カテゴリ未分類 0
全8件 (8件中 1-8件目)
1
(字伊禮拝所)沖縄本島中部の「北谷町/ちゃたんちょう」にある「伊平集落」は戦前まで「伊禮/イリー集落」と「平安山/ハンザン集落」に分かれていました。「字伊禮拝所」にかつて「ハンザンヌル/平安山ノロ」が来て拝んでいた「トゥン/殿」が祀られており、キジムナーの妖精がいたと伝わる樹齢100〜200年のガジュマルの巨木があります。この拝所には鎮守の森と言われた「クランモー/蔵森」から移設された「クランモーヌカー/蔵森の井戸」と「クランモーフェーヌカー/蔵森南井戸」のウコール(香炉)が祀られ「アラカチヌカー」とも呼ばれる「クシヌカー/後の井戸」と「ウブガー/産井」であった「イーマガニクヌカー/上間兼久」のウコールも合祀されています。さらに「土帝君・祖霊神・火の神」のウコールを祀った祠も建立されています。「字伊禮拝所」の西側にある森の中に湧水井戸の「ウーチヌカー」があります。この井戸は旧暦5月15日の「グングヮチウマチー」の時に「ハンザンヌル」が祭祀を行う井戸で、雨乞いの際にも拝まれ豚を潰して供えていました。(字伊禮拝所の石碑)(トゥン/殿の拝所)(トゥン/殿の石碑)(トゥン/殿のウコール)(字伊禮拝所のガジュマル)(上間兼久・後の井戸・蔵森南井戸・蔵森の井戸の拝所)(上間兼久・後の井戸・蔵森南井戸・蔵森の井戸の香炉)(祠の賽銭箱と香炉)(土帝君・祖霊神・火の神の拝所)(土帝君・祖霊神・火の神の香炉)(ウーチヌカー)(ウーチヌカーの森)(ウーチヌカーの湧水)(ウーチヌカーのガジュマル)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.03.25
コメント(0)
(字平安山拝所)沖縄本島中部の西海岸に北谷町「浜川(はまがわ)集落」があります。この集落の南側でかつて「アマジチメー」と呼ばれた浜辺の墓地群には現在「字平安山拝所」があります。沖縄戦の以前「浜川集落」の南側に「平安山(へんざん)集落」がありましたが、戦後は「伊平・上勢頭・下勢頭」の3つの字に分割され、その大部分の土地は米軍嘉手納基地の敷地内にあります。その為、昔より「平安山浜川」と併称されるほど繋がりがあった「浜川集落」の土地に「字平安山拝所」が移設され「白露之神」「字地川之神」「殿之神」の拝所が合祀されています。「平安山集落」の「平安山ノロ/ハンザンヌル」と呼ばれる祝女は「平安山/ハンザン・浜川/ハマガー・砂辺/シナビ・桑江/クェー・伊礼/イリー」の5つの集落の祭祀を管轄していました。(白露之神の石碑)(字地川之神の石碑)戦前の「平安山集落」には「平安山ウガン」と称する拝所があり、二十四節期の第15にあたる八月節(旧暦7月後半から8月前半頃)の「白露/はくろ」に集落の有志がシル豆腐を供えて「白露の拝み」を行なっていました。さらに2月・3月・5月・6月の豊作祈願と収穫祭である「四ウマチー」の行事では「平安山ノロ」が祭祀を行いました。この「平安山ウガン」は1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』に記されている『オヤギヤクイ君ガ嶽 神名 イシノ御イベ 平安山村』に相当すると考えられます。「平安山の合祀所」には「字地川之神」の石碑も祀られており「字地川/ウーチヌカー」は「平安山」の先祖達が使用したカー(井戸)と伝わり、古老によると昔「字地川」では雨乞い祈願が行われていました。まず男達が井戸で豚を一頭潰し、豚の骨や肉を拝所の霊石に供え「平安山ノロ」により祈願されます。祈願を終えたノロは雨乞いの「ウムイ/神唄」を歌いながら「字地川」の水を村人にかけながら水の神に雨乞いしたと言われています。(殿之神の石碑)「殿/トゥン」はかつて「平安山集落」の北側で屋号「イリウフヤグヮー/西大屋小」から西側に向かう道の角にありました。『琉球国由来記』には『平安山之殿 平安山村』と記され『麦・稲四祭之時、花米九合宛・五水八合宛此時、朝神・夕神二度、神酒一宛・シロマシ一器平安山地頭、神酒二半宛芋。平安山村百姓中、供之。平安山巫ニテ祭祀也。』との記述があります。「殿」で行われていた主な行事は旧暦2月2日から4日の3日間催された「クスッキー/腰憩め」と「平安山ノロ」が祭祀を執り行った「四ウマチー」でした。3日間行われる「クスッキー」の初日には「殿」で悪疫の集落侵入を防ぐ行事である「シマクサラサー/シマクサラシ」が行われ、集落では「アカフーゲーシ」とも呼ばれていました。この行事は男性を中心に行われ「殿」には豚の骨片を吊るした左縄を張り悪疫の侵入を阻止しました。また「四ウマチー」では「平安山ノロ」は白装束に身を包み、頭にはヤマカンダー(山葛)と白ハチマキをしめて祭祀を行ったと伝わります。(孔連廟/コーシビョウの拝所)(孔連廟の石碑とウコール)(孔連廟のガマ)「字平安山拝所」に向かって左側に隣接して「孔連廟/コーシビョウ」と呼ばれるガマ(洞窟)が祀られる拝所があります。「浜川集落」のウカミヤー(御神屋)に伝わる古伝によると集落の創始者は中国から渡来した後、この「孔連廟」のガマで暮らし始め、このガマで亡くなったとの伝承があります。コンクリート製の拝所に向かって右側に鉄格子が設けられ、その前方に「孔連廟」と刻まれた石碑が建立され2基のウコール(香炉)が設置されています。この鉄格子の奥に「孔連廟」のガマ入り口があります。「孔連廟」は3月の二十四節気の第五節気(旧暦2月後半から3月前半頃)のシーミー(清明祭)の入日に島豆腐・天ぷら・昆布・豚肉・かまぼこを詰めた重箱を供えてムラシーミー(村清明とも呼ばれるカミウシーミー(神御清明)を行います。(喜友名小屋取/チュンナーグヮーヤードゥイ拝所)(ゆしみぬ神の石碑)(ゆがふの神の石碑)(うぶ井戸の石碑)「孔連廟」のガマが祀られた拝所に向かって左側に隣接して「喜友名小屋取/チュンナーグヮーヤードゥイ拝所」があり3つの石碑と三基のウコールが祀られています。「喜友名小屋取」は北谷町北部一帯に広がっていた屋取部落で「浜川集落」に属していました。「屋取/ヤードゥイ」とは首里の士族が沖縄の各地に帰農して荒地を開墾し住み着いた土地を言います。戦前「喜友名小屋取」の4箇所に「ユシミヌカドゥ/四隅の角」と呼ばれる拝所があり、現在は「ゆしみぬ神」として祀られています。屋号「ヤマーハマガージー/山浜川地」にあったビジュル(霊石)を祀った拝所では豊年満作と健康祈願を行うニングヮチャーの時に拝されており、現在は「ゆがふの神」として祀られています。さらに「喜友名小屋取」で子供が生まれた時に産水として汲まれていた「ウブガー/産井戸」も一緒に合祀され「うぶ井戸」と刻まれたの石碑が建立されています。(アーマンチューガマ/向かって左側)(アーマンチューガマ/向かって中央)(アーマンチューガマ/向かって右側)「喜友名小屋取拝所」から北西側に約300mの場所に「アーマンチューガマ」と呼ばれるガマがあります。戦前までこのガマは浜辺に隣接しており、洞穴の奥には人骨が散在していたと言われています。戦後は「アーマンチューガマ」の西側の干潟は埋め立てられ、現在このガマは「宮城海岸」から約500mの内陸に位置しています。「アーマンチュー/阿摩美津」とは「天の人」を意味し、沖縄を開闢したと伝わる「アマミキヨ/阿摩美久」の語源であると言われ「アマミチュー」の名称でも知られています。このガマは「アマミキヨ」が降臨した伝説があり旧暦2月の「ニングヮチャー」や旧暦3月の「カミウシーミー」の際、隣接する「砂辺集落」や他市町村から供え物を持ち寄って拝されています。今日の「アーマンチューガマ」はブロックで遮蔽され二基のウコールが設置されていますが、ガマの右側奥は洞穴の口が空いており内部を窺う事が出来ます。(オータチャーヌシー/ウシックヮーガマ跡)(オータチャーヌシーの墓地)(オータチャーヌシーの森)「アーマンチューガマ」から北東側に約100mの位置で「砂辺ヌ前屋取/シナビヌメーヤードゥイ」の入り口付近に「オータチャーヌシー」という高さ10〜15m程の岩山があります。この岩山は「浜川集落」では「オータチャー」と呼ばれ、集落の墓はこの岩山の周辺に多くあった事から子供達は怖がって近付かなかったと言われています。かつて「オータチャーヌシー」の西側に通る「ハルミチ」の側に「ウシックヮーガマ」と呼ばれる洞穴がありました。このガマの入り口は大きく、覗くと水が見え石を投げ込むと水音がしたそうです。集落の古老によるとガマの中には塩水が溜まっていたため西側の海と繋がっていたと言われていました。「ウシックヮーガマ」の上は見晴らしが良く木々は余り生えていなかった為、漁業を営む家は網や漁具を干す場所として重宝されていたと伝わります。(砂辺ヌ前の合祀所)(砂辺の前ビジュル)(龍宮神)「浜川集落」の北側で「砂辺集落」に隣接する場所は「砂辺ヌ前屋取」と呼ばれ、首里の士族や大宜味村「屋古集落」から移住してきた家々が連なっていました。「オータチャーヌシー」の北側で屋号「クシヌアラグシク/後ヌ新城」の西側角の場所に「砂辺ヌ前の合祀所」があります。この部落に点在していた「上の井戸/ウィヌカー・中の井戸/ナカヌカー・下の井戸/シチャヌカー」が合祀された拝所があります。この拝井戸に隣接して「砂辺の前ビジュル」の祠が建立されており石造りウコールが設置されています。このビジュルの拝所は旧暦2月2日のニングヮチャーに豊年満作と健康祈願で拝されています。さらに「砂辺の前ビジュル」に向かって右側には航海安全と豊漁を祈願する「龍宮神」の祠が移設されています。戦前は「砂辺ヌ前の合祀所」の西側約300mの位置に砂浜があり「龍宮神」はこの周辺に建立されていたと考えられます。(砂辺ヌ前屋取の石敢當)(マチグムイヌシーグワァー跡)「砂辺ヌ前の合祀所」の南東側に約50mの位置に「石敢當/イシガントウ」の大小2つの霊石が祀られています。「石敢當」とは丁字路や角に設けられた魔除けの事で、この「石敢當」は戦前からこの場所を守り続けていると考えられます。また「砂辺ヌ前の合祀所」の南西側約300mの場所には「マチグムイヌシーグワァー」と呼ばれる岩がありました。屋号「マカルートゥキシグヮー/真苅渡慶次小」の先に構えており、この岩に登る3段の階段があったと伝わります。岩は保安林に覆われ周囲にはモクマオウ(トキワギョリュウ)が植えられていました。更に大きなイノー(珊瑚礁に囲まれた礁池)が広がり、旧暦6〜8月頃のスク(アイゴ)が寄る時期には集落の住民がエンダーと呼ばれる漁具でスクを捕っていたと言われています。現在「マチグムイヌシーグワァー」の岩は消滅し周辺は埋め立てられ、この岩の跡地は「宮城海岸」から約200mの内陸となっています。
2022.12.16
コメント(0)
(ヨリアゲノ御嶽/浜川ウガン)沖縄本島中部の西海岸に「北谷町/ちゃたんちょう」があり、この町の北西部に「浜川集落」があります。沖縄の言葉で「ハマガー」と言うこの集落の中心部には「ヨリアゲノ御嶽/浜川ウガン」があり、この御嶽の森の西側沿いに戦前まで「テツドー」と呼ばれる「沖縄県営鉄道嘉手納線」が南北に走っていました。1922年3月に開業した鉄道は那覇市「小波蔵駅」と嘉手納町「嘉手納駅」を結び全長は22.4kmでした。太平洋戦争末期の1945年3月に運行を停止し、沖縄戦で米軍により路線施設が破壊され消滅しました。この「テツドー」が通る以前は海岸線の「シラハマ」という名前の砂浜が集落の近くまで押し寄せていたと伝わります。この「シラハマ」は現在は埋め立てられていますが、戦前まで集落の住民の恰好の水浴びの場でした。(浜川ウガン/ハマガーウガン)(浜川ウガン/ハマガーウガンの祠内部)奇岩屹立した「ヨリアゲノ御嶽」の岩山(シー)の南側麓に「浜川ウガン/ハマガーウガン」の祠があり「浜川オガン/ハマガーオガン」とも呼ばれています。「浜川ウガン」は1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』には『島森ヨリアゲノ嶽 神名 イシノ御イベ 浜川村 平安山巫崇所』と記されています。琉球石灰岩が用いられた寄棟造の家形祠は南側に向けて建立されており、祠内部には3基の石造りウコール(香炉)と霊石が祀られています。戦前まで旧暦2月には集落に悪疫の侵入を防ぐ行事である「シマクサラシ/シマクサラサー」が行われ、旧暦3月には父方の共通先祖を持った「門中/ムンチュー」と呼ばれる血縁者達が本家に集まりご先祖様の墓参りをする「カミウシーミー/神御清明」で拝されていました。(ヨリアゲノ御嶽の按司墓)(ヨリアゲノ御嶽の按司墓)(按司墓の陶器製厨子甕)「浜川ウガン」の祠北側には「ヨリアゲノ御嶽」の岩山が聳えており、丘陵のほぼ頂上付近の斜面に「按司墓」があります。墓前には2基の石造りウコールが祀られており墓は野面積みの石垣を土台にブロックが5段に積まれています。このブロックの上部は開いた造りとなっており古琉球の風葬墓である事が見て取れます。この風葬墓の内部には三基の蓋の無い陶器製厨子甕が安置されており、厨子甕の内部に人骨が確認出来ます。この古墓は「浜川集落」の土地を治めていた按司の墓で、陶器製厨子甕の細かい装飾から見て、この三基の厨子甕に葬られた人物達は身分の高い豪族の物である事が分かります。古琉球では崖や洞窟に遺体を置き数年間かけて腐敗を待ち洗骨し厨子甕に納骨します。崖や洞窟は古来「現世と後世」の境界の世界と考えられ、聖域であると同時に忌むものとされていました。(ヨリアゲノ御嶽の古墓)(ヨリアゲノ御嶽の森)(ヨリアゲノ御嶽の森)「按司墓」の下方で「ヨリアゲノ御嶽」の丘陵中腹にアコウの根が幾つも絡みついた古墓があります。墓門には石造りウコールと霊石が祀られており、墓に向かって左側にはあの世のお金である「打紙/ウチカビ」を焚く「銭倉/ジンクラ」が設けられています。この古墓も「按司」に関係する人物の墓であると考えられます。「浜川ウガン」や「ヨリアゲノ御嶽」がある岩山の森は「浜川ウガン遺跡」として北谷町文化財指定第一号として登録されています。この遺跡の丘陵南側には8〜10世紀の貝塚が形成されており、丘陵の上部から投棄された遺物が地層に組み込まれていると考えられています。また、この遺跡は祭祀遺跡の可能性もあり詳しい調査が必要だと言われています。類例遺跡として伊是名島の「アギギタラ貝塚」があります。(字浜川旧部落の銘石)(殿之神/浜川之殿)(殿之神/浜川之殿の祠内部)「浜川ウガン」の南側に隣接する場所に「殿之神」の祠があり「浜川之殿」とも呼ばれています。『琉球国由来記』には『浜川之殿 浜川村 麦・稲四祭之時、花米九合宛・五水八合宛此時、朝神・夕神二度、神酒一宛浜川地頭、神酒三宛芋。同村百姓中、供之。平安山巫ニテ祭祀也。』との記述があります。また、1731年に成立した漢文による地誌である『琉球国旧記』には『浜川殿 在浜川邑』と記されています。祠内部には「殿之神」と刻まれた石碑がありウコールと霊石が祀られています。「殿之神」で行われる行事は旧暦2月に豊年満作と健康祈願する「ニングヮチャー」、旧暦2月の麦の初穂祭である「ニングヮチウマチー」、旧暦3月の豊漁と海の安全を祈願する「サングヮチャー」、旧暦5月の稲の豊作祈願の「グングヮチウマチー」、旧暦6月の稲の収穫祭である「ルクグヮチウマチー」で「ウカミヤー/御神屋」と呼ばれる屋号「クラニー/蔵根」の家が取り仕切っていました。(瀧宮神)(瀧宮神のヒヌカン/火の神)(合祀拝所)「殿之神」の祠に向かって左側に「瀧宮神」があり、安良波原の西側海岸に連なる「アラファヌシー」と呼ばれる岩礁の「瀧宮神」へ遥拝する為に設けられたと伝わります。戦前は背の高いスーティーチャー(ソテツ)があり、それを目標にして祈願が行われていたと伝わります。「瀧宮神」があるこの広場は旧暦3月3日に重箱を持ち寄り海の神様にお供えして拝していました。この「瀧宮拝み」の行事が終わった後に酒宴を行なっていた事から、この一帯は「サングヮチャーモー」と呼ばれています。「瀧宮神」に向かって右隣りに3体のビジュル石と1つの霊石が祀られた「ヒヌカン/火の神」があります。「瀧宮神」に向かって更に右側奥には4基のウコールが並んでおり「拝所カーシヌシー」「拝所アワグルン」「拝所トグチヌマタ」「拝所シリーン作」と記されています。「カーシヌシー」は集落の北側で米軍嘉手納基地の敷地内に位置する岩山の事で、現在この4基のウコールは米軍嘉手納基地内に点在する拝所をウトゥーシ(御通し)する合祀拝所だと考えられます。(メーガー/浜川集落の合祀井戸)(浜川集落の合祀井戸のウコール)(浜川集落の合祀井戸の建物内部)「浜川ウガン」から南東側に約200メートル程の位置に「浜川集落の合祀井戸」があります。集落には先人達が使用したと伝わる「メーガー・クシヌカー・イリヌカー・イリクシヌカー」の4つのカー(井戸)があり、この合祀井戸には「メーガー」に他の3つの井戸が併せて祀られています。「クシヌカー」は国道58号線の拡張により消滅しましたが、子供が生まれた時の産水を汲む「ウブガー/産井」として使用されていました。「イリヌカー」は集落の西側にあった事からその名称が付けられ「イリクシヌカー」は集落の西側後方で現在の国道58号線上にありました。合祀拝所には向かって右側から「前之神井戸・後之神井戸・西之神井戸・西後之神井戸」と記された銘石があり、前方には4つの井戸を示す4基のウコールが祀られており、一番手前には合祀拝所を祀るウコールが設置されています。(アマジチメー)(ウカミヤー/御神屋)「ヨリアゲノ御嶽」の西側で「シラハマ」の北側一帯は「アマジチメー」と呼ばれ、海岸沿いに沢山の墓がありました。ここは昔から病死した家畜や浜に流れ着いた水死体、さらに無念仏などを葬る土地でした。また、この地には「ナーファバカ/那覇墓」という墓があったと伝わり、その墓の主は那覇の人であったと言われています。現在もこの場所には多数の大きな「カーミナクーバカ/亀甲墓」が点在しています。この「アマジチメー」にある屋号「クラニー/蔵根」の屋敷に「ウカミヤー/御神屋」があります。この家は「浜川集落」の草分けの家筋で、創始者を祀る建物は母屋とは別に屋敷の東側に所在しています。「浜川集落」の創始者を祀る仏壇がある「ウカミヤー」は「アサギ」とも呼ばれ、旧暦2月・旧暦5月・旧暦6月のウマチー(三ウマチー)の際に家主により拝されています。
2022.12.11
コメント(0)
(上勢頭井戸の合祀所)沖縄本島中部の「北谷(ちゃたん)町」北東側に「上勢頭(かみせど)集落」があります。この集落は沖縄戦以前は「上勢頭屋取集落」として繁栄していましたが、戦後は米軍嘉手納基地に集落の3分の2の土地を接収され、住民は強制的に他集落に分散して暮らしています。今でも集落にルーツを持つ人々は団結して「上勢頭屋取集落」の文化財を大切に守り続けています。現在の「上勢頭集落」の北側で米軍嘉手納基地フェンスに隣接する場所に「上勢頭井戸の合祀所」があり、米軍嘉手納基地の敷地に分散する「上勢頭屋取集落」の井戸を遥拝する石碑が6基建立されており「カーウガン」で拝する住民が訪れる聖域となっています。(かー小の石碑)(いなみぬかーの石碑)(いーま小ぬめーぬかーの石碑)「上勢頭井戸の合祀所」に向かって左から「かー小」「いなみぬかー」「いーま小ぬめーぬかー」の石碑が建立されています。「上勢頭屋取(ウィーシードゥヤードゥイ)」は今から200年以上前に「首里・那覇・泊・久米」からヨカッチュ(良人)と呼ばれる士族が入植して発展した「屋取集落」で、後に生まれた「下勢頭屋取(シチャシードゥヤードゥイ)」と合わせて「勢頭七組」と称されました。「田仲組・稲嶺国・瑞慶覧組・与那覇組・喜友名組・勝連組・佐久川屋取」で構成された「勢頭七組」は、その後10組まで増えて「上勢頭/下勢頭」の行政としてそれぞれ区長が置かれるようになりました。集落は主に農業で栄え、芋やサトウキビの栽培には集落の井戸水が農業用水として活用されていました。(いなみ小ぬかーの石碑)(みーがーの石碑)(ふえぬかーの石碑)更に「上勢頭井戸の合祀所」の向かって右から「いなみ小ぬかー」「みーがー」「ふえぬかー」の石碑が建立されています。「みーがー」は共同の「ニーブガー」と呼ばれる浅い井戸で、飲料水として「喜友名組」と「勢理客組」が利用していました。「ふえぬかー」は「喜友名組」の区域にあり、周辺住民の生活用水として重要な井戸でした。「ふえぬかー」は「上勢頭屋取」の「ウブガー(産井戸)」の一つで、集落で子供が生まれた時に産水として使用されました。「上勢頭屋取」では農業の他にも副業として「カマンタ」や「バーキ」と呼ばれる竹細工の生産が盛んで「シードゥカマンタ」と称され、仲買人や行商人により那覇やヤンバル(山原)に出荷されるほど有名でした。(下勢頭集落の合祀所)「上勢頭集落」の東側の丘に「下勢頭集落の合祀所」があります。「下勢頭集落」は「上勢頭集落」の北側に位置し、土地の全てが米軍嘉手納基地の敷地内にあります。そのため「上勢頭集落」から眺める事ができる丘の上に遥拝所が設けられています。「下勢頭集落の合祀所」には「アシビナージー」「ユシミヌ神/四隅の神」「ハナグスクヌメーヌカー」「水ヌ神」が合祀されています。「アシビナージー」はかつて「下勢頭集落」と「上勢頭集落」の境界近くに「シードゥヌシー」と呼ばれる岩塔があり、その北側には「下勢頭集落」のアシビナー(遊び庭)がありました。旧暦12月24日のウガンブトゥチ(御顔解き)や2月2日のニングヮチャー(クスユックイ)などの祈願の際に拝されています。(南無諸大明神の石碑)(年豊人楽とウコール)「下勢頭集落」では旧暦12月24日にムラの有志らによるウガンブトゥチ(御願解き)の行事が行われた。「ユシミヌ神(四隅の神)」と呼ばれる東方の「持國天王」西方の「廣目天王」南方の「増長天王」北方の「多聞天王」へは、この行事に祈願を行なっていたと伝わり、この「四天王」は仏教における東西南北を守護する四人の神を意味します。「南無諸大明神の石碑」の土台には「年豊人楽」と刻まれておりウコール(香炉)が祀られています。これは「年豊かに人楽しむ」の意味で集落の五穀豊穣を祈願しています。現在「ユシミヌ神」は「アシビナージー」と併せて祀られています。(御通し所/遥拝所の石碑)「下勢頭集落の合祀所」には「御通し所(遥拝所)」と彫られた石碑が建立されています。現在、米軍嘉手納基地の敷地内にある「下勢頭屋取集落」にはかつて屋号「ハナグスクヌ(花城)」の屋敷前にカー(井戸)があり「ハナグスクヌメーヌカー」と呼ばれていました。更に屋号「山佐久川」の屋敷の東側には、村人が野良仕事からの帰り農具や野菜を洗う約100坪の大きな池(ウフグムイ)がありました。人々はこの池を「ミジヌ神(水の神)」として崇めていたと伝わります。現在は旧暦12月24日に「旧字下勢頭郷友会」の有志らにより「お通し所(遥拝所)」からお通し拝みが行われています。(ウキンジュガー/受水ガー)(ウキンジュガーのウコール)(ウドゥンジーミチ/御殿地道)「上勢頭屋取集落」の南側に「ウキンジュガー(受水ガー)」と呼ばれる井戸があります。「御殿地組」の新屋小の南側、現在の北谷町立北谷第二小学校の北側にある土手の下に「ウキンジュガー」はニーブガー(浅い井戸)で柄杓を使って水を汲んでいました。水量が豊富で旱魃の際にも水が枯れる事がなく、遠く離れた集落から水を汲む人々が訪れました。「ウキンジュガー」の北側には「ウドゥンジーミチ(御殿地道)」と呼ばれる「御殿地組」の土地を東西に通る道があります。西側に隣接する「桑江(クェー)集落」に近い方は「ナルカーミチ」とも呼ばれており、現在の県立北谷高校と北谷ゴルフ練習場の間を西海岸に向けて続いていました。(トゥクガーシー)(上勢頭北公園)(拓/竣工記念碑)米軍嘉手納基地の敷地内の「下勢頭屋取集落」南側に「トゥクガーシー」と呼ばれる岩山があります。元々は風葬に利用されていた丘陵でしたが、沖縄戦の際には「トゥクガーシー」の自然壕に旧日本軍の監視哨が置かれました。現在の「上勢頭集落」の北側に「上勢頭北公園」があり「拓」と刻まれた竣工記念碑が建立されています。第二次世界大戦の敗戦により接収されていた「上勢頭屋取集落」の土地は1970年に3分の1ほど返還されました。1973年には本土復帰に伴う記念国民体育祭「若夏国体」が開催され、国道58号線から沖縄市へ通じて「上勢頭集落」を横断する県道23号線(国体道路)が開通しました。この碑は「上勢頭」地域の発展を祈願して建立されています。
2022.04.09
コメント(0)
(旧字桑江御願所)沖縄本島北谷町にある「桑江集落」は元来、現在の北谷町美浜地区と米軍キャンプ桑江(キャンプレスター)が所在する地域にありましたが、沖縄戦後に米軍により「桑江集落」の土地は接収されてしまいました。行き場を無くした集落の住民は現在の北谷町桑江地区の丘稜地に移住させられ、山や森を切り拓いて戦後の混乱を必死に生きてきました。そのため、集落に代々継承される数多くの拝所は米軍基地内に取り残されていたのです。(旧字桑江御願所と竹山御嶽)(竹山御嶽の拝所)戦後「桑江集落」の住民は米軍に強く懇願して集落に点在していた拝所への御祈りを求めました。米軍側はキャンプ桑江(キャンプレスター)内に集落の11の拝所を合祀する御願所の建立を許可して基地内にある「ナルカー(奈留川)原」の水源地近くに所在する場所に「旧字桑江御願所」を設置して集落の神々を祀りました。しかし、基地内という事で住民はいつでも自由に拝する事が許されず、御願所は現在の「桑江公園」内にある「竹山御嶽」の麓に移設されました。(竹山御嶽の階段)(竹山御嶽の石碑)「桑江集落」の北東側にある竹林の山は「竹山(だきやま)」と呼ばれ、所在したガマ(鍾乳洞)を祀り「竹山御嶽」と称されました。竹山には太さ10センチ程のモウソウチク(孟宗竹)が多数生えており「桑江集落」の住民は収穫した竹を物干し竿に加工し利用していました。伝承によれば「谷茶大主」に攻め滅ぼされた「北谷グスク」の「大川按司」が逃げ延びた場所で「竹山御嶽」はそれに由縁する御嶽であると言われます。(奈留川の石碑)「奈留川(ナルカー)」は昔より「桑江集落」に豊かな水源をもたらす"神が宿る川"として大切に崇められてきました。「竹山御嶽」の麓に移設される際に「奈留川」の神様も合祀されて住民に拝まれるようになりました。戦後、米軍キャンプ桑江(キャンプレスター)の敷地内にあった「旧桑江御神所」には元々10基の石碑が合祀されていましたが、移設後に「奈留川」の石碑が向かって一番右側に新しく追加され、現在は11基の石碑が合祀されているのです。(ニーヌーファの石碑)「ニーヌーファ」は現在の御願所に位置し、集落の古老によると支那事変(日中戦争)の頃に「竹山御嶽」の神を遷して祀ったようです。戦前「ニーヌーファ」では集落のノロ(神人)やヤクミ(役目)と呼ばれる行事世話役によって一年間の神事開始を告げるハチウガミ(初拝み)が行われ、住民の無病息災や豊作祈願なども併せて行われていました。昭和13〜14年頃に出征軍人が拝んでいた拝所です。現在では「桑江集落」の安泰や住民の健康祈願が行われ拝まれています。(土帝君の石碑)「土帝君」は「土地公」と呼ばれる中国由来の土地の神様の事で、戦前の「桑江集落」の南側に位置していました。「琉球國由来記(1713年)」によれば「土帝君」では戦前まで旧2月1日から3日間「ニングヮチャー」の行事が行われ、その際「シンムイ」と呼ばれる、お膳に大根や豆腐などを盛ったものを供えて豊作の祈願を行ったと伝わります。石碑にはウコール(香炉)が設置されており、現在も「桑江集落」の住民により拝まれています。(カンカ神の石碑)現在の「北谷町役場」付近には戦前には池があり、その池の近くに「カンカ神」が祀られていました。旧暦の12月7日には「カンカー」と称した悪霊侵入防除の儀礼を行なっていました。「カンカー」とは"見張る"という意味で、行事は先ず池で豚を殺して解体し、その骨片や肉をヒジャイナー(左巻の縄)に挟み、村の入口に吊り下げたり「カンカ神」に供えて、悪霊や悪疫の集落内への侵入を阻止しました。残りの豚肉はその場で煮炊きされて「桑江集落」の老若男女が共に食したと伝わります。(豊年神/サーターモー/遊神の石碑)「桑江集落」の南側で現在の米軍キャンプ桑江(キャンプレスター)内の米軍病院の裏側には「サーターヤー(製糖工場)」があった為、この一帯を「サーターモー(砂糖森)」と呼んでいました。そこには「豊年神」と「遊神」が祀られ旧暦8月15日の「十五夜の遊び」には、豊作を感謝する唄や踊りが奉納されたと伝わります。現在はフチャギ(沖縄伝統のお餅)や果物などを供えて祈願がおこなわれています。(びじゅる/産川/大荒神川の石碑)「びじゅる」は戦前に存在した北谷トンネル(現在の国道58号線「謝苅交差点」)の北西側に位置していました。「北谷町史」には「びじゅる」はクスッキー(腰憩い)と呼ばれる農耕儀礼を行う聖地で、琉球八社の一つである「普天間宮」の発祥に関わる「普天間権現」とクサイ(特別な関係)と言われていたと記されています。「産川(ンブガー)」は集落で子どもが誕生した際に産湯(ンブミジ)に使用する水を汲む井戸で、戦前までは「桑江集落」の南側に位置していました。「大荒神川」については未だに詳細が解明されていなく、米軍基地返還後に本格的な調査が行われる予定です。(トン/村火神)「トン(殿)」は戦前の「桑江集落」北側、現在の「北谷高校」周辺に位置していました。「琉球國由来記(1713年)」によれば「トン(殿)」では集落北側に隣接する「平安山集落」のノロ(祝女)が「四ウマチー(2月/3月/5月/6月の収穫祭と感謝祭)」を司っていました。「村火神」は「桑江集落」の火ヌ神(ヒヌカン)で集落の守護神が祀られて住民に拝まれていました。「村火神」は現在、米軍キャンプ桑江(キャンプレスター)の敷地内にあると考えられ、正確な位置は戦後の混乱で不明になっています。(竹山御嶽の麓にある井泉)(桑江公園と桑江自治会の間にある井泉)「竹山御嶽」の丘稜は豊かな水源を生み出し現在も水量が豊富に湧き出ています。かつて竹林で竹を収穫した住民も作業の合間に喉を潤していた事でしょう。「竹山御嶽」に逃げ込んだ「北谷グスク」の「大川按司」は御嶽からの恵みにより生き延びたと考えられます。「竹山御嶽」の麓にある井泉はウコール(香炉)が設置されており、神の水として現在も住民に崇められてらいます。桑江自治会に近い場所にある井泉にはポンプが設置されており周辺地域に恵みが分けられています。(竜宮神)北谷公園入口の北東側に「龍宮神」を祀る祠があり、中には神体としてニービヌフニ(微粒子砂岩の石核)が3つ安置されています。この場所は現在「北谷町美浜2丁目」に属しますが、戦前は「桑江集落」の南側に位置していました。「竜宮神」がある場所の西側に大型ショッピングモール「イオン北谷店」、北西側には「美浜タウンリゾート/アメリカンビレッジ」がありますが、いずれも戦後に開発された埋め立て地です。つまり「竜宮神」は海に面して建てられていた事が分かります。(竜宮神の祠内部)「龍宮神」へは年末の御解ち(ウフトゥチ)とも呼ばれる解ち御願(フトゥチウガン)や正月の初拝みや、5月5日のハーリーの後にはニーヤー(根屋)の家人と共に「桑江ヌ前」や「桑江ヌ中(屋取集落)」のフニムチャー(船主)が拝んでいたと伝わります。現在は5月の吉日に「竜宮拝み」と称して「桑江集落」の住民が魚貝類などの海の幸を供えて拝んでいます。ちなみに「竜宮神」の南西側に「北谷町立桑江中学校」があり、現在の住所は「北谷町美浜1丁目」ですが、この地がもともと「桑江集落」だった事を示しています。(竹山御嶽の猫)(桑江公園入り口)沖縄戦で米軍に没収された「桑江集落」は戦後半世紀を経て部分的に沖縄に返還されています。しかし、もともと「桑江集落」だった土地は現在「北谷町美浜」と名を変えて沖縄有数のリゾート地として生まれ変わり数多くの観光客で賑わい、新しく建設された高層マンションには米軍兵士やその家族が数多く暮らしています。「桑江集落」が先祖代々受け継いできた伝統文化、拝所、ガマ、井戸、軽便鉄道は姿を消してしまいました。本当の意味での「終戦」や「沖縄返還」とは何なのか?「桑江集落」は良くも悪くも、戦争が全てを変えてしまう現実を我々に訴えかけているのです。
2021.05.28
コメント(0)
(砂辺の御嶽)北谷町「砂辺集落」の東側にある「御嶽の山」は神が住む聖域であり、砂辺集落の根所の住人以外の人がこの山で木を切ったり枝を折ると祟られると言われて非常に恐れられていました。沖縄戦の時、御嶽の山に掩体壕(えんたいごう)と呼ばれる壕を作る際、祈願を行わず樹木を伐採して作業員が怪我や病にかかったと言われています。(ヌールガー)御嶽の山麓には湧泉の「ヌールガー」があり拝所として拝まれていました。深さが5メートル程ある井戸は現在も水が湧き出ており「タキガー」「ウガンガー」「タキグサイウカー」とも呼ばれています。戦前、平安山ヌル(ノロ)が白装束を着て井戸で手足を清めてからトゥン(殿)など砂辺集落の拝所を巡りました。集落の住民は御嶽の山を「シジダカサン」と呼び、祟られると恐れ「ヌールガー」に近寄らなかったそうです。(村グサイ之墓)(大里ムチウリ之墓)御嶽の山の中腹に「村グサイ之墓」と「大里ムチウリ之墓」があります。隆起した石化珊瑚にガジュマルの枝が無数に絡まりつく墓にはウコール(香炉)が設置され霊石が祀られています。かつて「ムラシーミー」と呼ばれる集落で行う墓参りでは御嶽と共に祈願が捧げられていました。古老の話によると、御嶽の山には「ヤマサリーン」と呼ばれる神が住み、樹木の伐採の他にも葬式や弔問からの帰りに身を淨める事なく山に立ち入ったり、近くを通ったりすると大きなハブに追われたと伝わります。(砂辺御嶽/照神)「照神」の拝所が御嶽の山の頂にあります。赤瓦屋根の御堂の中には砂辺集落の守護神を祀るウコール(香炉)が設置されています。旧正月2日にはニードゥクル(根所)の家人などがタティウガン(立て御願)を行い、長寿、子孫繁栄、集落住民の無病息災などの祈願が行われています。また、旧3月のシーミー(清明祭)には「カミウシーミー」が行われます。(ヌール之墓入口)(ヌール之墓)御嶽の山の杜奥深くには「ヌール之墓」と呼ばれる拝所があります。この墓には、かつてノロ職にあった歴代のカミンチュ(神人)が葬られています。「ヌール之墓」には大小二つの石碑が建立されています。大きな石碑は高さ88センチメートル、幅67センチ、厚さ11センチで中央に「ヌール之墓入口」と陰刻されています。小さい石碑は「ヌール之墓」と刻まれ墓口右側に建立されています。この墓は3月のムラシーミー(カミウシーミー)の際に拝まれています。(ウチヤタイウメー之墓入口)(ウチヤタイウメー之墓)「ウチヤタイウメー之墓」が御嶽の山の東側にあります。砂辺集落の「ウチヤタイ(ウチャタイ)」と呼ばれる地域に残る歴史的価値が高い古墓で、戦前は非常に不気味で怖い場所として恐れられていました。この墓は無名の墓でしたが高貴な方の墓であるとして戦後に調査が行われました。墓の名前は「ウチヤタイの前(ヌメー)の墓」と「ウチヤタイ爺さん(ンメー)の墓」の二通りに解釈され、現在は「ムラシーミー」で拝まれています。(砂辺之殿)「砂辺之殿」は平安山ヌル(平安山、伊礼、浜川、砂辺、桑江の5集落の祭杷を管轄したノロ)が砂辺集落に来て拝んでいた拝所です。かつてはこの場の岩陰にウコール(香炉)が置いてあるだけで建物はありませんでした。「琉球国由来記」には砂辺集落の住民がこの拝所に芋の神酒六完を供えたと記されています。現在は琉球赤瓦の建物があり、内部には霊石とウコールが設置されて拝まれています。(御神屋根所)(ニガン)「砂辺之殿」に隣接した場所に「御神屋根所」があり、敷地内に「ニガン」と呼ばれるヒヌカンが祀られている拝所があります。集落の神官が住む家を根所(ニードゥクル)と言い、村の行事の祈願が行われる拝所を「御神屋」と呼びます。「御神屋根所」はシーシヌウグヮン(獅子の御願)の際に獅子舞の出発点となっており、戦時中には兵士がここに立ち寄り拝んでから出征していました。(犬川之井水神)(上ヌ犬川の屋敷にある霊石)(上ヌ犬川の屋敷にある霊石)「犬川之井水神」は「インガー」と呼ばれた集落の共同井戸で「上ヌ犬川」の屋敷の西側にあります。井戸は飲料水や炊事、野菜や手を洗う為にも用いられました。「上ヌ犬川」の屋敷の東側には霊石とウコールが設置されています。更に屋敷の西側の壁には穴が開けられており、その奥に霊石が祀られウコールが設置されています。(トゥティクゥの神の石碑)(トゥティクゥの神)「トゥティクゥの神」は「砂辺土帝君」と呼ばれ砂辺公民館北東側に位置します。「クラガーシルウム」と呼ばれる白芋を根所の祖先が初めて唐から持って来たという伝承があり「トゥーティークーの神」が祀られました。旧正月の7日には「世果報拝み」と称するトゥティクゥ拝みが行われます。(ウフシヌシー/石良具御イビ)御嶽の山の北側に「クシムイ」と呼ばれる高い山があります。クシは後方、ムイは山や丘の意味があり、砂辺集落の後方にある山という意味で「クシムイ」と言われています。この山の頂上には「ウフシヌシー」と呼ばれる珊瑚が石化した大岩があり拝所として祀られています。海から約500メートルの山の上に珊瑚の大岩がある謎に包まれた聖域となっています。(ウフシヌシーの拝所)(ウフシヌシーの拝所)「ウフシヌシー」の大岩には「伊平屋森/石良具御イビ」と刻まれた石碑が建てられています。石碑の左側には下り階段があり、階段を降りて直ぐ右側に一つ目の拝所がありウコールが設置されています。更に階段を降り突き当たりにはもう一つの拝所があり、同じくウコールが設けられてらいます。「ウフシヌシー」は大岩の迫力と共に、神が宿る神聖な空気に包まれるパワースポットなのです。(砂辺集落の西海岸)沖縄戦よりも琉球王国時代よりも更に昔の時代より「ウフシヌシー」の大岩は、聖なる山である「クシムイ」の頂で動かざる事なく砂辺集落と西海岸の美ら海を見つめて来ました。謎多き神の聖なる山は砂辺集落の平和も苦しみもひたすら黙って見守って来ました。私たちには争い事のない平和な世界を砂辺の「御嶽の山」や「クシムイ」に見せてあげる責任があるのでしょう。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2021.04.27
コメント(0)
(砂辺馬場公園)「砂辺集落」は沖縄本島中部北谷町の西海岸に位置し、集落の歴史は古く1713年に琉球王国の王府が編纂させた地誌「琉球国由来記」にも名前が記されており、美ら海を望む平和な暮らしがあった集落でした。海面を覆い尽くす米軍艦隊による艦砲射撃と共に上陸作戦が遂行された悲劇の日、1945年4月1日までは…(第二次世界大戦米軍上陸地モニュメント)「砂辺馬場公園」には「第二次世界大戦米軍上陸地モニュメント」があります。日本唯一の悲惨な地上戦は、一般住民をも巻き込み沖縄全体で20万余りの尊い命を奪い去りました。モニュメントには「沖縄戦の体験と実相から、戦争の不条理と残酷さを正しく次代に伝え、平和の理念として戦争に繋がる一切の行為を否定する…沖縄戦の風化をゆるさない歴史的礎として、米軍上陸碑をここに建造する」と記されています。(砂辺馬場公園の砂辺之竜宮神)「砂辺集落」西側の海辺には「砂辺馬場公園」があり、敷地内に「砂辺之竜宮神」の拝所があります。竜宮神は海の神様が祀られており竜宮神の石碑と石造りの香炉が設置されていました。沖縄戦で米軍に占領されていた砂辺集落は1954年(昭和29年)に沖縄に返還されました。集落に戻った住民は砂辺集落の復興に力を尽くしたのです。(唐井之水神)(唐井之水神の井戸内部)砂辺馬場公園の北側に「唐井之水神」があります。「トーガー」と呼ばれるこの井戸は深さ3メートル程あり、水量は現在も豊富で石組は戦前から存在しています。米軍により井戸は埋め立てられていましたが、ある住民の眼病をきっかけにユタの助言で井戸が発見され整備されました。「トーガー」は戦前より水の神に祈るムラウガミ(村拝み)の対象であり、現在は旧暦1月2日の「カーウガミ(井戸拝み)」で拝まれています。(ウブガーの入口)(砂辺ウブガー水神の石碑)「ンブガー」または「ホーヤーガー」とも呼ばれ、階段を降りた鍾乳洞窟の先に水が沸いています。子供が産まれた時に井戸の水を音を立てないように汲み眉間に水を付けました。また、水を組む時に手を振るわせると子供が喘息になるとも言われたのです。正月の若水もこの井戸から汲み、芭蕉(バナナ)の葉で作ったニーブと呼ばれる器でゆっくりと水を飲んでいました。(クマヤーガマの門)(クマヤーガマへの階段)砂辺集落の南部にある自然の形のままのガマ(洞窟)で「クヤマー」と呼ばれています。米軍による1945年10月10日の「十・十空襲」の後、クマヤーガマを防空壕として使う様に整備されて天井には6つの空気穴が設置されました。その後の空襲では300人余りの住民が非難し、1人も死傷者を出さなかったと言われています。(クマヤーガマ納骨拝殿)戦後に砂辺集落が米軍に摂取されガマの入口が埋められてしまいました。クマヤーガマ周辺は1956年に返還され更地になり、住宅地の開発が行われました。平成元年にガマの入口が発見されると発掘調査が行われたのです。ガマの入口からヒスイやかんざし等の装飾品が出土した他に、風葬が行われた場所であったため多数の古い頭蓋骨や人骨が発見されました。それらの人骨はクマヤーガマに隣接した納骨拝殿に納められています。(砂辺之寺/ティラ)(ティラのガマ)「クマヤーガマ」の西側にあるガマで拝所として聖域として拝まれていました。ガマの内部は10名程が入れる狭さでしたが、戦時中に「クマヤーガマ」と細い地下通路で結ばれて防空壕として利用されました。旧暦8月15日に「ティラメー」という拝み行事があり、旧暦9月には住民が重箱に揚げ豆腐、芋の天ぷら、魚料理などを持ち寄り「ティラ」に拝みに行きました。(天孫子按司之墓)国頭村辺戸の「安須森」今帰仁村の「カナヒヤブ」南城市の「斎場御嶽」を創った天帝と呼ばれる琉球開闢の神様が、自分の子供である男女を地上に降ろし、二人は三男二女をもうけて長男は国王、次男は按司、三男は百姓、長女は上級神女、次女はノロとなったのです。長男は「天孫子」と名乗り国の主として統治したと伝わり、砂辺集落にあるこの「天孫子按司之墓」は次男の按司が眠る墓だと言われています。(踊神之墓の石碑)(踊神之墓)砂辺公民館に隣接する場所に「踊神之墓」がありウコール(香炉)が設置されています。戦後に砂辺公民館を建設する際に多くの人骨が発掘された為この地に祀られています。戦前にはこの地にアシビナー(遊び庭)があり、集落の住民はムラアシビ(村遊び)でエイサーを踊っていました。それに因んで踊神(ウドゥイガミ)を祀る墓が建てられたのです。(獅子屋/シーシヤー)「踊神之墓」から東側の道路を1本渡った場所に「獅子屋」と呼ばれる獅子舞を奉納する拝所があります。獅子舞の獅子を収める小屋で集落では神聖な場所とされています。旧暦7月17日のシーシヌウグヮン(獅子の御願)や旧暦8月15日の十五夜に集落の有志により獅子舞が披露され、普段は「獅子屋」に箱に収められ大切に安置されています。(地頭火の神の入口)(地頭火の神)この地はもともと地頭と呼ばれる砂辺集落の集落長の屋敷があった場所で、廃藩置県で地頭が那覇に引き上げた後も残ったヒヌカン(火の神)を祀っています。この場ではかつて集落の公的な祭祀に使用された場所で、以前はヒライサーと呼ばれる石化したテーブル珊瑚で造られた祠でした。弱い造りだったため台風が来るたびに劣化してしまい、現在は砂辺集落により堅固な祠が建立されています。(伊平屋ウトウシ神)「伊平屋ウトウシ神」はイヒュウトゥーシとも呼ばれる拝所で、伊平屋の按司を遥拝するための拝所です。砂辺集落の最北端に位置し、「カンカー」と呼ばれる魔除けの儀式や「イヒャウトゥー拝み」と呼ばれる祈願行事を行なっていました。砂辺集落の北の入り口を見張る守り神としての役割があり、集落への「お通し(ウトウシ)」として拝する場でもありました。(砂辺集落北部を仕切る嘉手納基地のフェンス)(砂辺集落上空を飛来するMC-130J)1945年の沖縄戦に米軍が上陸した砂辺集落は米軍嘉手納基地に隣接しておりフェンスで仕切られ、上空を特殊作戦機MC-130Jが爆音を立てて日常的に飛来します。かつて米軍が上陸したビーチには現在、米軍関係者を対象とした巨大マンションや宿泊施設が建てられ、砂辺集落には米軍関係者が数多く生活しています。砂辺集落は琉球王国から継承される遺跡文化財が数多く残ると共に、返還後も米軍関係者が普通に生活する"チャンプルー集落"となっています。沖縄では米軍基地問題は賛否両論多々ありますが、砂辺集落は沖縄の米軍基地の現状を分かりやすく示している集落となっているのです。
2021.04.26
コメント(0)
(謝刈公園から望む北谷町美浜)沖縄本島中部の西海岸に北谷町があります。戦後の混乱の中で北谷町で最も栄えた地区が謝刈(じゃーがる)部落です。険しい山岳地帯を切り開いて形成された部落は、幾つもの急な坂道や迷路のような細い路地が所狭しと詰め込まれています。戦争の逆境を見事に力に変えて開拓された「謝刈部落」は、地区そのものが沖縄戦を語る上で非常に重要な遺跡文化財として高い価値があります。(米軍基地内の旧北谷集落)1945年の沖縄戦でアメリカ軍が北谷町の海岸より上陸し一帯を占領しました。米軍はその海沿いの土地にアメリカ陸軍のHamby Airfield(ハンビー飛行場)の滑走路を建設し、更に現在の国道58号線の内陸部の土地も徴収してアメリカ海兵隊のCamp Foster(キャンプ瑞慶覧)を構築したのです。アメリカ軍に土地を奪われた北谷集落の住民は、北に数キロ離れた謝刈部落の険しい山中に移住する事しか許されませんでした。(謝刈三叉路)謝刈部落の中心部に「謝刈三叉路」があり「ジャーガルミチ」と呼ばれる県道24号の坂道が90度に差し掛かっています。三叉路の「幸地書店」は歴史の長い老舗で周辺地域の店舗が閉まる中でも営業を続けている謝刈部落のシンボル的な店として謝刈の住民に愛され続けています。琉球バスの「謝刈原」バス停の赤瓦屋根の古民家は、古き良き謝刈部落の雰囲気を醸し出しています。(ナポリ座跡)(謝刈劇場跡の敷地)険悪で急な山岳地帯であった謝刈部落には戦後1万人以上が移住させられました。謝刈三叉路には映画館の「ナポリ座」が1953年辺りに建てられ、1965年に閉館してからは部落のエイサーを披露する場として現在でも建物は残っています。「ナポリ座」の裏手には以前より露天劇場の「大平劇場」があり、1952年に改築されて「謝刈劇場」に改称されました。1965年頃に閉館するまで琉映貿系の映画館として住民に親しまれていました。(謝刈公園沿いのワイトゥイ跡)謝刈部落の北部に「ワイトゥイ」と呼ばれる切り通しの道がありました。断崖を掘削した農道の事で、うるま市勝連の平安名集落にある「ワイトゥイ」が有名です。謝刈部落のワイトゥイの断崖はかつて10メートル以上あり、昼間でも非常に暗く住民に恐れられていました。道幅は3メートル位で荷馬車が1台通れる細道だったと伝わっています。現在は広い道が整備されて、ワイトゥイの片側は眺めが良い謝刈公園として地域住民の憩いの場になっています。(トーヤマヌカー)謝刈部落の中心部に北玉児童館があり敷地内に「トーヤマヌカー」があります。謝刈部落にあった2つの共同井戸の1つで、深さが2〜3メートル以上あった「チンガー」と呼ばれる釣瓶井戸でした。「トーヤマヌカー」はワク(湧水)ではなかったので干魃の際には水が枯れていました。現在は「水神」と刻まれた石碑が建てられ、ウコール(香炉)が設置されていました。(イーヌカー)「トーヤマヌカー」の北側に「イーヌカー」があり、謝刈部落にあった2つの共同井戸のもう1つでした。部落に個人井戸があった家はほんの数軒だったため、ほとんどの住民が「イーヌカー」を利用していました。謝刈部落で1番水量が豊富な井戸で、深さは1メートルほどあり釣瓶を利用して水を汲んでいました。水量は戦前の半分くらいになりましたが現在でも水が湧いています。部落では「カーウガミ」と呼ばれる水の神を祀る行事が行われています。(ジャーガルビラ)(ワイトゥイから降るジャーガルビラ)ジャーガル公園の南部からワイトゥイを結ぶ「ジャーガルビラ」と呼ばれる急勾配な坂道があり、かつては石畳で頑丈に造られていました。「ジャーガルビラ」はイニンビー(死者の人だま)が出る事で有名で、謝刈部落の南側にある白比川からイニンビーがやって来ると信じられていました。また、米軍が上陸して来た時には「ジャーガルビラ」に地雷を設置して誰も通さないようにしていたそうです。ちなみに「ジャーガルビラ」の東側を「アガリグミ」西側を「イリグミ」と部落を分けて、親戚同士を一緒に住まわせたと伝わります。(謝刈のビジュル/拝所)(祠の内部)謝刈部落の西側に「ジャーガルモー(謝刈毛)」と呼ばれる野原があり、そこに3つのウンチケー(霊石)が祀られた祠があります。沖縄には古くから石信仰があり、3つの石はそれぞれ「天地海」を現しています。祠の内部には霊石、ウコール(香炉)、賽銭箱が設けられていました。この拝所は旧暦2月2日、旧暦8月15日、旧暦11月15日に拝まれています。かつてこの場所では旅の安全を祈って船を見送る「フナウクイ」が行われていました。(ビジュルの石碑)(マーイサー)「ジャーガルモー」にはビジュルの石碑があり「拝所 字謝刈部落」と刻まれています。石碑の下には「マーイサー」と呼ばれる1つ100キロ程ある丸石が数個置かれています。部落の若者達が力比べで持ち上げていたと伝わります。「マーイサー」はもともと南東側にあった「マーイサーモー(セーネンモー)」と呼ばれる野原に設置されていましたが、現在はジャーガルモーに移されています。(ジャーガルミチ/県道24号)(吉原14番地の霊石)謝刈部落の中心部のジャーガルミチ(県道24号)沿いに、ニービ石造りの古い霊石と石敢當の石碑が設置されています。T字路や突き当たりではなく民家の入り口に設置されており、ジャーガルミチの北側を向いています。白比川から謝刈部落に昇ってくるイニンビー(死者の人だま)を追い返す魔除けとしての役割があると考えられます。(ホースガー)謝刈部落の南西側に「ホースガー」と呼ばれる涌井戸があります。「ホースガー」は宇地原(うじばる)公園の敷地内にあり、戦前より水が豊富な井泉でした。ホースガーの名称は戦後に付いたもので、ゴムホースを入れて水を引いていた事が名前の由来になりました。戦前は宇地原(うじばる)のガー(井戸)なので「ウージガー」と呼ばれて周辺住民に重宝されていました。(謝刈湯の跡地)(謝刈部落の細道)謝刈部落の中心部にはかつて「謝刈湯」と呼ばれた銭湯があり、現在は解体後に新しいアパートが建てられています。謝刈部落の路地裏は急勾配な細道が迷路のように張り巡らしています。東西南北が分からなくなる不思議な路地が多く、部落の高齢者が元気に坂道を登ってゆく姿を頻繁に見かけます。かつては北谷町で一番栄えた地区ではありましたが、現在は学校や児童館が建ち並ぶ住宅地として穏やかで落ち着いた街並みになっています。謝刈部落は戦後の激動の沖縄を力強く生き抜いた人々の魂が込められた地区であり、平和を象徴する特別な聖域となっているのです。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2021.04.19
コメント(0)
全8件 (8件中 1-8件目)
1