ポエムガーデン

自伝的小説  完成? 未完成?ページ1


自伝的小説 序章 ( 1993 summer )

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 二十代最後の夏。社会人十二年目という月日。天職と思えていたはずの働きの場を替えたのはこの会社で何度目だろう。前回サヨナラした会社はどんな理由で辞めてしまったのだろう。そして昨夜のらくがきノートにはどのような代物が綴られたのか。そして今日一日に飲んだ麦茶の量はどのくらいなのか。記憶を手繰り寄せればそれらのすべてに答えることはたやすいだろう。けれどそれは「今」ではなく「いつのか日か」ということとして・・・。
 一日中身につけていた汗と油とホコリでまみれた作業着を脇に抱えて会社のロッカーを後にする。蒸し暑かった昼間のあのむんとした空気を僅かに含んだ風が、沈みかけの夕陽の色に染まった駐車場を爽やかに吹き抜けていた。さっきまであくせくしていた工場を振り返ってみると事務所の窓のブラインドがすべて下げられようとしているところだった。今日一日の戦いが終わったという合図だ。
「お疲れさん!」同僚が車から元気な声を投げかけながら僕の前を走り去って行った。
「お疲れさん!」すっかり通り過ぎて行った車に向かって高々と手を上げて僕はそれに応えるのだった。長い影をひきずりながらゆっくりと車の中へ滑り込むと僕も帰宅の途へと車を走らせるべくエンジンキーを回転させる。カーラジオからご機嫌なナンバーに乗っていつものDJのお姉さんの「お仕事ご苦労様です」の労いの言葉が聞こえてくる。僕はいつものように「どういたしまして」と心でつぶやいた。
 労働に全力をつぎ込んで体力はすっかり消耗され握るハンドルには寄り道をするだけの余力は持ち合わせてなかった。夕方の帰宅ラッシュ時。車の渋滞のスロースピードは一日の疲れでパワーが出せない故なのかも知れないとも思えた。アクセルを元気良く踏み込んで駆け抜けた日々は遠い昔。二十九歳という年齢は十九歳と比べれば明らかに若くはない。けれど時々は立ち止まりながらでもいつまでもランナーであり続けたいという気持ちでいた。
 家へ帰るとまず風呂に入るのが習慣だ。身体中にまとわりついた汗や油やホコリやらを石鹸でゴシゴシと洗い流す。ここまでの作業が一日の僕のやるべき仕事と言えた。湯ぶねに浸かり窓から見えるまだ明るい空の瞬きをひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、数えてみる。
 風呂から上がると食事はしっかりとビールは適当に口の中に流し込んで、あと三割で満腹というところで缶ビールを一本持って自分の部屋へと引き上げる。
部屋に入るとスローモーションで見るヘッドスライディングの動きでベタッと床に滑り込み、それから数十秒間静止した後にゆっくりとラジオのスイッチに手を伸ばす。
「へぇ~恐竜かぁ~」と僕はつぶやく。
その日のラジオのDJ二人組みは恐竜についてあれこれ語っていた。
僕はなんとなくゴジラとイメージを重ね合わせてみた。
けれど恐竜は火を噴かないとのこと。
でももしも恐竜が火を扱っていたとしたら恐竜による文明が存在していたかも・・・と、考えが飛躍してしまう僕。僕はタバコを吸い込むとゴジラが火を噴くかのような姿を真似て煙を吐き出してみる。「キョウリュウ・・・」。現実からかけ離れているせいか仕事で疲れているせいかどこか心が癒されるような響きに感じられた。
 疲れがいくらかとれてきて、身体が少し軽くなったところでゆっくりと立ち上がり、窓辺に移動し飲みかけのビールをいっきに飲み干すと「少し足りないかな」と缶の底を覗き込む。そしてふと思う思う。この喉の渇きはきっと暑い夏のせいだろうと。そしてこの心の渇きはいったい何のせいなのだろうと。
 窓の外に目をやると草の茂みの中で幾つもの蛍たちが小さいながらも精一杯の力の生命の光を放ち続けていた。僕の指先の安っぽい煙草の光とは違う存在感の・・・。
 ラジオのDJは番組ラストのリスナーからのハガキの一枚を選んでいた。同じような思いが込められたカードの山、その中に僕のカードもまぎれていてハガキにはリクエスト曲も添えられてあった。DJがラジオから語りかけてくると僕は心を寄せずにはいられない。誰もが慰められたい気持ちに駆られている。
 ラジオのスイッチを切ると僕の記憶の中で流れている青春という名のメロディーが聴こえてきて僕はそのメロディーに導かれるままに記憶を一つ一つ手繰り寄せてみるのだった。



          ※     



【青春に捧げるメロディー】



 一つの障害物を越えるとまた次に新たな障害物が待っている。ハードルを一つクリアするともっと高いハードルが待ち受けていたりすることも。そのハードルの高さに立ち止まったり、悩んだり、ため息をこぼしたり。僕らは、アスリートのようには速くは走れないとしても走ることはできる。どんなに水が苦手だとしてもその気になれば泳ぐことだってできるだろう。僕らはどんなに自由でいられても容易く不満をこぼしたりする。愚かにも他人のせいにしたりもする。ニンジンが食べられないくらいで挫けることなかれ。アイスクリームを取り上げられたくらいで涙を流すことなかれ。他人が幸福に見えたとしても哀れることなかれ。


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 すべての現実は夢なのかも知れないと思うことがある。夢の中の出来事が現実であったならと思うこともある。現実なのか夢なのかどちらなのか区別がつかないこともあったりする。

「目を覚ませ!」
「えっ?」と僕は眠たげな目をこすり大きく見開くとそこは教室だった。
「なんだ。夢か・・・」のため息の次の瞬間、目の前に鬼のような形相の担任の先生の顔がゆっくりと現れた。
「なんだ 夢か、とはなんだ?」と先生。
『悪夢だ』と僕は心の中でつぶやいた。
「この大事な進路説明の時間に居眠りとは何事だ」の言葉とともに平手打ちの手が僕の頭をファールチップをしてかすめていった。と同時に先生のメガネがわずかに傾いたがその傾きは先生の右手によって瞬時に修正された。「いいか、社会へ出るということはどういうことなのかを一人一人が真剣に考えなくてはいけないぞ。居眠りが許されるような甘いところではないからな。わかってるか山下。いや、加藤」と僕に振り向きざまに先生。ちなみに僕の名前は山下でも加藤でもなかった。ファールチップをする時はする。名前を間違える時は間違える。どんなに真剣でいたとしても空振りをする時はして、三振をする時もあるのだという尊い教えなのだろう。
 高校卒業まで残りわずか一ヶ月を残して今更僕が成し得るべきことなんて見つけられるばすもなかった。この三年間を振り返ってみても、少しの期間バンドを組んだり、気まぐれにゴルフに興味を持ち何度かコースにも出たりしたがいずれもその程度までで夢中になるというところまでには至らなかった。なのでこの三年間をしいて位置づけるとすればサラリーマンの予備軍としての準備運動をしてきた期間だったかなと。そしてもし仮にあと一年時間時間が与えられたとしても状況はたいして変わることはなかっただろうと。

 言うまでもないが、僕のような目標無き生徒もいればそうでない生徒もいる。僕の一つ前の席の男は競輪選手を目指していて高校在籍中にして競輪学校の狭き門に異例とも言える一発合格を果たしたという人物であった。先生からもその進路は公認済みで、将来を嘱望されたいわゆる成功者の卵と言うべき才能の持ち主、いや、努力の持ち主で、同じ歳でありながら十代にして明確な将来像を持っていたという羨ましき存在の人物であった。進路面談の時にはもちろん彼は競輪選手を宣言し了承されていた。僕はその彼のムチャ振りな提案を実践して「プロゴルファーでお願いします」と宣言したのだがその発言はあっさりと却下された。
 アスリートにして気さくな性格のその彼は休憩時間の度に僕に振り返ってはひんぱんに競輪についての話題を熱弁してきた。そして時々ではあったが授業が終わった後に学校から徒歩五分の彼の家に立ち寄ってトレーニングを付き合ったりすることもあった。
 狭い物置部屋をトレーニングルームとして滝のような汗を撒き散らしながら半端でない迫力でベタルを漕いでいるその姿は圧巻の一言であった。少し遅れて訪ねて来た僕に気づくと充実した笑顔でサドルから降り、呼吸を少しずつ整えながら汗をたっぷりと含んだウエアを着替えてランニングの準備を始めるのだった。
「相変わらずのふっとい足だなあ」と僕が声をかけると
「胸板も腕もこのとおりの太さだ」とメジャーで測った正確な数値をあげながら鍛えあげた肉体の成長ぶりを示してくれた。一年365日。一日も練習を欠かしたことが無いと言う証をそこに見ることができた。
 競輪についてまったくの素人であった僕が参加できるトレーニングと言えばスタート練習時に後ろから自転車を手で支えることと近くの小さな山までランニングを付き合うことぐらいであった。僕は走ることは人並み以上には速い方であったが彼の走るそのスピードはまったくもってその非ではなかった
 同じ山を登り同じ山を下ったその後の道・・・。彼は予定どおり競輪学校に入学し、僕は半導体製造の会社へと就職した。


          ※


 学校に押し出されるように、社会から引っ張られるように、僕はいつしか社会人の一員として会社の中で労働に励んでいた。先生の教えもあって社会は厳しいところだと覚悟を決めていたがどんなに日々を重ねていっても想像していたような厳しさを感じるようなことはなかった。配属された職場のおじさんやおばさんや少し年上のおねえさんや遥かに年上のなんちゃっておねえさんなどなどみんなが好意的に僕らを迎えてくれた。それまではそんなに経験のなかった大人の人たちとの会話も刺激的で新鮮であった。なので仕事も快い気持ちで励むことができ、出勤する毎日が楽しみであった。高校時代の三年間封印していた心からの本来の自分の笑顔に毎日のように出会うことができてたように思えていた。そしてそれまでは校則で自由でなかった髪型も自分の思いのままに伸ばしたりパーマをかけたりとそういう自由さも満喫できていた。出勤時間に出社し職場の人たちと良好なコミュニケーションの中で労働に励み、そして勤務以外の時間では趣味として音楽、ゴルフ、野球、車、それぞれの分野の仲間たちと有意義な時間を過ごす日々。それらの状況は僕にとって心地良いものであったのでこの場所この環境に生涯我が身を置くことに何の迷いもためらいもなかった。   
 プロ野球選手の夢が叶わなかったから、プロゴルファーへの道を諦めたから、大学へ進むだけの学力が無かったからこその幸福。僕は生涯を通して歩むべき人生の道にいることを確信していた。
 そのうち自動車免許を取得し車を購入すると行動範囲が飛躍的に広がり、本人の行動力の進歩もあってか友達関係も男女共に増えていった。当時僕のまわりの男友達はみな競うように車のドレスアップに情熱を注いでいて僕もその例外ではなく、愛車シルビアハードトップに太いタイヤを履かせたりマフラーを大きな音が出る物に着け替えたりハンドルやオーディオなども純正とは違うものにして自分好みの一台にしていった。個性を主張する車と純朴なドライバーとのギャップに興味をそそられてかどうなのか、会社の何人かの女性から「助手席に乗せて欲しい」というたぐいの言葉をかけられることもあったりした。これまでの当十九年間の人生では存在しえなかった種類の青春のときめきといえた。
 そして青春とは考えるよりも閃きで行動するものなのだろうと。社会人になって最初の夏、盆休みに入る前日。仕事から帰宅すると高校時代の同級生の仲間たち数人が車と共に僕を待ち受けていた。
「今から宮崎へ行くことになったから・・・」と突然に。
僕はまったく予期するスケジュールでなかったのでどういう理由でそうなのかの説明をとりあえず聞いてみた。
「向こうでは女が六人待っていてだから車が三台と男が六人必要なんだ」との事であった。
結局はドライブもできるし行ってからの楽しみもあれこれ想像し安易に九州の旅を選択し親戚へ行く予定をキャンセルとした。セドリック、ファミリア、シルビアの三台にそれぞれ二人ずつが乗り込んでのドライブ、僕らは夜の高速をまっしぐらに走らせて行った。若さはすべてがエネルギーになるのか、途切れのない会話のせいか、仕事の疲れなどまったく感じることは無く、走るごとに開放感や愉快な気持ちが湧いくるだけだった。途中食料を買い込んだコンビニではなぜかみんな集まっての記念写真。それぞれがそれぞれのポーズの青春のフォトグラフ。そして三台と六人。闇にライトを燈し再び走り続けるのだった。


          ※


 三日前の食事のメニューは思い出せないのに十年二十年以上前の印象的なことは昨日のことのように思い出せたりする。
 三歳くらいのこと。街の繁華街にあったおじいちゃんの家へ初めて一人でお泊りをした時のことは今も鮮明に覚えている。お泊りの一夜明けた朝、すぐ向かいの肉屋さんでソーセージを一本買ってもらってそれを食べながら手をひかれながら散歩を兼ねて近所のおじいちゃんの友達や知り合いの家を訪ねて歩く。その後朝食をした後は靴屋のお店を営んでいたおじいちゃんが店に接した部屋で靴の修理をしている傍で仕事の様子を見たりして時間を費やしていた。退屈にしていたであろうその時間に僕は日めくりカレンダーに興味を示した。
「これ一枚ちぎっててもいい?」と言って承諾を得て一枚をちぎり取るとそれでは物足りなかったのか二枚、三枚と、次々をあたりが紙でちらかってしまうくらいにちぎり取ってしまう。それを見たおじいちゃんは当然のごとく僕を叱りつけるのだった。そして次にとった僕の行動は2階に上がり瓦屋根の先まで行くとそこから街の通りへ向けて立ちショウベンを実行したのだった。僕は雨だと思ってシッコとはバレないだろうと思っていたがおじいちゃんは慌てて店から通りへ出てきて僕に向かって凄い剣幕で叱りつけるのだった。やがて夕方になり両親が迎えに来ると僕は帰り際の車の中からおじいちゃんに向かって「ポンコツじじい」と、これまで溺愛してきてくれたおじいちゃんにそのような言葉を投げかけてしまうのだった。
 家の向かいのペットショップの小鳥さえずりで目覚めた記憶。道を挟んで存在していた公園はその姿こそ変わってしまったが敷地面積はそのままで今も公園として存在している。瞳を閉じれば一瞬にして当時の風景たちが蘇ってくる。


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 僕はプロじゃないから恋愛を失敗してしまうこともある。アマチュアだから気持ちを上手く伝えられないことだってある。僕がせめて大人の対応のできる人間であったなら失うことにはならなかった恋もあったと思う。そしてもう少しでも器用な男であったなら素敵な想い出の数ももっと多く作れたかも知れない。

 ある日のこと僕は風邪の症状でとある病院を訪ねた。先生に診察をしてもらって看護婦さんに注射を打ってもらった。
「熱は有りました?」と僕が聞くと、
「三十七度の微熱です。たいしたことないですよ」と看護婦さん。「三日分の薬が出るのでそれでも症状が治まらなかったらまたお越しください」と。
 そして僕は三日後に再びその病院を訪れた。体温は下がったがその看護婦さんに熱を上げてしまったのだった。
「これ読んでください」とお付き合いをしませんか?の内容の手紙を手渡して診察をすることなくその場を立ち去った。後日、今は誰かと恋をする気は無いので友達としてで良いのであれば一度電話をかけてきてください。という内容の返事の手紙が送られてきた。
僕はその文面を読んで遠回しに断わられたと解釈した。なので電話を指定された日曜日から一週間を過ぎた次の日曜日になんの期待も持たず電話を入れてみた。
「先週は一日電話を待ってました」と彼女。
「今は誰とも付き合う気はないんですよね。だから電話をする必要はないかなって」と僕。「恋愛は今は気が進まない心境というだけで友達としてあなたと付き合えたらって思っています。私もあなたのことが心のどこかで気になってました」と。どのくらい気になっていた証拠として病院で測定した僕の身長や体重や血液型などを記憶していて電話の会話の中で示してくれた。
 ということで僕らは友達としてではあったが交際をすることとなった。彼女は二十一歳で僕は十九歳であった。デートはドライブをしたり映画を観たり観光地へ行ったりと。やがてデートプランが尽きるとお互いが好物だったタコ焼きやハンバーガーや飲み物を買って夜景が綺麗な港に車を止めて取り止めの無いお喋りのキャッチボールを楽しみ有意義な時間を過ごした。
 そうやってデートを重ねるごとに彼女の僕への気持ちが日毎強くなっていることになんとなく気づいていたが、僕は最初に彼女が約束として「恋愛でなく友達として・・・」の言葉をかたくなに守り続けた。なのでたとえ彼女が恋人らしき行動を望んでいるでいるように感じたとしても何もしないでいた。彼女といろんな所へ出かけたり、お喋りをしているだけで喜びを感じられていたこの状況をいつまでも続けていきたいという気持ちでいた。

 そのような月日を重ねていたある日のこと僕らはいつものように夜のドライブへ出かけた。そして僕は道の途中に車を止めると彼女にジョーク混じりに何気なく言ってみた。
「キスしてもいい?」と。
 彼女はそれまでには見せたことのないようなはにかんだ表情になって少しうつむいた。僕はその表情を目にしているだけで満足な気持ちになれた。そして僕は彼女にキスを迫るような行動は取ることなくしばらく彼女の表情を眺め続けていた。そしてもっとからかってみようという気持ちで「ホテルでも行く?」とまったくのジョークのつもりで言ってみた。するとそれまでのはにかんだ表情が一瞬にして消えうせた。
「ホテルって何故?」と彼女。僕は慌てて冗談であることを伝えた。
「友達のカップルがこの前ホテルに行ったことを聞いたからちょっと言ってみただけだから」と。
「自分の気持ちじゃなくて友達が行ったから言ってみたんだ。私は行かない。もしどうしても行きたいなら他の誰かと行って」と少し悲しげな表情で。
「ただの冗談だから。もし怒ってるのなら謝るよ」
彼女は何も言葉を返してこなかった。
 気まずい空気が続き長い沈黙となっていった。そのまま車を止めているとやがてどこからか一匹の犬が運転席側の僕の近くへやって来て僕はその犬の頭を撫でたりしてすっかり犬に夢中になっていた。すると彼女が突然に早い動きで車から降りて外灯に浮かぶ薄暗い道をどこまでも駆け出して行った。いったいどこへ行くのだろうと僕はルームミラーからその姿を見たがすぐに車から降りて彼女を追いかけ、腕をグッとつかんで「どうした?何?」と声をかけた。
「離して」と彼女は僕の腕を振り払いながらその言葉を繰り返した。彼女の瞳からは涙が流れていた。初めて見る涙だった。
脱力した肩を抱きかかえると車までどうにか辿り着くとお互いのシートに戻り僕はあらためて彼女の横顔の頬を伝う涙を眺めた。
「いったいどうしたんだい?」と聞くと。
「あんなことを言って悩ませておいて・・・犬とばかり遊んで・・・私には何も話しかけてもくれないで・・・耐えられない・・・」と少しずつ小さくなっていく声で。
「ゴメン。冗談でもあんなことを言ってしまって。今日はもう帰ろう」と僕はエンジンをかけた。
「もう少し一緒にいたい」とうつむいたままで彼女。
僕はとりあえず車をどこへともなくしばらく走らせてそして彼女の家の前に車をつけた。彼女は少し時間をおいてためらうようにドアを開けゆっくりと車から降りると僕には何も告げることなく家の中へと入って行った。僕はタバコに火を点けると車の中でしばらく彼女の部屋の窓を見守った。やがて彼女の部屋に明かりが点いたが数秒後にすぐに消えた。僕は一本のタバコを吸い終わると車を走らせ帰宅の途についた。
 毎日必ずといっていいほど電話で会話をしていた二人だったがその日を境にどちらからも電話をしなくなった。よく分からないけどお互いそれぞれの中で答えを見つけるための時間が必要なのだろうと思えていた。そしてその期間はそれからしばらく続いた。


           ※


 会社は軟式の野球部が存在していてその実力は県内の大会などでは毎回のように優勝候補に挙げられるほどの強豪チームとのことであった。職場の野球部の人に連れられて練習の見学へ行ってみた。まだ人がそんなに集まっていなかったのでピッチャーズマウンドから遊びで投げさせてもらった。マウンドからピッチングをするのは中学生以来のことで野球をすることじたいがそれ以来のことだったのでとても新鮮であった。ボールとグラブをマジマジと眺めながらピッチャーズマウンドに立ちバッターボックスに向かい合うと「こんなに近くから投げていいのかな」と思うくらいにキャッチャーの位置がとても近くに感じられた。そして投球をしてみるとキャッチャーが戸惑うくらいのスピードボールに誰よりも僕が一番驚いてしまった。それを見ていたチームの正捕手の同級生Mがキャッチャーミットを手にして僕の前に現れてきてホームベース後方でキャッチングポーズを取っていた。僕はそのキャッチングフォームを見た時にこれまでに見たことのない本格的なキャッチャー姿を見たのだった。
後に噂を聞いたのだが彼は彼が高校時代の現役の硬式野球部でいた当時、県内ナンバー2の実力者であったとのこと。どうりで投げやすい完璧なキャッチングフォームをしていると思った。とういうことで僕は遠慮のないおもいっきりな投球を投げ込んでいったのだった。僕は投げる程に、振りかぶるテイクバックがサード方面から気がつけばショート方面までねじっていてそれに比例してボールスピードが上がっていった。その日の閃きでそのような投げ方になっていったいわゆるトルネード投法をトルネード投法が世間に登場する何年も前に僕はいち早く実践していたということになる。県内ナンバー2キャッチャーも気持ち良く受け取っているものと思いきや、あまりもの快速球、いや、剛速球のためかミットからボールをポロリ、ポロリと何度も落としていたのだった。僕としてはまだまだ腕も振れてもっと速いスピードボールが投げれるくらいの余力はあったのだが彼に恥をかかせることになってはと思い余力を残してその時のキャッチボールはそこそこで終えた。確かにスピードはかなり出ていたと思うが硬式野球をしていてしかも県内屈指のキャッチャーともなれば140キロどころか150キロ前後のスピードボールだってキャッチングすることはそんなには難しいことではないはずで。なのに何度もミットの土手などに当てたりして受け損なっていたのはなぜなのだろうと。しいて考えられることとしては僕のボールの握り方にあると思われる。ストレートボールを投げる場合に僕は一見カーブの握りに見えていて、縫い目に指を掛けるのではなく縫い目の上に指を置いて投げるというものだった。なのでミットにたどり着く直前に左右不規則に僅かに変化していると思われる。現在で言うことのカットボールである。世間で主流となるそのカットボールというものをその二十年以上前に既に投球してみせていたことになる。この握りは中学時代からずっとしていたが当時はスピードが無かったのでそういう変化にまで至らなかったのであったのだろう。
 ということで僕がその会社のエースピッチャーになったかというとそうとはならなかった。
理由は、簡単に言うと魔法がとけたからである。中学生以来のキャッチボールで自分でもあのようなスピードボールが投げられるとはまったく思っていなくて、なのでどのようなフォームで投げていたのかが思い出すことができず、次の日からはごくごく普通のどこにでもいるようなピッチャーに戻っていたのだった。当時そのボールを受けた同級生キャッチャーとその近くで一緒に見ていた数人の人たちだけが知っている幻の剛速球ピッチャー。間違いなくその人たちの記憶の中ではその後何年もインパクトある記憶として存在し続けたことだろうと。 


         ※


「こいつ楽器できるから・・・」
 バンド活動は会社の同僚Sのこんな言葉から始まった。昼休憩の時間、自動販売機近くに腰を下ろして缶ジュースを飲んでいた僕の目の前に二十代後半の男性(いわゆる会社の先輩)を連れて現れたSが僕を指差しながら「こいつ楽器できるから」の言葉をその先輩に告げたのだった。それに続く話の内容はバンドを結成したいからメンバーにならないかというものだった。僕は音楽は好きだったし特に断る理由もなかったのでその場でメンバー参加を承諾した。その先輩は以前に浜田省吾のコピーバントを組んでいて何度かステージの経験もあるとのことだった。僕は高校の時に暇つぶし程度に少しだけ仲間とバンド活動をしていてその時はベースを担当していた。ちなみに同僚Sはギターでディープパープルの曲を弾けると言っていたがそれは事実ではなくコードのFを押さえることすらままならないギターリストであった。
 何はともあれ人前で演奏できるくらいまで頑張っていうという目標でいこうという話になった。練習は市営の会館を利用し、練習日にはそれなりに真剣に取り組んだ。楽器担当は先輩はギターとボーカルで、Sはベースギターで、僕はドラムスということとなった。
 演奏曲は浜田省吾の曲でその中でも比較的簡単であるであろう曲を選曲したがそれでも練習は困難を極めていた。ベーシストはベースギターを初めて手にするというレベルで、音を出すことから、ドレミを覚えることから始めなければならなかったからだ。先輩が根気よく教え込んだこととSの努力もあって少しずつではあったが着実に進歩をしていってくれた。
 なんとか数曲が演奏できるようになった頃のこと、先輩が一人の女性キーボードプレイヤーを連れて来た。楽譜を見れば何でも弾けるレベルのテクニックを持っていてあっという間にレパートリー曲に厚みを持たせる役割 を果たしてくれた。女性が加入してモチベーションが上がったこともあってか、ベーシストの彼の自宅での練習の積み重ねもあってか練習日を迎えるごとの進歩は頼もしいものがあった。
 これなら人前に出て聴かせられるのではと思えてきた頃のこと、クリスマスパーティーで演奏するという話に僕の知らないうちにそういうことになっていた。勿論僕としては大歓迎だった。
 体育館を利用したパーティー会場は青年団主催ということもあってか若い人たちばかりで、男女半々の合わせて五十人くらいはいた。初ライブの僕らにしてみれば十分過ぎる観客数と言えた。
 そしてバンドメンバーの四人。リーダーは何度もステージに立っていた経験者なので舞台慣れしていたので何の問題も無く、キーボードの女性にはファンクラブでも存在しているかのごとく名前混じりの声援が飛びかっていてその声援に笑顔で応える余裕のしぐさでいて、僕は僕で人前でドラムを叩くことの喜びだけで胸が一杯ででワクワクな感情の感無量の面持ちでいた。唯一心配の種のベーシストは少しばかり落ち着かない様子ではあったがここ一番の集中力で練習どおりのパフォーマンスを発揮することだろうの雰囲気をかもし出しているように見えた。

 一組目のバンド演奏が華麗なままに終了し、いよいよ僕らの出番となった。
 演奏の準備が整い、会場の明りが落とされスポットライトが僕ら四人を照らし出した。まずは勢いよくオープニングナンバーにふさわしいハイテンポの曲「終わりなき疾走」でスタート。練習どおりに軽快にそして順調に演奏は始まった。リーダーは浜省のごとく力強いアクションをまじえながら熱唱の中にいた。ベーシストSも指先にすべてを集中させて役割をこなしていた。ドラムのすぐ左横ではキーボードプレーヤーのお姉さんが余裕の笑みで軽やかに鍵盤を叩いていた。そして曲のプランのすべてを把握し何の心配のなかった僕は軽快なビートを刻みながらスポットライトの眩しさに陶酔しきっていた。が、そんな僕の頭の片隅に「?」マークなるものが浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返すのだった。僕はその「?」マークの意味が何であるのかを探りながらも演奏を続けるのだった。そして一曲目の演奏が半ばあたりにきたところでふと自分の足元に目をやるとドラムのペダルをキックする度にそのドラムが少しずつ前進し僕から離れて行くのが目に入ってきた。体育館の床の滑りによるハプニングであった。激しいロックナンバーであったためその滑りを食い止めることは不可能と言えた。だからといって途中で演奏を中断するわけにもいかず、離れて行くドラムに足をなんとか届かせながらビートをキープし演奏を継続していく他になかった。
 一曲目が終了する頃には僕の右足は今にもつりそうなくらいに伸びきっていて足を乗せたペダルに付属する太鼓はすでに手の届かない遥か遠くのところまで離れていた。一曲目が終わると二曲目に備えるべく急いで離れたドラムを元の位置に引き寄せた。リーダーはそんなハプニングに気づくことなくメンバーを代表して拍手に応えていた。ドラムのすぐ左横に位置していたキーボードのお姉さんだけがその状況に気づいていて、手で口元を隠しながらお腹を押さえながなおもいっきり笑っていた。僕は首をかしげながら、ドラムの位置を修正しながら、ただ苦笑いをするしかなかった。そして二曲目以降のことを考えるとため息さえも出ないのだった。
 なぜに僕のドラムだけが・・・と、もう一組のバンドのドラムを見てみるとドラムセットの下にしっかりとカーペットが引かれてあってしっかりと滑り対策がなされてあった。なるほどね。当然のことだよね。と、息を弾ませながら、太鼓を引き寄せながら。   
 ラストナンバーの最後の音を叩き終えた時にはドラムセットのそれぞれのパーツは僕の手や足の届かないところまで散乱していた。唯一僕から離れることはなかったイスに腰掛けたままで他のメンバーがこれらの状況に気づいてくれるのを待ったがただ一人声をかけてきたのはキーボードお姉ちゃんだけで「大変だったね」と笑い顔を両手で隠しながらそう言ってきただけだった。
 その後バンドは何度かのメンバーチェンジをしながらも活動を続けていきレパートリー曲も増え、ライブ演奏も、地元のデパートと会社のクリスマス会の二つのステージをこなした。いずれのライブも「青春してるなあ」と思えるような荒削りさが健在なパフォーマンスであった。


          ※


 1963年9月。イギリスのヒットチャートではビートルズの「シー・ラブズ・ユー」が1位に君臨していて記録的なレコード売り上げをしていたその頃9月15日、日本のとある病院では生死をかけた出産が行われていた。この世に生を受けるべき予定日に出産は困難を極めていて母子のどちらかの生命を諦めなければいけないという究極の選択を迫られた。子供は次の機会に期待することにして母親の生命を優先させるという決断がなされた。帝王切開で先生の手で取り上げられた小さく弱りきった生命の口からは予測どおり泣き声を聞くことはなかった。先生がその赤ん坊の両足をつかみ、逆さにした状態で何度かホッペを叩いているうちに突然に大きく元気な産声を高らかに病室中に響かせたのだった。ということで僕は良い意味での期待を裏切って奇跡的にこの世に生を受けることとなった。もちろん母親も危険な状態を乗り越えて以前の体調を取り戻し、初めての我が子との対面を果たすこととなったのだった。偶然なのかどうなのか、僕が初めて買ったビートルズのレコードはその「シー・ラブズ・ユー」でこの曲ばかりを聴いていて母親から「飽きずにまたイエーイエーイエーの曲かね」と言われるほどであった。僕が生まれた当時、世界で最も売れていたレコードがこの曲であったと知ったのはそれから何年も経った後のことであった。僕にとって運命の曲と言っていいかも知れない。


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 1984年5月。ゴールデンウィークの連休を利用して書きためていた数作品の歌詞を綴ったノートを持って音楽出版社へ持ち込みを試みた。車での上京。東京に着くとまず地図を購入し、次に電話帳で有名どころの音楽出版社の住所をメモに書き写し、地図で一つ一つ所在地を探し出す。
「作品を読んでもらいたいので担当者の方にお会いしたいのですが」と受付で申し出ると「担当の者は連休で不在でございます」と、すべての出版社でそのような返答をされた。
「受付でお預かりして後日担当者へお渡しすることはできますが」と二社の出版社でそう言ってもらえたのでとりあえずということでノートだけをを預けて仕方なく帰宅した。数日後、その二社の担当者からワープロ書きの文章で不採用の趣旨の回答が作品ノートと共に返送されてきた。「夢はこれで終了」。今後はごくごく平凡な人生に落ち着こう・・・と、そうする予定でいたのだが・・・。


          ※


 ある人にとっては一日は長く、またある人にとっては一日は短い。夢を見ることの素晴らしさ。そして夢を実現させる努力の尊さ。そして夢を現実のものにすることは容易いなものではなくて・・・。
 僕は悩んでいた。社会人になって三年目になったころから一年くらい悩み続けていた。
このままの日常でいいのかと。これといって不満のない日常ではあったが僕が望むべき道は別にあるように思えてならなかったのだ。僕の中に見え隠れしている『詩人』という才能。その才能がどれ程のものなのかを確かめてみたいという思いが日ごと強くなっていった。
 そんなある日、僕の元へ舞い込んできた情報。親友の一人が癌であると・・・。
随分前にヘルニアと診断され、長い間ヘルニア治療に専念していた彼の病は本当は癌であったのだった。まったくの誤診である。即座に入院、そして大手術。術後友達たちと見舞いに行った時彼の左足は存在していなかった。それを試練と呼ぶにはあまりにも過酷過ぎた。病気以前の彼ははスポーツ万能で会社でもアスリートとして野球やマラソンなど幾つもの競技で活躍し存在感を示していたスポーツマンであった。病は彼からそれら沢山のものを奪っていった。
 夢への道を固めつつあった僕であったがさすがに彼の病を知ってからは夢への決心は揺らいでいた。上京してしまえば三年、四年は帰ってこないつもりでいたから。
そして彼に告げられた余命は三年も満たないものと聞かされていた。結局僕は四年間勤めた職場を離れることを決断し、多くの温かい人たちに後ろ髪を引かれながらも退職願を提出した。そしてまだ上京の準備段階ではあったが退職の翌日より自宅にて早速創作活動を開始した。一刻も早く良い作品を作り出して一刻も早く認められて成功し病の彼やその他の親友たちに再会するためにと・・・。


          ※


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