだと思います。称賛や肯定することは難しいのです。思考回路が非難や否定の流れになっていると、その流れを断ち切ることは難しいのです。川の流れに逆らって川上に向かって泳ぐことは無理があります。疲れます。最後には精魂尽き果ててしまいます。逆に川の流れに沿って泳ぐことは、こんなに楽なことはありません。逆に言えば、他人を評価できる人は、自分も評価できる。他人を誉めることができる人は、自分を誉めることができる。他人を受け入れることができる人は、自分も受け入れることができる。これは他人を非難、否定する方向とは全く違います。すると同時に自分を評価、肯定することにもつながるのです。この同時にということが大切です。他人を否定しておいて、自分だけを肯定するということはできないわけです。否定する方向では何もよい事はないわけです。こちらの方向を目指すことが、他人との対立を防ぎ、自分も葛藤や苦悩から解放されます。これは森田理論でいう「事実本位」の生き方のことです。事実本位というのは、基本的にどんな理不尽なことであっても、対応できないことは、あるがままに受け入れて、自然に服従していく生き方のことです。そんなみじめな生き方は受け入れられないと思う人は、森田理論学習をお勧めいたします。
2020.08.26
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EUに加盟した欧州諸国では、いずれかの国で取得した運転免許証で、EUのどこでも仕事ができるようになっている。EU内ならどこでトラックの運転手をしてもよいという事だ。すると次のような問題が起きた。ボーランドやハンガリー、ルーマニアやブルガリアといった、相対的に所得が低い国から、大挙してドイツやスウェーデンなどの所得の高い国に移民する人が増えたのだ。その人たちは自国よりも少し高い最低賃金で働くようになった。その結果、ドイツやスウェーデンのトラック運転手さんの所得が減少してきた。生活が困窮して、生活水準を落とさざるを得なくなった。これはなにも他人ごとではない。日本も建設、介護、医療、警備、輸送、農業の分野などでどんどん移民などを受け入れている。最近ではコンビニ店員にも外国人労働者を受け入れることになった。これらの安い労働力が既存の日本人労働者の賃金をますます引き下げていく。この移民政策は、日本人の生活水準をますます低下するものなのではないか。アメリカではメキシコからの移民に対して、国内低賃金労働者の生活を圧迫するので、トランプ大統領は国境沿いに大きな塀を作った。アメリカの低賃金労働者の生活を守るという名目である。反対に日本政府は、政策として移民を拡大させている。これは経済のグローバル化の一環だという。現在世界中で進行している。モノ、ヒト、カネ、サービスが国境を越えて自由に移動することである。多国籍企業がより多くの利潤を得て、拡大していくためには、きわめて都合のよい考え方である。安い労働力が確保できれば、グローバル企業はどこへでも進出していく。例えば、日本企業の多くは中国に進出してきた。日本の工場を縮小して、中国に工場を建設して、安価な中国人労働者を雇用している。安い製品は、国際競争力があり、多国籍企業の利益が増える。しかしその結果、国内産業は空洞化が進み衰退していく。日本のGDPはほとんど増えていない。むしろ減少していく。この度のコロナの影響で550兆円のGDPが350兆円台にまで低下するという指摘もある。経済成長がないという事は、国民所得が増えていかないということだ。その証拠に、年収300万円以下という人が急激に増えている。国民の生活がじり貧に追い込まれていいはずはない。そういう国家に未来はない。子孫たちに明るい未来を託すこともできなくなる。一方中国のGDPは、どんどん増え続けて日本の2.5倍となった。これは日本や欧米各国を中心としたグローバル企業が寄与しているのである。このまま推移すれば、2040年代になると、中国のGDPは日本の10倍達する。さらに言えば、軍事支出は20倍になるという。空恐ろしいことが現実となる。「今だけ、カネだけ、自分たちだけ」という思想で、突き進んだ結果、いつの間にか中国を利することになり、日本の国民生活はどんどん貧困に追いやられる。日本国は中国に食料、国防、経済、領土を抑えられて、中国の一つの省として飲み込まれかねない。現に中国はその意志を打ち出している。国会議員の中にも中国べったりの人が大半を占めていることを考えると、にわかに現実味を帯びてくる。尖閣はもうすでに中国の領土になってしまったのだろうか。北海道の土地は中国に買い占められて、中国の食糧基地になってしまうのだろうか。情けないが現実である。私たちは現実から目を背けないで生きていきたいと思う。そして、国会議員を動かすだけの世論を作り上げたいと思う。
2020.08.25
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プロ野球のファンの人で、ひいきのチームが負けるとイライラして不機嫌になる人がいます。負け試合を振り返って、監督や選手の批判を始めます。選手の采配や、チャンスに凡退した選手をこき下ろすのです。辛辣な解説者や評論家のようです。それでも憤懣やるかたない不快感はどうすることもできません。その日のプロ野球ニースは見る気にもならない。次の日の朝刊も見る気にもならない。次の日も不快な感情でいっぱいで生活や仕事、対人関係に悪影響を及ぼしています。ストレスを発散するはずの野球観戦が、逆に自分の精神状態を混乱させている。この問題はどのように考えたらよいのでしょうか。こういう人は、ひいきのチームが勝って、存分に快の感情を味わいたいのです。ところが勝負事には負けることもあります。しかし負けてしまうと、不快感という不利益をまき散らすので、決して受け入れることができないのです。ましてやイライラや不機嫌な精神状態は、同時に身体面の不調も招いてしまうのでなおさら許せないのです。スカパーを契約して全試合を見ている人や年間指定席券を買って球場に出かけて応援している人などは、その傾向が強いと思われます。かわいさ余って憎さ100倍といった感じです。これは境界性人格障害を持った人とよく似ています。過剰に誉めたかと思うと、気に入らないことがあると、手のひらを変えたようにこき下ろすのです。感情の起伏が激しすぎて、人間関係がすぐに壊れてしまうのです。そんな不快な感情に振り回されるのが嫌なら最初から観戦などしなければよいと思うのですが、試合のある日は朝から楽しみにしているのです。これは勝てば何とも言えない至福の心境に至ることを神経細胞が覚えているからです。これは脳の快楽神経系(エーテン神経)にきっちりと埋め込まれており、たびたびその快感を味わいたいという神経の仕組みが出来上がっているのです。この状況は程度の差はありますが、一種のプロ野球観戦依存症といわれるものです。依存症には、ご存じのように、薬物、アルコール、ギャンブル、パチンコ、ニコチン、ネットゲーム、買い物、仕事などいろいろあります。最初何気なく始めたことが、得も言われぬ快感になり、しだいにのめりこんでいくというものです。そのうちそれなしでは生きていけなくなる。最悪の場合、自己破産、家族崩壊、刑事沙汰、精神的・身体的不具合を起こします。いったん依存症に陥ると、そんなことは分かっていても、自分の力で抜け出すことは大変難しい。もがけばもがくほどアリ地獄の底へと落ちていく。それはドーパミンなどの神経伝達物質がエーテン神経を刺激して、快楽を得続けるというシステムが常時作動しているからです。もしこれを遮断すると、精神的にイライラしてじっとしていられなくなる。不快、不安、焦燥感が襲ってきて、それを解消するために、また依存対象に手を出していく。そして、さらにのめりこんでいくようになる。エスカレートして使用量が増える。アルコール依存症になると、医師の指導の下に回復を目指すことになる。断酒会に入って仲間同士で励ましあう。その時は完全にアルコールは絶つそうだ。一滴でもアルコールを体内に入れると、脳が目覚めて元の木阿弥になる。プロ野球観戦依存症はそこまで行きつくことはないと思うが、その心理的メカニズムは他の重篤な依存症に近いという事を自覚しておくことが必要だと思います。
2020.08.24
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よく対人恐怖症の治し方について質問を受ける。とっさに質問されると、返答に困ることがある。ここできちんと整理しておきたい。対人恐怖症の人は、他人の言動に振り回されている。自己主張ができない。言いたいことを言おうとすると、いつもけんか腰になる。いつもビクビクして、自己防衛に力を入れている。非難、否定、仲間はずれにされてしまう事を恐れている。そのことに怖気づいて、言いたいことがあっても、我慢する。じっと耐える。しかし、自ら自由な言動を抑圧していると、ストレスがたまる。生きていくことが苦しくなる。しだいに内向的、内省的、防衛的な生き方になる。ネガティブ、消極的、防衛的な生き方が身について、自己嫌悪、自己否定するようになる。人生の意義が見いだせなくなり、ただ生きているだけという状態になる。神経質性格者の人は、欲望が強いので葛藤や苦悩でのたうち回るようになる。そのような人はどう打開していけばよいのか。4点ほど提案したい。1、自分に「かくあるべし」を押し付けない。現実には、自己主張できない自分を上から下目線で冷ややかに見つめている。確固たる理想の人間像を持っていて、現実でのたうちまわっている自分をいじめている現実を自覚することです。そして「かくあるべし」の弊害をよく学習することです。2、他人の思惑に振り回されている自分を無条件で認め、受け入れていくことです。自分の考えや意見を正々堂々と相手に伝えることができない現実を受け入れることです。他人の前にいると、いつもビクビク、オドオドしてしまう自分を許してあげることです。どんなに心もとない自分であっても、いつも寄り添って励ますことです。その性格特徴、気質は改良や改善できない。このまま生きていくしか道はないと開き直ることです。覚悟を決めてしまうことです。3、注意や意識を対人関係に過度に振り向けない。対人恐怖症を克服することばかりに関わりすぎると、それは益々対人恐怖症を強化してしまうというパラドックスを理解する。頭の中に対人恐怖症のことが100%占めていた状態から、80%、60%と下がってくるにしたがって、神経症は治りつつあると理解した方がよい。すっきりと傷が治るというようなわけにはいかないということです。対人恐怖に振り回されている状態が50%くらいになれば、もうすでに治りましたと宣言してもよいと思う。完全に治すという事は、自分がもともと持っていた長所も無くなると考えた方がよい。そのためには、「規則正しい生活」「凡事徹底」に取り組むことをお勧めします。取り組んでいるうちに、いつの間にか対人恐怖症のことは忘れていたという時間を多く作り上げることです。4、対人恐怖症を治すためにコツがあります。森田理論でいう「不即不離」を応用することです。人間関係を広く浅く築き上げていくことです。家族、親戚、集談会の仲間、仕事の仲間、OB会、同級生、趣味の仲間、勉強会の仲間、町内会などあらゆる方面に作りあげていくことです。狭くて親密な人間関係作りはお勧めできません。どっぷりとのめりこんでいくやり方は、対人恐怖症を強化するように働きます。人間関係は必要な時に必要なだけと心掛けるだけで、ストレスのない人間関係を作り上げることができます。以上4点ですが、直接対人恐怖症に働きかけるものではありません。遠回りになるように思われるかもしれません。すっきりしないかもしれません。しかし私の体験からこのような治し方が理にかなっていると思うのです。
2020.08.23
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森田先生は「物の性を尽くす」という言葉について次のように説明されている。「中庸」に「物の性を尽くす」という言葉がある。すべての物の持つ働き・値打ちをベストに発揮させることです。風呂焚きをすれば、塵紙やゴミでも、ことごとく有効にするように、全力で工夫をする。例えば、水を使うにも、洗面の水をそのままこぼさないで、バケツにとり、これを雑巾がけに使い、さらにそれを植木や散水に使うという風である。「物をむだにせぬ」という事は、同時に自分の頭の働きも、力もベストに使う事で、すなわち「己の性を尽くす」という事にもなる。(森田全集第5巻 439ページより抜粋)ここで重要なことは、その物の持つ働き、値打ちをベストに発揮させるということです。単に物をぞんざいに取り扱い、無駄にすることが忍びない。だから生活習慣として物を大切にしなさいという事ではないのです。それでは「もったいない運動」と全く違いがない。森田先生は、現在あるもの、存在そのもの、潜在能力、値打ちなどを見つけ出して、それらを存分に活用しなさいと言われているのです。普通古いものは故障しがちになり、性能も新しいものと比べると落ちてきます。ましてやその方が安価で手に入るという事になると、古いものは処分して買い替えるという事になります。森田先生は安易に買い替えるということには反対なのです。その物がこの世に存在していることは、存在意義を主張しているとみておられるのです。例え古くなって故障しがちであっても、命のある限り、精いっぱい持てる力を発揮して生を全うしたいという気持ちがあるはずだ。その気持ちを評価して、命の限り発揮させてあげることが、私たちの務めなのではないかといわれているのだと思います。これは最終的には、森田理論の「生の欲望の発揮」に通じるものがあるのです。森田先生は「物の性を尽くす」のほかに、「己の性を尽くす」とも言われています。人と比較して、ことさら自分に不足しているものを見つけ出して、補填していく生き方を目指す必要はない。自分の存在価値、性格、働き、能力などをどんどん活用して生きていくことを勧められています。こういう態度になりますと、自己嫌悪、自己否定はなくなります。自分の備わっているものを基点にして、さらに新しいものを生み出すという生き方ですから、葛藤や苦悩はなくなります。「物の性を尽くす」という考え方を突き詰めていくと、「己の性を尽くす」「他人の性を尽くす」「時間の性を尽くす」「お金の性を尽くす」ことにつながります。つまり争いがなくなり、平和な社会が訪れるわけです。お金の性を尽くすという事で考えれば、例えばここに1万円があるとします。これを存分に活かして使えば、3万円分にも10万円分にも生きた使い方ができるでしょう。反対にギャンブルなどに使えば、ドブの中に捨てるような使い方にもなります。少なくとも使われたお金の身になれば、あまりうれしい事ではありません。森田を学習した人は、限られた生活費の中で、いかに上手にやりくりするかを考えるようになると思います。家計簿や小遣帳をつけて、支出の工夫をするようになります。ですから集談会で家計簿の付け方などの話で盛り上がるようになるのです。また将来に備えて貯蓄をするようになるかもしれません。あるいはもっと有効活用するために、有効活用している人に寄付して活かすことも考えられます。いずれにしろ、森田理論の世界では、これらが別々の事ではなく、すべてが根っこの部分でつながっているのです。一つのことが理解できれば、すべての分野に波及してきます。ちなみに、私はこの分野に特化することで、神経症を克服し、素晴らしい人生観を築き上げた人を知っています。
2020.08.22
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森田先生は、神経症が治るということは、絶体絶命だけでは、ただ行きづまるだけで、まだ治らぬ。そこから、そこから心の流転が始まった時に、初めて治る。そこに微妙な心の流転がある。これは絶体絶命になった時に、初めて起こるものです。せっぱつまれば、必ずそれから、思想が変化するようになる。変化すれば、執着を離れるようになり、強迫観念が治る。(森田全集第5巻 422ページ)少し難しい説明かも知れません。森田先生は神経症を治すためには、まず絶体絶命になることが必要だといわれています。しかし、絶体絶命になっただけは神経症は治らない。感情が変化流転することで神経症は治るといわれています。神経症的な不安、恐怖、違和感、不快感などに対して、それらを取り去ろうと戦いを挑み続けてはならない。また気分本位になって逃げだしてもいけない。それらをどうすることもできない自然現象として受け入れていく覚悟を決める。感情の自然現象に服従するということです。これがスタート地点です。まずはスタート地点に立つことが肝心です。そのためには森田理論学習が有効です。これを丁寧に教えてくれる精神療法は森田理論が一番です。特に不安の役割や特徴は、十分に理解していく必要があります。ここから前に向かって前進していくことで神経症は治るのです。つまりとらわれている感情に固執するのではなく流していくことに注力していく。谷あいを勢いよく流れる小川のようなイメージです。気になることが次々と現れては消えていくようなイメージです。これは目の前のなすべきことに一心不乱に取り組んでいくことで、その流れに乗っていけるようになるのです。鴨長明の「方丈記」は次のような言葉で始まります。ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず、淀みに浮かぶうたかた(泡)は、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。イヤな感情に対する対処法を森田理論で十分に理解する。そして次々と湧きおこってくる感情を速やかに流せるようになった時、いつの間にか神経症とは縁が切れていくのです。
2020.08.21
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広島で年間18万枚のお好み焼きを焼いている市居馨さんが紹介されていた。とても人気のある店で全国からお客さんがやってくる。広島のお好み焼きは、薄い生地の上にキャベツ、豚肉、麺をのせて最後に卵で蓋をします。焼き終わったら、お好みソースをかけ、青のりを振りかけます。一般的なお好み焼きは、水で溶いたメリケン粉の中に、細かく切ったキャベツや肉などの具材をかき混ぜてそのまま焼きます。広島風お好み焼きはそれとはまったく違います。市居さんのお好みを食べたお客さんがよく口にされるのは、「おいしいね。キャベツが甘い」という言葉です。病みつきになって年間300枚も食べにくるお客さんもいるという。参考になることがありましたので、ご紹介させていただきます。お好み焼きを焼く鉄板の温度は一様ではないといわれる。一番熱いところで焼くのだという。ところが熱いところで焼くとすぐに焦げてしまう。それを避けるために、一般的には熱いところから、温度の低いところに移動させる。しかし移動させるとキャベツに熱い蒸気が行きわたらなくなるのだという。一部分が半生のような状態になってしまう。麺も十分に焼けていない。これが味を悪くする最大の原因となるそうだ。キャベツの甘さを極限まで引き出すのは、キャベツの切り方もある。その方面の研究や試行錯誤も怠らない。しかし一番大切なのは、キャベツを焦げる一歩手前までまんべんなく蒸らすことだといわれる。焼いている時、シューン、シューンという音に切り変わり、教えてくれるという。これ以上焼くと焦げてしまうという合図だという。これでキャベツがあめ色になり、独特の甘い食感と匂いが生まれてくる。市居さんの優れたところは、これを20枚同時に行うことができることだ。野菜嫌いの子どもが、市居さんが焼いたキャベツをおいしいと言って食べていたのが印象的だった。その市居さんがこんなことを言っていた。店が開店する前に、1時間かけて隅々まで丁寧に磨いていた。それを尋ねると、「アア、面倒だ、しんどい」と思うとそこで終わってしまうのです。それが仕事の粗さになってでてくるのです。最終的には、お好み焼きの味になって出てくるのです。だから手が抜けないのです。たかがお好み焼き、されどお好み焼きなのです。それから、いつまでも探究心を持って前進していきたい、ともいわれていた。ある程度繁盛してくると、もうこれくらいでよいと思いがちですが、そう思った時点で、もうすでに後退が始まっているのです。後退の坂道を転がり始めたら、どうすることもできない。精神的な面で楽な方向に向いてしまうと、お好み焼きを焼くことが苦痛になってしまう。常に研究心を失わないで、改良、改善を心掛けて取り組んでいきたい。こうした仕事に取り組む姿勢を、多くの弟子たちにも教えていきたい。この2つは、森田理論を学んでいる私たちにも、とても参考になります。
2020.08.20
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親の我が子に対する接し方が、子どものその後の人生に大きな影響を与えます。そしてそれは次の世代にも伝播していくのです。これが恐ろしいです。ですから過保護、過干渉、放任、虐待などは避けたいものです。子どもができたら、夫婦そろって、仲間とともに、子育ての学習をし、情報交換することが大切だと思います。私は父親に叱責、非難、否定されて育ちました。楽しい思い出というものは、何も思い出すことができないのです。父親に叱られないように、顔色をうかがいながらいつもビクビクしていました。父親は自分を守ってくれるような存在ではない。自分に危害を加える、恐ろしい存在だったのです。その父親も自分の親から過干渉気味に育てられたので、自分の子供にどう接していいのか分からなかったのだろうと思います。そんな子供が大人になった時どんなことが起きたのか。何をしてもミスや失敗するのではないかと考えるようになりました。自分に自信が持てない。他人の視線を常に意識するようになりました。他人の思惑を気にして、常に他人に振り回されているような生活になりました。ミス、失敗、弱点、欠点があると、周りの人たちから、叱責、非難、否定されるに違いない。存在自体が否定され、集団から追い出されるようなことがあると生きていくことはできないだろう。媚びへつらってでも、なんとか命だけは助けてもらいたいなどと考えていました。人間は本来、目の前の日常生活、問題や課題、目標や夢などに向かって外向きに生きていくことが宿命づけられています。ところが私の生き方は、外に向かって発揮されるエネルギーが、常に内向化しているのです。しかも悲観的で否定的な考え方ばかりしているのです。将棋でいえばね専守防衛です。防御ばかりに力を入れて、相手と戦うという気持ちがないのです。これでは勝てるわけがありません。最後には自滅してしまいます。何ともつらくて、情けない。苦しくて仕方がないのですが。コールタールが体中にねっとりとこびりついているようでどうすることもできないのです。人間に生まれてきて、何かいいことがあったのか。いや一つもなかった。私はただ苦しむために生きているのかという思いが頭の中からなくならないのです。自己否定観に取りつかれている人から、どうすれば自己肯定観が持てるようになりますかという質問を受けます。私の経験から、酷なようですが、「それは無理です」と答えるようにしています。人から話を聞いただけで、体にこびりついたコールタールを洗い流すようなことは、とても難しい。困難です。少なくとも私にはできません。他人に助言するなどということはできません。私にできることは、みじめなようですが、そういうタイプの人間であると認めることだけです。一生涯他人の思惑が極端に気になる。それは根本的には修正不可能である。つまり開き直ってしぶしぶ、そういう人間として生きていくと覚悟を決めるしかない。これから一生涯人の思惑に振り回されながら、ビクビクハラハラしながら生きていくしかない。残念ながらこの道しか残されていないと思うのです。そのように覚悟を決めているのです。その出発点に立つことで、2つのことに注意を向けている。一つは森田理論で学んだ「不即不離」です。広く薄い人間関係を築いていく。必要な時に、必要に応じて、必要な人間関係を築いていく。特定の人と親密な人間関係を築いていくという方針は、私のようなタイプの人間にとっては、葛藤や苦悩を抱えやすい。そうかといって人間関係を遮断するわけにはいかない。そうすれば、それこそ自給自足で仙人のような生活を強いられる。引っ付きすぎず、離れすぎず適度の関係を幅広く構築していく。今までは、親密な人間関係を5人ぐらい持とうとしていましたがうまくいかなかった。それは人間2人いればすぐに対立する。親密な人間関係はカラスのコップのようなもので、落とせばすぐに壊れる運命にあるのです。反対に仮に100人ぐらいの人と薄い人間関係を広げて置いて、必要に応じて渡り歩いていれば、人間関係のトラブルは抱えにくい。結果として自己否定観で苦しむことは避けられるのではないかと考えているのです。もう一つは凡事徹底です。どんなにつらいことがあっても、日常茶飯事だけは手を抜かないということです。手を抜くと、つまらない余計なことを考える時間が増える。生活が常に外向きで、目的本位の生活になるためには、生活を維持して豊かにするための日常茶飯事に真剣に向き合うことです。それで充実感を味わうことになります。その基本は3度の食事をきちんと整えることです。たまには外食もいいでしょう。しかし基本は自分の力で整えていくことです。そのために私は事あるごとに家庭菜園をお勧めしています。食材を自ら作るのです。食を徹底すればそういうことになるでしょう。食材の調達、買い出し、料理、後片付けなどに力を入れている人は、自己否定観で苦しむことはなくなると思います。以上の2点を心掛けて生活しています。それで自己肯定観が育ってきたのか。これは正直上手に説明はできません。そのようなことを考えることがなくなったというのが真実です。毎日忙しく生活していますということだけはいえます。
2020.08.19
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私たちは、湧き上がってくる感情に対して、是非善悪の価値判断を下しているのではないでしょうか。よくない感情に対しては、無意識のうちに、なかったものとして取り扱う傾向があるのではないでしょうか。それを具体的に見てみましょう。例えば両親が、相互に愛し合っていない家庭に生まれたとしましょう。しかし両親は愛し合っているふりを続けていて、離婚しません。そうすると、その家では、両親が互いに愛し合っていない、ということが、最大の秘密になります。そのことにだけは、誰も気づいて言葉にすることはタブーになります。しかし子どもは、否応なしに両者の間の愛情の欠如を感じてしまいます。なぜならそれが実際に目の前に起きていることだからです。同時に子どもは、その事実が決して気づいてはならぬ、口にしてはならぬことだということも感じます。なぜならそういうタブーが現実に存在するからです。かくして子どもは、自分が抱いているこの感情は、決して抱いてはならぬものである、ということも感じます。自然な感情を知らず知らずのうちに抑圧するようになるのです。幼い子どもが、この事実に対応するには、そのことを感じてしまう自分は「悪い子」なのだと思い込む以外にありません。もしも自分が感じていることを口にしてしまえば、子どもが住む世界である家庭が崩壊してしまうからです。子どもにはそんなことはできません。そこで子どもは、親の無言の要請に応じて、「両親は愛し合ってなどいない」という厳然たる事実に基づいた感情を否定し、「そんなことを感じてしまう自分は、悪い子だ」というストーリーを組み上げ、自らの感情を封印してしまうのです。(生きる技法 安冨渉 青灯社 152ページより引用)この指摘は、森田理論の感情の法則を考えるヒントを与えてくれています。本来湧き上がってくる感情には、良いも悪いもないはずです。それを自分の都合によって価値判断を下して、悪い感情と判定したものは、封印しようとしているのです。このようにして湧き上がってくる感情を取捨選別しているとどうなるでしょうか。封印しようとすればするほど、注意や意識がそこに吸い寄せられてしまうようになります。そしてその悪い感情を、自分の体の中に勝手に入り込んだ異物として取り扱うようになります。異物は排除しないと自分に悪影響を与えますので、排除しようとするのです。不安や恐怖を敵とみなして闘いを始めることになります。どうにもならない相手と判断すると、今度は逃げ回ることになります。精神交互作用によって、神経症はどんどん悪化して、アリ地獄の底へと落ちていくのです。あらゆる感情は自然現象です。人間の意志の力ではどうすることもできません。土砂災害などに対しては、砂防ダムを造る。河川の氾濫に対しては、川底の土砂の堆積を取り除く。堤防を強固に補強し、できればかさ上げする。思いつく限りの対策を実施します。しかし、できる限りの対策を取った後は、基本的に自然現象を受け入れるしかありません。この謙虚な姿勢を持つことが肝心です。自然現象である感情の発生は、価値批判しないでまるごと受け入れる。最後まで抑圧しようとすると、感情が暴れ馬のように暴走するのです。自分や他人を巻き込んで悲惨な状態になります。感情の取り扱い方は森田理論で学習することが肝心です。学習すれば容易に分かるようになります。
2020.08.18
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安冨渉さんのお話です。幸福とは、感じるものであって、何を手に入れても、そこから喜びを直接感じられなくては意味がないのです。たとえよい大学に入っても、そこにいることに幸せを感じなければ駄目です。人からうらやましがられたり、褒められたりすることで、間接的に感じても、それは幸福の偽装工作にすぎません。背が高くて、高学歴で、収入の多い男性と結婚しても、その人と居ることそのものから喜びを感じられなければ、意味がありません。美人で、家柄が良くて、オシャレな女性と結婚しても、その人と居ることそのものから喜びを感じられなければ意味がありません。こんなものは、「偽装結婚」に過ぎないのです。たとえ大企業の正社員になっても、その仕事そのものから喜びを感じられなければ、意味がありません。そういう会社はだいたい、会社そのものが、偽装でできている可能性が高いのです。安冨渉さんは次のような経験をされているそうです。1年浪人して京都大学に入学しました。合格発表の時、ただホッとしただけでした。その後大学院にも合格しました。この時も、やれやれと思っただけで、うれしくはありませんでした。そして、修士課程を経て、人文科学研究所の助手に採用されました。採用されたときには、本当にホッとしました。が、うれしくはなかったのです。若いときに立派な論文を書いて「日経・経済図書文化賞」を受賞しようと思っていました。34歳の時に受賞しました。この若さでの受賞は異例なことでした。どんなにうれしかろうと思っていたのですが、ホッとしただけでした。これらの経験を思い返すと、私は「○○したい」と強く念願すると、そうならなかったら「もう死ぬ」くらいに思い込むのです。そうすると人間は必死になるもので、何とかそれを実現してしまいます。しかし問題は、そうなったときにも、ちっともうれしくない事なのです。(生きる技法 安冨渉 青灯社 夢の実現についてより引用)安冨さんは目標をたてて、懸命に努力して、すべて見事に達成されています。難関を乗り越えて目標を達成された安冨さんは元々の能力が高いのだろうと思います。ところがホッとするけれども、心の底からの喜びは湧き上がってこなかったといわれています。この心理は、森田理論学習をされた人なら、すぐにそのからくりが分かるだろうと思います。何が何でも有名大学に合格しなければならない。有名企業に採用されなければならない。関わっている研究で、権威ある賞を受賞しなければならない。このような「かくあるべし」を自分に押し付けてしまうと、たとえ達成しても、そのあと憂うつ、空虚感、自己疎外、生の無意味さが付きまとってしまう。まして、目標が達成できないということになると、自己嫌悪、自己否定に陥ってしまいます。これはオリンピックの代表選手が、何が何でも絶対にメダルを獲得しなければならないと思って試合に臨むようなものです。「○○しなければならない」と自分を追い込むことは、その反対に、もし獲得できなかったときはどうしようというプレッシャーとも戦わなくてはならなくなります。そのような見えない敵とも戦いながら、メダルを獲得することは至難です。その分、普段の練習で出せたパフォーマンスが出せなくなってしまいます。たとえ運よくメダルが獲得できたとしても、ヤレヤレとホッとするだけで、思っていたような喜びは湧き上がってこない。反対に、結果はその時の運で決まってしまう。神様のみが知るところであると開き直れたらどうでしょうか。私は、メダル獲得に向かって4年間たゆまぬ努力を続けてきた。その力を存分に発揮することだけに集中しよう。どんな結果がでても潔く受けよう。もくもくと頑張ってきた自分を誇らしく思う。競技を精いっぱい楽しみたい。これはプロセスを大事にした、「努力即幸福」の世界ですね。これは別の言葉でいうと、現実、現状、事実を大切にし、達成可能な目標に向かって這い上がっているイメージを連想させます。「かくあるべし」で上から下目線で叱咤激励している態度とは全く違います。プロセスを大切にした生き方は、勝ち負けに過度にこだわらなくなり、今現在をいかに充実させて過ごすかに集中するようになります。
2020.08.17
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自愛と自己愛は違う。自愛とは、自分の存在や状態を、是非善悪の価値評価することなく、あるがままに受け入れていくことです。森田でいうと事実、現実、現状を素直に認めて、受け入れることです。先入観や思い込みで事実を歪曲し、否定することはしません。事実にできるだけ近づいて、真実を知ろうという態度です。事実に基づいて分析すれば、より正確に問題点や課題が見えてきます。そこを出発点にして行動することができます。森田でいう事実本位の態度です。自己愛を辞書で引いてみると、ナルシシズムとある。ナルシシストとは、自己陶酔型の人。うぬぼれの強い人のことをいう。水面に写った自分の美しい容姿に陶酔して、どこまでも美化してしまう。例えば、頭髪を念入りにセットし、きちんと化粧し、ダイエットや運動で体を引き締め、ブランド品を身に着けて、鏡に写った自分に自己陶酔しているようなものです。それが容姿だけではなく、能力、学歴、資産、地位、身分、体力、力、持ち物などあらゆる分野に及ぶ。自己愛の強い人は、優越感を持つことに喜びを感じる。あるいは完全、完璧を求める。理想主義者となる。森田でいうと「かくあるべし」の立場から物事を優劣を判断する人間になる。しかしすべての面にわたって完璧というわけにはいかない。プラスの面があれば、必ずマイナスの面があり、バランスが取れているのが現実だということが分からないのである。それをいったん見つけると、イライラして我慢できなくなる。忌み嫌って無きものにしようとする。せめて人前にさらさないようにする。ごまかすために偽装工作をするようになる。自己否定、他人否定をするようになる。すると日常茶飯事、仕事、家事、育児などに向けるべきエネルギーが枯渇してくる。生活が乱れてくるのです。神経症に陥ると、生活が不規則になり、依存的になります。自己愛を満たすために、エネルギーを使っていると疲れます。現実と理想は常に乖離し、その溝をふさごうとすれば、また別の溝が顔をのぞかせてくる。イタチごっことなり、最後には収拾できなくって、投げやりになってしまう。あれぼどの潔癖症の人が、いつの間にか部屋の中がゴミだらけになってしまうようなものだ。自己愛は「かくあるべし」を優先する態度であり、葛藤や苦悩を発生させてしまうものであることを認識したいものです。私たちは貪欲に自己中心を貫くのではなく、自分の今現在の状態に寄り添う態度を持ち続けたいものです。
2020.08.16
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誰でも赤ちゃんだった頃は、好奇心旺盛でした。身の回りの小さなことにも強い興味や関心を持ちます。そして、それらに支えられて、とてもエネギッシュに動き回ります。言い換えれば、問題点、課題、目的、目標、夢、希望に向かって行動しています。森田理論でいう「努力即幸福」という世界に生きています。この生き方が一生涯続くと、「人間に生まれて本当によかった」と思えるようになると思います。ところが、小学校の高学年くらいになると、依存的で、無気力、無感動、無関心という生き物に変化していく傾向にあるようです。エネルギーが枯渇して、「もっとやる気を出せ」といわれても、どうすることもできないのです。こうなりますと、ただ息をして命の延命を図っているだけで精一杯という状態になります。植物や動物と何ら変わりがないということです。しかし人間は、問題点、課題、目的、目標、夢、希望に向って行動することが宿命づけられています。それを無視してただ生命体として生きているだけというのは、苦痛そのものです。その結果、身体の健康を損ねたり、精神疾患を抱えたりするようになるのです。神経症はその一つです。いったん植物人間のようになった人が、エルギッシュな人間に変身できることは可能なのでしょうか。これは大変難しい問題だと思います。車でいえばガス欠を起こしたようなものです。どこかでガソリンを調達して、エネルギーを補給しなければ、車は動き出すことはできません。その手掛かりを考えてみたいと思います。人間のエネルギーというのは2つあると思います。一つは身体的エネルギーです。物理的に身体が動き、活動できるというエネルギーです。このエネルギー不足は、意志の力で改善することができます。バランスのとれた、きちんとした食事をとる。睡眠を十分にとる。運動を心掛けて体全体を鍛えておく。人に依存しないで、自ら毎日実践することです。規則正しい生活を続けて、日常茶飯事に真剣に取り組む。これらを心掛けて生活すれば、身体的エネルギーが蓄積されてきます。いつでも積極的に動ける状態にして、スタンバイしておくことは大切です。コンビニ弁当や外食に頼り、家で深夜までインターネットやネットゲームなどをして過ごしていると大変なことになります。二番目は心のエネルギーです。やる気を高めるためにはどうすればよいのでしょうか。森田では事実をよく観察しなさいと言われます。火事という状況が分かれば、誰でも一目散に逃げます。これは事実を認識して、危険回避という行動をとることができたのです。事実がきちんと把握できていないと、適切な行動に結びつきません。人間は嫌な事実には向き合いたくないものです。見て見ぬふりをする。事実から逃げる。事実をごまかす、事実を隠す。言い訳をする。捏造する。こういう態度を続けていると、問題点、課題、改善点、改良点が浮かび上がってはきません。事実を無視することで、心のエネルギーはしだいに枯渇していくことになるのです。一旦枯渇してしまうと、自分の力では補うことができなくなります。また他人からカンフル剤を打たれても一時的な効果しかありません。森田では事実唯真といって、「かくあるべし」をなるべく少なくして、事実に寄り添う生活態度を養成しています。「状況が人を動かす」(藤田英夫 毎日新聞社)という本がありますが、これによると、事実をありのままに目の前に提示することで、人間は自然にやる気が湧き起こってくるといわれています。やる気というエネルギーは、目の前に問題だらけの現実や事実を白日のもとにさらすことで可能となります。反対に人間を無気力にするためには、事実を隠して分からないようにする。問題点があっても、本人が気づく前に、他人があらかじめことごとく摘み取ってしまえば、意欲は枯渇してしまいます。一旦枯渇してしまえば、機能自体が破壊されているので、補給しても充填されることは起きなくなります。これは人間破壊であり、大変恐ろしいことです。
2020.08.15
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森田先生は、海に棲む生物は3種類に分けることができると説明されている。1、自分の目的のままに、自由に動き回ることができるもの。2、イソギンチャクのように、常に岩に固着して、流れてくる餌を食物とし、安心立命の形で落ち着いている。もしこの動物を岩から取りはずして、波の中に投げ出すと、その動物は、不安心。不立命の状態で、落着かないような風である。3、クラゲのような浮遊動物で、波のまにまに定めなく、流れ動いて、一生涯どこで生まれて、どこで死ぬという定まりはない。つまりこの種の動物はいまだかつて、固着した安心立命という体験もないと同時に、不安心・不立命という心持も、一切知らない。このクラゲの方が本当の安心立命であって、イソギンチャクのように、当てにもならぬ食物を待って、下手な安心立命に固着しているよりも、よいかも知れない。下手な主義や人生観に固着するよりも、人生はかえって安楽である。ここで入院して、いわゆる「思想の矛盾」をさって、この白紙の状態になると、健康になり・能率は上がるようになります。(森田全集第5巻 407ページより要旨引用)周囲の変化や自分の置かれた境遇にペクトルを合わせて行動する方がよいといわれているのである。人間というのは一旦安心立命の状態に至ると、今度はそれを失わないように防衛するようになります。自己防衛というのは、注意や意識が外に向かうことなく、自己内省に向かいます。万が一、ネガティブ、否定的な考えに支配されるようになります。本来の人間は目の前の問題点や課題に対して、果敢に改善や改良を目指して行動するように宿命づけられています。これを森田では「生の欲望の発揮」と言います。それを放棄して、保身にばかりエネルギーを使うということになると、心身ともに後ろ向きで閉塞してしまいます。断っておきますが、自己内省そのものは悪くはありません。失敗すれば、自己内省し、その原因を解明しないと、また同じような失敗ばかりを繰り返すことになります。ここで注意したいのは、生の欲望が発揮されている場合に限って、自己内省力というのは効果を発揮できるということです。ミスや失敗を次の成功のために活用できるのです。生の欲望がないときの、自己内省力は自己嫌悪、自己否定に陥ってしまうのです。次に、理想や完全・完璧な状態を心の中に強く思い描いてしまうと、それから外れるものは一切受け付けないという態度になってしまいます。「かくあるべし」を生活信条として一歩も譲らないという生活態度です。これは神経症を引き起こす大きな原因の一つとなります。「かくあるべし」を身に着けている人は、変化対応はできなくなります。変化を見つけると、どう対応しようかと考えるよりも、まずその動きに対して、是非善悪の価値判断をするようになります。自分の考え方に基づいて、良い悪い、正しい間違いという判定をするようになります。相手の意見を聞くことをしなくなります。いったん判定したことを正当化するために、同志を募り徒党組むようになります。正当化を強固にするために理論化を図ろうとします。自分にとっても、他人にとっても葛藤や苦悩を引き寄せてしまうことになります。変化対応を無視すると、大変大きな問題を抱えてしまうということです。
2020.08.14
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生活の発見誌7月号50ページよりの引用です。意識的に症状を治すことを目的にしては治らない。症状を治すために人生を生きているのではない。人生を現実に即して生き抜く、幸せを求めて、症状というハンディを持ったまま、現実の中で生き抜く過程で、いわば、副産物として症状からの解脱が達成されると思う。基底になるのは、あくまで現実社会である。これは森田理論の神髄を的確に指摘されていると思う。症状に対して正面から取り組んでいっても症状から解脱することはない。むしろ症状に注意や意識が張り付いてしまい、精神交互作用で蟻地獄に落ちていく。神経症は益々悪化して、ついに固着してしまう。その時点でもはや自分一人で、蟻地獄から地上に這い出すことは難しくなります。神経症から回復するということは、100%神経症のことばかり考えていた頭の中を、90%、80%、70%、60%、50%とその比率を軽減させる療法です。そのくらいまで減少させれば、どんなに不安、恐怖、違和感、不快感があろうとも、神経症の克服宣言をしてよい。さらに不安にとらわれやすいという神経質性格を、プラスに活かすことを考えて実践できるようになれば、神経質性格に生まれてきてよかったと思えるようになる。不安などを根こそぎ取り去ろうとすると、自分のアイデンティティも失ってしまう。不安にとらわれやすいという特徴は、天から与えられたギフトのようなものだら、ありがたく活用させてもらうという気持ちを持ち続けた方がよい。余裕のできた10%、20%、30%、40%、50%の部分で、日常茶飯事、仕事、勉強、家事、育児、趣味のことを考えて生活を立て直していく。そうすれば、神経質性格がプラスに作用する。気づきや発見、関心や興味、アイデアや意欲が生まれてくる。無気力、無関心、無感動という状態を抜け出して、人間に生まれてよかったと思えるようになる。症状を抜け出して、そういう状態を目指しているのが森田理論である。つまり森田理論は症状を克服するという理論であると同時に、人生観の確立を目指す理論なのです。割合としては、神経症克服4割、人生観の確立6割ぐらいと認識していれば間違いない。私は、神経症克服は、別に森田療法でなくてもよいと考えています。薬物療法、カウンセリング、認知行動療法などの他の精神療法でも構わない。自分に合ったものを選択すればよいのです。ところがいったん症状が軽減した段階では、森田理論学習を始めることが大切になる。ここで手を抜いては、別の症状を生み出して元の木阿弥になる可能性が高い。症状の発生がなくても、生きていくことが自体が苦しみそのものになってしまう。人生を謳歌し、味わいのある人生を送るためには、神経質者としての人生観の確立を目指す必要があるのです。このことをぜひ頭の片隅に入れておいてもらいたいと思います。そのための強力なツールとして森田理論学習があるのです。
2020.08.13
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集談会などで「恐怖突入」という言葉を耳にされた方も多いと思います。自分が不安を感じていることに、あえて自分を鼓舞して、思い切って飛び込んでみなさいということです。そうすれば、きっとうまくいくはずだ。すると成功の体験ができる。自信が生まれてくる。できなかったのは自分の頭の中で考えてばかりで、実行しなかったからということになる。このようにして神経症的な不安はのりこえていけるという考えです。例えば、特急電車に乗ることができない。乗ればパニック障害がでる。それなのにあえて、恐怖突入させることは、本人にとっては、死ぬ思いを強要されることになります。森田で恐怖突入という言葉を使うことは、症状で苦しんでいる人を脅すようなことだと思います。けしかけるばかりで、その手段や方法は相手に任せているからです。実は森田先生はこの言葉は使われていないのです。だれがいつから使われたのでしょうか。認知行動療法の中に暴露療法というのがあります。森田でいう「恐怖突入」にあたるものです。こちらの方は取り組み方について懇切丁寧に指導しています。まず不安を10個くらいに分けます。不安の階層を設定するのです。例えば1段階、身支度をして家を出る。第2段階、駅まで行く。第3段階、切符を買う。第4段階各駅停車で1駅だけ乗る。第4段階、準急に乗る。第5段階、特急電車に乗る。第6段階、新幹線のこだまに一駅乗る。第7段階、新幹線のひかりに一駅乗る。第8段階、飛行機に乗る。付き添いの人と行動する。クリアできない段階を何回も繰り返す。できるという自信を糧にして次の段階に進む。これを最終的には自分一人でできるようにしていく。ここまで相手に寄り添うことができれば、何とかなるかもしれません。これと比べると、森田療法では口で指示するだけです。できないから相談しているのに、この手のアドバイスでは反発ばかりが募ってきます。直接的な弊害はそういうことですが、恐怖突入というのは決定的な矛盾を孕んでいます。それは自分の神経質症状に、神経と注意を集中させているということなのです。そして症状というのは、不安を取り除くことによって、乗り越えるものであるという間違った考え方をとっているということです。森田理論の考え方は、とらわれの対象を一つに限定しないで拡散させましょうという考え方です。一つのことだけにとらわれるというやり方はまずい。生活をしていく中で、次々ととらわれる対象が変化して増えていく。そして解決不可能なものは、いったんはそのままにして、次のとらわれとかかわりあっていく。自分の置かれた状態や時間の経過とともに、そのとらわれは次第に変化していきますという考え方なのです。一つの不安に神経を集中させていないので、不安そのものが薄まっていくという考えなのです。これは森田理論を学習して実践してみると実感が持てると思います。次に神経症的な不安は取り除いてはいけません。不安は受け入れる。そして不安を邪魔者扱いするのではなく、不安と仲良くして、不安と共存していく生き方が肝心ですという考え方なのです。これは天動説から地動説に変わるような転換です。不安は欲望があるから発生している。欲望が大きいと不安も大きい。不安が嫌だというならば、欲望を最小限に抑圧すればよい。そうすれば不安は最小限に押さえることができる。でも生の欲望がない人生は、植物人間として延命しているだけのようなものです。それは動物や植物とほとんど変わりがありません。人間として生まれたからには、自分の与えられた環境の中で、問題点や課題、目標、夢を追い求めていくことが宿命づけられているのです。その際、欲望を無制限に追及してはいけませんよ。不安を活用して欲望の暴走を制御する生き方を身につけましょうと教えてくれているのが森田理論なのです。ですから「恐怖突入」という言葉を安易に口にするのは、もともと森田理論に親和性はないものなのです。
2020.08.12
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権力というのは、他人を支配して従わせる力のことをいう。会社のワンマン社長が、部下の意見を無視して、自分の保身や利益のために、自分以外の人を支配するような状態の事である。自分の方針に反対する人は、権利はく奪、降格、左遷させる。そのために部下たちは恐れおののいて、何も言えなくなる。ひたすら我慢する。耐える。これが解消されるのは、社長が健康を損ねる。亡くなる。または、部下たちが一斉に蜂起して社長を追い出す場合である。国家権力というのは、国家や政治が国民に対して持っている強制力のことである。反対意見をいちいち取り上げていたのでは、政策が実行できない。そこで、国会などでいったん決めたことは、国家権力を行使して、すべての国民にそれに従わせることになる。しかしそれが行き過ぎると、国民の自由や権利を無視して、権力が暴走を始める。そういう国家のことを全体主義国家、独裁主義国家という。これは、すべての国民は国家を構成する一つのパーツに過ぎない。国民は国家の成長・発展のために、個人の自由や権利を度外視して、国のために忠誠を尽くさなければならないという考え方に基づく。日本では治安維持法で、戦争反対という国民の自由な発言が取り締まりの対象になったことがある。逮捕されて、拷問を受けた。反対意見を持っていても、国家権力に服従しないと命は保証されない。国家の顔色をうかがいながら、ビクビクおどおどしながら生き延びるしかない、何ともやりきれない国になってしまう。日本の場合は、戦争に負けてやっとその考え方が解消された。そういう全体主義国家が、世界を見渡せば現在でも存在している。そういう国の報道官は敵対的、威圧的なのですぐに分かる。しかし歴史を紐解いてみると、独裁国家、全体主義国家が永遠に存続できて現在まで生き延びた例は一度もない。一時的には強固で隙のない国を作り上げても、いずれ崩壊していく。それは国家のためと言いながら、国家という組織を最大限に利用して、一部の権力者の野心や利益を最大化するという目的にすり替わってしまうからである。いかに平等な社会や国を作り上げようという崇高な思想を持って出発しても、途中で目的がすり替わってしまい、国民の自由と権利、民主主義を否定してしまうようになるからである。ワンマン社長や独裁者には、権力と権威が同時に備わっていると指摘する人がいる。これが問題を大きくさせているのではないかと指摘されているのである。確かに独裁国家を見てみると、権力と権威が一つになっている。権威というのは、多くの人が認めている圧倒的な優れた力を持っている人の事である。人々から尊敬されて、何かあった時はその人に相談するというような人である。権力者と権威者が分離していれば、権力者が暴走してしまうことを防止できるのではないか。ワンマン社長は組織のリーダーとして、将来を見通して組織を統括する責任がある。そのために反対意見を押しのけても、方針を実行するための権力が与えられている。だからといって、社長の言うことはすべて正しいかというと決してそうではない。そこに権力は持たないが、社員全員が認める権威を持っている人がいたらどうなるか。権威を持った人は、みんなに人格者として尊敬されている。会社を創業して、大きく成長させてくれた神様のような人である。ワンマン社長といえども権威を持った人を押しのけて、権力を振りかざして、好き勝手なことはできない。絶えず気にしている。つまり権力が暴走することを防止しているのである。森田理論では生の欲望の発揮というのが大きなテーマとなっている。しかしその欲望を野放しにしておいてはまずい。欲望には限界がなく、暴走を始めるからである。弾みがついて、暴走を始めた欲望は制御不能となる。それは他人を巻き込んで、自分の破滅を呼び寄せてしまう。生の欲望の発揮に向かって進むことは欠かすことはできない。そのレールに乗ることができたならば、今度は制御することを考えないといけない。欲望は不安を活用することで制御しなければならない。つまり調和、バランスの維持という方向に向かわないと、百害あって一利なしという結果を招くのである。
2020.08.11
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最近集談会にやってくる人の不安の中身が漠然とした不安に変わっているという。深刻な症状でのたうち回っているという雰囲気ではない。その証拠に「生活の発見誌」を読むことが症状克服に役立つのなら、私も読んでみたいという気持ちになる人は極めて少ない。経済的にそんな余裕がないという人もいる。多くの人は、そんな海のものとも山のものともわからないものをとって読むことは時期尚早として見向きもしない。あるいは本を読むということ自体に親和性がないのかもしれない。私が集談会に参加し始めたときは、対人恐怖症で会社を辞めるかどうかという危機的状況であった。なんとかして神経症を治したいという気持ちが強かった。それだけ切羽詰まった不安を抱えていたのである。最近の人は、不安の中身が弱いと感じる。軽いのではないかと思う。決して不安がないのではない。不安があるから集談会にやってきたのだ。うつ病でいえば、大うつ病ではなくて、慢性的な軽い不安状態が続いている気分変調性障害のような感じである。切羽詰まっている不安よりも、不安のために生きづらさを抱えている。不安の中身が弱いと欲望も弱いという関係にあります。これは問題です。森田理論は生の欲望が強い人というのが適応条件になっているからです。それは本人のせいばかりとは言えない。日本という社会や家庭が、欲望そのものを骨抜きにしてしまっているように感じる。戦後の教育や社会の在り方が問題だったのです。例えば、一般的に早く親から精神的にも経済的にも自立して生活したい。家を建てて、結婚して、子供を設けて、暖かい家庭を作りたい。このような目標、夢、希望を多くの人が持っているかどうか。そういう基本的な欲望が希薄になっているのではないか。一例をあげてみよう。・家は親の家に住むから別に困らない。・必死になって働かなくても、親と一緒に暮らしていれば、食いはぐれることはない。・成人しても親から小遣いがもらえる。大金がいる時は、いつも親が援助してくれる。・親が亡くなれば相当の遺産を相続できるから将来路頭に迷うことはないだろう。・結婚して、炊事、洗濯、掃除、食事の準備に追われて何が楽しいの。・子供が生まれて、自分の時間を子育てに割かれるのはまっぴらごめんだ。・会社では、暗黙の了解で、サービス残業を強要されることには耐えられない。・それより年収は少なく、身分の保証や社会保険の適用はないが、フリーターやアルバイトのほうが気が楽だ。・とくかく責任を負わされるような仕事はしたくない。・学校や職場で自分が傷つくような付き合いは極力回避したい。・一人の時間を大切にして、ネットゲーム、ネットサーフィン、趣味に没頭したい。・他人との接触は、ツィッター、フェイスブック、ラインで十分だ。基本一人で生活する。じかに、他人と面と面を合わせて話しするのは煩わしい。・精神的におかしくなれば、薬で押さえればよい。カウンセリングを受ければよい。認知行動療法などの精神療法がある。以上みてきたように、社会全体として生の欲望が弱まっているのである。依存的で、今だけ何とかやり過ごすことができればそれで十分だ。今までそれでやってきたし、これからもそれでやっていけるめどが立っている。無気力、無関心、無感動の生活にどっぷりとつかっているために、それ以外の生活は考えられないのである。仮にそこから抜け出ようとしても、そのエネルギーが枯渇している。森田先生は欲望が希薄な人は、哀れなものだといわれている。仲間を求めて意を決して集談会にやってきた。すると年配の人ばかりだ。50代の人が若手といわれている。何しろ年金暮らしだという人がやたらに多い。健康法や生きがい、趣味や介護の話が多い。この会は余生をいかに楽しむかを話し合う人たちの集まりなのか。挙句のはてに、不安は横に置いて、規則正しい生活を送りなさい。日常茶飯事に丁寧に取り組みなさい。定職を持ちなさいなどと言われる。自分には全く役に立たないところだった。森田療法が適応される条件に当てはまる人は、生の欲望が強いという特徴がある。それを持ち合わせていない人は、残念ながら他の方法でその漠然とした不安感を取り除くことしかない。森田療法がピタッとヒットしないのである。このブログは毎日800人から1500人の人が閲覧されている。潜在読者はその3倍から4倍ぐらいだと聞いた。ということは5000人がいいところだ。それ以上にアクセス数が増加することは、生の欲望の脆弱社会の現状から見ると期待できない。このブログを読もうという人は、生の欲望が比較的強い人だと思う。逆に言うと生の欲望が強い森田適応者が極端に減少しているというのが日本の実情なのだと思う。残念だが、いくら対策を立てても、自助組織が縮小し、森田適応者が減少することはいかんともしがたい。生の欲望を賦活させる社会構造の転換が必要になると感じている。
2020.08.10
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他人と、容姿、性格、能力、態度、境遇などを比較して、優越感や劣等感を味わうことは誰でも経験があります。優越感というのは、相手よりも自分の方が優れると思っていて調子に乗っている状態です。心のどこかで相手のことを軽蔑して、否定しています。劣等感の場合は、相手よりも自分の方が劣っていると思っていて、自己嫌悪、自己否定している状態です。神経質者の場合はこちらの方が多いのかもしれません。比較するということは、常に是非善悪の価値判断を行っているのです。比較することで、否定と肯定が繰り返されているのです。他人と比較することはよくないが、過去の自分と現在の自分を比較することは構わないという人がいます。過去の自分と現在の自分を比較して、成長していれば自信になる。自分で自分をほめてあげることができる。しかしこれは現在の状況が、過去と比べて改善できていれば有効です。仮に、重大な病気にかかった。けがをして体の自由が効かなくなった。自己破産した。離婚した。認知症になった。寝たきりになった。人間的に成長していない。精神的に不安定だ。このような場合、過去はよかったのに、現在は奈落の底だと悲観することになります。それが自分自身を精神的に追い詰める材料となります。子育ての中でよくありがちなことですが、親が子供たちを比較して、「お兄ちゃんはきちんとできたのに、あんたはどうしてできないの。ダメね」などと叱咤激励することがあります。子供を早く親の理想に近づけようとしているのです。現在の子供の状態が見えていません。親の「かくあるべし」を子供に押し付けているのです。子供はそれがトラウマになり、自信が持てなくなり、自己否定するようになります。比較してどちらが優れているか、どちらがダメなのかと価値判断することは、自分と他人を精神的に苦しめるばかりとなります、メリットは何もありません。そのようなことになるのなら、比較しないほうがよいという気持ちになるのも無理からぬことになります。しかし比較することのメリットの部分を忘れてはならないと思います。例えば、生活習慣病検診をします。これは自分の血液の状態、血管の状態、糖の状態、内臓の状態などを健康体といわれる基準値と比較しています。高血圧、高脂血症、尿酸値、白血球の数などが正常範囲にあるかどうかを判定しているのです。比較するものさしがあるからこそ、自分の健康状態が客観的に把握できるのです。比較して、現在の健康状態が分かり、基準から外れていれば早めに対策を打つことができます。この場合は、検査して比較することで、客観的に自分の健康状態を掴むことができるのです。比較することが、価値判断に結びついて、他人や自分を裁く道具として使われるとこんなに害になることはありません。ところが、自分や他人の現在地を把握するために使われるとしたら、こんなに役立つことはない。つまり比較することが、「かくあるべし」と結びついてしまうということが問題なのです。「かくあるべし」を減少させて、事実本位の生活を続けている人は、積極的に比較するで、自分の課題や問題点を抽出しているのです。比較しないと何も始まらないということです。比較するというのは現在の自分の状態を客観的につかむために大いに活用したいものです。
2020.08.09
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形外会での鈴木知準さんの発言です。私はあまり静かだと勉強ができないという体験を、今夏初めてやりました。帝大の寮が山中湖にあって、80人ばかり収容のできる大きな家に、私はただ2人でいたのです。あまりシーンとしていて、いたずらに空想ばかりが頭を駆け回り、何も勉強できませんでした。今度は、他の家へ引っ越しました。するとそのところは、ラグビー選手の宿泊所で、ダンスはやる、レコードはかける、実にうるさいところでしたが、不思議にドンドン勉強がはかどりました。いろいろの事が、クルクル頭の中を駆け回るときは、勉強も楽にでき口笛なども思わず出たりする時である。この間その事を叔母に話したら、叔母は心配して、それは頭が、どうかしているのだ、時々静養しなければいけないと注意してくれました。友人は、また僕の勉強ぶりを見て、「君は立ったり・座ったり・口笛を吹いたり。歌ったり、それで一体勉強ができるのか」というから、「僕はこの時が、一番よく能率の上がるときだ」といったら、「君は異常者だ」と狂人扱いにされました。(森田全集 第5巻 410ページ)森田理論を学習すると、精神が緊張状態にあって、あれもこれも神経が行きわたっている時に、仕事や勉強がよくできる。また、気づきや発見、興味や関心、新しい発想やアイデアが泉のように湧き出てくるといいます。反対に「退屈だな。何か面白いことはないかな」などと思っているようなときは、感性は鈍化している。感情が停滞して、気づきや発見、興味や関心、新しい発想やアイデアなどは沸き起こってこない。たとえ沸き起こったとしてもありきたりで貧弱である。変化の激しいところに身を置いていると、感情が刺激を受けて緊張状態に変化してくる。また最初はイヤイヤ仕方なしに手を付けることで、感情が発生して、どんどん膨らんでくる。そして感情が変化していく。このことが分かっている人は、積極的に変化の激しいところに出ていく。人前に出ていく。なすべき課題をたくさん持っていて、次々と手掛けていく。弾みがついて、精神が緊張状態に入り、好循環が始まる。一日が終わった時、心地よい疲労感とともに、すがすがしい充実感を味わうことができる。反対にゴロゴロと昼寝をしたり、テレビなどを見て過ごした人は、「しまった。今日も無為の一日を過ごしてしまった」と感じることになる。後の祭りである。
2020.08.08
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フランクルという人はアウシュビッツに強制収容されました。生命に関わる過酷な扱いを受けましたが、何とか解放されるまで生き延びました。なぜ生き残ることができたのか。「夜と霧」という本で紹介されています。彼自身は解放されたあとの仕事のことを思い、愛する妻や家族と再会することを願っていました。その熱い思いが彼の命を支えていたのです。また彼は収容中に知り合った二人の男性を救っています。その一人には、彼の最愛の子供が、彼を待っていると伝えて共に生き抜こうと励ましました。もう一人には、科学者としての本のシリーズ化がまだ終わっていないことに奮起を促し、生き続けることの責任を自覚させたのです。解放された後、フランクルは、人間にとって、取り組むべき課題、目標、希望、夢の存在が、人間が生きる上で欠かせないものであると考えました。食べ物、安全、健康、共同体への所属と同じくらい必要であることを熱心に説いています。それがないと、意欲や生きがいが生まれません。動物と同じ感覚で生きていくことになります。そのためには、まず正しい現状認識が必要だと思います。事実、現実、現状に対して、「かくあるべし」という色眼鏡をかけてみるのではなく、事実にこだわる態度がかかせません。森田では事実を正確につかむためには、人の話をそのまま鵜呑みにしてはならない。先入観や決めつけはご法度である。現地に行って事実を確かめる。自分で実験して事実かどうかを確かめる。特に一方的で片寄った考え方は要注意である。これは間違いないと思っていても、必ず反対意見も聞いてみる。両面観を取り入れて検証する。円錐柱を真上から見ると円に見えます。真横から見ると三角に見えます。真下から見ると円に見えます。いろんな角度から見て初めて円錐柱であることが分かります。裁判でも、犯人の犯罪を確定して有罪にするためには、検察官だけの一方的な話だけで判決を下すことはしません。明らかに犯行が間違いないような事案でも、必ず弁護士を立てて、双方の言い分を聞いた後に判決を出しています。そうしないと自由と民主主義が失われた独裁国家になってしまいます。ですから様々な角度から事実を明らかにする必要があります。疑問に思ったことは、できる限り事実をあぶりだすことです。そこに注力することがとても大切です。その先に、フランクルの言う、解決すべき問題点、課題、目標が見えてくるのです。興味や関心が生まれ、気づきや発見、アイデアや工夫、情熱や意欲の高まりが生まれてくるのです。次に、これに基づいて、実際に行動を開始することが大切です。その際、森田理論でもっとも重視しているのは、「凡事徹底」ということになると思います。いきなり大きな目標、希望、夢に取り組む前に、自立のために基礎固めを優先しましょうという事だと思います。
2020.08.07
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交通事故などに遭遇した場合、客観的に見て自分は悪くないのに、「すみません」とすぐに謝る人がいます。これは大変問題がある対応です。自分に非がないにもかかわらず、非があるかのような言動が、相手につけ入るスキを与えて、相手を勢いづかせるのです。外国では、自分に非があっても、確たる証拠を突き付けられない限りは、相手に責任を押し付けるのが普通です。そして損害賠償をさせようとするのです。あるいは自分の損害賠償の責任を回避しようとするのです。こういう場合は、相手に「お怪我はありませんでしたか」と切り出すべきです。それ以上のこと、それ以外のことをぺちゃくちゃと発言してはならないのです。救急車を呼ぶほどのことがなければ、二次災害を防止して、会社、家族、警察、双方の保険会社に連絡することです。お互いの連絡先の交換も勝手にしてはなりません。相手が感情的になっても、決して安易に自分の非を認めるような発言をしてはなりません。実況検分は、双方の話を別々に聞きながら警察が公平に行います。損害賠償については、双方の保険会社が、事故報告書をみて過失割合を決めます。自分の非をすぐに認めてしまうような人は、事実軽視も甚だしいといわざるを得ません。このような対応では、森田理論で事実を正しく認めて受け入れることが大切だと学習しているのに、絵にかいたモチになっているのです。また事実認識に食い違いが見られる場合は、自分の考えをしっかりと相手に伝えることが必要です。強硬な相手の発言におじけづいて、相手によって捻じ曲げられた事実を少しでも認めてしまうと、後で捻じ曲げられた事実を覆そうとしても難しい。最初に反論していないので、相手も、周りの人も捻じ曲げられた事実が正しかったのだなという先入観を持っているのです。先進国の裁判を見ていると、誰が見てもあの人が悪いと思われる場合でも、かならず弁護士をたてて争います。それは検察の主張ばかりを信頼して、判決を出すと一方的で恣意的な結論が出るという可能性が高くなることが分かっているからです。そのようなやり方を無視して、一方的な裁判を強行している国は独裁国家といわれています。事実は両面観で見ていかないと見誤りやすい。一方的な事実認定で行動を起こすと、「迷いの内の是非は是非ともに非なり」という事になる。問題が核心からずれてしまい、収拾がつかなくなる。間違った事実をでっち上げたものが、同志を増やして、相手を一方的に攻め立てて誹謗中傷して、支配するようになるのである。事実を無視して、間違った事実を飲まされた人は浮かばれない。これは残念なことだが、日本の外交政策についても言えることである。どうして日本はここまで外国政府や外国人の言いなりならなければならないのだろうか。依存体質、自立心を目指さない人は、被支配者として生きていくしかない。
2020.08.06
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形外会で森田先生が入院患者の日記を紹介されている。夜、「事実唯真」の彫刻をする。興味が起こらず、居眠りを催す。小刀を動かすだけで、時間のくるのを待つに過ぎない。困ったものなり。入院10日目。寝床に束縛を感じたが、思い切って起きた。一日、熱のない仕事ぶり、他の人がやっているから、やるというに過ぎぬ。これに対して森田先生は、「それでよし。当然のこと」「それで上等。これを従順という」と赤字でコメントされている。(森田全集第5巻 396ページ)この入院患者の人は、さあやろうという風に気持ちを高ぶらせて、しかる後に行動しなければ、取り組んだ結果はでたらめになる。頭で考えているような結果になることはない。兎に角、やる気を出して、しかる後に行動すべきであると考えている。取り組む前からそう決めつけている。穿って考えると、実践や行動しないための言い訳として、このような考え方に固執しているとも考えられる。失敗するのが分かっている。成功することは夢のまた夢だ。このような考え方をしていると、取り組んでいることに集中できない。失敗やミスすることを心のどこかで期待しているところがある。そうすると、案の定失敗やミスが現実となる。やはり自分の思った通りのことが起きた。自分で自分を納得させている。そして、不安や恐怖を感じることは、今後一切手を出さないという固い決意を抱いてしまう。森田先生は次のようにコメントされている。昼間一日働いて、夜疲れて、眠くなり、彫刻しても身が入らない。それはその時と場合とにおける心の状況であって、腹のへらないときに、食が進まないと同様である。何ともしかたがない。こんな時に、身を入れてやらなければと自分を叱咤激励すると、強迫観念となる。仕事に熱が入らない。興味が起こらない時には、ただ規則に示された通りに、他人の真似なり、仕事のふりをしていてればよい。そのうちツイツイ身が入ってくるものである。入院中の患者が、初めは仕事がいやでも、その心のままに、これを否定・抑圧しようとせずに、ボツボツやっておれば、心は自然に、外向きに流転して、いつの間にか、仕事三昧になるのである。行動というのは、最初から意欲満々で取り組むことはまれである。イヤイヤ仕方なしに取り掛かっているうちに、興味や関心、気づきや発見、アイデアなどが生まれてくる。心身ともに弾みがついてくるものである。軌道に乗るまでは誰でも苦労しているのである。その苦労を惜しむという考えでは、自信や楽しみはいつまでたっても味わうことはできない。
2020.08.05
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森田先生は、好きだった酒と煙草を止めたといわれている。これをすんなりと止めることができたわけではなかったようだ。習慣になっていて、理知的に抑制しようとすると「度を過ごしさえしなければ、さほど悪いことはあるまい」などと言う自己弁護に負けてしまう。煙草を止めるきっかけとなったのは、肺炎の時の咳と、呼吸困難の苦しさを思い出すようになってからである。肺炎の時の呼吸困難は死を予感させるのである。(森田全集 第5巻 400ページより要旨引用)森田先生は死を予感するようになってやっとニコチン依存症と決別できたのだ。現在依存症といわれているものに、アルコール、ギャンブル、薬物、ニコチン、仕事、投資、ネットゲーム、風俗、買い物、グルメなどがある。これらは本能的な欲望、刺激的、快楽的な欲望が暴走して、自分の意志の力では制御できなくなっている。車でいえばブレーキが壊れた車を、坂道でアクセルをふかしている状態である。この状態では理性で制御できないし、無力である。一旦弾みがついてしまうと、ますますのめりこみ勢いづく。またある時止めようと思いついても、イライラなどの禁断症状で悩まされる。最後に解雇、自己破産、家庭崩壊、精神錯乱、健康破壊、逮捕などで強制的に中止させられる。新聞やテレビ報道などに及ぶと親族にまで悪影響が及ぶ。依存症さえなければ、まともな生活が送れたのに、取り返しのつかない人生に陥ってしまう。後で悔やんでも悔やみきれないのだが、あとの祭りである。最悪の結果を招く前に手を打つ必要があると思う。私は以前パチンコ依存症になりかけた。湯水のようにパチンコに財産を使っていた。寝ても覚めてもパチンコのことが頭から消えることはなかったのだ。幸い借金をしてまでのめりこむことはなかった。知り合いは、友達から借金したり、キャッシングに手を出している人もいた。夫婦でのめりこんでいる人もいた。そういう人は最後には悲惨な目にあっていた。私の場合は、妻の強制力が役に立った。その時は反発していたが、今は感謝している。最後には貯金が底をつき、毎日こずかいを1000円しか持たしてもらえなかった。また借金をすること自体が嫌な性格だったことがよかったと思う。こうなれば手も足も出ない。それでも500円だけパチンコをするという日もあった。つまり物理的に不可能という状態に追い込まれて、仕方なしに遠のいていった。最初はパチンコ屋の前の道は避けるようにしていた。3か月、6か月と経つと、別にパチンコをしたいという気持ちが希薄になっていることに気が付いた。今ではなんとお金の無駄使いをしていたのかと思う。今ではパチンコやスロットをやりたいという欲望は全くない。今振り返ってみると、依存症になった時は自分の力では乗り越えることはできないと覚悟を決めることだ。そういう傾向のある人は、自分一人で行動してはいけない。信頼できる配偶者、友達、先輩などと行動する。自分は抑止力が壊れているのだから、他で補いをつけるしかない。また依存症の人たちの自助組織もあるので参加することが有効だ。公的機関やNPOなどの助けを借りることも考える。依存症になると、少しぐらいはいいだろうと考えることが、命取りになるという事を肝に銘じておくことだ。一滴のアルコールが悪魔のささやきともなるのである。神経症の人は依存症とは関係ないような気がするが、時々依存症の人をみかける。脳の問題なので誰でも陥る可能性があるのだと思う。
2020.08.04
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第35回形外会で水谷先生が次のような話をされている。森田先生が庭でバラの木の葉に、小さい虫の糞が沢山あるのを示されて、これを見つけると、虫がいることが分かるといわれる。なるほど、よく見ると、その上の方の葉に小さい青虫が、一杯にたかっている。虫は保護色のために、容易に見つけることはできないが、糞は黒いから、すぐに見つかるのである。森田先生はこの時、患者たちに、次のように説明された。先生から、こんなことを指摘されて、たちまち「ハハアなるほど・面白いことだ」と感ずる人は、上等で、知識は「日に新たに、また日々に新たに」進歩するようになる。あるいは一方には、「今日は一つよい事を覚えた。書きつけて置かなければならない」というのは、下等であって、習った事よりほかの事は、何もできない人で、十を聞いて一しか働きのない人である。また他の人は、「アア自分は、こんなことにも気がつかない。もっと注意を働かすようにしなければならぬ」、とかいうのが最下等で「悪知」であり、心は内向的で、自分の事ばかりを考えて、少しも物を見ることができない。せっかく教えられたバラの虫取りに、手を出すこともできずに、外界から入ってくる知識の門戸が、全く閉鎖されてしまう。(森田全集第五巻 387ページ)3番目の自己内省ばかりして、自己否定してしまうことが問題なのは誰でもわかります。「かくあるべし」を持ち出して、自分を否定しているので、精神的には苦しいばかりだと思います。「かくあるべし」を減少させて、事実を認めて、受け入れるという方向に少しずつ切り替えていく必要があります。これは森田理論学習と実践で身につける必要があります。問題は1番目と2番目の違いの区別です。2番目のタイプの人ですが、今まで自分が知らなかったことを森田先生から教えられて、次に活かそうとしている。実行すればきちんと虫の駆除ができるようになるだろうと思います。それはそれでよいのですが、欲を言えば1番目のようになることが望ましいという事だと思います。1番目の人は、1を聞いて10を知るというような人です。一つのことをきっかけにして、感情が活発に活動を始める。精神が緊張状態にある人です。興味や関心、気づき、発見、工夫、アイデアが次から次へと思い浮かび、意欲的になってくる。他の花はどうなのか、野菜の場合はどうなのか、駆除の方法は、農薬はどんなものがあるのか、散布はどうするのか、人体に害はないのかなどに広がってくる。感情がどんどん流れ出し、行動の呼び水となっている。森田先生は、感情が一つのところにとどまるのではなく、谷あいを勢いよく流れる小川のようなイメージを持っておられるのです。感情が絶えず変化流転していかないと神経症からの克服は難しいという事を伝えたいのだと思われます。
2020.08.03
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森田先生が次のように言われている。ここで入院中に、誰か、僕から、何か教えられた事があるか、思い出して御覧なさい。黒川大尉そのほかの人で、「ここで何物をも得なかった」という事を、よく告白することがありますが、それは少しも教えられた事がないからである。(森田全集第5巻 355ページ)普通は高い診察料や入院費を負担している人は、入院しているだけで神経症は克服できると思います。ところが、入院してみると炊事、掃除、洗濯をさせられる。ニワトリやウサギの餌を野菜市場で集めてくるように言われる。下肥の汲み取り作業もさせられる。プライドの高い人たちにとっては、どうして高額のお金を支払っているのに、こんなつまらない家事をしなければならないのか。情けなくて、悔しくて涙が出てきたというのです。どうして神経症を治すための森田理論を系統立てて教えてくれないのか。詐欺師のような医者である。実際にそう判定した人もいたようである。1919年に森田理論は確立されており、森田理論を叩きこんで、その後実行や実践をさせるという方法も可能であったのです。森田先生はその方法はとられなかったということです。あくまでも実行や実践を優先させた。実行や実践ができるようになると、理論的なことは分からなくても全治者として退院させたということです。これは驚くべきことです。理論の裏付けは形外会という元入院者の交流会兼勉強会でされていた。ここでも、系統立てた森田理論をシリーズ化して講話するというものではなかった。集まった人たちの話の中から、森田理論のポイントをその都度お話しするというスタイルだった。もっと言えば、自分の生活をありのままに見せることで、その後ろ姿を見て森田理論を理解させるという方法をとられていた。それを実際に理論化されたのは高良武久先生だったというべきであろう。こうしてみると森田先生は根っからの臨床医であったということです。東北大学の丸井先生のような学者タイプではなかったということです。これは私たちの森田理論学習のすすめ方の問題提起をされていると思う。私たちが集談会に集いやっていることは、主に森田理論学習を深化することです。このやり方で問題ありませんかということです。森田理論のことは隅から隅まで理解しているが、「今落ち込んでいます」「深夜までネットゲームをたのしんでいます」「パチンコが唯一の趣味です」「毎日暇をもてあましています」などと言う話が出ていることをどう理解すればよいのか。これは学習と実行が完全に分断されているという事ではないか。あまりにも観念的になっているのではないか。理論と行動は車の両輪といわれますが、理論のほうにおおきな車輪がついて、実行、実践、行動の車輪があまりにも小さすぎる。すると行動の周りを理論の車がいつまでも回り続けている。これでは自己分裂を起こして、森田理論とかかわらない時のほうがよかったという事になる。森田先生が教えていることは、理論があまりにも肥大化している状態では、理論学習は中止して、実行、実践、行動にエネルギーの大半を投入しなさい。そして将来的には、理論と行動の車輪の大きさを整えなさいという事だと思います。そうしないと前進できない。葛藤や苦悩が増悪していく。それを解消するために、益々森田理論学習の深耕に拍車をかける。悪循環になっているのです。実践や行動が習慣化されたときに、後付けで森田理論で補強できると鬼に金棒となる。本当の意味で森田理論が役に立つのである。
2020.08.02
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今日の収穫野菜です。ミニトマト、ピーマン、シシトウ、キュウリです。ピーマンは小粒です。2日前まで雨ばかりだったからでしょうか。このほかカボチャも収穫しました。ナスはまだ小さく収穫できず。今日は草刈り作業もして、たっぷり汗をかきました。ビールが楽しみです。8月号の生活の発見誌には2人の方が、自家用野菜の投稿されていました。森田実践には野菜つくり、花の手入れはもってこいですからね。作りやすい野菜は、ジャガイモ、サツマイモ、キュウリ、ミニトマト、カボチャ、ダイコン、ハクサイ、キャベツなどです。まだの人はぜひ挑戦してみてください。ハクサイとキャベツは必ず虫よけネットを取り付けてくださいね。
2020.08.01
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私は大学の授業で今でも鮮明に覚えている授業がある。それは和辻哲郎が書いた「風土」という本をもとにして、日本、ヨーロッパ、中東の人たちの気質の違いを解説してくれた授業だった。これは面白かった。日本はモンスーン気候である。梅雨がある。植物がよく育つ。放置すれば雑草だらけになる。水にも食べ物にも困らない。豊富でしかも良質である。稲作の適地である。稲作は水利をコントロールすることが大切になる。これは近所の人たちと維持管理のための話し合いや共同作業が必要になる。農作業も助け合いながら共同で行うことが効率を高める。必然的に協調や忖度、相互援助の国民性が醸成される。人の思惑に振り回されやすいという対人恐怖症が起こりやすい。中東は雨が降らない。乾燥地帯である。植物が育たない。食べるものが少なくなる。ところどころにオアシスがある。限られた水をめぐって、人間同士がいがみ合い、戦うようになる。自分の利益を追求し、他の人のものを無理やり奪わなければ、生きていくことはできない。人を見れば敵と思えという考えになりやすい。武力、権力、経済力をつけて敵を侵略して奪うことで、自分たちの生活は豊かになる。素質的に敵対的、好戦的な気質が醸成される。ヨーロッパは中東のように砂漠というわけではない。しかし日本のように放置していても、植物がどんどん成長するという風土ではない。穀物が十分に育つ環境にないのだ。草がかろうじて生える土地柄である。それを活かして家畜を飼い、乳や肉を食料として生命を維持するのが理にかなっている。自然は放置していては、人間に利益をもたらすものではないということだ。絶えず自然に手を入れて、人間に都合のよいように、作り替えていく必要がある。どれだけ手を入れるかによって、必要な食料を手にすることができる。これは、日本とヨーロッパの庭園作りの違いを見れがよく分かる。日本は自然をそのまま活かして、箱庭のようなものを作る。名園といわれるものはすべて自然と調和している。自然と一体化する中で心の安らぎを見つけ出す傾向が強い。これに対して、ヨーロッパでは、庭園とは人間の好みに合わせて、自然を破壊して、新たに作り変えることである。左右対称で幾何学的な庭園を造る。しかも噴水を作り、水を天高く舞い上げる。自然に反旗を翻しているようだ。日本では庭園の中に自然を模倣した小川や滝を作る。噴水は邪道となる。このように自然の動きにたてつくような気質がヨーロッパ人の中に醸成されていく。こうしてみると中東にしろ、ヨーロッパにしろ生きていくことは、自然や他人に対して戦いを挑むことなる。自然や他人をいかに上手にコントロールするかばかりに注意が向いてくる。相手を征服し、自然環境の破壊をすることでやっと自分の生命が維持できる。そうしないと自分や家族の命が狙われて、征服されてしまうのだ。「自然に服従しましょう」というと、無気力で意欲の乏しい人間を連想させるのだ。外国では日本人のような協調や妥協、忖度する態度には親和性がない。しかし、自立心は旺盛となる。それが生きながらえるための条件となっている。世界の歴史を見ると、侵略と戦争の歴史である。それが繰り返されてきた。風土から醸成された気質から見ると当然の結果と言える。それが骨の髄まで貫徹されているので、いくら口先で平和を唱えても難しいのだ。森田理論に物の性を尽くすというのがある。これは己の性を尽くし、他人の性を尽くすことでもある。自分や相手の持っている特徴、強み、能力、性格、財産、家柄、存在を尊重して、とことん活用しましょうという考え方です。これは自己中心の考え方ではありません。相手のことを思いやり、相手の生き尽くしたいという欲望に寄り添う「利他」の考え方なのである。その態度がまわりまわって自分の利益に跳ね返ってくる。これは日本の風土が生み出した日本人に特異的にみられる気質となっている。世界的には極めてまれな気質である。このような考え方を、全世界の人が前面に押し出していくようになると、平和になると思う。双方がお互いの考え方の違いを出し合いながら、妥協点を求めて交渉をすることになる。譲ったり譲られたりの関係になっていく。しかし実際にはもともと気質が大きく違うので無理かもしれない。下手をすると、日本人と日本国は、相手に丸め込まれて、気が付いたらがんじがらめに支配されていたという事になりかねない。何しろもともと自己主張を抑圧するのが当たり前の国なのです。その気質の違いを頭に入れたうえで、外交交渉をしないと大変なことになると思う。
2020.08.01
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