如月劇場

如月劇場

~複雑な人間関係~






 人それぞれの価値観というのものがある。それは個人が決するものであって僕がどうこういって変わるモノではない。

 しかしその個人の価値観も行きすぎると「虐待」「イジメ」「暴言暴力」に変わる。自分のやっていることが理解できずにただただ人にあたる。いわば「八つ当たり」というモノだ。


 その「間違った価値観」はどうやって生まれたのか?それは今までのその人の歴史が物語っている。中学3年ならば15年間という短い歴史の中で培われたモノが段々と膨張しこうなってしまったのだ。それを作り上げてきたのがその人であり、その周りの愚かな下僕達でり、その生活すべてなのだ。

 大体そういう価値観を持った人というのは常に「自分が一番なんだ。俺に勝てるヤツはいないんだ」という意識を根本的に持っている。学力・人望・体力・そして人生においても。いわば「エリート組」になりたいのだ。あるいは「ならねばいけない」という哀れな心を持っているのだ。仮に学力なら学力で自分が相手より劣っていると「どこかで勝とう」と必死に相手の弱点を模索する。そして見つけるやいなや一気に罵声を浴びせるのだ。ここで相手より「優先順位」に立ちたいのだ。なんと醜い神経の持ち主であろうか。

 それは簡単に捨てることが出来る。けれど捨てない。分かっているのか、分かっていないのか、捨てない。捨てれば自分の「存在証明」が失われてしまうのではないかという恐怖にあおられるからだ。これははたしてもう消すことはできないのであろうか?一生このままこういう人格で死ぬまで生き続けるのであろうか?

   否。それは消すことが出来る。大切なのは「きっかけ」なのだ。

 誰かが気づかせてくれるしかないのだ。間接的でも良い。誰からでも良い。用はその人が「俺は間違っている」と気づくことが重大なのだ。そこで自分の今までの大きな過ちを知ることになる。

  しかし、そこまでたどり着くのは決して安易な道のりではない。

 この世のすべてのモノは何かとイコールで繋がっている。例えば受験生にとって「合格」とは「努力」あるいは「才能」などのモノから成り立つのである。もっとも後者の場合に頼るのは自分にとっても良くないが。「俺は間違っている」と気づく「瞬間」は今まで誰かに浴びせてきた苦しみ、辛さ、苦汁・・すべてひっくるめた「期間」とイコールで繋がるのだ。


  もしかしたらその「瞬間」は生きている内に来ないかも知れない。そうなったらもうお終いだ。残るのは被害者の怨念だけである。最悪の場面となるだろう。

  そんな人間関係の中で僕が出来ることとは果たしてなんなのか?簡単である。「伝える」のだ。第三者である僕が伝えなくて誰が伝えるのであろうか。被害者は助けて欲しいと思ってる。これは誰だってそうだ。経験があるからこそ共感する。だから支える。「絶対にお前と同じ事を思っている奴が世の中にはいる」そう伝えてやるのだ。「保証」はない。しかし「希望」はある。今、被害者にとって必要なのは事実なのではない。自ら立ち上がろうとする望みなのだ。そうやって人の心と心はつながり一つの世界が出来る。

 今、僕は前に述べたことは出来るかも知れない。しかし当の本人、つまり「価値観の行きすぎた人」へ対して僕は真意を持って「お前は間違っている」と伝えられるのだろうか。おそらく出来ない。それは僕の心の中奥深くにも「恐怖」があるからだ。ここが僕の弱いところなのだ。恐らくこれが出来る人は少ない。だからみんながならなければいけない。一刻もこんなくだらない些細な世界を滅ぼすために。 
                   だから僕は伝える。



           2005年、2月20日の日記より。著、如月 拓。


© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: