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(モーガー/テニンガー)沖縄本島中部の「読谷村/よみたんそん」に「座喜味/ざきみ集落」があり、この集落の南西側に「モーガー/テニンガー」の井泉が湧き出ています。昔から藻が多い井戸であったため「モーガー」と呼ばれるようになったと言われています。旧暦5月に稲や麦の五穀豊穣を祈願する「ウマチー」の際にウンサク(神酒/ミキ)を作り、屋号「コーチハンジャ/幸地波平」の椀に注ぎ祭祀が行われました。行事の後に使用した椀を「モーガー」で洗った事から「ウマチーガー」とも呼ばれていました。「モーガー」の東側に隣接した場所に「座喜味公園」があり、かつてこの地は「ターンムダー/田芋田」として田芋が栽培されていた「ダーブックヮ/田んぼ」でした。現在、公園の西側には「座喜味ミーフダー」と刻まれた石碑が建立されています。また、かつて「座喜味公園」の北側には「キジャマガー橋」と「西キジャマガー橋」が掛かっていて、更に「モーガー」の北側には現在も「カービラハンジャ/川平波平のウフアカギ」の巨樹が育っています。(モーガー/テニンガー)(モーガー/テニンガーの石碑)(モーガー/テニンガー)(モーガー/テニンガーのウコール)(モーガー/テニンガーの湧水)(モーガー/テニンガー)(ターンムダー/田芋田跡)(座喜味ミーフーダーの石碑)(座喜味公園)(ターンムダー/田芋田跡)(ターンムダー/田芋田跡)(キジャマガー橋跡)(西キジャマガー橋跡)(カービラハンジャ/川平波平のウフアカギ)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.04.06
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(ウェンダカリガー/イリンダカリガー)沖縄本島中部の「読谷村/よみたんそん」に「座喜味/ざきみ集落」があります。「座喜味グスク」の南側に「ウェンダカリガー」があり「イリンダカリガー」とも呼ばれ旧正月の「ワカミジ/若水」を汲む井泉でした。旧暦9月の「ミジナディ/水撫で」にも利用され、額に水を付けて無病息災を祈願しました。村人が病気になった時や小児がイリガサー(はしか)にかかった時に重宝されました。「ウェンダカリガー」の南西側の森に「ティランカー」の井泉があり、かつて井戸の水はお茶用や豆腐作りに使用され地域の重要な水源として大切にされていました。。さらに「ティランカー」の西側には「ミーガー」があり、1904年(明治37)の干ばつの時に隣に住む「當山松田」の老婆により発見されました。その後、村の共同井泉として整備された井戸は「座喜味集落」の中でも比較的新しい井戸なので「ミーガー/新井」と呼ばれるようになりました。(ウェンダカリガー/イリンダカリガー)(ウェンダカリガー/イリンダカリガーの井泉)(ウェンダカリガー/イリンダカリガーのウコール)(ウェンダカリガー/イリンダカリガーのガジュマル)(ティランカー)(ティランカーの石碑)(ティランカーの井泉)(ティランカーのウコール)(ティランカーの井泉)(ミーガー/新井)(ミーガー/新井の石碑)(ミーガー/新井)(ミーガー/新井の井泉)(ミーガー/新井)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.04.02
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(歌三味線之始祖 赤犬子大主之墓碑)沖縄本島中部「読谷村/よみたんそん」に「楚辺/そべ集落」があります。この集落の西海岸に集落発祥の地と言われる「ユーバンタ」があり「ユータティバンタ/世立ちの崖」とも呼ばれています。戦前までこの崖の南東側は風葬地帯で現在は唄三線の始祖として知られる「アカヌクー/赤犬子」の墓碑が建立されています。「ユーバンタ」は魚群を発見する「イユミーバンタ」や旅立つ者を見送る「フナウクイ/船送り」の地であり、戦前は村の若者達が集い遊ぶ「アシビナー/遊び庭」でした。さらに「ユーバンタの浜」の南側には悲惨な沖縄戦の実相を伝え、平和の尊さを発信する象徴として「艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑」が建てられています。この作品は1971年頃に「楚辺」出身の比嘉恒敏(ひがこうびん)氏が作詞作曲した沖縄民謡で、比嘉氏の4人娘の民謡グループ「でいご娘」がレコーディングし沖縄県内で大ヒットしました。(ユーバンタ/ユータティバンタ)(ユーバンタ/ユータティバンタからの風景)(赤犬子大主之墓碑)(ユーバンタの浜)(ユーバンタの浜の景色)(艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑)(艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑)(ユーバンタの浜)(艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑)(艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑)(艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑)(ユーバンタの浜)(艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑からの風景)(艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.03.21
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(ミージョーガー/ジョーガー)沖縄本島中部の「読谷村/よみたんそん」にある「座喜味/ざきみ集落」があり「座喜味グスク」の西側に「ジョーガー」と「ミージョーガー」が隣接しています。集落を取り巻く川の一番上部にある事から「ジョーガー/上ガー」と呼ばれた説があります。また「座喜味グスク」でも使われた事から「グスクガー/城ガー」とも言われています。「ジョーガー」はお茶の水として汲まれ、味は格別だったと伝わってます。「ミージョーガー」は昭和初期の干ばつの際に「ジョーガー」の北側に新たに造られました。隣り合う2つの井泉は水質が異なり水の味が全く違う事で知られていました。「ジョーガー」と「ミージョーガー」は旧正月のハチウガン(初御願)や旧暦9月のウビナディ(水撫で)で拝され、井泉の水は新年のワカミジ(若水)や出産の際のウブミジ(産水)として用いられました。(ジョーガー/ミージョーガーへ降りる階段)(ジョーガー)(ジョーガーの石碑)(ジョーガー)(ジョーガー)(ジョーガー)(ジョーガーのウコール)(ミージョーガー)(ミージョーガーの石碑)(ミージョーガー)(ミージョーガー)(ミージョーガー)(ミージョーガー/ジョーガー)(ジョーガー/ミージョーガーの拝所)(ジョーガー/ミージョーガーのクワズイモ)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.02.12
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(ウェーガー/エーガー/親川)沖縄本島中部の西海岸に「読谷村/よみたんそん」があり、世界文化遺産で知られる「座喜味城跡」の東側谷間に「ウェーガー」があります。この井泉は座喜味城主が専用に使用した古いカー(井泉)と伝わっており「エーガー/親川」や「グスクガー」とも呼ばれています。その昔イリガサー(はしか)にかかった際に「ウェーガー」の水でミジナディ(水撫で)すると早く治ると言われていました。戦前までこの井泉は旧暦1月の「ハチウグヮン/初御願」や旧暦9月の「ウビナディ/水撫で」の行事で拝されていました。さらに旧正月の元旦にはワカミジ(若水)を汲み、出産の際には産水として用いる「ウブガー/産井」として利用されていました。「ウェーガー」には石造りの古い石碑・ウコール(香炉)とコンクリート製の石碑・ウコールが祀られています。(ウェーガー/エーガー/親川へ続く森道)(ウェーガー/エーガー/親川)(ウェーガー/エーガー/親川へ降りる階段)(ウェーガー/エーガー/親川)(ウェーガーの石碑/向かって左側)(ウェーガーのウコール/向かって左側)(ウェーガー/エーガー/親川の小川)(ウェーガーの古い石碑/向かって右側)(ウェーガーの古いウコール/向かって右側)(ウェーガー/エーガー/親川の小川)(ウェーガー/エーガー/親川へ向かう散策路/木道)(ウェーガー/エーガー/親川の森)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.02.10
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(ウッチガー/掟井泉)沖縄本島中部の東海岸沿いに「読谷村/よみたんそん」があります。「座喜味/ざきみ集落」はこの村で最も古い集落として知られ、各村の生産高を集計した「琉球国高究帳(1635年)」には『城村』と記されています。「座喜味集落」の南東側に「ウッチガー/掟井泉」があります。読谷山間切座喜味村の「上地親雲上/イーチペーチン」が現在の区長に相当する役職である「ウッチ/掟」に就いていた頃、田んぼ近くの岩間に湧泉を発見し整備した事が「ウッチガー/掟井泉」の名称の由来であると伝わっています。「上地親雲上」の子孫が屋号「東上地/アガリイーチ」にあたり、子孫や座喜味集落では「上地親雲上」を「ウシータンメー」と呼び崇敬を寄せています。また「ウッチガー」の南側に「座喜味世ヌ主の妻の御墓」がありウコール(香炉)が祀られています。(ウッチガー/掟井泉)(ウッチガー/掟井泉の石碑)(ウッチガー/掟井泉)(ウッチガー/掟井泉)(ウッチガー/掟井泉)(ウッチガー/掟井泉)(ウッチガー/掟井泉)(座喜味川)(座喜味川)(座喜味世ヌ主の妻の御墓)(座喜味世ヌ主の妻の御墓の標識)(座喜味世ヌ主の妻の御墓)(座喜味世ヌ主の妻の御墓のウコール)(交通安全のキジムナー像)
2024.01.30
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(ダッチンガー/ダチンガー)沖縄本島中部の西海岸に「読谷村/よみたんそん」があり、この村の中央に「座喜味/ざきみ集落」が広がっています。「座喜味」は「ザチミ」または「ジャチミ」と呼ばれ「読谷村」で最も古い集落となってます。「座喜味集落」の南東側で県道12号線下に流れる「ザキミ川/座喜味川」の川沿いに「ダッチンガー/ダチンガー」と呼ばれる井泉があります。この井泉は村内で初めて造られた「ニーブガー/柄杓で水を汲む井泉」であると伝わっています。井泉の名称の由来は「座喜味/ザチミ」から「ザチン」「ザッチン」と訛り「ダッチン」になったと言われています。さらに「ダッチンガー/ダチンガー」の周囲には霊石とウコールが祀られた井泉の拝所と、座喜味村の按司が葬られた「座喜味世ヌ主の御墓」の古墓が隣接しています。(ダッチンガー/ダチンガー)(ダッチンガー/ダチンガーの石碑)(ダッチンガー/ダチンガーのウコール)(ダッチンガー/ダチンガーの拝所)(ダッチンガー/ダチンガーの拝所/ウコール)(ダッチンガー/ダチンガーの拝所/霊石)(ザキミ川/座喜味川)(ザキミ川/座喜味川の石碑)(座喜味世ヌ主の御墓)(座喜味世ヌ主の御墓/標識)(座喜味世ヌ主の御墓)(ダッチンガー/ダチンガー)
2024.01.27
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(シナハウガンジュ/瀬名波御拝所)沖縄の言葉で"岩場が多い地域"と言う意味の「シナハ」または「シナファ」とも呼ばれる「瀬名波(せなは)集落」は沖縄本島中部の「読谷村(よみたんそん)」に位置しています。現在の「瀬名波集落」は「瀬名波原(シナハバル)」という土地に広がっており、その中央部には「シナハウガンジュ/瀬名波御拝所」と呼ばれる社が建立され「ノロ殿内/ヌルドゥンチ」とも呼ばれています。この「ノロ殿内/ヌルドゥンチ」とは、琉球神道における女性の祭司(巫/祝女)である「ノロ」が暮らした屋敷があった聖域を意味します。琉球王府により正式に任命された「ノロ」は「ヌル」または「ヌール」とも呼ばれています。(シナハウガンジュ/ノロの火の神)(シナハウガンジュ/瀬名波御拝所の神棚)(シナハウガンジュ/ヌール神の霊石とウコール)「シナハウガンジュ/瀬名波御拝所」はほぼ北側に向けて建てられており、その敷地は古い石垣で囲まれています。仏壇に向かって左端には「ノロのヒヌカン/火の神」が祀られていて3体のビジュル(霊石)と白い陶器のウコール(香炉)が設置されています。仏壇には4柱の位牌にそれぞれ2基の花瓶と湯呑、ガラスのコップとウコール(香炉)が供えられています。更に、正面の中央手前には古い木製の神皿が置かれ、御賽銭が奉納されています。仏壇に向かって右端は「ヌール神」が祀られた拝所となっており、中央奥に鎮座した霊石を囲むように7つの石製ウコール(香炉)が設置されています。ウコールにはそれぞれ1個づつ小さな霊石が置かれています。(津波家先祖代々之生霊の位牌)(のろ神之霊位の位牌)(馬に乗るノロを描いた彫刻)仏壇には「津波家先祖代々之生霊 歸元 霊位」と記された位牌があり、その向かって右側には「のろ神之霊位」と書かれた位牌があります。「シナハウガンジュ/瀬名波御拝所」は「ヌルドゥンチ/ノロ殿内」とも呼ばれ「崎原巫(ノロ)」が住む屋敷が建てられていた聖域でした。「瀬名波ノロ」とも呼ばれる「崎原巫」は「瀬名波」のみならず周辺の「長浜」「渡慶次」「儀間」「宇座」「高志保」の6つの集落の祭祀を管轄していました。「ヌール神の拝所」にはノロ神のウコール(香炉)を中心に6つの集落を意味する6つのウコール(香炉)が祀られています。この拝所には周辺集落の祭祀に馬に乗って出向く「崎原巫/瀬名波ノロ」を描いた古い彫刻が飾られており、ノロの文化や歴史を知る上で非常に重要な資料となっています。(神アサギ毛/神サギモー)(神アサギ毛/神サギモーの霊石)「シナハウガンジュ/瀬名波御拝所」の北東側に「神アサギ毛」と呼ばれる場所があり「神サギモー」の名称でも知られています。「神アサギ毛」は「崎原巫(ノロ)」や集落の「カミンチュ(神人)」が神を招請して祭祀を執り行う「神アサギ」が建てられていた聖域でした。かつて「神アサギ毛」の周辺には松の木や、沖縄の言葉で「マーニ」というクロツグ(ヤシ科の植物)が生い茂っていた広い土地であったと伝わります。「瀬名波集落」を始めとする周辺の6つの集落を管轄していた「崎原巫(ノロ)」の霊力による祭祀は大規模なものであったあっと考えられます。現在の「神アサギ毛」には祠が建立されており、内部には大型の霊石が鎮座しています。(旗スガシー道/シナハウガンジュ側の入り口)(瀬名波根屋/城間)(旗スガシー道/瀬名波公民館側の入り口)「シナハウガンジュ」の南側から「瀬名波公民館」に続く道は「旗スガシー道」と呼ばれています。「旗スガシー」とは五穀豊穣や集落の繁栄、住民の無病息災を祈願する「道ジュネー」と呼ばれる先祖供養の祭事です。エイサーの踊りと共に集落を練り歩く行事で、沖縄では夏の風物詩と言われる大切な伝統芸能です。この「旗スガシー道」沿いには「瀬名波根屋/城間」と呼ばれる集落発祥の家があります。その昔「シリヤマ」と呼ばれる集落北側の岩山にあった「城間」の家が火事で焼けてしまい、毎年旧暦12月1日を「用心燈の日」として火の用心を呼びかける「ヒーマーチウガン」の行事が行われるようになりました。「瀬名波根屋/城間」には「ヒーマーチ」の神が祀られています。(シリヤマ)(シリヤマのハンタ)「瀬名波集落」の東側で「半多原」と呼ばれる土地に「シリヤマ」と呼ばれる岩山があります。この岩山の更に東側は断崖絶壁付のハンタ(崖)となっており、昔は周辺住民に非常に恐れられていました。「シリヤマ」は「瀬名波集落」発祥の地と言われ、ニーチュ(根人)と呼ばれる「城間家」が暮らしていました。この岩山には「城間門中」の拝所である祠があり「ティラの神」が招請されています。「門中」は「ムンチュー」と発音し、沖縄県における始祖を同じくする父系の血縁集団の事を意味します。旧暦2月1日と8月1日の大御願(ウフウガン)、旧暦3月3日の清明祭(シーミー)、旧暦12月24日の解き御願(フトゥチウガン)の際に拝されています。(城間一門拝所)(城間一門拝所の祠内部)(元寺上霊城間之墓)「シリヤマ」と瀬名波海岸の間に「瀬名波ヤラジャー」という一段と高い岩山があり、周辺は「グシクヌウチ」と呼ばれるセジ(霊力)が高い場所として知られていました。「瀬名波ヤラジャー」にはドーム状の洞穴があり、古い人骨が祀られた「ヤラジャーヌティラ」がありました。戦後、米軍施設の建設により移転を余儀なくされ、北西側の「シリヤマ」の岩山に勧請されました。「瀬名波集落」ではこの「ヤラジャーヌティラ」の神を観音堂の神と同様として拝しています。「シリヤマ」には「城間一門拝所」の祠があり、読谷石灰岩の荒々しい岩肌に霊石が祀られています。さらに「元寺上霊城間之墓」と記された墓も隣接されています。この「シリヤマ」は「瀬名波集落」発祥の地であり、現在も神が宿る聖域として崇められているのです。
2022.06.07
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(カンカーモーのガジュマル)沖縄本島中部に読谷村(よみたんそん)があり、村の北部の海岸沿いに「瀬名波(せなは)集落」があります。この集落の発祥は「瀬名波の浜」の南西側にある「ハンタバル(半多原)」にある「シリヤマ」と呼ばれる岩山周辺であり、その後に集落は北側の「カガンジバル(鏡地原)」に移動しました。この土地には「琉球国由来記(1713年)」にも記される「カガンジウタキ(鏡地御嶽)」が現存します。しかし、水捌けが非常に悪く大雨が降ると酷く冠水する土地であったため、1737年に南側の「久良美知屋原」に集落は移動しました。更に1776年に集落は近隣の「高志原」の土地に移動し、最終的に現在の「瀬名波原」と呼ばれる地域に「瀬名波集落」が定着して現在に至ります。(カンカーモー)「瀬名波集落」の北部で、かつて「高志原」と呼ばれた現在の「ヤーヌクシバル(屋之後原)」と「瀬名波原」との境界線に、大小多数の石垣で囲まれた「カンカーモー」と呼ばれる広場があります。ガジュマルの巨木が聳え立つこの地は旧暦の4月1日と8月1日に「カンカー」と呼ばれる悪霊払いの祭祀が執り行われる場所となっていました。集落に「フーチ」と呼ばれる流行病や疫病が入り込まないように、集落の入り口である「カンカーモー」の広場で牛を潰し、その血を小枝に付けて各家庭の屋敷の四隅に立てて厄祓いをしました。牛の骨を集落の各要所に吊り下げて悪霊払いをし、牛の肉は集落の住民に分けられて食されたと伝わります。(不動/イーヌファ/亥の端)(不動/イーヌファの石碑)「瀬名波集落」には集落の四方に「不動」と呼ばれる石碑が祀られた祠が建立されています。「不動」は「フルー」と呼ばれ「不動明王」に由来し、集落の4箇所を守護する神として崇められています。この「不動」の石碑は設置された方角を十二支で表しており、集落の北北西の方角には「イーヌファ/亥の端」と呼ばれる「不動」が鎮座しています。「瀬名波原」と「屋之後原」との境にある森に建立されており、古老によると昔は「不動」の場所を超えた土地に屋敷を建てて住んではいけないと言われていたそうです。現在は「女性専用癒しの宿/みるく家」というヒプノセラピー&宿泊施設の北側の森に「イーヌファ」の「不動」の石碑があります。(不動/トラヌファ/寅の端)(不動/トラヌファの石碑)「瀬名波集落」の東北東に「トラヌファ/寅の端」と呼ばれる「不動/フルー」があります。県道6号線沿いで嘉手納警察署瀬名波駐在所の南側に建立された、この「不動」は集落の「瀬名波原」と「半多原」の境に設置されています。「トラヌファ」の「不動」がある「半多原」には「シリヤマ」と呼ばれる「瀬名波」発祥の地と呼ばれる岩山があり、昔は人々に恐れられていた断崖絶壁の地であった土地と言われています。さらに「半多原」には「トウヤマグシク」と呼ばれる丘陵のグスク森が広がっています。かつて「トラヌファ」の「不動」はこの地で「瀬名波集落」を東北東から守護しており、現在でも保存状態が良い環境で「不動」の祠と石碑が鎮座しています。(不動/ミーヌファ/巳の端)(不動/ミーヌファの石碑)「ミーヌファ/巳の端」の「不動」が集落の南南東の方角にあり、祠内に石碑が祀られています。この「不動」は「瀬名波原」と「屋之前原」の境に鎮座しており、集落北側の「ヤーヌクシバル/屋之後原」に対して南側は「ヤーヌメーバル/屋之前原」の土地が広がっています。この「屋之前原」には「屋之前原遺跡」の森があり、遺跡の西側には1895年(明治28)に分校として設立され、1902年(明治35)に独立開校した「読谷村立渡慶次小学校」があります。小学校の敷地内には「沖縄の名木百選」に選ばれた「渡慶次のガジュマル」があり、この古樹は1904年(明治37)に創立3周年記念木として植えられた古い歴史があります。(不動/サルヌファ/申の端)(不動/サルヌファの石碑)(サルヌファ/申の端のチンガーグヮー)「瀬名波集落」の西南西の方角に「サルヌファ/申の端」の「不動」が鎮座しています。この場所は「瀬名波集落」の西側に隣接する「渡慶次集落」との境目で、他集落からの疫病や悪霊を封じ込める役割りがあります。この「サルヌファ/申の端」の広場には「チンガーグヮー」と呼ばれる井戸跡が残されています。水道が普及する以前の「瀬名波集落」は水の資源を確保する事が非常に困難で、この「チンガーグヮー」の井泉は集落の住民に大変重宝されていました。現在、井戸跡にはウコール(香炉)が設置されており、住民により水の神様を拝する聖域となっています。(瀬名波中道/渡慶次小学校側の入り口)(瀬名波中道/川平原側の入り口)(カニチグチ)「瀬名波集落」の西側に集落を南北に渡って通る「瀬名波中道」と呼ばれる主要な道があります。南側の入り口は「渡慶次小学校」の西側で、北側の入り口は「川平原」と呼ばれる土地に隣接しており「カンカーモー」の脇を通過します。「瀬名波中道」の中間地点の長い直線の道路には「カニチグチ」という場所があります。「カニチグチ」とは綱引きの際に雄綱と雌綱をカナチ棒(かんぬき棒)で一つに連結する場所を意味します。「瀬名波集落」には古の先人達が残した大切な伝統文化が息づき、歴史を感じさせる風景が現在も数多く残されているのです。
2022.06.02
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(瀬名波ガー道)沖縄本島中部にある読谷(よみたん)村に「瀬名波(せなは)集落」があり、集落の東部には「瀬名波海岸」の美しい天然浜が広がっています。その昔、この一帯には「川平屋取(かわひら)集落」と呼ばれる屋取(ヤードゥイ)集落がありました。屋取集落とは18世紀の初めに、首里から士族の帰農により沖縄本島の各地に形成された小村落を言います。なお、この土地には「川平原貝塚」があり、紀元前5000年頃から11〜12世紀のグスク時代の始まりまでの「沖縄貝塚文化」の時代から人が生活していました。この「瀬名波ガー道」は琉球王府が編纂した歌謡集の「おもろさうし」には「瀬名波川平」や「瀬名波磯坂」と謳われています。(アバシヌンジシティガマ)(アバシヌンジシティガマ)「瀬名波ガー道」を下り浜に出る手前に「アバシヌンジシティガマ」と呼ばれる自然洞窟があります。沖縄戦の際に集落の住民の避難壕として利用されていました。この洞窟の上にアメリカ軍の爆弾が落ちましたが、巨大なガマは頑丈で壊れず避難していた人の全てが無事でした。「アバシヌンジ」は"ハリセンボンのトゲ"を意味し「シティ」は"捨てる"を意味します。この「ハリセンボンのトゲを捨てる洞窟」を意味するガマは貝塚時代の先人が暮らした住居跡と考えられています。更に、かつてはこの周辺で採れる「クチャ」と呼ばれる粘土質の泥土を石鹸代わりにして水浴びをしたとも伝わっています。(瀬名波ガー)(瀬名波ガー)「アバシヌンジシティガマ」の西側にある岩陰から「瀬名波ガー」の水が湧き出ています。水道が普及される前まで「瀬名波集落」は水源が乏しく集落内の井戸も少なかったため「瀬名波ガー」で洗濯や水浴びをしていました。戦前まで近隣の「川平集落」の住民は急勾配の坂道を上り下り「瀬名波ガー」から水を各家庭に人力で運ぶ重労働を強いられていました。集落で子供が産まれると産水として井戸の水が利用され、旧正月元旦には若水を汲んでいました。1904年の大干魃でも井戸の水は枯れず、周辺の集落から「瀬名波ガー」に水を汲みに来ていたと伝わります。亥年の最初の亥の日に「瀬名波ガースージ」と呼ばれる祝いの祭祀が行われています。(イービヌメー/イービヌ前)(イービヌメーの風葬墓)(イービヌメーの堀込墓)「瀬名波ガー」の南東側に「イービヌメー/イービヌ前」と呼ばれる岩石の自然トンネルがあります。「イビ」とは「琉球国由来記(1713年)」では「イベ」とも呼ばれ、神が宿る聖なる場所を意味しています。この天然岩のトンネルは神の領域への入り口として崇められ「瀬名波集落」ではシーミー「清明祭」に住民により拝されています。「イービヌメー」のトンネル内部には古い風葬墓が現在も残っており、洗骨された遺骨を収める亀厨子を囲む為に幾つもの石が積み上げられています。また「イービヌメー」のトンネルを抜けると岩崖の中腹にある天然洞窟を利用した堀込墓もあります。この古墓の墓門には献花が供えられ、現在も子孫により大切に参拝されています。(イェーヌガマの風葬墓)(イェーヌガマの風葬墓)(イェーヌガマの風葬墓)「イービヌメー」の隧道(トンネル)を抜けた先には「イェーヌガマ」と呼ばれる自然洞窟の北側の入り口があります。「クラシンガマ/暗しんガマ」とも呼ばれる薄暗いガマの内部を進むと沢山の石が積まれた大小幾つもの風葬墓が点在しており「イェーヌガマ」は主に風葬の為に利用された洞窟である事が分かります。集落から離れた崖下の浜に隣接したこのガマは、死者の遺体を効率よく腐敗させて骨にする為に適した環境がある自然洞窟でした。風葬墓は沖縄の墓の種類で最も古い形の墓であり、火葬が普及する以前から存在した昔の沖縄の風葬文化を知る上で非常に重要な資料となっています。(イェーヌガマの東側入り口)(イェーヌガマの堀込墓)(堀込墓の内部)「イェーヌガマ」の東側の浜からの入り口には、漂流してきた1本の大木と2つの巨岩があります。この巨岩はガマの門のように鎮座しており、まるで沖縄の古民家の入り口を悪霊から守る「ヒンプン」のように見えます。ガマの内部には石垣で積まれた古い堀込墓が構えており、解放された墓門からは古墓の内部が確認出来ます。現在この古墓は既に墓じまいが済んでいますが、墓の内部には厨子甕の破片や昔の石や木材が数多く残されています。更に堀込墓の内部構造も綺麗に保存されており、沖縄の古墓の内部形状、使われた石材や加工技術などを解釈する為に非常に貴重な文化財となっています。(瀬名波ガー周辺の石切場)(瀬名波ガー周辺の洞窟群)(瀬名波ガー周辺の洞窟群内部)「瀬名波ガー」の南側の海岸線は自然海食した洞窟群が続いており、大小様々なガマが多数点在しています。この一帯の浜はかつて石切場として上質な石材が切り出されており、現在は石切場の跡が綺麗に残されています。おそらく、ここで切り出された石材は「イェーヌガマ」内部の風葬墓や堀込墓に使用されていたと考えられます。「瀬名波ガー」周辺の洞窟群は海岸線の南北に大規模に広がっています。沖縄戦の際にはこの洞窟群に「瀬名波集落」の人々のみならず、多くの周辺集落の住民が食料を持ち込み防空壕として避難し、近くの「瀬名波ガー」の湧き水を飲んで戦禍を生き延びたと伝わっています。(チーヤグヮー)(チーヤグヮーヌガジラーシー)「イェーヌガマ」から南東側の浜辺に「チーヤグヮー」と呼ばれる丘陵があり、その麓一帯は大きめの岩が大規模に渡り積み上げられています。「チーヤグヮー」の丘陵中腹にはムンチュー墓(門中墓)、亀甲墓、古い堀込墓など多種多様の沖縄の墓が集中しています。この「チーヤグヮー」の浜に「チーヤグヮーヌガジラーシー」と呼ばれる自然溶食により造り出された石灰岩があります。溶食とは石灰岩が海水と炭酸ガスの働きにより分解される化学的作用の事を言います。更に「ガジラーシー」とはキノコ型に溶食された岩の名称で、長い年月をかけて少しずつ現在の造形美を創り出しているのです。(瀬名波ガーヌガジラーシー)(飛び込み台とヌファイグムイ)「瀬名波ガー」から東側の浜に「瀬名波ガーヌガジラーシー」と呼ばれるキノコ型の溶食石灰岩があります。その脇に隣接して「飛び込み台」の型をした岩場と「ヌファイグムイ」と呼ばれる溜池があります。これからは神が宿るとされる「イービヌメー」を取り囲むように位置しています。荒々しい岩場が多い地域で力強く生きてきた「瀬名波集落」の住民の精神を「瀬名波ガー」にかけて、次のような歌が謳われています。「シナハガーヌミジヤ イシカラガワチュラ イキガカライナグ クトゥバクファサ」(瀬名波ガーの水は 石から湧き出ているのだろうか 男も女も言葉遣いが荒いよ)
2022.05.29
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(シナハウガン/崎原嶽)沖縄本島中部西海岸の「読谷(よみたん)村」北部に「瀬名波(せなは)集落」があります。海岸沿いにあるこの集落は「読谷石灰岩」の地盤が広がっており「シナハ」または「シナファ」とも呼ばれています。この名称は沖縄の言葉で"岩場が多い地域"という意味に由来しているそうです。「瀬名波集落」は読谷村で最も古い集落の一つとして歴史が長く、首里王府により編纂された歌謡集である「おもろさうし(1531-1623年)」には「せなはかわひら(瀬名波川平)」や「せなはいしよひら(瀬名波磯坂)」と謳われているように「瀬名波ガー」と呼ばれる井泉がある「瀬名波海岸」に下りる美しい岩場の絶景が特徴的です。(シナハウガン/崎原嶽の祠内部)(シナハウガン/瀬名波ウガンの遥拝所)「瀬名波集落」の北側に「シナハウガン/瀬名波ウガン」という御嶽の森があります。「琉球国由来記(1713年)」には「崎原嶽」と記されており、集落の大御願やフトゥチウガン(解き御願)の際に拝されています。戦前は集落の出征兵士が戦場に赴く前に「シナハウガン」で武運長久を祈願しました。また、本土へ旅立つ人が乗った船が集落の沖合に通りかかると、焚き火をして舟送りをする場でもありました。「シナハウガン」のイビである祠内部には幾つもの古いビジュル(霊石)が祀られており、現在でもヒラウコー(沖縄線香)をお供えして御願する人々が多数訪れます。さらに、御嶽の森の麓には高齢者や足が悪い方が御願する為の「遥拝所」が設けられています。(按司墓跡之碑)(カクリグシク)(カクリグシクの按司墓)「シナハウガン/崎原嶽」の南側に「カクリグシク」と呼ばれるグスクの岩山があり、丘陵中腹の洞穴に「按司墓」が存在します。戦乱の時代に、ある按司がこの地まで逃れて来て亡くなったと伝わっています。この「按司墓」は集落の「シーミー(清明祭)」の時に拝されており、現在は「シナハウガン」の遥拝所に「按司墓跡之碑」と彫られた石碑が建立しています。古墓を由来とする「カクリグシク」は別名「シナハグシク(瀬名波グスク)」と称され、民俗学者の「仲松弥秀(なかまつやしゅう)」によるとグシクは『石垣に囲まれ、神が存在、または天降る聖所で、神を礼拝する拝所と一つにした聖域である』と定義しています。(イユミーバンタ)(ムイヌカーヌガジラーシー)(スーキ屋敷跡)「瀬名波集落」最北端は海に向かって断崖絶壁になっており、この崖の上は「イユミーバンタ」と呼ばれる魚の群れを発見する場所でした。「イユミーバンタ」から南側の崖下には「ムイヌカーヌガジラーシー」と呼ばれる溶食により特徴的な形をした岩礁があります。この名称の由来となった「ムイヌカー」と呼ばれる井泉がこの崖下にあり、かつて戦に逃れた按司が井泉の水を飲み命を繋いだと伝わっています。それに乗じて井泉は「ウムイヌカー(思いのカー)」とも呼ばれています。なお、この按司は「カクリグシク」の「按司墓」に葬られている同一人物だとされています。「イユミーバンタ」の南西側には「スーキ屋敷跡」と呼ばれる場所があり「スーキ」と呼ばれるモンパの木と共に屋敷跡が残されています。(カガンジウタキ/カガミ瀬嶽)(カガンジウタキ/カガミ瀬嶽の祠内部)「瀬名波集落」中央部の「カガンジバル(鏡池原)」に「カガンジウタキ/カガミ瀬嶽」と呼ばれる御嶽があり「カガンジヌウカミ」や「鏡地御嶽」とも呼ばれています。「琉球国由来記(1713年)」には「カガミ瀬嶽/神名:テルカガミノ御イベ」と記されており「瀬名波ノロ」が祭祀を司る拝所として崇められていました。「カガンジウタキ」の祠内部には複数のウコール(香炉)と霊石が祀られており、前庭には石製の丸柱や四角柱が3本立っています。集落の大御願、フトゥチウガン、ウマチー(旧暦2月、3月、5月、6月)などで拝され、御嶽の木陰は「瀬名波ノロ」が休憩する場所でもありました。(ジュリグヮーシー)(チンガー)「カガンジウタキ」の北側に「ジュリグヮーシー」と呼ばれる「瀬名波集落」に伝わる伝説の場所があります。「カクリグシク」に身を隠す按司を討ち取る為に追手が迫っている危機を事前に聞いた「ジュリ」という遊女が、按司にその事を知らせようとしました。しかし「ジュリ」は追手にこの場所で殺されてしまいます。それからこの場所は霊力が高く、昼間でも三線の音色が聴こえてくるとして人々に恐れられました。「ジュリグヮーシー」の南側に「チンガー」と呼ばれる掘り抜き鶴瓶井戸があります。戦前まで「瀬名波集落」の共同井戸として飲料水や生活用水に重宝されました。現在は水の恩に感謝して大御願やフトゥチウガンで拝されています。(コーチンダ道)(コーチンダ道の岩塊)(コーチンダ道の亀甲墓)「ジュリグヮーシー」の東側に「コーチンダ道」と呼ばれる森道があり、かつて「コーチンダバーマ」と呼ばれる珊瑚礁の浅瀬まで続いていました。「コーチンダ道」を進むと琉球石灰岩が隆起した岩塊があり、麓には地中に向けて洞窟が続いています。この岩塊は「コーチンダ道」の森を守護する御嶽のイビであるとも考えられますが詳細は不明です。さらに森道を進むと「亀甲墓」の古墓が現れました。門石(じょういし)の前には花瓶があり花が供えられ、向かって左手の角にウチカビ(あの世のお金)を燃やすカビアンジ(焚き上げ)の器が置かれています。「コーチンダ道」は現在も「瀬名波集落」の歴史の道として大切に残されているのです。
2022.05.24
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(トゥクシ岩)沖縄本島読谷村の「渡慶次(とけし)集落」の北側に「トゥクシ岩(ジー)」と呼ばれる大岩があります。かつて「トゥクシ岩」の周辺には美しい芝生が広がり、集落の住民が憩う絶好の場所でした。そして夜は若い男女の出会いや語らい、更にモーアシビー(毛遊び)の場でもあったと伝わります。集落はこの岩の名称に由来して「トゥクシ」と名付けられましたが、時代の流れの中で「トゥクシ」の集落に優れた知恵者が現れて「トゥクシ」を「渡慶次」に改称するようになった、という古老達の言い伝えが残っています。(トゥクシ岩の森)(トゥクシ岩の拝所)五穀豊穣に感謝する奉納舞踊であるムラアシビ(村遊び)が近づくと「トゥクシ岩」の前でグィーシラビ(声調べ)をして配役を決めて踊りの練習をしていました。「トゥクシ岩」の言われは、大地に根を下ろしたその大岩が人間の体の重心となって体を支えているトクシ骨(背骨)にも似ており、村落繁栄のためにクサティ(腰当)となって下さい、という神への願いから「トゥクシ岩」と名付けられたと伝わります。現在も「渡慶次集落」の清明祭では第二尚氏王統の始祖である「尚円王(1415-1476)」が生まれた「伊是名島」へのンケーノーシドゥクル(遥拝所)として利用されています。(ガンヤー/龕屋跡)(無縁墓)(フドゥー/不動)「トゥクシ岩」南西側の麓にはかつて「ガンヤー(龕屋)」と呼ばれる小屋がありました。死体を収める棺を墓まで運ぶ輿をガン(龕)と呼び、ガンを保管する小屋を「ガンヤー」と言います。そのため「トゥクシ岩」の一帯は「ガンヤヌイー」とも称されました。「ガンヤー」の南東側に「無縁墓」があり3基の霊石が祀られウコール(香炉)が設置されています。更に「ガンヤー」の北側には「フドゥー(不動)」と呼ばれる祠があり、不動明王に起因する拝所だと伝わっています。旧暦9月16日の「ハルヤーポン祭」と呼ばれる大御願(ウフウガン)では米や粟で作った餅などを「フドゥー」に供えて豊作を祈願ました。(渡慶次御嶽)(渡慶次御嶽の火之神)(ボージヌメー/ウフウタキ)「渡慶次集落」の北東側に「渡慶次御嶽」があり、大木がそびえ立つ岩盤の一帯が御嶽と称されています。「渡慶次御嶽」の敷地には「火之神」の祠が建立されており、霊石とウコール(香炉)が祀られています。御嶽の玄関口として訪れた際には「火之神」から拝します。「渡慶次御嶽」の岩盤の麓には「ボージヌメー」という拝所となっており「ウフウタキ」とも呼ばれています。霊石が祀られウコール(香炉)にはヒラウコー(沖縄線香)が供えられており、この拝所には今帰仁(北山)系統の士と伝わるニッチュ(根人)と呼ばれる集落の創始者である「ボージヌメー」が祀られています。旧暦8月2日の「ボージヌウガン(御願)」に集落の住民により拝されています。(グシクダキ/城嶽)(按司墓)「渡慶次御嶽」の北側に隣接して「グシクダキ(城嶽)」と呼ばれる岩山があり、集落の始祖である「ボージヌメー」の家族等を祀った墓所となっています。「グシクダキ」の南側岩崖の麓には「按司墓」と呼ばれる自然の岩の窪みを利用した古墓があり、ウコール(香炉)にヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。「グシクダキ」という名称から、かつてこの岩山をグスク(城)として構えた城主(按司)が「按司墓」に祀られていると考えられます。戦前まで「グシクダキ」は禁忌の場所として、一般の住民の立ち入りは禁じられていたと伝わっています。(アタトーヤー)(火之神)(無縁墓)「渡慶次御嶽」の南側に「アタトーヤー」と呼ばれる「神アサギ」がありトゥン(殿)とも呼ばれています。「神アサギ」とはノロ(祝女)が集落の祭祀を行う神聖な場所で、琉球王府により編纂された地誌である「琉球国由来記(1713年)」には「渡慶次之殿」と記されています。「渡慶次集落」は「崎原巫(崎原ノロ)」により祭祀が行われ「崎原ノロ」は「渡慶次、高志保、長浜、宇座」の4集落を管轄した位の高い祝女でした。「アタトーヤー」の敷地には「火之神」の祠があり多数の霊石が祀られています。更に「無縁墓」が設けられておりウコール(香炉)が祀られています。(ジトゥーヒヌカン/地頭火之神)(チンガーグヮー/チン井小)(チンガーグヮーのフドゥー)「アタトーヤー」の南側に「ジトゥーヒヌカン(地頭火之神)」の祠が建立されています。かつてこの場所は「渡慶次地頭」の詰所があり「火之神」が祀られていたことから「地頭火之神」と呼ばれるようになりました。「渡慶次地頭」は「渡慶次」の集落を治めた「脇地頭」と呼ばれる領主で、集落の行政を司る士族でした。「渡慶次地頭」は1643〜1673年に地頭を務めた「渡慶次親雲上道治」に遡ると言われています。「ジトゥーヒヌカン」の東側に「チンガーグヮー(チン井小)」と呼ばれる井戸跡があり「渡慶次集落」で初めに利用されていた井戸だと伝わります。この井戸には「フドゥー」が祀られた祠が建立されています。(シーシヤー/獅子屋)(カナチグチ)「渡慶次公民館」の南側に「シーシヤー(獅子屋)」と呼ばれる獅子を収めた小屋があります。「渡慶次集落」の獅子は1750年頃に作られたと伝わり、旗頭と共に集落を象徴するもので守護神として崇められています。旧暦8月15日には「獅子之御願」が執り行われ「嘉利吉や続く 村の喜びや 獅子がなし 連りて 踊い遊ぶ」と三線に乗せて謡われます。また、旧暦6月14日に中道を境に「アガリニンズ(東組)」と「イリニンズ(西組)」に分かれて綱引が行われました。東が雄綱、西が雌綱で両綱の繋ぎ目にカナチ棒を通す場所は「ナカチグチ」と呼ばれ、戦災から免れた「カナチグチ」の印石が「渡慶次農村公園」の北側に現在も残されています。(トゥクシ岩南側のカンカー)(渡慶次御嶽北側のカンカー)(アタトーヤー前のカンカー)旧4月1日と8月1日に「渡慶次集落」から伝染病や悪疫を追い払うため、集落内の7門から外に向かって「カンカー」と呼ばれる御願が行われています。5ヶ所の「カンカー」の他にも「カナチグチ」と「シーシヤー」を巡拝します。その際に「シーシヤー」では碗にウブク(御飯)を入れて獅子に供えます。「渡慶次集落」は「トゥクシ岩」に由来する言い伝えがありますが、この他にも「渡慶次」発祥の文献があります。初めて「渡慶次」の地に家屋敷を建て移り住んだのが「北谷桑江村」より来た「伊礼子」という人物であるが、嗣子がなく次に「美里伊覇村」から来た「渡慶次主」が後を継ぎ、今日の「渡慶次集落」を創立したと記されています。
2022.02.22
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(イットゥカグシク/ヒサンミ原)沖縄本島中部の読谷村にある「波平(なみひら)集落」は村内で最も古い集落の1つで、沖縄の方言で「はんじゃ」と呼ばれています。「絵図郷村帳(1649年)」と「琉球国高究帳(1673年以前に編集)」には「はびら村」の名で出ており、更に「街当国御高並諸上納里積記(1680年)」や「琉球国由来記(1713年)」には現在の「波平」と記されています。「波平集落」の発祥は1535年頃で、始祖の根屋(ニーヤ)である屋号「西桑江」の「池原某」が美里間切池原村より安住できる場所を求めて「波平東原」と呼ばれる、現在の波平公民館周辺に移り住んだのが始まりとされています。(イットゥカグシクの拝所)(イットゥカグシクの森)(シードー)「波平集落」の北側に「イットゥカグシク」と呼ばれるグスクがあります。15世紀の琉球武将である「護佐丸」が恩納村の「山田グスク」から移転して「座喜味グスク」を築城する際、一時的に城を構えた事から「イットゥカグシク(一時の城)」という名前が付きました。このグスクがある場所は「ヒサンミ原」と呼ばれています。「イットゥカグシク」を造る為に沢山の人足が必要になり、"足"は沖縄の方言で"ヒサ"と言い「足(ヒサ)が集まる場所」と言う意味から由来して「ヒサンミ原」という名前が付いたと伝わります。また「イットゥカグシク」の森には「シードー」と呼ばれる滝壺があり、かつては集落の子供達の絶好の遊び場所として賑わいました。(ウフヤガー/大屋ガー)(フタガー/ふたガー)(ターターガー/多和田ガー/多田井戸)「波平集落」の地形は西海岸の海に向かう階段上になっており、高台から「ムラホーグ」と呼ばれる集落の保護林に沿って水が流れ込んでいます。「イットゥカグシク」の森に「ウフヤガー(大屋ガー)」と呼ばれる屋号「大屋」が掘り当てた井戸があります。「ウフヤガー」の東側にはかつて川と4つの井戸があり、現在はまとめて「フタガー」と称してニライ消防本部読谷消防署の敷地内に石碑と祠が建立されています。「波平集落」の最東端に「ターターガー(多和田ガー/多田井戸)」があり、集落の創建に関わった「ターターチョーデー(多和田兄弟)」が移り住んでいた事から名付けられました。(ワンダガー/湾田ガー)(ナカヌカー/仲之カー)(カーヌイーのカー/川之上のカー)(ウフガー/うふガー)「ターターガー」の南西側に「ワンダガー(湾田ガー)」と呼ばれる井戸があり、一説によると厳しい干ばつの際に掘り当てたと伝わります。この井戸の場所を示す助言者が「ワンチュ(大湾の人)」であった事が名前の由来となっています。ちなみに井戸の前にある窪地は「ワンダジュク(湾田底)」と呼ばれています。「ワンダガー」の北側に「ナカヌカー(仲之カー)」があり、かつて周辺住民の生活用水として重宝されていました。「ナカヌカー」の西側には「カーヌイーのカー(川上之カー)」があります。この場所では「十五夜アシビ」の打ち合わせや「スーダチグヮー」と呼ばれる演舞の予行練習が行われていました。「ナカヌカー」の北側の「ウフガー(うふガー)」の水は豆腐作りに最適な清水として利用されていました。(ミーガー/新ガー)(イリヌカー/西之カー)(ブシガー/武士ガー)「シムクガマ」の北東側に「ミーガー(新ガー)」があり「波平集落」で最も新しい井戸である為、この名前が付けられました。「ミーガー」の西側には「イリヌカー(西之カー)」と呼ばれる井戸があり、屋号「亀倉根」の屋敷前にあるの為「亀倉根前(カミークランニーメー)のカー」とも呼ばれます。「イリヌカー」の北西側にある「ブシガー(武士ガー)」はフンシークミヤー(風水師)により「この井戸の水を飲むと武士が沢山生まれ、争い事が絶えなくなる」と告げられました。その後、住民はこの井戸の水を飲まなくなり「波平集落」から乱暴者がいなくなったと伝わります。集落では「シーダカサン(霊力が高い)」との理由で昔から「ブシガー」の整備が行われていないそうです。(イングェーガマ)(イングェーガマの上部)「波平集落」の北西端に「イングェーガマ」と呼ばれるガマ(洞窟)があります。このガマは沖縄戦で住民が悲劇の集団自決をした「チビチリガマ」の南側約50mの位置にあり、現在はフェンスで囲まれています。アメリカ軍が沖縄本島に上陸したその日「イングェーガマ」に避難していた住民は、アメリカ兵の「コロサナイ、デテキナサイ」という日本語での要求に応じてガマから出て収容されました。その中の1人が「チビチリガマ」まで行きガマに避難している住民にも投降するよう呼びかけたという話が伝わっています。「イングェー」という名前の由来は、昔何日も雨が降らず厳しい水不足で困っている時、びしょ濡れのイヌが出てきた事からこのガマが発見され、イヌ(イン)の井戸(ガー)から「インガー」と呼ばれ、その後「イングェー」へと変化したと伝えられています。(大当原貝塚)(大当原貝塚の森)(イタビシ/板干瀬)「波平集落」の西海岸に「大当原貝塚」があり、内陸部の琉球石灰岩の岩陰に貝塚の森が広がっています。「大当原貝塚」は今から約2000年前から2500年前の埋葬方法を知る上で貴重な遺跡です。1972年と1989年に発掘調査が行われ、人間の頭骨が土器で覆われた状態で発掘されました。頭骨だけを選び分けて土器で覆う葬り方は非常に特徴的で重要な発見となりました。頭骨を覆っていた土器は底が尖り、粘土を重ねた凸凹が残るもので「大当原式土器」と呼ばれています。更に貝塚からは貝殻で作った網のおもり、貝殻の皿や腕輪も出土しています。貝塚の南側一帯の浜にはイタビシ(板干瀬)と呼ばれる地質学的に珍しい、海浜砂粒が自然に固まった「ビーチロック」が見られます。このように「波平集落」は多数の遺跡文化財の他にも自然豊かな集落として栄え、人々の暮らしと営みが昔から続いているのです。
2022.02.16
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(シムクガマ)沖縄本島中部の西海岸にある「読谷村波平(なみひら)」に「シムクガマ」と呼ばれるガマ(洞窟)があります。沖縄の言葉で「シム」は"下"「ク」は"向く"を意味し、谷の下にガマがあることから「シムクガマ」という名前が付きました。沖縄戦の1945(昭和20)年3月、アメリカ軍の空襲は日に日に激しくなり、艦砲射撃が開始されてから「波平集落」では約1,000人の住民が「シムクガマ」に避難するようになりました。そしてアメリカ軍の沖縄本島上陸の日、激しい爆撃の直後にアメリカ兵が住民が隠れている「シムクガマ」を発見してガマに迫って来たのです。(救命洞窟之碑)(シムクガマの鍾乳洞窟)アメリカ兵が銃を構えてガマの入口に現れると、人々は恐怖に襲われガマ内は大混乱に陥りました。死を覚悟しながら避難人はガマの奥へ逃げ込もうとしますが、約1,000人もの群衆で身動きが取れませんでした。その時、ハワイからの帰国者である比嘉平治さん(当時72歳)と比嘉平三さん(当時63歳)の2人が「アメリカーガー、チュォクルサンドー(アメリカ人は、人を殺さないよ)」と皆を必死になだめ始めました。するとガマに避難していた人々は説得に応じて投降し、約1,000人もの命が奇跡的に助かったのです。この事実に基づいて「波平集落」では、数多くの尊い命を救った2人の恩人達に感謝の意を込めてガマの入口に「救命洞窟之碑」を建立しました。(シムクガマ内部)(シムクガマ内部)(シムクガマ内部/北之天満金満宮の拝所)以前「波平集落」の区長をしていた比嘉さん(88歳)の話によると「シムクガマ」の洞窟内部を奥地に向かって流れ込む水は西海岸の海に流れ着く説があるそうです。かつて本土の研究機関が大規模なガマの調査を行い「シムクガマ」内部の奥深くまで探索しましたが、水が流れ進む場所を特定出来きませんでした。この水がアメリカ軍の猛攻撃から身を潜めた約1,000人もの命を繋いだ事は確かな事で、その命の水の行く先が未だに解明されない謎も「シムクガマ」の神秘となっています。ガマの入口の左奥には「波平御世神 二代天孫 北之天満金満宮」と記されたウコール(香炉)と霊石が祀られています。(シムクガマのガジュマル)(ガジュマル内部の拝所)(キジムナーガマ)「シムクガマ」入口の崖に高樹齢のガジュマルが無数の幹を伸ばしています。ガジュマルには神が宿ると言われており、この幹の内側にある琉球石灰岩の崖に開いた穴が拝所として祀られています。ガジュマルの根は水を求めて琉球石灰岩を貫通して岩の内部に伸びて行きます。「シムクガマ」内部の水路にも細長いガジュマルの根かが到達して水分を吸い込み、ガジュマル本体に命を注ぎ込みます。「シムクガマ」の東側に「キジムナーガマ」と呼ばれる小規模のガマ(洞窟)があり、沖縄戦では「波平集落」の5〜6世帯が避難していたと伝わります。(マチムトゥヌメー/松元の前のガジュマル)(チンマーサー)(ターターモー/多和田毛)「波平集落」の中央にある屋号「松元」の前には大きなガジュマルがあり「マチムトゥヌメー(松元の前)のガジュマル」と呼ばれています。道が二股に別れる三角形の場所は集落の若者が集まり、力石を持ち上げて競い合うなど憩いの場所でした。そこから北東側に立つ「チンマーサー」は「ウフイチンニー(大池根)」というアシビナー(遊び庭)跡の前にあり周囲には石が積まれています。かつては青年達の集会の際に待ち合わせ場所としてよく利用されていました。「波平集落」の東側にある「ターターモー(多和田毛)」は集落の創建に関わった「ターターチョーデー(多和田兄弟)」が居住した地として聖域と崇められています。(神アサギ)(シーシヤー/獅子屋)「波平公民館」の北側に「神アサギ」があります。戦前は「アタトーヤー」という瓦葺の建物があり、その敷地を「神アサギモー」と呼んでいました。「波平集落」の祭祀は「座喜味ノロ」の管轄で、「神アサギ」はウマチー(豊作祈願/収穫祭)に訪れた「座喜味ノロ」が休憩する神聖な場所でした。さらに「波平公民館」の西側に「シーシヤー(獅子屋)」の建物があり「波平集落」の守り神である獅子を納めています。旧暦8月15日の「ジュウグヤー(十五夜)」の観月会に合わせて「シーシヤー」から獅子を迎える「ウンチケー(お迎え)」を行なっています。現在の「シーシヤー」は1990(平成2)年の午年に建立されました。(アラグシクハンジャ/新城波平)(アラグシクハンジャの位牌)(ハンジャウフヌシ/波平大主之墓)16世紀頃に屋号「イリグェー(西桑江)」と呼ばれる家がこの地に住みついたのが「波平集落」の始まりとされています。その後「マチトゥキシー(松渡慶次)」「アラカキ(新垣)」「ウシムンナン(牛百名)」「アガリグェー(東桑江」「アガリマチダ(東松田)」「マチムトゥ(松元)」のナナチネー(七世帯)に「ターターチョーデー(多和田兄弟)」が加わり村造りがなされたと伝わります。その後「ウシムンナン(牛百名)」が「アラグシクハンジャ(新城波平)」となりました。かつてニーヤ(根屋)である「イリグェー(西桑江)」の上座敷には「波平集落」を治めていた「ハンジャウフヌシ(波平大主)」が祀られ、下座敷にはヒヌカン(火之神)が設置されていました。「ハンジャウフヌシ(波平大主)之墓」は集落の西側にあり「清明祭」で拝まれています。(アガリジョウ/東門)(ハタクンジマーチ/旗括立松2世)「アガリジョー(東門)」は「波平集落」の東の入口にあるアシビナー(遊び庭)で、旧暦7月16日の旧盆行事では「波平棒」と呼ばれる棒術やエイサーが披露されます。また旧暦8月15日の「ジュウグヤー(十五夜)」の観月会では、昔から継承される獅子舞や舞踊など25種類もの演目が披露されます。「アガリジョー」の一角には戦前からムラアシビ(村遊び)の際に「波平集落」の象徴である旗頭を立てる「ハタクンジマーチ(旗括立松)」がありました。現在の松は二代目であり「ハタクンジマーチ2世」と呼ばれ、集落の伝統行事が大切に継承され続けています。(カーヌイー/川之上の石屋)(トゥカーチョンナー/戸加喜友名の石屋)(マチムトゥイリ/松元西の石屋)(神アサギ/神阿佐木の石屋)「波平集落」には「イシヤー(石屋)」と呼ばれる石板で造られた祠が点在しており、沖縄で多く見られる「ビジュル(霊石)」の役割があるとされています。集落には「カーヌイー(川之上)の石屋」「トゥカーチョンナー(戸加喜友名)の石屋」「マチムトゥイリ(松元西)の石屋」「神アサギ(神阿佐木)の石屋」の4つの「イシヤー」があり、旧暦9月9日の「菊酒」にちなんで拝まれています。更に「神アサギの石屋」は正月のハチウガン(初御願)の際にも拝まれています。「ビジュル」とは主に沖縄本島でみられる「霊石信仰」で豊作、豊漁、子授けなど様々な祈願がなされています。16羅漢の1つの賓頭盧(びんずる)がなまった言い方で自然石を神と崇めて大切に祀られています。
2022.02.11
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(三重グスク/大河ドラマ「琉球の風」ロケ地)「高志保集落」は沖縄本島読谷村の北西部に位置し、西海岸から内陸部に細長く広がる集落となっています。通称「タカシップ」と呼ばれる「高志保集落」は読谷村でも古い集落の1つで「琉球国高究張(1640年代)」に「たか志ふ村」と記載されています。海岸に位置する7〜8世紀頃の遺跡である「連道原貝塚」からは、唐の貨幣である「開元通宝」が出土されている歴史の長い集落です。(高志保集落の中道/南の入り口)(ハタクンジマーチ2世)「高志保集落」の中心に「中道(ナカミチ)」という主要道路が通じています。南の入り口は読谷小学校裏の読谷郵便局前となっており「中道」は「高志保公民館」に続いていきます。公民館に隣接する「護永之塔」の広場には「ハタクンジマーチ2世」と呼ばれる琉球松(マーチ)があり、集落の旗頭「高翔」が掲げられます。「高志保集落」の伝統と心意気の素晴らしさや、住民が志を高く保ち空高く翔る昇龍の如く天に向かう限りない「高志保」の発展への強い思いが込められています。(前之泉/メーヌカー)(前之泉の社内部)公民館脇に「高志保児童公園」があり敷地内に「前之泉」の社があります。「メーヌカー」とも呼ばれ埋め立て前は降泉(ウリカー)となっていました。「高志保集落」の生活を支えた水の恵みに感謝して現在も多くの参拝者が来訪します。かつて周辺には飲料水の「東之泉(アガリヌカー)」産水の「中之泉(ナカヌカー)」洗濯用の「西之泉(イリヌカー)」があり、社の内部には「前之泉」の井戸と共に3つの泉を祀った霊石と"奉納"と記されたウコール(香炉)が設置されています。(女の神/ミンの神)(根人玉城家の拝所/ニッチュタマグシク家の拝所)「前之泉」の北側に「女(ミン)の神」が祀られており「ミンヌオー」とも呼ばれています。詳細は不明のままですが集落の発祥に関わる根神(ニガン)と関連していると伝わります。「女(ミン)の神」の北東に「根人玉城(ニッチュタマグシク)家の拝所」があり「高志保集落」で最も古い家とされる「玉城家」の屋敷跡です。祠内には2基のウコール(香炉)と数個の霊石が祀られており、現在は集落により管理され住民により拝まれています。(西南風佐事家の拝所/イリヘンサジ家の拝所)(東南風佐事家前の火の神/アガリヘンサジ前のヒヌカン)「女(ミン)の神」の北側に「西南風佐事(アガリヘンサジ)家の拝所」があり「高志保」の元処(ムートゥドゥクル)とされる家です。「高志保」の発祥に関わる先祖が祀られており、旧暦7月16日の「旗スガシー」と呼ばれる五穀豊穣と無病息災を祈願する伝統行事は、この拝所に祈りを捧げてから開始されます。また、南東側にある「東南風佐事(アガリヘンサジ)家前の火の神(ヒヌカン)」には霊石とウコール(香炉)が祀られ、集落の守り神として住民に大切に祈られています。(高志保の御嶽/ウタキ)(神アサギの広場)「高志保集落」の北側に「御嶽(ウタキ)」があり、戦前は瓦葺の御神屋(ウカミヤ)がありました。この地は「高志保」の人々が最も頼りとする神聖な場所であり最上位の拝所となっています。「御嶽」東側の広場は「神アサギ」跡となっており、首里王府編纂による「琉球国由来記」(1713年)には「高志保之殿」と記されています。戦前は「神アサギ」の広場がムラアシビ(豊年感謝祭)のスーダチ(打合せ/所作合わせ)の場となっていました。(鎮守神/大明神)(不動尊)(前寺神/後寺神)「不動尊」は元々「高志保集落」の3箇所にあり「カンカー祈願」の際にフーチゲーシ(流行病の厄払い)の祈願をしていました。戦後「護永之塔」の敷地に3つの「不動尊」の祠が安置された後、1968(昭和43)年に「御嶽」の社に移設されたのです。かつてこの地には「乃木神社」が建立されていた歴史があり、現在「御嶽」の社には東側から「鎮守神」「大明神」「不動尊」「不動尊」「不動尊」「前寺神」「後寺神」の7つの神々が祀られており、集落の住民により大切に崇められています。(高志保集落の中道/北の入り口)(龕屋/ガンヤー跡石碑)かつては綱引きも行われて賑わった集落の大通りである「高志保集落の中道」の北の入り口は県道6号線の読谷クリーニング店の位置にあります。北の入り口から西側に「龕屋(ガンヤー)跡石碑」が建立されています。火葬が普及する前は葬儀を終えた遺体は棺に収め、龕(ガン)と呼ばれる御輿に載せて墓に運びました。この地には龕を収める龕屋があり、役目を終えたその跡地には石碑が造られ歴史的価値を偲ぶ場となっています。(さとうきび畑の歌碑)(さとうきび畑の歌が流れるボタン)「高志保集落」西側に広がる農地に「さとうきび畑の歌碑」が建立されています。作曲家の寺島尚彦氏が作詞作曲し、森山良子さんにより歌われた有名な曲です。寺島尚彦氏が初めて沖縄を訪れ、沖縄戦の激戦地であった「摩文仁(まぶに)」のさとうきび畑を訪れた体験を元に作られた名曲です。読谷村は米軍が最初に沖縄に上陸した地として、この歌碑は読谷村に寄贈されたのです。緑色のボタンを押すと寺島尚彦氏の娘でソプラノ歌手の寺島夕紗子さんによる「さとうきび畑」の歌が流れます。(歌碑周辺に広がるさとうきび畑)「さとうきび畑の歌碑」の周辺一帯は広大なさとうきび畑が広がっています。西海岸からの海風が「ざわわ ざわわ ざわわ」と通り抜けます。「さとうきび畑の歌碑」には「ざわわ憲章」が表明されています。♪ 歌碑は、いくさのない世界を目指すために活用します。♪ 歌碑は、こどもたちの平和な心を育みために活用します。♪ 歌碑は、戦没者の無念の思いを後世に伝えるために活用します。♪ 歌碑は、沖縄に点在する平和学習の場のひとつとして活用します。♪ 歌碑は、さとうきび畑の自然景観を守るために活用します。♪ 歌碑は、作者が詩と曲に込めた平和の精神を歌い継ぐために活用します。(三重グスク/復元)(三重グスクの海中堤防)「高志保集落」の最西端の浜に「三重グスク(ミーグスク)」が復元されています。かつて琉球王国時代に現在の那覇港の北側に「三重グスク」があり、砲台を構えた城塞として造られましたが、時代の移り変わりにより那覇港を出港する船の見送り台として役割を変えました。NHK大河ドラマ「琉球の風」(1993年放送)のロケ地として「高志保」の浜に再現されました。また、角川文庫の小説「テンペスト」(2008年発行)でも「三重グスク」がストーリー展開の上で重要な役割を持っています。(三重グスクの主郭)(三重グスク/主郭内部)更に「三重グスク」の主郭は、沖縄出身の女性ダンスボーカルグループ「MAX」の曲「ニライカナイ」(2005年発売)のPVロケ地としても知られています。琉球王国の歴史に欠かせない「三重グスク」が読谷村「高志保」に見事な形で復元され、琉球の歴史を語る上で非常に貴重な有形文化財となっています。「三重グスク」に吹き抜ける西海岸からの"琉球の風"を感じながら、古き良き琉球王国の時代にタイムスリップできる最高のパワースポットとなっているのです。
2021.09.23
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(残波岬公園)「宇座集落」は沖縄本島西海岸にある読谷村の北端に位置し、全体的に東高西低のなだらかな傾斜の地形をしています。海に迫り出した残波岬は観光地として有名で、その北側の海岸線は断崖絶壁で南西側には広い砂浜海岸のイノー(礁池)が広がっています。豊富な漁場と水源に恵まれた農地で「宇座集落」は"半農半漁"の村として栄えました。また「宇座集落」には拝所やカー(井泉)が多く存在し、旧暦1月の初御願(ハチウガン)や12月24日の解御願(フトゥチウガン)で十三箇所が拝まれています。(神アサギ)「宇座集落」の中心部に「神アサギ」があります。戦前までは小高く盛り上がった地形になっており、当初は神殿は無く広場のみ存在した。後に四本柱の瓦葺の小屋が建てられましたが、壁も床もなく軒の低い簡易様式でした。かつては「瀬名波集落」からノロ(祝女)が訪れ「宇座集落」の山内門中や与久田門中の神人も加わり祭祀が執り行われていました。現在「神アサギ」の祠には神を祀る三体の霊石が設置されヒヌカン(火ヌ神)として祀られています。(西井戸/イリガー)(男井戸/イキガガー)「神アサギ」の西側に「西井戸(イリガー)」があります。「宇座集落」の産井(ウブガー)でもあり、この井戸で出産の報告と赤子の健康を祈願しました。与久田門中に伝わる伝承では「義本王(舜天王統最後の王/在位1249~1259年)」が与久田の屋敷に逗留し漁の帰りにここで網を洗ったことから「網洗井戸(アミアレーガー)」とも呼ばれます。さらに西側には「男井戸(イキガガー)」があり、かつては畑仕事や海からの帰りに手足を洗ったり水浴した井戸でした。戦後、米軍基地建設により埋立てられましたが、1979年に井戸跡を掘り当ててタンクを設置し、水の神様を祀る拝所となりました。(ワランジャ井戸/ワランジャガー)(松田井戸)「ワランジャ井戸(ワランジャガー)」は「宇座集落」の南西部にあり、1846~1854年の間に沖縄に滞在したハンガリー出身のキリスト教宣教師で医師でもある「バーナード・ジャン・ベッテルハイム」が宇座を訪れ、ここの水を飲んだという伝説が残る井戸です。また、集落南部には「松田井戸」があります。この井戸がある場所にはかつて「宇座集落」の発祥とされる「松田シマ(集落)」があり、この住民により利用された井戸だとされています。ちなみに「琉球国由来記(1713年)」には「松田」の名が記載されています。(スヌメー殿内/スヌメードゥンチ)「宇座集落」の南東部に「スヌメー殿内(ドゥンチ)」があります。「宇座集落」の拝所の中で第一の拝所とされ、セジ(霊力)の高い神であると言われています。集落の大きな行事や対外行事の際には、先ずここに拝みに行く慣わしとなっていました。「スヌメー殿内」は「宇座集落」発祥の七家の一つである「クニシー」が最初に仮の住居をここに構えた場所であると伝わります。戦前までこの地には松の大木が茂っており、昼でも暗く物静かで神々しい雰囲気に包まれる聖域でした。祠内には霊石とウコール(香炉)が祀られています。(東井戸/アガリガー)(石小堀/イシグムイ)「東井戸(アガリガー)」は「宇座集落」の東部にあります。かつては正月の若水を汲む井戸であり、飲料水として利用されたために水浴や洗濯は厳禁でした。「宇座集落」では最も古いカー(井戸)の一つとされており「西井戸(イリガー)」と同様に、形状は切石を丁寧に積んだもので保存状態が良好な石造建築物です。更に東側には「石小堀(イシグムイ)」と呼ばれる井泉があります。現在は草木に覆われていますが、岩の下から清水が湧いており、その水を溜めてクムイ(ため池)を作っています。(クニシーの御神)(百次シー/ムンナンシー)「クニシーの御神」は「神アサギ」の東側に位置します。「クニシー」と呼ばれた人は最初「スヌメー殿内」で生活し、その後そこから150mほど西方の場所に屋敷を構えて新しい村づくりを始めたと伝わります。屋敷跡には「クニシーの御神」として祈られており、建物内部にはウコール(香炉)や霊石が祀られています。その西側には「百次シー(ムンナンシー)」があり「百次シー」屋敷跡の一画に祠がつくられています。祠内にはウコール(香炉)、花瓶、茶碗が供えられています。(鍋之甲/ナービナク)(鍋之甲の内部)「百次シー屋敷跡」の北側に隣接して「鍋之甲」があります。首里王府が派遣した鍛冶職であったのか、以前から宇座に住んだ人であったのか不明ですが、鉄器や農具の製作や修繕を行った家です。絶家した後も屋敷地や墓地は「宇座集落」が拝所として管理してきました。現在も屋敷には位牌が祀られ、毎年旧盆と大晦日(トゥシヌユール)には集落の役員によって祈られています。建物内部には5つのヒヌカン(火ヌ神)と霊石が祀られています。(宇座グシク)(鍋之甲墓)(二重兼久鍋之甲墓/クニシーの墓/無縁墓)「鍋之甲墓」は「宇座集落」の北部にある「宇座グシク」の北側にあります。隣接して儀間の二重兼久(ティーガ ニク)から移転された「鍋之甲(パーパー/お婆さん)の墓」や「クニシーの墓」があり「無縁墓」も同じ場所に祀られています。「宇座グシク」は支配者の居城や集落ではなく、葬所や古墓を由来とする聖域としてのグシクです。他にもグシク周辺には「宇座集落」で一番の金持ちであった「宇座イェーキ」の墓をはじめ多くの墓が位置しています。(東ノ神之屋/アガリヌカミヌヤー)(東ノ神之屋の霊碑)(東ノ神之屋の霊石)「宇座集落」の北端側には「残波岬公園」があり、公園の最東端の断崖絶壁に「東ノ神之屋(アガリヌカミヌヤー)」と呼ばれる航海安全を祈願する拝所があります。「東ノ神之屋」は絶壁の中腹にある自然洞窟を利用した拝所で、ニライカナイ(理想郷)に通じる聖域とも言われています。拝所には3基(天・地・海)の霊碑が建立されており、それぞれ石造りのウコール(香炉)と霊石が祀られています。「東ノ神之屋」と記された石碑にもウコールが設置されて拝まれています。(南妙法蓮華経の石碑)(潮吹穴/スーフチガマ)(西ノ神之屋/イリヌカミヌヤー)「東ノ神之屋」の西側の岬に「南妙法蓮華経」の石碑が祀られています。石碑の裏側には「日本山妙法寺」と彫られています。「残波岬公園」の中央にある「潮吹穴(スーフチガマ)」は海に通じる竪穴の洞穴で、かつては海が荒れると空高く潮を吹き上げました。更に西側には「西ノ神之屋(イリヌカミヌヤー)」の祠があり「東ノ神之屋」と対になる拝所となっています。航海安全や武運長久を祈願した拝所で、両神之屋はかつて芝生道(神道)で繋がっていました。(泉井戸/イジュンガー)(北浜屋原のマチ矼)「宇座グスク」の北側にある「泉井戸(イジュンガー)」は1879年(明治12年)の廃藩置県以後、首里から移り住んだ崎原屋取の人々が使用した井戸です。「宇座集落」の西部に「北浜屋原のマチ矼」と呼ばれるアーチ形状の矼があります。設計から施工まで「宇座集落」の人々を中心に行われ、石材は隣接する宇座海岸から切り出された宇座石が使用されました。技術や材料ともに宇座が生み出した石造建築物で、アーチ部分は崩れることなく矼の美しい形を現在に伝え、当時の石工技術の高さを知ることができます。(残波岬公園の大岩)沖縄戦後「宇座集落」の全域が米軍基地として接収されたため住民は「長浜」「高志保」地域へ集団移住を余儀なくされました。それから約30年後の1976年に米軍基地が返還されると、土地改良事業により整備されて集落は復帰先地公共施設整備事業(道路、水道、排水路など)により生活の基盤が整えられました。その後、宇座農村公園や拝所の整備も行われ、住民念願の生まれ故郷への復帰と帰住が現在も進んでいます。「宇座集落」の本当の意味での「終戦」を一日も早く迎えて欲しいと心から望んでいます。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2021.07.03
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(旧古堅國民學校跡のデイゴ)沖縄本島中部の西海岸に読谷村「古堅(ふるげん)集落」があります。「古堅集落」は沖縄最古の歌謡集「おもろさうし」に「ふるけものろのふし(古堅ノロの節)」と登場し「古堅」の創始は今帰仁按司系統との伝承が残ります。「古堅集落」の南側には戦前「南沖縄八景」に選ばれた比謝川渓流があり、かつては川に回転橋(現在の比謝川大橋)が架かっていました。また、対岸にある嘉手納製糖工場へのサトウキビ運搬用トロッコレールが敷かれていた長閑な風景が広がっていたのです。(古堅ガー/ウブガー)「古堅集落」の最東端にある「ウブガー」と「ミーガー」の2つを総称して「古堅ガー」と呼ばれ、戦前まで「古堅集落」の人々の飲料水や生活用水として重宝されました。「ウブガー(産井)」は隣接する「ミーガー」よりも先に造られた井泉です。この井泉では産湯用に水が汲まれ、その水で赤子の額を撫でる「ミジナディー(水撫で)」の儀式を行う習慣がありました。更に、産湯を汲む際に小さなエビを捕らえてきて、赤子の身体に這わせて健康の祈願が行われていました。(古堅ガー/ミーガー)(ヒージャーガーグヮーの石碑)「ミーガー(新井)」は1923年(大正12年)頃に造営されたと伝わりますが、明治時代から存在していた説もあります。水量が豊富で「古堅集落」の人々の生活用水として利用されていました。かつて妊婦の夫たちが浜辺から砂利を運んできて井泉の底に沈める「カーソウジ」と呼ばれる儀式を行い水を清めました。「ヒージャーガーグヮー」は元々「古堅ガー」から100メートル程にある比謝川と合流する場所にありましたが、現在は「ミーガー」の手前に拝所として石碑が建てられウコール(香炉)が設置されています。(ビジュル)「古堅ガー」の西側に隣接する場所に人型をした「ビジュル」があり、ウコール(香炉)が設置された拝所となっています。「古堅集落」の最東端で東側に向いて建てられる「ビジュル」は読谷村大湾方面から入ってくる厄災を防ぐ悪風返しの祈願所とされています。また、この「ビジュル」では豊作、子授け、子供の健康などを祈願する「古堅集落」で非常に重要な聖域として崇められてきました。石碑には微かに「不動明王」の文字が彫られており、厄除開運、健康長寿、商売繁昌、学業成就などに御利益があると考えられます。(仲宗根屋敷跡)(仲宗根カー)「ビジュル」の北側に「仲宗根屋敷跡」と「仲宗根カー」があります。「古堅集落」の発祥に関わる仲宗根家の屋敷跡で「仲宗根カー」は屋敷の敷地内にあります。「仲宗根カー」は井泉として水を汲む為に造られたものではなく「古堅集落」の創始である今帰仁按司の出身地である今帰仁に向かって遥拝するために造られた井泉だと伝わります。いわゆる「根屋(ニーヤー)」の「根人(ニーチュ)」である仲宗根家の屋敷は、集落根源の今帰仁と繋がる聖地として住民に崇められていました。(古堅ノロ之墓)「ビジュル」から西に進むと比謝川沿いの丘稜の中腹に「ノロ之墓」があります。「古堅集落」の歴代ノロ(祝女)が祀られる墓で「ヌール墓」とも呼ばれています。「ノロ」は主に神様が暮らすとされる「ニライカナイ」の神々や、その地域の守護神と交信するのに対し「ユタ」は霊、心霊、死霊と交信します。「ノロ」は琉球王府により各地に整備設置された「神人(カミンチュ)」職です。琉球神道における女性の祭司や神官で、集落の祭祀を取りしきり御嶽の祭祀を司る重要な役割がありました。(シーシヤー/獅子屋)「古堅集落」の南東部にある「シーシヤー(獅子屋)」は「ハタスガシー」(旧暦7月16日)に演舞される獅子舞の獅子を安置する場所です。獅子は集落の守り神とされ、獅子舞が演じられる際には集落の役員や演者たちがここを拝みます。「古堅」の獅子や獅子舞がいつ頃からあったかは定かではありませんが、伝承によると「古堅」の獅子は隣接する「大湾集落」の「ガン(遺体の収まった棺桶を運ぶ赤塗りの輿)」と夫婦一対で「古堅」の獅子が雄で「大湾」の「ガン」が雌であると言われています。(カンカーモー)「古堅集落」の東部に「カンカーモー」と呼ばれる森があります。集落の災厄を防ぐため毎年旧暦10月初庚の日に「カンカー(シマクサラシ)」を行い牛をこの場所で殺して肉を獲りました。牛をさばく際に牛の鼻綱をつないだ穴の開いた大きな石が現在も残っています。沖縄では「カンカー」の際に牛の他に豚を殺して骨や肉片を左巻きの縄にくくりつけ、集落の四方の入り口に設置して集落の外から悪霊の侵入を防ぎました。ちなみに「カンカー」とは「見張る」という意味で、厄病などが集落に入るのを見張る役目がありました。(イリイーの宮/西上の宮)(ヒヌカン/村の火ヌ神)「古堅集落」の北東部に「イリイー(西上)の宮」があります。コンクリート製の祠の入り口に2本の門柱が建てられています。「イリイーの宮」は「古堅」の「守り神」とされ、旧暦1月7日の「ナンカヌシークー」と呼ばれる「世果報拝み」で集落の住民に祈られています。「イリイーの宮」の西側に祀られている「ヒヌカン」は「村の火ヌ神」とも呼ばれ祠には霊石とウコール(香炉)が祀られています。「ヒヌカン」は「ナンカヌシークー」に集落の役員によって「古堅」の繁栄と五穀豊穣を祈願して拝まれています。(ウタキ/ウグヮン)(古堅ウグヮンのフクギ)「ウタキ/ウグヮン」は「古堅集落」の北東部に位置し、戦前はフクギや種々の樹木が多数生い茂っていました。「古堅集落」の「鎮守の神」として「ナンカヌシークー」には集落の役員によって拝まれています。かつては干ばつの際に雨乞いの祈願もなされ「雨乞ウタキ」とも称されました。祠内には2つのビジュル岩、3つの霊石、3基のウコール(香炉)が祀られています。また「古堅ウグヮンのフクギ」は「ウタキ/ウグヮン」の敷地内にある数本のフクギの事で、そのうちの一本は樹齢約300年を超える見事なフクギとして「沖縄の名木百選」に選定されています。(慰霊之碑/生き残ったフクギ)「ウタキ/ウグヮン」の敷地内に沖縄戦で命を落とした古堅区戦没者御芳名が刻まれた「慰霊之碑」が2002年に建立されました。毎年6月23日には集落主催の慰霊祭が執り行われ沢山の人々に拝まれています。更に「生き残ったフクギ」と呼ばれるフクギが「慰霊之碑」に向かって右側にあります。戦前は敷地内に多くの木が生えていましたが激しい戦火で大部分が消失しました。「生き残ったフクギ」は幹を焼かれ半ば空洞化しましたが奇跡的に現在まで生き永らえ、沖縄戦の戦禍を語る生き証人としてそびえ立っています。(旧古堅國民學校跡のデイゴ)(旧古堅國民學校/古堅青年學校校門の門柱)(旧古堅國民學校の国旗掲揚台)「古堅集落」中心部の北側に「旧古堅國民學校跡」があります。沖縄戦により戦禍を受けた校門の門柱とその一帯が整備されています。校門の位置や向きは当時とは異なるものの門柱の形状、左右の間隔、門札の校名表示等はほぼ元通りに復元されています。校門前にあったデイゴは奇跡的に戦禍をまぬがれ、樹齢100年を超える「沖縄の名木百選」に選定されました。敷地の奥には「旧古堅國民學校/古堅尋常高等小學校の国旗掲揚台」が状態が良い形で残されています。(比謝川大橋)(旧トロッコレール跡)「古堅集落」南部の嘉手納町と隣接する比謝川に「比謝川大橋」が架かっています。現在も「回転橋」の名称で親しまれる「比謝川大橋」は1991年に架橋され「大木―水釜線」として整備されて読谷村の新たな南玄関となりました。 戦前は読谷村からのサトウキビ運搬用のトロッコを通すために旧嘉手納製糖工場が架けた橋でした。船が比謝川をのぼって比謝橋まで通行していたので、それらの船を通過させるため当初は開閉式の橋でした。しかし、後に橋の一部が回転する仕組みになり「回転橋」と呼ばれるようになったのです。(池原子終焉乃地)戦後、米軍に接収された「古堅集落」は「モーガンマナー住宅地」と呼ばれる米軍人や軍属家族用居住地として使用されました。そのため集落の住民は自由に集落へと戻ることができず、古堅差門原(サシジョーバル)と大湾西原(イリバル)の一部に集団移転させられました。「古堅集落」は1977年にようやく返還されましたが、長期に渡る軍用地としての使用により土地の境界が不明瞭で、返還後もその利用を巡って大変な困難に直面していたのです。元の集落での生活を回復させるまでは相当の時間を要しましたが、1990年に古堅地区土地区画整理事業が完了し「古堅集落」は新たな住宅地として生まれ変わったのです。
2021.06.28
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(喜名番所)沖縄本島中部の西海岸沿いに読谷(よみたん)村があります。読谷村の西側に「喜名集落」があり、国道58号線を中心に西側に住宅地、東側は米軍嘉手納弾薬庫地区の森に覆われています。「喜名(チナー)」の歴史は古く琉球最古の歌謡集「おもろさうし」には「きなわ」の名前で登場し、各村の生産高を示した17世紀の文献「琉球国高究張」には「喜那村」と記載されています。「ムトゥチナー」「ニシンダムラ」「シミチムラ」の3つの村が統合して「喜名村」になったと伝わります。(読谷山村道路元標)「道路元標」とは1933年に公布された道路法により、全国の各市町村に一つづつ設置されたもので市町村における道路の基準点を示す石標です。沖縄でも各市町村に「道路元標」が設置されていましたが、そのほとんどが沖縄戦で失われてしまいました。「喜名番所」の入り口に設置された「読谷山村道路元標」も旧道路法の規定に基づいて一辺が25センチ、高さが60センチの四角柱で、かつての街道に向けて建てられています。(喜名番所/読谷山役場跡)「番所」とは間切(まぎり)と呼ばれる琉球王国時代の地方行政区に置かれた拠点施設で、現在の役場に相当します。「喜名集落」は首里と国頭(くにがみ)地域の中間にあります。徒歩で双方の地域から朝に出発するとちょうど夕方頃に着く地域的位置であったため、旅人が宿を求める宿場町として賑わいました。その交通の要の地点として「喜名番所」が置かれ、1853年には来沖したペリー提督の調査隊一行もこの番所を訪れた記録が残されています。(読谷村教育発祥の地碑)「喜名番所」の北側に「読谷村立喜名小学校/幼稚園」があり、敷地の東側に「読谷村教育発祥の地碑」が建立されています。1882年(明治15年)、この地に「読谷山小学校」が読谷村内最初の公的教育機関として開校し、村中の子供達がこの学校に通いました。戦後は小中併置の「喜名初中等学校」として認可され、後に村内最初の高校がこの地に「コザ高校喜名分校」として設立されました。この分校はその後「読谷高校」として独立認可され、現在地(読谷村伊良皆)に移転したのです。(山吹の碑)(梯梧之塔)(さくら之塔)「喜名集落」北部で国道58号線沿いの丘に「山吹の碑」「梯梧之塔」「さくら之塔」の慰霊碑が建立されており、日露戦争、支那事変、沖縄戦において戦死した戦没者の氏名が刻まれています。「梯梧之塔」には「さきほこる はなびらちりし でいごじゅに くれないそめて なつはきにけり」と謳われ、「さくら之塔」には「やまざくら あらしにちるも はるくれば いろかはたかく さとにみなぎる」という詩が刻まれています。この地には旧日本陸軍や海軍の兵士のみならず、沖縄の無名戦没者の魂も祀られています。(喜名古窯跡)(喜名古窯跡の内部)「喜名古窯(喜名焼)」は沖縄の代表的な古窯の一つで、壺、甕、厨子甕、鉢などの様々な種類の器が現代に伝わっています。1250〜1280度の高温で焼かれ、固く焼き締まっているのが「喜名焼」の特徴です。15〜16世紀に行われた南蛮貿易の中で、泡盛のルーツと言われるシャム(タイ)の蒸留酒「ラオロン」と共に甕の製造技術が沖縄に伝わったとされています。「康𤋮九年(1670年)」の銘書がある「喜名焼厨子甕」が発見されており、沖縄県立博物館に所蔵されています。(マチガー/松川井)「喜名集落」の北西地区は「松川原」と呼ばれ、喜名小学校の北西側に「マチガー/松川井」があります。かつて「松川原」地区の住民の飲料水として重宝されてきました。現在の井戸はコンクリート製の蓋で閉じられていますがウコール(香炉)が設置されており、お賽銭が供えられ住民が水への感謝と神に祈る拝所となっています。ちなみに「松川原」の南側は「中原」地区があり、集落の西側は「喜名原」「前原」「中地原」「東原」「西平原」「後間原」地区に分かれています。(喜名観音堂)(土帝君/トゥーティークー)喜名小学校の西側に「喜名観音堂」と「土帝君」が祀られる聖域があります。「喜名観音堂」は1841年の旧暦9月18日に金武町の「観音寺」より勧請したもので、建物は瓦葺で四周は石が積まれ内部には千手観音が祀られていました。現在でも旧暦の9月18日には「喜名集落」の住民により観音堂拝みが行われています。観音堂の西側には農業の守護神である「土帝君」が祀った石造りの祠があります。祠内には霊石、ウコール、花瓶が設置されており、集落の住民により大切に祈られています。(ボージガー/坊主ガー)「喜名観音堂」の西側に「ボージガー/坊主ガー」があります。第17代琉球国王「尚こう王」が退任後、坊主御主として隠居生活を「喜名」で送っていました。この井戸は1822年から1827年頃に造られたと伝わります。戦前まで井戸の前は馬車も通れる大きな道があり、水を汲む馬車が行き交う活気ある場所でした。井戸の造りは石積みで囲った長方形をしており、釣瓶を使用せずに直接水を汲む方式でした。また「喜名集落」にはこの井戸の他にも「坊主カー」や「坊主チー」など坊主御主にまつわる多数の言い伝えが残されています。(西原屋取西井戸之跡の碑)(西原屋取東井戸之跡の碑)「喜名集落」の西側にある「伊良皆集落」の「西原地区」と隣接する場所に「西原屋取西井戸之跡の碑」と「西原屋取東井戸之跡の碑」が建立されています。「屋取(ヤードゥイ)」とは士族の帰農によって沖縄本島の各地で形成された小村落のことで、 18世紀の初頭に政治/経済/文化の中心地域であった首里から沖縄本島の農村地域に「良人(ユカッチュ)」と呼ばれる士族の人口移動がおこなわれました。「西原地区」の「屋取」が使用していた井戸跡として現在は石碑が建てられています。(喜名公民館)(番前池跡)現在「喜名公民館」がある場所はかつてトロッコ列車の駅があった場所で、公民館の建物の手前にある長方形の場所が正に駅の起点と終点でした。「喜名集落」周辺で収穫されたサトウキビはこの地に集められ、トロッコ列車に積まれて「嘉手納製糖工場」に運搬されました。トロッコ列車の駅の向かいには「番前池跡」があり「喜名番所」にほど近い場所に造られた溜池として水源を確保していました。現在は「喜名集落の木」として愛される楠木が記念木として植えられています。(喜名馬場跡の南側入り口)(喜名馬場跡の北側入り口)国道58号線沿いに「喜名番所」を中心に南北に300メートルほど延びる旧道一帯は「チナーンマイー(喜名馬場)跡」と呼ばれ、かつて「喜名ウマイー/ンマイー(馬追い)」という「琉球競馬」が行われた馬場跡があります。明治末期頃まで盛んに「与那国馬」による競馬が行われており「琉球競馬」は馬の速さを競うものではなく、馬の走り方の美しさを競うものでした。戦前までは道の両側にあった大きな琉球松がその名残りを留めていたのです。現在は「喜名大通り」の名で親しまれ、数多くの飲食店や駐車場が整備されています。(西森御嶽/ニシムイウタキ)「喜名集落」の東側は米軍嘉手納弾薬庫のフェンスが南北に横断しており「西平原」と「東原」地区には立ち入りができませんが、フェンスに隣接して「西森御嶽(ニシムイウタキ)」があります。この御嶽がある周辺が「喜名集落」発祥の地とされており、御嶽の西側に旧家や祭祀場が位置しています。この場所から更に西に向かって村を切り開きムラウチ(集落)を形成して行きました。その後、水源を確保する湧き水や井戸が多数存在する現在の国道58号線沿いに人々が移り住んだと考えられます。(世立火の神/ヨダチヒヌカン)(逢拝所/ウトゥーシー)「西森御嶽」は「喜名」のノロや神人らによって祭祀がなされた神聖な場所であり、かつては一般の人々が立ち入る事が出来ませんでした。1713年に琉球王府によって編纂された「琉球国由来記」にも「喜名の御嶽」として記載されています。「西森御嶽」には石造りの祠が2つあり、西側の祠には「世立火の神」が祀られ東側の祠は「ウトゥーシー」と呼ばれる逢拝所となっています。この「ウトゥーシー」は「喜名集落」発祥の地である「ムートゥンナー」に向けて建てられています。旧暦12月24日の御嶽願に集落の無事や発展に感謝と祈念を込めて拝まれています。(郵便局跡)昔から多くの人々が行き交った「喜名集落」は他の地域からの流入者(寄留民)も多く、廃藩置県以降は地人(元からの住民)と寄留民による独特な村が形成されてきました。沖縄戦後「喜名集落」と周辺の耕作地が米軍に強制接収され、現在地への移転を余儀なくされました。しかし、戦後の混乱と困難の中でも「喜名」の精神である「和衷協力」の旗印のもとに先進的な村作りが営まれ、今日の「喜名集落」の発展を迎えているのです。
2021.06.20
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(字渡具知集落のムラヤー跡)沖縄本島中部西海岸に古い歴史を持つ読谷村「字渡具知集落」があり、約7000年前の縄文時代早期には集落の南東部に位置する「東原(あがりばる)」地域には既に人類が生活していました。伝承によると「字渡具知集落」の発祥は比謝川流域にある「渡具知東原遺跡」から更に東側にある「潟原(かたばる)」と呼ばれる地域(現在の読谷村古堅)に人々が住み始めた事とされています。「東原」にあった「ムラヤー/村屋」は現在で言う公民館にあたる建物で「字渡具知集落」の中心地で現在は「ムラヤー跡」の石碑があります。(東井戸/アガリガー)度重なる洪水で集落が流された事から、「字渡具知集落」発祥の家であるニーヤ(根屋)を残して現在の高台に移住しました。「ムラヤー」の北側に「東井戸(アガリガー)」があり、祠は東側に向けられて建てられています。「字渡具知集落」は中心地であった「東原」、現在の渡具知公民館がある「前原」、渡具知泊城がある「西原」、渡具知の浜周辺の「裏牛原」、その北側の「木綿原」、「前原」の北側に隣接する「中原」、そして更に北側にある「中道原」の7つの地区で構成されています。(渡具知東原遺跡)「字渡具知集落」南部を流れる比謝川のほとりある「渡具知東原遺跡」では沖縄で出土例がない曽畑式土器(熊本県周辺で出土される土器)が見つかり、その下の古い地層からは発掘当時(1975〜1977年)では沖縄最古の土器となる爪形文土器が見つかりました。「渡具知東原遺跡」の発見によって沖縄の土器文化の源流が約5000年前(縄文時代前期)の曽畑式土器に辿れる事がわかったのです。また、当時沖縄最古の土器として約7000年前(縄文時代早期)の爪形文土器の頃まで一気にさかのぼる事となり、沖縄考古学会では戦後最大の発見と称されました。(東原遺跡のチンガー)(東原遺跡の産井戸/ウブガー)「渡具知東原遺跡」の麓に「チンガー」があり「渡具知鎮御井戸」と彫られた石碑にはウコール(香炉)が設置されています。かつて「チンガー」はつるべ式井戸でしたが、現在は井戸跡のみ残されています。「チンガー」に向かって左側には古いニービ石造りの霊石が祀られています。更に左側には「産井戸(ウブガー)」が隣接しており、祠内には「産井戸」と記された石碑とウコールが祀られ、前方に半円型をした井戸跡があります。「東原」地区で子供が生まれると、この井戸から産水を汲んで健康祈願をしました。かつて東原遺跡の丘陵から水が湧き出ていましたが、現在は拝所として水の神を祈る聖地として崇められています。(東ヌ御嶽/野奴実嶽の森)(今龍宮/イマルーグー)(渡具知昔泉井戸)「渡具知東原遺跡」の東側にある森の中腹に「東ヌ御嶽(アガリヌウタキ)」があります。「野奴実嶽(ヤノミノ嶽)」とも呼ばれ、神名は「ヒキツカケカサノ御イベ」と称します。昔から「字渡具知集落」の「東原」地区では神が宿る御嶽の森として祈られ"腰当て"として崇められてきました。「東ヌ御嶽」の南側の岩壁には「今龍宮(イマルーグー)」と呼ばれる竜神宮が祀られ、隣接する比謝川河口周辺や西海岸での豊漁や航路の安全が祈られていました。さらに「東ヌ御嶽」の森麓には涸れた古井戸があり「渡具知昔泉井戸」と彫られた石碑とウコール(香炉)が設置されています。現在は水は湧きませんが水の神に祈る拝所となっています。(旧日本軍特攻艇秘匿壕群)「東ヌ御嶽」の森の麓はいくつもの鍾乳洞の壕があり、沖縄戦における旧日本軍特攻艇を秘匿格納するために利用されていました。旧日本軍の特攻艇は「マルレ」と呼ばれベニヤ板製の全長5.6m、幅1.8mの一人乗りモーターボートに250kgの爆雷を艇尾に積んで敵の艦船に体当たりする自爆兵器でした。現在6基の壕が確認されていますが、中には土砂の堆積や岩盤の崩落が著しいものがあります。原型のまま残る壕は4基あり「旧日本軍特攻艇秘匿壕群」は過去の過ちを学ぶ歴史的遺産として非常に重要となっています。(地頭火ヌ神)(ミーガー/旧ガー)「字渡具知集落」の「東原」地区の西側に「地頭火ヌ神」があり、祠内には霊石とウコールが祀られています。琉球王府時代の地方役人(地頭)と結びついた火ヌ神を「地頭火ヌ神」と呼び、この拝所は「字渡具知集落」の守護神として崇められる土地の神様です。更に「東原」と「中原」の中間には「ミーガー(新井戸)」と「旧ガー(旧井戸)」を祀る祠があります。現在、それぞれの井戸から水は湧き出ていませんが、霊石とウコールが祀られ水の神様に祈る聖地として拝まれています。(カンカーモー)(カンカーモーの石碑)「地頭火ヌ神」と「セクルディドゥビーチ」の間にある海沿いの森は「カンカーモー」と呼ばれ、北側の麓には石碑が建立されています。「カンカー」とは「見張る」と言う意味で、この森は集落外からの悪霊を退散させる力がある守護神の森となっています。沖縄各地で「島カンカン/島カンカー」と呼ばれる悪霊退治の重要な祭事があります。集落の東西南北の入り口に左巻きの縄を張り、豚肉や骨を括り付けて悪霊を集落に呼び込まない行事で「字渡具知集落」ではこの「カンカーモー」は祭祀の中心地だったと考えられます。(中原神の石碑)「字渡具知集落」の東側に「中原」地区があり、その最東端に「中原神の石碑」が北向きに建てられています。この地点は東側の「読谷村古堅」との境界線で、かつて「トロッコ列車」の線路が敷かれていました。嘉手納製糖工場と各地のサトウキビ収穫地域を結ぶ鉄道で「中原神の石碑」の地点は南は「嘉手納」方面、北は「残波岬」方面、西は「字渡具知集落」とトロッコ列車の線路の三叉路となっていました。因みに、トロッコ運搬が始まるまではサトウキビは渡具知港に集められ船で那覇に運んでいましたが、鉄道が開通してからは船便は天候のリスクも理由に廃止されたのです。(渡具知ビジュル/地母神)(渡具知ウカミヤー/神殿)(渡具知ウカミヤーの火ヌ神)「字渡具知集落」の中心部にある「前原」地区に渡具知公民館があり、敷地内の「字神殿」には「渡具知ビジュル(地母神)」があり、祠には3基の霊石柱が祀られウコール(香炉)が設置されています。「地母神(ちぼしん/じぼしん)」とは母なる神を意味しており、一般的な多産、肥沃、豊穣をもたらす神の事を示します。更に、隣接する「渡具知ウカミヤー(カミアサギ)」の建物内部には神殿があり、天地空を祀る3つの火ヌ神が設置されて拝まれています。「カミアサギ」は集落の守護神が祀られる神聖な場所で、集落の「字渡具知ノロ」により守護神が招かれ祭祀が行われる聖域となっています。(西ヌ御嶽/裏牛嶽)(西ヌ御嶽の石碑)「字渡具知集落」北西に位置する「裏牛原」に渡具知の浜があります。この浜沿いに「西ヌ御嶽(イリヌウタキ)」が祀られており「裏牛原御嶽/裏牛ヌ嶽(ウラウシヌタキ)」とも呼ばれています。御嶽には霊石とウコール(香炉)が祀られており、頭上には「西ウラウシノ嶽 神名ナデルワンヅカサノ御イベ」と彫られた石碑が建立されています。「西ヌ御嶽」の北東側に位置する「木綿原」地区では、箱型石棺墓を伴う弥生時代の「木綿原遺跡」があり国の指定を受けています。(木綿原遺跡跡の記念碑)(渡具知木綿原遺跡)「字渡具知集落」の北西端に位置する木綿原ビーチ沿いに「木綿原(もめんばる)遺跡」があります。この遺跡は沖縄に埋葬があったという最初の証拠遺跡で、昭和52年の調査で約2200年前(弥生時代)の沖縄県貝塚時代の7墓の「箱式石棺墓」と17体の化石人骨出土しました。各々の石棺には複数の遺骨が納められ、4墓の石棺から13体の被葬者が確認されました。棺内の遺骸は伸展葬による埋葬法がとられ、骨の上には摩滅したシャコガイが置かれ、当時の人々の死者に対する精神生活が垣間見ることができる貴重な資料となっています。(渡具知の浜)「渡具知の浜」は約7000年もの長い歴史の中で人々の営みを見つめてきました。縄文時代からの人類進化、「字渡具知集落」の発祥、三山戦国時代、琉球王国時代、薩摩侵攻、沖縄戦の米軍上陸、米軍による土地接収、戦後の復興と続いた沖縄において「字渡具知」は歴史の転換機を迎える主要な土地として名を残しています。現在は平和な浜の集落として、沖縄本島各地よりマリンスポーツ、BBQ、潮干狩りなどを楽しむ人々の憩いの場となっています。「渡具知の浜」からの夕陽は特に美しく、我々にはかけがえのない平和と幸福を守り、後世に継承してゆく大切な責任があると再確認させられるのです。
2021.06.11
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(渡具知泊城/トゥマイグシク)沖縄本島中部の西海岸に読谷村「渡具知集落」があります。比謝川の河口に天然の良港を有し、昔から文物の交流の地として栄えてきました。「渡具知」は「ワタイグチ」と呼ばれ「絵図郷村張(1649年)」には「戸口村」と当てていましたが、現在では「渡具知」と表記するようになりました。沖縄の歴史の大きな節目には読谷村「渡具知」の名前が必ず現れ、1609年(慶長14年)の薩摩島津の琉球侵攻軍も、1945年(昭和20年)の沖縄戦の米軍も「渡具知」を上陸拠点にしています。(渡具知泊城/トゥマイグシク)今から約640年前、三山(北山/中山/南山)戦国時代に「英祖王」のひ孫と伝えられる3代目「湧川按司(今帰仁按司一世)」が家臣の本部大主(もとぶうふぬし)の謀反により滅ぼされました。本部大主の策略で国頭の山賊の成敗に「湧川按司」に行かせて、その留守中に城を乗っ取ってしまいました。家臣の潮平大主(すんじゃうふぬし)に助けられた「湧川按司」の幼い息子「千代松金」は乳母に抱かれ父の従兄弟である北谷大主(ちゃたんうふぬし)のいる北谷城下の砂辺砂辺村に身を隠したのです。「千代松金」は名前を「丘春(うかはる)」と変え殿内屋(トゥンチャー)で育てられました。(渡具知泊城/トゥマイグシク)その後「丘春」は読谷山間切「渡具知」に移り「渡具知泊城」を築き城主となりました。巨大な奇岩で構築された城で「丘春」は18年の長い歳月をかけて「本部大主」に殺された父の仇を打つ計画を練り機会を伺っていました。「丘春」は読谷山「大木徳武佐」にて旧臣を集め、今帰仁城(北山城)に攻め入り「本部大主」を討ち城を奪還したのです。しかし「丘春」と家族は湧川王子の孫で湧川按司二世の子「怕尼芝」の反乱に討たれ「丘春」の子「今帰仁仲宗根若按司」が落命し、一族は再び中頭や大宜見に離散する事となってしまいました。(今帰仁城主之墓の案内板)(今帰仁城主岳春/真玉津/臣下之墓)(鷹の目洞窟/タカミーバンタ)隠居の身であった「今帰仁按司丘春」は戦に追われ、長年住み慣れた読谷村間切に逆戻りします。「渡具知泊城」で再び今帰仁城奪還の態勢を整えようと試みましたが「丘春」は力及ばす当地で終身しました。岩グスクの東側にある「鷹の目洞窟(タカミーバンタ)」に「今帰仁岳春(丘春)」、丘春の妃「真玉津」、臣下の合葬墓があり、墓に向かって右側には「鷹の目洞窟(タカミーバンタ)」が東側に続いています。墓の建立に伴い、この周辺一帯は「渡具知泊城(トゥマイグシク)」と称されました。(今前昔大湾按司時代ノロ之墓)(渡具知大湾按司之墓)「今帰仁城主岳春/真玉津/臣下之墓」の左側には「今前昔大湾按司時代ノロ之墓」が隣接している事から「丘春」に深い繋がりがあった、非常に位の高いノロ(祝女)であったと考えられます。さらに「ノロ之墓」西側に続く崖の中腹には「渡具知大湾按司之墓」が鍾乳洞に構えています。初代「大湾按司」は今帰仁城主「丘春」の孫にあたり、按司の遺骨はこの「渡具知泊城(トゥマイグシク)にて「丘春」を衛るように祀らています。(親泊大主/今帰仁下り世/渡口掟/村世之墓)因みに「渡具知泊城(トゥマイグシク)」の東側に「セクルディドゥビーチ」と呼ばれる浜があり、ビーチ脇の「メーヌハンタ」の崖下に「親泊大主/今帰仁下り世/渡口掟/村世之墓」があります。今帰仁城下には「今帰仁集落」と深い関わりのある「親泊集落」があり今帰仁城を支えた人々が住んでいました。「親泊大主」も「丘春」と縁のある豪族で「怕尼芝の変」の混乱で今帰仁を逃れたと推測されます。「渡口掟(ウッチ)」は読谷山間切渡具知村の掟(役人)で「親泊大主」は「渡具知」の地に移り住み深い関係を築いたと考えられます。(鷹の目洞窟の西側出入り口)(渡具知の梵字碑)「鷹の目洞窟(タカミーバンタ)」を東側に抜けると「梵字碑」の祠があります。この碑は16世紀前半に琉球国に仏教を広めた「日秀上人(にっしゅうしょうにん)」に関係し、石碑に刻まれている五文字は古代インドのサンスクリット語で「ア・ビ・ラ・ウン・ケン」と読み、漢字表記では「阿毘羅吽欠」となります。これは「大日如来」の真言で宇宙の5大要素である「地水火風空」を表し「オン・ア・ビ・ラ・ウン・ケン・ソワカ」と唱えることによて、魔障を退散させ善福を招く力があると信じられています。(アビラウンケンの梵字碑)「梵字碑」の建立当初は渡具知港が見渡せる「メーヌハンタ」断崖台地の上にありました。「ヒーゲーシ(火返し)」の神と呼ばれる七福の神で「ンナトゥゲーシ(港護り)」の神でもあり、港の安全と比謝川流域の航路の無事を祈願して祀られています。「渡具知集落」では旧暦9月の御嶽御願(ウタキウガン)の時にこの「梵字碑」を拝みます。石碑の材質は細流砂岩で「ニービフニ」又は「ニービ石」と呼ばれます。2016年、台地下の崩落により現在地に移設されました。「梵字碑」の祠内にはウコール(香炉)と霊石が祀られています。(米軍上陸の地碑の展望台)(米軍上陸の地碑)余談になりますが「鷹の目洞窟(タカミーバンタ)」の真上には「米軍上陸の地碑」と渡具知港を見渡す展望台があります。1945年4月1日に米軍が読谷村の西海岸から沖縄本島へ上陸しました。かつて経験した事のないこの戦争は島の文化と人々の平和な暮らしと多くの尊い人命を奪いました。この美しい海岸が二度と再び如何なる軍隊の上陸の地ともならないことを村民は祈念しています。「米軍上陸の地碑」は太平洋戦争と沖縄戦終結50周年を期して1995年12月に建立されました。(ウフガチシ)(ウフガチシの仲龍宮/中龍宮)(トゥマイグシクの世龍宮)「渡具知」の西ヌ浜(イリヌハマ)に「ウフガチシ」と呼ばれる大岩があり、岩の上に「仲龍宮/中龍宮(ナカルーグー)」と称する「龍神宮」の石碑が建立されています。干潮の時のみ訪れる事が出来る聖地で地元住民に崇められています。更に「渡具知泊城/トゥマイグシク」の岩間には「世龍宮(ユールーグー)」と呼ばれる「龍神宮」が祀られており、これらの拝所は「渡具知の聖地」として親しまれ旧暦9月の御嶽御願(ウタキウガン)の際に住民に祈られています。沖縄戦での戦没者への祈りと共に海の神への感謝を込めて参拝されています。(大木徳武佐の鳥居)「渡具知泊城」の北北東約3キロの場所にある丘陵岩陰に「大木徳武佐」と呼ばれる祠があります。一帯は樹木が茂り岩陰にコンクリート製の鳥居と祠が建っています。祠に向かって右側の「徳武佐碑」には「今から六百年前 三山戦国時代 中今帰仁按司 戦に追われ 此処にて身を遁る 其の後当他方にて過し帰城す 古来徳武佐お宮と称し崇拝す (毎年旧九月十三日参拝) 一九六四年旧九月十三日」と記されています。(大木徳武佐の祠)(大木徳武佐の祠内部)今帰仁城を追われた「丘春」がこの地で旧臣を集め、今帰仁城(北山城)に攻め入り「本部大主」を討ち城を奪還した事により、その子孫がこの場所を徳として毎年9月13日に参拝するようになりました。その後「大木集落」でも「徳武佐拝み」を行い集落の繁栄を祈るようになったと言われています。「大木徳武佐」のお宮は救世の神や子授けの神のみならず、除難、招福・家内健康・繁栄のご利益もあるとして多数の人々が参拝に訪れます。(泊城公園の入り口)(渡具知泊城/メーヌハンタの台地)「梵字碑」と「米軍上陸の地碑」があるメーヌハンタの花咲く台地にはヤギが放し飼いされる平和な光景があります。かつては「丘春」が今帰仁から逃げ落ち身を隠した「渡具知泊城」周辺は「琉球処分」や「沖縄戦」の上陸地にもなり、時代の戦乱の世に翻弄されてきました。「泊城公園」は琉球の長い歴史が詰め込まれた時代の証人として存在し、多くの拝所を有する聖地として人々に崇められ拝まれているパワースポットなのです。
2021.06.05
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(尚巴志王之墓)沖縄本島中部の読谷村「伊良皆集落」に「サシチムイ(佐敷森)」と呼ばれる緑豊かな森林があります。この森は国道58号線と米軍嘉手納基地弾薬庫の間に位置し、琉球三山(北山/中山/南山)時代を統一した第一尚氏王族の陵墓がひっそりと佇んでいます。「佐敷森」の名前は第一尚氏の出身地である「南城市佐敷」を偲んで名付けられ、王族が眠るこの森は混乱の世を生き延びた一族の誇りと、親子三代の強い絆を物語る逸話が込められています。(殿内火之神/トゥンチヒヌカン)国道58号線を嘉手納町から読谷村に入り「伊良皆」の信号を超えて直ぐ右に東に進む農道があります。真っ直ぐ進むと「ヒーハナジモー」がありますが、現在は米軍嘉手納弾薬庫の敷地内にあります。農道の一番初めを左折すると「サシチムイ(佐敷森)」に進む小道が続きます。まず初めに右手に「殿内火之神」があり「サシチムイ」を背に建てられており、祠内には中央の霊石を囲むように3つのビジュル石が祀られています。「サシチムイ」の入り口にある「殿内火之神」は聖なる森の"お通し"を意味する拝所となっています。(前ヌカー)(前ヌカー脇の香炉と水甕)ちなみに「殿内」とは琉球士族の総地頭職にある親方家を指す尊称で、王族である御殿の下に位置し高い格式を誇る家柄を指します。「殿内火之神」から続く「新綱引き(チナヒチ)道跡」を100メートルほど進むと右側に「前ヌカー」があります。状態の良い石垣で囲まれたこの井泉には現在も豊富な湧水があり、井戸の上部には2つのウコール(香炉)が祀られています。さらに井戸に向かって左側にはもう1つの香炉と非常に古い石造りの水甕が設置されていました。(ウフカー)(唐ヌカー/ウブガー)「前ヌカー」をさらに「サシチムイ」方面に向かうと右側に下る脇道があり進んで行くと「ウフカー」と「唐ヌカー」があります。子供が産まれた時に使用する産水を汲んだ井戸で、2つの井戸は近い位置に存在しています。「ウフカー」は水が枯れた井戸跡でしたが3つのウコールが設置されています。「唐ヌカー」は保存状態が良い石垣造りの井戸で、現在も豊かな水源をもたらしています。井戸にはウコール(香炉)があり、水の神に祈る拝所にもなっているのです。(ユナサモーの拝所)さらに農道を北に進むと沖縄戦の際に造られた「軍用機秘匿場跡の石畳」が続きます。この石畳に沿った右側は「ユナサモー」と呼ばれる森の御嶽となっています。「ユナサモー」には拝所が森の御嶽に向かって建てられおり、祠内には中央奥に御嶽を祀る主体のウコール(香炉)があり、前方に4基の香炉が設置されていました。御嶽の神と天地海空を意味するウコールが祀られ、集落の住民により祈られています。(イーヌカー/上ヌカー)「サシチムイ」の麓に「イーヌカー(上ヌカー)」があり、周辺では一番大きく湧き出る水量も最大となっています。「伊良皆集落」の住民の飲料水や生活用水に利用され、収穫した野菜を洗ったり衣類の洗濯をした井戸であったとも考えられます。「イーヌカー」は旧正月には若水を汲み、年中行事の中で祈りを捧げる神聖な場所であります。井戸の上部には祠が設置されておりウコールが祀られています。現在は農業用水として利用され、この一帯は現在も伊良皆の人々により整備や清掃がされて大切に守られています。(平田子之墓の鍾乳洞)(平田子之墓)(平田子の家系図)「イーヌカー」の直ぐ脇に「サシチムイ」の森があり、中腹には「平田子之墓」があります。「平田子(ひらたぬしー)」とは琉球三山時代を統一して琉球王国の初代国王に即位した「尚巴志」の長男です。「尚巴志」は父である「尚思紹」の次男「平田大比屋」が南山攻撃で戦死した際に「佐敷王子」だった長男を跡目に継がせました。こうして「尚巴志」の長男は平田家の養子となり「平田子」となりました。「平田子之墓」には「平田子」の家系図を示す石碑があり、息子が「高荘平田」その息子が「休林平田親雲上」さらに、その息子が「平田親雲上嗣嵩」と家系は続いてゆきます。(尚巴志王之墓の石碑)(尚巴志王之墓に向かう森)(第一尚氏王族陵墓の石碑)「尚巴志」は1429年に三山を統一して初代王に父の「尚思紹」を押し立てて「第一尚氏」王統の始祖となりました。父が亡くなった後に「尚巴志」は二代目の王となりました。その後、7代(63年)続いた「第一尚氏」の王達は最初、首里の天山陵に葬られていましたが、金丸(のちの尚円王)擁立のクーデターで一族と家来たちは首里を追われ、陵墓が焼き討ちにされる前に家臣の「平田子」と「屋比久子」達は亡き王達の遺骨をたずさえ各地に逃げ落ちたのです。(尚巴志王/尚忠王/尚志達王陵墓の鍾乳洞)(尚巴志王/尚忠王/尚志達王陵墓)(陵墓の脇に続く鍾乳洞)かつて「尚巴志」が北山討伐の際に駐屯し、妾(めかけ)の「喜納東松田ノロ(祝女)」の故郷である読谷村伊良皆の森の岩陰に「二代目尚巴志王」の遺骨を埋蔵し「三代目尚忠王」と「四代目尚思達王」の遺骨は同村喜納の東側にある「竹山慶念堂」に葬り、後世になり伊良皆の「サシチムイ」の森に移動されました。陵墓の鍾乳洞からは現在も水滴が滴り落ち、墓前のウコール(香炉)には献花、酒、果物、お賽銭が供えられ、常日頃から参拝に来る人々が絶えない事が分かります。陵墓に向かって左側には鍾乳洞穴が奥深く続いており、非常に神秘的な雰囲気に包まれています。(屋比久子之墓の鍾乳洞)(屋比久子之墓)首里の天山稜で「尚巴志」「尚忠」「尚思達」の遺骨を焼き討ちから守った「屋比久子(やびくぬしー)」は一緒に遺骨を持ち出した「平田子」の息子で「尚巴志」の孫にあたります。祖父の遺骨を「サシチムイ」に葬った「屋比久子」の墓も同じ森に位置しています。「屋比久子之墓」は丁度「平田子之墓」と「尚巴志王之墓」の中間にあり、現代に至ってもなお「第一尚氏王族」の陵墓は「平田子」と「屋比久子」に守られている形となっています。墓前には父親である「平田子之墓」と同じ扇子の模様が彫られたウコール(香炉)が設置されています。(佐敷村字佐敷みひち門中参拝記念碑)「尚巴志王/尚忠王/尚志達王陵墓」の入り口に「佐敷村字佐敷みひち(御引)門中」の参拝記念碑があり、現南城市のこの門中は「第一尚氏王族」を氏神と称して崇める氏子(うじこ)です。「門中(もんちゅう/ムンチュー)」とは沖縄県における始祖を同じくする父系の血縁集団の事です。「門中」は17世紀後半以降、士族の家譜編纂を機に沖縄本島中南部を中心に発達し、のちには本島北部や離島にも拡がりました。 その活動形態や組織結合の度合いは地域によって大きく異なります。(宮城島東江門中参拝記念碑)更に「サシチムイ(佐敷森)」の陵墓には「宮城島東江門中」の参拝記念碑も建立されています。うるま市宮城島宮城自治会の「なぁぐすく字誌」(2005年11月発行)によると「宮城島東江門中」は中山系で宗家は佐敷の新里にあると言われています。始祖は尚巴志の父(尚思紹王)の兄弟の分かれで、三山統一後に宮城島に逃れた者がいないか調べに来た際に、宮城島の女性と結婚して島にそのまま住み着きました。両門中は「神シーミー(神清明/門中シーミー)」や「東御廻り(アガリウマーイ)」に毎年訪れて参拝しています。(平田子のマーイサー)「尚巴志」「平田子」「屋比久子」の墓が祀られる「サシチムイ」の麓にある「イーヌカー」には大岩があり、これにまつわる「大力平田子(だいりきひらたしー)」という民話が読谷村に伝わります。『「平田子」は伊良皆に住むようになってからは畑仕事をしていたそうです。ある日、牛に犂すきを引かせて田を耕していると、金丸(のちの尚円王)からの刺客が佐敷森に「平田子」を探しに来たのです。すると「平田子」は田を耕していた大きな牛を捕まえて引っ張り畦あぜに放り上げました。さらに「イーヌカー」脇の土手にあった非常に巨大な石を「平田子」が一人で持ち上げ放り投げたのです。「こんな大きな牛を掴まえて放り投げるし、更にこんなに大きな石も取って放り投げるのだから恐ろしい人だ」と刺客は逃げ帰ったのでした。』(サシチムイ/佐敷森)この民話にちなんで「イーヌカー(上ヌカー)」の脇にある大岩は現在「平田子のマーイサー(大きな石)」と呼ばれて多くの人々に愛されています。そして、琉球王国の初代の王「尚巴志」は実の息子である「平田子」と孫の「屋比久子」に現在も守られ、更に所縁の深い「佐敷村字佐敷みひち(御引)門中」と「宮城島東江門中」に毎年参拝され「第一尚氏」一族は「サシチムイ(佐敷森)」に安らかに眠っているのです。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2021.06.01
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(赤犬子宮)沖縄県読谷村「楚辺集落」に「赤犬子宮」があります。歌と三線の昔始まりや"犬子ねあがりの神のみさぐ"と謳われるように「赤犬子」は琉球音楽の世界では唄三線の始祖として信仰されています。赤犬子は今からおよそ500年前、琉球王国が近隣諸国と親交や交易を深め、琉球文化の隆盛が築かれた尚真王(1477〜1526)時代に活躍した人だと言われています。(赤犬子宮入り口の石碑)「赤犬子宮」の入り口に石碑があり「歌と三味線の むかしはじま里や 犬子称阿がれ乃 神の美作」と記されています。「楚辺集落」の古老伝承によれば、赤犬子は大家のカマーと屋嘉のチラー小との子で、長じては三線を携え各地を巡り歩き唄三線を広めると共に先々の事を予言したり、唐から楚辺村に五穀(稲・麦・粟・豆・黍)を持ち帰った偉大なる人物と伝えられています。(赤犬子終焉之地の石碑)赤犬子宮には「赤犬子終焉之地」の石碑があります。晩年を迎えた赤犬子が生まれじまの「楚辺集落」に辿り着き、杖にしていたデーグ(ダンチク)を岩山に立て、聖なる光に導かれて昇天した聖地と言われています。毎年旧暦9月20日(昇天した日)に唄三線の始祖、五穀豊穣の神、村の守り神として崇めたて祀る「赤犬子スージ」が行われています。(赤犬子宮の殿)この地は昔から「楚辺集落」のウガンジュ(拝所)で「アカヌクー」と呼ばれています。赤犬子の母親であるチラーには可愛がっていた赤犬がいました。ある年、長い旱魃が続き村の井戸はすべて枯れ果てて村人は大変困っていました。ある日、赤犬が全身ずぶ濡れになって戻ってきました。赤犬はチラーの前で吠え立てて、着物の裾を口でくわえて引っ張って行ったのです。その赤犬は集落南側の洞窟に入って行き、暫くすると再びずぶ濡れになって戻ってきたのです。それから洞窟の中に水があることが分かり早魃をしのぐことができました。これが「暗川」発見の由来です。(米国陸軍通信施設/トリイステーション)赤犬が発見した「暗川」は現在、米国陸軍の通信施設トリイステーション(Torii Station)の敷地内にあります。さて、赤犬子の母親であるチラーはとても美しい女性で村中の若者の憧れの的でした。チラーには子供の頃からの許婿(いいなづけ)であった大屋のカマーがいて、二人の幸せそうな様子を妬んだ村のある若者が、嫉妬のあまりカマーを殺してしまったのです。チラーは愛するカマーを失った悲しさのあまり毎日泣いて暮らしていましたが、そんなチラーの悲しい心を慰めてくれたのが以前から可愛がっていた赤犬でした。チラーはカマーの子を身ごもっていたので、村の若者達は「婚約者だったカマーの子ではなく、赤犬の子を身ごもってしまった」という噂を村中に広めたのです。チラーは村に居る事ができず行方をくらましてしまいました。(赤犬子の案内碑)(赤犬子宮の敷地)その後、何ヵ年か後に両親はチラーが伊計島(現うるま市)に渡っているという噂を耳にして娘を訪ねて行きました。しかし、両親に逢うことを恥じたチラーは、男の子を残したまま自害してしまうのです。両親は悲しみながら我が娘をその地に葬って、男の子は一緒に楚辺村に連れ帰りました。この子は後に「赤犬子」と名付けられました。成人した赤犬子はポタボタと雨の落ちる音を聞いてひらめき、クバの葉柄で棹を作り馬の尾を弦にして三線を考え出しました。その後、赤犬子は三線を弾きながら唄を歌って各地の村々を旅して廻りました。これが赤犬子が唄三線の始祖と呼ばれる所以です。(北谷グスク)北谷町にある「北谷グスク」です。この山には赤犬子にまつわる僧侶「北谷長老」が祀られています。赤犬子は旅の途中、北谷村にさしかかった時に喉が乾いたので、水を乞うためにある農家に立ち寄りました。するとそこには4歳くらいの子供がいて「おまえのお父さんは何処に行ったか」と尋ねると「夜の目を取りに」と答えました。今度は「おまえのお母さんは何処に行ったか」と尋ねると「冬青草、夏立枯かりに」と答えたのです。(樹昌院)北谷グスクの東側には北谷長老が開山した「樹昌院」があります。さて、さすがの赤犬子もこの子供の答えの意味が分からずに、どういうことかと尋ねたら「お父さんは松明り(トゥブシ)取りに」「お母さんは麦刈りに」と答えたのでした。すっかり感心した赤犬子は再びその農家を訪ねて、両親に「あなた方の子は普通の子供より特に優れた知能を持っているから将来は坊主にしてやれ」と言い残して去って行きました。この子が後の僧侶「北谷長老」であったと伝わります。(嘉手納町)赤犬子は唐から麦・豆・粟・ニービラ(山蒜)などを持ち帰り、それを沖縄中に広めたと言われています。ある日、赤犬子が嘉手納地区を歩いている時に、道も悪く疲れていたので転んでニービラを落としてしまいました。それで赤犬子は「この土地にはニ-ビラは生えるな」と言ったので、嘉手納地区にはニ-ビラは生えなくなったと言われているのです。(中城若松の像)北中城村の若松公園にある「中城若松の像」です。この人物も子供の頃に赤犬子に出会っています。赤犬子が北中城村の安谷屋地区を旅している時に、大変喉が渇いたので近くを通りがかった子供に「大根をくれ」と言うと、持っていた大根の葉っぱも取り、皮も剥いで、食べやすいように切って赤犬子に渡したそうです。「この子供は将来きっと偉い人になるだろう」と言ったら、その子供は後の安谷屋グスクの城主「中城若松」になったのでした。(瀬良垣の海)これは恩納村瀬良垣の美ら海です。赤犬子が国頭方面を旅している時に、恩納村瀬良垣に差し掛かりました。その時にお腹が空いていたので海辺で船普請をしている船大工に物乞いをしたところ「あなたのような者に、私達のものを分けてあげることはできない」と冷たく断わられてしまいました。それで赤犬子は瀬良垣の船を「瀬良垣水船」と名付けました。(谷茶前節の歌碑)恩納村の谷茶前の浜には沖縄本島の代表的な民謡と踊りである「谷茶前節」の歌碑があります。赤犬子は瀬良垣を追い払われた後に谷茶に向い、そこでも同じように物乞いをしたのです。すると、そこの船大工は「ひもじかったら食べなさい」と丁寧に赤犬子をもてなしてくれました。それで谷茶の船を「谷茶速船」と名付けたのです。その後、赤犬子が予言した通りに瀬良垣の船はいつも海に沈んでしまい、谷茶の船は爽快に水を切って走ったのでした。(赤犬子宮の鳥居)瀬良垣の人達は「あいつの悪い願いで船が沈むようになった。どこを捜しても見つけ出して、あいつを打ち殺さないといけない」と捜して楚辺村まで来ました。そこに赤犬子がいると聞いたので、棒や刀をあげて皆で赤犬子を殺そうとしました。現在の赤犬子宮がある場所に行くと赤犬子は、急に煙となって天に昇っていったそうです。瀬良垣の人達は棒や刀を持っていながら赤犬子を殺すことはできなかったので、赤犬子は神の子であり精霊だったという話が残っているのです。(赤犬子之墓碑)赤犬子宮の西側には「ユーバンタ」と呼ばれる浜があります。ユータティバンタ(世立ちの崖)とも呼ばれ「楚辺発祥の地」とも言われています。戦前までユーバンタ南東側は風葬が行われる一帯だったようで、現在は「赤犬子之墓碑」が建てられています。石碑には「歌 三味線之始祖 赤犬子大主之墓碑」と記されています。また「ユーバンタ」は魚群を発見するイユミーバンタ、旅立つ者を見送るフナウクイ(船送り)の地であり「楚辺集落」の神聖な聖地となっています。(艦砲ぬ喰えー残さー之碑)「楚辺集落」で決して忘れてはいけない人物が「比嘉恒敏(ひがこうびん)」です。比嘉恒敏は「楚辺集落」に生れ、1939年に23歳で大阪に出稼ぎに行き、その後妻と次男を大阪に呼び寄せました。1944年に両親と長男を大阪に呼びましたが、乗船したのが学童疎開船の「対馬丸」で米軍潜水艦の魚雷攻撃で沈没して亡くなってしまいます。さらに、翌年3月の「大阪大空襲」で妻と次男が米軍の空襲で亡くなるという悲劇が重なりました。戦後、比嘉恒敏は読谷村に帰郷し再婚して再出発をしようとしましたが、故郷の集落は米軍の通信施設(トリイステーション)に接収され「楚辺集落」の住民と共に現在の楚辺地区に移らされたのでした。(石柱とユーバンタ)民謡をこよなく愛した比嘉恒敏は4人の愛娘たちに歌と踊りを教えました。舞台にも出て評判になり、1964年「でいご娘」を結成して本格的に活動を開始したのです。比嘉恒敏は民謡の作詞や作曲も手がけ、1971年頃に「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」を作りました。しかし1973年、比嘉恒敏(56歳)と妻シゲ(49歳)の乗った車に飲酒運転の米兵が突っ込み二人とも亡くなりました。事故の後「でいご娘」は活動を停止していましたが、亡き父の形見の歌を残そうと1975年にレコードを発売したのです。「艦砲ぬ喰ぇー残さー」は非常に強い反戦民謡であったため、当時の沖縄の人が決して口には出せない心の本音を代弁した歌として大流行したのです。(艦砲ぬ喰えー残さーの歌碑)「艦砲ぬ喰えー残さー」とは「艦砲射撃の喰い残し」という意味です。家族や親戚、友達や近所の方々が米軍の艦砲射撃により殺され、生き残った人は死ななかった自分に後ろめたさを感じながら貧困の中を必死に生き抜いたのです。比嘉恒敏はユーバンタの浜でよく釣りをしていたそうで「艦砲ぬ喰えー残さー」の歌詞やメロディはこの浜で生まれたといいます。現在「艦砲ぬ喰えー残さー之碑」はユーバンタの浜の南側に位置し、かつて海を覆い尽くした米軍艦隊からの艦砲射撃の嵐があった歴史を静かに我々に伝え続けているのです。米軍の艦砲射撃に"喰い残され"て生きた比嘉恒敏が、人生の最期に飲酒運転の米兵に"平らげられ"て殺された皮肉は悲劇以外の何ものでもありません。(ユーバンタの浜)沖縄では毎年3月4日は弦楽器「三線」にちなんで「さんしんの日」となっています。「赤犬子」に琉球古典音楽と舞を奉納する大切な日で主会場や県内外、海外各会場で琉球古典音楽の代表的名曲「かぎやで風」等が盛大に演奏されます。 赤犬子宮では「さんしんの日」に琉球古典音楽と舞が奉納されます。読谷村楚辺の「赤犬子宮」と「赤犬子」は集落の住民のみならず琉球民謡に関わる全ての人々の聖地として、これからも大切に守られながら伝統文化が後世に継承され続けて行くのです。
2021.02.08
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(チビチリガマの祠)「チビチリガマ」は読谷村波平にあるガマ(鍾乳洞)で、1945年の沖縄戦における悲惨な集団自決が行われた場所です。読谷村に攻め入った米軍から逃れるため139名の住民がチビチリガマに避難し82名が自決、その過半数が子供達だった悲劇の歴史があります。(チビチリガマの標識)チビチリガマへは国道58号線を那覇から読谷村に入り伊良皆交差点を左折して右手に読谷高校を過ぎて直進します。左手に米軍施設トリイステーションの2つの鳥居が見えます。そのまま直進してタウンプラザかねひで読谷店前の信号で左斜めに入ります。すると写真の「チビチリガマ80m」の看板が見え右手にチビチリガマの駐車場が見えて来ます。(チビチリガマへ下る階段)この階段がチビチリガマの入り口です。入り口は特に恐怖や重々しい雰囲気は感じませんが、階段を下りるにつれて身体に重い圧力がかかって来ます。ある一線からピンと張り詰めた空気に包まれて、いよいよ聖域に入り込む覚悟が湧いてきます。(ウガンジュ/拝所)階段を降り切ると薄暗い小さな空間が広がり正面にはゴツゴツとした琉球石灰岩で造られたウガンジュがあります。重苦しい空気力に身体を圧迫されながらウガンジュを見つめると自決した人々の魂の悲しみ、怒り、恐怖の全てが強烈に伝わって来たのです。(鍾乳洞入り口)ウガンジュの左には沖縄戦で住民が自決したガマがあり沢山の千羽鶴が生々しく飾られていました。私はガマの入り口に膝まづき自己紹介と訪れた理由を言葉でゆっくりと伝えて、この場で自決した人々への慰霊の言葉と沖縄の平和を心から祈りました。その後もしばらく目を閉じたまま瞑想を続けたのです。(チビチリガマのガジュマル)目を開けると重苦しい圧力が一気に消え去り、全てがフワッとした浮き上がる雰囲気に突然包まれました。物凄く心地の良い空間に身体を委ねると足元の枯葉が何枚も空気中に浮き上がり、爪楊枝の様な謎の物体が3本連なるように私の目の前に浮遊していました。すると3本の細い物体が一本ずつ物凄い勢いであちこちに飛び去って行くのです。(チビチリガマの地蔵)すると直後私の頭上に「バチッバチッバチッバチッ!」と爆音が30秒近く鳴り響きました。爆音がピタッと止むと非常に心が穏やかになり全てのストレスも消え去り、この場所に何時間でも居続けたい優しい気分に包まれました。まさに私の魂が浄化されたようで、純粋で無垢な気持ちで落ち着いていました。(チビチリガマの歌)しかしながら、その日は快晴で無風だったので今でも爆音の原因は不明。さらに爪楊枝のような羽のない謎の浮遊物体の正体も未解決のままです。この超常現象はチビチリガマが起こした奇跡であり、この地場に集まる魂のパワーが創り出した怪奇現象です。チビチリガマで犠牲になった魂と沖縄の平和を改めて心から祈り、二度と悲惨な戦争を起こしてはいけない決意を強く持ちチビチリガマを後にしたのです。
2020.12.17
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