ポエムガーデン

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   青春に捧げるメロディー 序章 ( 1993 夏 )








 二十代最後の夏。社会人十二年目という月日。天職と思えていたはずの働きの場を替えたのはこの会社で何度目だろう。前回サヨナラした会社はどんな理由で辞めてしまったのだろう。そして昨夜のらくがきノートにはどのような代物が綴られたのか。そして今日一日に飲んだ麦茶の量はどのくらいなのか。記憶を手繰り寄せればそれらのすべてに答えることは容易いだろう。
 一日中身につけていた汗と油とホコリでまみれた作業着を脇に抱えて会社のロッカーを後にする。蒸し暑かった昼間のあのむんとした空気を僅かに含んだ風が、沈みかけの夕陽の色に染まった駐車場を爽やかに吹き抜けていた。さっきまであくせくしていた工場を振り返ってみると事務所の窓のブラインドがすべて下げられようとしているところだった。今日一日の戦いが終わったという合図だ。
「お疲れさん!」同僚が車から元気な声を投げかけながら僕の前を走り去って行った。
「お疲れさん!」す81かり通り過ぎて行った車に向かって高々と手を上げて僕はそれに応えるのだった。長い影をひきずりながらゆっくりと車の中へ滑り込むと僕も帰宅の途へと走り出すべくエンジンキーを回転させる。カーラジオからご機嫌なナンバーに乗っていつものDJのお姉さんの「お仕事ご苦労様です」の労いの言葉が聞こえてくる。僕はいつものように「どういたしまして」と心の中でつぶやいた。
 労働に全力をつぎ込んで体力はすっかり消耗され、握るハンドルには寄り道をするだけの余力は持ち合わせていなかった。夕方の帰宅ラッシュ時。車の渋滞のスロースピードは疲れでパワーが出せない故のスピードのようにも感じられた。アクセルを元気良く踏み込んで駆け抜けた日々は遠い昔。二十九歳という年齢は十九歳と比べれば明らかに若くはない。けれど幾つ年齢を重ねても目標を持ったランナーで有り続けたかった。
 家へ帰るとまず風呂に入るのが習慣だ。身体中にまとわりついた汗や油やホコリやらを石鹸でゴシゴシと洗い流す。ここまでの作業が僕がやるべき一日の仕事と言えた。湯ぶねに浸かると自然と空に目をやり瞬きを数えたりもする。
 風呂から上がると夕食をゆっくりと噛みしめるように口へ運び、合間にビールも適当に流し込む。あと三割くらいで満腹かなというところで缶ビールを一本持って自分の部屋へと引き上げる。部屋に入るとスローモーションで見るヘッドスライディングの動きで床にベタッと滑り込み、それから数十秒静止した後にゆっくりとラジオのスイッチに手を伸ばす。
「へぇ~恐竜かぁ~」と僕はつぶやく。その日のラジオのDJ二人組みは恐竜についてあれこれ語っていた。僕はなんとなくゴジラとイメージを重ね合わせてみた。けれど恐竜は火を噴かないとのこと。でも、もしも恐竜が火を扱っていたとしたら恐竜による文明が存在していたかも・・・と、考えが飛躍してしまう僕。僕は煙草を吸い込むとゴジラが火を噴くかのごとく姿を真似て煙を吐き出してみる。「キョウリュウ・・・」。現実からかけ離れているせいか仕事で疲れているせいかどこか心が癒されるような響きに感じられた。
 疲れがいくらか軽減されてきて、身体が少し楽になってきたところでゆっくりと立ち上がり、窓辺に移動し飲みかけのビールをいっきに飲み干す。「少し足りないかな」と缶の底を覗き込んでふと思う。この喉の渇きはきっと暑い夏のせいだろうと。そしてこの心の渇きはいったい何のせいなのだろうと。
 窓の外に目をやると草の茂みの中で幾つもの蛍たちが小さいながらも精一杯の生命の光を放ち続けていた。僕の指先の安っぽい煙草の光とは別の種類の存在感の・・・。
 ラジオのDJの元へは様々な思いが込められたリスナーからの葉書きや手紙が寄せられている。その中には僕のリクエスト葉書きも紛れていた。ラジオからDJが語りかけてくると僕は心を寄せずにはいられない。きっと誰もが慰められたい気持ちにかられている。
 番組の放送が終わり、ラジオのスイッチを切った後の静寂の中。僕の心に聴こえてくる幾つもの青春時代のメロディー。僕はそのメロディーたちに導かれるままに遥かなる懐かしき記憶を一つ一つ手繰り寄せてみるのだった。










   青春に捧げるメロディー







 一つの障害を乗り越えるとまた次に新たな障害が待っている。ハードルを一つクリアするともっと高いハードルが待ち受けていたりすることも。そのハードルのあまりの高さに立ち止まったり、悩んだり、ため息をこぼしたり。僕らは、アスリートのようには速くは走れないとしても走ることはできる。どんなに水が苦手だとしてもその気になれば泳ぐことだってできるだろう。僕らはどんなに自由でいられたとしても容易く不満をこぼしたりする。愚かにも他人のせいにしたりもする。ニンジンが食べられないくらいで挫けることなかれ。アイスクリームを取り上げられたくらいで涙を流すことなかれ。他人が幸福に見えたとしても哀れることなかれ。

            ※

 夢の中の出来事が現実であったならと思うことがある。すべての現実は夢なのかも知れないと思うこともある。現実なのか夢なのか区別がつかないこともあったりする。
「目を覚ませ!」
「えっ?」と僕は眠たげな目をこすり見開いてみるとそこは学校の教室だった。
「なんだ、夢か・・・」のため息の次の瞬間、目の前に鬼のような形相の担任の先生の顔がゆっくりと現れた。
「なんだ夢か、とはなんだ?」と先生。
『悪夢だ』と僕は心の中でつぶやいた。
「この大事な進路説明の時間に居眠りとは何事だ」の言葉の次の瞬間、平手打ちの手が僕の頭をファールチップをしてかすめていった。と同時に先生のメガネがわずかに傾いたがその傾きは先生の自らの手によって瞬時に修正された。「いいか、社会へ出るということはどういうことなのかを一人一人が真剣に考えなくてはいけないぞ。居眠りが許されるような甘いところではないからな。わかってるか山下。いや、加藤」と僕に振り向きざまに先生。ちなみに僕の名前は山下でも加藤でもなかった。人間誰しもファールチップをすることもあれば、名前を間違えることだってある。どんなに真剣でいたとしても空振りをする時はするし、三振をしてしまうことだったあるのだという尊い教えなのだろう。
 高校卒業まで残りわずか一ヶ月を残して今更成し得るべきことなんて見つけられるばすもなかった。仮にあと一年間学生生活が追加で与えられたとしても僕が期待するような進歩や収穫が得られるとは思えなかった。この三年間を振り返ってみてもそこに輝かしい何かを見つけられることもなかった。学生服を着て教科書を開いて黒板と対面していたとしても授業を聞いていなければ寝ていたのと同じことで、なので僕の高校三年間は「なんだ、夢か・・・」の僕の言葉はあながちで間違いとも言えなくもないだろう。
 僕のように目標とするような夢が持てず適当な日々を過ごしていた生徒もいれば明確な夢を持ち、着実に実現へと向かっている生徒も勿論いた。教室で僕の一つ前の席の男は競輪選手を目指していて高校在籍中にして競輪学校の狭き門に異例とも言える一発合格を果たしたという人物であった。先生からもその進路は公認済みで、将来を嘱望されたいわゆる成功者の卵と言うべき才能の持ち主、いや、努力の持ち主で、同じ歳でありながら十代にして揺るぎない将来像を持っていた羨ましき人物であった。進路面談の時にはもちろん彼は競輪選手を宣言し即座に了承された。順番が彼の後だった僕に彼は耳元で「プロゴルファー、プロゴルファー」とムチャ振りな言葉を洗脳するのだった。僕は部屋に入るなり「プロゴルファーでお願いします」と思わずそう宣言してみたが、呆れた表情の先生は腕を組み「どのくらいのスコアでまわる?」と聞いてきたので僕のベストスコアを告げると「ワシより下手じゃん。現実的に考えろ」と僕の宣言はあっさりと却下された。

 アスリートにして気さくな性格のその男は休憩時間の度に僕に振り返っては競輪についての情報をいろいろと熱弁してくるのだった。将来の競輪界のスーパースターと会話をしているのだと思うと自然とこっちまでテンションが上がったりするのだった。そして時々ではあったが授業終了後、学校から徒歩五分くらいの彼の家に立ち寄ってトレーニングに付き合ったりすることもあった。
 狭い物置部屋をトレーニングルームとしていてそこで競技用自転車を滝のような汗を撒き散らしながら半端でない迫力でベタルを漕ぎ続けているその姿は圧巻の一言であった。少し遅れて訪ねて来た僕に気づくと充実した笑顔でサドルから降り、呼吸を少しずつ整えながら汗をたっぷりと含んだウエアを着替えてランニングの準備を始めるのだった。
「相変わらずのふっとい足だなあ」と僕が声をかけると、
「胸板も腕もこのとおりの太さだ」とメジャーで測った正確な数値をあげながら鍛えあげた肉体の成長ぶりを示してくれた。数年前、競輪を目指すことにした瞬間から一日たりとも練習を欠かしたことが無いと言う証をその筋肉に見ることができた。
 競輪についてまったくの素人の僕が参加できるトレーニングと言えばスタート練習時に後ろから自転車を手で支えることと近くの小さな山までランニングを付き合うことくらいだった。僕は走ることは人並み以上に速い方であったが彼の走るそのスピードはまったくもってその非ではなかった。
 同じ山を登り同じ山を下ったその後の道・・・。彼は予定どおり競輪学校に入学し、僕は半導体製造の会社へと就職した。

            ※

 社会への扉を目の前にして、もう子供へは後戻りできないのだという覚悟を噛みしめる。アッという間に過ぎ去り終わってしまった青春という日々に対する寂しさと、もっとエンジョイしておくべきだったという後悔とが心の奥底で入り混じっていた。そして本当のところの社会とはどういうところなのだろうという不安感。そしていつもはいる仲間たちが傍にいないことの孤独感。社会への未知なる扉の向こう。まさかそこに新たなる青春、これまでとは違う種類の第二の青春が待ち受けていようとは知るよしもなく・・・。

 学校に押し出されるように、社会から引っ張られるようにして参上したネクストステージの舞台。社会人としての生活がスタートした。僕ら生まれたての社会人。右も左も分からないプレーヤーさ。野球のルールは知っている。ゴルフのルールも知っている。社会では隠し球というルールは存在するのだろうか。大人とのコミュニケーションにOBという名のペナルティーは存在するのだろうか。
 一週間程度の研修を行った後、新入社員は各部署へとそれぞれ二名ずつの割合で配属された。当然そこにはこれまで毎日のように顔を合わせていた同級生たちの姿は無く、会う人会う人が年齢のまちまちな初顔合わせの男女ばかり。僕はその人たちにどのように扱われるのだろうかと。僕はその人たちにどのようなキャラクターで接すればいいのだろうかと。あれこれ考えているうちに社会人の先輩である大人たちの方からまるでずっと昔から近所付き合いをしてきた住人に接するかのように気さくにいろいろと話しかけてきてくれたのだった。会話は、さすが大人、と思えるようなクリーンヒットもあれば、微笑みで応えるしかないようなおちゃめなスリーパットもあったりした。僕はその職場の和やかな雰囲気と対面して、初日の午前中の段階にしてそれまで抱いていた不安という暗雲から解き放たれた思いになれた。それでも社会人一日目を終えた後には気持ちが張り詰めていたこともあってかさすがに心も体もくたくたに疲れきっていた。帰宅時の電車では椅子に腰を下ろし電車が心地良い揺れと同時に走り始めたかと思うと僕はすっかり熟睡モードの眠りについたのだった。やがて目覚めると下車するべき駅をすっかり通り過ぎていて隣り町の駅まで乗り過ごしてしまっていた。

            ※             

 当時、原付免許のみを取得していた僕は50CCバイクが主な移動手段で、自宅から最寄り駅までの移動や近所のスーパーやコンビニの買出しに活用していた。休日など本来は家に居るよりもバイクでどこかへ走って行きたいという願望はあったが原付二輪車で大型車両の交通量の多い国道を危険というリスクを負ってまで走る気にはなれなかった。
 最初の数ヶ月間は会社への通勤は学生時代と同様に電車の利用だった。新入社員の男子のほとんどと一部の女性は入社以前の高校時に既に自動車免許を取得していてマイカーもそれぞれに所有していた。僕としては電車通勤で何の不満も無かったが、夜勤を含めた交代制勤務になった時に電車では対応できないということで上司から指示され自動車免許を取ることとなった。運動神経には自信があった僕は自動車学校での運転の実技はノーミスですべてをクリアしていったが、けれど最後の最後に待ち受けていた筆記試験では二度も不合格となり三度目にしてようやく合格し、免許取得となったのだが、職場では不合格の連続のつまづきは笑いの種となっていて会う人会う人に愛情有る突っ込みを入れられた。けれど僕的にはある意味面白エピソードを職場の人たちに提供でき、僕のマイペース的キャラクターも印象付けられて結果的に不合格は正解だったかなと思えた。
 何はともあれ僕のカーライフがスタートしたことで僕の人生は思いもかけないほどに大きく変わっていった。三十六回払いで購入したシルビア(中古)というツードアクーペのオーナーとなった僕は車を運転したいがために同級生の仲間たちの家へ頻繁に訪ねるようになって、時には友達を横に乗せてドライブをしたり、そのまま別の友達の所へ立ち寄って合流し、数台の車を連ねて夜の街へとドライブしたりしていた。僕よりも以前に車を所有していた仲間たちのほとんどがノーマルな車を個性ある車へドレスアップを施していたので僕もそれらの車にならって、ハンドルは握りが太く径の小さい物にし、タイヤは車幅ギリギリの大きな物にし、マフラーは大音量の物にし、コンポも音質とデザインに拘った物にし、その他内装もいろんな部分を自分好みに替えていった。いわゆる違反切符を切られるような暴走族仕様とは違って、あくまでもルールの範囲内での仕様であった。
 そこまで車が変身したことで運転する人物の人格も変わったかというとそうとはならず、けれどそれまでの50CCバイクを乗っていた頃とは気持ちの持ち方は明らかに違っていて一気に大人の仲間入りを果たしたという感覚と同時に学生時代の青春とは違った種類の第二章目の青春という名のレースのスタートラインに立ったような感覚でいた。行動範囲が飛躍的に拡大したことだけでも革命的に思えたが加えて、ドレスアップ車とノーマル男とのミスマッチが新鮮に感じられたのかどうなのか、仕事終わりの駐車場で同期の女子が僕の車の傍に立っていて「家まで送って欲しい」とか、また別の日の別の女子からは「助手席に乗せて欲しいな」などの言葉をかけられることが当たり前のようになっていった。

 会社での人間関係は新人歓迎会やボーリング大会など、職場での行事の毎にコミュニケーションの良好さはどんどんと増していった。いろいろな人たちと様々な会話をすることが新鮮で刺激的だったので、毎日会社へ行くのが楽しみでならなかった。僕のこれまでの人生はこの会社の人たちに出会うためにあったんじゃないかとそえ思えるくらいだった。一方、学生時代からの長い歴史を共有し友情を築き上げてきた地元の同級生の仲間たちとは変わらぬ信頼関係を継続していた。
 社会人になって初めての夏、盆休みの前日のこと。仕事から帰宅するとその仲間たち五人が二台の車と共に「待ってました」の笑みを浮かべながら僕を待ち受けていた。
「今から宮崎へ行くぞ」と突然に。僕としてはまったく予期してなかった提案だったのでその経緯を聞いてみたところ「向こうで女が六人待っているからこっちで男六人と車が三台必要なんだ」と、分かったような分からないような理由だった。僕は既に家族と親戚の家へ行く予定になっていることを告げたがみんなしてしつこく説得してくるので親に宮崎行きを伝えてみた。長距離でしかも免許を取って間もないことに心配をしたが最終的に僕と仲間の意思を尊重し承諾してくれた。適当な着替えの衣類をバックシートに投げ込むと、セドリック、ファミリア、シルビアにそれぞれ二人ずつ乗り込んで青春という名のアクセルを力強く踏み込み高速道路の先、宮崎の二泊三日の旅へと走り出したのだった。
 つい数ヶ月前までの、制服姿で狭い部屋で退屈な会話に終始していた状況とはまったく違い、カーコンポからのご機嫌なBGMの中、煙草の紫煙をくゆらせつつ様々に表情を変える景色を車窓越しに望みながら交わされる会話は開放感で溢れていた。途中食料を買い込んだコンビニの駐車場で旅の証にとカメラに収めたフォトは少年と大人とを微妙に融合させたような表情が正直に写された。そして再び車に乗り込むと暗闇にライトを照らし走り始めた三台と六人であった。
 移動の車中での会話の中で知らされたのだけれど、このメンバーの中の一人が以前に宮崎の女性と知り合い、もう一度その女性に会いたいということからこの旅が設定されたということだった。宮崎に着くと合流した女性六人たちと数箇所の名所を訪ねてまわったりしてまあそれなりに観光は楽しめた旅だった。

            ※

 社会人に成りたてのその当時はまだみんな彼女は居なく、それぞれが恋愛相手を模索している状況だった。僕も素敵な出会いを求めるべくアンテナを張り巡らせていた。そんなある日、僕は恋愛のことなど考えられないくらいの風邪の症状を抱えてとある病院を訪ねた。先生に診察をしてもらい看護婦さんに注射を打ってもらった。
「熱は有りました?」と僕が聞くと、
「三十七度の微熱です。たいしたことないですよ」と看護婦さん。「三日分の薬が出るのでそれでも症状が治まらなかったらまたお越しください」と。
 そして僕は三日後に再びその病院を訪れた。風邪は治り体温も下がったが僕はその看護婦さんに熱を上げてしまったのだった。
「これ読んでください」とお付き合いをしませんか?の内容の手紙を手渡して診察をすることなくその場を立ち去った。後日、今は誰かと恋愛をする気は無いので友達としてで良いのであれば次の日曜日の十二時くらいに電話をかけてきてください。という内容の返事の手紙が送られてきた。僕はその文章を読んで遠回しに断わられたのだと解釈した。なので指定された日にも電話をすることはなく、それから一週間を過ぎた次の日曜日に特に何の期待も持たずなんとなく電話を入れてみた。
「先週の日曜日は一日電話を待ってました」と彼女。
「今は誰とも付き合う気はないと書いてあったのでだから電話もする必要はないかなって」」と僕。
「恋愛は今は気が進まない心境というだけで友達としてあなたと付き合えたらって思っています。私もあなたのことが気になってました」と。どのくらい気になっていたかの証拠として病院で測定した僕の身長や体重や血液型などを記憶していて電話の会話の中で示してくれた。ということで僕らは友達としてではあったが交際をすることとなった。彼女は二十一歳で僕は十九歳であった。
 デートはドライブをしたり映画を観たり観光地へ行ったりと。観光地へ行った時には弁当を作ってきたり、父親のカメラを借りてきたりと彼女の方が僕よりも張り切っている感があった。やがてデートプランが尽きてくるとお互いが好物だったたこ焼きと飲み物を買って夜景が綺麗な港に車を止めて取り止めの無いお喋りのキャッチボールを楽しむというパターンを繰り返すようになった。そうやってデートを重ねるごとに彼女の僕への気持ちが次第に強くなってきているように思えていた。けれど僕は最初の約束として「恋人ではなく友達として・・・」の彼女の言葉を守り続けていくべきだろうと思っていた。現状の関係で十分楽しめていたので友達以上のことを僕から求めることはしないでおこうと。

 僕がデートを重ねているうちに他の同級生仲間たちも次々と彼女を作っていった。僕のように慎重に時間を掛けて恋を育む者もいれば、行動が早く次々と勝負を掛けていく奴もいた。
仲間同士で集まる度にそれぞれのカップルの進展状況の情報交換をしたりアドバイスをし合ったりする会話はいつも盛り上がった。みんなが付き合いの歳月に比例して男女の関係になっていくのに対して僕の恋が進展しないことにいろいろとアドバイスを聞かされた。共通した意見として、もっと男からリードしていくべきだと。
 僕のそれまでの恋愛経験としては小六の時に向こうから告白されて付き合ったのが最初で担任を含め学級の全員が知っているという公開交際とでも言うべきものだった。なのでどんな会話を交わしたとか、どんなプレゼントを交換したのかなどクラス全員が知っていたという間抜けなカップルであった。中一の時には「交換日記をしてほしいという人がいるけどどうする?」と、その女性の女友達から問われて、けれど僕は断ったのだった。僕はその女友達に恋心を抱いていたから。高校では三年間まったくと言っていいほど女性と会話をする機会が無かった。だから恋愛経験はこれからという時の彼女との出会いであったから女性のしぐさや言葉の何が本当で何が偽りなのかを瞬時に判断することは得意とは言えない男なのであった。 

 そして友達からのアドバイスを頭の片隅に置きつつのいつものたこ焼きデート。カップルが乗った車が集まるような夜景の綺麗な港へ行っていつものように近況報告などの会話を交し合う。そして有意義な時間を費やした後、今日のデートは終了ということで彼女を家へ送るべく車を走らせるのだった。そんな車中でいつもと違うアプローチの試み。
「キスしてもいい?」と。車を走らせながらジョークっぽい口調で何気なく言ってみた。ちらっと彼女を見てみるとそれまでには見せたことのないようなはにかんだ表情でうつむいていた。僕はその表情を目にして、彼女は僕からのこの言葉を待っていたんだと理解できた。彼女の家からそんなに遠くない場所の車の通りがほとんど無いような路肩に車を止めるとしばらく彼女の表情を眺め続けていた。僕はジョークで彼女を笑わせることを得意としていて、これまでほとんど100%の確率で笑いを取っていたので今の雰囲気を少し和らげるためにもと120%のジョークのつもりで「ホテルでも行ってみる?」と言った。するとそれまでのはにかんだ表情は一瞬にして消えうせ、鋭い目で僕の目を見てきた。
「ホテルって何故?」と彼女。僕は慌てて冗談であることを伝えた。
「友達のカップルがこの前ホテルに行ったということを聞いたからちょっと言ってみただけだから。ジョークだから」と。
「自分の気持ちじゃなくて友達がそうしたから言ってみたんだ。私は行かない。もしどうしても行きたいなら他の誰かと行って」と少し悲しげな表情で。
「ただの冗談だから。もし怒ってるのなら謝るよ」と僕。彼女は何も言葉を返してこなかった。
 車内は気まずい空気となり、沈黙の時間が続いた。気の利いた言葉を見つけられずそのまま車を止めているとやがてどこからか一匹の犬が運転席側の僕の近くへやって来た。僕はその犬の頭を撫でたりしてすっかり犬に夢中になっていた。すると彼女が突然に早い動きで車から降りて外灯に浮かぶ薄暗い道をどこまでも駆け出して行った。いったいどこへ行くのだろうと僕はルームミラーからその姿を見ていたがすぐに車から降りて彼女を追いかけ、腕をグッとつかんで「どうした?何?」と声をかけた。
「離して」と彼女は僕の腕を振り払いながらその言葉を繰り返した。彼女の瞳からは涙が流れていた。初めて見る涙だった。脱力して座り込んだ彼女の体を両手で抱き起こし、車までどうにか辿り着くとお互いのシートに戻り僕はあらためて彼女の横顔の頬を伝う涙を眺めた。
「いったいどうしたんだい?」と聞くと。
「あんなことを言って悩ませておいて・・・犬とばかり遊んで・・・私には何も話しかけてくれなくて・・・」と、力無いゆっくりとした口調で彼女。
「ゴメン。軽々しくあんなことを言ってしまって。今日はもう帰ろう」と僕はエンジンをかけた。
「もう少し一緒にいたい」と、うつむいたままで彼女。
僕はとりあえず車をどこへともなくしばらく走らせてそして彼女の家の前に車をつけた。彼女は少し時間をおいてためらうようにドアを開けるとゆっくりと車から降り、僕に何の言葉を告げることなく家の中へと入って行った。僕はタバコに火を点けると車の中でしばらく彼女の部屋の窓を見守った。やがて彼女の部屋に明かりが点いたが数秒後にすぐに消えた。僕は一本のタバコを吸い終わるとゆっくりと車を走らせ帰宅の途についた。
 それから一週間が過ぎ二週間が過ぎても彼女からの電話は無かった。この恋は終わってしまったのだろうかと日毎そういう気持ちが大きくなっていった。そして三週間が過ぎ四週間が過ぎても電話は無かった。
 僕はプロじゃないから恋愛の次の展開をどうしていいか分からないでいた。アマチュアだから彼女の正確な気持ちを理解できないでいた。僕があと少しでも大人の対応のできる男であったなら彼女を傷つけることにはならなかっただろう。あの時彼女に一秒でも口づけてたなら二人は幸福を共有できたことだろう。僕が人並みに恋愛経験を積んで沢山の引き出しを持った後に彼女に出会っていたとしたら一度つかんだ手を二度と離すようなことはしなかっただろうと。以前、まったくのジョークで「俺、東京へでも行こうかな」と言った時には「今の仕事を辞めて着いて行きたい」とまで言ってくれた彼女。僕のジョークを一生を通じて聞き続けていたいという思いでいたいと真剣に思っていたのかもと、何年もの歳月が過ぎた後になってから気づく僕であった。

 雨上がりに輝く虹の架け橋。心に浮かぶ七色が色褪せた想い出を鮮やかに蘇らせる。甘酸っぱい香りの記憶たち。恋はその度に眩しく初々しい。その度にピュアでけがれない。涙したり笑ったり、恋はその度にせつない詩人にさせられる。

            ※  

 「ロックンロールは最高だ」と言うときまって誰かに笑われる。ロックンロールが新しいものだか古いものだかなんだかわからない人たちが笑う。僕はいつも楽器を身につけている。4ビートの靴を履き、8ビートの服を着て、16ビートのジョークをとばす。ロックンロールが海のものだか山のものだかなんだかわからない頃にすでに身につけていたいくつものビートを刻む。ロックンロールはビタミンだ。ロックンロールは勇気だ。ロックンロールは朝ご飯だ。と、僕らが唄うとロックンロールが足りない紳士淑女の人たちが少年少女の瞳になってあどけなく笑う。

 人と良好なコミュニケーションを得るのに難しい言葉はいらない。楽器を奏でることができるのであれば言葉さえも必要でない場合もあるかも知れない。僕が初めてエレキギターを手にしたのは高校一年の時で、当時はまだロックンロールは不良の音楽という風潮の余韻が一部の大人たちの間で存在していた。学校帰りに数人の仲間たちと友達の離れの部屋へ立ち寄ることが習慣になっていて、その部屋の主はエレキギターを所有していて僕らは彼がギター練習する様子を見たり聴いたりして時間を費やしたりしていた。僕はそれまでレコードでしか聴いたことのなかったギターの歪み音(ディストーション)を間近で聴いているうちに自分の手でその音を奏でてみたいという衝動に駆られ、その彼にハードロックの中では割と入門的でありながらカッコいいイントロフレーズのディープ・パープルの「スモーク・オン・ザ・ウォーター」の弾き方を教えてもらった。自分でギターを持ち、弦を弾き、アンプからディストーション音のイントロが耳に届いた時の感動は想像以上に感動的だった。その後ドラムセットを持っていた男がその部屋で叩きたいということでみんなで手分けをしてドラムセットを一旦解体し、それぞれの自転車に分担して乗せて約4~5キロの道のりを他の車両や歩行者の妨げにならないように一列になり、まるで参勤交代のごとくゆっくりゆっくりの走行で運んでいったのだった。その翌日からはギターとドラム音が部屋を賑やかにさせた。この二つの楽器だけでも十分騒がしかったが更にエレキギターとエレキベースが僕の気づかないうちに部屋に追加されていた。その二つのギターは持ち主に忘れられたのか捨てられたのか、いつしか誰にも使われなくなっていた。「誰かベースを弾け~」とドラムスが僕を見て言うので僕はベースを手に取りギタリストに教わりながら少しずつ二人の演奏に加わっていった。結局のところもう一人ギターを始めることになり四人編成のロックバンドの結成となったのであった。
 リードギターとドラムスは大抵の曲をそんなに時間をかけずにコピーできていたけれど後から始めた残りの僕ら二人はどのレパートリー曲もギターソロの手前くらいまでしか演奏ができないでいた。とても人前では披露できるレベルではなかったが学校帰りのバンド活動はストレス発散には最適に思え病み付きになっていった。

            ※  

「こいつ楽器できるから・・・」
 社会人でのバンド活動は会社の同僚Sのこんな言葉から始まった。昼休憩の時間、自動販売機近くに腰を下ろして缶ジュースを飲んでいた僕の目の前に二十代後半の男性(いわゆる会社の先輩)を連れて現れたSが僕を指差しながら「こいつ楽器できるから」の言葉をその先輩に告げたのだった。それに続く話の内容はバンドを結成したいからメンバーにならないかというものだった。僕は音楽は聴くのも演奏するのも好きだったし特に断る理由もなかったからその場でメンバー参加を承諾した。その先輩は以前に浜田省吾のコピーバンドを組んでいて何度かステージの経験もあるとのことだった。同僚Sはギターでディープ・パープルの曲を弾けると言ったので「凄い奴だ」と尊敬したが後にそれは事実でないことを知った。ディープ・パープルどころかギターのFのコードを押さえることもままならないという有る意味凄い奴だだった。
 何はともあれ人前で演奏できるくらいまで頑張ろうという目標でいこうという話になった。練習は市営の会館を利用させてもらい、練習日にはそれなりに真剣に取り組んだ。担当楽器は先輩がギターとボーカルで、同僚Sはベースギターで、僕はドラムスということとなった。演奏曲は浜田省吾の曲でその中でも比較的簡単であるであろうという曲を選曲したがそれでも練習は困難を極めていた。ベーシストはベースギターを初めて手にするということで、音を出すことから、ドレミを覚えることから始めていた。先輩が根気よく教え込んだこととSの努力もあって少しずつではあったが着実に進歩していった。
 なんとか数曲が演奏できるようになった頃のこと、先輩が一人の女性キーボードプレーヤーを連れて来た。楽譜を見れば何でも弾けるレベルのテクニックを持っていてあっという間にレパートリー曲の演奏に厚みを持たせる役割を果たしてくれてとても心強く思えた。女性が加入してモチベーションが上がったこともあっただろうが、ベーシストの彼の自宅での練習はそうとう頑張ったのだろう、練習日を迎える毎にその進歩は目を見張るものがあった。そろそろ人前に出て聴かせられるのではと思えてきた頃のこと、クリスマスパーティーで演奏するという話に僕の知らないうちにそういうことになっていた。勿論僕としては大歓迎だった。

 体育館を利用したパーティー会場は青年団主催ということもあってか若い人たちばかりで、男女半々の合わせて五十人くらいはいた。初ライブの僕らにしてみれば十分過ぎる観客数と言えた。そしてメンバーの四人の様子はというと、リーダーは何度もステージに立っていた経験者なので舞台慣れしていて何の問題も無く、キーボードの女性にはファンクラブでも存在しているかのごとく名前混じりの声援が頻繁に飛びかっていてその声援に笑顔で応える余裕のしぐさでいた。僕は僕で初めて人前でドラムを叩くことの喜びと興奮と少しの緊張でワクワクな感情で感無量の面持ちでいた。唯一心配の種のベーシストは少しばかり落ち着かない様子ではあったが気持ちの強い男であったからここ一番の集中力で練習どおりのパフォーマンスを発揮してくれるだろうと想像した。

 一組目のバンド演奏が華麗なままに終了し、いよいよ僕らの出番となった。演奏の準備が整い、会場の照明が落とされスポットライトが僕ら四人を照らし出した。まずは勢いよくオープニングナンバーにふさわしいハイテンポの曲「終わりなき疾走」でスタート。練習どおりに軽快にそして順調に演奏は始まった。リーダーは浜省のごとく力強いアクションをまじえながら熱唱の中にいた。ベーシストSも指先にすべてを集中させてまずまずの役割をこなしていた。ドラムのすぐ左横ではキーボードプレーヤーのお姉さんが余裕の笑みで軽やかに鍵盤を叩いていた。そして曲のプランのすべてを把握し、本人的には何の心配も無かった僕は軽快なビートを刻みながらスポットライトの眩しさに陶酔しきっていた。が、そんな僕の頭の片隅に「?」マークなるものが浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返すのだった。僕はその「?」マークの意味が何であるのかを探りながらも演奏を続けるのだった。そして一曲目の演奏が中盤あたりにきたところでふと自分の足元に目をやるとドラムのペダルをキックする度にそのドラムが少しずつ前進し僕から離れて行くのが目に入った。体育館の床の滑りによるハプニングであった。激しいロックナンバーであったためその滑りを食い止めることは不可能と言えた。だからといって途中で演奏を中断するわけにもいかず、離れて行くドラムに足を伸ばし、なんとかペダルに足を届かせながらビートをキープし演奏を継続していったのだった。
 一曲目が終了する頃には僕の右足は今にもつりそうなくらいに伸びきっていて足を乗せたペダルに付属する太鼓はすでに僕の手の届かない遥か遠くのところまで離れていた。一曲目が終わると二曲目に備えるべく急いで離れたドラムを元の位置に引き寄せた。リーダーはそんなハプニングに気づくことなくメンバーを代表して拍手に応えていた。ドラムのすぐ左横に位置していたキーボードのお姉さんだけがその状況に気づいていて、右手で口元を隠しながら左手でお腹を押さえながらクスクス笑っていた。僕は首をかしげながら、ドラムの位置を修正しながら、ただ苦笑いをするしかなかった。そして二曲目以降のことを考えるとため息さえも出ないのだった。
 なぜに僕のドラムだけが・・・と、もう一組のバンドのドラムを見てみるとドラムセットの下にカーペットが引かれてあってしっかりと滑り対策がなされてあった。なるほどね。当然のことだよね。と、息を弾ませながら、太鼓を引き寄せながらそう思った。   
 ラストナンバーの最後の音を叩き終えた時にはドラムセットのそれぞれのパーツは僕の手や足の届かないところまで散乱していた。唯一僕から離れることはなかったイスに腰掛けたままで他のメンバーがこれらの状況に気づいてくれるのを待ったがただ一人声をかけてきたのはキーボードのお姉ちゃんだけで「大変だったね」とニコニコ笑いながらそう言ってきただけだった。喫茶店での反省会ではリーダーから「ドラムが練習どおりに叩いてなかったじゃないか」と注意を受けたが、ハプニングの状況を説明すると納得してくれた。
 その後バンドは何度かのメンバーチェンジをしながらも活動を続けていき、レパートリー曲も増え、演奏力も向上していった。ライブも地元のデパートと会社のクリスマスパーティーの二度行った。

 パフォーマンス其の二 【とあるデパートでの演奏】
当時ポーカルだった先輩はトレードマークとしてライヴの時はいつもサングラスをかけていて、僕はその日だけちょっとカッコづけにサングラスをかけていて、そしていざ演奏という時に他のメンバーを見てみるとなぜかみんなサングラスをかけていて、僕は思わずつぶやくのだった。「全員浜省だ」と。

 パフォーマンス其の三 【会社でのクリスマスパーティー】
無名バンドにしては必要以上に紙テープが飛びまくったライブだった。おばちゃんたちのパワー全開の黄色い歓声がしばらく耳に残った。紙テープを片づける掃除はもちろん僕らも手伝わされた。

 僕自身は計三度のライブ経験ができ青春に輝かしきページを刻めた。その後バンドは解散したが僕は地元の同級生の大学生たちや、職場の後輩たちと演奏活動は継続していった。

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 1963年9月。イギリスのヒットチャートではビートルズの「シー・ラブズ・ユー」が1位に君臨し続け記録的なレコードセールスを更新していたその頃の九月十五日、日本のとある病院では生死をかけた出産が行われていた。一つの命がこの世に生を受けるか否かの運命をかけた出産作業は困難を極めていて、母子のどちらかの生命を諦めなければどちらをも失うという危機的状況であった。医師側からの意見として、子供は今後に期待するとして母体の生命を優先させることが賢明な選択であろうと提案されその方針を元に作業は続行された。帝王切開%8先生の手で取り上げられた小さく弱りきった生命から産声は聞けなかった。先生が脈や呼吸の確認をした後、赤ん坊の両足の足首を片手でつかみ、逆さにした状態で何度かホッペを叩いていると突然に大きく元気な産声を高らかに病室中に響かせた。ということで僕は良い意味での期待を裏切るようにしてこの世に生を受けることとなったのだった。産後の母親の健康状態も良好で初めての我が子との対面も果たせたのだった。
 偶然なのかどうなのか、僕が初めて買ったビートルズのレコード「シー・ラブズ・ユー」は毎日のように何度も繰り返し聴いていてそんな僕に母親は「飽きずにまたイエーイエーイエーの曲かね」と言われるほどだった。僕が生まれた当時、世界で最も売れていたレコードがこの曲であったと知ったのはそれから何年も後のことで、偶然とは言え運命的な何かを感じずにはいられなかった。

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