空、風、鳶とパラグライダー Hokkaido Japan paraglider

スカイ・ハイ(六)



 「大橋君、就職のほうはどこになったの?」卒業論文を仕上げて提出したとき指導教官が聞いた。
「まだ決まっていません」正直に答えた。
 まだ三十代の助教授の教官は少しびっくりしたような目をして大橋の顔を見た。
「何か考えでもあるのですか」教官は椅子の背もたれによりかかり気味にして、かすかに微笑みながら聞いてきた。
「とくに何も」大橋がそう応えた。実際何も考えが無かったのだから仕方の無いことだった。
「分かりました。何かあったら来てください」教官はそう言うとまた机に向かって何か書き始めた。
 卒業論文はどの程度の成績か分からなかったが、口頭試問の後そのまま受け付けられた。大橋はその後一度も大学へ顔を出さなかった。多くの友人はそのまま教職についていった。
 最終的についた仕事は建設業界紙記者だった。これという理由も無かったがその時点では面白そうだったからだ。いろいろなものを見て視野が広がるかもしれないという期待も手伝っていた。
ジェンティールV.S.O.P(700ml) ジェンティールV.S.O.P(700ml)
 先輩記者や営業記者と一緒に建設現場を回って大体の要領を覚えるのに二ヶ月かかった。記事を直されることもほとんどなくなった時点で担当したのが住宅部門だった。ハウスメーカーは多くの中小企業がひしめき合っている業界だ。そのため休日など関係なく仕事をしているのだった。それを取材する記者もまた休日返上となる。
「どう、もう慣れたかい?」先輩の草野が喫茶店のウェートレスに目をやりながら聞いた。草野は大橋の二年先にこの業界に入っていた。その前は工務店の営業をやっていたらしい。
「まだまだです。編集長に怒られっぱなしですよ」
「まあ、そこそこでやったほうがいいよ。体を壊したら終わりだからね」草野は年の割にシワの多い額にさらに深いしわを寄せて言う。
「会社の中は大体分かった?」草野は備え付けの雑誌のグラビアを見ながら今度は大橋の目を窺うように聞いてきた。
「中って、人間関係ですか?」
「ウン、まあ、そういうところだ」
シャトー・ド・ラマルク1999(赤) シャトー・ド・ラマルク1999(赤)
「何かあるんですか」大橋はわざととぼけた返事をした。草野が部長と専務の対立に連なる人脈のことを言っているのは明らかだったからだ。
「いや、会社の今後のことを考えてさ、住宅に重点を置くのか、ゼネコンに絞っていくのかって言う方針をめぐってね」
「いまさらゼネコン、て言うことも無いんじゃないですか」大橋は部長がゼネコン派で専務が住宅派だということを知っていて、草野が専務に擦り寄っているのでとりあえず調子を合わせることにした。
「ヤー、君もそう思うだろ。もうゼネコンの時代は終わったよね、実際」
 草野はよほどうれしかったらしくその後堰を切ったように社内情勢を説明し始めた。大橋が三時にアポイントをとっていなかったらその日はまるごと潰れていたかもしれない。
 その次の日から毎日居酒屋で付き合いが始まった。社員三十人そこそこの会社の二大派閥の一方に組み込まれた大橋は日々むなしさを強めていった。
 パラグライダーは大橋の唯一の趣味だったが週末返上の仕事のためめったに行くことができなかった。入社した年の正月に横浜の実家を早々に引き上げてやっと久しぶりのフライトに向かった。朝霧高原、猪の頭はあまりにも有名でいちどは行ってみたいと思っていたエリアだった。
 富士宮で名物の焼きそばを食べてランディングのクラブハウスに着いたのは九時を少し回ったころだった。すでに十機以上のグライダーがサーマルを求めて散らばっていた。どこかでうまく上げたらしい一機だけがはるか上空を旋回している。
 ヴィジター登録の後大橋は久しぶりの機体を開いて点検を始めた。
レイモンド・ラニョー サブラン レゼルブ レイモンド・ラニョー サブラン レゼルブ
「今日は絶好のコンディションですよ」クラブスタッフがキャノピーの端を伸ばしながら言った。
「そうですか、ちょっと天気がよすぎるかと思ったんですが…」大橋が応えた。
「今のところとても静かです。昼過ぎくらいに少し荒れるかもしれませんね」
 キャノピー、ライン、ライザーにまったく問題は無かった。時々陰干しをしていたのもよかったようだ。簡単なエリアの説明を受けた後テイクオフに立ったのは十時半、すでに順番を待つフライヤーが二十人近くたむろしていた。
 駿河湾から吹きつける南風がコンスタントに六メートル吹いている。軽くAライザーを引くとシグマ5がきれいに開いた。ほとんど息継ぎの無い風だ。一気に体重をかけて立ち上げる。軽くキャノピーの走りを抑えて速やかに体を前に向けると駆け上がるように体が重力の拘束から解き放たれる。
 バリオメーターのリズミカルな伴奏の中を機はグングンと高度を獲得する。ほかの機に注意しながら回していると南に大きなサーマルがあるようだ。目の前の機体が力強い上昇を始めていた。大橋もすぐそちらへ機体を向ける。ガツンという衝撃とともに機がサーマルを捉えた。はじめのものとは明らかに違う。回さなくてもどんどんと上げている。
 すでに千五百メートルは獲得している。富士山が優美な冬の姿を惜しげもなく大橋の前にさらしている。そのまま南に向かうと上昇流はいくらか弱まった。
 後ろを振り返るとさっきまで上げていたところに数十機の色とりどりの機体が輪を描きながら旋回していた。一番上の機は積雲を捉えようとしていた。
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