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秋でもないのに、ポカポカと容器が良い時に、ふとBGMで『ラデッキー行進曲』を耳にしたら、運動会をイメージしてしまった。昔の運動会で流される音楽と言えば、クラシック一辺倒で、代表的な物には、 ラデッキー行進曲 トリッチトラッチポルカ 「カルメン」前奏曲 歌劇「ウイリアムテル」序曲 天国と地獄 ワシントンポスト クシコスポスト 星条旗よ永遠なれ 見よ勇者は帰り来ぬ(表彰式)こんなのがあった。オッフェンバックの『天国と地獄』は、日頃流れてた文明堂のカステラのCMで、耳にタコだけどね(^o^);で、『ウィリアム・テル序曲』が流れた瞬間、思い出すのは「ローンレンジャー」。「ローンレンジャー」は、モノクロ30分番組(1958年放映)で、子供向け時間帯に放映されてたからアメリカ版鞍馬天狗のイメージかな。オープニングのテーマ音楽が『ウィリアム・テル序曲』。「キモサベ」「トント」なんて言葉が有名だよね。まあ、昔の運動会は勇壮な曲で盛り上げようとしてんだろうけれど、昭和の頑張りモードって、どこでもそんなもんかな。まあ、ローンレンジャーは、ローンの達人じゃなくて、ローンという名前のテキサスレンジャーの生き残りがトントンと言うインディアンと二人で活躍するっていうストーリーだった。「はいよーシルバー!」ふぉーっふぉっふぉっふぉっふぉ(^o^);バナー二箇所クリックよろしく!m(_ _)m↓にほんブログ村親父日記ランキング
Apr 13, 2024
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1975年頃、角川文庫本のコーナーに、黒色の表紙に緑の蛍光色の文字の背表紙が、書店にはズラーっと並んでた。角川文庫の横溝正史作品。なんと1961年頃から10年間で4,000万部突破!ってくらいのブームだった。(横溝正史フェア)その後、高木彬光、森村誠一、山田風太郎と続いたな。背表紙の色が作家別に統一されてた。(徳間書店の大藪春彦ホット・ノベル・シリーズ全67巻も凄かった、黄色で統一されてた)で、作られたキャラは、由利麟太郎&三津木俊助、金田一耕助、人形佐七、お役者文七と色々居るんだけど、みんな探偵だもんね。ふぉーっふぉっふぉっふぉっふぉ(^o^);バナー二箇所クリックよろしく!m(_ _)m↓親父日記ランキング
Mar 30, 2024
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小学生の頃、日本のテレビでは、GSブームというものがあった。もの凄いGSブームは僅か5年ほどで終わったけれど、最盛期には芸能雑誌(「明星」とか「平凡」てのがあった)で、グループサウンズの特集ばかりだった。元々芸能プロモーターが仕掛ける芸能界、所謂業界発祥のブームだった訳だけれども、大変な流行りだった。その頃は、正に加山雄三のエレキの若大将の映画(1965年12月公開)みたいに、エレキブームと共に、モンキーダンスとか、ゴーゴーダンスなんてのが、ダンパやダンスホールのダンスだった。もうツイストの時代は終わった。ビートルズが日本に来日したのは1966年6月。その頃から少しづづフォークブームがやってくる。そして中学生の頃には、アメリカンフォークと関西フォークがブレイクした。その頃アメリカでは「ソウル・トレイン」というテレビ番組がブレイクすると、ソウルダンスが有名人と共に派手に!もう、モータウンかな、ブラック・ミュージックとソウル・ダンスが流行る。日本でもスティービー・ワンダーの「迷信」 (Superstition) リリース 1972年10月、に合わせて不良少年が綺麗にステップを踏む世界がやってくる。正にディスコ到来の頃だな。面白いのは、決まった形のステップがあって、ローカルルールじゃないけれど、特徴を変えていた。踊っていて、ちょっと違うステップがあると、それはどこのステップだ?なんてね。ディスコの流行りと「ソウル・トレイン」のテレビの流行は、不良少年少女の踊りの勉強の時間になり、その時間不良少年少女は、みんな家に居てテレビに夢中になってたそうだ。もう、ダンパとかダンスホールという言葉は誰も使わなくなってた。まあ、パー券という言葉が頻繁に使われた。そして不良少年は、高校生の癖にコンポラスーツをオーダーメイドで作って着ていた。中でもタマムシ(玉虫生地)コンテポラリースーツが人気だったようだ。くるみの一つボタンでヘチマ襟でストレートなトップズボン。当然髪型はリーゼントで革靴はスリッポン。正に古き良き時代の黒人のスーツって感じで、ドゥーワップやブラック・ミュージックの衣装てな感じだ。そんなスーツでディスコでダンスしてた訳です。それは、マドンナ、シンディー・ローパー、オリビア・ニュートン・ジョンのダンス・ミュージックが流行る10年程前のことでしたな(^o^);ふぉーっふぉっふぉっふぉっふぉ(^o^);親父日記ランキング
Feb 25, 2024
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その昔、1980年代、一番遅くまでテレビを放映してたのはフジテレビだった。昭和50年代で、深夜2時くらいまで放映して、後はブラウン管は嵐となる。そんな夜中に流していたCMでよく見かけたのが、佐藤蛾次郎が出演していたCMだった。「男はつらいよ!」の源公役の佐藤蛾次郎さんの深夜CM。何故か、ラブホテル系で、相模湖方面とか、横浜町田IC付近のホテルが二つある。一つは「相模湖ローヤル」で、二つ目は「クイーンエリザベス石庭」相模湖ローヤルクイーンエリザベス石庭なんと相模湖ローヤルって、今は有名な湖畔の廃墟ビルになってるらしい。ふぉーっふぉっふぉっふぉっふぉ(^o^);バナー二箇所クリックよろしく!m(_ _)m↓親父日記ランキング
Nov 16, 2023
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その昔、小学生の頃に流行った遊びに、『2B弾』という花火があった。これは花火というより、感覚的には、手榴弾やダイナマイト的遊びの爆薬だった訳で、花火というより爆竹的な威力のある爆発物の感覚だった。戦争ゴッコ遊びでは手榴弾となり、外遊びでは、カエルや蛇の口に入れて爆発させるとか、牛乳瓶の中に入れてとか・・・・。そんな『2B弾』は、「1965年7月14日、通商産業省は愛知県工業課に対して、さらに県は関係業者に対して2B弾の製造中止命令を発出、このことにより製造は打ち切られた」(ウイイペデアより引用)そうで、なぜ愛知県かというと、製造メーカーが愛知県の花火業者稲徳花火だったからだ。元々あった「癇癪玉」より派手だったからね。マッチ箱のやすり部分で点火するのがまた、粋でもあった。この製造中止により、後継品として登場した「NAクラッカー」の人気が出なかったのは、マッチやライターなどで先端をあぶって点火する様式に改められたことと、やたらに黄色い煙の時間が長かったからだろうか?やっぱり、派手とか粋とか危険とかが、男の子の遊びの中には、人気に不可欠な要素だったような気がする。そうそう、よく子供の間で囁かれたデマに、「2B弾を投げようとして、手に持ってる時に爆発して、指が吹っ飛んだ奴がいたんだってさ!」なんてのがあった。割と爆発までに時間が短かったような気がする。ふぉーっふぉっふぉっふぉっふぉ(^o^);バナー二箇所クリックよろしく!m(_ _)m↓親父日記ランキング
Oct 7, 2023
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朝、インストゥルメンタルな曲で五輪真弓の「恋人よ」が流れてたのを聞いたら、ふと昭和の喫茶店のイメージが湧いてきた。(この曲は海外で人気らしい。中国、韓国、ベトナムでは今も!東南アジアでの人気はすごいらしいね)で、思い出したのは、昭和な喫茶店のモーニングトースト。昭和48年頃、高校生はよく喫茶店に行った。勉強しに行くのは、図書館や青少年センターで、ちょこっと飲食は喫茶店だった。学校帰り寄る喫茶店もあれば、一度帰宅してから着替えて喫茶店で待ち合わせなんてのもあった。その頃、10時のおやつは喫茶店のモーニングでしょ。分厚い食パンのトーストにバター、ゆで卵に塩かけて・・・。もう、このトーストのイメージが頭いっぱいに(^o^);昔はそこらじゅうにあった喫茶店、今ではもう昭和レトロな有名店しか残ってないんだね。コンビニとか漫画喫茶が取って代わったんだろうかね。まあ、こんな画像のモーニーングサービスが昔はそこらじゅうにあったんだなあ・・と。ふぉーっふぉっふぉっふぉっふぉ(^o^);にほんブログ村親父日記ランキング
Aug 28, 2023
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昭和女子のおもちゃに、リリアン玩具がある。リリアン編みの子供用玩具で、玩具屋に売っていた。木製とプラスチック製が会って、釘様のものが5本とか6本立っていて、これにリリアン手芸用の糸を巻き付けて編み棒で・・・。幼少の頃、何故か持っていた。近所のおねいさん(小学生のね)の影響で買ったのかもしれない。でも、ろくに編みもせず(はっきり言って、男の子には、g大して面白いもんではなかった)おもちゃばこに放ってあったように思う。使わないけれど、おもちゃ箱にあった玩具の思い出(^o^);リリアン(^o^);ふぉーっふぉっふぉっふぉっふぉ(^o^);にほんブログ村親父日記ランキング
Apr 13, 2023
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高校生の頃、当然フォークやロック音楽が流行っていた訳だけれど、不良少年と不良少女の音楽はソウルだった。なにしろ、ダンスが目当てだから、ソウルミュージックとステップが大事で、ファッションも、コンプラスーツとかラウンドカラーにピンホールのワイシャツに極めて、黒人的ファッションが不良少年の目印でもあった。アメリカの黒人って、ファッションを極める人が多くて、一方白人は、Tシャツにジーパンや短パンみたいな、ファッションにお構いなしの人が多かったな。でも家を訪ねると、黒人宅は汚く散らかっていて、白人宅は綺麗な部屋ってのが割と平均だった。だから、白人は、黒人は服や靴、車は綺麗でも、家は汚い、白人は、ファッションが汚いって、言い合ってたな(^o^;)アメリカ人が比較的多く住んでいたのは、近くに進駐軍の基地が二つもあったからだ。厚木ベースは海軍基地、座間キャンプは陸軍基地。ちょっと離れて東京に横田基地は空軍。で、鶴間にあった伝説のディスコは「シルバースワン」。ここには米軍基地所属の黒人がわんさか来てた。わしは高校生だったから、この伝説のディスコには入らなかった。そもそも、ダンスなんて好きじゃないしね(^o^;)だいいちに入り口が、なんだか競輪場の小窓みたいなとこに入場料支払って、顔も観れない穴場のおばちゃんみたいな(^o^);中は全然観れない。そんなお店だった。でも、駅周辺のダンパ(ダンスパーティー)が出来る会場をセットして、ダンパのチケット売って、稼ぐアルバイトはしたな。当然買うのは不良少年少女の諸君で、わしは主催者側で売って監督するだけ。まあ、当然不良グループ同士の喧嘩とかはあるわけで、そこはそれ、地元のヤクザの下のチンピラクラスの先輩に出張って貰って、幾許かのみかじめ料で対応してもらう。いざこざは持ち家に任せて稼ぐアルバイトって訳で(^o^);その中、儲けがある程度嵩んでくると、地元のヤクザの組の倅とかが、脅してくる。金寄越せって。それで中途で辞めてしまったけれどね、その頃見てると、凄く細かく地域別ダンスのステップのはやりがあったりして、不良少年は拘っていたなあ。南林間ステップとか横須賀ステップとか、微妙な違いのステップを自慢し合う。見てるとここだけが面白かった。雇った素人DJは同じ曲ばかりかけてた。まあ、スティービー・ワンダーの「迷信」(1972年)がよくかかってた。スーパーステーションは流行ったよねえ・・・。で、ここで記憶に重なるのはテレビの『ソウルトレイン』だなあ。ソウルトレインは1975年から日本で放送されたらしいけれど、先にディスコが流行ったんだねえ。まあ、それ以前にゴーゴー喫茶見たいのもあって、ダンスするとこの下地はあったんだろうけれども、ダンスに興味のない人には、無縁だったしね。それにそれにそういうダンスみたいなもんは、大人から不良扱いされる時代だったし(^o^);ソウルトレインが日本でもテレビで流行った時代、街の不良達は、みんなその時間に家に帰った。ソウルトレインをみるために!あれで踊りの勉強してたんだな。なんつったってその時代は、ビデオデッキが普及する10年も前だから、録画なんて観れない!オンエアータイムしか、テレビは観れなかったのだよ(^o^);あら、長くなっちゃった!続きはまたいつか!?ふぉーっふぉっふぉっふぉっふぉ(^o^);にほんブログ村親父日記ランキング
Nov 26, 2022
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昭和33年から昭和40年頃(1958年~1965年)の話。地付の農家や裕福な家庭にしか、風呂が自宅になかった時代。借地に家を建てたり、市営住宅に入ってる給料取りの家庭には、自宅に風呂がなかったのは、当たり前の時代だったな。当然みんな銭湯に行く。近所に銭湯は3軒もあったなあ。小さい頃は母親と一緒に女湯に入っていた。小学校に入ってからは父親と一緒に男湯に。その頃の印象深い風景は、やっぱり風呂上がりの牛乳。白い牛乳と、コーヒー牛乳とフルーツ牛乳。わしはコーヒー牛乳ばかりだった。フルーツ牛乳は甘過ぎるし、ただの牛乳は味がないから。何故か腰に手を当てて飲む人が多かったような(^o^);そして、映画のポスター。銭湯では映画のポスターを貼ることで、ビラ下広告のお礼に映画館の無料入場券を貰っていた。(後年、それを安く買い取って同輩に上乗せして売っていたな(^o^);大衆食堂や銭湯なんかで買ってね)風呂上がりにポスターを見上げていると、小学校の同級生に遭遇したりした。早い時間に銭湯に行くと、刺青の爺さん達によくあった。鳶職、大工、植木屋、魚屋の爺さん達だったな。もう隠居体制だから早い時間に銭湯に来る。そして、背中一面にある般若の刺青は、皮が垂れ下がっておたふくになったんじゃないかなんて冗談を言っていた。小学校1、2年の頃は、遊び友達の同級生が銭湯の息子だったので、よく銭湯で遊んだ。冬は銭湯の裏の炊き場がオンドルの様に暖かくて、寝転んであるんだりしたなあ。夏場昼間風呂場が楽しかった。しかし、小学校4年頃には、自宅に風呂場を作ってしまったので、銭湯に行くことが少なくなってしまった。懐かしいなあ・・・。ふぉーっふぉっふぉっふぉ(^o^;)親父日記ランキング
Sep 28, 2022
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小学校の時の学校給食は、給食当番がでかい鍋を教室まで運んでアルマイトの深皿によそるのが毎日だった。昭和30年代の終わり頃だな。そしてご飯、米飯といったものは出なくて、コッペパンと脱脂粉乳とおかずのセット。コッペパンは食べ残すと怒られるかもしれないので包んで持って帰る奴もいたし、休みの生徒にはコッペパンだけ届けたりした。で、当時の食器は今と違って先割れスプーン一択。それもM字型の先割れスプーンだった。真ん中の矢印的な割れ方が特徴。あの割れ方を見ると懐かしんだよねえ。最近売ってる先割れはM字型じゃなフォーク型。昭和30年代の給食と今の給食ふぉーっふぉっふぉっふぉ(^o^;)にほんブログ村親父日記ランキング
Jun 30, 2022
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生まれてから相当の大人になるまで、折につけFENのラジオは聞いていた。幼少の頃は、米海軍厚木基地に日本語を話せないおじさんが二人いたので(海軍軍人)余計聞く機会があったんだと思うけれど、小中高と、AMラジオがつまらないとFENにチューンしていた。洋楽やPOPな音楽が良かったんだよね、喋ってばかりの日本のラジオはすぐ飽きるけど、音楽は飽きないからね。で、昔からすごく特徴があって覚えているのが、FENで唯一の日本人アナウンサー窪田ひろ子さん。1分間の番組で日本語を教えていた。この人の英語の発音が良いというか、声が良いというか、落ち着いた喋りが魅力的なんだけど、飽きる前に1分で終わるスポット。耳に残るんです(^o^);インやあ、懐かしいなあ・・・。「フェン【FEN】[Far East Network]《Far East Network》米軍極東放送網。1945年から在日米軍向けラジオ放送を開始。1997年の米軍放送網の世界的統配により、AFNに改称された。(日本大百科全書(ニッポニカ))」ふぉーっふぉっふぉっふぉ(^o^;)親父日記ランキング
Sep 26, 2021
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よく昔、仕事中の会話で、「どうでも飯田蝶子よ!」っていうのが流行った。まあ、平成元年頃だけど(^o^);で、飯田蝶子って女優さんは、婆さん女優としては有名だった。特に、加山雄三の若大将シリーズの婆ちゃん役ではハッスル明治生まれという感じで、大正生まれのの長男(加山雄三の親父役)より元気で、孫(加山雄三)の味方だった。東宝映画のドル箱は、黒澤作品じゃないんだよね、森繁ファミリーの「社長シリーズ」、「駅前シリーズ」、クレージーキャッツの「クレージーシリーズ」と「若大将シリーズ」、これがドル箱だった。特撮物と黒澤作品はその次だった。まあ、サクサク作れるもんじゃなかったからだろうね。閑話休題猫みたいな顔で小さいばあちゃん、でも元気ってのが良かったなあ。でもすぐぎっくり腰になったりするけれど(^o^);ふぉーっふぉっふぉっふぉ(^o^;)親父日記ランキング
Aug 7, 2021
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最近みんなのうた60で懐かしすぎる歌と映像がある。NHKのみんなのうたは1961年の4月からの放映だけど、NHK専属歌手第1号の楠トシエさんが最初の頃に歌った『誰も知らない』って歌が不思議な歌だった。なんとYouTubeにあった!楠トシエさんと言えば、『お笑い三人組』(ラジオ 1955年11月 - 1960年3月、テレビ 1957年 - 1966年3月)、『ひょっこりひょうたん島』(1964年 - 1969年)、『おはよう!こどもショー』(日本テレビ、1965年 - 1970年代)に出演してた。でも、CMソングの女王でもあって、800曲だか1000曲だかをふきこんでるらしい。清酒黄桜CMソング『かっぱの唄』は代表曲。中でも関東ローカルなCMソングで、『長生きチョンパ(船橋ヘルスセンター)』は、東京12チャンネルの午後のアイドルタイムにはよく流れていた。広告の安い時間帯(^o^);清酒黄桜CMソング『かっぱの唄』https://www.youtube.com/watch?v=GClOukq8RL8長生きチョンパ(船橋ヘルスセンター)楠トシエhttps://www.youtube.com/watch?v=lHOWltPCNMY&list=FL0ArShTtm-bIkgJRxBWfG2Q&index=12&t=4sで、楠トシエさんは存命らしい、93歳で!ふぉーっふぉっふぉっふぉ(^o^;)にほんブログ村親父日記ランキング
Jul 3, 2021
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ジムの風呂上がり、買い物も終わって家でのんびりしてると、この夏日の暑い日に爽やかな風が窓からやってきて、ホワーンとした気持ちが眠気を誘う中、忽然と頭の中を流れる曲は、映画「80日間世界一周」のテーマだった。よって、本日のヘビロテは再び映画「80日間世界一周」のテーマ音楽。夏のデパートの屋上の日陰び座ってる気分である(^o^);大丈夫、寿命が尽きて死なないよ(^o^);ふぉーっふぉっふぉっふぉ(^o^;)親父日記ランキング
Jun 9, 2021
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そういやあ、昭和の頃、まあ30年台から40年の間、各家庭には屋外のゴミ箱があって、それがコンクリート製とか木製だった。コンクリートのゴミ箱も、蓋がブリキとか、仕切りか木製とか、色々あって、自治体がゴミの回収をしていた。我が家の前にもコンクリート製のゴミ箱があって、似てる画像を探したので載せてみる。今や、プラスチック製の袋がどうのこうのと(有料化とかね)、環境汚染について色々あるけれど、実は海洋汚染のスーパーの袋の量は2%程度だと、公共機関が発表してる。啓蒙の為に有料化しただけで、実際の海洋汚染にはほとんど影響がないんだね。98%は別のプラスチックのゴミだと言うことで・・・。まあ、ゴミの話じゃなくて、ゴミ箱の話。こんなコンクリートのゴミ箱、見たことありますか?わしが小学生の頃は軒並みこのゴミ箱だったなあという懐古譚ですが(^o^);ふぉーっふぉっふぉっふぉ(^o^;)にほんブログ村親父日記ランキング
May 22, 2021
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小学校1年の頃、学校帰りに肥溜めに落ちて人糞だらけの足をひきづって帰る同級生を何回か見たものだ。周りの友達に冷やかされるからすぐ分かる。自宅から小学校までの間には、畑田んぼが結構あったので、コンクリを打った肥溜めが散在していたものだ。我が家の前の市道も、砂利道だった。アスファルトに舗装されたのは小学校の高学年以降だったろうと思う。イギリスの舗装率が100%だった頃、日本はまだまだ舗装率が50%にもなっていなかったんじゃないかな。なにしろ2012年の統計で、80%を超えたくらいだから。平成7年頃、滋賀県の栗東町の隣の守山市に単身赴任して、栗東の事務所に通勤してたけど、この頃は農道さえ、立派なアスファルトで舗装されていた。(農政省の予算は多かったんだろうね、ろくに車も通らない農道が立派だったから(^o^);)まあ、道路は種類があるから、施工主体も自治体別だったりで予算も別々だから、舗装の早い遅いもあるんだけど、肥溜めがまだ存在してた頃は、舗装自体が少なかったのである。今はどこもアスファルトとコンクリート街中は、落ち葉が邪魔なゴミと化しているけれど、昔は、落ち葉はゴミじゃなかったよなあ、腐葉土の飼料みたいなもんだった。今じゃあ落ち葉が道路の排水溝を塞いで、冠水した道路のせいで、あわや床上浸水しそう!なんて事になる。それは落ち葉の落ちる11月あたりに、大雨なんか降ったらだけど。閑話休題で、肥溜めっていつ頃から消えていったんだろうね。北朝鮮では今でも肥溜めが重要な堆肥らしいけど、ほら、脱北して韓国に亡命した将校が腹の中に回虫や寄生虫が凄くて、韓国の医者が、こんな大きな回虫は見たことがない!とかニュースになってた。肥溜めの堆肥には熟成発酵が必要で、新しい人糞は使えないから、時間をかけて肥溜めするわけで、北朝鮮ではそれをしないから、寄生虫の宝庫となったらしい。発酵(発酵熱は70度にもなるらしい)をしっかりしたとしても、死滅しない寄生虫もいるらしく、安価で衛生的な化学肥料に取って代わられた訳だ。さてそれは昭和の時代、大体1970頃には田畑も減り同時に肥溜めも姿を消したのが、わしの周りだったように思う。実は朝、肥溜めに落ちる夢を見てびっくりして起きたのであった(^o^);ふぉーっふぉっふぉっふぉ(^o^;)親父日記ランキング
Mar 12, 2021
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やっぱり、城達也とJALだよね。良いステレオセットを買った時、音が良かったラジオはFMだったな。そんな時、深夜に寝る前に聞くジェットストリームは良かったなあ。まあ、イージーリスニングで、インストだから、余計良い感じだったのかもねえ。しかも過去の名曲カバーって感じだから、メロデイに慣れてる。しかもパイロットの城達也のナレーションがすごく良い。まあ昔、葉書を貰ったからって褒めてる訳じゃあないけれど、雰囲気が良いんだよねえ。空港の待合室的に(^o^;)ふぉーっふぉっふぉっふぉっふぉ(^o^);親父日記ランキング
Mar 4, 2021
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テレビが一家に一台になる前、そこら中に貸本屋があった。小学校一年生のわしでさえ、歩いてすぐのところに貸本屋があったので、十円持って借りに行った。でも昭和37年頃からどんどん減っていく。貸本漫画家なんて大勢いて、今でも活躍してる人は多いけど、さいとう・たかおとか水木しげるとか、たくさんいたなあ・・・。(劇画といわれた)そう言えば、水木しげるの「墓場鬼太郎」も借りた覚えがある。今の「ゲゲゲの鬼太郎」の最初だ。単行本だったな。でも、月刊漫画誌なんかも借りることが出来た。そこで面白いのは、月刊漫画誌には付録が付いていた、これは貸さないから余る、それを五円で売ってもらう。でも大変なのは、本誌がないから、付録の作り方が分からないことだった(^o^;)今や、レンタルビデオ屋もなくなり、レンタルはDVDになったが、その昔は貸本屋がそれに代わるものだった。衰退したのは、テレビが行き渡り、週刊漫画誌が主流になった頃からだ。全国にあった3万店が二千店くらいに減ったのはこの頃らしい。いや、懐かしいなあ・・・。昭和37年(1962)の物価たばこ(ゴールデンバット)30 円、 新聞購読月 390 円 はがき 5 円 ビール 125 円 映画封切館 200 円 国鉄初乗り 10 円ふぉーっふぉっふぉっふぉっふぉ(^o^);にほんブログ村親父日記ランキング
Dec 10, 2020
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なんだかこのCMを見ると、東京12チャンネルの午後2時の映画ロードショーを思い出す。ウイキペディアによると、『「伊東に行くならハトヤ 電話は4126(よい風呂)…」のCMソング(野坂昭如作詞、いずみたく作曲)でその名を知られている。』関東、東海、近畿地区で有名だったらしい。「釣れば釣るほど安くなる三段逆スライド方式」って言うCMもよく覚えてるなあ。まあ、CMを知らない人はいなかったくらいたくさん流れてたように思う。YouTubeで懐かしい動画をどうぞ!ふぉーっふぉっふぉっふぉっふぉ(^o^);にほんブログ村親父日記ランキング
Oct 22, 2020
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そういえば、二十歳になる迄飛行機に乗って旅することはなかった。幼児の頃、米軍厚木基地で戦闘機かなんかのコックピットに乗せてもらったことはあるけれど、あれは飛んでない。飛んでるヒコーキに乗ったのはやっぱり、二十歳の時だな。行った先はアメリカ。当時、羽田空港からチャイナエアライン(台湾の中華航空)が出てた。一番安いチケットは大韓航空だったけど、これは成田空港だった。チャイナエアラインは、二つの中国の否定みたいなもんで、成田には一緒に入れん!みたいな関係で、台湾だけは羽田から出る国際線だった。羽田空港からロスアンジェルス国際空港までの往復チケットが、当時大韓航空は225,000円、チャイナエアラインは235,000円だった(1976年頃)。(今から考えると、エライ高いよな、1991年にニューヨーク行った時のチケットは6万円くらいだったし)確か全部で15時間だったと思うけれど、ハワイのホノルルで一旦着陸して、給油かなんかするんだけど、トランジットの我々は、その2時間の間、待合室で待たされる。これがね、切ないんだよ!ヒコーキから降りて待合室に行く間、地上を歩いたんだけど、なんと常夏のハワイの空気が鼻に臭うのだ!更に、椰子の木かパームツリーか知らないけれど、風にそよいでいる!もの凄くハワイに行きたくなるんだけど(実際ハワイに居て空港の待合室に向かってる)、ここでは降りられない!!!この記憶は後々まで残り、結局新婚旅行の日程の最後に無理やりハワイを入れた訳だ(^o^;)この頃は全席喫煙席だ。漏れなく座席に灰皿が付いてる。この頃から、ダイレクト便ってのが出てて、実は8時間で到着出来る便があったが、もっと高かった。でも帰りは9時間だったかも!まあなにはとまれ、15時間かけてロスについたけれど、ハワイの空気とはまた違った空気で、さらに都会的な埃の匂いがしたことを覚えてる。そして夜の空港はなんか寂しかったな、まあ、アメリカ人のおばさんが車で迎えに来てくれたので、怖くなかったが(^o^;)ふぉーっふぉっふぉっふぉっふぉ(^o^);親父日記ランキング
Oct 19, 2020
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今はどうか知らないけれど、幼少の頃、家族で江ノ島に海水浴に行くと、海の家でおでんとかラーメンが売られていた。真夏なのに、おでんとかラーメンである。まあ、海水浴で体が冷えるからってことかもしれないけれど、そんなに海に入ってないぜ!子供は(^o^;)それより、砂浜の砂が熱くて裸足じゃ歩けなかったわいな(^o^;)(そう言えば、今じゃ通年でコンビニおでんがあるな。)まあ、エリザベス・テーラーの「クレオパトラ」ってハリウッド映画が公開刺された頃だけどね(^o^);(1963年制作)ふぉーっふぉっふぉっふぉっふぉ(^o^);にほんブログ村親父日記ランキング
Oct 3, 2020
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昔、国鉄の東海道線に乗って静岡方面に旅をする時、象徴的に買う物に、駅弁、熱いお茶、冷凍みかんがあった。暑いお茶は二十円とかだったなあ、ビニール皮膜の針金の取手が付いてた小さービニール製のヤカンっていうイメージ。で、デザートは冷凍みかんで、4個くらいがオレンジ色のビニールの網袋に入って売っていた。いやあ、あれを一生懸命食べた記憶はないけど、凍ってるから、すぐには食べられなかったんじゃないだろうか?ふぉーっふぉっふぉっふぉっふぉ(^o^);にほんブログ村親父日記ランキング
Jul 5, 2020
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昔の映画館には、緞帳があって、映画が始まる前に開いて、エンドロールが終わると閉じた。良い映画館は割り緞で、中央から割れる幕だった。で、その幕間には照明が点いていて、BGMが流れていて、照明とBGMがフェードアウトするように消えて緞帳が開くと映画が始まるという寸法で、まさに劇場の演出がされていたものだ。(因みに、昔に建てられた中学校の体育館も、舞台にしっかり緞帳が設備されていて、ぶら下がってふざけて怒られた記憶がある(^o^;))で、懐かしいのは、幕間のBGMの話。劇場によっていろいろなBGMを流していたけれど、今で言えば、ホテルやレストラン、カフェなんかで流れているような、インストルメンタル。オーケストラ仕様のもが多かったな。その中に、記憶に残るのはやっぱり元々は映画のサウンドトラックで使われた曲のカバー。例えば『慕情』。フランス映画からは、『パリのめぐり逢い』のフランシス・レイとか。こう言ったBGMが、映画の余韻を膨らませてくれたものだ。(しかし、地元の映画館で、東映の三本立て映画で鶴田浩二や高倉健の任侠映画の時は、幕間なんてなかったし、大体緞帳もなかったかもしれない。幕間の代わりは、次の映画の予告編か、国際ニュース映像だったかも(^o^);)ふぉーっふぉっふぉっふぉっふぉ(^o^);親父日記ランキング
Jun 15, 2020
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19歳の時だったなあ、東京は上野にある映画の学校に通ってる頃だ。4歳か5歳年上の同級生が、錦糸町の3畳一間風呂なし共同洗面&便所を借りていて、月五千円の家賃だった。ここによく遊びに行って、泊まったりしたのだけれど、わしの狙いは、錦糸町のパチンコ屋で稼げることと、近所に手作りのパン屋があって、揚げパンとかカレーパンがすごく美味くて安かったことと、その友達が関谷ひさしの漫画『ストップ!にいちゃん』を全巻揃えていて、これが読みたかったってのもある。パチンコで稼いだ後は、三畳ひとまで飲むんだけど、その頃はよくサッポロジャイアントを近所の酒屋で買ってきて飲んだ(これはビールだ)。何しろ1957mlの大瓶である。十分でしょ?で、ギターなんぞも弾いたけど、この友達は岩手県の産だったなあ・・・。三畳一間でも、押入れがあるから、その分広い、わしはよく押入れで寝た(^o^;)いんやあ、だから、ストップ!にいちゃんとサッポロジャイアンツはセットの想い出なんだなあ(^o^;)ふぉーっふぉっふぉっふぉっふぉ(^o^);にほんブログ村親父日記ランキング
May 30, 2020
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その昔、昭和35年頃かな、アメリアのおばさんが客船で横浜港からアメリカに旅立ったことがある。わしのお袋の妹で、アメリカ人(厚木基地で海軍の軍楽隊でコルネットを吹いていた)と結婚したおばさんが、日本に遊びに来ていて帰ると言う段取りだと思った。なんと、客船でアメリカに帰ると言う。豪華だよねえ、こっちは幼児だから乗ったこともなかったけど。で、その兄弟が数人で見送ったのだけれども、売店で売ってる紙テープを買ったんだな。これは、客船の船縁に見えてる人に、投げテープする訳で、別れのテープってやつだ。まあ、七夕なんかの五色の紙テープを思い浮かべてもらいたい。で、おばさんの男兄弟(わしのおじさん達だな)が思い切りスローイングして投げる。わしもテープを貰って投げてみたが、4歳児か5歳児では、テープは港の海にしか落ちなかったのでした(^o^;)まあ届かないわな(^o^);そんな思い出が横浜港にあります。そそ、まだ現役として、鳥羽商船学校の練習船として運行していた帆船日本丸(今はみなとみらいで重要文化財初代帆船日本丸として見学できます)にのって見学したことがあります。おじさんの一人がそれに乗ってたので。その時は桜木町で降りたような記憶が・・・。今から思うと吃驚なのは、帆船も基本的にはヨット同じで、ジグザグ航法で、タッキングとかジャイビングがあって、夜中に寝てる時に頭に血が昇らないように上下反転寝返りをするそうです(^o^;)ふぉーっふぉっふぉっふぉっふぉ(^o^);親父日記ランキング
May 13, 2020
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オッフェンバック作曲のオペレッタ「天国と地獄」を聞くと、誰でも思い出しそうな思い出があるんじゃないだろうか?昔の人は、運動会でかけられた曲として、また文明堂のカステラのCMとして・・・。カステラ一番電話二番3時のおやつは文明堂♫「ディズニーのプリンセスメドレー」 歌劇「天国と地獄」序曲ふぉーっふぉっふぉっふぉっふぉ(^o^);にほんブログ村親父日記ランキング
Apr 11, 2020
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最近ドラマのセリフで、財布の中身を眺めながら、「私の諭吉が減っていく!」ってのがあった。無論1万円札の福沢諭吉のことである。でね、ふと思った。わしの小さい頃は、聖徳太子が3人だったって。一万円札、五千円札、千円札と、全部聖徳太子の肖像だった。それ以前の(1956年まで)百円札も聖徳太子だったのは知らないけどね。つまり、ひと頃の紙幣は全部聖徳太子の肖像だったのだ。懐かしいなあ・・・・。ふぉーっふぉっふぉっふぉっふぉ(^o^);親父日記ランキング
Mar 18, 2020
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つらつら思うに、深夜放送は民放AMラジオの時代を象徴してた様な気がする。試験勉強とか、受験勉強をしながら夜中にAMラジオは定番だった中学時代という感じでね。中学の1年の後半から聞き始めて、2年生の時はどっぷり使っていたかもしれない。若者向け深夜放送は1965年頃から始まり、黄金期は1970年ころがピークで、1980年くらいまでじゃなかろうか?「パックインミュージック」、「オールナイトニッポン」、「セイ!ヤング」の三つを、だいたい12時過ぎから朝5時まで聞いていた。最も文化放送の「セイ!ヤング」は、午前3時から「日野ミッドナイトグラフィティ 走れ!歌謡曲」とか言って、日野レインジャーとか言うトラックの宣伝と共に、深夜運送のトラック向けになってしまって、いきなり演歌が流れ出すので、ここでは洋楽が聞けなかった。邦楽にしても、若者向けだから、フォークソングが随分流れた。さらに、洋楽もいろいろ流れたけれど、映画音楽なんかも結構流れた。あの頃よく聞いたパーソナリティーは、小島一慶 、愛川欽也、北山修、吉田拓郎(よしだたくろう)、野沢那智/白石冬美 、山本コウタロー、みのもんた、土居まさる、落合恵子だな。それとは別にFM東京の『JET STREAM』は城達也が良かった。空港でリラックスしてる感じで、FMの音質も良かったし、選曲も良かった。今でも時々頭の中や夢の中に突然流れたりするのである(^o^;)ふぉーっふぉっふぉっふぉっふぉ(^o^);にほんブログ村親父日記ランキング
Jan 29, 2020
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『鉄腕アトム』より以前に、『ローン・レンジャー』があった!1958年くらいから1962年くらいまで、テレビの30分番組だったかな、鉄腕アトムより先に放映されてた。ローン・レンジャーはウイリアム・テル序曲のテーマに乗って白馬と化面で登場する二丁拳銃で、「ハイヨー、シルバー!(Hi-yo Silver)」と掛け声をかけるんだけど、シルバーとは愛馬の名前だね。劇中の「キモサベ!」って言葉は「頼りになる相棒=キモサベ (Ke-mo sah-bee) 」って意味らしい(ウィキペディアより)。で、相棒のインディアンの「トント」は、「白人嘘つき。インディアン嘘つかない」が決まり台詞だったようで(^o^);(本当にインディアンで、「モホーク族」だったそうだ。)当時、白黒テレビで見ていたから、白馬はなんとか判るものの、ローン・レンジャーの服の色やガンベルトの色がわからなかったけれど、実は鮮やかな水色の上下だったり、薄いグレーの上下だったらしい。ちなみに、ジョニー・デップがトント役で出演した『ローン・レンジャー (2013年の映画)』は、興行的に失敗作だったらしいね。ふぉーっふぉっふぉっふぉっふぉ(^o^);親父日記ランキング
Jun 15, 2019
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カタログによる通信販売の百貨店、つまりデパートだ。戦前戦後の時代、米軍の家庭にはたいてい置いてあったカタログ本。なんたって400ページ以上あったから、本だね。正にデパートへ行かない代わりに観るカタログのイメージだな、百貨店だからなんでもある。幼少の頃、宝物的絵本にしていたのがこのカタログで、多分1950年代から’60代初頭のカタログだと思う。まあ、デパートへ行ったら上の方の階のおもちゃ売り場がワンダーランドだったのは、一人ではデパートに行けない幼少の頃の話だけど(一人でデパートに行けるようになったのは小学校高学年になってからだ、友達と電車に乗って横浜まで行って、オカダヤと高島屋へ。それ以前でも行けたかもしれないけれど、電車賃が高かったんだろう、小遣い対比で。小さい頃は母親同伴に限られた)、シアーズのカタログはカラーでワンダーランド。しかも日本に売ってないものばかりだった。昭和36年頃に家にあったんだから、日本とは全然違う豊かさを象徴してたように思う。まあ、カタログを見れば一目瞭然かもしれないけれど、おもちゃのページを見て憧れたもんだ。で、『1950s Sears catalogs』でググって見たら、ウィッシュブックWebカタログナビゲーションなんてのが見つかった。http://www.wishbookweb.com/the-catalogs/ここ凄いよ、1937年から1976年までのカタログが載ってて、「現在のカタログの総ページ数:25,617ページ。」って書いてあった。因みに1950年代と1962年しか見なかったけど、1959年のカタログは496ページ、1962年のは472ページだった。ね、本だよね、完全に。ふぉーっふぉっふぉっふぉっふぉ(^o^);にほんブログ村親父日記ランキング
May 31, 2019
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1970年代に入ってからの角川文庫の勢いが凄かった。初めは文庫カバーの背中が黒に緑の文字でズラーっと並べられた横溝正史のフェア。そしてそれはメディアミックスの先駆けかね、角川映画がたくさん作られる。これで金田一耕助がクローズアップされたわけだけれど、本来は終戦後に続々と発表された作品群だった。そして1960年代にはほとんど書店で見なかった横溝作品。でも『1979年、角川文庫横溝作品4,000万部突破。』というくらい10年近くも売れ続けたのは凄いよね。次にきたフェアは、森村誠一だった。これは青い背中に白い文字だった。文庫カバーのカラーですぐわかる角川文庫ってちょっと画期的だったな。これで同時期に証明シリーズ3部作は角川映画にもなってる。『人間の証明』『青春の証明』『野生の証明』だな。で、その次は高木彬光。神津恭介のシリーズが有名かもだけど、夏八木勲が主役で登場した映画も新鮮だった。この文庫の背中の色は黄土色的茶色に白い文字だった。『白昼の死角』ね。そそ、大藪春彦のピカレスクな作品群も結構映画化されてるけど、本の方は「大藪春彦ホット・ノベル・シリーズ」という徳間書店から出てたので(新書版全67巻)、角川文庫からのフェアはなかったけれど、これも黄色い背中でズラーっと書店に並んでた。今は中古でもあんまり見ないな。一頃、この4つの背中の本がズラーっと家に並んでた。もう売っちゃったから今はないけど。まあ、あの頃の勢いは凄かったねという話だ。ふぉーっふぉっふぉっふぉっふぉ(^o^);にほんブログ村親父日記ランキング
Apr 21, 2019
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16歳の高校生の時にアルバイトをした時に、時給が320円だった。それは昭和48年頃の話。最初はイトーヨーカドーの商品整理をした。小売り品に値札を貼って並べるやつね。夕方から夜にかけてそのバイトをしていると、一年上の先輩達が、ビルメンテ会社のバイトで、夜8時から床掃除にやってくる。当時閉店時間が夜8時だったので、それから掃除する訳だ。商品整理は9時過ぎまでやってるから、そこで顔を会わす訳だ。むこうはおっさんのボスと近所のおばさんパートと悠々とやってきて、掃除機やモップで仕事する。丁度中学のサッカー部の連中が多くて、顔馴染みだからよく話をした。で、羨ましくなってバイトを替わった。今度は毎晩2時間で時給が360円。主に掃除機の担当だったな。先輩達とおばさん達、は床機械洗浄ワックスとモップを使って掃除をしてた。ほとんど毎晩90分程度で掃除が終わるので、その後ガードマンのいる裏口のそばのベンチで30分ほど時間調整をして、しっかり2時間分のタイムカードを押してから帰るのだった。その頃のガードマンとはよく無駄話をしたのだけれど、一番面白かったのは刑務所の話だった。更生したムショ帰りは、警察のOB会社の警備会社に勤めることが多い。そこで聞いたおもしろ話の一つは、安藤組の若いヤクザが刑務所でいじめられた話(ほら、安藤昇が芸能人になんかなったので、子分はいじめられたらしい)。それと、剣菱がまだ全国的に売れまくる前の話は、金粉入り超特級の日本酒の話で、年間600本しか作られないそれを飲んだ時の話だった。(後に、酒屋はみんな知ってる剣菱の樽買いの噂が飛び交う前のこと。剣菱が全国的に売れまくった頃、急に味が落ちたと思ったら、よその蔵元の樽を買ってラベルだから剣菱にしてたって話ね)閑話休題毎晩2時間のバイトだから、720円の稼ぎなんだけど、よく一つ上の先輩二人とバイトの後に焼き鳥屋に行った。夏はバイトの後の生ビールと焼き鳥が美味いのだ。でも、毎晩はいけない。何しろ、生ビール一杯と焼き鳥3本だけでも1日のバイト料を超えるから(^o^);そして17歳の時に、夏のバイトで飯場に泊まりがけで旅費を稼いだことがあった。東京の飯場で、千葉県の長崎屋のビルが現場だった。はつり屋の雑用係りで、コンクリートに使う型枠の木材(ベニヤや垂木)を剥がした後の片付けで、ベニヤから釘を抜いたりするのが主な仕事だった。三食布団風呂付きの飯場の生活で、一日2千円ちょっとの日当だった。ずいぶん安いように思うけれど、三食布団風呂洗濯付きだからね。ここで夏の旅行(野山放浪部の二十日間周遊券旅行(国鉄)で、19泊二十日)の旅費を稼いだ。これで行ったのは北海道だったっけかな、国鉄の周遊券は2万円もしなかったような記憶がある。四国旅行も同じ19泊二十日だったけど。いんやあ、懐かしいのは、国鉄の周遊券だな。ふぉーっふぉっふぉっふぉっふぉ(^o^);にほんブログ村親父日記ランキング
Apr 13, 2019
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山形のさくらんぼはブランドで人気が高いけど、チェリーというのはあんまり定着しないんだね、日本では。例えば、飲み物系だと欧米には結構チェリーがある。チェリーコークやドクターペッパーチェリーなんかは、日本のスーパーには、気軽に売ってない。輸入品の店なんかじゃないとね。ネットでは送料が高いからね。チェリー ビール (ベルギー)なんてのもあるし、ハーゲンダッツ チェリー カスタード パイなんてのもある。そして思い出すのは日産チェリーって車だ。日産チェリー販売っていう販売会社もあったよねえ。でもやっぱり長年愛用してた煙草、「チェリーCHERRY)」が愛しい。「東日本大震災による工場の被災により生産の中断に追い込まれたが、2011年5月12日には販売量が少ないことを理由に、そのまま販売を再開せず廃止することが発表された(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia))」わしの所蔵する在庫の賞味期限はH23年3月となってます。シガリロならあるぞ、「ブラックストーン・チェリー」これを吸うと周りから臭いと言われるが(^o^);ふぉーっふぉっふぉっふぉっふぉ(^o^);にほんブログ村親父日記ランキング
Mar 17, 2019
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『愚の骨頂』シンガーソングドランカーの過去の栄光かね(^o^);もうすっかり忘れてましたが、こんな動画がユーチューブにアップされてました。元東芝EMIのシンガーソングライター、蛇足鈍也さんのお店でライブした時に、鈍也さんが撮ってアップした動画です。オリジナルですが、50歳を過ぎての曲だったかなあ・・・。わしも元シンガーソングドランカーだったのです(^o^);ふぉーっふぉっふぉっふぉっふぉ(^o^);親父日記ランキング
Feb 24, 2019
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今「バナー」って言うと、ウエブバナーだと思われる。でも昔はバナーと言ったら、「旗」や「横断幕」や「のぼり」でしかなかった。日本では横三角のバナーがよく観光地で売っていて、お土産に買って帰って記念に壁に貼ったりしていた。「ペナント」と言っていた。海外の観光地や団体もよくバナーを作ってたけど、形はいろいろだった。最近は誰かの部屋の壁で見ることもないねえ・・・・。ふぉーっふぉっふぉっふぉっふぉ(^o^);にほんブログ村親父日記ランキング
Feb 4, 2019
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毎日寒いと、暖かい景色が懐かしくなる。でも熱帯や灼熱や砂漠は見たくないので、真夏の涼しげな景色を思い浮かべたりする訳だが、最近懐古的に甦るのは、80年代に流行った景色だな。そんな中で、80年代に爽やかなグラフィックデザインのポスターを飾った3人は、みんな青が綺麗だ。その3人とは、永井博と鈴木英人とわたせせいぞう。みんな実線が多いのだけど、それもまた爽やかさの区切りみたいで感じが良いのだな。つまり実線部分は黒が多いわけで、塗り絵の線みたいなもんだけど、それが不自然じゃないから凄いわけで、ポスターとして飾りたい絵ばかりとなっている。特に海や空やプールなんての青が爽やかである(^o^;)その昔、カフェバーをやっていた頃飾っていたポスターが懐かしい。ふぉーっふぉっふぉっふぉ(^o^;)にほんブログ村親父日記ランキング
Jan 16, 2019
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ロゼット本舗の白子さんと黒子さんロゼット本舗どうだ懐かしいだろ、昭和35年頃からの『ロゼット洗顔パスタ』のテレビ宣伝。昭和40年代のピーク時には年間600万個を売り上げる驚異的な人気商品だったそうだけど、実は今でも売っていたりする。しかし、男のわしには関係ないのによく知ってるCMだと言うことは、如何によく流れてたかってことだよねえ、新聞や雑誌にもよく載ってたし、昭和40年前後はモノクロテレビでよく見てた。我が家のテレビがカラーになったのは昭和41年だったからねえ(^o^;)ふぉーっふぉっふぉっふぉ(^o^;)にほんブログ村親父日記ランキング
Nov 2, 2018
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「昭和レトロ」で検索すると、日本各地のいろいろあるのに驚いた。特に、画像検索すると、『ウワァーッ』ってな感じで懐かしい風景が出てくるから驚く。開店した時からよく新横浜ラーメン博物館にラーメンを食いに行ってたけど(ワシの目的は今はなき「純連(すみれ)」の味噌ラーメン)、あそこの昭和レトロは昭和32年をテーマにしてたと思ったけど、それと似た様な景観の昭和レトロを感じるスポットが数多とあったんだね。って、ことで画像は新横浜ラーメン博物館だけど、昭和レトロに興味があれば、是非検索してみてね。ノスタルジーを感じることは間違いないから!尤も、若い人には無縁だな(^o^;)ふぉーっふぉっふぉっふぉ(^o^;)にほんブログ村親父日記ランキング
Oct 8, 2018
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モンブラン万年筆マイスターシュテュックNo.149 4810 14K149のペン先は、1950年代~60年代 14C 中金1970年代中ごろ 18C 中金1970年代後半~80年代前半 14C 中白1980年代中ごろ 14K 中白1980年代後半~90年代中ごろ 18K 中白1990年代後半~現在 18K 中金と変わっていったらしいけど、わしの持ってるのは「1950年代~60年代 14C 中金」に該当しそうだな。で、『優雅な筆記具』のモンブランで万年筆の価格を調べたら、一番安いマイスターシュテュックで6万円以上で、高いのは17万円以上のがあった!わしのはもう作られてないから、中古市場を見てみると、買取価格が1万円くらいで、中古品売買は2万円から3万円ってところだった。こら、文房具の域を超えてるね(^o^;)わしのは実用使いだけど。ところで、「4810」っていう数字は、モンブランの標高だそうだ。で、「149」は149ミリって長さだそうだ。ふぉーっふぉっふぉっふぉ(^o^;)にほんブログ村親父日記ランキング
Sep 23, 2018
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1ドル銀貨を4枚持っている。古銭とかコインの趣味はないけれど、なんとなく記念的に貨幣をとっておいたんだね。そんな中に1ドル硬貨が4枚会ったので、ちょっと調べてみた。その昔、40年近く前にラスベガスに行った時に、1ドルのスロットマシンだったか、ゲームセンターのテーブルゲームみたいなブラックジャックだったかに、ラスベガスチップじゃなくて本物の1ドル硬貨が混じっていた。その時のも入ってると思うけどね。で、1枚目。1922年のピースダラー。だいたい4000円から8000円くらいで売買さレテる様子。でも1921年のものならその倍以上みたいだから残念賞ものだね。2枚目は、1972年のアイゼンハワーダラー。これは3000円前後の模様。3枚目と4枚目は1976年の200周年記念硬貨。きっとこれがラスベガスのカジノから持って帰ったものじゃないかなと考えている。これはオークションなら500円くらいから出てる、2500円くらい出せばすぐ手に入る様だな。ふぉーっふぉっふぉっふぉ(^o^;)にほんブログ村親父日記ランキング
Sep 15, 2018
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45年前の八月、もうそこら中で流れていた歌謡曲は、天地真理の「恋する夏の日」だった!(まあその2年前の夏は、そこら中から尾崎紀世彦の「また逢う日まで」が流れてたけれどもね)あの頃は、街中を歩いても街頭から、店舗のラジオから、有線放送から、テレビやラジオの音が外に聞こえたもので、自宅のテレビラジオばかりから聞いてた訳じゃない。それこそ、そこら中から溢れ出していたのだ。自宅のステレオからはFM東京の音楽とか、ローリングストーンズ、ビートルズ、そして日本やアメリカのフォークばかりを聞いていた。要は、ロックやクラシックやフォークはステレオで聴いても、歌謡曲は聞かなかったんだけど、それでも自然に溢れ出すヒット曲は耳に入って来てしまう。そんな中で1973年のの夏は天地真理一色だったのだ。まさに国民的スーパー・アイドルだった。レコードを買って夢中で聞くこともなかったのに、全部覚えてるのは、あまりにもそこら中から溢れてたからだろうね。まあ、取り敢えず、ラジオから流れると思わず聞き入ってしまうということはあったけど。イントロもキャッチで良かったけれど、本人の笑顔と声質も良かったんだろうね。そしてYouTubeでこの動画を見つけて聴いた時、思わずお気に入りに入れてしまったわしです(^o^;) 恋する夏の日「恋する夏の日」(こいするなつのひ)は、1973年7月1日に発売された天地真理の7枚目のシングル。売上50万枚(ウィキペディアより引用)ふぉーっふぉっふぉっふぉ(^o^;)親父日記ランキング
Aug 28, 2018
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その昔、わしが幼少だった頃、おもちゃ入れに使っていたのが、木製の蓄音機だった。これは木の胴を抜いてスピーカーにしてある構造で、火鉢の様に丸い円筒形で、木に黒い塗料を塗ってあって、戦車のハッチみたいな丸い蓋が付いていて、開けるとターンテーブルと針があった。どっかに手回し式のハンドルもあったのかもしれないけれど、わしのおもちゃ箱になった時点で、蓄音機の役目は終わっていたのだ。これが懐かしくて似たような蓄音機の画像を探したけれど、見つからない。ほとんどが四角いので、ラッパの様なホーン(まあスピーカーだな)が付いたものしか見つからなかった。わしのお袋の妹の一人が、進駐軍の海軍の楽隊の一員と結婚した。その人はコルネット吹きだった様だけど、この叔父さんは当然アメリカ人だけど、実家がシカゴから2時間くらい車でフリーウエイを走った先の州にあって、一回行ったことがあるけれど、州の名前は忘れた。墓参りしておじいさんに刻みたばこを貰ったことがある。一緒に連れて行った犬、スモーキーが、この実家の椅子に小便をして回ったのが笑ったが、出て来たディナーのステーキが分厚いゴムのサンダルみたいで、半分も食えなかったのに、マッシュポテトの大盛りをよこされて閉口したな。わしは二十歳くらいだったけれど、一言おじさんの弟に、『日本人は食わないな!』と言われた。おじさん自体は癌で早く亡くなったので、その墓参りに立ち寄っただけなんだけど、漏れなくディナーはどこでも付いてくる。悪いけど、ステーキはもううんざりしてんだよね(^o^;)ゴム草履は見たくなくなった記憶がある。まあ、その軍楽隊のアンクルが、わしのじいさんとばあさんに置き土産に置いて行ったのがその蓄音機だと思う。軍楽隊のおじさんは78回転のレコードも何枚か置いて行ったが、覚えてるのはサッチモ(ルイ・アームストロング)だけかな、何しろこっちは4歳くらいだったからね。で、元浪曲師のじいさんが78回転でレコードを聴いていた、ある日蓄音機に寿命がきて、わしのおもちゃ箱になったんだと思う。針もターンテーブルもなくなった蓄音機は、細かいおもちゃの巣窟になってたけれど、スピーカーの穴だけは活用出来なかった。なんで、胴にこんな変な穴が空いてるのかも理解してなかったけれどね(^o^;)厚木基地(アメリカ海軍のネイビーベース)が近いので、そこに親戚が居たから、よく英語で話しをした。無論幼児英語だ。で、小学校1年くらいの時に言葉で悩んだ。幼少の頃に覚えた英語だから耳英語だ。故に日本語と英語の区別が出来てない。一つの例として、カメラって発音できなかった。キャメラって言ってしまう。で、その癖は長らく治らなかったので、バカにされるから、『写真機』と言う様になった。小学校の頃は写真機と言ってもそれほどバカにされなかったけれど、大きくなるに連れ、バカにされる様になった。しかし、四十を過ぎた頃からは、逆にギャグの様に笑われるの面白くて、直さなかった。だから今でもつい、カメラとは言わず『写真機』と言ってしまう。まあ、これは一例で、若い頃は酔っ払うと英語になっていたこともある。でも文法は酷かった様で、ロンドン子にはよく指摘され直されたけど、アメリカ人はなんも言わなかった。まあ、わしは日本人だから、英語なんてたいして覚えてないのだ。日常生活に使えれば不便がないわけで、お陰でニュースの英語は全然わからないけれど、カーツーンやアメコミの英語はよく分かる(^o^;)まあ、俗語もある程度は(^o^;)でも、新聞の社説に載ってる英語は皆目わからない。だって、知らない単語しか書いてないんだから!ふぉーっふぉっふぉっふぉ(^o^;)いんやあ、そんな話じゃなかったなあ、蓄音機の話だったの!(^o^;)そんなことを思い出したのは、「A列車で行こう」とか「ムーンライトセレナーデ」とか「茶色の小瓶」とか「インザムード」とか、ビッグバンドのスイングジャズを聴いてたからかもしれない。ふぉーっふぉっふぉっふぉ(^o^;)にほんブログ村親父日記ランキング
Aug 2, 2018
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その昔、わしが幼児の頃、よく軽飛行機やヘリコプターから拡声放送とともにチラシ、ビラ、フライヤーが空中散布されていた。ハガキ大からA5程度の大きさの薄い紙で、大概色が着いた紙を使っていた。覚えているのは赤い紙だな。ぺらぺらの紙だったけど、幼稚園児の子は、走り回って拾い集めたもんだ。小さな落下傘が混じっていたりする。子供に拾わせて持って帰らせようとする魂胆だろう。アドバルーンの広告とともに記憶にある。昭和40年頃には禁止されたらしいね、子供が走り回って自動車事故に遇うことが増えたことが原因らしいけれど、今なら廃棄物処理法あたりでアウトだろう。因みに宣伝広告の内容は何も覚えてない。赤くて薄いペラペラの紙に字が書いてあったと言うことだけだ(^o^;)ふぉーっふぉっふぉっふぉ(^o^;)にほんブログ村親父日記ランキング
Jun 13, 2018
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ふと思い出したのだけれども、わしが小学生低学年の頃は、10月10日の体育の日なんてそこら中で運動会だった。小学校の運動会も日曜日に行われて、当然の如く親が弁当を作って持って行って昼を食べると言う構図だった。運動会の決行と延期は、朝7時の花火で決める。決行の時は花火が上がって、順延の時は花火が上がらないと言う取り決め合図はまるでどっかの軍勢って感じだけど(^o^;)で、今鮮烈な記憶は、運動会の裸足足袋と言う代物。今度の日曜日に運動だとか言うと、みんな親と一緒に洋服屋に買い物に行く。その頃はほとんど洋服屋で買う野球帽はジャイアンツしか売ってないのでみんなそれを被っているのが男の子だったけど、そんな子が母親と毎年一緒に買うのが、裸足足袋。何故か運動会はその白い足袋を履くのが当たり前だった。3枚こはぜ(小鉤(こはぜ)は布に縫い付けられた爪型の小さな留め具。鞐。)の白い地下足袋みたいなもんで、子供用だった。裏の素材を覚えてないけれど、もしかしてゴム底だったのかもしれない。昔懐かしい裸足足袋ってのが今でも売っている。中学一年の時はもうアップシューズか他の運動靴だったから、いつ頃まで履いてたのかね。昭和40年位までかもしれない。まあ運動会の朝は、大概晴天に恵まれることが多かったけど、外に出て花火を聞こうとしたもんだ。そして新品の裸足足袋を履くのがちょっとワクワクした。まあ、運動会は好きではなかったけれど、新品の裸足足袋は好きだった。運動会で一回履くだけの新品の裸足足袋って一体なんだったんだろうね?今でも意味がわからないけれど。だってもう運動靴の時代だったんだから・・(^o^;)。ふぉーっふぉっふぉっふぉ(^o^;)親父日記ランキング
May 19, 2018
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夢で見た歌詞が頭の中で媚いついて離れないでヘビロテしている。その歌詞は『海底人8823』と言う幼少の頃に観た子供向けヒーロードラマだ。8823ははやぶさなんだそうで、なんで海底人が隼なんだか判らないけれど(^o^;)で、ちと調べてみると、どうやらわしが4歳の頃のモノクロ三十分作品。ところが、映像シーンはワンカットも覚えていない。主題歌だけが鮮明。2歳の頃に流行った月光仮面の方がシーンを覚えている。仮面もの、覆面主人公ヒーローの元祖は月光仮面らしいけれど、七色仮面やナショナルキッドも顔の露出が少ないから俳優が誰かよくわからないが、この『海底人8823』は鞍馬天狗みたいに頭巾みたいなものだけだからはっきり役者の顔が見えるのに、ちっとも記憶に無い。同じ様なコスチュームだと、宇津井健が主人公の宇宙人「スーパージャイアンツ」がるけれど、これは顔を覚えている。ま、再放送で見たのかもだけどね。そんな訳で、主題歌だけヘビロテするのであった。ふぉーっふぉっふぉっふぉ(^o^;)歌詞動画ーーーーー『海底人8823』(かいていじんはやぶさ)は、1960年に製作された特撮テレビ番組、および劇中の主人公であるヒーローの名称。大映テレビ室製作。1960年1月3日から1960年6月28日まで(近畿地方では6月26日まで)、フジテレビ系で放映された。宮本製菓(現:カンロ)の一社提供。放送時間は毎週日曜日18:15 - 18:45。(ウィキペディアから引用)ーーーー親父日記ランキング
Feb 24, 2018
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その昔、昭和30年代の少年漫画雑誌の広告によく載っていた「シーモンキー」。特に月刊漫画雑誌には多かったような気がする。月刊誌には必ずたくさん付録が付いてた。ほとんどが紙製だったけど、11大付録なんてのもあったな。そんな雑誌の中にあった通信販売の広告にシーモンキーがよく載っていた。調べてみると下記の如し。①『ブラインシュリンプ エッグ』②アルテミア(Altemia)という生き物です。夏とかに田んぼに出現するホウネンエビに近い仲間です。熱帯魚等の餌にする「ブラインシュリンプ」というのがありますが、実はあれも同じか似たようなものです。ふぉーっふぉっふぉっふぉ(^o^;)親父日記ランキング
Jan 27, 2018
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パルプマガジンの魅力ってのがある。なんて言っても、表紙が一番かな。だって内容は英語だから良く分からない(^o^;)挿絵も良いよね。ノーズアートって知ってるかな?第二次世界大戦中、連合軍の戦闘機や爆撃機のノーズに書かれた絵だ。ペンキで描いてる絵だけど、これがなかなかユーモアや余裕えお感じさせる絵で、結構色っぽい女性が多いんだけど、パルプマガジンの表紙絵も色っぽい女性が多く描かれてる。男性は宇宙服をきっちりきてるのに、女性は頭だけのヘルメットで、色っぽいコスチュームだったりする。このパルプマガジンの表紙が好きで、幼少の頃アメリカ人の伯父さんに頼んだことがある。何故かシアーズの通信販売のカタログと共に宝物になっていたけれど(シアーズの通販のカタログってオールカラーのグラビアで、女性の下着部分は飛ばして子供のおもちゃ部分ばかり見ていた)人工着色的ではあったけれど、グラビアの無料のカタログが分厚くて、家具やバーベーキューコンロから下着はもちろん、何でもあって、昭和30年代の餓鬼から見ると、アメリカのデパートって日本と比べて天国の様に思ったものだ。何しろアイテムが豊富。子供が遊ぶ軍隊のフィギアだけでも、ローマ時代から南北戦争、第二次世界大戦とまあ色々揃ってて、それがカラーで載ってるのだから・・・。(話は違うけど、今やシアーズも同業他社の吸収されて子会社化さてるらしいけど・・・。)まあ、そんな豪華なシアーズの無料カタログと共におじさんが持ってきたパルプマガジンの表紙はいまいちつまらなくて記憶にないんだけど、きっと注文の仕方が間違ってたんだろうと思う。厚木基地周辺のアメリカ海軍の軍人の家で見たものとちょっと違っていた様に思う。文句を言ったら、代わりに子供向けオールカラーのエンサイクロペディア我が家に残ってる。(それはまたの機会に画像を撮って書こうかな・・・。こいつはセピア的色彩の資質の所為で、もの凄きアメリカンな絵だ。)まあ、便利になったもんで、今でもパルプマガジンの表紙の画像は結構見れるのである(^o^;)ふぉーっふぉっふぉっふぉ(^o^;)にほんブログ村親父日記ランキング
Jul 30, 2017
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少年という言葉に感じるノスタルジアがある。第一番に浮かぶのはテレビ世代の子供として、『少年ジェット』(武内つなよし)と『まぼろし探偵』(桑田次郎)。どちらも漫画とテレビがあった。今でもすぐ頭の中でテーマソングは流れるが(^o^;)他に夢中になって観ていた番組に、ローハイド、とんま天狗、矢車剣之助、怪傑ハリマオ、ナショナルキッド、七色仮面、琴姫七変化、少年探偵団、白馬童子、笛吹童子、ララミー牧場、ポパイ、海底人8823、と行ったとこだろう。これが幼少の頃(まあ3歳から4歳)の番組。それ以前の番組として、『ローハイド』『名犬ラッシー』『月光仮面』があるが、わしは2歳程度だったので、観ていたとしても記憶がないか、再放送だろう。まだモノクロテレビの時代だった。わしが小学校の2年生くらいの時に、金持ちの家はカラーテレビを持っていたけどね。だから昭和39年のオリンピックの開会式を、友達の家のテレビで見て、日本選手団の赤のブレザーと白のズボンが鮮烈に目に焼き付いてる。開会式は昼間だったからね。我が家にカラーテレビが来たのはそれから2年後だった。それは日立キドカラーテレビ(^o^;)話を戻して、昭和35年から36年頃のこと、白黒テレビで夢中になっていた少年向けテレビドラマは漫画の原作が多かった。その頃は漫画の月刊誌もいろいろあった。『少年』『少年画報』『冒険王』『少年ブック』『ぼくら』等。なんが週刊誌は昭和34年三月から『少年マガジン』と『少年サンデー』が発刊。漫画週刊誌は最初は二誌だった。月刊誌は必ず付録が付いていて、まあ紙とビニールで作るようなもだけど、『豪華6大付録!』なんて表紙に書いてあった。当時多かった貸本屋が近所にあって、付録だけ安く売ってくれたのでよく買ったけれども、本誌がないと作り方が分からなかった。でも安さにつられて買って来ては適当に頭を使って遊んでいた覚えがある。少年ジェットもまぼろし探偵もそうだけれど、テレビになってイメージは増幅される。特に大きかったのはテーマソングだろうねえ、音楽は残るから。特に毎回繰り返しだからね。ストーリーは忘れてもテーマソングはなかなか忘れないもんだ。ま、繰り返しの効果だね。そそ、まぼろし探偵には吉永小百合が出演してた(^o^;)ふぉーっふぉっふぉっふぉ(^o^;)まぼろし探偵にほんブログ村親父日記ランキング
Jul 22, 2017
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Canon一眼レフ eos1000s35mmフィルムカメラを処分することにした。レンズ2本も含めて。銀塩カメラはもう使わないだろうし、そもそも一眼レフなんてがさばりすぎる。それに35mmフィルムがその辺に売ってないし。使わないものを持っているのもなんだし、カメラ好きの友人に譲ることにした。ついでにポラロイドのスペクトラも。これは昔店で使って重宝したけど、フイルムが高価だからね。断捨離的整理も佳境に入ってきた(^o^;)ふぉーっふぉっふぉっふぉ(^o^;)にほんブログ村親父日記ランキング
Apr 30, 2017
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いんやあしかし、長持ちだねえ、リーガルインペリアルグランド タッセルローファー。これは16歳の時に2万円くらいで購入したリーガルの革靴。なんと約45年も経ってるのになんともない。無論時々手入れはしていたけれど、全然大丈夫。ただちょっとサイズが小さくなったように、足が大きくなったというか、もう革靴なんて疲れちゃって履けない老齢になったと言うか、なんと言うかで、泣く泣くこれも処分しようと思って、友人に聞いたら、喜んで貰うとのこと。まさか高校生の時の靴なんてね(^o^;)と言うわけで、断捨離的整理は果てしなく続く様相を呈して来たのであったまる。ふぉーっふぉっふぉっふぉ(^o^;)親父日記ランキング
Apr 25, 2017
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