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イルクーツク出発



もちこんだ牛乳ビンの中から、ヨーグルトになりかけたような、多少、どろっとした飲み物をくれた。無気味に思いながらも口にすると、けっこうさっぱりとした自家製のヨーグルトのようであった。

軍人さんは若き将校と言った感じの男で、小さな女の子をつれた、3人家族だった。奥さんは、ブロンドのそのだんなと同じ年格好の女性であった。

むろん、外国人の歳ほどわからないものはない。そのとき30代の日本人女性とモスクワを歩いたが、モスクワっこに高校生か?と聞かれた。これは、ほんとうの話。

この家族は、ときに夫婦が深刻そうな雰囲気で話をしたりしていたが、ときに、これまた家から持参してきたらしい、黒パンをふるまってくれたりした。

その黒パンは、食堂車のものとはまたちがう風味をもっていたと記憶している。おそらく、食堂車は高いと知っていて、家から持ってきたのであろう。窓際に食料のはいった袋が置いてあり、2、3日はろう城できそうなくらいのパンやら果物がはいっていた。そのなかに、例の牛乳瓶も収納されていた。

もちろん、夏でもシベリア、冷蔵庫は必要ない。

この家族は、食堂車にいくでなく、この家族はすべてをコンパートメントで過ごしていた。

そして、その一家は2晩をすごすまでもなく、二日めの深夜に、ボソボソという話し声とともに深夜の駅に降り立っていった。

どこの駅かは覚えていない。

おそらく、起こしてはまずいと気をきかせていたのだろうと思う。

つぎの、乗客は学校の先生。20代の女性で英語も片言が喋れた。赴任先にむかうのだという。いろいろとロシアの同世代の人の話を聞きたいところであったが、逆に日本のことをいろいろ聞いてきた。

質問自体は、休みの日はなにをしているか?とか、大学は難しいのか?とか、生活費はどれくらい東京ではかかるか、とか日常的な内容であったが、それに、四苦八苦しながら、答えた。

シベリア鉄道で、ロシア人相手に英語の勉強をすることになろうとは思ってもいなかった。

それがまた、鉄のカーテンの向こうにも、生身の人間が生きていること、好奇心にあふれた人がいることを教えてくれたような気がした。

乗り合わせたロシア人は、この他にも、ロシア人老夫婦がいた。背広の全面には、勲章がぎっしりとはりつけられていて、ロシア語が分からない私達に、手ぶり身ぶりでなにかを伝えようとしていた。

手持ちの会話集や辞書を駆使してわかったのは、モスクワにくるんなら遊びにこいとさかんにさそっていたこと。勲章をいろいろと説明してくれたが、分からなかった。でも、あいづちをうったが、それがよかったのかどうか。

おそらく第二次大戦などで戦ったくらいの年輩だったと思う。

人のいい、まさに好々爺といっただんなさんに、よりそうような奥さんの姿が微笑ましかった。

ところで、イルクーツクからは、インツーリストのガイドの女性が、私たちの監視役(?)についた。彼女は、ハバロフスクからパックでモスクワまで目指すモスパックというツアーの先導者だった。なにかにつけて世話をやきにきた。日本人は五人くらいいただろうか。それにわれわれがくっつく。

そのうちの一人は、食堂車できいたところ、イルクーツクに着くまでに一度、ベットの二階から落ちたという。なんという強靭な身体の持ち主がいることか。

あとアメリカ人のバックパッカー。騒がしいと思って廊下にでてみると、しゃもじのような細長いものに、マトリョーシカのような民芸品を置いて、それが落ちないように走って、その早さをきそっているようだった。

それでそのマトリョーシカが落ちたら落ちたら大騒ぎ。

ハバロフスクからもモスクワまで9000キロ。いろいろな出会いがある。


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