
【ライ麦物語序章】
あの日僕は
遠く離れた大きな街にいて
会社の面接会場の控え室にいた
グレーのダブルのスーツ
シンプルなネクタイ
曇りひとつないエナメルの靴
僕は時々ネクタイの位置にこだわりながら
張り詰めた空気の中の
不自由な生物を装っていた
名前を呼ばれ面接の席へ
姿勢を正した僕の目に映るものといえば
汚れひとつない壁と
安定感のあるテーブル
そして身体の中心を示すかのように面接官のネクタイ
「名前を・・・君の名を・・・・・」
男の口元はそんな言葉を繰り返しているように見えた
「失礼します」 と
僕の第一声は本当に失礼だった
部屋を飛び出し
ネクタイを緩め
チケットを手に・・・
気がつくと僕は
麦畑の見渡せる丘へと辿り着いていた
【秋から冬へのライ麦畑】
君の心細さをまねてしまった夜
星を五十 羊を六十数えてしまった
君はいったい何を思って
こんなにも弱い人間になってしまった
その夜僕はあきらめてベッドを出ると
音楽をかけてコーヒーを立てた
眠らないと決めた夜
心はずむ自分に気づいたりもする
それを不幸と呼ぶ人もあるが
そんな事が不幸ならやすいものだと僕は思う
君の心細さをまねてしまった夜
星を五十 羊を六十数えてしまった
※
僕と彼女と麦畑
僕と彼女と麦畑
麦が揺れる麦畑
※
季節からはぐれてしまった鳥たちの
帰る場所を彼女は知りたがった
※
彼女はなるべく最初から話したいと
思っているようだった
話が少し進むと止まり
そのひとつ前の話を始めた
そしてまた止まると
もっと前の話を始めた
彼女はそんな繰り返しを何度か続けたあと
途方に暮れたように手のひらを眺め無口になった
僕はその間の彼女の横顔に
退屈するはずもなかった
※
ライ麦とは何?
イネ科の一年生又は二年生植物
実は粉にして黒パンを作る
黒麦
その他は?
何も浮かばない
※
あの匂いの懐かしさは
僕らが生まれる前からの懐かしさ
※
君をどんな花にたとえよう
すみれ あじさい
ジャスミン スイトピー
彼女がうなづく花が僕の好きな花
ゆり つばき
チューリップ あさがお
桜 秋桜・・・・・
僕はどんな花でもかまわなかった
※
彼女とのデートにスーツを使ったことがない
もちろんエナメルの靴もない
舗装されていない細い道を
ただ歩くだけのデート
そして決まって麦畑で休んだ
揺れている麦・・・
揺れない麦はニセモノに見えた
彼らはいつだって快く迎えてくれるのに
僕らは彼らの成長に気づいてもやれない
たいした会話もなく歩き出すと
地図にない道を
いつ迷子になるかと不安なくせに
手ひとつ握らない僕たちだった
※
私たちには何もできない
麦たちはいつもそんな目で僕らを見ている
※
僕らがライ麦を哀れだと思うのは
彼らがひと言も口をきくことができないでいるから
彼らが僕らを哀れだと思っているのは
僕らがひと言も真実を打ち明けられないでいるから
※
コーヒー
トースト
スクランブルエッグ
僕の夕食のテーブルには
朝とまったく同じメニューが並んだ
テレビも退屈だった
財テク
株安
スキャンダル
もっと身近なニュースが欲しかった
彼女からの電話が欲しかった
※
僕は思い立って麦畑へ・・・・・
麦には会えたけれど
彼女には会えなかった
※
麦は夕陽の光を受けて金色に輝いていた
畑を何度も訪れているが
一度として働く人の姿を見たことがない
彼らは本人の力だけで育っている?
数日後
麦はすっかり刈り取られてあった
畑には大きなキャタピラの跡が残っていた
※
僕と彼女と麦畑
僕と彼女と麦畑
麦のなくなってしまった麦畑
※
彼女が僕を五秒以上見ている時
彼女は僕を見ていない
うつむきかげんの彼女の瞳は
いつも同じ面影を探している
※
遠く輝く星を
止めた息の続く限り見つめてみる
なぜ彼女の瞳を
同じように見つめてやれない
※
「冬は嫌いで雪は好き」 と
僕はそんな言葉を何気なく口にする
「雪は好きで冬は愛してる」 と
思えば彼女の口から
キライという言葉を聞いた記憶がなかった
※
十二月に降る雨は
雪に変わる予感をはらんでいる
僕が少しばかり陽気に振る舞ってみても
一度彼女が空を見上げてしまえば
僕は何も言えなくなってしまう
冬というのならいっそ雪になれば と
傘を傾けて空を見上げる
※
僕は彼女を愛しているのか と
彼女の力になろうとしているだけの僕
彼女が見ている先には
彼女でしか見えない誰かの姿
僕はその代わりにはなれないのか と
※
彼女は最後に何と言ったのか
突然の風が吹き抜けたあと
その言葉はどこにも見当たらず
遠くを見つめる彼女の表情にさえも
読み取ることはできなかった
しばらくは風も止み
耳を澄まして同じ言葉を待ったが
やはり聞くことはできなかった
次の日
約束の場所に彼女は現れなかった
※
見渡す限り
息吹の感じられない麦畑
気がつくとひとり
そんな景色の中に僕の姿もあった
青くはりついた空
何かを探しているかのように畑を撫でる風
どこかあきらめを感じさせる雲の色の淡さが
最後に僕をここに立たせてくれた
さよなら
僕と彼女の間に流れたふたつの季節
さよなら
彼女と麦と麦畑
僕はライ麦の種を手のひらに乗せると
風が吹いたと同時に空へと放り投げた
いつか彼女の夢の中でこの種が
金色の実を結ぶことを願いながら・・・・・
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