鬱から社会復帰への道。

鬱から社会復帰への道。

告白6


試験の結果システムオペレーションと、いう課に入りました
そこでは、コンピューターで建築するキャド(CAD)というソフトの基礎を習いました

しかし卒業しや僕には現実が待っていました。。。キャドを使う仕事は山口では主婦のパート(多くて5万)くらいしかもらえない所ばかりで、方向転換しました
最低でも15万ないと借金が返せない。
それで、カラオケ点に募集があったので、受けると採用されました、そこでは、見習いから初めて、最終的には厨房を任されていました。                    原付だとすぐに白バイにすぐ御用となるので、あるバイク屋で見つけた・・前のここでの、ハンドルネームだtったdr250というスズキのオフロードバイクを父が買ってくれました
中古で15万でした
毎日ガソリンが、いる時にはいい年して親にだしてもらい、弁当持参でどこにも、遊びに行けない夢も希望もない職場と家の往復だけの生活でした
その頃、父は車で宴席に乗り上げたりと普通では、ありませんでした
ある夜自宅で昏睡状態の父を母が発見して、救急車で、大きな病院へ搬送された
病名は、心筋梗塞で悪いことに、脳幹梗塞を併発してました、結果として植物人間に近い状態、右半身は時々かろうじて動く状態・・胃からチューブを入れて、何とか生きているな状態が続き・・日に日にまるでミイラのように痩せほそりました・・そういう時期が3年続き
いつ亡くなっても、おかしくない状態・・・いつ病院から連絡がきてもいいように、僕は深夜の5時くらいまで起きていました
借金もほぼ返し終わったころ、今度は僕の体が悲鳴をあげました
以前から腰痛持ちでしたがシップなどでごまかして、生活してましたが、仕事をしていた時に急に歩けなくなりました・・・普通の病院ではレントゲンでは坐骨神経症としか診断されずに、それでも夜痛くて眠れない僕は、大きな病院でMRIという軟骨まで、見れる機械のお世話になりました
結果は腰椎椎間板ヘルニア・・・・医者の説明ではすぐに手術しましょうと、いう事だったが現実の我が家にはそんなお金は、ありません
仕事も1日3時間くらいがやっと、重いい物も若い子が率先してもってくれました
情けなかった・・・痛いのと情けない半分、トイレでよく涙してました
しかし。ここのカラオケも一時は鬼のように、忙しかったのですが、ライバル店などの影響も、あり、もう長くは無いな?というくらい業績不振、人が段々と辞めていきました・・・でも年末の忙しい間までは、いようと正月で辞めました
それから5日語。父は永眠しました・・・享年67歳でした
悲しいというよりやっと楽になれたねと。いう気持ちでいっぱいでした
115年生きていた猫も1ヶ月に追うように亡くなりました。。最後のダメージでした
これからが不幸の又、始まりでした・・・財布を父にまかせていたんですが、カードで使い込んで、負の遺産を残してくれていたのです
民法をすぐに買い。調べると、死亡した人の名義で発生した借金は負の遺産として裁判所に申したてれば、免除になるらしい
父の死亡処理で終われながら、裁判所にも通いました
身内の戸籍謄本と書類を出せばいいだけでした(広島に、いる妹には面倒をかけましたが)・・・その間も消費者金融からは毎日。電話が。。。母がノイローゼぎみだtったので、電話は全部。僕が対応しました
今度は遺族年金です;すぐに受給されると、ばかり思っていた母と僕にはドン底に突き落とされるような現実でした
早くても、半年。後だと:





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