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プロ野球の黒江透修氏は現役引退後、巨人、中日、西武、ロッテ、ダイエーのコーチ、二軍監督、助監督などを歴任されている。ダイエー時代は、王貞治監督の参謀だったという。ミーティングの席では、時々監督と意見が衝突したという。例えば、王監督は2ストライクの後にヒットエンドランを好んで使った。ヒットエンドランというのは、カウントによって、ここはストライクが来る確率が高いというときに出す。バッターはストライクが来るはずだと予想して必ずバットを振る。ランナーは、バッターがヒットを打つはずだと予想して迷わず盗塁を仕掛ける。打ちごろのストライクが来てバッターがヒットを打つと、スタートを切っていたランナーは3塁に到達する可能性が高くなる。一挙にチャンス拡大となる。しかし黒江氏は、ヒットエンドランは失敗する確率が高いという。なぜならボール球に手を出してしまうケースが多いからだ。黒江さんは、「ヒットエンドランよりもランエンドヒットでどうでしょう」と提案した。これだと失敗の確率が低くなる。しかし王監督は頑として聞かなかったという。黒江氏はその危険性を知ってもらうために、練習であえてピッチャーに2ストライク後、ボール球を放るように指示したことがあった。バッターはワンバウンドのボールを空振りして三振ゲッツー。それでも王監督の考えを変えることは容易ではなかったそうだ。黒江氏は、試合前までは監督の方針に異議を唱えてもよいといわれる。チームを強くするために、あえて反対意見を言うのが参謀の務めである。ところがいったん試合が始まったら、監督の作戦に反対し、批判するようなことは絶対にあってはならない事だといわれる。「コーチたる者、いざ試合においては絶対に監督に逆らってはいけない。対立なんてもってのほか。監督が黒と言えば、白のものでも黒になるんだよ」試合においては、たとえ失敗の可能性が高いとはいえ、監督が2ストライク後に、ヒットエンドランのサインを出せば、なんとしてもそれを成功させなければならない。そのために練習でワンバウンドになりそうなボールを当てさせたこともある。選手には「不満があろうが監督のサインは絶対だ。最善を尽くしてくれ」と口を酸っぱくして言っていました。(超一流の自己再生術 二宮清純 PHP新書 99ページ参照)この話は森田理論を学んでいる私たちにとって大変参考になります。人間に生まれたこと、生んでくれた親、生まれた国、生まれた時代は、どんなに不満があってもどうすることもできません。現実の境遇や環境などは、決して受け入れることができないといくら反発しても、どうにもならない事です。そのようなことに反旗を翻して意地を押し通そうとしても自滅していくだけです。現実には自分の置かれた境遇や運命や宿命を目の敵にして戦いを挑んでいる人が多いのではないでしょうか。不平や不満だらけです。それを言葉や行動に出しています。納得できない事、理不尽なことは絶対に受け入れることはできないと反発しています。森田理論はそういう納得できない事実、状況、現実を素直に認めて、受け入れていきましょうという理論です。そこを出発点として考えましょう。しっかりと足をついて、そこから一歩前を向いて歩んでいきましょうという理論です。そうすれば、目の前に見えてくる景色が全く違ってきますよという理論なのです。野球でいえば、与えられた活動範囲の中で、自分の持っている力や能力を精いっぱい発揮して、チームの勝利に貢献していく。その方が自他ともに幸せになる道です。境遇や運命に反発して嘆き悲しむことにエネルギーを費やすよりも、それらを受けいれ、与えられた活動領域の範囲内で運命を切り開いていくという姿勢を持つことが肝心なのです。
2020.12.31
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「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」夏目漱石の「草枕」の冒頭である。小説家というのは実にうまい表現をするものである。ところで、夏目漱石は精神性の胃炎で49歳という若さで亡くなっている。相当なストレスを抱えていたと思われる。これは、一般的には「知情意」ということで説明される部分である。今日は森田理論をもとにして、「知情意」の意味するところを考えてみたい。「知」とは、事実に基づかないで、頭で考えたことである。知識、智恵という人もいる。今までの人生の中で自然に身に着けて来た、思想、価値観、理想、かくあるべしを持ち出して、問題点を抽出し、現実をより良い方向に改善していこうという態度のことである。人間には高度に大脳が発達しており、分析力、理解力、論理性、創造性に優れている。それを大いに活用していけば万事うまくいくという考え方である。人類の文化、文明が発達してきたのは、「知」「智」の部分のおかげである。しかしこれが暴走すると、究極的には人類の滅亡につながる可能性も生じる。「情」というのは、自然に湧き上がってくる感情のことです。自然現象であり、もともと人間の自由はありません。これは森田理論の感情の法則で学んでいます。感情には不安などの不快の感情と感動などの快の感情の両方があります。感情はコントロール可能であり、人間の意思の力で制御することが可能であると誤解している人が多いようです。これは認識の誤りであり、神経症の原因となります。「情」という言葉は、同情、共感、人情という使い方もあります。感情には家族や相手、他国のことを思いやり、自己中心が暴走するのを抑制している面もあります。人情などが自然発動しないと人間同士がすぐに対立関係になります。「意」というのは、やる気、情熱、意欲のことです。行動力のことです。困難や目の前に立ちはだかる壁を乗り越えて、問題点や課題、目標や夢を達成しようとする意思のことです。これはいきなり持てるものではありません。目の前の課題に取り組んでいる中で、問題点、改善点などに気づいた後に出てくるものです。森田理論を学習すると、「知情意」というのは、優先順位が問題になると思うようになりました。「知」が「情」の前に取り上げられることに違和感があるのです。私は、「情」あって、次に「知」を活用していくことが大切だと考えています。この関係を説明しましょう。前提として事実を踏まえない観念優先の態度は問題を引き起こすと考えています。どんな場合でも、事実を前提として「感情」から出発する必要があると思います。そのためには事実を正確に把握することが大切です。事実が見えてくると、自然に「感情」が動き出してきます。気づきや発見、問題や課題、興味や関心が生まれてきます。この段階を過ぎた後で、大脳の前頭前野の出番がやってきます。事実をあらゆる角度から分析し、問題解決や目標の達成に向けてどう行動すればよいのか試行錯誤を始めます。つまりこの段階で、「知識」「智恵」が大いに役立つことになります。その蓄積が大きくて多いほど的確な判断が下せるようになります。ここまでくれば、やる気や意欲も同時に高まっています。しかし意欲を持って行動しても、ミスや失敗、障害や壁にぶつかって跳ね返されてしまいます。それはうまくいくかどうかが全く読めない仮説に取り組んでいるわけですから、当然のことです。ミスや失敗の体験を積み重ねていくことが、成功への唯一の近道であると信じて、粘り強く挑戦していく態度か重要になります。こうしてみると、「知情意」というのは、「情知意」という順序に変更しないといけないのではないでしょうか。まずは徹底した事実確認を行う。次にさまざまな感情が湧きおこる。それを多方面から理知で調整していく。最終的に一つの行動を選び、執着性を発揮して目標に近づく。森田先生も感じから出発して理知で調整するのが順序であると指摘されています。
2020.12.30
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10月号の生活の発見誌に次のような記事がありました。私のつたない限られた経験では、生活の発見会活動を活用して、職場・家庭・友人・地域など「実生活でもその場に応じた居心地の良い居場所を安定して作ることができる人」が治った人だと思います。この方は生活の発見会の会員歴が30年以上になる方です。生活の発見会というやさしい人間関係の場・集団が常に身近にあったことがよかったといわれています。発見会という自助グループは神経症で苦しんだ経験のある人たちばかりです。このグループに所属するということは、神経症に陥った人が心の安全基地を確保したということになる事だと思います。困った時は相談できる仲間がいる。身近に実際に苦しんでいる人もいる。克服して人生を謳歌している人もいる。森田理論を生涯学習として取り組んでいる人が大勢いる。神経症に陥って一人悶々と生活することはとてもつらい事だと思います。是非集談会に参加して交流を始めていただきたいと思います。次にこの方は、ただ集談会に出席するだけではなく、世話役を引き受けてこられました。これは模擬的な社会体験になります。ここでの小さな成功体験の積み重ねで、自信がついてくるのです。職場などでも与えられた役割をこなすことができるようになります。また世話役を引き受けると、自分の苦しみを抱えたまま、人の為に尽くすという行動をとらざるを得ない状況になります。これが神経症の克服に役に立ちます。さらに世話役を引き受けていると、集談会に行きたくないという気分本位な気持ちになった時の抑止力が働きます。森田から離れるということがなくなります。森田につがみついていると、月日の経過とともに、自分では気がつかない内に、人間として大きく成長している人がほとんどです。1回1回の集談会の参加では、たいしたことはないと思っていても、それが5年、10年、20年、30年と積み重なっていくのです。それはお金出して買い取ろうとしても、不可能なことなのです。神経症を治して、人生の指針を獲得するという目的を達成するためには、自分一人ではできないということだと思います。例えば、スマホやパソコンの使い方に困ったときやトラブルへの対応ですが、一人で解決しようとしても困難です。仕様書をダウンロードし、解説書を買い求めて悪戦苦闘の連続です。そんな時にスマホやパソコンの扱いに慣れた人に相談すれば、たちどころのうちに解決することがあります。それをきっかけにして、それ以上の操作手順なども教えていただくこともできます。集談会も同じことが言えます。生活の発見会の会員の中には、神経症の取り扱い方に詳しい人が間違いなくおられます。神経症を治すだけではなく、神経質性格の活用方法に詳しい人が在籍しておられます。自助組織ですから、集談会に参加しても、経費はほとんどかかりません。私も在籍34年になりますが、生涯学習で取り組む覚悟です。人生は失敗続きでしたが、森田に関わって得たことは、私の宝物となっています。
2020.12.29
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岡田尊司氏が「カサンドラ症候群」という本を書かれている。内容は夫婦の人間関係の問題点を指摘されている。夫婦の気質の違いが、家庭内別居や離婚に至るケースが後を絶たない。同じ家に住んでいても、会話が全くない、食事も別々、洗濯も別々という夫婦である。結婚当初はこの人なら一生添い遂げられると思っていたのに、いつの間にか決定的なボタンの掛け違いが起きてしまったのである。こうなると精神的に苦しくなり、身体面にも悪影響を与える。離婚してしまうと、精神的には楽にはなるが、経済的には苦しくなる。また子供への悪影響が懸念される。岡田氏は気質の違いについて次のようなパターンが多いと分析されている。夫婦のどちらか一方が、外見的には、理知的、勤勉、理想的、口数が少ない。将来のことも計画的に考えている。人間としてしっかりしている。それらが結婚する前には、安定感、信頼感、責任感がある人に見えてしまう。その一方で、家庭を持っても単独行動を好む傾向が強い。親戚付き合いや近所の人との交流は避ける傾向がある。多くの人との交流を楽しむというのではなく、自分の趣味を見つけて自分の世界に浸る。他人との交流の中で楽しみや心の安定を見つけたいという気持ちが希薄なのです。家事や育児を手伝うということも希薄である。妻が病気になっても、親身になって心配することがない。「すぐに病院に行きなさい」と指示しても、「今日の夕ご飯は外で済ましてくるから心配しなくてもよい」などと言う。病気の妻の看護や食事については無頓着なのである。また育児や子育てに関しては妻に丸投げとなる。授業参観日にも学校へ行くようなことはない。また単身赴任になっても動じることがない。水を得た魚のような感じで、赴任先での生活を謳歌している。月に一回の帰省も煩わしいとさえ考える人もいる。単身赴任先の気ままな生活が自分にはぴったりだと思っている。こういう人の特徴は、共感的な思いやりや情緒的な反応が元々乏しいのです。岡田氏は愛着障害や大人のアスペルガーを抱えている人もいると指摘されている。オキシトシンという愛情ホルモンの出が悪い人なのです。私が見るところ対人不安を抱えている人はこの傾向が強いように思う。反対に不安タイプの人は、家族や仲間の和を大切にされるケースが多い。そういう視点で人間観察をしてみると、はっきりと認識できると思います。共感性や情緒的なつながりを大切にする女性が、こういう傾向の人と結婚するとどうなるでしょうか。自分は自己中心的で思いやりのかけらもない鉄仮面のような様な相手を選んでしまった。人生最大の汚点であったと考えてしまうのではないでしょうか。一刻も早く離婚したい。経済的な理由で離婚不可能なら、没交渉でやっていくしかない。家庭内別居で会話もない。食事も洗濯も別々というふうになります。そういう夫婦が同じ家に住んでいると、精神的、身体的な悪影響がでてまいります。この問題はどちらが良いとか悪いとかの問題ではない。お互いに自分の気質とは、相いれない人と結婚したのだという認識を持つことが必要になると思う。認識できれば、その大きな溝をどうすれば埋めていくことができるかという出発点に立つことができる。認識できなければ、今の状態が継続されて、夫婦の人間関係は完全に破綻してしまう。自己中心的な人は、共感性や情緒的な人間的なつながりを求める配偶者に対して、歩み寄る必要があります。例えば、仕事先から「今から帰ります」というメールをする。急な飲み会に誘われたときは、事情説明をして了解を得る。土日はできる限り子供や家族で過ごす時間を作る。月に1回は、配偶者や子供のために花やお菓子などのお土産を買って帰る。単身赴任の場合は、必ず月に1回か2回は帰省する。あるいは家族を単身赴任先に呼び寄せる。子供の授業参観日には極力行くように心がける。家事の分担を決めて毎日手伝うようにする。年に1回は家族旅行を企画して、団体行動をする。これらは単独行動を好む人は面倒に感じることばかりです。ですから、あえてそういう意識を持って行動する習慣を作り上げる必要があります。これらはその気になればすぐに実行可能なものばかりです。この積み重ねが大事なのです。そういう気持ちをしっかりと持っていないと、絵に描いた餅になってしまいます。その認識を持つことが大切です。共感性を大切にする人は、単独行動を好む人に対して、あまり多く口を挟まない。相手の行動に対して、大きな支障がない限りは、大目にみてあげる。許してあげる。包容力を持って、見守るというイメージです。問題がある場合は、私メッセージで伝える。溝を埋めるために、イエローカードを利用する。家族会議を行う。難しいときは、カウンセラーなどに立ち会ってもらう。つまり森田理論でいう不即不離の夫婦関係を目指すということです。せっかく縁あって一緒になったわけですから、お互いにいがみ合って心身共に疲弊してしまう事だけはなんとしても避けたいものです。再婚して新しい生活を求める人もいますが、精神的・経済的には大変な思いをされている人が多いように思われます。
2020.12.28
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ユーモア小話を作ってみました。◎彼と彼女が三越の前で待ち合わせをしていました。彼は30分も前に到着して彼女を待っていました。ところが約束の時間になっても彼女が現れません。彼は腹が立ってきました。20分遅れでやっと彼女がやって来ました。彼は彼女に「もう1時間近く待っているんだよ。いいかげにしてよ」彼女はこれに答えて、「ごめん。でも私だって3日前からこの日がくるのをずっと待っていたんだよ」この一言で機嫌が直った彼が一言「座布団3枚」◎人前で話すことが大好きな妻が「話し方教室」に通いたいという。さらに話し方に磨きをかけて、どんな相手も論破できるような話法を身につけたいという。その意欲と頼もしさに当然夫はもろ手を挙げて賛成してくれるはずだと信じて疑いませんでした。ところが夫は猛烈な態度で反撃してきました。「それでなくてもおしゃべりなお前が、話し方を勉強して、さらにおしゃべりになったらたまったものではない。考えただけでもぞっとする。今のままで十分だから話し方教室に行くのはやめてくれ。どうしてもというのだったら「聞き方教室」に行ってくれ。それならお金はいくらでも出すから」◎向こうから近所で評判の悪いおやじ夫婦がやってきた。挨拶しないのも大人げないと思って、「おでかけですか」と声をかけた。返ってきた答えは、「それを聞いてどうするつもりだ」そこで「今日はいいお天気ですね」というと、「雲が出ているじゃないか」奥さんに向かって「大変ですね」と同情すると、「他人の女に手を出すな」これをもしユーモアでやっているとすると見上げた人物です。◎息子が有名な料理学校に行くので援助してくれという。聞いてみると100万円以上の教育資金がいるという。父親 「それは無理だよ。何なら貯金通帳を見せようか。学校に行かなくたって修行すれば一流のシェフになれるはずだ。きっとなれるよ。その方が家計にやさしいよ。織田信長だって、豊臣秀吉だって、徳川家康だって学校に行っていないのに、天下までとったぞ」子 「あのね、今は料理学校へ行ってないと一流にはなれないの。第一そんな時代に学校なんてなかったじゃないか」父親 「ばかもの。今は学校があったかどうかを議論しているのではない。学校を出たかどうかを議論しているのだ」◎離婚する夫婦は、誤解が頂点に達した段階で結婚し、相手のすべてが理解できるような段階に達して、「性格不一致」を理由にして離婚にふみきる。最後まで添い遂げる夫婦は、相手のことを良いも悪いもある程度理解できるようになった段階で結婚し、誤解が生じると妥協点を求めて話し合い、最後はお互いに許しあう。皆さんも普段からネタを集めて、ユーモア小話を作って周囲の人を愉快にさせませんか。
2020.12.27
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変化に対応する生活を心掛けるということは、事実本位の生活に近づいていくことにつながります。事実本位の生活を習慣化するということは、森田理論が目指しているところです。そうした態度が身に付きますと、「かくあるべし」による思想の矛盾を防止することが可能になります。「かくあるべし」の態度は、神経症を発症させる大きな原因となりますので、神経症の発症が抑えられることになります。ではどうすれば変化に対応した生活態度を身に着けることができるのでしょうか。その一つとして、カラオケを利用した方法について提案させていただきたいと思います。歌を歌うときの音感というものは、天性のものがありますので、音感の良い人は元々音程がほとんどずれていません。この方法はカラオケが苦手で、カラオケのお誘いはいつも断っているという方に有効であると考えています。歌の苦手な人はまず挑戦する歌を選曲します。最初は1曲か2曲にします。その時、楽譜を見て音程が比較的安定しているものを選ぶようにします。そういう曲は探してみるとかなりあります。私でいえば渥美二郎の「夢追い酒」、千昌夫の「君がすべてさ」です。自分が選曲した曲を、いきなり歌うのではなく、最初は歌手の歌声を録音して何回も聞きます。その際、小節ごとに区切って、リピート機能を活用して聞くようにするのです。全体を通して聴いていると、細かいところがよく分からなくなるのです。何回も聞いてから実際に歌ってみましょう。そっくりまねて歌う練習を繰り返します。違和感がなくなるまでじっくりと歌いこみましょう。注意点としては、歌うときにこぶしはつけないようにします。歌声はビブラートをかけたり、こぶしをつけると聞きずらくなるそうです。それは歌声は元々デジタルなものだからです。素直に歌声を一定にして伸ばすようなイメージです。一音一音を丁寧に一定の高さで歌うように心がけるのです。ここまで出来たらカラオケ店に行きます。カラオケ店に行ってジョイフルサウンドの機種を指定してください。この機種には採点機能があります。これをセットしてください。その中に音程というのがあります。配点は40点になっています。歌を歌うときに音程の枠が表示されます。歌の進行につれて、音程はどんどん変化していきます。歌声が枠内に入っているかどうかが表示されます。音程が取れていないときは枠外に表示されます。85%以上この枠に入っていれば音程の取り方がよいということになります。ここまでいけば音程は35点以上はでると思います。総得点は85点から90点近くはでると思います。85%以下になると赤色の注意信号が付きます。枠からはみ出る度合いが多いと点数は低くなります。ですから歌うときはその枠内に入るように、声の高低を調整するということになります。音程の枠をよく見て、その枠に合わせるという気持ちで歌わないと、いつまで経っても枠内に収まりません。お勧めなのは、自分の歌声の画像を、一緒に行った人に、スマホかビデオカメラで撮影してもらうのです。それを後で何回も見るのです。どこで音程を外しているのか確認します。その部分を修正していくのです。そして再度挑戦して、修正されているかどうか確認していく作業を繰り返します。すぐに改善はできませんが、いずれ平均して2点くらいは得点がアップするはずです。これが励みになり、意欲が高まります。音程を合わせるということは、自分が気分よく歌えばそれで十分だという考え方ではうまくいきません。自己主張は中止して、機械が指定している音程に合わせるという態度でないとうまくいきません。これで「かくあるべし」を前面に押し出すという態度から、事実に服従するという体験が無理なくできるということになります。事実本位の生活態度の養成は、頭で考えているうちは難しそうに思えますが、こんなところから始めてみてはいかがでしょうか。
2020.12.26
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「生活の発見誌」9月号の70ページに陶芸をやっている人の記事があった。この方は電動ろくろを持っているという。本格的なものだ。紹介されている作品はとても見事なものであった。その方曰く。私は陶芸家になりたいのではない。夢中になる時間があるということは、それだけで十分幸せなことに気づいた。3時間ろくろを回したところで、目に見えて上達する訳が無いことも自覚した。人の為にもならないことに息を詰めるほど集中するバカがいてもいいのではないか?折しも日本はコロナ騒ぎである。車庫にこもってろくろ三昧、これ以上の至福の世界があろう筈はない。対人関係が苦手な私は、「外出できなくてストレスが溜まる人」が羨むような生活を送っている。この人に限らず、寝食を忘れて没頭できるものを持っている人は幸せだと思います。この方はテレビで、ピアノには全く縁のなかった52歳の漁師の人が、毎日8時間7年間練習を続けて、難解で超絶技巧を要する「ラ・カンパネラ」を独学で弾けるようになったことに刺激を受けたそうだ。彼の奥さんは、音楽大学の出身だが、この曲は弾けないそうだ。彼の心を動かしたのはフジコ・ヘミングの演奏を聴いたのがきっかけだったという。音楽でいえば、私が大阪に単身赴任をしていた時に、衝撃的なコンサートを見た。コンサートとはいえ区民文化センターで行われたものだった。バイオリンの演奏であった。10名くらいのグループだった。全員かなりの年配者だった。歩くのもおぼつかない人もいた。そのグループは、ベートーベンの第1から第9までを、毎年1曲ずつ取り組んでコンサートを開催しているということだった。私はその意気込みに圧倒された。現役時代に夢だったクラッシックの演奏に、定年後に取り組んでおられるその姿は、周りの人に人生の意義を考えさせる。私は会社勤めをしている時は、対人恐怖症でとてもつらかった。それを救ってくれたのは、その時々で、熱中するものを持っていたからではないかと思っている。37歳で始めたトライアスロン。大会には3回出場できた。残念ながら足を痛めたので5年で引退した。できれば各地を転戦したかった。その後資格試験に挑戦した。宅地建物取引主任者、社会保険労務士、行政書士、ファイナンシャルプランナー(CFP)などの資格を獲った。ファイナンシャルプランナーは2年間で30単位をクリアしないと資格の更新ができないので、今でも学習を続けている。森田理論学習の自助組織には入会して34年になる。これは生涯学習として命の尽きる時まで取り組みたい。その過程でこのブログを始めた。ほぼ毎日である。今年は間もなく8年目が終わろうとしている。現在はアップできる原稿をすでに40本持っている。習慣化している。始めたころと比べると自分が成長できたことが分かるようになった。いずれ重要な投稿をまとめて本にしたいと思っている。老人ホームの慰問活動はすでに10年以上になる。アルトサックス、獅子舞、ドジョウ掬い、浪曲奇術、腹話術の芸の練習は続けている。コロナが治まったら年間30ぐらいの慰問活動が始まる。田舎では、イノシシ除けの柵を取り付けて、本格的に家庭菜園を行っている。工夫や発見を次から次へと思いつく。水やりの為毎週のように田舎通いをしている。森田の実践として取り組んできたが、効果があり、とても楽しみである。最近は、作ったものを加工したり、お菓子作りが楽しい。これらの活動の中で、はぐくんできた人間関係は私の財産になった。私は神経質性格の特徴である執着性が強いのである。一度食いついたらめったなことでは離さない。神経症を持ちながらも、熱中するものを見つけて、取り組んでいる人は、今は辛いだろうがきっと乗り越えていけると断言できる。
2020.12.25
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厚生労働省のデータによると、神経症で病院にかかっている人の数は次のようになっている。平成14年50万人、平成17年92万人、平成20年104万人、平成23年95万人、平成26年112万人、平成29年127万人である。ちなみに、うつ病で治療している人が、それぞれ、71万人、58万人、59万人、57万人、72万人、83万人となっている。厚生労働省は、日本における神経症の患者は、おおむね100万人とみているようである。神経症は病気であり、治療が必要であると説明している。この点、森田先生の神経症を病気とみなすと、治らないという見解とは違う。厚労省は薬物療法と認知行動療法を勧めている。蛇足ながら、強迫観念についての説明は次のようになっている。強迫観念は、無意味ないし不適切、侵入的と判断され、無視や抑制しようとしても心から離れない思考や衝動およびイメージなどである。強迫行為は主に強迫観念に伴って高まる不安を緩和及び打ち消すための行為で、そのばかばかしさや、過剰であることを自ら認識してやめたいと思いつつも、駆り立てられるように行う行為です。厚生労働省の100万人という数字は、あくまでも神経症の治療を受けている人である。不安に振り回されながらも病院の治療は受けていない人は多い。不安に振り回されながら、生きづらさを抱えて苦しんでいる人も多い。神経症の予備群は相当な数に上るとみている。これに対して森田療法が第一選択肢として選ばれることはほとんど皆無である。神経症の自助グループである生活の発見会の会員が約2000人というのは、いかにも少なすぎる。この原因については、以前に投稿したことがある。3つの理由があると説明した。私は、神経症で生活が行き詰った人は、精神科にかかり、薬物療法を受ける。精神療法として認知行動療法を受けることは問題ないと思う。蟻地獄から地上にはい出るためには、手っ取り早いかもしれない。森田療法というのは、あまたある精神療法の一つである。問題は最悪期を乗り越えたから、以後神経症と手が切れるかという点から考えると心もとないのである。火山の下にはマグマだまりがあり、いつも地表にエネルギーを放出する機会を今か今かと待っているような状態だからである。その観点から助言すれば、一旦神経症が治まった時にどうするのかが肝心なのである。神経症は認識の誤りから生まれているので、その誤りを正して、神経症を再発させないということが欠かせないのである。そうしないと、以後の人生は苦渋に満ちたものになる。それに対応しているのが、生活の発見会の集談会で行っている森田理論学習なのである。森田理論は神経質性格者の生き方を学ぶ理論なのである。神経症を治すための理論から出発しているが、人生の指針を指し示しているという点が重要なのである。だから神経質者にとっては必須の学習科目となるのです。薬物療法にしろ、認知行動療法にしろ、生涯にわたってかかわりあう、かかわりあいたいと思う人はいないであろう。その点、森田理論は生涯学習として学んでいる人が多い。森田療法に出会い、仲間とともに学び成長していけることに大きな喜びを感じている次第です。現在の集談会はコロナの影響もあり、活動が停滞している。また参加者が少なく、期待以下だったとがっかりする方もいらっしゃると思います。今は波でいえば大底に入っている。しかし今から上昇していくと信じている。それまではこのブログで学習を続けてもらいたいと願っています。
2020.12.24
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今日は森田理論を応用して上司が部下を成長させる方法について考えてみたいと思います。仕事をしているとミスや失敗は避けて通ることができません。ライバル会社との受注争いに敗れてしまうことは、日常茶飯事です。こんな時、怒りを抑えきれない上司からきびしく叱責されます。「どうしてこんなミスをしでかしたのだ。仕事に身が入っていないからこんなことになるのだ。馬鹿者が・・・」「君はこの仕事に向いていないようだ。会社のお荷物だからさっさと辞表を出せ」「この損失を取り戻すことがどんなに大変なことか分かっているのか」そして事態の収束に向かって矢継ぎ早に指示や命令を出します。部下はそれに従うだけです。それで仮に何とか収まっても部下は後味の悪さが残ります。後悔で苦しみ自信喪失します。積極的に仕事に取り組むことができなくなってしまいます。仕事を通じて自分を成長させることもできなくなります。仕事をすることが苦痛になります。こういう悪循環から抜け出しませんかと森田理論は訴えかけています。森田理論ではやる気や意欲を高めるためには、先ず目の前の出来事をよく「見つめなさい」と言います。現状を正しく把握するということです。すると感情が動き出してきます。気づき、発見、疑問、改善点、改良点、興味や関心、課題や目標が見えてきます。対策を考えているうちに工夫やアイデアが生まれます。そして行動して何とか問題を解決しようという気持ちになります。このようにして、初めてやる気や意欲が高まってくるのです。問題が解決し、目標が達成できると嬉しいものです。自信がつき、自分が成長できて、さらに大きな課題や目標、夢や希望に向かって歩みだしていけます。本来の人間の生き方はこの路線に乗っかっているかどうかということになります。これをそっくりそのまま部下との人間関係作りに応用できると好循環が生まれると思います。1、ミスや失敗などは隠蔽し、捻じ曲げられるようなことがあってはりません。そのような事案が発生したら、すぐに事実をありのままに報告させることです。感情的にならず、事実を正確に把握するということが肝心です。そうすることが事態を悪化させないために大切だという認識を持っているということが重要です。そういう会社の風土を作っておくことが大切です。2、次にミスや失敗に対して、部下に弁明の機会を与えることです。短絡的に叱責して責任追及をするのではなく、相手に話させて、考えさせるのです。どういう問題があったのか。発生原因について自分ではどう考えているのか。この事態を収束するために、自分としてはどんな対策をとればよいと考えているのか。上司に対してどのような援助を期待しているのか。3、上司はまず部下の意見を尊重する。不十分なところや問題点があれば、上司としての意見を述べる。捕捉やアドバイスを行う。「最終責任は私がとるので、思い切ってやってみろ」と後押しする。部下の動向を見守りなから、必要に応じて軌道修正を促す。この方向ですと、部下がミスや失敗に向き合うことができるようになります。まず正しく現状把握ができます。次に感情が動き出します。問題の解決に向かって、いろんな気づきや発見が生まれます。課題や対応方法を考えることができようになります。積極的な行動ができるようになります。ミスや失敗によってさらに自分が成長できることになるのです。上司は自分だけがやる気や意欲を高めても、そんなに大きな成果は出ません。課員や部員の一人一人がやる気や意欲を高める仕組みづくりかできていれば、自ずと会社の業績は上がってきます。これがポイントとなります。森田理論を学習している人は、いずれ集談会では先輩会員になります。家庭では親として子供を育てる立場になります。会社ではいずれ上司として部下を指導する立場にたつことになります。そのほか自治会の役員になることもあるでしょう。そんな時に、いかにして森田理論を応用して、相手のやる気や意欲を引き出していけるかがあなたの腕の見せ所になるのです。慣れてくればそんなに難しい事ではありません。それで人間関係が改善されて、信頼されるようになればこんなにうれしい事はありません。
2020.12.23
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私たちは実践や行動するときに、確実に成果が上がると見込まれるものにだけに取り組もうとする傾向があります。成功するかどうかわからないものには手をださない。自信がないものは取り組む気になれない。仮に手を出しても、及び腰で取り組むので、失敗することの方が多い。失敗するとやはり自分考えていた通りのことが現実になった。やはり手をださない事のほうが正解だったと納得してしまう。こうしてますます行動に抑制がかかります。他人からはやる気のない、ただ生きているだけの人とみなされるようになります。そういう人の心理はどうなっているのか。失敗するとエネルギーの無駄遣いになると考えている。行動するだけで体力を消耗する。自分のエネルギーはできるだけ効率よく使う必要がある。そのためには、成功するか失敗するかをあらかじめ見極めなければならない。そして、100%成果が上がる事だけに、エネルギーを投入しよう。頭の中が効率優先、成果優先の考え方で凝り固まっているのである。一見効率的で合理的な考え方のように見えます。ミスや失敗が高い確率で予想されること、損失が予想されること、危険な目に合うことは最初から回避するという態度が強いのです。この生き方のプラスの面は、ミスや失敗を招くことが少なくなるということです。その結果、精神的にイライラすることがありません。身体を危険な目に合わせることもありません。解決の困難な問題を抱えることがありませんので、無難な人生を送る事ができるかもしれません。しかし効率優先、危険回避の考え方は、マイナス面が大きすぎます。それはミスや失敗の体験が不足してくるという問題です。幼児のまま大人になるようなものです。社会に適応できなくなります。ミスや失敗は誰でも嫌なものですが、人間が生きていく上において大きな役割を果たしています。エジソンも言っていますが、失敗は成功するための糧になるという側面があります。失敗に学ぶ態度を持っていると、失敗するたびに成功するためのコツを積み重ねていることになります。単なる失敗ではなく、将来成功するための基礎固めを積み重ねているということです。失敗して試行錯誤を繰り返して、絶対に手抜きをしてはならない事、面倒でも丁寧に取り組まないとダメなことが分かってきます。また、絶対に手を出してはならない事も分かってきます。この数多いほど、またそれらを乗り越えた人ほど、大きな成功と自信を獲得しているのです。その地点を出発点にして、さらに大きく飛躍できる基礎固めが完了したということです。この路線に乗るということが、人生を味わい深くするのだと思います。森田理論の中に、「努力即幸福」という言葉があります。課題や目標を持って努力精進している生活の中に生きる意義は存在しているという考え方です。成果や成功を期待して行動しているわけですが、幸福というのはその目標を達成するかどうかにあるわけではない。ミスや失敗を繰り返しながら試行錯誤している過程。プロセスにあるという考え方です。こういう考え方になりますと、成功するためにはどんな手段を使ってもよいということにはなりません。不正を働き、他人を不幸に陥れるようなやり方は、プロセスという面から見ると問題だらけということになります。不正を働かないで、他人に役に立つようなプロセスを重視した行動が、大きな幸福をもたらすということだと思います。
2020.12.22
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私は高校生の時、世界史が好きにならなかった。日本史と違って範囲が多すぎる。主な出来事と年代を覚えるというのは苦痛であった。こんなことを暗記して何の役に立つのだろうかと思っていた。現在は、20世紀初頭からの世界史の学習に大変興味がある。20世紀は戦争の歴史だといわれている。第一次世界大戦、第二次世界大戦が起きた。このいきさつを学ぶことは、これからの世界の動向を考えるうえで欠かせない。どんどん興味が湧いてきて、真相がどんどん明らかになっていく。現代の政治、経済、金融、外交、国防などは、世界の歴史を踏まえて議論する必要があると感じている。これは元大使の馬渕睦夫氏の影響が大きい。馬渕さんは京都大学卒業後、外務省に入られ、世界各国の大使を務められた。その後大学で教鞭をとられ、現在は外交政治評論家として活躍されている。特にyou tubeでの説明は具体的で真実を明らかにされている。推薦図書として、「国際ニュースの読み方」(マガジンハウス)を紹介しておきたい。馬渕さんは、歴史を学ぶときは、目の付け所が大切であるといわれている。表面的な出来事を見ていただけでは、紛争や戦争がなぜ起こったのかは分からない。また、世界史を研究する場合、真相が捻じ曲げられてものを教科書として採用すると、真実の歴史からはかけ離れていく。捏造された世界史からは、決して将来は見えてこない。森田でいう、ほんとの真実を知ろうとする態度を持ち続ける人が、現代社会の問題点にたどり着く。馬渕さんは、紛争や戦争は、それを意図している人たちが必ずいるという。紛争や戦争を起こして、利益を得ようとしている人たちが、その背後に必ずいるという。それを踏まえないと歴史解釈を見誤るという。そういう勢力は、すでに政治、司法、経済、金融、マスコミを抑えている。莫大な金と権力を持って、影で政府に働きかけ、政治・経済・金融を操っている。いわゆる、ウォール街の国際金融資本家のことであるといわれている。馬渕さんは、その勢力のことをディープステートと呼んでおられます。アメリカを支配してきた歴史は長い。それと今やそれに代わり中国が覇権奪取を狙っているという。そのうちアメリカにとって代わる時代が来るかもしれないと警鐘を鳴らしておられます。この勢力は、自分たちの果てしない欲望や野望を満たすために、日夜世界中で活動している。国家という枠組みを無くして、自由な経済社会を実現して、できるだけ多くの利益をわがものにしようとしているのです。そこには、人民、国民、国家の幸せを追求するという考えはない。そういう人たちの犠牲の上に自分たちの利益は成就されるという考え方なのです。その手段として、世界各国に対して、軍事力を背景にして、外交圧力をかけ、グローバル化、自由貿易、規制緩和、民営化を推し進めようとする。思い通りにならない時には、国内で対立関係を作り出して、内戦、紛争、戦争を仕掛ける。そのために経済的な援助、武器の供与などは糸目をつけない。場合によっては、紛争を激化させるために、対立関係にある双方に援助して戦わせる。そこで人民の解放を掲げて、使命感をもって戦っている人たちは、ピエロを演じているようなものだ。実に巧妙なのだ。だから世界史の真実に迫る必要があるのだ。相手国を破壊した後、自由と民主化と称して堂々と乗り込んで、利権を食い尽くしていくのです。外資の餌食とされてしまうのです。それが彼らの狙いなのです。世界の歴史は、悲しいことですが、それが繰り返されてきたのです。そこでいつも犠牲になるのは、何も知らされないで、紛争に振り回される一般の国民なのです。その証拠に北アフリカなどでは、「アラブの春」で民主化されたはずなのに、国民はますます苦しい生活を送っているのです。そういう視点を明確にして、国際問題を紐解いていくと、とてもよく理解できるのです。そして、これからどういう世界を目指してゆくべきなのかが見えてくる。人間の尊厳、人間関係の在り方、国家の在り方、国家間の付き合い方が見えてくる。そういう意味では、アメリカの大統領選挙の行方は大変興味がある。トランプ大統領はマスコミによって大いに誤解されているが、ディープステートに対抗している初めての大統領だということが分かるようになった。それで反対勢力のなりふり構わない抵抗を受けているのです。この選挙は、トランプ氏が最初は有利といわれていたが、どうも雲行きが怪しくなった。もしかするとするとバイデン候補に敗れるかもしれない。日本ではすでにバイデン氏の勝利が既成の事実として報道されている。しかしアメリカでは、ドミニオン社の集計マシーンによる票の付け替え、郵便投票による不正等がネット上で大いに報道されており、国内が大混乱に陥っています。アメリカの三大ネットワークは、ディープステートによって抑えられているので、不正選挙のことはほとんど報道されないのです。テレビだけ見ていては真実を隠蔽されているので全く分からない構造になっているのだ。今はかろうじて真実はネットの世界で飛び交っているのです。日本でも興味や関心がない人は、捻じ曲げられた情報を鵜呑みにしている。今やyou tubeなどで、事実を丹念に伝えている情報が唯一のたよりとなっている。それは真実を捻じ曲げたいという勢力が圧倒的なのでどうすることもできないのです。大統領選挙をウォッチしていて、真実を知るということは、相当な努力がいることが分かった。森田では事実、現実、現状を正確につかむために、人の話を鵜呑みにしない。先入観や思い込みで判断しない。自ら実際に現地に出向く。自分で実験をして真実を確かめる。両面観で反対意見もよく聞いてみることなどが大切であることを学んだ。そうしないと誤った情報操作によって事実とはまるで違ったことを信じ込まされるようになるのだ。そうした洗脳教育や報道が堂々となされているのです。それは自分たちの生活だけではなく、私たちの子孫に対しても惨禍をもたらすことになる。真実が明らかにされて、アメリカ国民の民意が反映されることを願ってやまない。
2020.12.21
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私たちは時間やお金を投入し、目的を持って心身を動かす場合、何らかの見返りや成果を期待しています。果実を受け取ることを当然のことと考えています。しかし目的達成に至らないことの方が多いのが現実です。障害や壁がその目的の達成を阻んでいるからです。もし失敗すると、投入した時間やお金は無駄になってしまいます。下手をすれば、損失を抱えてしまうことになります。財産をすべて失うこともあります。エネルギーを消耗して疲れ果ててしまいます。手を出さなければよかったと思うことはたくさんあります。さらに悪いことに、自分を否定して責めてしまうことにもなります。そういったことが度重なると、取り組むべき課題や問題、目標があってもリスクを冒してまで挑戦しようとしなくなります。もし失敗したら自己責任になります。自己責任を負うことはなるべく避けたい。それらを引き受けることは、あまりにもリスクが多くメリットがないと考えてしまいます。時間やお金の無駄使い、エネルギーの消耗、損失、ミスや失敗が予想されることにはなるべく手をださないように気を付けよう。その方が自分の身を守るためには大切なのだと考えてしまう。現状に甘んじた生活は、やりがいもなく、刺激に乏しいが、事態がこれ以上悪くなることは避けることができます。そこで専守防衛に徹する。ここはひとつおとなしくして静観することにしようと考えるわけです。頭の中でシュミレーションを繰り返して、成功間違いなしと確信を持てたときだけ手を付けようと考えるようになります。このように考えて行動するメリットは何でしょうか。1、ミスや失敗、お金や時間の無駄使いがなくなります。無駄なエネルギーを消耗しません。2、リスクを取って挑戦しないので、うまくいかなかったときに不快な感情が襲ってきますが、嫌な思いをしなくて済みます。ではデメリットなんでしょうか。1、目的、課題、目標、夢に向かって運命を切り開いていくという、人間本来の生き方はできなくなります。味気ない、無為の人生を送ることになります。2、障害や壁を乗り越えていくと、いずれ目標を達成することが多くなる。そして大きな果実を手にする可能性があるのですが、このやり方ではその果実を手にすることはできません。また達成感や充実感も味わうことができません。自信もつけることができません。人生が縮小再生産に向かうことになります。私は集談会で、3000回の失敗や挫折を経験した人が一人前の立派な大人に成長していくのだと聞きました。失敗をすることが恥ずかしい。恐い。何とか回避したいと思って行動を自粛していると、精神状態は幼児のままで身体だけが大きくなる。バランスの悪い人間になってしまう。だからなるべく早めに3000回の失敗を達成しましょう。その数をメモして集計しましょう。そして目的を達成した暁には、目標を達成したお祝いを盛大に執り行いましょう。それは子供から大人へと成長した証になるのですからと聞きました。この話は役に立ちました。無駄な行動の経験の積み重ねが、知らず知らず自分という人間の器を大きくしてくれているということです。だから無駄なことを最初から切り捨ててはいけないのだと思います。それよりもミスや失敗は大いに喜んで、自分を励ました方がよいのです。プロ野球の選手で1億円以上を稼ぐ一流バッターでも、3割程度くらいしかヒットを打てていない。つまり半分以上の7割は失敗を積み重ねている。我々の言う見返りや成果とは無縁なことに手を出しているということです。無駄と言えば無駄なことをしているのですが、でもそれを無駄なことをしているとは言わない。無駄なことを積み重ねるというリスクを引き受けないと、絶対に3割打者にはなれない。それはミスや失敗によって、成功の秘訣を徐々に身に着けているからです。巨人の丸選手は凡打してベンチに戻ってくると、ノートになにやらメモをしている。凡打は凡打で終わらせない。凡打の中から次の成功につながるヒントをつかみ取るという強い意志を感じる。この姿勢が大事なのだと思います。無駄と思える行動に積極的に取り組むことが、成功への近道かも知れない。私たちも大局的に考えて、無駄の効用を再認識したいものです。
2020.12.20
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「いい加減」という言葉は否定的に使われることが多い。しかし森田理論では、バランスや調和という観点から「いい加減」を目指しているとも言える。今日はそのことを考えてみたい。「いい加減なことを言うな」という発言は、事実に基づかないで、先入観や思い込みで発言することは慎みましょうということです。事実誤認による間違いがやたらと多くなると困ります。事実の確認をきちんととった上で発言してくださいということになります。「いい加減な人」とは、思慮が浅く、信念がない。一貫性がない人のことをいいます。あるいは時間やお金にルーズで、約束を守らない人のことである。何事に対しても、中途半端で、すぐに他人の意見に流される人のことだ。これらは、「いい加減」という言葉がすべて否定的な意味合いで使われています。では次のようなケースはどうでしょうか。「いい加減」という言葉が、全く違う使い方をされる場合があるのです。お母さんが兄弟げんかをしている子供に対して、「あんたたち、いい加減にしなさいよ」と叱ることがあります。兄弟げんかが激しさを増して、罵りあい、手足をだすようになった時に、「言い過ぎ、やりすぎ」になっていますよと警告しているのです。程よいところでやめておきなさいよと注意喚起を促す言葉になっています。また、「お風呂のお湯加減はどうですか」という場合は、熱くもなく、冷たくもなく、ちょうどよいお湯加減になっていますかと尋ねています。適当なお湯加減でないと差しさわりがあるからです。あまりにも熱すぎる場合は、お湯につかり体を温めることができません。ぬる過ぎる場合は、風邪をひいてしまうかもしれません。これらの使い方は、やりすぎはいけません。二人とも少し頭を冷やしなさいと促しています。お風呂のお湯は熱すぎれば水で温度を下げてください。ぬる過ぎればお湯を足してちょうど快適な温度に調整してくださいということになります。この場合は、「いい加減」という言葉が、決して否定的な意味合いで使われているわけではありませんね。この二つの背反する言葉の使い方はどのように理解すればよいのでしょうか。「いい加減な言動をとる」や「いい加減な人」という場合は、次のような特徴があります。まず事実を自分の目できちんと確かめたうえでの発言ではないということです。先入観や「かくあるべし」を振りかざした発言になっています。別の言葉でいうと、気分に振り回された発言になっています。つぎに、この手の人は、深い洞察力のあるものの見方・考え方をしていない。これらは単なる思いつきや他人から影響を受けて、「いいかげんな発言」になっています。この手の「いい加減さ」というのは、とても厄介です。問題が発生して、扱いにくい代物と言わざるを得ません。森田理論を学習している人は、こうした「いい加減な発言」は控えておられるのではないでしょうか。また、ドタキャンするような「いい加減な人」はあまりお目にかかりません。神経質の人は、まじめで責任感が強いのが特徴ですから、そういう「いい加減さ」はあまり問題にはならないのではないでしょうか。神経質で「いい加減さ」が問題なるのは別の意味合いがあります。神経質でエネルギーが外に向かってほとばしり出ている人は、その言動を「よい加減に調整する」ということが大切になります。こちらの方に注目した方がよいと思います。エネルギーが強い人というのは、森田理論でいう生の欲望の強い人のことです。こういう人はバランスや調和を意識した方がよいと思います。神経症の場合でいえば、不安に偏ってしまうと、簡単に神経症という蟻地獄に落ちてしまう。欲望と不安はコインの裏と表の関係にあります。欲望と不安は表裏一体です。森田では生の欲望を前面に押し出しながらも、不安を活用して調整する必要があるといいます。バランスや調和を意識する必要があるのです。神経症に陥った場合は、不安はとりあえず横において、欲望の方に焦点を当ててバランスを回復させる必要があるのです。このことを別の言葉でいうと、偏りを修正して、「ほどよい加減に調整する」ということになります。神経症に苦しんでいる時は、欲望過多あるいは不安過多に偏っています。これを「いい加減に戻す」をキーワードとして、バランス・調和を図ることがとても大事になるのです。
2020.12.19
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本来自信というものは、実践・行動によって、体で感じるものだと思います。実践・行動によって、事前に想定していた目標に到達した時、自信が生まれます。その過程では、うまくいかない事や失敗が出てきます。そこであきらめたり、挫折しては自信というものは生まれてきません。失敗や挫折を教訓にして、成功を目指す人が自信という宝物を手にすることができます。今まで歩けなかった赤ちゃんが歩けるようになるためには、何回も転んでいます。それでもあきらめないから、最後には難なく歩けるようになるのです。自転車に乗れなかった子供も何回も転んでいるうちに、バランス感覚を身に着けて自信をつけていきます。その積み重ねで、人間として成長していきます。自信が生まれると、うれしくなり、弾みがついてきます。それを足掛かりにして、また新たな目標を設定して、実践・行動したいという意欲が高まってきます。目標をもって行動することが人間の宿命だと思われます。その途中ではミスや失敗、乗り越えることが難しい壁が立ちはだかります。それを乗り越えようとするエネルギーや情熱が必要になります。気分本位になってすぐにあきらめるのは、その瞬間はホッとしますが、取り組む課題を喪失して無為の人生を余儀なくされます。森田先生は自信について次のように述べられています。気の勝った人は、一途に自分の欲望を見つめて奮闘し、意志薄弱の者は、少し骨の折れるような事には、すぐに中止してしまう。神経質はその中間にあって、欲望は捨てられず、一方には、自分の素質や力量を較量して、種々の迷いを起こし、それでも中止しきれないで、引きずられていくうちに、人並み以上に上達するという風になるのは、人間の種々の素質の模型的の成り行きであるのである。(森田全集 第5巻 607ページより引用)神経質者の特徴は、とりこし苦労が多くて、気の勝った人のように、すぐに実践・行動ができない。また意志薄弱者のように、すぐにその目標をあきらめることもできない。執着性が強いのが特徴です。そこでどうするかというと、頭の中で成功間違いなしという自信を付けようとする。観念上のシュミレーションを繰り返す。絶対に成功するという観念上の自信を持ったうえで、行動しようとする。しかしなかなか自分の思うような結果が出ない。そして自信をなくする。自分には到底無理だ。できないということになって、目標に挑戦する意欲を喪失する。このやり方は間違っているのです。これは自信が生まれるメカニズムが分かっていないということです。さらに間違った認識をしているために、右往左往しているのです。自信を得たいなら、実践・行動が不可欠である。頭の中で自信を作り上げる努力はほぼ失敗に終わる。ミスや失敗、思い通りにならない事は、成功へ近づくための貴重なヒントを与えてくれている。ミスや失敗は次の実践や行動に当たり、手を付けてはいけないこととして役立てないといけない。そのために反省、フィールドバック、教訓として生かすことが必須になるのです。そうしないと何度も同じミスや失敗を繰り返すことになる。執着性を活かして、粘り強く取り組んでいけば、高い確率で目標を達成できる。もし目標に到達できなくても、努力した時間は、充実感にあふれて、味わい深い時間を過ごしているはずである。
2020.12.18
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森田先生のお話です。「笑って青山を望めば、山もまた青く、泣いて碧水に臨めば、水もまた泣く」という句があるが、なかなか面白いではありませんか。世の中は万事、自分の心持によって、青い眼鏡をかけて見れば青く、赤い眼鏡では赤く見ゆるものです。また自国人の表情は、平常見慣れているから、微細な観察ができるが、異国人のは、それがよく分からない。私共は、西洋人の年齢なども、随分見違いのことが多い。また、近きを疎んじて、遠きにあこがれるということもある。自分の庭は、細かに埃が眼につくけれども、遠い山は、綺麗に見える。身近い人は、その欠点も、いやな忠告などもされるが、他人は欠点も見えず、親切らしく思われるという風である。この心理は神経質にもあるが、ヒステリーには、非常に著明に現れる。(森田全集 第5巻 602ページより引用)目の前の出来事や事実を色眼鏡をかけて見ると見間違いが発生するということだと思う。事実を十分に観察しないで、先入観、思い込み、決めつけなどでせっかちに理解してしまおうとする態度は問題が多いということである。そういう態度はよくないということは誰でも観念の上ではよくわかります。しかし実際には、事実に素直に向き合おうとしない人が後を絶たない。先入観や思い込みの裏には、誰でも今まで生きてきた経験をもとにして、自分独自のモノサシを持っており、その目盛りを押し当てて事実を計ろうとしているからである。この物差しは100人の人がいれば、100通りのモノサシがあるとは考えていない。みんな自分と同じの目盛りのついたモノサシを持っていると信じている。真実はみんな違うものの見方や考え方をしているということが分かっていないのである。そして、自分のモノサシ自体は、普遍性があり、正しいのだから、問題が起こるはずはないという身勝手な考え方をしている。その傲慢な態度が表面化すると、事実の取り扱いかたが軽視されることになります。事実に取り組む態度が甘くなるのです。するとしだいに真実とはかけ離れてしまう。人間は誰しも、事実を曖昧にして、勝手な解釈で事実をつかんだと思い込みたいのである。真実を掴みたくはないのかもしれない。真実を掴むことが多少曖昧になっても、早く判断して、対策を立てて、実行に移さないと大変なことになると思ってしまう。これは大変大きな誤解で、その後の展開を悪化させる原因となっているのです。森田理論学習をすると、そのことがよく理解できるようになります。例えば、プロのピッチャーが150キロのストレートでバッターと勝負しようとしているのに、バッターが「ここはスライダーを投げてくるにほぼ間違いはない」と早々と決めつけて対応すると、振り遅れてバットは空を切ることになります。決めつけるのではなく、いくつかの仮説を立てて勝負しなければ、勝ち目はないと思います。間違った先入観、決めつけ、思い込みからの行動は、最初から失敗を誘発して、問題を表面化させることが目に見えています。私たちはぎりぎりまで事実を見極めるという態度を崩してはならないということだと思います。事実を見極めようとしている人は、ギリギリのところで正しい行動の選択を発揮できるようになるのではないでしょうか。事実を無視する人は、無駄なことにエネルギーを投入している。また、他人との軋轢を生みだして、人間関係の悪化に拍車をかけているように思えてならない。よく犬猿の仲といって、犬も食わない人間関係で苦しんでいる人がいるが、最初は事実を軽視するというボタンの掛け違いが、思いもかけない巨大な溝となって立ちはだかってきたのである。こうならないためにも、森田理論を理解した人は、事実にこだわった生活を目指してもらいたいものです。
2020.12.17
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森田先生のお話です。ここで皆さんに十分注意してもらいたい事は、自分自身を、そのあるがままに認めることです。自分は5尺何寸であるとか、体重は幾貫目とか、貧乏に生まれたものとか、人前では、ぎこちなるもの、自分は小人であって、飾り・言い訳し・取りつくろいたくなるものとか、何かにつけて、利害得失に迷い惑うものなど、素直にそのまま、正直に認めておくことです。(森田全集 第5巻 600ページより引用)いくら頭が禿げていても、アデランスしたり、植毛してはいけないということです。顔の形が悪いとか顔にほくろがあると言っても、手術はしないほうがよいということです。背が低いのを少しでも高く見せるためにもシークレットブーツを履いてごまかしてはいけない。太ってきたのをごまかすために脂肪吸引をしてはいけない。コルセットで締め付けてごまかしてもいけない。学歴詐称をしてはいけない。税務申告をごまかしてもいけない。仕事でミスや失敗したのに、言い訳をしてはいけない。ごまかして何も問題なかったかのように隠蔽工作をしてもいけない。他人に責任転嫁をしてもいけない。事実を無視する、否定する、敵対視する、ごまかす、捻じ曲げる、責任回避するなどということは、百害あって一利なしといわれているのです。本人はうまく隠し通したとしても、第三者は真実をよく見抜いているものです。それは夜、灯を付けてある部屋の様子は何となくわかりますが、中から外にいる人のことは全く分からないのと同じことです。事実をうまく隠すことで評価されることはありません。反対に、あの人は何かにつけて、事実をごまかす人だから、常に監視を怠ってはいけないと警戒されるようになります。事実をごまかす人は人格に問題があって、信用できないと思われているのです。こうなると親密な人間関係に発展することはないでしょう。自分欠点、弱点、ミス、失敗を堂々と公開している人の周りには、人が集まってきます。例えば学校で平均点よりはるかに低い点数を取ったとします。その採点用紙を周りの人に隠すことなく公開できる人は、それだけで人気が高い人です。不本意な事実をごまかすことなく、事実のままに受け入れることができることは、一つの素晴らしい能力を兼ね備えていると考えられます。これはあまりエネルギーを使わなくても、実行可能なのですが、これに積極的に取り組もうとする人が少ないのが現状です。残念なことです。森田理論は、ここに焦点をあてて、この能力を獲得しましょうという理論なのです。事実を受けいれることは、磁石のプラスの極に、マイナスの磁石が自然にくっつくようなものです。放っておいても、自然にそうなります。もし自分の欠点、弱点、ミス、失敗が公になると、周りの人から嫌われて、自分の居場所がなくなるはずだと考えているとすれば、大きな誤解をしているということになります。その誤解をもって生活している人が、圧倒的に多いのではないかと思われます。どんなに不都合な事実であっても、事実を事実のままに認めて受け入れることができれば、精神的には楽になれます。理想的な観念と事実の差を埋めて、理想に近づこうとしなくなるからです。無駄なエネルギーを使うことがなくなります。葛藤や苦悩の発生がなくなり、エネルギーの効率がとてもよくなります。その現実やからくりを森田理論でよく学習して、事実本位の態度を身につけ実行すれば、人生90年時代を心穏やかに過ごすことが可能となます。一朝一夕で獲得できるようなものではありませんが、その方向に向かっているかどうかが肝心です。
2020.12.16
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私は自助組織生活の発見会の会員で、集談会で森田理論の学習をしている方に、次のことを提案したい。プログラムの中に体験交流というのがあります。5人程度の少人数に分かれて、症状や生活上の問題点、森田理論の応用や活用方法などを話し合っています。これを利用して、人間関係のコツを身につけるというものです。前提としては、家にいる時に体験交流で話す内容を必ず準備してくる。時間は5分から10分ぐらいです。具体的な内容であることが望ましい。次に進行係は、体験交流の時間を把握して、一人当たりの持ち時間を決める。全員に順番に話してもらうために、時間になったら次の人に移る。準備不足でほとんど話さない人がいるのは実に残念だ。自分に問題があるか、進行係に問題がある。次に進行中に心掛けることを挙げたみたい。・相手が話している時は、途中で相手の話をさえぎらない。・参加者全員が相手の話に集中する。隣の人と勝手な話はしない。・相手の話は、あいづちをうちながら聞く。・相手が話し終わったとき、批判、否定、反論、論評などは絶対に慎むようにする。・相手の症状、現状、現実、事実をまるごと受け入れることに徹する。ここでは「オーム返し」という手法が有効です。・相手の話に対して、「よく分かります。自分もそうだったから」と安易な同情はしない。安易に同情すると、それ以上に相手のことを理解しようとする気持ちがなくなるからです。相手のことをもっとわかりたい、理解したいという気持ちを持ち続けることが大切です。・基本的には相手の神経症、困っていることなどを自分の力で解決してあげようとしない。森田理論を教えてあげようという気持ちは抑える。森田的な考え方を気づかせてあげようなどという気持ちは封印する。つまり、指導してあげる、教えてあげる、解決してあげる、苦しみを取り除いてあげる、楽にしてあげるという気持ちを前面に出さない。小さな親切、大きなおせっかいを肝に銘じておく。森田理論の神髄は、人から教えてもらって身に付くものではない。自分自らが学習し、実践してつかみ取っていくものだからです。そのようなことをしても、相手に対してはほとんど役に立つことがない。アドバイスは謙虚であることを心掛けた方が相手のためになる。しいて言えば、相手がどん底にいてもがいている時に、アドバイスを求めてきたときに行う。それも、「自分の場合はこうでしたよ」という程度にしておく。つぎに、家に帰ってから体験交流をふり返ってみることが有効です。これらのチェック項目は厳守できていたかどうかです。できていなければ、反省して、次回の課題として取り組むようにします。また体験交流の最後で、みんなで今日の体験交流の問題点や課題を一言ずつ話し合う時間を作ることも有効です。これらが体験交流の場できちんとできるようになると、職場、家庭、学校、隣近所、親戚、友達関係の場で同じようなことができるようになります。これが森田理論を仕事場や実生活に応用するということなのです。対立関係にあった人間関係が徐々に解決していくでしょう。
2020.12.15
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森田先生のお話です。まず私の自覚について、一例をあげてみれば、私にとっては死ということは、いかなる場合、いかなる条件にも、常に必ず絶対的に恐ろしいものである。私はたとえ私が125歳まで生きたとしても、そのときに死が恐ろしくなくなることは、決してないということを予言することができる。私は少年時代から40歳頃までは、死を恐れないように思う工夫をずいぶんやってきたけれども、「死は恐れざるを得ず」ということを明らかに知って後は、そのようなむだ骨折りをやめてしまったのであります。(森田全集 第5巻 113ページ)誰でも死は恐ろしい。死の瞬間は息もできなくなって苦しむのではないか。ガンやくも膜下出血などでは、耐えがたい痛みが出てくるのではないか。飛行機の墜落、自動車事故、戦争などでの死は考えただけでも身震いする。この世から自分が完全にいなくなってしまうというやるせない気持ちも湧き上がってくる。でも死は避けられない。どう対応すればよいのか。人は穏やかで安らかな死を迎えるために、さまざまなやりくりをする。安楽死を考える人もいる。苦しまないためにモルヒネを打ってもらいたいと考える人もいる。あるいは精神を鍛えて、死を恐れない人間になろうとする人もいる。宗教などに救いを求める人もいる。来世に生まれ変わることを心の支えにして、死を乗り越えたいと思う人もいる。なんとか死の苦しみから逃れるために、色々とやりくりをしているのだが、確信にまで至ることは極めて難しい。森田先生は、「死が恐ろしい」という感情は誰もが持つ自然な感情である。自然な感情は、人間の意志の力で操作することは不可能である。死に対して心身を鍛えたり、救いを求める行動は、精神交互作用により、ますます自分を苦しめていく。自分にできることは、「死が恐ろしい」という感情を素直に認めて受け入れることである。感情の事実に抵抗しないで、その恐怖の感情に浸りきってしまう方法を勧められているのである。 「死が恐ろしい」という感情を無条件に受け入れると、なんだか自分が敗北してみじめになるような気がする。森田理論で考えていることはそうではないのです。不安、恐怖、違和感、不快感などに抵抗することをやめるということは、事実唯真の世界に入るということになるのです。不安などと過度なかかわりを持たなくなるということは、事実本位の世界に自分の立ち位置を決めるということになるのです。この部分が重要なのです。事実本位の世界は、不安をやりくりする必要がなくなる。「かくあるべし」という観念中心の世界からも解放されていく。今、現在、現実、現状の世界にしっかりとした足場を築き、これから柱を組み込んで家を建てていくという作業に入ることができるようになるのです。その基礎ができていない状態、例えば砂地に家を建てるとどうなるか。波に洗われ、大雨でいとも簡単に壊れてしまいます。自然現象である不快な感情をやりくりするということは、このことを言っているのです。ここで大切なことは、「死が恐ろしい」という感情の事実を受けいれるということは、生の欲望の発揮に向かって行動が開始できるという分岐点になっているということです。反対に「死が恐ろしい」という感情にとらわれている状態は、目の前の日常茶飯事、課題、目標、夢や希望に視線が向かっていないということです。森田理論は「生の欲望の発揮」をことさら重要視しています。「努力即幸福」という言葉かありますが、生の欲望の発揮に邁進している状態が、人間が一番活き活きとしているのだと教えてくれているのです。
2020.12.14
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中国新聞の11月1日の記事に次のようなものがあった。大阪大学のM教授らの調査によれば、「コロナウィルスの感染は自業自得だと思う」と答えた人の割合は、米国では1%だったのに対し、日本では11.5%もいたという。逆に「コロナウィルスへの感染は自己責任ではないと思う」と質問した場合、外国人は60~70%の人がその通りだと答えていた。日本人では29.25%だったという。これが何を意味するのかを考えてみたいと思います。日本ではコロナウィルスへの感染の防止のためには、自らの力で万全を期してくださいということになります。基本的には、国民の総意として、コロナウィルス感染は自業自得ということです。国や地方公共団体は感染防止のために、自宅待機、リモートでの仕事や授業の推進、移動禁止措置、業務自粛の要請を行います。コロナウィルス感染拡大の防止のためです。ただし、それらに応じた人たちに対して、手厚い粗利補償、生活保障は行いません。廃業や倒産する個人商店や中小企業が発生しても、それは運が悪かったとあきらめてくださいということになるのです。日本の銀行は以前は護送船団方式といって、つぶれる銀行は他の銀行が手を差し伸べて絶対につぶさないという方針を持っていました。つまり助けあい、相互扶助の精神が貫徹されていたのです。企業でも、終身雇用制で個人の生活を生涯にわたって守っていくというのが日本の良さでもあったのです。会社に入ることは、愛社精神をもって、家族の一員になる事だったのです。田舎では、共同体としての活動が自分たちの生活を守るという側面がありました。治水、水利利用権、農作業、屋根の吹き替え、山野の保全、葬儀、子育てなどは地域全体が協力し合っていました。現在は自由で束縛のない社会、経済、生活への要請にこたえて、助け合い、相互扶助、共同体の維持という日本式の精神はほぼ解体されました。田舎でさえも、隣近所の人とは人間関係は希薄になっています。自己の責任で他人に迷惑をかけないようにして、自由自在に好きなことに取り組んでください。葬儀も葬儀会社に頼んで行ってください。焼香にだけは行きますからという風潮です。これでは都会のマンション暮らしと変わりません。マンション暮らしで隣の人とかかわるのは、騒音、ごみ処理などの迷惑行為があった場合に限られています。今や多くの人が横の人間関係を断ち、個人の殻に立てこもって生活するようになりました。その生活を破壊する場合には、激しく抵抗を見せる。それ以外は「隣の人は何をする人ぞ」というスタンスで、基本的には無関心を装います。こういう殺伐とした生活を益々加速させる社会になろうとしています。最後には人間が人間を騙し、攻撃する社会に変貌しつつあるように感じています。「今だけ、金だけ、自分だけ」という閉塞的な社会になりつつあります。そういう目的を持って行動している人たちを、常にウォッチしていないといつの間にか取り込まれて抜け出すことができなくなる。自分の生活がどんどん破壊されてしまう。常に後ろを警戒していないと、いつ襲われるかもしれないという社会が目の前にまで迫っているのです。群れる事を忌み嫌う人間に将来はあるのでしょうか。多くの人が森田理論を学習することで、人間関係の在り方を見直してほしいものです。
2020.12.13
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森田理論で「あるがまま」の内容を学習すると、不安、恐怖、違和感、不快感、症状などを、そのまま受け入れよう、あるいは放任しようと考えるようになります。しかし、受容し、放任しようと努力すればするほど、受容も放任もできない。「症状」が強くなって、苦悩は深まるばかりである。ますます、なすべきをなすという実行にふみきれない。対人恐怖の例でいえば、人に会うまえの不安、緊張感を受けいれよう、あるいはそれを「放任」しようとつとめればつとめるほど不安と緊張感が強まってくる。いよいよ会うのが苦しくなって、なんとか会わないですむことを考えるといったように、逃避的になり、「なすべきをなす」という実行から遠ざかってしまうのである。森田先生は感情の法則第4で、「感情は、注意をこれに集中するとき、ますます強くなる」ということを指摘されている。不安、緊張感を受けいれよう、あるいは放任しようとつとめることは、これを排斥するのと同様に、注意を不安、緊張感に集中することになり、不安、緊張感を強める結果になるのである。森田療法では、このように、「こうしたい」という思想とその結果(事実)とが反対になり、矛盾することを「思想の矛盾」といい、この注意と感情・感覚の悪循環を「精神の交互作用」といって、そこに神経質症状発生の主要なからくりをみるのである。(生活の発見誌 11月号 長谷川洋三 20ページより引用)不安はそのまま持ちこたえて、目の前のなすべきことに取り組む態度が「あるがまま」である。それで神経症が克服できるのなら、そうしてみようと思って実践・行動に取り組んでいては神経症は治らない。むしろ神経症はますますひどくなっていくのが真実だということです。最初は森田理論を理解して、そのような気持ちで実践・行動しても構いません。今まで不安、恐怖、違和感、不快感と格闘してばかりの状態から見ると事態は好転しています。また、気分本位になり逃げ回っていた状態からみると進歩しています。目の前のなすべきことに多少なりとも意識や注意が向いてきたというところが評価できるのです。ところが少し楽になった時に、そこに胡坐をかいていては、奈落の底に突き落とされてしまう。さらに言えば、神経症がどんどん増悪してしまうという面も併せて学習することが大切です。その悪循環を断ち切る方法は何か。目の前のなすべきことに対して、一心不乱になって取り組むということです。一時でもそうなれば、その時症状を治すとか治さないとかは蚊帳の外になっているはずです。それを別の言い方でいうと、生活の必要に応じて、必要なことに、必要なだけ取り組んでいるということになります。観念の世界にどっぷりと漬かっていた状態から、物事本位の態度に切り替わっているということになります。森田先生の言葉に、「ものそのものになってみよ、天地万物すべて我がもの」というのがあります。最初は神経症を治すための実践・行動でも構いません。しかしいつまでも、症状の改善を目的とした実践・行動は、百害あって一利なしということです。実践・行動のレベルを一段階レベルアップすることが欠かせないのです。そのキーワードが、「ものそのものになりきる」ということになります。その数を増やしていく姿勢が大切になってくるのです。
2020.12.12
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森田先生のお話です。苦しい事は誰も苦しいというのを平等観と言います。ただ自分一人が、特別に苦しくて、他の人はみな平気であるという風に考えるのを差別観と言います。神経質は自己中心のために、なかなかこの平等観の修養ができにくいのであります。(森田全集第5巻 572ページより引用)この自己中心については次のように説明されています。神経質は船酔いも・疲労・足痛も・勉強して頭がぼんやりすることも、みな自分独りの異常・病的の事と独断し、誰もみな同様であるという事の思いやりはなく、すべて自己中心的のわがままの判断になり、したがって人をうらやみ・自分をかこち・世を呪うということにもなるのである。(森田全集第5巻 567ページより引用)私が考える平等観は、人間には耳や目は2つある。鼻や口は一つである。手や足は2本ずつある。内臓としては心臓や胃や肝臓や膵臓は1つしかない。肺や腎臓は2つずつついている。それを認識して、ははあ、人間というのは基本的には同じような体つきになっているのだなと考えることを平等観という。富士山を飛行機から眺めて、きれいな円錐形をしているのだなと認識するようなものです。いずれにしろ細かいことは言わない。遠目で大局的に見て、同じように見えれば、同じくくりとして考えるのを平等観という。これに対して差別観という考えはどんなものなのか。顔かたちが同じというのはおかしい。イケメンもいれば美人もいるではないか。3枚目の人もいれば、美人でない人もいる。頭の回転のいい人もいれば、悪い人もいる。性格も違えば、運動能力の違いもある。それを遠目に見て、数や機能が同じだから、同じと取り扱うことは、あまりにもおおざっぱすぎるのではないか。もしろ、その微妙な違いをことさら比較し、良し悪しの評価をしている状態にある。他人と比較して良いと判断すれば優越感を持つ。悪いと判断すれば劣等感で苦しむ。差別観にどっぷりつかりながら、我々人間は生きているのだという考え方です。それを無視して平等観を持てというのは、机上の空論に過ぎない。この考えを推し進めていくと、森全体を見ることを忘れて、いきなり森の中に入り木々を観察するような事になります。森田理論のキーワードの解説はできるが、横のつながりは考えることが少ない。この考え方で森田理論学習に取り組むことは弊害が多いと考えています。こうした態度はつい学習目的を見失うことになりやすい。人生観を確立するという目的を達成するためには、森田理論全体像を時々頭に思い浮かべながら、学習に取り組むことをお勧めしています。ただ、自分と他人の違い、日本人と外国人の違いを明確に分析することは必要だと考えています。これは事実を事実のままに見つめるということです。違いが分かれば次にどのように対応すればよいのかという出発点に立つことができます。事実確認が不十分ということは、観念によって、まちがった対応に手を染めていくことになります。事実を正確に判断するために、比較対照はとても役に立ちます。ところが、比較した後に、早計に是非善悪の価値判断を下すのが人間の習性です。つまり、自分では気づかないうちに、事実本位の立場を忘れて、「かくあるべし」の世界に入ってしまうのです。これが葛藤や苦悩の原因を作り出しているのだと思われます。最初はちょっとした違いですが、後には取り返しのつかない大きな差となって表面化してきます。
2020.12.11
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高良武久先生のお話です。「あるがまま」の第一の要点は、症状あるいはそれにともなう苦悩、不安を素直に認め、それに抵抗したり、否定したり、あるいはごまかしたり、回避したりしないで、そのまま受け入れることである。第二の要点は、症状をそのまま受け入れながら、しかも患者が本来持っている生の欲望にのって建設的に行動することで、ここが単なるあきらめとは異なるところである。症状に対してもあるがままであるとともに「向上発展の欲望」にたいしても、あるがままなのである。(森田療法のすすめ 講談社 124ページより引用)青木薫久先生は、第一の要点を「受動的側面」、第二の要点を「能動的側面」といわれています。そして「能動的側面」のほうがより大事であるといわれています。「あるがまま」という言葉には2つの要点がある事は間違いない思います。まず不安、恐怖、違和感、不快感をそのまま受け入れるという側面があります。それを取り除こうとし、逃げまくるというような態度で対決しないということです。不安共存の態度です。そういう状態を堅持したうえで、第2の要点は、日常茶飯事、家事、仕事、勉強、子育て、介護、趣味などに真剣に取り組みましょうということです。ここで私が違和感をもつのは、この2つの要点を対立的に捉えられているということです。第1の要点を身につけた上で、第2の要点に取り組みましょうという点です。また第一の要点よりも、第2の要点の方が重要ですといわれているように感じるのです。この指摘を見誤らないようにしてくださいと言われている点です。好意的に考えると、分かりやすく説明するために、便宜的に分けて考えられているのかなと思います。しかし別々のものとして取り扱うと、実生活には役に立たなくなる。私の考えは、不安と欲望はあざなえる縄のようなものであると思っています。ですから対立的に捉えるよりも、この2つは密接な相関関係があるという考えです。その2つの調和させて、いかにバランスを維持していくのかにエネルギーを投入していくべきであると考えているのです。不安は生命の安全を確保するうえでなくてはならないものです。不安を感じることで、ミスや失敗を未然に防ぐことができます。また不安を感じることで、欲望の暴走を制御しているという側面もあります。つまり、不安は私たちの生活の中で大いに活用していくべきものだということです。これは不安をただ単に受け入れるというよりは、むしろ不安が元々持っている役割を積極的に評価して、生活の中で活かしていくべきだということです。この不安の役割と生の欲望の発揮との関係性はどうなっているのか。これは自動車のアクセルとブレーキの関係で考えると分かりやすいです。目的地に行くためには、アクセルを踏み込んで車を走行させることが前提になります。そうしないと、そこにとどまったままになります。つまり生の欲望の発揮がなければ、何も始まらないということです。ストレスが溜まり、無為の人生で終止符を打つということになります。では何も考えないでアクセルを踏み続けるだけでよいのでしょうか。信号無視をする。坂道や急カーブでアクセルを踏み続けてもよいのでしょうか。そんなことをすれば、自分の生命の安全は確保できません。他人を巻き込んで大惨事を引き起こします。つまり状況に応じて、ブレーキを適宜踏み込んで、事故を未然防ぐ必要があるのです。私はこのブログでサーカスの綱渡り、ヤジロベイの話を何回も取り上げてきました。不安と欲望は、それぞれを単独で取り上げて問題視するという態度ではダメなのです。相対性原理を視野に入れて、2つをいかに調和、バランスさせていくか。そこにきちんと焦点が当たっていないと、混迷の度を深めるばかりであると考えているのです。森田理論全体像の中では、不安と欲望のバランスの維持というテーマは、東の横綱にあたると考えています。それほど森田理論の核になる考え方です。ちなみに、西の横綱は、どんな状況に陥ろうとも、事実を大切にして、事実から出発するという態度を身につけることです。ここで声を大にして言いたいことは、不安と欲望を別々のテーマとして取り上げるのではなく、一つのテーマとして取り上げましょうということなのです。
2020.12.10
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森田理論の神髄を一言でいうと「あるがまま」だという人が多い。確かにそのとおりであると思う。あるがままというのは、不安や恐怖、違和感、不快感、その他神経症の症状は、そのままあるがままに受け入れて、なすべきことをなしていくという態度のことである。このキーワードが独り歩きすると、説明不足になって、誤解を生みやすいという弊害もある。「あるがまま」については次のような間違った解釈が行われる。1、あきらめに近い心境を意味する言葉として受け止められている。2、あるがままでいいのだ、無理に自分の感情を抑え込んではいけないのだといった、気分本位を肯定する言葉として受け止めている人もいる。あきらめや気分本位の態度は、あるがままの意味するところではない。気分本位というのは、目の前のやるべきことや一旦は取り組んでみようと思ったことに対して、ふと沸き上がった不安や面倒なことはしたくないという怠惰な感情に振り回されて回避する態度のことである。この感情をもとに行動する人は、他の動物と何ら変わりはない。好きな時に好きなものを食べて、好きなところに行き、好きなように寝てしまうという根無し草のような生活になる。危険回避の行動が中心となるので、生活がより良い方向に進んでいかなくなる。暇を持て余すことが多くなり、人生にむなしさを感じるようになる。その最たる人が、平気でドタキャンを繰り返す人である。本人ももやもやしているだろうが、周囲に悪影響を振りまいている。しかし本人はその認識が希薄で、その後何回も繰り返している。気分本位の人は、それがその人の気質となっているので、本人一人の力では改善できないと思う。そういう人は親、配偶者、友人、集談会の仲間を大事にすることだ。私は以前訪問営業をしていたが、また断られるのではないかという予期不安があるので、どうしても気分本位に流されてしまう。つまり仕事をさぼってしまうのだ。それに歯止めをかけるのに有効なのが、同僚との同伴営業だった。つまり第三者の目があると、安易に気分本位になれない。強力な抑止力が働くのである。人間はこの世に生まれると、最後には必ず死が待っている。それをもって、人生ははかないものだと言う人もいる。何をやっても、最後には死んでしまうのだから、挑戦しても意味がない。無駄だ。そんなことにエネルギーを使うよりも、刺激的、刹那的、快楽追及的な生活をすれば十分ではありませんかという人もいる。あるいは、どんな悪事を働いても、死んでしまえば、免罪されるのだという人もいる。人を虫けらのように扱い、自然破壊を繰り返してしまう人もいる。これに対して、人生絶対に諦めたらイカンという人もいる。夢や目標や課題を持って、挑戦し続けていきたいという人もいる。人間は遊ぶために生まれてきたのだ。みんな仲良く人生を楽しみたいという人もいる。縁あって、人類の歴史の一コマに参画させてもらった。偶然とはいえ、こういう機会はめったにある事ではない。この縁を大事にして、一つでも後世の人のために、役立つことを残したい。自分が生きてきたあかしを一つでも残してみたいと考える人もいる。どちらの生き方を選んだ方がいいのか。自ずと分かることですね。人生をネガティブで悲観的に捉えるよりも、肯定的で楽観的に捉えるほうがはるかに重要だと思います。自分の置かれた状況の中で、持てるものを最大限に活用して、生きがいを見出し、世のため人の為に尽くす方がはるかに尊い事です。もし死後の世界があるとすれば、神様はきっとそういう人を厚遇して持ち上げると思います。それと真反対の人は、高度に発達した脳を持った人間のような生命体としては処遇できない。動物以下でしか処遇できないと考えられるのではなかろうか。私たちはまたどこかの惑星に生命体として生まれてくる可能性は非常に高いと思われます。そう考えると、太陽系第3惑星地球に生を受けたこの縁を大事にして、精いっぱい生きていきたいと考えています。
2020.12.09
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ダイコン、ハクサイ、キャベツ、ジャガイモなどの収穫時期になりました。ダイコンの葉は炒め物や鍋の材料に使います。ダイコンの麹漬けは酒のつまみに最適です。この冬はダイコンやハクサイは買わなくて済みそうです。とても大きなものができました。今はタマネギ、ニンジン、エンドウなどが育っています。カボチャのマフィンがよかったので、今度はサツマイモのマフィンを作りました。とても甘くておいしかったです。柿、梅、栗、イチジクも大きくなってきました。花は水仙、チュウリップ、コスモスなどを植えています。田舎でのんびりと畑仕事をするのが楽しみになってきました。カラオケの練習をしながらの作業です。
2020.12.08
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形外会で森田先生の一番弟子といわれている古閑先生が次のように発言されている。我々の生活には、一つ一つの事に必ず良い方面と悪い方面とが相対的になっている。「善悪不離・苦楽共存」とかいうものである。その善い事にのみ目をつけて行けば、その日が好日、悪い事ばかりに目をつけて、良い方面に眼をつぶれば、日々が悪日であるかと思います。この意見に森田先生は異を唱えておられます。明るい方を見ればよいとか、暗い方を見れば悪いとか、そういう相対的なものではない。つまり自己批判や判断ではない。ただ「その日その日を生きているという事実」そのものである。良いも悪いもその時々に「なりきる」という絶対的の感じである。自己本来の面目である。(森田全集第5巻 559ページより引用)むずかしいところですがとても大切なところです。これだけでは何を言われようとしているのか分かりませんね。できる限り分かりやすく説明してみたいと思います。古閑先生は一つの事象を見た場合、それぞれの人が観念の世界で是非善悪の価値判断をしているという前提に立っておられます。良いとか悪いとか、その人なりの物差しを持って、価値判断を下しているのです。人間というのは、放っておくと、勝手に価値判断する生き物ですね。例えば神経質性格の人は、上司からの評価をとても気にします。そういうことに振り回されると精神状態が不安定になります。良い評価ならいいのですが、悪い評価をされるといつまでも気になります。こんなことが続くとストレスとなります。胃腸の調子にも影響してきます。こうなりますと、小さいことをいつまでもクヨクヨと気にする性格はよくないと判定してしまいます。自分の小さなことが気になるという性格をよくないと価値判断しているわけです。本来その価値判断は一面的すぎます。小さなことを気にする性格は感性が豊かであるというプラスの面もあります。古閑先生の考え方を推し進めていくと、プラスの面を活かしていけばよい。マイナス面は無視すればよいという考えになると思います。森田先生は、そもそも一つの事象を見て、是非善悪の価値判断することは問題であるといわれているのです。自然界には良いも悪いも存在しないということです。良い悪いというのは、その人のものさしで勝手にレッテル張りをしていることなのです。自然界には事実、現実、現状があるだけなのです。別の人が判定すればまるきり反対の評価が出てくることはよくある。ですから価値判断すること自体があまり意味がないのです。事実を是非善悪の価値判断なしで素直に見る態度が大切だといわれているのです。これが森田理論でいう「純な心」のことです。森田先生曰く。正岡子規が7年間、寝たきりで動くことができず、痛いときは泣きわめきながら、しかも俳句や随筆できたというのは、これが「日々是好日」ではなかろうかと思うのであります。正岡子規が身体の痛みに対して価値判断していたらどうなっていたか。どうして自分だけがこんな目に合わなくてはならないのか。神様は血も涙もない冷たいものなのか。自分は苦しみ悶えながら死んでいくしかないのか。阿鼻叫喚とはこのことだ。世の中を呪い倒して怨みつくして死んでやろう。そんな心境に支配されて、投げやりになっていたとしても不思議ではありません。無為の人生で終止符をうっていたでしょう。しかし、正岡子規は痛みにのたうちながらも、この病気が良いとか悪いとかの価値判断は一切していません。痛み苦しみながらも、しぶしぶ現実を受け入れていたのです。「自然に服従し、境遇に柔順」の態度を貫いたのです。そうするとどんなことが起きたか。大変不思議なことですが、少し楽な時に創作意欲が湧きおこってきたのです。これは是非善悪の価値判断が先行していては起き得なかったことだと思われます。極度に困難な状況の中で絞り出された作品が、多くの人に共感と感動を与えているのです。ですから、安易な価値判断をする前に、良いも悪いも、すべての事実を受け入れながら、そこを出発点にして立ち上がるという態度が大切になるのです。森田先生は、イヤとか好きとかの名目を超越した事実の世界に足を踏み入れることができたら、その人は大学卒業程度の実力であるといわれています。是非善悪の価値判断をやめて、自然を素直に受け入れるという態度は、考えただけでも素晴らしい世界だと思います。地球に生まれて、歴史作りに参画できたことを心の底から喜べるようになります。
2020.12.08
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普通の人は、人生の中で仕事にかかわる時間はとても多い。いかに仕事に関わる時間を楽しく過ごすかが、人生の大きな目標となります。しかし現実は、仕事は生活費を稼ぐための手段に過ぎないと考えている人が圧倒的に多い。給料をもらうために、大切な自分の時間を犠牲にするのはやむを得ない。労働力を生活のために切り売りしているのです。最初から仕事は面白くないもの、必要悪と考えているのです。こうなると精神的に苦しい。また中途半端で投げやりな仕事ぶりになります。できるだけ手を抜いて、給料だけはたくさんもらいたいというような考えになります。ストレスが溜まりますので、土日祝日にはストレス解消をしないと持ちません。刺激的、刹那的、享楽的な楽しみがないとバランスがとれない。欧米では1か月の長期休暇が当たり前だそうです。労働は苦痛以外のものではないので、長期休暇でエネルギーをため込む必要があるのだそうです。では本来仕事は面白くないものなのでしょうか。そうともいえないと思う。そう思うのは仕事とは面白くないものという決めつけや先入観で凝り固まっているからかもしれません。「天職」という言葉がありますが、仕事に一途に取り組んで、仕事の中に人生の意義、楽しみや喜びを見出している人もいます。そういう人は長期休暇を取る必要がない。また自分の携わった仕事が、周囲の人、世の中の人の生活を豊かにしているはずだ。そういう誇りと自信を持って仕事に取り組んでおられる。こういう人はまずお金ありきではないのです。好きなことをして、それが周囲の人に役に立ち、自然に生活が豊かになっている。仕事を抜きにしては自分の人生は語れないというような人です。そういう人は素敵ですね。例えば、王貞治さんやイチロー選手。ミシュランで評価されるような寿司職人、シェフ、板前さん。痛くない注射針を開発した町職人。オーダーメイドの靴職人。どんな電化製品の故障でも使えるように修理する職人。自然の中で無農薬の食べ物を作り直販している人。弘前で無農薬のリンゴつくりをしている人。神の手を持つといわれているような難手術をこなす外科医。救難ヘリやドローンの操縦に命を懸けている人。カツオの一歩釣りをしている人・・・・・。先日テレビでアフリカで蚊帳を普及させている人の番組を見た。アフリカは蚊に刺されてマラリアに感染する人が後を絶たない。その会社は蚊帳に薬剤を練りこんで、蚊を駆除する蚊帳を作った。蚊帳にとりついた蚊はすぐに駆除できる。これで、マラリアが劇的に減少していた。人に喜ばれ、結果として売り上げもついてきたという。情熱大陸という番組で、下町のランプ職人の番組を見た。この職人は若い女性だった。お母さんと二人でやっている。現在ランプはいやし効果があって人気があるそうだ。父親が残した金型加工機を駆使して一から手作りしていた。自分の仕事に自信と誇りをもってとりくんでいた。できた商品を送り出す時の顔つきが忘れられない。こうしてみると自分の携わっている仕事を天職にすることが人生の醍醐味であると思う。これはほとんどの仕事でいえることではなかろうか。そのためには、まず自分の仕事に一心不乱になって取り組むことだ。そして気づきや発見、疑問や関心が生まれてくればしめたものだ。それが、呼び水となって、次々に目標が生まれてくる。私の今の天職は、「森田理論学習の普及活動」である。これはやりがいを感じている。生涯をかける価値がある。一人でも多くの人にその魅力を伝えていきたい。たかが人生、されど人生という気持ちである。そのためにこのブログを最大限に活用していきたい。
2020.12.07
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生活の発見会の中で、森田理論の「不即不離」をどう活用していくとよいのか考えてみたいと思います。不即不離というのは聞きなれない言葉ですが、親しくて中身の濃い人間関係作りを目指すことではありません。頭の中で考えると、その方が効率的で素晴らしい人間関係を築くことができそうです。実際にその方向を目指している人が多いと思います。傍から見ていると、金魚の糞みたいにいつまでもどこまでも一心同体の信頼関係を求めているように思われます。この方法は実践してみると必ずしもうまくいきません。一時的にはうまくいくかもしれませんが、ちょっとした対立をもとにして解消せざるを得なくなることの方が多くなる。そうなると、自分としては孤立の道を進むことになります。あれ程相思相愛だったのに、今や顔も見たくない犬猿の仲にまで発展することもあるのです。森田でお勧めしているのは、浅くても薄くてもよいので、幅広い人間関係作りを目指しましょうという考え方です。これを集談会の中でどう実現していくのか。まずは地元の集談会に参加するようになると思います。そしてずっとそこから出ることもなく参加し続けるケースが多いと思います。特に地方の場合はそうなると思います。参加者がどんどん増えて、交流の場が広がっていく場合は、変化があり幅広い人間関係を作り上げることができます。ところが新しい参加者がいない。それよりも参加者が固定されていてマンネリに陥っている場合は注意が必要です。この状態に甘んじていると、井の中の蛙状態の人間関係にどっぷりと漬かってしまいます。好むと好まざるとにかかわらず、不即不離の人間関係作りから外れてしまいます。この方向は弊害が多くなるとみております。それをどう打ち破って不即不離の人間関係作りを目指していくのか。近くの集談会だけではなく、たまには近隣の集談会にも参加してみることです。あるいは旅行や出張のときに、参加者が多いと言われている集談会に飛び入りで参加してみる。どこでも大歓迎してくれると思います。これは間違いないです。これを多くの人が実践するようになるとよいのです。自分だけではなく、他の人や他の集談会の活性化につながります。自分が参加している集談会だけを取り上げていかに活性化しようかと思案するよりも、これを実行するだけでどんなに大きな効果があるか、計り知れないものがあります。目標の立て方を誤らないようにする事が大切です。面白そうな活動を模索していると、参加者は増えていくと思います。相互交流を取り入れることで、簡単に不即不離の人間関係に作りに入る事ができるようになります。生活の発見会の場合は、一度顔を合わせた経験は、その後の交流につながります。ラインでつながったり、体験発表や派遣講師の交流につながることもあります。個人としては、森田が目指している薄くて幅広い人間関係作りを体験することができるのです。人間関係の極意を身に着けることになるのです。それから私たちの瀬戸内支部では、1年に1回支部単位の宿泊を伴った研修会があります。瀬戸内支部の所属集談会は15くらいあります。こうした研修会に参加することで、不即不離の人間関係を簡単に作ることができます。私たちの支部研修会はすっかり定着しまして、はじめてから25年くらいになります。今では他の支部からの参加者も受け入れています。参加者は40名から50名くらいです。くつろいでお酒を酌み交わしながらの交流は誰でもすぐにうち解けます。ここでの人間関係作りが、どんなに自分たちを支えてくれているのか、計り知れないものがあるのです。不即不離の人間関係とは、こういうことを言うのだなということが実感できるようになります。狭い集談会の中で対立関係に陥っても、立ち寄世ることができる安全基地を別に作っているような状態になります。私たちの瀬戸内支部では、これを九州支部や関西支部と合同にすれば、さらに不即不離の人間関係の輪が広がるのではないかと模索しているところです。そういう方面に注意や関心を向けている人は、私生活の面でも趣味の会、同窓会、OB会、地域の活動、仕事関係、子供関係などの人間関係作りも熱心になると思います。必要に応じてくっつき、必要がなくなれば離れるという不即不離の人間関係が自然に身に付くのです。この人間関係は本当に楽になりますよ。そういう多彩な人間関係に囲まれていると、対立した場合は、一時的に付き合いを中止して時間の経過を待つこともできるようになるのです。実際に体験することによって認識の間違いを正していくことを、森田理論では修養と呼んでいます。対人恐怖症で苦しんでいる人はぜひとも取り入れてみてください。
2020.12.06
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森田関連の新刊書の紹介です。「あるがまま」で生きていく副題 人生が変わる森田療法著者 角本壽昭出版 幻冬舎ルネッサンス新書経歴 赤面恐怖症で京都の三聖病院に2回、東京の啓心会診療所に2回入院されている。職業は小学校教員 37歳で公認会計士試験に合格し50歳まで公認会計士業51歳から産代教員として教壇に復帰。4年8か月で定年退職。その後私塾「あすなろ」を開塾。73歳で閉塾。前半は森田理論について分かりやすく解説されています。後半は森田理論を教育現場で応用された話です。大変読みやすい本です。この本は80歳の時に書かれた原稿をもとに作成されています。現在90歳を超えておられ、十分な校正がなされていませんが、とても良い内容の本です。角本さんは、森田理論を応用して、子供たちが自らやる気を持てるような教育を目指しておられます。それは子供たちが志望校に進学した後に分かったそうです。「あすなろ」で学んだ子供たちは、有名中学に進学した後、どんどん成績が伸びるという評判が立っていたようです。分かりやすい授業、良い授業をするために教材研究には特に力を入れられたようです。産代教員の時は、短期で学校が変わりますが、どこの学校でも児童や保護者から惜しまれたそうです。退職後も交際が続いた話が紹介されていますが、ほんとに教師冥利に尽きる話ばかりで感動いたしました。森田理論は仕事に応用して活用していくことで素晴らしい成果を上げることができることを確信いたしました。
2020.12.05
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現在you tubeで「心のビデオセミナー」が放映されています。講師は元斎藤神経科院長の斎藤直己先生です。演題は、「森田療法による不安の付き合い方」です。1、森田療法と不安の成り立ち2、症状解説(パニック症)3、症状解説(社会不安症と身体表現性障害)4、症状解説(強迫症)放映期間 12月7日(月) 12時までご覧になりたい方は、公益財団法人メンタルヘルス岡本記念財団のホームページにアクセスしてください。第8回心のビデオセミナーをクリックしてご視聴ください。
2020.12.05
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2020年12号の生活の発見誌に次のような記事がありました。(自助組織のNPO法人)「生活の発見会」とは、日々の生活の中で事実を発見していく会ではないでしょうか。事実を発見する術を学ぶ場所と思います。観念や想像や妄想などに振り回されない生活を送るために物事をしっかりと見つめて事実をつかみ、事実をつかんだらそれを認めることが重要だと思います。私はこの考え方に全面的に賛同いたします。普通生活の発見会は、世間一般では神経症を克服する会だと思われています。具体的には全国各地で開催されている集談会に参加して森田理論を学ぶ。同じ神経症で苦しんでいる人たちが、交流を深めて相互に援助しあう。そして最終目標として、神経症を克服することだという暗黙の了解があります。神経症で現に苦しんでいる人にとってこの考えは間違いではありません。森田療法に取り組むことで、神経症を克服している人も大勢いらっしゃいます。ただ、今の日本では神経症を克服するための方法はいくらでもあります。薬物療法、認知行動療法をはじめとしたさまざまな精神療法、カウンセリングなどです。こちらの方が主力となっています。森田先生の時代は神経症を克服するための手段としては、森田療法がほぼすべてであったということを忘れてはなりません。私は神経症の克服に当たっては、本人の希望する方法を選択するのが一番だと思っています。別に森田療法を選択する必要はありません。また強制することもできません。馬を水飲み場まで連れて行っても、馬が水を飲むことを拒否すればどうすることもできません。神経症という蟻地獄から地上に這い出るためには、幅広い選択肢から選べばよいのです。そして不安に振り回されないで、日常生活を取り戻せるようになることが目標となります。他の精神療法でその目標が達成された場合神経症の治療はそれで終了となります。アフターフォローはほぼありません。そのようなボランティアのような事はできないのが実情です。これは入院森田療法、外来入院森田療法の場合も同様です。しかしこの状態で見放されると、それはそれでとても厄介なことになります。それは一言でいうと、不安に振り回されやすいという生きずらさが解消されていないということです。まがりなみにも神経症は克服できましたが、針の筵に座らされているような生きづらさを抱えているのです。積極的に行動できるようになればなるほど、不安の種はどんどん増えてきます。ということは、対症療法で放り出されると、また別の神経症を発生させてしまうということにもつながりかねません。認識の誤りが本当の意味で解消されていないからです。神経症の治療は対症療法だけでは不十分ということです。根治を目指さない限り、いつまで経っても明るい未来はやってこないということです。別の言い方をすると、神経症を治すだけの目標の立て方が間違っているということです。神経症を治すとともに、人生観の確立を目指すという目標を持てるかどうかが問題になります。神経症の克服は、神経質性格者としての人生観を確立するという最終目標からするとほんのごく一部の事でしかない。その意味をしっかりと確認して、共通認識にすることが必要です。目標が変われば会の活動内容が変化してきます。森田先生の頃から比べると、森田理論学習の果たすべき役割が変化していることに注目することが肝心だと考えています。生活の発見会は神経症を克服した人がたくさんいます。普通でしたら神経症を克服したら、集談会に参加する意味はないはずです。それでも熱心に参加されている人がいるということは、その意味をしっかりと掴んでおられる人だと思います。集談会は自分にとって役に立つものだという認識があるからこそ継続されているのです。決して困った人の役に立つという視点だけから参加しているわけではないのです。この視点から発見誌の記事を読んでみると、生活の発見会は事実を発見していく会ではないかといわれています。つまり、「かくあるべし」という観念優先の立場から、事実を軽々しく取り扱うという態度を修正しようというのが生活の発見会の存在意義ではないでしょうかと問題提起をされています。まさに、この事実本位の態度を身につけるのが森田理論学習の目指しているところです。ここで言いたいことは、生活の発見会は、神経質性格者の生き方を模索している日本で唯一の団体であるということです。その目標に特化した活動が求められているということだと思われます。改めてみんなで再認識したいものです。
2020.12.05
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森田先生のお話です。病の治療をするのは、実は「時機到来」である。なるべき時になるのである。この事は、慢性病に限らず、急性病のときにも、これと同様の関係がある。発熱の時でも、その熱の上がり始めの時は、強いて解熱剤を与えても、なかなかこれを食い止めることはできないで、かえって自覚的にも、苦痛を覚える。これに対して医者は、しばらく時期を観察して、熱が下り坂になった時に解熱剤を与えると、熱は順調に下がって、身体にも軽快の気分を覚えるのである。種々の急性病、あるいは熱性伝染病のようなものでも、その自然の経過に従いて、決して自然良能に反抗するような事をしてはならない。黄疸疫などでは、その初期高熱の時に、強いて、強い解熱剤などを与える時は、そのために心臓麻痺を起こして、死ぬことさえもなるのである。(森田全集 第5巻 566ページより引用)私たちはコロナウィルスの陽性反応が出ると、慌てふためいて、精神混乱状態になります。大金をはたいてでも、何とか早く治してもらいたいと思います。しかしワクチンが開発されていないので、どうすることもできません。自分の免疫機能がコロナウィルスに打ち勝って、自然治癒力に頼るしかないのが現状です。助かる人は助かるが、持病を抱えている人や高齢者は力尽きてしまう人もいます。こういう突発的な身体的病気やケガに見舞われることは、誰でも経験があります。また、突然オレオレ詐欺やあおり運転などのトラブルに巻き込まれてしまうこともあります。世界を見渡せば、紛争や戦争に巻き込まれて、家や財産を奪われて、命の危険にさらされながら生きている人たちもたくさんいます。こうした身体的な葛藤や苦痛は、それに輪をかけて精神的な動揺をもたらします。森田先生はこうした事象に対して、慌てふためいて、やみくもな対症療法に走ってはいけないといわれています。現実には、動揺して安易で心やすめの対応をとる人が後を絶たない。森田先生は、まず病気やケガ、出来事をよく観察しなさいと言われています。今の状況を、できるだけ正しく把握しなさいといわれています。決してその自然流れを無視してはならない。風邪などの場合は、ひきはじめの場合は、発熱を抑えようとしても難しい。自分の体の中の免疫機能が働いて、病原菌と戦っているのです。その生理現象を理解しなければならない。その戦いの証拠として発熱が起きている。これを解熱剤で押さえるというのは、せっかくの免疫力を抑え込むようなものである。これは、自然の流れに対して、勝手な決めつけや先入観で、間違った軽率な対応をとっていることになる。ここで大事なことは、自然の流れのままに任せるということである。それで仮に免疫力が病原菌に打ち負かされるようなことになっても、それを受け入れる覚悟を持つしかない。好むと好まざるにかかわらず、その道しかないということだ。風邪などの場合は、白血球と病原菌の戦いに決着がつけば、自然と発熱は収まってくる。その時に補助的に解熱剤を用いると、追い風を受けて、熱は速やかに下がるということだ。
2020.12.04
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第54回形外会での水谷氏の発言です。対人恐怖の者は、そねむ事が非常に多いと思います。この間私の会社に、若手の課長がいまして、こちらから挨拶してもろくに挨拶をしてくれなかったから、こちらも不快に思って、話をしなかったのであります。しかるに私の同僚には、交際上手な奴がいて、朝も早くから、その課長と親しく話をしているのです。そんなことで私もその同僚をそねみ始めたのです。(森田全集 第5巻 618ページ)水谷氏という人は、後に自助組織NPO法人生活の発見会の礎を作られた方です。この方の存在無くして、森田理論学習の自助組織は存在していません。さて、こちらが挨拶をしているのに、無視する人が時々います。ムカッとして腹が立ちます。衝動的な怒りを抑えるために、つい相手を攻撃する人もいます。水谷氏のようにわざと嫌がらせをすることもあります。その後の人間関係に遺恨を残してしまいます。こういう場合は、発作的な怒りはとりあえず抑制することが大切になります。これはこれで機会を見て考えてみたいと思います。ここでの問題はその次にあります。そういう相手と親しく会話している同僚に対しても、「ねたむ」「ひがむ」「ひねくれる」という気持ちになるということです。人を軽々しく扱う若手の課長に対しては、部下は一枚岩になって反抗したほうがよいのにと思っているのに、抜け駆けをしているような同僚は許せないという気持ちになっているのだと思われます。同僚と自分の行動の違いを比較して、そのような課長と親しくできている同僚を快く思っていないのです。自分の頭で考えていることと反対の出来事が目の前に起きているわけですから、心中穏やかではありません。無意識的に同僚を無理やりにでも自分の考えている方向に引き込みたいと考えているのです。森田理論でいうところの思想の矛盾に陥っているということです。思想の矛盾は相手を非難、否定するだけではすみません。その矛先は自分にも向けられてしまうのです。最大の味方であるべきはずの自分自身を攻撃してしまうのです。自己嫌悪、自己否定に陥ります。自己肯定感は全く感じることができなくなる。どうしてこのような事態を招いてしまうのでしょうか。若手の課長と同僚の会話を事実として目撃した後にあります。その事実を自分のモノサシでよいことなのか悪いことなのか価値判定をしているということなのです。その事実は決して認めることはできない。無意識のうちに、事実は観念の世界で考えた方向で修正されるべきものだと考えているところにあります。これが他人との間に軋轢を生みだしているのです。同時に自分の心の中で自分自身を攻撃しているのです。この事実を目撃したとき、事実を事実として認める。事実を素直に受け入れるということになると、事態は全く違った展開になります。同僚も課長から挨拶を返されないこともあるかもしれない。仕事では聞きたくない批判や叱責を受けているかもしれない。それなのに不快な感情を持ったまま、普通の人と同じように対応できている。普通の人とは違う何らかの能力持っているのかもしれない。あるいは、悪いイメージを封印して、本来の目的を果たすという方法を身に着けているのかもしれない。それは自分でいくら考えても見当がつかない。よし、今度居酒屋にでも行ったときに、そのコツや考え方を聞いてみよう。自分も相手と同じように、対人関係をそつなくこなせるようになりたい。事実を価値判断しないで受け入れることができると、無理がなくなります。そして事実を足掛かりにして、より良い方向へ舵を切りなおすことができるようになるのです。事実を自分勝手に捻じ曲げる、言い訳をする、よく確かめないで行動に移す。これらが思想の矛盾となって私たちに立ち向かってくるのです。少しは戦えるかもしれませんが、いずれみじめな敗北を味わうことになるのです。言葉でいえば事実を事実として認めて受け入れるということになりますが、これはかなりの修養が必要になります。森田理論学習はその態度を身に着けるために応援してくれているのです。そして私たち先輩も全力でアシストしていきたいと思っているのです。
2020.12.03
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第54回形外会で戸梶さんという女性が次のように発言されている。まだ入院中ですが、前にはただ、自分の恥ずかしい・苦しい気持ちを取り直したり・取りつくろおうとしたりして、それに心が一杯で、ただ不可能の努力ばかりして、かえって動きのとれないことになりましたが、今はお陰様で、無理な考え方をやめ、しだいに自然に従うことができるようになり、心が楽になりつつあります。近頃はあれもこれもと、やりたい事が多くなり、竹山先生のお歌を見ると、自分もあんなに歌を作りたいという気持ちになります。またここでよくなられた人を見ると自分も早くあんなようになりたいと思います。これに対して森田先生は、「今いわれたような心持が自然です。こんな風になると神経質もよくなります」とコメントされています。(森田全集 第5巻 617ページ)この話はなにげない会話のようですが、森田理論の核心部分に触れておられる部分です。普通は神経症を克服した人を見ると、あの人は自分とは条件が違うと考えやすいのです。あの人は生まれつき頭の回転がいい。理解力や分析力がある。もともと行動力が旺盛な人だ。症状が自分ほど深刻な状況にはない。先生の治療方針とぴったり合っていた。親も優れた人だった。やさしい家庭に生まれている。裕福な家に生まれて何不自由なく育っている。自分と他人を比較して、あの人とは元々の条件が違う。相手には神経症を克服できる条件がそろっているが、自分には悪条件ばかりが重なっている。森田理論でいう劣等感的差別観に陥っているのです。そして相手のことをねたむ。ひがむ。そねむ。すねる。ひねくれるようになるのです。相手の事を快く思わない。相手に対して嫌がらせをする。対立関係に陥る。そして悪いことに、自己嫌悪に陥り、悲観する。自己否定するようになるのです。ひとり相撲を取っているような状態になるのです。この点戸梶さんは違います。立派なものです。治った人をうらやんで自分もその恩恵にあやかりたいと思っています。治った人の行動を見て、早くあの人のようになりたいと願っています。多分治った人の行動をまねて、すぐに軌道修正ができるでしょう。戸梶さんと私たちの違いは何か。他人と自分の違いを明らかにしているところまでは一緒です。他人と自分を比較することは、よくないという人がいますが、私は自覚を深めるために、他人と自分を比較することは有効だと思っています。大いに比較して自覚を深めようではありませんか。そうすればより正確に、詳細に現状の把握ができます。問題は比較した後にあります。普通比較した後に、どちらが優れているか、どちらが劣っているかという価値評価をしてしまうのです。相手が優れていて、自分が劣っているという評価をしてしまうと、相手に対しては「ひがむ」「ねたむ」「すねる」などという行動をとるようになります。また何かきっかけがあると、軽蔑するようなことも起きるのです。そして悪いことは重なるものです。自分自身もあるがままに認めることができなくなるのです。いつまで経っても自己肯定感が持てないのです。もともと事実はあなたが価値判断する必要はないのです。事実に向き合う態度は、事実を事実として認めて、受け入れるだけで十分なのです。それ以上の事はする必要もなければ、決して踏み込んではいけない領域になるのです。それなのに長年の習慣から、どうしても是非善悪の価値判断をしてしまうのです。是非善悪の価値判断をして他人だけではなく自分自身も苦しんでいるのです。このことが理解できて、事実に対する態度が変化してくると、神経症はよくなります。葛藤や苦悩が少なくなります。さらに、その人は、これから先の長い人生のコツのようなものを身につけたということになるのです。味わい深い人生になっていくのです。ぜひとも理解を深めていただきたいと思います。
2020.12.02
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正法眼蔵の現成公案の中に次のような言葉がある。仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇(ごしゅくのきゅうけつ)なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。仏教を学ぶということは、自分とは何か、私はなぜ死ぬのか、なぜ意地悪をしてしまうのかなどを学ぶことである。そして、自己がわかるということは、無我になることである。無我とはあらゆる物事の真実(万法)に突き動かされる(証)ことである。それは自分と対象との対立を忘れることである。その時、悟り臭さの跡がない(悟迹の休歇なる)という生き方があり、臭みのなくなった悟りをいつまでも、どこでも、だれにでも(長長出)働かせ行くのである。(道元百話 中野東禅 東方出版 152~154ページ引用)ちなみに「身心脱落」とは心底こだわりのない世界に安住することである。別の言葉に言い換えると、柔軟心を持つことである。柔軟心というのは、柔らかい心であるから、拘らず、自我に硬直せず、対象とつかず離れず接して行ける自由さのことである。(同書 119ページ)道元禅師の唱えた世界観と森田先生の目指していた考え方はほぼ一致している。つまり観念の世界を優先して、世の中のことや人間関係を推し進めようとする態度に疑問を投げかけているのである。頭で考えたことを現実に当てはめていこうとする態度をとり続ける事こそが、人間の心身に悪影響を与えている。葛藤や苦悩を生み出しているとみているのです。観念優先の世界観から、現実、現状、事実優先の世界に転換することが大切になる。事実にしっかりと足をついて、そこを出発点として実践・行動する態度を身に着けようではありませんかと訴えかけられているのです。「身心脱落」という言葉は、聞きなれない難しい言葉ですが、森田理論の「事実唯真」という言葉を別の言葉で表現したものなのです。森田理論の言葉は、別の考え方を学ぶことによって、さらに磨きがかかり、凄みを増してくるものと考えます。
2020.12.01
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