歴史一般 0
全6件 (6件中 1-6件目)
1
平安末期に現れた強大な権力者といえば、白河法皇。天皇の位を退位してからも、その子や孫を、次々と天皇に指名して権力を握り続ける院政という政治形態を創始し「院政時代」ともいうべき一時代を築き上げた傑物です。今年の大河ドラマ「平清盛」では、伊東四郎が味のある怪物ぶりを出して好演していますね。この白河法皇が始めた院政というものの、歴史的な位置づけは、というと、一つは、これまで権勢を極めていた藤原摂関家に代わり、その力が衰えた隙を捉えて、藤原氏から天皇家に実権を取り戻したということ。もう一つは、幼い子や孫を次々と天皇に就けることで、皇位の継承を安定化させることが出来たということ。しかし、それは、自分の直系に間違いなく皇位を継がせることが出来るようにという恣意から出たものであったとは云えますね。また、この白河法皇は、女性関係においても、旺盛かつ積極的な人でありました。身分を問わず、非常に多くの女性と関係を持ったといわれていて、さらに、その関係を持った女性を、次々と人に与えるということをしていたものですから、「白河法皇の御落胤」とされる人が、多く生まれることにもなりました。やがて、これが崇徳上皇の悲劇を生むことになり、さらには、平清盛なども白河法皇の御落胤であるという噂が、広く信じられることにもなっていきます。絶大な権勢の限りを尽くした、とも云える白河法皇。しかし、そんな白河法皇でさえ、自分の意のままにならないものが3つだけあったのだといいます。それが、この3項目。・賀茂の水・双六の賽・山法師このうち、賀茂の水とは、鴨川の氾濫のこと。今では、たおやかに流れている鴨川ですが、昔は、暴れ川として恐れられていたようで、幾度も氾濫を繰り返し、周辺に被害を与えていました。双六の賽とは、すごろくのサイコロのこと。これは、思った通りの目が出ないのは当然ではありますが、でも、意外と、白河法皇はすごろくが弱かったのかも知れません。そして、山法師とは、比叡山の僧兵のこと。当時、延暦寺は自分に不利な裁定があったりすると、神輿を担いで都になだれ込んできて、強訴を繰り返していました。さすがの白河法皇も、この延暦寺に対しては、打つ手もなく、ほとほと手を焼いていたようです。あの白河法皇が、どうしても思うようにならないと愚痴をこぼすぐらいだったということで、やがて、これが「天下三不如意」と呼ばれ、広く知られるようになっていったということです。私などからすると、三不如意どころか、何をするにも不如意なことばかり・・・。そうは言っても、白河法皇のような権力者になりたいとも、それがうらやましいとも、全く思いませんけどね。白河法皇のような生き方が、本当に幸せだったのかということも、よくわかりません。それでも、そこから垣間見える法皇の姿というのは、絶大な権力者にも、人間的な側面があったのだということが感じられ、三不如意を通して見る白河法皇には、少し親しみが湧いてくるようにも思えます。
2012年01月22日
コメント(6)
日本美術を代表する作品群ともいえるのが、平安時代の絵巻物。中でも、その最高傑作の一つと云われているのが「伴大納言絵巻」です。(出光美術館蔵 国宝)炎につつまれる応天門と、その時の混乱ぶりや異様な興奮が見事に描かれ、また、400名以上に及ぶ登場人物が、いきいきと詳細に描かれているというところが、この絵巻の一番のみどころであると云われています。この絵巻に描かれている応天門炎上事件というのは、実際にあった話で、この応天門に火を放ったとされているのが、大納言・伴善男という人物でありました。伴大納言とは、いったいどんな人物だったのでしょう。今回は、この絵巻の題材となった応天門の変と、応天門に火をつけるに至った、伴大納言についてのお話です。善男は、平安時代の前期、弘仁2年(811年)に生まれたと云われています。彼の父は、大伴国道という人で、政治抗争に巻き込まれて佐渡に流された後、京の政界に復帰して参議などを務めました。大伴氏は、これまでに金村や家持・旅人などの有力政治家や有名な歌人を輩出した、古代から続く名家でありますが、この頃には、藤原氏の勢力に押されていて、政界での昇進についても、思うように進まなくなっていました。そこへ、さらに、淳和天皇が即位した時には、淳和天皇の名が大伴であったということから、大伴の姓を避けることになり、大伴氏から伴氏へと改姓を余儀なくされました。善男は、そうした退潮していく名家・大伴家に生まれたのです。ただ、善男の生い立ちについては良く分かっていないようで、国道が佐渡に配流中に生まれたという説や、京で出生したという説あるいは、元々国道の子ではなく、従者の子であったのが、後に養子になったという説など色々な説があるようです。ところで、善男ですが、生まれつき俊英で、才智は抜群。とても、能力のあった人だったようです。弁舌が立ち、明察果断、瞬く間に政務にも通暁するようになっていきます。また、大伴氏の栄光を取り戻したいという思いもあったのでしょう。骨身も惜しまずに働き、階段を一気に駆け登るようにして、出世を続けていきます。しかし、その反面、狡猾で、ずる賢く、酷薄な性格の持ち主という面がありました。彼の、そうした面が、次第に現われてくるようになります。承和13年、善男35才の時のこと。官の所有物を、法隆寺に対して不当に安く売り捌いている者がある、との訴えが出され、審議官5名で、これを裁くことになりました。これは違法であると、この訴えを受理しようとする審議官。しかし、この時、審議官の一員であった善男は、一人、この訴えを受理することに反対。訴えの手続きに誤りがある、ということを理由にして、逆に、訴人の方が罰せられるべきであると善男は主張したのです。強行に意見を主張する善男。審議が紛糾した後、結局は善男の意見が通ることとなり、逆に、この訴状を受け取ろうとした審議官4人を、善男が弾劾。他の4人は、失脚させられていきます。善男は、自分の都合の良い理屈で、相手をねじ伏せて、同僚たちを、追い落としていこうとしたのです。さらに、この頃の善男は、時の天皇・仁明天皇からも信任を受けるようになっており、その後ろ盾を利用した強引なやり方で、さらに出世を続けていきます。貞観2年(860年)には、中納言。貞観6年(864年)には、大納言に昇進。この段階で、伴氏(大伴氏)にとって、およそ130年ぶりとなる高い位に返り咲いたことになります。しかし、善男は、出世欲・権勢欲に取り付かれていたのでしょう。それでも、さらなる昇進を目指そうとするのです。この時、善男より上の官位というと、太政大臣 藤原良房左大臣 源信(みなもとのまこと)右大臣 藤原良相の3人でありました。藤原良房・良相は、今をときめく藤原氏の兄弟で、これは相手が手強すぎます。善男は、源信に照準を合わせようと考えました。源信という人は、父が嵯峨天皇で、皇子の身分から、臣籍に下って、源姓を賜った嵯峨源氏の筆頭にあった人です。もちろん、相当な勢力を持った人で、そう簡単に蹴落とせる相手ではありません。そこで、善男が考えた筋書きは、御所の応天門を炎上させ、その罪を源信に被せてしまって、その失脚を図ろうとするもの。御所の門というのは、それぞれ豪族・貴族が献上したものが多く、応天門は、”おおとも”の名を美名となるように漢字をつけた大伴氏ゆかりの門です。かねてより、善男と仲の悪い源信が、大伴氏を呪って火をつけたと世間に思わせようとしたのでした。貞観8年(866年)閏3月。応天門が、突然の出火に見舞われ炎上します。驚き、駆け回る人々。そうした混乱の中で、善男は源信が放火の犯人であると告発し、検非違使(今でいう警察隊)が、源信の屋敷を取り囲む事態となります。朝廷でも、あわてふためき大騒ぎとなりました。しかし、この時、冷静な対応を見せたのが、太政大臣の藤原良房でした。良房は、源信の屋敷が包囲されたと聞くや、時の清和天皇のところへ参内し、「これは異常な事態です。よく調べて事実が明らかになってから対応すべきことです。」という内容のことを奏上。清和天皇からの宣旨により、源信の屋敷の包囲は解かれ、その後、源信への疑いは晴らされることとなりました。善男のたくらみは、結局、失敗に終わったのです。しかし、応天門炎上の原因は、なお不明のままでありました。普段、火の気のないところから出火したということで、人々は”怪し火”といって恐れ、おののき、さかんに祈祷が行われたりします。そんな中の、同年8月のこと。大宅鷹取というものが、太政官に応天門事件についての訴えを出しました。それは、応天門が炎上した日の夜、応天門で、3人ほどの仲間と、ささやきあっている伴大納言を見た。その後、応天門が炎上したので、放火犯は伴大納言に間違いない。という内容のもの。結局、この訴えが受け付けられることとなり、裁判が開かれることになります。裁判の場で、知らぬと言って、全く応じない善男。善男が強弁を続けるため、審議はなかなか進展しません。しかし、一緒に火をつけに行った長男が自白したと聞かされたことで、ついに、善男も観念。罪を認めます。判決の結果、善男は伊豆へ配流されることとなりました。・・・以上が、応天門の変の概略です。しかし、応天門炎上という事件が与えた衝撃は大きかったのでしょう、その後も人々の間で語り継がれていき、300年後には「伴大納言絵巻」という名画が生まれ、その衝撃が再現されることになります。出世欲にとりつかれていた伴善男。応天門の変という事件は、欲望にとりつかれた時、常識では考えられないようなことをしでかす人もいるという事を、教えてくれているのだとも云えます。貞観10年(868年)善男は伊豆の配流先にて死去。享年、57才でした。
2010年04月18日
コメント(6)
夫も子もある身ながら、男を虜にし、不倫を重ねた恋多き女性。しかも、その不倫相手が天皇で、ついには政権奪取の蜜謀まで企てたという...こうした事件は、日本史上、他に類がありません。まさに傾国の美女ともいえる、この女性が藤原薬子(くすこ)です。藤原薬子は藤原式家の出身で、父は長岡京造営の途次に暗殺された藤原種継。藤原縄主に嫁いで、三男二女をもうけました。子供たちも成人し、長女はやがて、桓武天皇の皇太子・安殿(あで)親王に仕え、東宮で安殿親王の身の回りの世話をするようになりました。やがて、薬子も、長女の東宮入りの関係から、安殿親王の女官として勤めるようになります。ところが、このあたりから、安殿親王と薬子との間に不倫関係が始まります。また、この頃の薬子は、藤原北家の葛野麻呂(かどのまろ)とも通じていたといい、薬子をめぐる複雑な不倫関係は、さらに広がりをみせていきました。薬子の正確な生年はわかっていないので、年齢は特定できませんが、それでも、この時、そこそこの年齢だったはず。薬子は、よっぽどの魅力を持った女性だったのでしょう。しかし、やがて、この不倫関係は、桓武天皇の知るところとなります。激怒した桓武天皇の命により、結局、薬子は、東宮から追い出されてしまいました。延暦25年(806年)桓武天皇が薨去。安殿親王が即位し、平城(へいぜい)天皇となります。そして、この時平城天皇は、薬子を再び宮中に呼び戻しました。平城天皇の治世は、観察使という新たな職制を設けるなど、制度改革に取り組み、その政権では、薬子の兄の仲成が政権の中心を担いました。しかし、平城天皇は、持病ともなっている不眠症と神経衰弱に、度々悩まされ、政務に専念できなくなっていきます。かつて、早良親王の祟りを気にして、ノイローゼになったことからもわかるように、平城という人は、とても気弱で、気分にムラの多い人であったようです。平城は、突然退位すると言い出し、やがて、政務からも離れるようになっていきました。結局、平城天皇の治世は、3年あまりで終わります。平城の後を受けて即位したのが、嵯峨天皇。嵯峨は意欲的に施政に取り組んでいきました。ところが、平城の退位について、不満を抱いたのが薬子でありました。薬子はこの退位について、事前に何も聞かされておらず、薬子にとってみれば、せっかくの政権の地位をやすやすと手放してしまうことが、我慢ならなかったのでしょう。こうした、薬子の思いが、やがて政変へと結びついていくことになります。平城は退位後、奈良に移り、ここに宮殿を建て薬子とともに暮らしていました。しかし、薬子は、再び政権を取り戻したいと考え、そのために、都を奈良へ移してはどうか、と平城を口説きます。しかし、優柔不断で煮え切らない平城。ところが、嵯峨天皇が、観察使を廃止するという制度改革を打ち出したことから、平城の気持ちが動きます。自らの治世時に定めた制度を覆されたことに、平城は不信感を抱いたのです。平城は、都を奈良に移すように嵯峨天皇に命じ、嵯峨も、太上皇の仰せであるとして、坂上田村麻呂や藤原冬嗣を造営使に命じるなど遷都の準備を進めるよう手筈を進めました。しかし、嵯峨は、この無意味な遷都を本気で考えてはいませんでした。嵯峨は、この遷都が、平城あるいは薬子の野望から出たものであるということを、十分、承知していたのです。弘仁元年(810年)9月嵯峨は、「遷都により人心が動揺している」として、各地に軍を送り、関所・国府を固めさせ、それと伴に、薬子のこれまでの行状と罪状を書き連ねた詔を発しました。仲成についても同罪であるとして、捕縛します。平城と薬子は、こうした嵯峨の動きを知り、平城宮を抜け出し、東国へ逃れようとしました。しかし、その途中にも、多くの軍が配備されていて、逃れることが不可能であることを悟ります。再び、平城宮に戻ってきた平城と薬子。しかし、やがて、ここにも軍が押し寄せてきます。そうした中で、平城は髪をおろして出家し、薬子は毒を仰り、服毒自殺しました。これが世にいう薬子の変。これにより、百川以来、権勢を強めてきた式家は完全に衰退し、以後は、北家が政権の中枢へと台頭してくることとなります。才気と美貌を兼ね備えていたであろう藤原薬子。天は二物を与えずといいますが、しかし、二物を与えられていたら幸せなのかというと、それは別の問題なのではと、薬子のことを考えた時、そう感じます。
2009年03月01日
コメント(6)
京都...1000年あまりの間、天皇が住まう御所が置かれ、日本の都であり続けた町です。この地に都が移されたのは、延暦13年(794年)桓武天皇の治世下のことでありました。しかし、この遷都に至る事情については謎が多く、正史である日本後記にも、この時期の記述が欠落しているため、その後、長きにわたって日本の都となった割には、なぜ、京都に都が置かれることになったかについて、実はよくわかっていないようです。そこで、今回は、平安遷都に至るまでのいきさつについて、まとめてみたいと思います。桓武天皇が平城京から、都を移そうと考えた理由としては、・奈良では寺社勢力や古くからの豪族の勢いが強く、思ったような政治ができない。・父の光仁天皇は、久々に復活した天智系の天皇で、 桓武も天武系の勢力から離れたいと考えた。・もっと、水陸の便が良いところに都を置きたいと思った。など、が挙げられます。最初に、新都の場所と定められたのは平安京ではなくて、現在の京都市南郊に位置する長岡京。建議を行ったのは、藤原式家の人で桓武からも信頼を集めていた、藤原種継でありました。延暦3年(784年)の6月から新都の工事が進められ、建設途中の11月には、桓武天皇も長岡へ移ってきました。しかし、ここで事件が起こります。新都建設事業の中心であった種継が、建設状況の督励中に、何者かに暗殺されたのです。すぐさま、犯人の捜索が行われ、やがて、大伴旅人・竹良ら数十人が捕らえられました。そして、この事件は、桓武の新政やこの遷都を快く思わない一派が、妨害・叛乱を企てて行われたものであると判断され、その首謀者として、桓武の弟である早良(さわら)親王も捕らえられました。早良親王という人は、光仁天皇がお気に入りだった人で、光仁の存命中には、桓武から政治を任されていましたが、光仁の死後は、桓武から政治の実権を取り上げられたため、両者の間に溝が深まっていたとも言われ、さらには、藤原氏と大伴氏との勢力争いも、その背景にはあったようです。しかし、実際、早良親王にこの事件への関与があったのかどうかは判然としません。捕らえられた早良親王は、廃太子の上、京の乙訓寺に幽閉され、その後、淡路へ流されることが決まりました。早良は無実を訴えて食を絶ち、憤慨の中、絶命します。しかし、それでもなお、早良の遺体はそのまま淡路へと送られていったといいます。一方、長岡京の建設は、種継暗殺事件の後も続けられていました。しかし、長岡京の建設は、思ったようにはかどりませんでした。さらに、この頃から、桓武天皇の周囲で奇怪なできごとが相次ぎます。その一つは、桓武の長男で後継者でもあった安殿(あで)親王のノイローゼ。夜中に早良の亡霊を見るのか、不眠症が続き、神経衰弱ですっかり体調を崩しました。桓武の妃であった旅子が死亡、さらに桓武の皇后である乙牟漏(おとむろ)までも、相次いで2人が病死します。続いて、安殿親王の妃である帯子(たらしこ)も病死。さらに、長岡京は2度にわたって洪水に見舞われました。そして、これらの相次ぐ災いは、早良親王の祟りであると考えられたのです。桓武天皇は、これらの怪異を鎮めるため早良親王に「祟道天皇」というおくり名を与え、種継暗殺事件で捕らえられたものたちの、罪を赦しました。淡路にも寺を建てて、早良親王の霊を弔います。そうした中、桓武天皇は、長岡の北方、当時、葛野(かどの)と呼ばれていた地への遷都を突然発表しました。これが平安京です。この建議をしたのは、和気清麻呂であるとされ、その建議書によると、「長岡が10年経っても竣工せず、国費の費えがおびただしい」ためということだけで、遷都のはっきりした理由は記されていません。和気清麻呂が薦めたためとあるだけで、この遷都は、確かに唐突な感じがします。しかし、この時の状況からして、早良親王の祟りという意識が、遷都に至る大きな要因であったことは間違いないといえるのではないでしょうか。現代の感覚では、そんなのは迷信であると馬鹿にされてしまうようなことですが、当時の人たちにとっては、深刻な問題だったのですね。この後、平安京の整備が急ピッチで進められました。やがて、この地が京都と呼ばれ、その後、長きにわたる日本の都となっていったのです。
2009年02月22日
コメント(7)
平安時代は貴族の時代。中でも、藤原氏が摂政・関白の地位を独占し、さらに、藤原氏の中でも肉親同士が出世争いを繰り返しました。今回のお話は、そんな時代の断片でもあります。永観二年(984年) 花山(かざん)天皇が即位。この時、関白(摂政)の地位を切望している人物がいました。藤原兼家です。順番からいくと兼家が関白になっていたはずだったのですが、兄で関白だった兼通と仲が悪かったため、関白の座を譲ってもらえなかったのです。兼家は、とっくに関白になれていたはず。その思いを果たすため、兼家はついに、陰謀をめぐらすことで、出世を計ろうと考えるようになります。兼家も、天皇家とは姻戚関係にあり、孫にあたる懐仁親王は次の皇位後継者に決められています。そのため、彼は今の花山天皇が退位するように仕向けました。花山天皇は即位の時、17才、非常に色好みの性格でした。家臣に美貌の娘がいると聞くと、必ず召し上げ、側に侍らせていました。その中でも、抵子(きこ)という娘を特に寵愛し、やがて彼女一人にのめり込んでいきます。やがて、抵子が懐妊。それでも、側から遠ざけるのを嫌い、側に置きつづけました。そのため、 抵子の体は衰弱し、ついに亡くなってしまいました。熱愛する姫の死に対して、花山天皇の嘆きは尋常ではなく、出家して抵子の罪障を弔いたいとまで、口にするようになりました。これに、目をつけたのが兼家です。花山天皇の側近には、兼家の次男、道兼が仕えていました。道兼は、花山天皇に "私も一緒に出家しますから。密かに御所を抜け出しましょう"と持ちかけます。そんな道兼に説得され、ついに天皇は深夜ひそかに御所を脱出し、山科の元慶寺に向います。これらは、もちろん、兼家の指示とおりです。途中、花山天皇は "忘れ物をした" とか "もう一度考え直して" 等といい、躊躇を見せますが、護衛する兵に囲まれて身動きもならず、やがて元慶寺に到着しました。元慶寺で、花山天皇は髪を剃り落とし、戒を授けられます。しかし、道兼は "出家する前に父と会っておかないと心残りである、父に会いに行く"といい、天皇を残したまま京に戻りました。花山天皇は、この時はじめて、欺かれたことに気づいたといいます。天皇を欺いて出家させたという例は、史上他になく、自らの出世のためには、手段を選ばない、酷い話です。天皇は花山上皇となり、それからは、諸国を巡り歩いて寺社・仏閣を訪ね、仏教に帰依する生活を送りました。特に、観音霊場三十三ヶ所をめぐり歩いた事が、今に残る、西国三十三ヶ所めぐりの原形になったと言われています。一方の藤原兼家。思惑通りに、懐仁親王を即位させました。一条天皇です。兼家はその後、摂政、太政大臣、関白などを歴任して、藤原政権の基盤をさらに固めていきました。「この世をばわが世とぞ思う」と詠った藤原道長は、兼家の四男にあたり、藤原政権の最盛期を創り出していきます。又、兼家の妻は、兼家との生活や兼家のもう一人の妻との確執など、二十年間にわたる身近な出来事を日記に書き残しました。「蜻蛉日記」と呼ばれるものです。彼女は兼家の妻というより、右大将道綱母の名で知られ、「蜻蛉日記」は、その後の女流日記文学隆盛のさきがけとなった作品であると言われています。
2007年03月03日
コメント(4)
神社の中で、最も馴染みの深いもの一つは、学問の神様、菅原道真を祭っている天満宮でしょう。私もそうですが、試験の時にお世話になった人は多いと思います。 道真は学者ではありましたが、政治家として右大臣まで上り詰め、しかも菅原家の門下生が中央官司の大半を占めるなど輝かしい道真の隆盛の時代を築きます。それを目障りに思った左大臣藤原時平が、道真を妬む学者や出世を阻まれている皇族出身者たちと組み、道真を九州大宰府に左遷します。道真は不遇のうちに、大宰府でその生涯を閉じます。 しかし、その後京で転変地異が相次ぎ、又道真を大宰府に追いやった藤原時平も疫病に罹り亡くなります。人々はこれらを道真の祟りとして恐れました。そして道真の怨霊を鎮めるため京都に北野天満宮が建立されました。菅原道真は日本史上初めて、実在の人物が神として祭られた人物でもあります。 怨霊の神から、時を経て今は学問の神様として多くの人に崇拝されています。
2006年03月09日
コメント(4)
全6件 (6件中 1-6件目)
1