その3



これは僕が幼かった頃に、本当にあったできごとです。
まだまだなにもかにもがのんびりとしていた、昭和30年代の終わり頃のできごとです。
そのころ僕には2歳半違いの弟が生まれ、母はその世話に追いまくられていました。当時住んでいた小さな一軒家は、喘息がちの僕の健康を考えた、田舎とも言える郊外の町のそのまたはずれにありました。同じ年頃の遊び相手もいなかったので、僕の相手はもっぱら犬のチビがつとめていました。チビは雑種の中型犬で、白いしっぽがふさふさとしたかわいい犬でした。家屋の少ないぶっそうなところには犬は欠かせないと、祖父が連れてきた犬だったそうです。
 こんなことがありました。母が家事や弟の世話に夢中になっているうちに、僕の姿が見えなくなったというのです。すみからすみまで家中探しまわって、もう警察に届けるしかないというときになって、ふとあることに気づいたというのです。
「チビ、犬小屋から出てきてごらん。ちょっと奥を見せてちょうだい。」
母は犬小屋の入り口をふさいでいたチビを引っ張り出しました。
そこには、まさしく僕がいたそうです。犬小屋の奥に丸くなって、すやすや眠っていたそうです。チビが入り口をふさいでいたので、小さい僕は見えなかったわけです。生まれたばかりの弟が母を独占しているのですから、僕はチビに甘えるしかなかったのです。散歩は、夕方帰ってくる父親と僕とチビとで近くの公園まで通いました。父親は、木の名前や草の名前を歩きながら教えてくれました。なんでも知っているおとうさんはすごいなあ、といつも思ったものです。子供を見かけることも少ない公園は、ドッグランにはやがわりします。もちろん当時ドッグランなどという言葉は使われてはいませんでしたが。そこで僕とチビは疲れて走れなくなるまで駆けまわって遊びました。
 こんな具合にいくらチビが相手をしてくれるからといって、家の周りにいるだけでは、僕の好奇心は満たされません。ある日僕は一大決心をして、公園に出かけることにしたのです。家のある方をふりかえりながら、右に曲がって左に曲がるというように、父といっしょに行ったときの記憶をたどって歩きました。すぐ近くの公園だったので、母も安心して送り出してくれたわけです。なんだかちょっとお兄さんになったようで、僕は得意げな顔をしていたと思います。
 もうそろそろかな?そこを曲がったらもう公園かな?ところがどうしたことか、いくら歩いても公園にたどり着きません。そればかりか、なにがなんだかわからなくなって、僕はすっかり迷子になってしまいました。通りかかる人もいない小道で、僕はしゃがみこんで泣いてしまいました。恐くて不安でどうしようもありません。

 どれだけ時間がたったのでしょうか?ふと前を見るとそこにチビがいました。
「しっぽにつかまりなさい。わたしがおうちに連れてかえってあげるから、もう泣かないでね。」とチビは言いました。言われた通りにしっぽにつかまったものの、僕は恐くて不安でまだヒクヒク泣いていました。すると突然チビが歌い出しました。

  迷子の迷子の男の子 あなたのおうちはどこですか?
  名前を聞いても分からない おうちを聞いてもわからない
  エンエンエエンエンエンエエン 泣いてばかりいる男の子
  犬のお姉さん困ってしまってワンワンワワンワンワンワワン

 僕が覚えたばかりの歌のようです。チビにあわせて、小さな声でいっしょに歌ってみました。チビは「もっと大きな声で」と元気づけてくれました。すくんでしまっていた足も少しずつ動き出します。

  迷子の迷子の男の子 あなたのおうちはどこですか?~

 チビと歌っているうちに、なんだか嬉しくなって、僕はいつの間にかしっかりとした足取りで歩き出しました。

  犬のお姉さん困ってしまってワンワンワワンワンワンワワン!

 何度かこの歌を歌いきったときに、僕は家に帰りついていました。
「おかあさん、おかあさん!僕、迷子になっちゃったんだけど、チビが迎えに来てくれたんだよ。しっぽつかんで歌いながら帰ってきたんだ!」
こう母に報告した僕でした。
 ところが母は怪訝そうな顔をしています。
「なに言ってんの。そんなわけないじゃない。チビは小屋のそばにつながれているんだからどこにも行けやしないわよ。庭のそこにずっといたわよ」

 夢を見ていたわけではありません。確かにあれはチビでした。心配したチビが迎えに来てくれたことを、今でも僕は信じて疑いません。

 弟が大きくなってきたので、犬の世話まで手がまわらないという母の考えにしたがって、チビはどこかよその家にもらわれて行きました。
僕の心の中では、あの日のままに、チビは生き生きと走りまわっています。




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