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009608
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冴えないピアノ男爵と
その時の私は、人影がなくなった学校の教室に“マイノート”を置き忘れたことに気付き、
取りに戻ろうとしていた。
教室は三のニ。東校舎の四階の奥から二番目にあるため、苦労しないクラスメート
など一人もいないだろう。私もその一人だが。
面倒臭いけれど、あの“マイノート”をあのまま置いていってしまったら、誰かが見つけて
見られてしまうかもしれない。そう思うと、重たい足を引きずるしかなかった。
さっさと終わらせる為に、階段を大股で上っていった。時折、階段の窓からは、
オレンジ色の太陽に照らされた、部活に熱心な生徒の姿が見える。
夏の大会が近いので、必死となって頑張っている姿。その中に、私の友達もいる。
よく頑張るものだ、と私は一瞬思ったが、すぐに足を速めた。
そして目的の四階につくと、電光石火のごとく教室目掛けて走っていった。
オレンジ色に変化した教室は、まだ鍵が開いていた。というより、学級委員の
鍵閉め担当の奴が忘れていったのだろう。鍵が無惨に床に落ちている。
鍵閉めの人に感謝しながらも、教室を横切り、窓際にある自分の机の中を探った。
やはりあった。ノートの前表紙に“マイノート”と書かれた少し汚れたノート。
「ちゃんとしまったのに…」
などと一人ブツブツ言いながらも、ノートを片手に持ち、一目散に教室から出ていった。
「先生に会うと厄介だもんなぁ。部活さぼってたし…」
とにかく急ごうとして、廊下を一直線に進んでいた時だった。
――かすかだけれど、甲高い音が聞こえた。
とてもよく響く、心地の良い音色が、私の耳に囁くかのように。
人の声ではない。何かの楽器のようだ。その音は、ここの校舎からではないと
いうことはすぐに分かった。
向かいの西校舎の方からだった。私は、窓を開けて西校舎を見渡してみる。
すると、最上階の右から二番目の教室に、何やら人影が見える。はっきりとは
認識できないが、それは座っているようにも見える。
確かあそこは、音楽室だ。だが、あそこは普段、授業がない時は閉まっていて誰も
出入りなど出来ない。音楽担当の先生だとしても、今は部活の顧問の為居ない筈。
じゃあ誰が…? 何故あそこにいて、何の楽器を演奏しているのだろうか。
不思議と好奇心からか、私の足は西校舎へ向かって進んでいく。
まるでその楽器の音に、吸い込まれていくかのように――。
それは、ピアノの音だった。
透き通るような音色が、西校舎の三階から四階まで轟めいている。
一つの謎は解けた。では、誰が演奏しているのだろうか。
ピアノの音を辿るように、ゆっくりと近づいていった。
やがて、音色の輪郭がはっきり分かる地点までくると、
目の前には音楽室のドアが立っていた。
…入るべきなのだろうか。このまま立ち去った方が良いのだろうか。
二つの選択肢がグルグルと頭の中を巡った。その間にも、ピアノの音は止まない。
けど、もうここまで来てしまったんだ。それに、こんな素敵な音色を、誰が演奏して
いるか気になってしまう。
覚悟を決め、ドアノブに手を当て、思いっきり扉を開けた。
次の瞬間、階段にドアが開く音が木霊した。
「…」
「…あ」
ピアノの音が止まった。それと同時に、目の前にあったグランドピアノから、
演奏者が顔を出した。
少しボサボサで、四方八方に飛び交った髪の毛に、大きめの眼鏡を掛けた
男の人。表情がちょっと怪訝そうだった。
しばらくお互いを眺めあい、そして脳裏に、ひとつの同じ顔が
思い浮かんだ。確か同じクラスの、金坂息吹だ。
彼はクラスでも目立つ方でもなく、私も詳細はよく分からない。
学級写真や教室でちょこっと見かけるだけで、話しも全くしたことがないので、彼が金坂君だと
結び付けるのに、時間がかかってしまった。
「何か用」
低く警戒するように、私に尋ねる声。
「いや…、音が聞こえたから、誰が演奏してるのかなぁって気になって」
「そう」
そして金坂君は、私を無視するかのように演奏を続けた。
辺りにまた、心地の良いメロディーが放たれる。
しばらく、何をすればいいのか分からず、その場でただ演奏に耳を傾けた。
金坂君が放つメロディーは、どこか不思議な、どこか切ない音色に聞こえた。
素直に、悲しいとか楽しいとか、そういう率直な音楽ではない。じっくりその音に浸れば浸るほど、
そのメロディーの味わいがじっくりが湧き出てくるような、そんな音色。
「不思議なメロディーだね。これ、なんていう曲なの?」
思わず、思っていたことを口へと出してしまった。そんな私に、金坂君は
演奏を続けながら、「自分が作曲した」と一言告げてくれた。
「自分で?! 凄いね!」
「…別に」
冷たい返事だけが返ってきて、少しムっとした。もっと、“ありがとう”とか
“大変だったんだ”とか、いろんなバリエーションの返事をしても良いと思う。
「もしかしてさ、ピアノとか習ってた?」
「…習ってなきゃ、演奏できる訳ないし」
ごもっとも。って、納得はできるけれど、そういう返事の仕方には
さすがに苛つきが表に出てしまう。
「あのねぇ、そういうムカツク返事はないと思うけど」
すると、彼は目頭に皺を寄せ、やっと手を休めて私を直視した。その目からは、
しつこいと言わんばかりのオーラを放っていた。
私が負け気と少し身を構えて、警戒する姿勢を見せると、彼は目をそらし大きなため息を
漏らしながら、
「…つーか、アンタ誰」とだけ発した。
「はぁ? …あなたと同じクラスの、明菜真奈美だけど」
「明菜…。いたっけ」
「いました」
「記憶にない」
「覚えようとしてないだけなんじゃないの?」
「…そうかもね」と短く答え、彼はまたピアノの鍵盤に手を置いた。
そしてまた、音楽室にピアノの音が木霊する。
「ムカツク人…」
冷たい吐き台詞を残し、踵を返して私はそのまま音楽室を後にした。
廊下を渡るときも、階段を降りるときも、下駄箱で靴を取り出すときも、
頭の中には、あのピアノをひいているムカツク男を思い出していた。
初めは、男性がピアノをひくだなんて珍しく思えて、すごいなぁと感心していた
自分が馬鹿みたいに思えてきた。
「ぜぇったいあんな人と関わりたくわ。一生」
下駄箱に虚しい一言を言い残し、家へとまっしぐらにかけていった。
あぁ、私ってホント馬鹿だ。
学年のテスト順位で最下位を取るより、うっかり薄くなった氷の上を歩くのよりも、
はるかに上回った馬鹿らしさだと、今の私は思う。
取りにいった“マイノート”を、音楽室に置いてきてしまったのだ。
多分、あのピアノ男ともめるのに頭がいっぱいになり、片手にしっかりと
持っていたノートを、先生の机の上に置いたままにしておいたのだろう。
それを、家に帰ってから気付く自分にも、腹が立ってしょうがない。
もう、近くに金棒やバットがあったら、自分の頭を叩いて粉々にしたい。
しかも最悪な事に先生の机の上。絶対に人に見られてしまう最悪のポイントだ。
苛立ちと気恥ずかしさが一気に沸き上がり、悔しくて悔しくて
唸り声と同時に、自分の頭を掻きむしった。
これもどれも、あのピアノ男、金坂のせいだ。
明日クラスで会ったら、一言ピシっと言ってやる。私のこの込み上げる苛立ちを、
すべてあいつの心身にぶちまけてやる。
私は一人、ベットの中でそう誓った。
「ノートって、明菜の?
…先生は、そんなの見てないけど?」
「ええ?!」
翌日、学校へ来ると途端に、足を休めることなく二階の職員室へと向かい、
音楽担当の平井松先生の所へと押し掛けた。
平井松先生は、老眼眼鏡の奥の小さな瞳を細め、顔の皺を深くしながら答えた。
「ホントよ。朝、音楽室の鍵を閉め忘れたから閉めに行ったんだけど、
何も忘れ物らしきものなんて見当たらなかったわよ」
それだけ告げると、一年生のプリントをチェックするため、机へと体を戻した。
その際、鼻をつくようなキツい香水の臭いが漂った。いかにも、おばさんが
しそうな香水の臭いだった。
「…そう、ですか。分かりました」
足を自分のクラスへと進めている間、すくめた肩を揺らしながら考え込んだ。
先生の机の上に、私のノートはなかった。ということは、誰かが先に私のノートに
手を伸ばし、持っていったということになる。
今日は吹奏楽部の朝練はない筈。朝から顧問の先生の会議の為だ。
ということは、昨日のうちに誰かが見たということだ。
昨日…。夕方…。ピアノ…。
一個一個の記憶の新しいピース達が、急速に絵を描くように完成していく。
そしてそれは人の輪郭を表わし、大きな眼鏡が目立つ顔だちとなる。
「…。増々ムカツク…っ!」
昨日の夜中に覚えた興奮が一気に昇り、体中を駆け巡った。
そうだ。あいつしかいない。あいつ以外の誰でもない!
外から見れば、その時の自分は今までになく恐ろしかっただろうと思った。
足は大股、まるで怪獣のような足取り、大きく左右に振る腕に、キっとした目。
まだ人数が少ない三のニの教室に、すさまじい程のドアが開く音が響く。
それは瞬時に人の目を集めさせ、口を合わせていた数人のクラスメイトが動きをとめる。
けれど、そんな事はどうでもよかった。
目を教室の奥に向けると、あいつは窓際の自分の席で、何事もないかのように
本のページを開いて見ている。目は文章を追い、少しだけ上下に動く瞳。
押さえきれない気持ちを抱え、一直線に金坂の席へと向かう。そして
やつの机に、思いっきり体重をかけた片手を勢いをつけてのせると、ようやく金坂は
顔を上げ、私の目を捕らえた。
「…。何か用」
同じだ。昨日と同じ事を言っている。口ぶりも変わらずに。
「あんた…。私のノート取っていったでしょ?!」
「ノート?」
「少し汚れた、マイノートって書いてあった緑色の表紙のノート!」
自分の言葉はだんだんと強さを増し、最後には吠えるような形となった。
そして彼はふっと何かを思い出したような顔になり、
やがて本を閉じてこう言った。
「ああ…あれか。音楽室の机の上に置いてあった置き去りのノート」
「そうそれ! やっぱりあんたが――」
けれど、その怒りに満ちた声は、途中で金坂に遮られた。
遮られたというより、邪魔をするかのように、唐突に私の腕を力任せに
引っ張ったのだ。
「なっ…」
「ちょっとこい」金坂は一言だけ発し、掴んだ腕を離そうとする気配がない。
「なんなのっ!」
「すぐ終わる…筈」
いきなり立ち上がったかと思いきや、ものすごい早足で私を引っ張って歩いていく。
状況も理解できないまま、そのまま連れていかれていく自分。
まるで、罪を犯していないのにも関わらず、連行されている犯人みたいな気持ちだった。
頬を打つ風が生暖かく、暑い陽射しを受けてあたたまっていたようだった。
何故か屋上へと連れられた私は、そのまま屋上のフェンスにもたれ掛かり、
警戒心を解かないまま、金坂を睨み付けた。
彼はというと、私から一メートル離れた地点で、ボーっと突っ立って
蒼い空を悠々と見つめている。その瞳には、蒼一色だけが写り、白い雲など
どこにも写ってなどいない。
―― 一体、彼は何をしようとしているのか。私に何か伝えたいことでもあるのか。
浮上する疑問を口に出そうをした時だった。唐突に、彼の口が開いた。
「蒼い空。どこまでも広がる世界。何もない空間。
その中を漂う小さな鳥達は、何を思い、何を抱くのだろうか。
神から受け継がれた、その小さな羽を持って」
「!」
聞き覚えのある台詞。…そう、確かあのノートに書き綴った文章だ!
「あなた、私のノート見たね?!」突っかかるように、金坂との距離を縮めた。
「“見て下さい”といわんばかりに、ノートが置いてあったんでね」
「見て欲しいなんて言ってないっ!」
いつの間にか、彼の左手には、“マイノート”と表紙に書かれたノートがあった。
反射的に、そのノートを奪い返した。
金坂は、何の抵抗も見せない。そのかわりに、私へ質問を
投げかけた。「あんた、明菜だっけ。…詩、書くの好きか?」
「なに? 悪い?」
「聞いただけだ。何もそこまで言ってはいない」
「言いそうだし」ちょっと睨み返しながら言い放った。
――何故私が、この“マイノート”を他人には見せたくなかったのか。
あんなに焦っていたのか。
――そこには、私の全ての『思い』が刻まれていたから。
日々思ったこと、感じたこと、気がついたこと。
それを詩に表わし、言葉に表わし、文章として書き残す。
それが私の趣味だった。というより、習慣的に付いてしまった作業なのかもしれない。
だから、他人に見てほしくなかった。恥ずかしさが込み上げてくるから。
けれど、最悪なことに、一番見られたくない人に、一番始めに見られてしまったのだ。
なんとも不運としか言い表せない。
「いや、むしろ素晴らしいさ」
「は…?」
意外な言葉に、私は少し面喰らった。それでも彼は言い続ける。
「さっきのノートに綴ってある詩達には、深い理由や裏にある気持ちがない。
つまり、率直に気持ちを表わしている。心がそのまま覗いているように。
それが素晴らしいと言っただけさ」
「…。どうも」
妙な気分だった。嫌な人に私の思いを見られてしまったのに、その人に
素晴らしいと誉めの言葉を頂く。
――不思議だ。
「ま、中には気に入らない詩もあったけれど」
…やっぱりムカツク。
「けれど、その詩を見ていて確信を持てた」ゆっくりとした口調で、でも、一言一言に
念を押すかのような強さで、彼は言った。
「え、何が?」
じっと私を見据える目。その目からは、希望が裏に輝いているかのような
光りが見えた気がした。
「…俺の曲に、歌詞つけてくれないか?」
「約ニケ月後に、ピアノの大会みたいなものがあるんだ。
それに、お前の歌詞と、俺の曲、合わせて発表したいと思って」
やけに金坂の台詞が、私の頭の中で木霊している。
そのおかげで、英語の先生が言う英文や、黒板に当たるチョークの音など、
ちっとも耳に入ってはこなかった。
――どうして、いきなりそんなことを? 何故私なわけ?
一息で問いただした私の質問に、落ち着いた様子で金坂は答えた。
「必要だと思ったから。それ以外に理由はない」
「でも、詩って言ったって…。んな曲に合わせて書けだなんて無理だから。
やったことないし」
時々、屋上から吹き付ける風に、私の髪が舞い踊る。
「大丈夫だ。単調な曲だから、感じたままを書き綴ってもらえれば」
そう言われても、唐突にそんな話を持ち込まれても困ることは困る。
それに、そんな作業は私でなくても、他の誰だって、自身でさえ出来る筈だ。
「…どうしても、必要なんだ」
断ろうと口を開くたびに、彼に遮られてしまう。邪魔するかのように。
いや、邪魔してるのだ。断りの言葉を耳に入れないためにも。
「…」
「すぐに、とは言わない。遅くてもいい。
――返事、待ってる」
困惑を見せる私の前を横切り、金坂はそのまま階段を下りていった。
トントンと足音が響き、その後にやけに生温い風が、私の頬を
すべるように通り過ぎていった。
「…真奈美。真奈美?」
その声に気付き、ハッと顔を上げた時には、クラス中の視線が私に向けられて
いたことに気が付いた。慌てて返事をし、立ち上がっても遅かった。
辺りから、笑いの声が響く。
「どうした? 明菜。眠くてボーっとしてたのか?」
ちょっとおどけた先生の声だったけれど、その裏には、威厳の声も混じって聞こえた。
「い、いえ…。ごめんなさい」
前の席にいる、呼び掛けてくれた友達から教科書のページを教えてもらい、
一通り読み終えた所で、脱力するように椅子に倒れこんだ。
疲れた顔で前を見ると、さっき声をかけてくれた友達が、前のめりになって
私の方を見ている。
「どしたの? なん か目が遠くに行ってたよ~?」
「…そう?」
意地悪な顔を見せ笑う友達に、戸惑いながらも苦笑した。
なんせ、あんな頼みごとを言われた後だから。などと言える筈がない。
三時間目は理科室で実験。
実験といっても、ただ荷台車みたいな掌ほどの大きさの車を、斜面から滑らせ
どれくらいの速さなのかと調べるものだった。
こんなことして、なんの意味があるんだろうか。
けれど、決められたことはその通りにしなければならない。渋々ながらも、
引きずるように足を歩めた。三のニの教室、つまり四階の奥から二番目の教室にとっては、
反対校舎の二階にまでその体を運んでいかなければならないので、毎度ため息が絶えない。
だけど、今日はちょっと違った。
西の校舎の二階まで上がった所で、またあの音色が聞こえた。
高いトーンだけれども、安らぎを持つその音。ピアノだ。
また、あの金坂が弾いているのだろうか。あの大きな手を鍵盤にのせ、踊らせるように
音色を奏でて。
私の心は、その時すでに彼の音色の虜となっていた。
まるで母親の子守唄のような、そんな安堵も含まれていた。
…何故、あのメロディーは、こんなにも心を奪われ、惹いてしまうのだろう。
魔法でも、手品でもない。全ては魅力だ。心の底からそう思った。
意識もないのに、私の足は、一段一段、音楽室へと歩み始める。
そこに、躊躇や迷いなどはなかった。
やはりあの不思議な演奏者は、ピアノの椅子に座っていた。
グランドピアノを前に、相手をするように鍵盤の上の手を踊らせている。
そして、彼自身も催眠術にかかったかのように、左右に微妙に揺れ、目を瞑っている。
すぐ目の前の、音楽室のドアの前にいる私にさえ、気付いている様子は見られなかった。
けれど、一通り演奏を終わらせたのか、手を下に降ろし、目に光りを浴びせた所で、
ようやく私に気が付いたのか、眼鏡の奥の目が、急速に光を取り戻した。
「する気になったか?」
「…まだやるなんて言ってないし、やろうとも思ってない」
きっぱり断言することによって、自分の気持ちを決めようと思った。
そうだ。いきなり唐突に持ちかけてきた相手が悪い。詩なんて、誰にも発表など
したくはない、と。
けれど、彼の顔に諦めの顔がない。私の言葉を聞いても、ただ直視するのみ。
この人は、諦めという言葉を知らないのだろうか。ふとそう思ったりもする。
「さっき弾いてた曲、あっただろ。あれ、今度発表する曲だ」出し抜けにそう言った。
「え、さっきのが? あの…、なんだか不思議なメロディーしてた曲?」
金坂は深々とうなずいた。けれど目だけは、こちらを覗いていた。
「盛り上がりの部分だけでもいい。一部のみだけでもいい。
簡単なことだ」
――嗚呼、まただ。またあの目だ。
光を失うことのない目。表面は一見くすんで見えようとも、裏ではしっかりと、彼の希望が
佇んで、さらに力を増している。
瞳のみならず、心身からもそのオーラを発しているようにも見える。
「…私の詩、あんまり良くないよ」
ただ一言だけそう言った。
私は今まで、一人の為に、自分の思っただけのことを綴ってきた。
それを、人の曲に合わせ決まったリズムで書けなどと、無理にもほどがある話だ。
金坂は、「そう」とだけ発し、私に近づいてきた。
そのまま音楽室を出ていくのかと思いきや、またもや私の腕を掴んだ。
今度は前までの強さはなく、悪魔でも誘うようかのような力のゆるみ加減だった。
「言っただろう。簡単だって」
そのままグランドピアノまで連れてきて、少し強引に私を椅子に座らせた。
私も抵抗はなかった。けれど、何か心底ドキドキしていた。
何が起きるのか。
「手を置いて」白と黒が混じる鍵盤を指差し、金坂はそう言った。
初めて目にするグランドピアノの表顔。黒いながらも、ちゃんと光りを受け、
跳ね返しているかのように輝く体。そして少し目の下辺りに、今か今かと演奏を待ち
続ける鍵盤達。その鍵盤達には、ほんの少し傷が目立つ。
いつの間にか私の心は、好奇心と感動で浸る。それは波のように押し寄せ、
心身共に満たされていく。胸が熱く踊り出す。
そして私の手の甲に、何か温かなものが重なる。
大きな手。まるで私の手を包むかのような手。…金坂の手だ。
そのままゆっくりと金坂の手は、私の背後に前屈みに立ち、私の手を挟んで
鍵盤に置いた。時折、彼の静かな呼吸音が聞こえた。
背中に彼の体が当たる。手が重なり合う。時々彼の髪の毛が首に掛かり、くすぐったい。
同時に、胸の心拍数が高くなり、ドラムを打ったように強くなる。
このままでは、金坂に感じ取れてしまうのではないか。時々、そんな心配が
脳裏をよぎる。
指が動く。演奏が始まった。
音色達は溢れ踊りだし、私の胸も同調する。
金坂が、さっき弾いていた曲だ。
――でも不思議。最初聴いた時、はるかに心地が良い。
けれど、安らぎとかそんなのではない。ドキドキするような、言葉では上手く説明に
ならないような、そんな感じ。
そのまま、チャイムが鳴り響くまで、私達はずっとそうしていた。
金坂の指の動きに合わせ、私の指も動く、その繰り返しで。
音楽室の教室に、天使のメロディーが、いつまでもいつまでも、心に響いた
『ある小さな女の子は訊ねました。
あなたは誰ですか、と。
すると彼は答えました。
誰でもないですよ、と。
どういう意味だろう。どういう答えだろう。』
今日、感じたこと。
一日を振り返るように、私は“マイノート”に、こう綴った。
空にはもう星が瞬いて、月がほんのり明るく町中を照らしているのが、窓から
通して見えた。
鉛筆を動かしている時も、思い出している最中も、心がまだ酔っていた。
あの出来事がどうしても思い起こされて、熱くなってしまう。
――あんな体験、初めてだった。
抑えても溢れ出す、胸の鼓動。それに同調して体内に響くドキドキのリズム。
また今夜も眠れないかな。あいつのせいで。
でも昨日と違うのは、憎しみのためではないこと。それだけ。
それでも私は無理矢理、体をベットに横にして、電気を消した。
ギュッと目を瞑り、闇に慣れようとしていたけれど、窓から照らし出す
星の光りが強く感じ取れる気がして、余計に明るくなったように思えた。
この時期の、三年の生徒や先生達は大忙し。
夏の大会がまじかと迫ってきたためだ。もう日は狭くなり、試合が目前と
なってきた今、見た事もない熱心な様子で、部活の練習に取り組んでいる。
部活にあまり出たこともなく、試合などにも出たことがない私としては、
その姿が輝かしく見えた。
けれど、羨ましいという尊敬はない。
「じゃねん! 部活行ってくるっ!
てかさ、真奈美も吹奏楽部出ればいいのにぃ~」
放課後のチャイムが鳴り響く中、バスケ部である友達、蓮華が顔を覗かせて訊ねた。
「いいよ。練習キツいし。
一年やれば十分」
きっぱりと断ったのが気に入らなかったのか、蓮華はむすっと
頬を膨らませると、「いいよ。もぉ」という置き台詞と供に教室から出ていった。
私からみたら、その行為はよっぽど皮肉っぽかった。
そして気付けば、半分のクラスメイト達が教室を立った後だった。もちろん、
窓側にある金坂の席もからっぽ。
「…また、あそこなのかな」
そう呟いた所で、ハっと気付いた。何で私、あんなにあいつのことを
気にしているのだろう。
否定するように何度か首を横に振ったけれど、このつっかえたものは取れない。
やだ。自分自身がおかしくなっちゃいそう。
とりあえず、もう残り少ない教室から立ち去るためにも、鞄に教科書を
詰め込み、きちんとチャックをしめた時だった。
「あ、明菜さん。丁度良かった。鍵を職員室まで
持っていってくれない?」
唐突に横から声がしたかと思いきや、うちのクラスの学級委員が、片手に鍵を
ぶら下げて私を見据えていた。
「部活で今すぐ行かないと間に合わないんだ。
良いよね? ニ階に降りるだけだから」
そう言って、苦い顔を見せる私にも目もくれず、鍵を突き出す。そんな学級委員の
表情が、しつけをしている最中の、お母さんの顔に似ていた感じがした。
こうなれば、もう首を縦に振るという選択肢しか選べなくなってしまう訳だ。
確かに、職員室へ行くには、ここから二階降りてちょっと進めば着く距離だった。
うちのクラスからでも、ざっと三分は掛からない程度だろう。
「…ていうか、近いって分かってるなら自分で行けばいいのに…」
と、引き受けてしまってから、こんなことを言っても遅い。
職員室に着き、そのまま鍵を近くにいた先生に預けると同時に、
ドアに手をかけて職員室から出ていった。
クーラーがきいていて涼しい部屋から一歩でると、蒸し暑い空気が
一気に私の身体を巻き込んだ。今日も暑い。
そんな蒸し暑さの中、自然と私の足は西校舎の方へと歩み、階段近くで
耳を立ててすましていた。
後からこんな自分に気付き、自分がもっと阿呆らしくなってきた。
やっぱり、あの音色を求めてしまうのか。
それとも――
「…そんなとこで何してんだよ」
唐突のその声で、一気に私の心臓が飛び出した。あっと叫びそうだった口を
塞ぎ、反射的に声の主の方へと振り返ると、そこには金坂が立っていた。
彼は少し小首を傾げ、「変なヤツ」とぼやいた。
「な、なななな、なんであんたがそ、そこに…っ」
上手く舌が回らず、悲鳴に近い声で発した。
「なんでって。偶然にもここに」一方の彼は、いたって平然だった。
「もう! び、びっくりさせないでよ…」
「宇宙人が来たとでも思ったのか?」
「思ってません」
ほっと胸を撫で下ろし、改めて金坂に向き直した途端、自分の顔が
急速に赤く赤面していくのが感じられた。
そしてフラッシュバックのごとく、昨日の音楽室での出来事が鮮やかに蘇る。
こんな顔を見せまいと背を向けたけれど、相手に感付かれてしまったようだ。
「? どうした?」
「あ、あ、あの…さ、なんで昨日、あんな事やった?」
「…あんな事?」
「とぼけないで!
昨日やったじゃんっ。ピアノで…!」
――実はあの後、私はチャイムの音と同時に我に返り、背後にいた金坂を突き飛ばすように
押し退け、一目散に音楽室から出てってしまった。
あの時は胸の高鳴りばかり気にして、何故あんな事をしだすのかという
疑問までには達しなかった。
「なんでって…。あの方が、曲の感じを心で感じやすかっただろう?
耳で聴くより心で聴く方のが、一番歌詞作りには最適だ」
「…勝手に人の判断を決めないでくれる?」
でも、確かにそうだったのかもしれない。他人の演奏を耳で聴いた時より、
金坂に手を動かしてもらい、あたかも自分で演奏したような雰囲気の方が、その曲に
あったワードを思い浮かべやすい、ような気がしたから。
ということは、私はあの時からもう、結論は決まっていたということになるの?
「それで、返事はどうなるんだよ。あの時の」
金坂の放った一声で、すぐ近くに彼の顔があったことに気が付いた。
「あれからもう三日だ」そう言い、ずいと押し寄せる気迫と真剣な表情。
その顔から、遊びではなく本気だという真面目さが伺える。
そういえば、この表情と似ている顔を何度も見たことがある。そう、夏の大会に
向けて頑張るレギュラー達と同じだ。
――自分でも、どこか気付いていた。こうなるんじゃないかって。
「…私さ、自分の性格からして、押しに弱いんだ。
どうしても嫌って言えなくて。面倒臭いけれど」
ため息まじりの声を放った後、ちらっと金坂の方に目をやった。すると、
そこには一途の光りが灯った瞳がこちらを見ている。
「決心、ついたのか?」
「…あなたのせいで」
それが答えと受け取った金坂は、まるで小さい子供が微笑むかのように
口を上に吊り上げ、目を細めた。
その表情に、一瞬面喰らった。こんな人でも、こんな顔するんだ…。
だいぶのイメージのギャップに、私はその場で、腹がひっくり返る程の
大爆笑をくり出した。
「! 何がおかしいんだよ」
それには彼も驚いたようだった。
「だ、だって…! 最初のイメージと全然違うんだもん…っ!
なんか最初って、冷たくて嫌なヤツ~、とか思ってたけど、
今じゃあなんか愛嬌ある可愛い笑顔でさ…! あははっ」
腹を抱えて苦しむ私を、金坂は少し赤面して、一歩遠のいた。
「だ、だからなんなんだよ」
「いやぁね、な、なんか第一印象に捕われてた頃よりかは
良いかな~、て。
だって内面、こんなに違うからねっ」
やっと落ち着いた呼吸を取り戻し、目に溜まった涙を拭うと、
金坂は少し御機嫌ななめの御様子で私を見ていたけれど、
すぐに目を横にそらし、大きなため息を漏らしながら、
「…、ま、詩書いてくれるならなんだっていいけどな」
「うん。
――という訳だから宜しくね! 冴えないピアノ男爵さんっ」
笑顔でそう言ってあげると、彼は案の定、「はぁ?!」と目を大きく見開いた。
「なんだよそれ…!」
「あだ名。外面じゃ冴えない人だけど、内面では、隠れた凄い
ピアノの腕前の持ち主だから。さっき思いついた名前」
すると彼は、嫌だと反抗するかと思っていた私の想像を裏切り、
少し苦笑し、
「詩、書いてくれるんだったらなんでもいいけどな」
とだけ言った。
今度は、私が驚く番だった。
この時、金坂の意外な一面を見れた事が一番の収穫だったんじゃないのかな。
詩のことは…、思わず了承してしまったけれど、後悔という文字はない。
それよりも、一番最初に私の“マイノート”を男爵に見てもらえたということが、
一番良い収穫だったのかもしれない。
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豊川稲荷は神社ではなかった
(2024-12-04 20:49:22)
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