歴史一般 0
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「海の日」が7月の第3月曜になったのは、平成15年からなのだそうですが、これにより7月に3連休がとれるようになって、この時期、遠出する機会というのが増えているように思います。そんな中、今年は、京都北方の町、舞鶴へと出かけてきました。この「海の日」の3連休化に伴い、国が推進している事業の一つが、「海フェスタ」というイベント。これは海についての認識を深め「海の日」本来の意義を再認識してもらおうという趣旨のもののようですが、毎年、この時期に、全国の主要港湾都市で実施されていて、第11回目となる今回は京都が開催地。舞鶴を中心とした7つの市町村が共催という形で「海フェスタ」の催しが実施されています。 海フェスタ京都PRポスターのひとつ。 舞鶴特産の万願寺とうがらしをモチーフにしたものです。その内容はといえば、様々な企画展示とともに、セミナーやシンポジウム歴史見学会や映画まつり、コンサート、花火大会など、帆船や海洋船の一般公開もあったりと、本当に盛りだくさんです。行って見ると、会場があまりに多くの人で賑わっていたのには驚きました。そうそう、グルメ対決のコーナーなんかもありましたよ。今回、舞鶴を訪ねたのは、特に「海フェスタ」が目的というわけではなかったのですが、魅力的なイベントがいっぱいで、これは、さぞ楽しいんだろうなと思いながら見ていました。でも、そうした「海フェスタ」の賑わいの中、舞鶴の歴史史跡をめぐることにします。舞鶴といえば、明治以来、軍港として発展してきた町。今も、海上自衛隊がその施設を引き継いでいて、艦隊活動の中心拠点のひとつともなっています。この舞鶴が軍港として発展していく、そのきっかけとなったのは明治34年(1901年)のこと。日本海側に、ぜひ軍事拠点を置きたいと検討を進めていた旧日本海軍は、その最適地として舞鶴を選び、ここに鎮守府という軍事拠点を設置しました。その初代長官には、東郷平八郎を任命。これは日露開戦の、およそ3年前のことであり、ここをロシアに対する戦略拠点として位置づけたいということだったのであろうと思われます。その後、舞鶴には兵器庫・砲台・造船所などの施設が次々と作られていくことになりました。舞鶴には、その当時の建物のいくつかが、今でもそのまま残されていて、中でも、元兵器庫であったレンガ造りの建物群は、特に有名です。平成20年には、そのうちの6棟が、国の重要文化財にも指定されています。さて、次に、海軍の町・舞鶴ならではの、見どころをご紹介しましょう。それは、海上自衛隊が所有している艦船の特別公開で、自衛隊桟橋と呼ばれている岸壁に停泊している軍用艦をすぐ近くで見る事ができ、また、その艦内を見せてもらうこともできるのです。見学をするには、自衛隊桟橋の受付に行って、住所・氏名・年齢などを記入し、許可証をもらうだけ。入場は無料です。岸壁に入っていくと、この日は、護衛艦「まつゆき」、護衛艦「みょうこう」、補給艦「ましゅう」の3隻が停泊していました。すぐ近くまでいくと、さすがにすごい迫力です。また、この日は、護衛艦「みょうこう」の艦内が公開されていました。タラップのような階段を登り艦内へと入っていきます。入っていくと、制服を着た自衛隊員の人が、大きな声のあいさつで出迎えてくれました。軍艦の中に入るのは生まれて初めての体験で、ちょっと緊張です。部屋の中には、もちろん入ることはできませんが、それでも、外から見るだけでその頑丈で精密なメカニックの塊りであることが察せられます。護衛艦というのは、現在の自衛隊における主力艦。その搭載されている兵器というのも、また、すごかったです。目標物を自動的に追跡する機能を持ったミサイル1分間に4500発を発射することができる機関砲潜水艦を攻撃するための魚雷などそれらの実物を、すぐ近くで見れたというのは、またとない機会であったと思います。ところで、舞鶴では、この自衛隊桟橋以外にも色々なところを訪ねました。舞鶴港内、海軍ゆかりの港めぐり。自衛官OBの人が、港内の色々な施設について説明をして下さいました。赤レンガ博物館。レンガを作る窯を再現したコーナーもあったりとか、レンガに特化したその展示内容は充実していました。海軍記念館。自衛隊の施設内にある展示棟。日本海軍の歴史や歴代将軍たちの遺品など、が展示されていました。さきにも、少し触れましたが、この舞鶴というところは、東郷平八郎が、日露戦争の海軍総司令長官として出征する前に過ごしていたという東郷平八郎ゆかりの町。この舞鶴の町の通りの名前というのも特徴的なもので、「三笠」「初瀬」「敷島」「朝日」など、日露戦争当時の主力艦の名前がつけられています。まさに、司馬遼太郎さん「坂の上の雲」の世界。私も、この愛読者だっただけに感慨深いものがあります。舞鶴というところは、明治期の、海軍の歴史を偲ぶには、とても味わい深く、また、レンガ造りに彩られたその町並みは、どこかエキゾチックで、すごく趣きのある町であると、訪ねてみて、そんなことを感じました。
2014年07月22日
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秀吉が城下町を築いていた頃の伏見の町は、政治・経済・商流など、あらゆる面において日本の中心であったようです。徳川氏の時代になってからでも、伏見は政治の中心であり続け、伏見城が破却される江戸時代の始め頃まで、城下町伏見の繁栄は続いていたのだといいます。伏見に城が築かれていた期間というのは、およそ30年くらい。しかし、その間に伏見城は、幾度かの興廃を繰り返し、その度ごとに再建されたという、波乱に満ちた推移を経てきた城でもありました。以下、伏見城の変遷の歴史について、少しまとめてみたいと思います。***********伏見の城の成り立ちは、秀吉の隠居所に始まります。当時、秀吉は、甥である秀次に政権の座を譲り、隠居所を作って、伏見に移ってきていました。この隠居所は、宇治川のほとり、指月と呼ばれる丘陵に築かれました。ところが、謀反の疑いありという嫌疑をかけられ秀次が失脚したことから、秀吉が政権の中枢に復活し、これ以後、秀吉のいる伏見が政治の中心となっていきます。指月の隠居所も、壮麗な城へと再構築され、諸大名が、続々と伏見に移住してきます。ところが、この指月城、文禄5年に京都を襲った大地震により、あえなく倒壊してしまうことになりました。次いで、指月に代わって城が築かれることになったのは、指月の北西に位置する小高い丘陵、木幡山でありました。この城を中心にして、伏見には本格的な城下町が形成されていきます。しかし、そうした中で、秀吉が病没。秀吉亡き後の政権の座をめぐり、やがて、関ヶ原の戦いへと政情が推移していきます。関ケ原の前哨戦となった伏見城の戦い。家康の意を受けた鳥居元忠が、伏見に入城し、頑強な抵抗により、三成側の軍勢を10日以上伏見に釘付けにしました。やがて、激闘の末、元忠が切腹して、城は落城。伏見城は、炎上します。しかし、この後、家康は、再び木幡山に城を築城しました。新たに竣工した伏見城に、入城する家康。家康は、ここで政務を取りはじめます。伏見にあって、天下に指令を出す。このことは、天下の主となったということを、世間に印象付けるという意味があったのでしょうし、それだけの都市基盤が、伏見の町に備わっていたのであろうと思われます。征夷大将軍となり政務をとっている間、家康は、ほとんど伏見城で過ごしていたのだといい、また、秀忠・家光も、征夷大将軍の宣下を、ここで受けています。しかし、徳川政権の体制も確立されてきたということでしょう。元和9年(1623年)、一国一城令が発布され、これにより、伏見城は廃城となり、破却・解体されることとなりました。今は、往時の姿を全く留めない伏見城ではありますが、それでも、その建物は、京都を中心として色々な神社や寺院に移築されていて、わずかではあるものの、その面影を垣間見ることができます。***********御香宮神社を出たあと、桃山御陵にやってきました。桃山御陵というのは、明治天皇とその后である昭憲皇太后が葬られている陵墓なのでありますが、この御陵のある山というのが、木幡山。そうです。ここは元々伏見城があった場所なのです。陵墓に向かう参道には、木々が生い茂り、その敷地は、まるで古代天皇の陵のように広大です。ゆるやかな坂道を、しばらく登っていきます。ここが、元は城であったという雰囲気は、確かにありますね。参道のところどころには、大きな石が並べられていて、「伏見城石垣に使用されていたと思われる石材」という宮内庁の説明板が立てられていました。明治天皇陵に着きました。清々しく、清らかな陵墓ですね。この前に立つと、心が清められるような、そんな雰囲気があります。明治天皇が崩御されたのは、明治45年(1912年)のことでしたが、その年のうち、ここに埋葬されたといいます。墓所を京都に、というのは、明治天皇の意志によるものだったようで、元々ここが宮内庁の管理地であったため、用地として適当であると考えられたのでしょう。明治天皇陵の前は、ちょっとした展望台のような感じになっていて、そこからは、京都近郊の町の景観を見晴らすことができます。ここは、かつて、秀吉が臨終を迎えた場所であり、鳥居元忠が、奮闘切腹をした場所であり、また、家康が将軍として君臨した場所でもありました。そうした数々の歴史ドラマを包み込みながらも、今は、天皇陵として静謐の場になっています。歴史のうつろいの不思議さを感じさせる、そんな異空間であるかのようにも感じられる桃山御陵。多くの緑に包まれた、とてもきれいで、のびやかな御陵でありました。
2014年06月08日
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京都・伏見の京町通。かつて、伏見が城下町だった頃には、本通りであったとされている街道で、今でも、落ち着いた佇まいを感じさせる町並みとなっています。それでも、幕末期には、ここが鳥羽伏見の戦いの戦場となりました。市街戦が繰り広げられ、今でも当時の激しい戦いの様子を伝える弾痕を残した民家が現存しています。さて、今回は、京阪本線の伏見桃山駅から、宇治線の桃山南口駅に向け、いくつかの史跡を訪ねながら歩きます。まずは、鳥羽伏見の戦いに関連した史跡から。「鳥羽伏見」と呼ばれていますが、最初に、その戦端が開かれたのは鳥羽方面(竹田・城南宮の西側)であり、その砲声が伏見に響いてきたことから、やがて伏見方面でも戦闘が始まることになりました。伏見奉行所跡を示す石碑です。ここが伏見方面幕府軍の拠点であり、会津・桑名・新選組などの兵が、ここへ集結していました。伏見奉行所の付近は、伏見の戦いにおける主戦場となったところであります。当時、奉行所の建物は、両櫓が石垣で取り囲まれた堅牢な構造になっていたといい、広大な領域を占めていたそうですが、それも、今は市営団地になっています。当時を偲ぶよすがは、全く残っていなくて、ただ、石碑がポツンと建っているだけです。市営団地から、大手筋通に戻ってきました。次に向かうのは、御香宮神社。大手筋通には、大きな鳥居が建っていて、御香宮神社への参道となっています。御香宮神社。神功皇后を主祭神として祀ってきた古社であり、伏見のこの一帯の産土神でもあります。この御香宮神社、歴史上のポイントとしては、次の3つのことが挙げられると思います。ひとつは、この神社の創建にからんだお話。貞観4年(862年)といいますから、平安中期のこと。当時、疫病が広く流行して、多くの人々が苦しんでいました。ところが、ある日、ここの境内から、良い香りの水が湧き出してきて、この水を飲むと病が治ると、たちまち評判になりました。時の清和天皇もこの話を耳にすることとなり、この水を「御香水」と命名しました。このことが、御香宮神社の名の由来になったのだと、言われています。次に、時代は下って、安土桃山時代。当時、豊臣秀吉は、伏見城の築城を進めていましたが、その城の鬼門を守る守護神が必要であるとして、この御香宮神社を城内に移動させました。ところが、その後、豊臣家が滅亡し、伏見城が再建されるのに伴って、徳川家康は、この神社を元の位置に戻しました。現在の御香宮神社は、この時期に形作られたものであると考えられ、また、その頃の遺構のいくつかも残されています。そのひとつが、この神社の表門。これは、伏見城の大手門を移築したものであるとされていて、「伏見城大手門」と書かれた表札も掲げられています。そして、幕末期。鳥羽伏見の戦いの時、官軍が本陣を置いたのが、この神社でありました。表門の前の通りをへだてた南側には、伏見奉行所があり、ここで激しい銃撃戦・白兵戦が繰り広げられたのだといいます。薩摩を中心とする官軍は、総勢わずか800名。一方、幕府側の軍勢は、15000だったともいい、いずれにせよ、兵力の上では圧倒的に幕府側の方が優位でありました。しかし、結果としては、幕府軍が敗走。伏見奉行所も薩摩軍の砲撃により炎上してしまいます。この頃には、鳥羽方面の幕府軍も敗走してしまっており、官軍が「錦の御旗」を軍前に掲げたことにより、戦いの雌雄は決しました。後世の人からみれば、火力に勝る官軍が勝つべくして勝ったということになるでしょう。しかし、この時の実際の状況というのは、政治的にも財政面でも薩長側が追い詰められていて、その窮状を打破するために、一か八かの戦いを仕掛けたというのが、実態だったのだと思います。いわば、幕末維新の状況を一気に決したのが、この鳥羽伏見の戦いだったと言えると思います。( 鳥羽伏見の戦いについての過去の掲載記事 よければ参照下さい )そんなことを考えながら歩いていると、史跡や寺社を訪ねる時にも、また、違った面白さが感じられますね。伏見のこのあたりも、歴史が幾重にも積み重ねられてきた場所なので、なかなかに興味深いです。このあとは、御香宮神社をあとにして、さらに東へ、次は、桃山御陵を目指します。
2014年05月25日
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そよ吹く風が心地よい。保津川の渓谷に沿って縫うように走る、嵯峨野のトロッコ列車。少し前のことになりますが、嵯峨野から亀岡までトロッコ列車の旅を楽しんできました。始発の駅のホームは休日とあって、家族連れやカップルなどで人がいっぱい。トロッコというだけあって、客車は木調のシンプルなつくりになっていて、それをレトロな感じのディーゼル機関車が牽引していきます。客車に乗り込み、いざ出発です。ガタン、ゴトン列車は、ゆるやかに進んでいきます。眼下に広がるのは、保津峡の雄大な景色。時間帯さえあえば、保津川急流下りの舟と遭遇することもあるのだそうです。この保津川下りの舟というのは、海外でも広く知られているのだそうで、特に、イギリス王室で人気があり、皇族方も幾度か訪れてこられているのだとか、確かに絶景で、渓谷の美しさを満喫することができますね。鉄橋を渡り、やがて、トロッコ保津峡駅に到着しました。これと並行して走っているのが、JR山陰線なのですが、もともとの山陰線というのは、今のトロッコ列車のルートを走っていたものであり、平成元年、新しく線路が敷設され、山陰線の路線が移されたものなのでありました。でも、この旧線をそのまま放置しておくのはもったいないということになり、平成3年、ここがトロッコ観光列車の路線として生まれ変わったのでありました。現在はトロッコ列車が走る線路。この保津川沿いの鉄道を、最初に開通させたのは田中源太郎という人で、明治32年のことでありました。田中源太郎という人は、明治・大正期の京都財界を代表する大実業家で、その設立にかかわった会社は、30を超えるといい、現在の「京都銀行」「京都証券取引所」なども、彼が設立したものであります。政治の世界にも進出し、衆議院議員を3期、貴族院議員も務めました。そんな源太郎が興した事業のひとつが、京都~園部間を結ぶ鉄道の敷設。「京都鉄道株式会社」という会社を立ち上げ、鉄道による地域振興を目指し、建設に取り掛かっていきます。断崖絶壁が続く保津峡に線路を通すのは、かなりの難工事だったようですが、それでも、なんとか開業にこぎつけた源太郎。しかし、それもつかの間、開業8年にして鉄道国有化法が成立して、京都鉄道の路線は全て国に買収されてしまうことになります。大正11年のこと。田中源太郎は、国有化となった山陰線に乗車し、京都へと向かっていました。ところが、この列車が鉄橋を通過したあたりで、突然、脱線します。源太郎は、この事故のあおりで保津峡に転落。コンパートメントから投げ出された源太郎は、帰らぬ人となってしまいました。この大物実業家の突然の死については、当時、様々な憶測が飛び交い、暗殺説などもあって、その真相は、今も、謎に包まれたままです。山あいを走るように、時には逆巻くようにして流れている保津川の急流。往時の転落事故の事など、まるで素知らぬように、今も濤々と流れています。保津峡をめぐるトロッコ列車の旅も、いよいよ終着です。トロッコ亀岡駅に到着しました。30分足らずの時間ではありましたが、雄大な景色とトロッコ列車の旅を満喫することが出来ました。トロッコ亀岡駅の待合いロビーには、「トロッコ列車生みの親」として、田中源太郎の肖像画が掲げられています。自らが建設した鉄道の事故により、命を落とすことになった田中源太郎。彼の存在自体はあまり知られていなくとも、その残した業績は、今も、色々なところで息づいています。亀岡という町は、田中源太郎の出身地。彼が築いた瀟洒な邸宅跡も残されています。今でも、それが、料理旅館「楽々荘」として受け継がれていて、亀岡の観光名所のひとつになっています。
2013年12月20日
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間近に広がる北山杉の山々が美しい・・・。山国村というところは、山あいの川沿いに身を寄せ合うようにして佇んでいる、とても静かな集落でありました。南北朝の頃、光厳天皇が開いたという皇室ゆかりの「常照皇寺」や維新期の義勇兵「山国隊」の史跡を訪ねたいと思い立ち、先日、この京都の山深く、山国村へと行ってきました。京都駅からバスに乗って、高雄・栂尾・北山杉の里などを走り抜け、終着駅の周山まで。そこから、山国行きのバスに乗り換えます。京都駅から約2時間のバスの旅。いくつもの山を越えて、山深くまでやってきたなという感じです。山国村については、以前に少し、このブログで書いたことがありますが、かつては、御所に対し、用材をはじめとする数々の献上品を届けていたという、皇室とのつながりが深かった山里であります。皇室の直轄領であったということから、小さな村ながら、高い格式を持っていた村でもありました。この村の中心を流れているのは、桂川。この川の流れは、嵐山から京都の中心部へとつながっていて、村の主要産業である製材業にとって、材木を京へと運ぶ一大運送路にもなっていました。この川から獲れるものとしては、鮎が有名。禁裏御用達の鮎として、朝廷の食卓には欠かせないということで、毎年、重宝がられていたのだそうです。そんな山国村に残る古刹が、常照皇寺。南北朝時代に北朝初代の天皇となった光厳天皇が開いた寺であり、また、桜の名所としても有名なところであります。「常照皇寺」と記された石柱の建つ入口から、奥へと進んでいきます。なだらかな石段が続く参道を、さらに進んでいくと、寺の山門が見えてきます。この寺を創建したという光厳天皇。その天皇に即位していた時期というのは、後醍醐天皇が倒幕の挙兵に失敗し、隠岐に流されていた間のことでありました。その後、後醍醐天皇が復権してきて建武の新政を始めますが、結局、それがうまくいかず、続いて足利尊氏が反旗を翻したことによって、南北朝の争乱が始まることとなりました。その間、上皇として、北朝側の皇務の中心となっていたのが光厳天皇。しかし、南北朝という時代は、時局がめまぐるしく変転した動乱の時代で、光厳天皇でさえ、いく度か南朝側に捕らえられ、5年にわたって幽閉されていた時期さえありました。そうした点で、光厳天皇という人は、数奇な運命をたどった天皇であったのだといえます。その光厳天皇も、晩年には、出家して僧となり、奈良・京都などを転々とします。そして、その最後の隠棲の場所として選んだのが、この山国の地なのでありました。常照皇寺、貞治元年(1362年)の建立であります。ここの方丈の建物は、周囲が庭に面した作りになっていて、とても開放感があります。天井近くの鴨居の上に、仏壇があるというのも珍しい。そこには、釈迦如来が祀られているのですが、何と、これが、この寺の本尊なのだそうです。方丈の奥には、開山堂の建物が続きます。この中には、寺の開祖である光厳天皇の像が祀られているそうです。方丈と開山堂に囲まれた庭。そこには、何本かの桜の木が植えられています。常照皇寺というところは、いくつもの桜の名木があるということでも、知られたお寺で、桜の時期ともなれば、境内は華やかな桜色に包まれるといいます。国の天然記念物にも指定されている、枝垂桜の巨木「九重の桜」一重の花と八重の花が、同じ樹に咲くという「御車返しの桜」京都御所から株分けされた「左近桜」など。これらの桜を見るためだけに、わざわざここを訪ねる人も多いということで、一度は、桜の咲く時期、ここに来てみたいものだと思います。寺の後方には、ひっそりと御陵がたたずみます。ここに祀られているのは、光厳天皇の山国陵、後花園天皇の後山国陵、後土御門天皇の分骨所です。激動の時代の中、翻弄されながらも生き抜いてきた光厳天皇。光厳天皇にとって、この豊かな自然に包まれた山里というのは、終の棲家とするにふさわしい場所であると、きっと、そう思われたことでしょう。常照皇寺には、今でも、その頃の息吹が残されているような・・・そんなたたずまいが感じられる、とても、静かな里のお寺でありました。
2013年07月22日
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嵐山の南方、松尾山の麓にある松尾(まつのお)大社は、京都でも、最も古い神社のひとつであると云われています。阪急の松尾駅をおりると、すぐ前に、その大きな鳥居が建っています。鳥居の横に見えているのは、大きな徳利。この神社は、酒造りの神様としても有名な神社なんですね。山が間近かにあるために、鳥のさえずりが絶えず聞こえてきます。とても落ち着ける、雰囲気のある境内です。ここは、京都の神社の中でも、私のお気に入りの場所のひとつとなっています。この神社の本殿は、松尾造(両流造)と呼ばれる珍しい様式のもの。松尾造の本殿を持つ神社というのは、数が少ないようですが、安芸・厳島神社の本殿は、ここと同じ松尾造なのだそうです。松尾大社の歴史について。松尾山の山頂近くに磐座があり、そこでは太古の昔より地元民により祭祀が行われていたようです。やがて、そこへ、大陸より渡ってきた秦氏が、この地に移住してきて、松尾山の神を一族の氏神として崇めるようになりました。この地に社殿を築いたのは、秦忌寸都留(はたのいみきどり)という人。祭神は、大山咋神と中津島姫命の2神です。秦氏は、この地域一帯の開拓をすすめ、農業の新技術を持ち込むとともに、養蚕や酒造りなど新しい産業を興していきました。その後、平安京が造営された時には、賀茂社と並ぶ皇城鎮護の神として位置づけられ、朝廷からも厚い崇敬を集めるようになっていきます。元々、秦氏が、その氏神を祀ったということで発展してきたこの神社。明治までは、代々秦氏がここの神職を継いできていたのだそうです。秦氏により、日本に伝えられたものの一つが、酒造りの技術です。松尾大社は、「日本第一酒造神」と呼ばれたりもしていて、中酉祭という、年1回の大祭の時には、日本全国の酒造業者が、ここに集まってくるのだとか。境内には、「お酒の資料館」という展示室まで、用意されています。この松尾大社、他にも様々な見どころがあり、参拝するだけではなくて、色々と楽しめる神社でもあります。昭和を代表する作庭の大家・重森三玲、最晩年の作であるとされる庭。「曲水の庭」「上古の庭」「即興の庭」「蓬莱の庭」と4つの庭が鑑賞できます。「蓬莱の庭」では、池の鯉に餌をあげられるようになっているのも楽しいです。神像館では、この神社の摂社から発見されたものを含め、全18体の神像が展示されています。中でも、平安初期のものという男神像2体と女神像1体は、日本の神像彫刻の中でも、最古期の一つとされ、国の重要文化財にも、指定されています。境内にある「亀の井」と呼ばれている霊泉。延命長寿・蘇りの水であると伝えられていて、この水を汲んで持ち帰る人も絶えないという、人気の名水です。飲んでみると、確かにまろやか。酒造家の人たちは、この水を酒の元水の中に混ぜているのだそうです。また、この松尾大社、花の名所としても知られています。春のヤマブキ、梅雨の頃のアジサイなど、境内に咲く花々が、季節を華麗に彩ります。嵐山に行く時には、ちょっとだけ足を伸ばして・・・。きっと何かが発見できる、そんな素敵な神社です。
2013年06月16日
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室町期というのは、政情が不安定な状況が長く続いた時代で、特に、応仁の乱以降は、下剋上と呼ばれる社会秩序の大変動が起こり、戦国時代を現出させることになりました。室町幕府とは言っても、足利将軍が絶対的な権力を持っていたというわけでは決してなく、政治は管領を中心とした有力大名の合議制により運営され、中には、足利将軍を上回る権力を持った大名まで現れてくるようになりました。こうした室町幕府を創始したのが、足利尊氏。尊氏は、後醍醐天皇とともに鎌倉幕府を倒した中心人物でありましたが、その後、後醍醐天皇に対して反旗を翻し、それにより南北朝の争乱が起こることになりました。尊氏と云えば、天皇に弓を引いた逆賊であり、悪人であるかのような評価をされていた時代もありましたが、実際の尊氏というのは、後醍醐天皇を弔うために天龍寺を建てるなど、敵に対しても非常に寛容で、恩情に厚い人だったのだといいます。尊氏は、とても気前が良かったという話も有名で、部下に対して恩賞を惜しまず、それ故に、人は尊氏についてきたのだとも言われています。戦いにおいては勇猛、カリスマ性もありましたが、ただ、人柄の良さだけで、部下を統率してきたという面があり、逆の言い方をすれば、人の良いお坊ちゃん。組織の長としては、少し資質に欠けるところがあり、そのことが室町幕府のあり方の素地を作っていたような感じがします。そんな尊氏が建立した寺のひとつが、等持院。室町期を通して足利将軍家の菩提寺であったお寺で、歴代足利将軍の木像が祀られているということでも知られています。尊氏から義昭まで、堂内に15人の将軍の像が並んでいます。尊氏・義満・義政・義昭など、有名な足利将軍たちは、こんな顔をしていたのか、ということも見ることが出来て、なかなかに興味深いです。義満などは、この木像では、少し小太りのおじさんのようになっていました。あまり、馴染みのない将軍たち。足利15代のうち、暗殺された将軍が2名、都を追われて流浪のうちに亡くなった将軍も4名いたといいますから、室町幕府というのが、いかに弱体で、混乱の中にあったのかということが、よくわかります。こうして木像を見ていると、これら将軍たちの多くが、過酷な生涯を送ったであろうことが、偲ばれます。さて、今の等持院の佇まいについて見てみましょう。等持院の中心となっているのが、方丈の建物と、その前に広がっている池泉式の庭園。この庭は、夢窓疎石の作と伝えられているもので、しっとりとした、趣のある良い庭になっています。築山の上に建てられているのが、茶室・清漣亭。足利義政好みと呼ばれる様式のもので、上座のある二畳間が、茶室につながっているということが特徴的です。ここからは、庭の全貌が見渡せるように作られています。庭におりて、池のぐるりを歩いてみました。この池の周囲には、椿、楓、サツキなど、色々な種類の樹木が植えられていて、たっぷりと自然を満喫することが出来ます。池をめぐる散策路には、足利尊氏の墓もありました。庭の中で、ひっそりと佇む石塔。こうして庭を歩いていると、やはり、ここは尊氏の寺であるんだなぁという感じがしてきます。また、この等持院、足利将軍家以外にも、この地にゆかりのある人が、何人かいます。その一人が、日本で初めての映画監督となった牧野省三。牧野は、日本映画の草創期において、時代劇の芝居を映画として撮影するということを始めた人で、その元で阪東妻三郎・片岡千恵蔵など、多くの映画スターが生まれてきました。彼の映画撮影所というのが、かつて、この等持院の境内の中にあったということから、等持院には、牧野省三の銅像が建てられています。大正~昭和にかけて活躍した、日本画家の小野竹喬。岡山県笠岡市から京都に出て、竹内栖鳳門下に入り、西洋画の要素を取り入れた独特の画風により、日本画壇の中心にあった人です。この竹喬が晩年を過ごしたのが、等持院のすぐ近くにあるアトリエ。竹喬は毎日のように等持院を訪ねていて、等持院の木々は、竹喬の絵の素材になっていたのだといいます。等持院、なかなかに見どころの多いお寺なのですが、観光コースから、はずれているためか、訪ねてくる人は、あまり多くありません。でも、それだけに、静かに、ゆったりと見てまわれるお寺でもあります。楓色づく秋の頃は、また良いのでしょうね。もう一度、訪ねてみたい、そう思える寺院のひとつです。
2013年06月02日
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京都市の北方に、形よく均整のとれた山容を見せる霊峰比叡。山上には延暦寺の伽藍が立ち並ぶ、古えから続く信仰の山でありますが、洛北から見る、その山容は特に素晴らしく、東山三十六峰と呼ばれる山並みの中でも、最北端にあたります。この山の景観は、きっと、古くから京都の町に溶けこんでいたのでしょうね。今回、訪ねたのは、そうした比叡の山容とともに歴史を刻んできたという、いくつかの古刹。西賀茂から岩倉へ、洛北の古寺を探訪します。まず、初めは、西賀茂にある正伝寺というお寺です。この門から入って、山の道を少し登っていきます。正伝寺のあるこの山は、船山と名付けられていて、五山の送り火のひとつである、船形が灯される山としても知られています。この寺の正式な寺名は「正伝護国禅寺」。鎌倉後期に開かれた臨済宗の禅寺なのでありますが、護国という名がつけられているというのは、創建の当時、元寇によって日本が窮地に追い込まれているという時代背景の中、護国を祈願して建てられたという由来によります。その後は、後醍醐天皇の勅願寺となり、また、足利義満からの信任を受けたりということもあって、発展していったのだといいます。この寺の本堂は、桃山時代に聚楽第から移築されたものということで、重要文化財。本堂の中では、狩野山楽の襖絵(重要文化財)を鑑賞することができます。そして、もうひとつ、この寺の見どころといえるのが、何と言っても、小堀遠州の作庭と伝えられる枯山水。きれいに刈り込まれているツツジが、とても印象的で、石がひとつも使われていないというところに、シンプルで整然とした美しさがあります。さらに、その借景として庭園を彩っているのが、悠然と聳える比叡山。庭を眺めていると、ほっとするような、とても落ち着ける、雰囲気のあるお寺です。次は、岩倉にある円通寺というお寺。元々、この地は、後水尾上皇が離宮として開いたという幡枝御所があった場所で、その後、この離宮が受け継がれて、臨済宗の禅宗寺院となりました。円通寺という寺名も、その時に、後水尾上皇より賜ったという「円通」と書かれた勅額に因んだものなのだといいます。この寺の庭園も、国の名勝に指定されているという名庭。比叡山を借景に取り入れた枯山水になっています。あたかも、林の合間から叡山を望むという趣向なのでしょうか、とても風情のある庭でありました。そして最後が、妙満寺というお寺。室町時代からの歴史を持つという日蓮宗の寺院です。この寺は、元々、長い間、二条寺町にあったのですが、昭和になってから、この岩倉の地に移転してきました。それでも、この妙満寺というお寺は、なかなかに見どころの多いお寺なんです。そのひとつが、この安珍清姫の鐘。安珍清姫というのは、紀州・道成寺に伝わる伝説で、安珍に裏切られた清姫が、怒りのあまり蛇に化身して、鐘ごと安珍を焼き殺したというお話。この話は、能や浄瑠璃の演目としても取り上げられているので、ご存じの方も多いかも知れません。その後、この伝説の鐘は、秀吉が紀州征伐の時に、京に持ち帰ったとされていて、それが、ゆえあって、この妙満寺に伝わっているのだといいます。さて、この大きな塔のようなものは、何でしょう。まるで、シルクロードにいるかのような、日本の寺院には、やや不釣合いのような感じもする建物ですが。これは、インド・ブッタガヤの大塔を模して建てられたという仏舎利大塔です。この塔が建てられたのは、昭和48年。建立に際しては、檀家や信徒からの寄進が集められたといい、その内部は、広大な納骨堂になっているのだそうです。この納骨堂には、事情があって墓が建てられないという人の遺骨も、宗派を問わずに、預かっておられるのだとか。妙満寺、本堂からの眺めです。ここの本堂からは、雄大な姿の叡山を見晴らすことができるということで、知る人ぞ知るという感じの、比叡山、絶好のビューポイントとなっています。この場所から見た比叡山。確かに、心が晴れやかになるような、爽快さを感じる素晴らしい景観でありました。比叡山というのは、もちろん、京都市内の中心部からも見ることができるのですが、市内からの角度では、山の稜線が複雑になっているということもあって、やはり、洛北から見る比叡山が美しいのだといいます。「みやこ富士」とも称される、その美しい山容が、洛北の風景を素敵に形づくっている。そんなことが実感できるような、洛北の古刹めぐりでありました。
2013年05月05日
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山あいにある緑豊かな当尾の里は、多くの石仏たちにも出会える、のどかな山里です。木津川市の旅。浄瑠璃寺を訪ねたあとは、石仏をいくつか見つけていきながら、あじさい寺としても知られる岩船寺(がんせんじ)を目指して、里の小径を散策しました。昔ながらの山村といった風景が広がっています。空気がきれいで、素朴な感じの里の小径ですね。この当尾という地区は、奈良・平安の頃から寺院が建てられていたところで、南都六宗と呼ばれた奈良仏教からの影響を強く受けてきた地域でありました。また、その一方では、世俗化した奈良仏教に反発した僧たちが、奈良を逃れ、ここに草庵を結んだといい、反奈良仏教の僧侶たちが多く隠棲した地でもあったようです。そうしたことから、この地に寺や修行場が多く建てられ、かつては、ここを行き交う人も多かったということで、そうした人々を迎えるため、あるいは、その道しるべとして、いくつもの石仏が、この地に作られたということのようです。歩いていると、さっそく、石仏に出会いました。「薮の中三尊」と名付けられた石仏です。当尾の石仏というのは、ほとんどが、愛称のような名前が付けられているようですね。薮の中の岩に光背を彫りくぼめ、地蔵・観音両菩薩を形どっています。鎌倉初期のものなのだそうです。「カラスの壺二尊」一つの岩に阿弥陀如来と地蔵菩薩が彫られています。岩の上中央にある礎石の穴のようなものが、唐臼に似ているということから、この名があるようです。鎌倉中期のものということです。岩船寺に向かう坂道の途中に、大きな岩がありました。八帖岩と名付けられています。こんな急斜面にあって、今にも落ちてきそうという感じがするのですが、きっと昔から、ここにある石なのでしょうね。「わらい仏」当尾の石仏群の中で、最も有名なものの一つなのだそうです。鎌倉中期の作であるとのこと。阿弥陀如来と、脇侍しているのが観音・勢至の両菩薩です。笑みをたたえた、その姿は、行き交う人々を優しく見送っていたのでしょうね。私が歩いたのは、1時間ほどの道のりでありましたが、こうした石仏は、当尾の里の広範囲にわたって広がっているといいます。当尾の里、一般には、それほど知られていない地域なのかも知れませんが、こうした石仏を訪ねながら歩くこの道は、ちょっとしたハイキングコースにもなっていて、なかなか素敵ところでありました。岩船寺に着きました。ここは、あじさい寺という異名を持ち、花の寺としても知られた寺なのでありますが、訪れたこの時期は、あいにく時期はずれで、咲き誇る花々には出会えませんでした。しかし、この寺は、奈良時代に創建されたという古くからの年輪を刻んできた古刹なのであります。岩船寺本堂(昭和期の再建)天平元年、霊夢を見た聖武天皇が、行基に命じ阿弥陀堂を建立させたという由来を持つ寺。その後、平安初期、特に嵯峨天皇の信仰が厚かったということがあり、最盛期には、39もの堂舎を有する大寺院であったのだといいます。しかし、その後、たび重なる兵火に見舞われ、すっかり、寺域も小さくなってしまいましたが、それでも、行基作と伝えられる本尊の阿弥陀如来像(重要文化財)など貴重な文化財が残されています。十三重塔(鎌倉期・重要文化財)岩船寺三重塔(室町期の再建・重要文化財)古くからの歴史を伝えてきている、この当尾の里。ここまで行くのに、交通がちょっと不便ということはありますが、浄瑠璃寺・岩船寺などの古刹があり、また、素朴な石仏群も、とても魅力的でありました。木津川市というところは、当尾の里以外にも色々な古刹が残されている地区があるので、また、機会を見つけ、訪ねてみたいと思っています。
2013年04月14日
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横長の本堂の中、九体の阿弥陀像が整然と横に並んでいる。これは、九体阿弥陀と呼ばれているもので、平安時代の後期には、こうした様式の阿弥陀堂が、さかんに作られていたといいます。藤原道長による建立が、この最初のものであったといい、それ以後、これをまねて、京都を中心に30ヶ所ほど、同様のものが作られていたのだといいます。この時代、九体阿弥陀を祀るということが、ちょっとしたブームになっていたのでしょうね。それでも、長い歳月の中、戦乱や火災などにより、これらの諸堂は、次々と焼失してしまいました。しかし、一ヵ所だけ、今も、往時の九体阿弥陀が残されているところがあります。それが、京都・木津川市にある浄瑠璃寺というお寺。先日、この九体阿弥陀を訪ねて、浄瑠璃寺へと行ってきました。浄瑠璃寺は、当尾(とうの)と呼ばれる山里に、ひっそりと佇んでいます。奈良との県境に近く、奈良市からは直通バスも出ていますが、京都市内からは、これといった交通の便がなく、京都府とはいいながら、生活圏としては奈良にあるといったような感じのところです。当尾の里。浄瑠璃寺の周辺には、多くの石仏も点在していて、歩いていると、どこか飛鳥に似ているような、そんな雰囲気があります。浄瑠璃寺の入口まで、やってきました。畑の中にある細い参道を進んでいくと、山門とはいえないほどの小さな門があります。境内の庭は拝観自由。門をくぐると、大きな池が広がります。池を挟んで、左手に三重塔。右手に本堂(九体阿弥陀堂)が建っています。浄瑠璃寺庭園 (史跡・特別名勝)この庭の形式は、浄土式庭園と呼ばれているもの。東に位置する三重塔には薬師如来が、西側の本堂には九体の阿弥陀如来が、それぞれ祀られています。東は此岸(過去)であり、薬師如来が司る東方浄瑠璃浄土を表し、西は彼岸(未来)で、阿弥陀如来が導く、西方極楽浄土を意味しているのだと云います。こうした庭園配置自体、大乗仏教の思想に基づくものなのだそうです。浄土式庭園という様式は、池の前に、お堂が建てられているということが特徴的でありますが、その代表といえるのが、宇治の平等院。この浄瑠璃寺が建立されたのも、平等院とほぼ同じ時代のことで、当時、多くの人が極楽浄土を願っていた、そうした世相が反映されたものであると云えます。この庭園は、往時の浄土庭園のたたずまいを、ほぼそのまま、今に伝えている庭であるといわれていて、平安後期の建物である三重塔や本堂とともに、とても貴重な文化遺産であるのだと思います。浄瑠璃寺三重塔(国宝)本堂・九体阿弥陀堂(国宝)さて、九体阿弥陀が祀られている本堂へと入っていきます。薄暗い中、しかし、ピーンと張りつめたような雰囲気が漂っている堂内です。九体の阿弥陀像と、それを左右から包むように安置されている、いくつかの仏像。それらが、とても素晴らしく、何か引き込まれていくような、そんな迫力がありました。絵はがきの写真から、そのいくつかを紹介しましょう。九体阿弥陀如来像(国宝)九体阿弥陀として現存している唯一のもの。阿弥陀が九体になっているということの意味は、九品往生といって、努力や心掛けにより、往生には九つの段階があると説いた経典に基づくもので、九体の阿弥陀は、その、それぞれの段階を受け持っているのだといいます。どの阿弥陀さまも、皆、柔和な面持ちで、安らぎを与えてくれているような感じがします。持国天像・増長天像(国宝)平安時代・四天王像の代表といわれている仏像。ごく間近で、触れられるくらいの位置から拝めるこの2像は、戦慄を憶えるくらいに、すごい迫力がありました。截金細工を交えた巧みな技、その造形も素晴らしく、とても、感銘を受けました。四天王の他の2像は、国立博物館に寄託中ということです。吉祥天女像(重要文化財)普段は秘仏とされているこの像ですが、訪れたこの日は、たまたま、開帳日にあたっていて、拝観することが叶いました。鎌倉時代のものだということです。そのふくよかな顔立ちは、どこか豊かな心持ちを与えてくれそうですね。実は、以前からずっと、一度、訪ねてみたいと思っていたこの浄瑠璃寺。庭園も、建物も、仏像も、どれもみな、見ごたえ十分で、期待に違わぬ素晴らしさでありました。念願かなった、この浄瑠璃寺探訪というのは、ちょっとした、感動に包まれたひとときでもありました。
2013年03月31日
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露と落ち 露と消えにし わが身かな 浪速の事も 夢のまた夢有名な秀吉辞世の歌でありますが、でも、実際に、秀吉が死を迎えたのは、伏見城の一室においてでありました。死の間際、「返す々々、秀より事、たのみ申候」と遺言を書き残し、五大老・五奉行を集めて、誓書を書かせたといいますから、秀吉が死に際して、思い残すことというのは、やはり、自分が亡き後の豊臣家のことだったのでしょう。当時、朝鮮との戦いが継続中であり、また、秀吉死すということが知れると、不測の事態が起こらぬとも限りません。そのため、秀吉の死は秘匿され、秀吉の亡骸は、人知れず、深夜の内に、伏見城から運び出されることになります。五奉行のひとり前田玄以と僧と人足数名により、秀吉の亡骸は、東山三十六峰のひとつ、阿弥陀ヶ峰まで運ばれ、ひっそりと、葬られることになりました。華麗な天下人の最期とは思えない、あまりに淋しげな野辺送りでありました。***この秀吉が葬られた場所は、今も、豊国廟として残されています。阿弥陀ヶ峰の山頂近く、先日、そこを訪ねてみました。幾重にもつらなる石段。石段とはいえ、ちょっとした山登りのようであります。豊国廟までは、全部で565段あるそうですが、登りきるのは、やはり、相当きついです。何度も何度も休みながら、黙々と登っていきます。やがて、唐門が見えてきましたが、廟は、まだこの先でした。秀吉の死が公表された後には、この参道近くに豊国神社が建てられ、秀吉は神格化され、豊国大明神として祀られました。創建の当初は、お参りにくる人も多く、このあたりも、人出が絶えなかったということですが、しかし、豊臣家が滅亡してからは、徳川家によって廟も破壊され、この周辺も荒れ果てていたのだといいます。豊国廟が再び整備されたのは、明治時代。現在の豊国廟は、明治期に再建されたものであります。秀吉の墳墓に着きました。墳墓の上には、これぞ稀代の英雄という感じの立派な石塔が建てられていました。墓前で静かに手を合わせ、豊国廟を後にします。豊国廟のあと、方広寺へと向かいました。方広寺というのは、前回の日記にも書きましたが、大仏を建立するため、秀吉により創建されたという寺院。でも、方広寺は、大仏というよりも、大坂の陣が始まるきっかけとなった鐘銘事件の舞台となったということの方が良く知られているのかも知れません。方広寺の本堂です。往時は、この周辺一帯を寺域としていた広大な寺院であったのですが、現在は、本堂と鐘楼が残されているのみ。これが、あの方広寺かと、がっかりしてしまうほど、今では、小さな寺院になってしまっています。関ヶ原の戦いのあと、天下の実権を握った徳川家康。一方の豊臣家はといえば、名目上、主家という形が続いているとはいうものの、実質は、大坂を領するだけの一大名になってしまっていました。それでも、さらに徳川政権を盤石のものにしたい家康は、なんとか、口実をつけ、豊臣家を討伐してしまおうと考えていました。そこへ、家康が持ち出してきたのが、方広寺の鐘銘についての難題です。慶長17年(1612年)方広寺の大仏が完成し、家康の承認を得て、開眼供養の日を待っていたある日のこと。突然、家康から開眼供養を延期するようにという命令が届きます。それは、大仏開眼に合わせ新たに作られた梵鐘の銘文の中に徳川家をおとしめる文言が含まれているというもの。「国家安康」「君臣豊楽」国家安康は、家康の家と康の文字を分断する不吉な語句であり、君臣豊楽は、豊臣を君主とするということを意味している。これは、家康と徳川家を冒瀆するものである。言い掛かりとしか言いようがない、明らかなこじつけではあるのですが、この件を弁明するため、豊臣家家老の片桐且元が家康のもとを訪ね、それが、こじれていったことが、やがて、大坂の陣へとつながっていくことになります。方広寺には、その国家安康の鐘の実物が、今も、残されています。この鐘、国の重要文化財にも指定されています。「国家安康」「君臣豊楽」の箇所には、それとわかるように、色がつけられていました。鐘楼の天井は、花格子になっていて、彩色画が描かれています。きっと、かつての鐘楼内部も、華やかに彩られていたのでしょうね。歴史を動かすことになった、この梵鐘を間近に見ることが出来る、この方広寺は、なかなかに感慨深いものがあります。大坂の陣で豊臣家が滅亡した後、徳川氏は、豊臣を半ば罪人であるかのように扱い、冷たい処遇を続けました。豊臣家にゆかりの建物、豊国廟や祥雲寺、方広寺なども、破却されたり、あるいは縮小されたりしました。ところが、明治維新後になると、今度は、再び豊臣家が見直されることになります。それは、徳川が逆臣となったことの裏返しでもあるのですが、豊臣は、朝廷に対して幕府を作ることをしなかった忠臣であるとされ、今度は、豊臣家が称揚されるようになっていきます。方広寺に隣接し、建てられている豊国神社。明治13年(1880年)明治政府によって、この地に再建されたものです。豊国神社のシンボルともなっているのが、この華麗な唐門。南禅寺金地院から移設されたものということですが、元は伏見城の唐門だったのだといいます。この欄間や扉の装飾など、細部まで贅を尽くした豪華なもので、国宝にも指定されています。豊臣家の栄華のあとを偲ぶことができる、華麗な造形であると云えますね。秀吉の生涯を振り返ってみると、まさに波乱万丈。乱世の英雄の栄枯盛衰は、常のこととは言うものの、死してもなお、その評価が二転三転したりもします。その栄華のあとを見るにつけ、逆に、はかなさを感じたりもします。秀吉ゆかりの地を、いくつか訪ねてみて、その偉大さと、はかなさと、愚かさと、色々なことを感じた、そんな京の旅でありました。
2013年02月18日
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京都の東山七条付近というのは、秀吉や豊臣家にゆかりのある寺社や史跡が多く残されているところです。今回は、そうした寺社や史跡を訪ねながら、秀吉晩年のことについて振り返ってみたいと思います。***天下統一を成し遂げ、関白太政大臣という極官にまで登りつめた豊臣秀吉。しかし、その晩年、大きな悩みのたねとなっていたのが、自身の後継者問題でありました。そうした中、側室の淀殿に男子が生まれた時の秀吉の喜びようというのは尋常でないほどで、その子を鶴松と名付けて、大坂城を与え、後継者に指名します。しかし、その鶴松が、わずか3才にして夭折してしまいました。これを大いに嘆き悲しんだ秀吉が、その菩提を弔うため建立したのが、祥雲寺というお寺でありました。この祥雲寺というお寺自体、現存はしていないのですが、「智積院」が、その跡を継いだ寺として残されています。東山七条の交差点のところに、大きな寺域を構える智積院。かつての祥雲寺も、かなり大きな寺院であったということですが、特に、その客殿は、当時、日本でも最大規模のものであったのだといいます。しかし、後に家康が、祥雲寺を紀州根来寺の僧に与えたことにより、祥雲寺の建物は再編され、智積院として生まれ変わって今に至っています。それでも、この智積院には、かつて祥雲寺だった頃の痕跡が、いくつか残されています。その一つが、大書院から眺める池泉式の庭園。この庭は、祥雲寺、往時の面影を留めているものであるのだといいます。それと、もうひとつ、この智積院に残されているのが、長谷川等伯・久蔵父子により描かれた有名な障壁画。「桜楓図」は、桃山時代を代表する絵画であるとされていて、国宝にも指定されています。これらの絵画は、かつて祥雲寺の客殿を飾っていたものだったといい、幼くして亡くなった愛児を弔う、秀吉の思いが伝わってくるようでもあります。ところで、秀吉といえば、華麗な建物や大規模な建造物の数々を作らせたということでも知られていますが、その晩年の代表作ともいうべきものが、方広寺の大仏でしょう。奈良の大仏にならい、自らも京都に大仏を造りたいと思い立った秀吉は、方広寺というお寺を建立し、その地に大仏殿と盧舎那大仏の造営を始めました。これが完成したのが、文禄4年(1895年)。高さが19メートルあったというこの大仏は、東大寺の大仏よりも大きいもので、当時、日本一の大仏であったとされています。さらに、また、この時に行われた開眼供養というのも壮大なものだったようで、各宗派から、合計1000人の僧が出仕し、盛大な供養が営まれたといいます。智積院の隣にある妙法院というお寺には、桃山時代の国宝建築物として、庫裏(台所)が残されていますが、この建物は、この時、1000人の僧の食事を用意するための施設として、秀吉により建てられたものなのでありました。日本一の大きさを誇ったという、壮大な方広寺大仏。しかし、それも、結局、一年だけのこととなりました。この開眼供養の翌年、突然、大地震が京都を襲い、何と、この大仏は、あえなく倒壊してしまいます。その後も、引き続き、秀吉の子秀頼により、大仏が再建されるのですが、でも、どうやら、この大仏は、良くない巡りあわせにあったようです。江戸初期に、またもや地震がこの地を襲い、この秀頼の大仏も倒壊。その後、木製の大仏が作られますが、これまた、今度は落雷により焼失します。江戸時代の末になって、有志が集まって資金を出しあい、再び、大仏が作られますが。しかし、これも昭和になってから、火事により焼失してしまいました。この地は、現在「大仏殿緑地公園」として整備されています。秀吉という人は、下賤の身から登りつめていったというだけあって、その間には、えもいわれぬほどの苦労を重ねてきたでしょうし、また、その分、人情の機微が良くわかっていた人だったのだと思います。そうであるからこそ、人は秀吉についてきたのだと思います。それでも、秀吉の晩年は、人格のたがが狂ってしまっていたとしか思えません。秀吉は、私の好きな武将の一人ではあるのですが、それでも、その晩年の愚かな所業には、目を覆いたくなるほどです。中でも、その最大のものが、朝鮮出兵でしょう。方広寺のほど近くに「耳塚」という史跡がありますが、これは、朝鮮で武功を挙げた証として、将兵が持ち帰った敵将の鼻や耳を埋葬した跡です。秀吉は、それらをここに集めて、供養を行ったのだとも云われています。東山七条に、ゆかりの地を訪ねて・・・。次回もこの続きです。秀吉没後の豊臣家にゆかりの史跡をめぐります。
2013年02月11日
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「そうだ 京都、行こう。」というのは、JR東海が行っている京都観光キャンペーン。テレビのCMや駅のポスターなどでも、結構、目にする機会があると思います。このキャンペーンが始められたのは平成5年といいますから、もう20年近く続けられているということになります。春夏秋冬と季節に合わせて年4回。京都の観光地がひとつずつ紹介され、その美しい映像とあいまって、気のきいたキャッチコピーの文言に、京都の魅力がかきたてられます。「そうだ 京都行こう。」のテレビCMを集めたものをYouTubeで見つけたので、一度、ご覧ください。ナレーターは長塚京三で、BGMで流れているのがサウンドオブミュージックの挿入歌であった「私のお気に入り」です。「そうだ 京都、行こう。」テレビCM集このキャンペーンは、取り上げられているロケ地もいいですね。有名な観光名所ばかりでなく、マイナーではありながらも情緒を持った寺院のいくつかもロケ地に選ばれています。その一つが蓮華寺。ここは、私も初めて行った時に、なんて雰囲気のある素敵なお寺なんだろうと感激し、たちまち、お気に入りになった場所なのですが、そのような、小さな目立たないお寺なども、取り上げられたりしていて、そのセレクトの幅の広さにも感心させられます。「そうだ 京都、行こう。」キャンペーンは、京都の魅力を発信し続けることで、京都観光の盛り上がりの一端を担ってきたように思います。そこで、私も勝手ながら、今まで京都に行った中から、おすすめの場所を、いくつか選んでみることにしました。もちろん、私の独断と偏見が入っていますが、趣きがあると、私が感じた寺社のベスト20です。< gundayuuが選んだ、おすすめの京都ベスト20 > (五十音順、リンクは当ブログ過去の掲載記事です。) 宇治上神社 清水寺 銀閣寺 釘抜地蔵 高台寺 高桐院 古知谷阿弥陀寺 三千院 浄瑠璃寺 神護寺 詩仙堂 清閑寺 醍醐寺と三宝院 東寺 東福寺 平等院 平安神宮と神苑 松尾大社 龍安寺 蓮華寺京都は、本当に見どころにあふれていて、他にも挙げたいところがいっぱいあるのですが、無理やり20におさめたという感じです。1000年以上にわたり、日本の歴史・文化の中心であり続けてきた京都。それだけに、その積み重ねられてきた深さと広がりは尽きることなく、その魅力は、全く今も色あせていないと思います。と・・・、ここまで、私を京都好きにさせてくれたのが、京都検定の存在でした。2級の勉強を始めて以来、約2年半の間、どっぷりと、京都にのめり込ませてくれました。そして、昨年末、受験した京都検定の1級。先日、結果通知が届いて、その結果は、何と合格。成果が実って嬉しいということは、もちろんあるのですが、でも、その反面、これで、京都とお別れなのかという、どこか寂しい気分と、これから、新たな京都とのつきあいが始まるという期待と、今は、複雑な気持ちでもあります。人それぞれ、感じ方や受けとめ方が違うというのは当然のことですが、京都というところは、多様性があるところですし、又、時折々で、異なる顔を見せてもくれます。自分だけの京都を見つけに・・・。また一度、機会があれば、京都を訪ねてみられてはいかがでしょう。
2013年02月03日
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新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。今年の元旦は、家族で京都まで初詣に行ってきました。向かった先は、京都祇園の八坂神社。四条通りは、多くの初詣客が行き交っていて、予想していた通りの、たいへんな人出でした。でも、京都へ初詣というのも、しばらくぶりで、人混みの中にも、やはり、華やぎと活気を感じますね。八坂神社の中も、多くの人でありましたが、参拝するのに、行列を作って順番を待つということはなく、比較的スムーズに拝殿まで進み、参拝を終えることが出来ました。八坂神社といえば、その祭神が素戔嗚命(スサノオノミコト)です。スサノオという神は、荒ぶる神の代表ともいわれるほどの、とても強い神様というのが、その印象。疫病が流行した時、それを押さえるために、八坂神社の神官がスサノオの力に頼り、これを鎮めようとしたことが祇園祭の起源であるとされていて、そうした面では、荒々しい神でありながらも、近しい存在になっているように思います。さらに、スサノオには、もう一つ意外な側面があります。それは、スサノオは歌の神であるということ。スサノオは、始めて和歌を詠んだ、和歌の始祖であると言われていて、和歌の神様でもあるのです。スサノオといえば、ヤマタノオロチを退治したという話が有名ですが、この時、オロチに食ベられそうになっていた少女・櫛名田比売(クシナダヒメ)を助けだし、その後、スサノオはクシナダヒメと結婚をします。この時に、スサノオが詠んだというのが、日本で初めての和歌なのでした。 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を八坂神社では、スサノオのこの故事に因み毎年、1月3日に「かるた始め」の祭典が行われています。八坂神社で参拝の後、その裏手にある円山公園に行きました。元旦は、快晴の天気にも恵まれ、清々しい年明けが迎えられたように思います。この一年が、穏やかな良い年になれば良いですね。 このブログとも、また今年一年、よろしくお付き合い頂けますよう、お願い申し上げます。
2013年01月02日
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伏見区上鳥羽の浄善寺というお寺には、「恋塚」と呼ばれる石塔が残されています。「恋塚」とは、何ともロマンチックな言葉の響き・・・。この「恋塚」には、遠藤盛遠(後の文覚上人)と袈裟御前の恋物語が伝えられているのですが、しかし、それは、そのロマンチックなネーミングとはうらはらに、悲しくも、そして、残酷でさえある、恋のお話なのでありました。今回は、この「恋塚」にまつわるお話について、まとめてみたいと思います。*****平安時代の末、院の警護にあたる北面の武士に、遠藤盛遠という男がいました。年若く血気盛んな、気性の激しい男でありましたが、ある日、一人の女性を見染めます。その名は、袈裟御前。やがて、盛遠は、その女性が実は自分のいとこであり、しかも、今は、同僚である渡辺渡に嫁いでいるということを知ります。永らく会わないうちに、こんなに美しい女性になって、それが、渡の妻になっているとは・・・。盛遠の袈裟に対する恋慕の思いは、日に日に高まっていきます。そうした中、やがて、盛遠は袈裟の家に乗り込んでいき、袈裟の母に対して刀をつきつけ「渡と縁を切れ」と迫ったりするようにまでなっていきます。盛遠からの強引な求愛に対し、思い悩む袈裟御前。そして、悩んだ末に袈裟は、ついに、ある決断をします。「今夜、寝静まった頃、寝所に押し入って、私の夫を殺してください。」段取りをつけ、夫を寝かせておくようにしておきますから・・・。ついに思いが通じたと、喜ぶ盛遠。袈裟に教えられた通りに、渡の部屋に忍び込んで、ひと思いに刀を振り下ろし、その首をはねます。しかし、その次の瞬間、盛遠は、自分がとんでもない過ちをおかしてしまったことに気づきました。自分がはねたのは、なんと、渡ではなく、愛する袈裟の首。そうです。袈裟は、母と夫を守るため、その身代りとして、渡の寝所に入っていたのでありました。己の罪深さを思い知った盛遠は、強い悔悟の念におそわれ、髪をまるめて、出家することとなりました。*****その後の盛遠は、文覚と名乗り、修行のため全国を行脚してまわりました。やがて、都に戻った文覚は、当時荒廃していた神護寺や東寺などの諸寺を次々に再興。後白河法皇からも信頼されるほどの名僧となっていきます。また、当時、伊豆で流罪生活を送っていた頼朝に対し、挙兵を促したということでも、その名を歴史に残すことになりました。「恋塚」のある浄善寺です。この寺は、寿永元年(1182年)袈裟御前の菩提を弔うため文覚上人により建立されたものと伝えられています。実際に行ってみると、きれいに清められ整えられている、気持ちの良いお寺でありました。袈裟御前の首を埋めたと伝えられている「恋塚」。この五輪塔には、きっと、毎日花が手向けられているのでしょうね。この悲しい物語に対し、多くの人が、これまで袈裟の供養を続けてきているようです。文覚上人の供養の思いも、袈裟には通じているのでしょうか。今も、浄善寺と「恋塚」は、何気ない住宅地の中に、ひっそりと佇んでいます。
2012年12月16日
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畳が一面に敷きつめられた部屋。床の間には、掛け軸や花器などが飾られ、部屋は、障子やふすまにより仕切られている・・・。日本では一般的な、和室の部屋でありますが、こうした居住空間が生まれてきたのは室町時代の頃のこと。この住宅様式は、出現してきた当初、書院造りと呼ばれ、そうした部屋の中から、茶の湯や生け花など、様々な日本の伝統文化が生まれてきました。銀閣寺というお寺は、こうした書院造りの原初の姿を、そのままに、今に伝えている寺院でもあります。京都を代表する観光地として、あまりにも有名な銀閣寺。その正式名称は「慈照寺」といい、平成7年には世界遺産にも登録されています。銀閣寺を代表する建物が、国宝の銀閣。金閣・銀閣と並び称されることが多い、この銀閣ですが、金閣の方は、金箔が一面に貼られていて、絢爛豪華な印象であるのに対し、こちら銀閣は、しっとりとした渋めの建物になっています。この銀閣にも、元々は、銀箔が貼られていたのかというと、そういうわけでもなくて、創建の当初は、一面に黒漆が塗られていたのだそうです。この銀閣の正式名称は「観音殿」。二層のうちの、一階部分は「心空殿」、二階の部分は「潮音閣」と、それぞれの層にも、名前がつけられています。一階は書院造り風の住居、二階は観音像が安置されている仏殿になっているのだそうです。銀閣の前庭には、ちょっと不思議な砂の造形が広がります。帯状の砂紋になっているのが銀沙灘、その後方にある、円錐を切り取ったような形の盛り砂は、向月台といいます。これらは、江戸時代に銀閣寺が改修された時に作られたということなのですが、その作られた経緯や目的などについては、良くわかっていないのだそうです。銀閣寺の庭園もまた素晴らしいです。錦鏡池という池ごしに、銀閣を望みながら、池の周囲の遊歩道を進んでいきます。木々や花々に目をやりながら、さらに小高い丘を登っていくと、そこにも、もう一つの庭があります。山麓にあるこちらの庭園は、昭和になって発掘・再現されたものなのだそうで、室町の頃の面影を残している庭であると言われています。これらの庭園は、国の特別名勝に指定されています。ところで、銀閣寺というのは、元々、室町の8代将軍・足利義政の築いた山荘・東山殿があったところ。義政は、祖父である義満が築いた北山殿(金閣)への思い入れが強く、また、彼自身、政治から離れて隠棲することを望んでいて、そのための、山荘をぜひ造営したいと考えていました。しかし、義政には、嗣子となる男子がいなかったため、後継者を弟の義視に定め、退位する準備を進めていきます。そして、その一方で、庭園や山荘などの設計についても、自らの手により取り掛かろうとしていました。ところが、そうした折、妻の日野富子に男の子(義尚)が生まれます。そこから、こじれ始めたのが義政の後継者問題。結局、この後継者争いは、山名宗全と細川勝元の間の戦いへと発展し、ここから10年にも及ぶ長い戦乱が続いていくことになります。これが、世にいう「応仁の乱」。この戦いにより、政治は大きく混乱し、京都の町は焦土と化しました。義政の念願であった山荘造営の計画も、あえなく頓挫します。しかし、それでも義政は、山荘造営に対する夢をあきらめていませんでした。応仁の乱が鎮静化し始めると、義政は実子・義尚に将軍職を譲り、ついに念願だった退位を果たし、再び、山荘造営にとりかかっていきます。こうして、8年の歳月をかけ、完成したのが東山殿なのでありました。池をめぐる庭園と、12を数える亭舎が山上や庭園内にかけて配置されていたという東山殿。この東山殿には、文化人や公家・禅僧などが集い、いわば、義政の芸術サロンのようなものになっていきました。そして、こうした中から、和室の文化や、日本の伝統文化が生まれてくることになるのです。銀閣寺の堂宇のひとつ、国宝・東求堂です。義政の築いた東山殿。その当時の建物のうちで、今に残っているのが、銀閣(観音殿)とこの東求堂。もともと、この東求堂というのは、義政の持仏堂であり、また、彼の書斎でもあった建物でありました。通常は、非公開なのでありますが、訪れたこの日は、たまたま特別公開の日にあたっていて、その内部を拝観することができました。東求堂の中の一室、「同仁斎」と名付けられている部屋です。義政が書斎として使っていた部屋であり、また、ここに様々な人が集まることにより、義政の芸術サロンともなっていたとされている部屋であります。この「同仁斎」が、現存する最古の書院造りの部屋。今で言う、床の間にあたるものの原初の形が、そのまま残されていて、義政は、ここに美術品・工芸品の数々を飾っていたのだといいます。床板のように見えているのが、実は、これが備え付けの文机。「附書院」と呼ばれているもので、このあたりも原初の床の間という感じがします。この部屋の広さは四畳半。これが四畳半間取りの発祥であるとされていて、この半畳のたたみというのが、ここに、炉を置き、茶をたてるためのスぺ―スとして、義政が工夫したものなのでありました。この部屋を訪れた客人に対して、義政が、茶をたて、花を賞で、香をたてたことが、茶道・華道・香道の源流になっていったとされているのであります。和室の部屋の原初の姿をとどめ、和文化発祥の場所でもあった、この東求堂・同仁斎。これこそ、義政の研ぎ澄まされた美意識から生み出されたものであり、わび・さびといった日本文化が発展していく元になったものなのでありました。義政という人。政治家としては、戦乱と混乱の時代をもたらし、そうした面では、全くの失格者と言わざるをえない人だったわけですが、しかし、その反面、美の求道者、具現者としては、卓越した感性を持った人でありました。今日の日本文化という意味でいえば、大きな影響を後世に残したと人ということが言えるのだと思います。和文化の源流の姿を、今にとどめる、この銀閣寺。とても貴重な文化遺産であると思いますが、しかし、また、そこからは、文化と世俗社会という両面において、その光と影が、垣間見えてくるようにも思えます。
2012年11月10日
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明治の哲学者たちが、思索にふけりながら散策したという哲学の道。清流の音しか聞こえない。往時は、本当に何もない静かな小道で、考え事を深めるには、さぞ、最適の散歩道であったであろうことが偲ばれます。哲学の道の傍らを流れるのは、琵琶湖疏水の支流。海運や発電により、京都の近代化を推し進めた琵琶湖疏水ではありますが、その流れも、このあたりまでくると、実用面よりも、しっとりとした風情を感じさせます。ここが、今のような遊歩道として整備されたのは、昭和45年のこと。日本の道100選にも選ばれているという、代表的な散歩道であり、また、この周辺は、いくつもの名刹や古社が点在している地域でもあります。先日は、この哲学の道に沿い、周辺の寺社のいくつかを訪ねてみました。哲学の道の南の出発点は、若王子橋。ここから、北端の銀閣寺橋へと向けて歩いていきます。この若王子橋のたもとに建っているのが、「熊野若王子神社」。後白河法皇が、紀伊から熊野権現を勧進して建立したという古社であります。歴代の足利将軍からも崇敬を集めた神社であったということで、足利義政は、ここで盛大な花見の会を開いたと伝えられています。その後の応仁の乱で社殿が焼失。現在の社殿は、豊臣秀吉により再建されたものなのだそうです。こちらの神社は、「大豊神社」。平安中期、宇多天皇の病気回復を願って建立されたという由緒を持つ神社です。この大豊神社は、椿や紫陽花の名所としても知られているところですが、何と言っても、ここでの必見は、摂社・大黒社の狛鼠。鼠が大国主命を助けたという故事に因んだもので、狛犬の代わりに狛鼠が祠の両脇に鎮座しています。この境内には、狛鼠の他にも、狛猿や狛鳶などの姿もあり、ここは、色々な狛動物たちが勢ぞろいしているさまが楽しめる神社でもあります。哲学の道に戻ってきました。この哲学の道。元々は、何もなかったはずではありますが、今や、休日の日中ともなると、多くの観光客で賑わいます。道沿いには、飲食店や雑貨屋さんなどの店もあり、かつての思索の道も、今では、すっかり観光の道になっています。哲学の道を離れ、また、寺社めぐりを続けます。こちらは、後水尾天皇の皇女が開いたとされる「霊鑑寺」。代々、皇女が住持を務めていたというお寺で、またの名を「谷の御所」とも呼ばれる尼門跡寺院であります。ただ、この寺院が拝観できるのは、春秋に行われる特別公開の時のみで、訪れたこの日は、拝観することが出来ませんでした。こちらは、浄土宗の名刹「安楽寺」。後鳥羽上皇の女官であった松虫・鈴虫の哀しい物語が伝わる寺で、「松虫鈴虫寺」とも呼ばれています。この寺も、通常は非公開なのですが、たまたま、この日は公開の時期にあたっていて、内部を拝観することが出来ました。この松虫・鈴虫にまつわる話というのは、鎌倉仏教の歴史において、大きなエポックとなった事件。少し、その概要に触れてみます。***後鳥羽上皇は、松虫・鈴虫という2人の女官を、ことの外、寵愛していましたが、この2人が、いつしか浄土宗の教えに魅せられて、ある日、御所を抜け出し「安楽寺」で行われていた念仏法会に参加します。この法会を主催していたのが、安楽と住蓮という2人の僧。この松虫と鈴虫2人のひたむきさに打たれた安楽と住蓮は、松虫と鈴虫の剃髪を行い、出家を認めます。寵愛する女官が、2人して出家。このことを知った後鳥羽上皇は激怒し、安楽と住蓮の2人を捕えて処刑してしまいました。さらに、それでも怒りがおさまらない上皇は、念仏の停止令を発し、また、2人の師である法然とその主だった弟子たちまでも、僧籍をはく奪し、流刑に処しました。これにより、法然は讃岐国へ、その弟子であった親鸞も越後国へと配流されることとなりました。***法難にもめげず、信仰を貫き通した安楽と住蓮。ここ「安楽寺」は、そうした歴史を伝えている古刹なのであります。一方、こちらも法然上人にゆかりの寺。法然が、念仏道場として開いた「法然院」というお寺です。木々に包まれた境内で、滝からの流れが、池に注ぎ込まれています。深い森の中といった感じがして、とても雰囲気の良いお寺であります。また、ここは、谷崎潤一郎や河上肇など、著名な学者や文人のお墓が多いということでも知られています。さて、「法然院」から再び、哲学の道に戻ってきました。「法然院」へ向かう分岐点の近くにあるのが、哲学の道を象徴する、この石碑です。そこに刻まれているのは、かつて、この道を散策していたとされる明治の哲学者・西田幾多郎の歌。「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」 独立自尊の精神というのは、明治人の特徴なのでしょうか。しかし、ただそれだけではなく、この歌からは、孤高の哲学者が味わっていた、孤独な悲哀のようなものも、感じられるように思います。北の終着点、銀閣寺橋につきました。この哲学の道というのは、1.6kmの距離なのだそうですが、寄り道をしながら歩いたせいもあるのか、とても凝縮された時間であったように感じられました。この後は、銀閣寺へと向かったのですが、続きは、また次回です。
2012年10月28日
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庭を流れるせせらぎのほとり。平安貴族の華麗な装束に身を包んだ人たちが集い、順に和歌を読んでいく。「曲水の宴」は、王朝時代の雅な宴の様子を再現した行事で、和歌を詠むのにも、ルールがあって、流れてくる盃が、自分の前を通り過ぎるまでに和歌を詠まなければならず、流れてきた盃の酒を飲み終えたら、次の人へと、盃を流していきます。京都・鳥羽にある「城南宮」は、そうした「曲水の宴」の催しが行われているということでも知られている神社です。「城南宮」があるのは、名神高速・京都南インターのすぐ近く。この一帯は、京都市街への出入口ともなっている交通の要所で、絶えず、多くの車やトラックが行き交っているところです。今は、とても、風情があるとは言えない町並みなのでありますが、しかし、この付近は、平安の昔には白河法皇が「鳥羽離宮」という宮殿を営んでいた場所であり、近くの川沿いには、大坂からの船着き場もあって、かつては、京への入口として繁栄していた地域でもありました。それだけに、このあたりは、度々、歴史の舞台にもなっていて、数々の史跡も残されています。殺伐としているようでいて、歴史のロマンが漂っている・・・。そうしたアンバランスさの中に、不思議な魅力がある「城南宮」の界隈を、先日、歩いてみました。まずは、「城南宮」です。「城南宮」というのは、平安遷都の頃には、既にここにあったといいますから、かなり古くからの由緒を持った神社です。平安遷都の時には、ここが都の南の守護神であると定められたのだといいます。祭神は、国常立尊・八千矛神・神宮皇后の三柱。平安時代末には、白河法皇により、このあたり一帯に「鳥羽離宮」が造営され、「城南宮」は、その祭祀を司る場所として、さらに崇敬されるようになったといいます。流鏑馬や競馬などという神事の場として、曲水の宴のような遊興の場として、この頃の「城南宮」は、様々な宮中の催しの中心になっていました。そうした、平安朝の頃の栄華のあと。でも、今も、この神社に詣でる人は多いようです。元々、ここが、都の南の守護神であったということから方除けの神社として親しまれてきており、また、平安期、さかんに行われていた熊野詣に出掛ける時には、ここでお祓いをしてもらってから出立したという故事が伝えられていることから、旅行・交通安全の神様としても、信仰されているようです。一方、こちらは「安楽寿院」というお寺。「城南宮」から東に、5分ほど歩いたところにあります。ここも、かつては「鳥羽離宮」があったところで、鳥羽法皇により、往時はここに御堂が建立されていたといい、その跡が、今は寺院となっています。「鳥羽離宮」というのは、かつて、白河法皇・鳥羽法皇による院政の舞台となっていたところ。「安楽寿院」の境内には、「院政の地」と刻まれた石碑も建てられていました。「安楽寿院」のある、このあたりには、天皇陵も点在しています。鳥羽上皇が、愛妃・美福門院のために建てたという多宝塔。上皇の死後、近衛天皇がここに改葬され、今は、近衛天皇陵となっています。「安楽寿院」に隣接する静かな御陵、鳥羽天皇陵です。こちらは、白河天皇陵。京阪国道という広い道路に面していて、うっかり見過ごしてしまいそう。あれ、こんなところに天皇陵が、という感じです。一方、「城南宮」の西側の周囲も歩いてみました。そこには、「鳥羽離宮公園」が広がっています。こうして歩いてみると、鳥羽離宮というのが、いかに広大な宮殿だったのか、ということが、よくわかります。この「鳥羽離宮公園」では、現在、色々な発掘調査が進められていて、庭園の跡、礎石、宮殿の縄張りの跡などが見つかっていると、公園内の説明板には、そうしたことが書かれていました。でも、この鳥羽離宮公園。その佇まいは、至って日常的です。全くの市民公園という感じで、この日はここで少年チームが野球の練習をしていました。鳥羽離宮公園の西には、堤があり、川が流れています。この川の流れは、鴨川です。かつては、このあたりに、京と大坂を結ぶ船着き場があり、重要な拠点として、往時は、かなり賑わっていたところだったのだろうと思います。お椀の舟に乗って、京の都にたどりついた・・・という「一寸法師」のお話。このあたりは、そうした「一寸法師」伝説が伝わっている地域でもあります。この川の堤には、もうひとつ、歴史が残されています。写真の橋は、小枝橋という橋で、今では、すっかり近代的な橋になっていますが、幕末の頃には、木で作られた小さな橋でありました。慶応4年、1月3日。徳川家の領地返納を強行採決されたことに、不満を持つ会津・桑名等の幕府勢は、京に向け、兵を進めていました。その幕府軍が、小枝橋を渡ろうとしたところを、薩摩の藩兵がこれを阻止したことから談判となり、そこへ、薩摩軍が大砲を発砲したことにより、戦闘が始まりました。鳥羽伏見の戦いです。進軍してくる幕府軍に備えて、陣を敷き、待ち構えていた官軍勢。この時、薩摩軍は安楽寿院に本営を置き、長州勢は城南宮に陣を張っていたのだといいます。鳥羽伏見の戦いの激戦地であった、この鴨川堤。その戦いの跡を示すものとして、この堤には、「鳥羽伏見の戦い勃発の地」と記された石碑が建てられていました。栄華の跡も、激戦の跡も、様々な歴史を刻み続けてきた、この城南宮の周辺。今では、何もなかったかのように流れる鴨川の流れにさえ、時の移ろいの遠大さが感じられる。ここは、そうした感慨を抱かせる、そんな場所のように思いました。
2012年09月17日
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宇治・黄檗にある萬福寺。隠元禅師が開いた黄檗宗の禅宗寺院であります。隠元禅師という人は、江戸初期に、明末の中国から日本にやってきた中国僧で、明朝風の禅の様式を日本に伝え、当時の仏教に新風を吹き込んだ人であると云われています。禅宗とはいっても、既に日本で根付いていた臨済宗や曹洞宗が、日本化し独自の発展を遂げていたのに対して、この黄檗宗は、純粋な中国風の禅宗をそのまま伝えています。それだけあって、この萬福寺は隅々に至るまで、中国風にしつらえられていて、とてもエキゾチックな寺院になっています。寺の入口が、この総門。「不許葷酒入山門」という石碑が目につきますね。これは、葷酒(酒やくさいにおいを放つ野菜)を寺の中へ持ち込んではならないという意味なのだそうです。これらは修行の妨げになるということなのでしょう。禅宗寺院では、この文字が書かれているのをたまに見かけますね。総門をくぐって、しばらく行くと眼前に大きな門がそびえます。萬福寺の山門です。山門から中に入ると、さすが、ここが黄檗宗の総本山というだけあって、かなり、ゆったりと、広々とした境内が広がっています。正面に建つ、まず最初の建物が天王殿。日本の寺院で、天王殿という建物は見かけることがないですが、これも中国独特のもので、寺院の玄関にあたるもの。中国の寺院では、一般的なものなのだそうです。この天王殿に祀られているのが、萬福寺のトレードマークとも言える布袋の像。布袋さんというのは、弥勒菩薩の化身であるとされているそうですね。でも、そのユーモラスな姿からして、ちょっと意外です。そして、この天王殿の後に、大雄宝殿・法堂といった伽藍が続きます。大雄宝殿という建物が、この寺の本尊である釈迦如来が祀られているところ。日本の寺院でいうところの、本堂にあたります。一方、法堂の建物は、卍くずしという、意匠を凝らした勾欄が印象的です。法堂から望む大雄宝殿です。この眺めも、どことなく絵になりますね。この大雄宝殿の南側、斎堂と呼ばれている、僧侶が食事をするための建物が建てられています。その前に吊るされているのが、木製の大きな魚。これは、開版と呼ばれているもので、時を報せるための法具なのだそうです。これが木魚の原型になった、とも云われているもので、木魚を日本に伝えたのも、隠元禅師だったのだといいます。隠元禅師が日本にもたらしたものというのは、他にもいくつかあるようですね。その代表的なものが、隠元豆。天王殿の入口近くにも、隠元豆が植えられていました。他に、スイカ、レンコン、タケノコなども、隠元禅師により、日本に伝えられたものなのだそうです。もうひとつ、隠元禅師といえば、煎茶道の開祖という側面もあります。煎茶道というのは、煎茶や玉露を飲みながら歓談するということを本旨としている茶道の流派。抹茶を用いた従来の茶道というのが、どうしても作法にとらわれがちであったのに対して、形式にとらわれず、煎茶を飲みながら清談を交わすということに主眼がおかれていて、江戸時代以降、主に文人の間で、人気を集めたのだそうです。隠元禅師が始めた煎茶道は、その後、これも萬福寺の僧侶であった高遊外という人により大成されていくことになり、さらに、広く一般に普及していくこととなりました。萬福寺の境内には、売茶翁と呼ばれた高遊外を記念して、売茶堂という建物も建てられています。萬福寺の佇まい、色々なところが、本当に中国風です。萬福寺山門の傍らに、とある句碑が建てられています。そこに刻まれているのが、江戸後期の女流俳人・菊舎尼という人が詠んだ俳句です。山門を 出れば日本ぞ 茶摘み唄萬福寺を参詣した折に、純中国風の雰囲気の境内から、一歩、山門を出ると、そこからは、茶摘み唄が聞こえてきて、ふと我に返った。ここは日本・・・。そうなんですね。ここは、まさに別世界。萬福寺というところは、えもいわれぬほどに異国情緒があふれている、そんなお寺でありました。
2012年08月26日
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宇治の平等院・鳳凰堂。十円硬貨の図柄になっているということでも、有名ですね。でも、この鳳凰堂、十円硬貨だけではなく、一万円札の図柄としても使われています。裏面に印刷されている鳳凰の姿。これが、鳳凰堂の屋根につけられている鳳凰をデザインしたものなんですね。平等院は、ユネスコの世界遺産にも登録されていますし、鳳凰堂は、もちろん国宝でもあります。まさに、日本を代表する歴史建造物なのだと思います。平等院を訪ねるのは、何年ぶりでしょうか。一度、一人でじっくりと見て回りたいと思い、先日、宇治へと行ってきました。歴史の年輪を感じさせる建物。ひとつひとつが、まさに平安時代と出会えるといった感じがしてきます。この鳳凰堂、中に入ることも出来るんです。鳳凰堂の内部。もちろん、写真撮影は禁止なのですが、本尊の阿弥陀如来とも出会い、空中を舞ういくつもの仏像・雲中供養菩薩にもお会いしてきました。そして、その壁面と天井には、九種類の菩薩来迎図が描かれています。落剝が進んでいるので、その片鱗くらいしかわからないですが、でも、この鳳凰堂の凄いところは、一度も火災や戦禍にあったことがなく、すべてが、平安時代そのままの形で残されているということです。パンフレットの写真から、その様子を少し、ご紹介しましょう。国宝・阿弥陀如来坐像と鳳凰堂の内部です。おだやかな表情ながらも、威厳に満ちた阿弥陀様。平安期仏像の最高峰とも言われている阿弥陀像です。この阿弥陀像を作ったのが、平安時代を代表する仏師といわれている、定朝という人。木を彫って仏像を作る場合には、どうしてもこれほど大きな仏像は作れないのですが、木をつなぎ合わせて、仏像を作ることができれば、大きな仏像を作ることも可能です。この手法が「寄木造」と呼ばれているものですが、この「寄木造」の手法を完成させた人が、定朝であったのだといわれています。その後の仏像彫刻に絶大な影響を残した定朝。この阿弥陀如来坐像は、定朝の作ということが確認できる唯一の作品なのだそうです。そして、壁面にいくつも並んでいるのが「雲中供養菩薩」。全52体からなる様々な菩薩像で、その一つ一つが、国宝に指定されているのだそうです。少し、クローズアップしてみましょう雲に乗った様々な菩薩たち。琴・琵琶・笛・笙・太鼓など楽器を奏でている菩薩。宝珠・幡などを持ち祈っている菩薩。舞っている菩薩、合掌している菩薩。それぞれが、思い思いの姿をみせていてその伸びやかなさまは、とても魅力的です。平等院内にある博物館(鳳翔館)では、そのいくつかが常時展示されていて、そこでは、「雲中供養菩薩」をごく間近で見ることができます。平等院が建立されたのは、平安後期にあたる永承7年(1052年)のこと。時の関白・藤原頼通が、父道長の別荘であった宇治殿を寺院に改め創建したものであります。当時は、優雅な王朝文化が花開いていた時代ではありましたが、しかし、その反面、天災や飢餓などの社会不安が広がり、仏法が廃れ末法の世が訪れると信じられていた時代でもありました。そうした、時代背景の中、広まってきていたのが浄土教信仰。平等院は、極楽浄土を強く願う人々の思いが込められたものであったのだということができます。鳳凰堂の前に池が広がるという配置になっているのも、経典に描かれていた極楽浄土の世界を模したもので、それを、ここに再現しようとして作られたものなのでありました。平安期、浄土教美術の頂点が集約されている、この鳳凰堂。深く刻まれた歴史がそこにあるといった感じが、ひしひしと伝わってきて、内面からも沸き上がってくるような、鳳凰堂にはそんな迫力がありました。この鳳凰堂、来月9月3日より、屋根の葺き替えや塗装など、1年半に及ぶ修理に入るとのこと。しばらくは、その姿が見れなくなるのですが、改装なった鳳凰堂がどんな姿を見せてくれるのか、ぜひ、楽しみにしたいものだと思っています。
2012年08月19日
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京都市と若狭湾との間を結ぶ若狭街道。若狭で獲れた魚を京に運ぶための道として発達し、特に、多く鯖が運ばれていたことから、古くからこの道は、「鯖街道」と呼ばれていました。大原の里をめぐったあとは、この鯖街道に沿って、さらに北へと向かい、「植髪の尊像」と呼ばれる、ちょっと変わった仏像を本尊とする「古知谷阿弥陀寺」というお寺に行ってきました。鯖街道。今では、車やトラックが行きかう国道となっていますが、それでも、この道に沿って、鴨川の上流である高野川のせせらぎが流れ、山間を縫うように続いているこの道は、今でも往時を偲ばせるものがあります。かつては、一昼夜をかけ、歩いて鯖を運んだといい、塩をまぶされた、この鯖が、京に着く頃には、ちょうど良い味になっていたといいます。海から離れた京の都にとって、この道は、貴重な海の幸の調達源になっていたんでしょうね。また、大原からも近い、この付近は、石折地区と呼ばれていて、かつては、火打石の産地として栄えていた地域だったのだそうです。さて、古知谷阿弥陀寺を目指して、この道を歩いていきますが、これが、なかなかの距離です。国道を通る路線バスも、あるにはありますが、一時間に一本程度と便が少なく、結局、大原から40分くらい歩いて、ようやく古知谷のバス停に着きました。中国の寺院を思わせるような山門。ここが、古知谷阿弥陀寺の入口です。しかし、実際のお寺は、まだ、この奥にあります。ここから山中に入り、山道を登っていかなければなりません。山中の参道を、ひたすら登っていきます。参道とは言っても、鬱蒼とした木々の中。しかし、雑踏から離れ、深山に入ってきたという感じがして、こうしたところを歩くのも楽しいものです。聞こえてくるのは、川のせせらぎと鳥のさえずりだけ。おそらく、このあたりは、昔そのままの状態で残っているのでしょうね。この一帯は、紅葉の名所としても知られているところということで、古知谷カエデと呼ばれる名木が数多く群生している場所なのだといいます。訪れた季節は新緑の時期ではありましたが、新緑の紅葉というのも、また、すがすがしさがありますね。山門から15分くらい登ったでしょうか。ようやく、古知谷阿弥陀寺の堂舎が見えてきました。崖に建つ、この建物は、茶室なのだそうです。瑞雲閣と名付けられているもので、訪ねてきた客を、ここでもてなしたのでしょうね。階段を上っていったところに受付、そして、その奥に本堂があります。この寺の創建は、慶長14年(1609年)といいますから、江戸時代初期の頃。弾誓(たんぜい)上人という人が開いた、念仏寺院であります。弾誓上人という人は、尾張の出身で、美濃・佐渡・信濃など諸国を行脚して修行を重ね、最後の修業の場として、この地にやって来たのだといいます。弾誓は、古知谷に入るや、岩穴を住みかとして、念仏三昧の日々を送りました。そうした中で、弾誓は、霊木を刻み、自らが求め続けた理想の人間像を仏像として作り上げます。そこへ、さらに自分の頭髪を植え込み、この像に、自己を投影させたのだと云われています。これが、「植髪の尊像」と呼ばれている仏像です。その後、弾誓は、この阿弥陀寺を建立。この時に、この「植髪の尊像」を本尊として祀りました。さらに、もうひとつ、この弾誓上人という人は、木食の修行を続け、ミイラになったということでも知られています。木食とは、肉や穀物を一切食べず、木の実や草だけを食べて過ごすという修行のこと。弾誓上人は、木食を続けた後、即身仏となることを目指したといい、弾誓の最期というのは、生きながらにして石棺に入り、自らミイラ仏になったのだとされています。山上にあるということもあるためか、なかなか趣きのある良いお寺です。ここの本堂も、少し昔の部屋という雰囲気で、どこか懐かしさすら感じます。この本堂に祀られているのが、この寺の本尊「植髪の尊像」です。弾誓上人、自刻の仏像。自らの頭髪を植え込んでいるということですが、今では、それも、わずか耳のあたりに残っているだけなのだといいます。この寺は、浄土宗に属している寺院ではあるのですが、この一風変わった仏像を本尊にしているということから、浄土宗の中でも「一流本山」という別流を称しているのだそうです。弾誓上人のミイラ仏が祀られているという「石廟」です。木食修行から、即身仏(ミイラ)になるとは、想像をはるかに絶するような、過酷な荒行であったろうと思われます。死後においても、救済を念じ、永遠の命を得るための修行だったということのようですが、それにしても、常人には計り難いものがあります。今でも、念仏を唱えて、救済を念じてくれているのでしょうか。この石棺の中に納められている弾誓上人は、今も端座合掌の姿のままなのだそうです。ここは、静かに思いをめぐらすのには、本当にいいお寺なのだと思いますね。人里から遠く離れた、山深くのお寺。しかし、それでも、この日は連休中ということもあってか、来るだけでも、かなり不便なところであるにも関わらず、私の他にも、いく組かの人がここを訪ねてきておられました。意外と、ここは、知る人ぞ知るという感じの、隠れスポットなのかもしれません。大原の里から、ちょっと足を延ばして、、この古知谷阿弥陀寺というお寺は、独特の雰囲気を持ちながらも、素敵な佇まいにあふれている、そんなお寺でありました。
2012年07月29日
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♪きょうと~おおはら三千院 恋に疲れた女がひとり~ ♪デュークエイセスのヒット曲「女ひとり」でも有名な、三千院というお寺。一番が三千院で、二番が高山寺、三番が大覚寺失恋した女性が京都の寺をまわるといった内容で、シンプルながらも、京の情緒を感じさせる歌であります。でも、若い人は、こんな歌、知らないかも知れないですね。この大原を訪ねたのは、実際にはゴールデンウイークのことで、もう、3か月近く前のことにはなるのですが、思い返しながら、綴っていきたいと思っています。大原というのは、今の行政区画でいうと、京都市の左京区。とはいうものの、位置的には、京都市街のかなり北方で、比叡山よりも北であり、緯度としては鞍馬山とだいたい同じくらい。古来より、京の隠れ里として知られていた地域であります。早朝6時に家を出発して、京都市内からバスで40分あまり。それでも、8時半頃には大原につきました。大原、山里の雰囲気が、とても良いですね。この時期、菜の花がとても綺麗に咲いていました。大原というところは、古来より貴族や皇族が、ここを隠棲の場所として住みついたり、都から逃れた修験者たちが隠れ住んだりといったような、京の隠れ里として知られていました。それとともに、比叡山・延暦寺と密接に関連しながら発展してきたという歴史があり、延暦寺の里坊として、いくつかの寺が、この地に建てられていくことになりました。そうした中で、大原で生まれ広まっていったものというのが「天台声明」。声明(しょうみょう)とは、仏教の経典に節をつけ歌い上げたもので、端的に言うと、儀式の時に行われていたという仏教音楽。これが、日本の音楽の原点になったともいわれています。大原には、この天台声明の道場がいくつか置かれ、大原は、その中心地として、栄えていったのでありました。かつて天台声明の根本道場であったという「勝林院」というお寺にも行きましたが、そこでは、録音再生で天台声明を聞くことができました。さて、三千院についてです。この寺は、最澄が比叡山に草庵を建てたことに由来するとされているとても古くからの歴史を持った寺院なのでありますが、しかし、三千院として、今のような形で大原の地に伽藍を構えたのは、意外なことに、明治になってからであるということのようです。平安末期、堀河天皇の皇子がここに入寺して以来、歴代皇族が住持を務めていたという門跡寺院。明治までの間、この寺は「梶井門跡」という名で呼ばれていて、高い寺格を持った寺でありました。門跡寺院特有の宸殿という建物もあり、この中には、最澄の自作とされる薬師如来像が、秘仏として祀られているのだそうです。宸殿の前に広がる、有清園と名付けられた、この庭園が見事です。杉苔が、じゅうたんのように敷きつめられた中、木立が立ち並んでいて、その、のびやかな趣きには、心が洗われるようです。この庭の中央、木立の合間からのぞく建物が往生極楽院。平安時代の中頃、源信僧都という人が、父母の菩提を弔うために建てたとされている仏堂です。そして、このお堂の中に鎮座しているのが、国宝の阿弥陀三尊像。平安末期を代表する阿弥陀像であると言われています。往生極楽院の入口から写真を撮ってみましたが、やはり、阿弥陀像が綺麗に撮れません。阿弥陀三尊像の絵ハガキからの写真を、掲載することにします。福よかな面持ちと、その荘厳さには、思わず心が引き寄せられるような感じがしてきます。素敵な阿弥陀さまですね。阿弥陀如来の両脇に脇侍しているのが、観音菩薩と勢至菩薩。この菩薩の座り方、ちょっと変わっているのが、写真でわかりますか?正座をしているような、跪いているような、これは「大和坐り」と呼ばれている姿で、この座り方をしている仏像というのは、珍しいのだそうです。この往生極楽院は、阿弥陀三尊像の大きさに比べ建物が小さくて、そのため、天井が舟底型に折り上げられているのだといいます。こうした建築様式も独特なものでありますが、さらに、この内部の装飾も華麗なものだったようです。今では、落剝が進んでいて、目で見ても、あまりわからないですが、かつては、その天井に、天女や菩薩の姿が極彩色で描かれていたのだそうです。往生極楽院も阿弥陀像も、極楽浄土を願う平安時代の人々の息吹が伝わってくるようですね。この三千院が今のような形になったのは明治以降、ということを、先に書きましたが、それ以前の、梶井門跡というお寺は、滋賀の坂本や京都市内など、度々、その所在地を転々とし、この大原には、政所(事務局のようなもの)が置かれていただけでありました。ところが、明治期に入って、梶井門跡自体が、この大原に移転してくることとなり、その時から、三千院という名称で呼ばれるようになりました往生極楽院というお堂も、実は梶井門跡とは関係のない寺院で、梶井門跡が大原に移ってきた時、たまたま、その境内に取り込まれたものなのだと言います。調べてみると、この三千院、結構、複雑な経過を経てきています。でも、そうした歴史的な詮索は、どうでも良いですね。そうしたこととは関係なく、この三千院というお寺は、とても素敵な佇まいをみせています。三千院というところは、花の名所でもあります。山茶花やアジサイ、春の桜、秋の紅葉など、四季折々に様々な花々が境内を彩ります。豊かな自然に包まれたこの大原の地で、平安浄土の世界を今に伝える三千院。何度でも行ってみたいと、そう思えるほどに魅力のあるお寺でありました。
2012年07月22日
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「今年も、2人でどこかへ行こうか」と、妻に聞くと「う~ん。どこが良いか考えておく」という返事。「桂離宮とか修学院離宮なんか、どう。 予約してないと、なかなか見れないし・・・」と、水を向けてみたものの、こうしたところは、さほど興味がない様子。毎年、結婚記念日には、2人でどこかへ出かけるようにしていて、ここ2年、定期観光バスでの京都めぐりをしています。色々検討したというものの、結局は、今年も定期観光バス。「京の一日」というコースに決め、申込みをしました。このコースの特徴というのが、2階建てバスでの京めぐり。少し違った角度から車窓の風景を楽しむことが出来るだろうという期待があってこのコースにしました。また、この2階建てバスというのが、今年限りで引退することになっていて、これに乗れるのも、いわば今年が最後のチャンスということも、このコースを選んだ理由の一つでもありました。バスはJR京都駅前を出発し、京の町をめぐります。今回のコースの行先はというと、誰もが知っているといえるような観光名所。幾度か行っている場所ばかりではありますが、こうしたところを改めてめぐってみるのもたまには良いかな、とも思います。清水寺と産寧坂。この日は、天気が良く、空気も澄んでいて、清水の舞台から、京都の街がきれいに見渡すことができました。清水寺、何度来ても良いところですね。参道から産寧坂にかけては、修学旅行生など、とても多くの人で賑わっていました。昼は、嵐山フリータイム。ちょっと足を伸ばして、嵯峨野の小径を歩きました。嵯峨野散策の中、訪れたのは清凉寺。胎内から五臓六腑の模型が発見されたということでも知られている釈迦像を所有している嵯峨の名刹です。国宝の釈迦像を見たいというのは、妻からのリクエストでもあり、2人で、この釈迦像にお詣りをしてきました。まばゆいばかりの金箔。京都観光の定番ともいえる、金閣寺です。池に浮かぶ、この金閣の眺め。昭和の再建であるとはいえ、さすがに見る人を引き付ける魅力がありますね。そして、最後は平安神宮。平安奠都1100年を記念して、明治28年に創建されたという神社でありますが、今や、京都を代表する観光名所となっています。平安神宮の奥に広がる「神苑」。ここは、私のお気に入りの場所のひとつで、この奥の庭には入ったことがないという妻を、一度、ここに連れてきてやりたかったということもありました。とても、ゆったりと寛げる、本当に癒される空間です。***「来年は、季節を変えて、もっと違うコースに行ってみようか」とは、妻からの提案。定期観光バスでの京めぐりを、すっかり気に入っているようです。確かに、手軽に観光名所をまわれるし、ガイドさんの話も面白いし、十分楽しめますけどね。年に一回ではありますが、こうした機会を大切にしたいな、と思っています。
2012年06月24日
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山肌に沿い、幾重にもつらなる堂宇の数々。これらの建物が、地形の高低差をうまく利用して建てられていて、渡り廊下や回廊を渡りながら、お堂めぐりをしていると、ちょっとしたアドベンチャー気分すら、味わえるような感じがしてきます。先日、訪れたのは、京都の永観堂。「もみじの永観堂」とも呼ばれるほどに、秋の紅葉が有名なお寺ではありますが、紅葉の時期でなくても、数々の堂宇を見てまわるだけで、十分楽しめるお寺でもあります。ここは、元々、人気のお寺なのでしょうね。訪れたこの日も、かなり多くの人が、参拝に来られていました。この永観堂で、名高いのが、「みかえり阿弥陀」と呼ばれる振り向いた姿が像になっているという阿弥陀仏。この阿弥陀仏については、この寺の中興の祖である永観律師にまつわるある逸話が、伝えられています。*-----ある日、永観は、お堂の中で念仏を唱えながら、阿弥陀仏のまわりを歩いていました。すると、突然、阿弥陀仏が壇をおりて、永観を先導するかのように歩き始めました。驚きのあまり、歩みをとめ、呆然と立ちつくす永観。すると、阿弥陀仏は肩越しに振り返って、「永観、おそし」と、声をかけたといいます。永観は、感動につつまれ、是非、この御姿を後世に伝えたいと阿弥陀仏に懇願し、その結果、この姿が像として伝えられるようになりました。*------この永観堂には、言い伝えが残るみどころというのが、他にも、いくつかあります。「永観堂の七不思議」と呼ばれているもので、それらが、諸堂の各所に点在しています。入館の時に渡されるパンフレットにも、その所在図が示されていて、それを見つけながら進んでいくというのが、宝探しのようで、永観堂お堂めぐりの楽しみの一つでもあります。(永観堂の七不思議)その1)抜け雀・欄間に描かれた雀が一羽足りない。一羽が絵から抜け出して飛び立っていったのだそうです。その2)火除けの阿弥陀・応仁の乱の戦火の中、奇跡的に焼け残り、今に伝わっているという阿弥陀仏。その3)悲田梅・永観律師が、貧しい人に施療するために植えたという梅林の梅の木。 現在、残っているのは、この一本だけだとか。その4)木魚蛙・鳴き声が、木魚をたたいているように聞こえるという蛙。 しかし、その姿を見たものは誰もいないといいます。その5)三錮の松・葉が3枚に分かれているという松。 この葉を財布に入れておくと、お金がたまると信じられているのだそうです。その6)臥龍廊・開山堂へと続く回廊。 湾曲した特徴的な形をしていて、まるで龍が臥せているように見えます。 この回廊は、一本の釘も使われていないのだそうです。その7)岩垣紅葉・裏山の急な斜面から生えている紅葉の木。 紅葉が、これほどの急斜面から生えるというのは、珍しいそうです。そして、七不思議のチェックポイントを終えると、最後に行きつくのが、この阿弥陀堂。このお堂の中に、かの「みかえり阿弥陀」が、祀られています。慈悲深く、柔和なまなざしの阿弥陀様。「みかえり阿弥陀」の像の前には、見返りの姿の意味を現代風に解釈したとして、こんなことが書かれていました。 自分より遅れるものを待つ姿勢 自分自身の位置を、かえりみる姿勢 愛や情けをかける姿勢 ・・・ 真正面から、おびただしい人々の心を濃く受け止めても、 なお、正面にまわれない人びとのことを案じて、 横をみかえらずにはいられない、阿弥陀仏のみ心なるほど・・・。京都の寺社を訪ねてまわる休日のひととき。そんな中、永観堂、みかえり阿弥陀を求めてのお堂めぐりは、色々と、心に栄養を与えてくれるような、そんな気がしました。
2012年05月27日
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町かどに佇む小さな神社。気付かずに通り過ぎてしまうような小さな神社でも、意外に色々な歴史を刻んでいたりする場合があります。京都には、そうした神社も多いのですが、この「五條天神宮」という神社も、そうした神社の一つです。四条通と五条通の間くらい、近くに、これといった観光地があるわけでもなく、何げない町かどの神社という感じではあるのですが、それでも、この神社は、平安京に遷都された頃から、ずっと、この地にあったという古社なのだそうです。往時には、かなり広大な境内を持ち、この周囲一帯が「五條天神宮」であったとのこと。別名「天使社」とも呼ばれていて、「今昔物語」や「枕草子」にも、その名が出てくるのだといいます。この神社の祭神はといえば、少彦名命、大己貴命、天照大神の3神。少彦名命が薬の神様でもあるということから、医家の祖神として崇められ、また、少彦名命が不思議な力を持っていたということから、安倍晴明など陰陽師からの崇敬も集め、相当に栄えていたのだそうです。この神社には、意外な逸話が伝えられているのですが、それが、義経(牛若丸)と弁慶が初めて出会った場所というのが、この神社の境内であったという話。五條天神宮に参詣していた弁慶が、笛を吹きながら歩いてくる牛若丸の姿を見つけ、その腰にある黄金の太刀に魅せられて、どうしてもこれが欲しくなります。弁慶は、力ずくでその太刀を奪おうとするのですが、ここから、両者の闘いが始まります・・・。牛若丸と弁慶の闘いといえば、五条大橋の闘いとして、よく知られていますが、実は、その時の橋というのは、鴨川に架かる五条大橋ではなくて、かつて、この神社の近くを流れていた西洞院川に架かっていた橋であったのだということ。今では、その跡形もなくなっていますが、この有名な話の舞台というのが、実は、この神社の境内であったのです。長い間にわたり、広大な社域を誇ってきた「五條天神宮」。しかし、その境内が小さくなっていってしまった、そのきっかけとなったのが、安土桃山時代のことでありました。この時期、天下人として、京都の町に君臨していたのが豊臣秀吉。この頃、京都の町は、秀吉の手により大改造が進められ、新しい通りが、東西に南北にと、次々と作られていました。このことが、今の京都の町の原型を形づくることにもなったわけですが、しかし、この時の秀吉は、かなり強引に寺や神社の配置転換を行なったようです。そうした中、「五條天神宮」も、この区画割りの一環としてその境内に道を通すようにと、秀吉から命じられることになります。串刺しのようにして、境内の中を貫通する通り。秀吉によって境内の中を貫通させられた、この道のことを京の人は、皮肉を込めて「天使突抜」と呼んだのだといいます。「五條天神宮」の近くに残る「天使突抜」という町名。とても変わった町名ではありますが、これも、京都の町の人の秀吉に対するユーモラスな抵抗だったということなのかも知れません。「五條天神宮」という神社は、ガイドブックや観光地図にも載っていない小さな神社ではありますが、ひっそりと、その存在感を示しているかのように感じられる、そんな神社です。
2012年05月06日
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京都を代表する建物といえば、その一つが東寺の五重塔でしょう。高さは55m。木造の塔としては日本一高いのだそうです。この五重塔は、もともと弘法大師・空海により建立されたものでありましたが、度々、兵火や火災により焼失し、現在の塔は5代目。3代将軍・徳川家光により再建されたものであります。全体のバランスが美しく、よく整っている江戸初期の名建築であるとされていて、国宝にも指定されています。最初に、この東寺を創建したのは、桓武天皇。平安京を造営するにあたり、その正門として羅城門を構えましたが、その門の東西に、東寺と西寺という2つの官立寺院を置きました。この2寺をして国家鎮護の祈りを込めようとしたわけですが、しかし、一方の西寺の方は、早い時期に廃れてしまい、東寺だけが残る形となりました。現在、西寺は、遺構として礎石が残されているのみで、西寺跡公園に、記念碑が建てられています。一方の、東寺を発展させていったのが、弘法大師・空海。東寺が建立されてから20年ほど後、空海は、嵯峨天皇から、この東寺を下賜されることとなります。空海は、この寺を真言密教の根本道場と位置づけて、整備を進め、講堂や五重塔などの建物を、次々と建立していきました。空海は、高野山(金剛峯寺)を自らの修禅の場、東寺は、それを実践する場であるというように考えていたようです。一般には「東寺」と呼ばれていますが、「教王護国寺」というのが、その正式名称。各派・真言宗の総本山であり、また、空海が築き上げてきた密教教学の集大成、密教美術の一大宝庫でもあります。平成6年には、世界遺産にも登録されています。では、東寺の境内、伽藍についてみていきましょう。東寺の伽藍の中心が、この「金堂」です。現在の金堂の建物は、江戸初期、豊臣秀頼により再建されたもので国宝。この中には、本尊の薬師三尊像(重文)が安置されています。こちらは、「講堂」。室町中期に再建された和様の建物で、重要文化財に指定されています。この講堂の中が、まさに圧巻で、一歩中に足を踏み入れると、そこには、大日如来を中心とした諸仏が立ち並んでいて、いかにも密教といった世界が広がっています。21体の仏像が織りなすそのさまは、「立体曼荼羅」と呼ばれ、どの像も、生き生きとしていて、迫力に満ちています。全21体のうち、15体が国宝で、6体が重要文化財に指定されているのだそうです。一方、しっとりとした趣きがある、この建物が「御影堂」(大師堂)です。檜皮葺の屋根が優美で、寝殿造りの遺風も残っている、とても落ち着ける雰囲気の建物。ここは、元々、空海の住房であったところとされていて、現在の建物は、室町初期に再建されたもの。国宝に指定されています。この御影堂というところは、お大師様信仰の中心となっている場所。ここには、弘法大師像(国宝)が安置されていて、この像が、多くの人々からの信仰を集めているのだそうです。毎朝、早朝6時には、このお大師様に朝食を捧げることになっていて、この時には、大師像を収めた厨子が開扉されるとか。私が訪れた時間帯では、大師像を見ることは出来ませんでしたが、それでも、多くの人がお参りに来られていて、中には、この厨子の前で、声を上げ、般若心経を唱えてられる人もいました。お大師様にすがり、祈りを捧げる人々。ここは、そういった強い思いが伝わってくる、そんな場所です。毎月21日は、弘法大師の月命日。この日、東寺では様々な屋台が境内に軒を連ね、店を広げます。この縁日は「弘法さん」と呼ばれ、多くの人から親しまれているもの。弘法大師を慕う、その強い思いは、ここ京都で、今も息づいているんですね。壮大な密教美術の数々も、それは、とても素晴らしいものでありますが、それにもまして、お大師様に寄せる人々の姿こそが、この東寺の本当の魅力なのではないかと、そんなことを感じました。
2012年04月15日
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世界史上に名だたる、絶世の美女であったと言われているのが楊貴妃。唐の玄宗皇帝は、この楊貴妃を寵愛すること、ひとかたならず、楊貴妃の死後には、彼女を偲び、その等身像にかたどった観音菩薩像を彫らせたと云われています。この「楊貴妃観音」と伝えられる観音菩薩が祀られているのが、京都東山にある泉涌寺で、先日は、この観音像を訪ねて、泉涌寺へと行ってきました。この「楊貴妃観音」が日本に伝えられたのは、鎌倉中期のこと。南宋に行っていた湛海という僧が、日本に持ち帰り、ここに安置したものであると云われていて、永らく秘仏として、人の目に触れることなく収蔵されていたものなのだそうです。しかし、昭和30年、それが、一般に公開されることになり、それ以来、この観音像は、一躍、脚光を浴びることとなりました。美貌の観音像との対面。しかし、堂内は撮影禁止ということになっているので、買ってきた絵葉書の写真から、これを、ご紹介することにします。何ともいえぬ気高さにあふれた観音像で、その姿はきらびやかで、とてもエキゾチック。親しみやすさというよりも、凛とした威厳のようなものさえ感じます。この観音像、近頃では、マスコミにも色々と取り上げられていて、美人祈願・縁結びの観音様として話題にもなっているとのこと。この日も、様々な年齢層の女性の方が、何人か参拝に来られていて。美人祈願のお守りを買われていました。これも、女性の美貌に対する、あくなき探究心の現われなのでしょうね。「楊貴妃観音」の参拝を終え、次は、泉涌寺の境内を歩いてみます。実は、この寺、またの名を「御寺」(みてら)とも呼ばれているほど、皇室とのつながりが深いお寺なのです。伽藍の中心となっている建物が、この仏殿と舎利殿。仏殿は、徳川4代将軍の家綱により再建されたものということで、重要文化財。その内部には、釈迦・阿弥陀・弥勒の三尊像が安置されています。一方の舎利殿は、狩野派による天井絵が有名。特に、蟠龍図という龍の絵は「鳴き龍」として広く知られているということです。この泉涌寺、元々の由来としては、弘法大師・空海が、ここに一庵を結んだことに始まるとされていて、その後、鎌倉初期に、俊?(しゅんじょう)大師という高僧が寄進を受けて、寺域を広げ、このような本格的伽藍にまで、整備していきました。この時、寺地の一角に清泉が涌き出てきたといい、これが吉祥であるということから、この時に寺名を”泉涌寺”に定めたとされています。この泉涌寺の名の由来になったという「泉涌水屋形」という建物は、今でも残されています。泉涌寺と皇室とのつながりが、深くなっていったのは、鎌倉初期のこと。俊?大師没後においても、皇室のこの寺に対する帰依は厚く、四条天皇崩御の時には、ここで葬儀が行われて、山陵(月輪陵)が造営されました。それ以降、幕末に至るまでの間、歴代の天皇・皇后の葬儀は、ここで行われることとなり、月輪陵には、多くの天皇が葬られました。そうしたことから、この寺は、長きにわたって皇室の菩提寺とされてきたのでありました。泉涌寺には御座所という建物があり、そこには天皇が御幸の時に座られる部屋、玉座の間もあります。明治期に御所より移されたものということで、今でも、天皇が泉涌寺に来られた時には、ここに入られるとのことです。又、御座所からつながる霊明殿という建物には、天智天皇以降、歴代天皇の御位牌が祀られているといい、この寺では、今でも、皇室の御霊に対して、毎日、経をあげ、回向しておられるのだそうです。高い格式と歴史の重みを感じさせる御寺・泉涌寺。そんな中でも「楊貴妃観音」のきらびやかさは、一際、光彩を放っているように思います。泉涌寺というところは、他の寺院ではなかなか味わえない、特別な高貴さが感じられるお寺であると思いますね。
2012年04月08日
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昔々、あるところに・・・。という書き出しで始まるのが、昔話のお決まりのパターン。しかし、京都に伝わる昔話や伝承というのは、そういう時間や場所があいまいな話というのが、意外と少なくて、逆に、もっと具体性を帯び、実在の人物が登場してくるようなものが多いというのが、その特徴のひとつであります。どのようなものがあるかと云えば、・大蜘蛛退治により、源頼光の熱病が治ったという話。・石仏を城に持ち帰った秀吉が、石仏が元の場所に戻りたいと泣くために、それをそっと元に戻したという話。・千宗旦に化けた狐が、見事な手前を見せて、人々を驚かせたという話。等々。しかも、それらの話が伝わる場所には、それにまつわる遺跡が残されていたりする場合も多くあります。そこで、今回は、そうした京都に伝わる伝承のひとつ。「忠盛灯籠」というお話を、ご紹介したいと思います。この話に登場してくる人物はと云えば、白河法皇と平忠盛。平忠盛というのは、ご存知のとおり、今年の大河ドラマにも登場してくる平清盛のお父さんですね。そして、この伝承は、平忠盛という人が、いかに思慮深く、判断力に優れた人であったかということが伝わってくる、そんな逸話でもあります。( 忠盛灯籠 )平安末期の永久年間、ある雨の日の夜のこと。白河法皇が、祇園女御に会いに行くために祇園・八坂神社のあたりを通りかかったところ、前方の北の森に明かりがついて、怪しげな鬼のようなものが見えました。法皇はお供についてきていた平忠盛に、この鬼のようなものを討ち取るようにと命じます。しかし、忠盛は、法皇の命ながらも、これを討ち取ることはせず、まず、その正体を見極めようと、これを生け捕りにしました。すると、何とそれは、鬼などではなく、八坂神社の社僧が灯籠に灯明を灯そうとしていたところで、雨具の蓑が、灯明の光で銀色の針のように見えていたものなのでありました。無用に人を殺すことなく、冷静に対処した忠盛のこの思慮深い行動に、人々は、こぞって感嘆の声をあげたのだそうです。その後、このことから、人々は、この灯籠のことを「忠盛灯籠」と呼ぶようになりました。京都・八坂神社にある石灯籠のひとつ。本当かどうかはわかりませんが、この灯籠が、その時の灯籠であるといわれています。しかし、いかにも古そうなこの灯籠には、忠盛のこの伝承を、彷彿とさせるものがありますね。この「忠盛灯籠」があるのは、八坂神社・本殿の東側。今も、この灯籠は、悠久の歴史を刻むかのように、佇んでいます。
2012年03月18日
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梅の香漂う天満宮。紅白の梅が花を咲かせるこの時期の北野天満宮は、受験シーズンとも重なって、観梅や合格祈願に訪れる人々で、とりわけ賑わいを見せています。天満宮の祭神・菅原道真は、ことのほか、梅の花を愛していたといい、そうしたことから境内には、多くの梅の木が植えられています。2月25日は梅花祭。菅原道真の命日にちなんだこの祭礼は、1000年の歴史があるともいわれていて、この日は、近くの北野上七軒の舞妓さんによる野点の茶会などもあり、より一層の華やかさに包まれます。学問の神様、天神さんとして、庶民からも親しまれている菅原道真。その道真を祀った天満宮は、全国に一万二千社あると言われていますが、北野天満宮は、その総本社。しかし、道真自身が、この北野の地に特にゆかりがあったのかというと、実は、そういうわけでもなくて、北野に道真が祀られるようになったのは、天満宮社の成り立ちの中で、この地に社が建てられるようになったものなのでありました。そこで、今回のお話は、菅原道真と天満宮について。京都市内にある、道真ゆかりの神社、そのいくつかを訪ねながら、道真の生涯と天満宮の由来について、まとめてみたいと思います。この神社は「菅大臣神社」といいます。四条烏丸のオフィス街からも、ほど近いこの神社が、菅原道真の邸宅のあった場所であるとされています。道真が開いていた私塾や道真の書斎などがかつては、ここに立ち並んでいたのだそうです。菅原道真という人は、幼少の頃から、学問や詩歌に抜群の才を見せていたようで、宇多天皇の信を受けて、とんとん拍子に出世し、やがて、右大臣の位にまで昇りつめていきました。効果がなくなってきていた遣唐使を廃止するなど、いくつもの改革を実施し、次第に、当時、権勢を欲しいままにしていた藤原氏と肩を並べるほどの存在となっていきました。しかし、そんな中、政敵であった藤原時平から、”道真は皇位の簒奪を図っている”との、あらぬ嫌疑をかけられ、福岡の大宰府へと左遷されてしまうことになります。失意のうちに、大宰府へと赴任していく道真。その後、程なくして、任地でその悲運の生涯を閉じることになりました。東風吹かば にほひおこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ道真が大宰府へと左遷される時に、自宅の梅の花を見て詠んだというのが、この有名な歌。そして、この時、その梅の木が道真を慕い、大宰府まで飛んで行ったという飛梅伝説も、有名な話ですね。道真が、この歌を詠んだのが、自宅のあったこのあたりであったとされていて、その飛梅伝説の梅の木も、この管大臣神社の境内に残されています。悲嘆の中で生涯を閉じた菅原道真。しかし、道真の死後、京の町では、天変地異や政治の混乱などが相次いで起こります。政敵であった藤原時平が若くして亡くなり、皇族の中にも病死者が続出、続いて、清涼殿にも落雷があって、御所が焼失します。そうした中で、これらの異変は、道真の怨霊によるものであると、人々は、恐れおののくようになっていました。その後・・・道真の死から40年ほど経った、ある日のこと。多治比文子という女性のもとに、突如、道真の霊が現れます。道真は、文子の夢枕に現れたといい、この時、「われを北野の地に祀るべし。」と、そう文子に告げたのだと言います。道真からのお告げを聞いた文子。しかし、彼女はとても貧しかったので、そんな神社を作ることなど、とても叶わず、せめてもと、自宅の庭に道真を祀る小さな祠を建てました。そして、これが最初に道真を祀った神社となり、天満宮の起源になったのだとされています。多治比文子、自宅跡の地。それが、今も「文子天満宮」という神社となり残されています。また、ここの神社には、最近建てられたもののようではありますが、多治比文子の像まであります。多治比文子という女性は、いったいどのような人だったのか。巫女であったとも云い、童女であったとも云い、あるいは、道真の乳母であったという説もあったりと、実際のところは、よくわかっていません。しかし、いずれにせよ道真を祀る天神信仰というのは、一般庶民の中から生まれてきたものであったということが、特徴的であります。やがて、その後、文子と同じように、道真の霊が現れ北野に祀るべしというお告げを聞いたという人が、何人も出てくるようになります。そうした中で、やがて、道真の霊は、北野の地で祀られるようになり、それに合わせて、道真の怨霊から逃れたいと願っていた貴族たちからの助力もあり、北野天満宮は、立派な社殿となっていったのでありました。最初は、祟りの神であったはずの菅原道真。しかし、それも、人々から天変地異の記憶が薄れていくとともに、やがて、それが学問の神様として、広く親しまれるようになっていきました。そもそも、天神信仰というものが、一般庶民の信仰から生まれてきたものであった、ということがあるためなのか、「天神さん」は、今でも、庶民から慕われている人気の神様となっています。特に、合格を祈願したいというような時には、誰もが、道真公のお世話になっていると云えるのではないでしょうか。無念の生涯を送った道真ではありますが、今では逆に、人々が無念の思いを持たないよう応援してくれている、そんな存在になっているかのように思えます。
2012年02月26日
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仏画や経典、遺品など、、仏像の、その胎内には、様々なものが納められている場合があります。仏像を作るとき、それぞれに思いを込めて入れられたものなのでしょう。そうした胎内納入品を持つ仏像の中でも異彩を放つ特徴的なものが、嵯峨・清涼寺に伝わる釈迦如来立像です。この仏像は、元々、平安後期に中国(宋)から請来されたもので、当時から三国伝来・生身の釈迦像として広く崇拝されてきたものでしたが、昭和になって、新たに、その胎内から様々な納入品が発見され、しかも、その中に、五臓六腑(内臓)の模型が入っているということがわかって、驚きを呼んだものでした。前々から、興味深く思っていた、この清涼寺の釈迦如来像。この仏像を見てみたいということで、先日、清涼寺に行ってきました。また、清涼寺には、他にも様々な史跡・文化財が残っています。そこで、今回は、この釈迦如来立像と、清涼寺に伝わる様々な由来についてのお話をまとめてみたいと思います。清涼寺、仁王門をくぐると、正面にあるのが本堂で、この中に、お目当ての釈迦如来像が安置されています。入館料を払って、さっそく本堂の中へと入っていきました。入ってすぐのところにありました。国宝・釈迦如来立像です。意外と近くまで寄っていって見ることが出来ます。それほど大きな像ではありませんが、写真で見ていた通りの姿で、威厳があり、また、どことなく異国の風がただよってきます。一度、見てみたいと思っていた仏像だったので、何度も近くまで行って拝んだりしていました・・・。ところで、この仏像は、どのような仏像なのか、改めて、この仏像の由来について、お話ししておきましょう。この仏像を日本にもたらしたのが、彫然(ちょうねん:ちょうの字は特殊文字のため当字にしてます)という人で、彼が宋に行っていた時に、釈迦37才の時の生き姿を刻んだという霊像にめぐり合い、一目ぼれのように、これに魅せられ、この像を現地の仏師に模造させました。そして、これを日本に持ち帰り、今の清涼寺に安置したのがこの釈迦如来像なのであります。この像は、日本にはない材で作られていて、また、頭髪の形や衣紋の形式など、日本の一般的な仏像とは異なる様式を持っていることから、異国情緒あふれる仏像として、次第に、評判を集めるようになりました。その後、日本各地でこの釈迦像と同型の模造仏が、多く作られるようになり、やがて、これらの仏像は、「清涼寺式」の仏像と呼ばれるようになっていきます。堂内は、撮影禁止なので、手持ちの資料の写真から、この像を、ご紹介しておきたいと思います。昭和29年に行われた、釈迦如来像修理の時。この像の胎内から、経典や様々な文書、彫然の遺品、仏画など多くの納入品が発見され、さらに、絹で作られた五臓六腑の模型までもが、その中から出てきました。特に、この五臓六腑の模型については、1000年前の中国において、すでに人体構造について知られていたということが、これによってわかったということから、医学史の上においても貴重な資料であるとされ、驚きとともに、話題にもなりました。この新たに発見された納入品も、仏像とともに、併せて国宝に指定されています。生身の釈迦像と呼ばれる、この仏像この作成を命じた彫然は、「五臓六腑」を納めることで、この仏像に命を与えようとしたのかもしれませんね。さて、次は、清涼寺の境内を見てまわります。清涼寺は、またの名を「嵯峨釈迦堂」とも呼ばれていて、庶民に親しまれ続けてきたお寺でもあるのです。平安時代の左大臣・源融(みなもとのとおる)の墓です。清涼寺の前身は、源融の山荘であったとされ、それが、融の死後に、ここが寺となり釈迦堂が建てられたことがこの寺の起源となりました。ちなみに、この源融という人は、嵯峨天皇の皇子から臣籍に下り源姓を賜った人で、とびきりの美男子・プレイボーイであったことで知られた人。源氏物語・光源氏のモデルであるともいわれています。本堂の裏にある放生池と弁天堂です。本堂から方丈へと向かう回廊からの、この眺めは、なかなか風情があります。放生池に浮かぶ小島には、供養塔があり、一石に一字が書き込まれた写経石やひめゆりの塔など戦跡地の小石が埋められ、供養されているのだそうです。地獄で閻魔大王に仕えていたと伝えられている小野篁の旧跡もあります。このお堂(薬師寺)の脇には「生の六道」と記された石柱が立っていて、昔は、ここに六道の辻があったのだそうです。以前に、この日記で取り上げた六道珍皇寺は、地獄への入口であるとされていましたが、ここは、その反対で、地獄からの戻り口「生の六道」であったのだということです。もうひとつ、この清涼寺で有名なものが、狂言堂で毎年春に行われる「嵯峨大念仏」と呼ばれる民俗芸能の狂言です。これは、鎌倉時代に円覚上人という人が、狂言の形で庶民に念仏を広めようとしたことが、その始まりとなったものですが、この清涼寺は、そうした念仏狂言の道場であり、その中心となる拠点のひとつでもありました。この日も、この狂言堂では、狂言の練習をしている子どもたちの姿がありました。伝統芸能は、今もこうして引き継がれていっているわけですね。いくつもの見どころがある嵯峨の清涼寺。国宝の釈迦如来像にも出会えて、とても満足な1日でした。嵯峨・嵐山においでの機会がもしあれば、一度、立ち寄ってみられたらいかがでしょう。
2012年02月18日
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日本独自の水墨画を確立させたといわれているのが、室町期の画家・雪舟。東福寺の山内には、「雪舟寺」という、雪舟にゆかりの塔頭寺院があり、先日、そこを訪ねてみました。この門から続く通路は、整然と落ち着いた感じに手入れされていて、丁寧に管理されているであろうということが、伺えるようなたたずまいです。この日、まだ、朝が早かったせいか、誰も訪ねてくる人がないようで、この寺の住職夫人とおぼしき、ご婦人が、通路の掃き掃除をされていました。「拝観料は、入口のところに置いて頂いたら結構です。 どうぞ、ごゆっくりなさっていって下さい。」そう、声をかけられて、一人本堂の中へと入っていきました。この「雪舟寺」というのは、実は通称で、正式な寺名は「芬陀院」(ふんだいん)といいます。この寺の一番のみどころというのが、この庭。京都に滞在中であった雪舟が作庭したものであると伝えられ、中央の石組みが、鶴と亀の形を表しているということから、「鶴亀の庭」と呼ばれています。しばらく、ここに座って、一人静かに庭を鑑賞です。雪舟は、応永27年(1420年)の生まれで、備中赤浜(現在の岡山県総社市)の人。幼くして近くの宝福寺に入り、さらに、10才の時には京都の相国寺で禅の修行を積みました。その後、48才で絵の修業のため明に渡るのですが、それまでの間、足繁くこの寺に通い、たびたび、ここで起居していたのだそうです。雪舟といえば、幼い頃、床に落ちた涙を足につけ、足で鼠の絵を描いたという話が良く知られていますが、この寺にも、少し、それに似たエピソードが伝えられています。(雪舟、動く石亀の逸話)ある時、雪舟は、寺の大壇徒で時の関白であった一条兼良から、亀の絵を描くようにと所望されました。ところが、なかなか筆を取ろうとしない雪舟。しかし、そんな雪舟が、突如、庭に出て、砂を整え、石を動かし始めました。すると、それが、見る間に亀の形となり、数日後には、見事な石組みの亀が出来上がりました。その庭の亀に見とれていたのが、この寺の和尚。しかし、夜になると、庭から異様な物音がしているのに気がつきます。そこで、そっと覗いてみると、なんと、この石組みの亀が手足を動かし這っているのです。不安になった和尚は、雪舟を呼び、これを何とかして欲しいと依頼します。すると、雪舟は、大きな石を亀の甲羅に載せて押さえ、これにより、ようやく亀は動かなくなりました。この話を聞いた一条兼良は、大いに喜んで、雪舟のために一寺を与えようとします。しかし、雪舟は絵の修業をしたいからとこれを断わり、明へと渡ったのだといいます。後年、雪舟が、生き生きとした絵を多く残すことになったのも、この動く石亀が、その基になっているといわれ、このことから、この石組みの亀は、「渡明の亀」とも呼ばれるようになったということです。しかし、この庭も永い歳月を経て、また、その間、数度の火災による被害もあり、しばらく荒廃してしまっていました。そんな中、現在の形にまで庭を復元したのが、昭和の名作庭家と呼ばれている重森三玲でありました。三玲は、この時、庭に一石を加えることもなく、修復を行ったといい、雪舟、往時の面影をここに再現したのだと云います。この本堂の東側には「図南亭」という茶室があり、そこに、もうひとつの庭があります。こちらの庭は、雪舟作ではなくて、昭和になり重森三玲が作庭したものです。茶室「図南亭」から見る東庭。この丸窓から見る庭というのも、雪舟が描いた一幅の山水画を見るようであり、何とも言えぬ風情があります。気がねすることなく、ゆっくりと寺の佇まいに浸ることができる、この「雪舟寺」。住職夫人の、さりげない応対ということもあってか、すっかり、お気に入りの寺の一つになったように思います。
2012年02月12日
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京都という町は本当にお寺が多いところで、町中が”巨大な門前町”とさえ形容されるほど。中でも、有名な寺院に臨済宗のお寺が多いというのも、その特徴の一つであるように思います。金閣寺、銀閣寺、龍安寺、天龍寺、高台寺、八坂の塔など、、、観光地として名高い寺院の中で思いつくだけでも、これらの寺院が臨済宗で、もちろん、他にも、臨済宗の本山となっている寺が、京都には多くあります。もともと、臨済宗という宗派は、鎌倉・室町の頃に、幕府からの帰依を受け、厚く保護されていたという歴史があり、その主要寺院には、京都五山と呼ばれる格付けが、幕府から与えられたりしていました。また、この頃、それぞれの寺院には、その各寺の特徴をとらえた、”あだ名”のようなものが付けられていたそうです。開祖の栄西が開いた建仁寺は、学問や文学に優れた僧を輩出したことから「建仁寺の学問面」千利休など、茶道との結びつきが強かった大徳寺は「大徳寺の茶面」藤堂高虎など、武将から多くの崇拝を集めていた南禅寺は「南禅寺の武家面」寺院経営が巧みで、全国に末寺を広げていった妙心寺は「妙心寺の算盤面」 など。それぞれ、お寺の特徴がうまく表されていて、面白い表現ですね。さて、前置きはこれくらいにして、今回のお話は、この臨済宗の本山の一つ東福寺について。この東福寺にも”あだ名”がつけられているのですが、そのあだ名というのが「東福寺の伽藍面」というもの。これは、その創設された当初、京都でも最大規模の伽藍が作り上げられたということによるもので、その後、幾度かの火災により、伽藍の一部が焼失してしまっているとはいうものの、それでも、貴重な建築物が多く残っており、その立ち並ぶ伽藍には、往時の迫力を感じることが出来ます。実際に、ここを訪ねてみると、とても見どころが多く、なかなか興味深いお寺であるということを実感しました。それでは、東福寺について見ていきましょう。「東福寺の伽藍面」という言葉を、最も象徴する建物といえるのがこの国宝「三門」でしょう。現存する最古の三門であるとされていて、かつ、禅宗の三門としては最大規模のものであるとも云われています。室町時代初期の再建とされ、「妙雲閣」と書かれた扁額は、足利5代将軍・義持の筆によるもの。楼上内部には、極彩画が描かれ、諸仏が並んでいるのだそうです。これは「禅堂」という建物。坐禅の修業をするための道場です。これも室町初期の再建ということで、中世の禅堂として、唯一、現存している建物であるとされています。この門は「六波羅門」といいます。鎌倉幕府は、京の都に六波羅探題という出先の役所を置いていましたが、この門は、その六波羅探題の遺構であるといわれています。重要文化財指定ということですが、結構、貴重なものですね。この東福寺が創建されたのは、鎌倉時代の初期。摂政・関白を務めていた九条道家という人が、栄西の孫弟子にあたる名僧・聖一国師を開山に迎え、九条家の菩提寺として創建したものです。この時、東福寺という名は、東大寺と興福寺にあやかって、両寺から一字づつをもらい、名づけられたのだといいます。九条道家は、この京都最大の伽藍を、19年の歳月をかけ築き上げたといい、当時、本堂には、高さ15メートルにも及ぶという大仏まで、安置されていたのだそうです。(この大仏は、明治14年に焼失。)それでは、東福寺、伽藍めぐりを続けます。東福寺には、珍しい遺構もいくつか残されているのですが、その一つが、この「東司」という建物。何かといえば、禅寺のトイレです。中を覗いてみると、こんな感じ。丸い便器が、いくつも並んでいます。でも、トイレとは言っても、禅寺では、厳しい作法が決められていたのだそうで、トイレに行くのも、修業の一つだったのだとか。この「東司」は、室町初期のものということで、現存する、最古の「東司」であるといわれています。こちらは「浴室」。日本最古の浴室は、東大寺にあるのだそうですが、これは、それに次いで古いもの。室町中期の建築です。東大寺の浴室の場合は、沸かし湯に入る方式だということですが、こちらの浴室は、蒸し風呂形式なのだそうです。渓谷をまたいで、長々と続いているこの回廊が「通天橋」。方丈からつながるこの回廊の景観は、本当に抜群で、とりわけ、紅葉のシーズンには、京都でも指折りの紅葉の名所として人気のスポットとなります。東福寺の伽藍の中でも、ここが最も有名な場所なのではないでしょうか。そして、この回廊を渡り切ったところに、楼閣が特徴的なこの建物、「開山堂」が、ひっそりと聳えています。東福寺の開山である聖一国師を祀っている、この「開山堂」の一帯も、これがまた、なかなか素敵な雰囲気です。ここの庭園も、とても美しく、ここの縁台に腰掛け、しばらく座っていると、どこか、ほっこりと落ち着ける、そんな感じがしてきます。東福寺というお寺は、伽藍が自慢というだけのことはあると思いますね。その堂宇のひとつひとつが、とても見ごたえがあります。この他にも、最古の客殿遺構として、寝殿造りの風情が残るとされる龍吟庵という塔頭寺院があり、そこにも行きたかったのですが、あいにく、この日が公開日でなかったため、拝観することは出来ませんでした。また、この東福寺は、近代庭園の宝庫としても有名で、由緒のある塔頭寺院が多いところでもあります。次回も、また、この東福寺の違った見どころについて書いてみたいと思っています。もし、良ければ、少し辛抱して頂いて、読んでみて下さいね。
2012年01月28日
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数ある京都の神社の中でも、最も人気が高く、その代表ともいえる神社が平安神宮でしょう。今や多くの観光客が訪れる、京都観光の中心地となっていて、また、平安神宮のある岡崎公園周辺は、美術館や文化会館などが立ち並ぶ、京都における、文化施設の中心地ともなっています。平安神宮とは、平安京の創設者である桓武天皇と京都最後の天皇となった孝明天皇を祭神として祀っている神社。しかし、その歴史はというと、明治28年(1895年)の創建ということで、京都の中でも、かなり歴史の浅い神社なのであります。でも、この平安神宮とは、いったい、どういう経緯により創建された神社なのでしょう。実は、この平安神宮の社殿というのは、明治期に行われた「内国勧業博覧会」という催しのメインパビリオンとして造られた建物がその前身であり、この博覧会を京都に招致するに至った「平安遷都1100年祭」というイベントを通して、京都の復興を目指す京都市民の熱い思いが、この平安神宮の創建へとつながっていったものなのでありました。そこで、今回のお話は、平安神宮について。その創建と密接に関連した博覧会のお話と、平安神宮に残る文化遺産についてまとめてみたいと思います。***明治時代の京都・・・。これについては、これまでにも書いたことがありますが、東京遷都によって打撃を受け、京都の町は急速に衰退を見せていました。そうした中、京都は、やっきになって近代化などの復興策を打ち出していきます。その代表的なものが、琵琶湖疏水の開削事業であり、それに伴う発電所の建設であったのですが、こうした政策により、徐々に京都は、復興への足がかりをつかんでいきます。そして、そうした中で、次なる復興策として、企画されたのが「平安遷都1100年祭」という、記念イベントなのでありました。この「平安遷都1100年祭」を実施するという建議がなされたのは、明治25年のこと。・桓武天皇が平安京で初めて朝賀の儀を行った延暦14年(794年)を記念日とし、 明治28年(1895年)に記念祭を行うこと。・その記念行事として「内国勧業博覧会」を京都に招致し、この年に合わせて行うこと。ここで、このような記念祭実施に向けての基本方針が決められていきます。ちなみに、この「内国勧業博覧会」というのは、開催されるのが、これが4回目。元々、これは、当時、積極的に殖産興業を推進していた明治政府が、産業の奨励と国民への啓蒙を進めるために、力を注いでいたもので、5~8年おきくらいの間隔で、定期的に実施されていたものでありました。しかし、これまでの勧業博覧会の会場は、いずれも東京の上野。これを何とか京都で実施し、京都活性化の起爆剤にしていきたいと、強力に招致活動を続けたのでありました。その結果、4回目の「内国勧業博覧会」は、京都で開催するということが決定され、その会場として、洛東・岡崎の地が選ばれることになります。そして、この時に企画されたのが、平安京の頃の大内裏(朝堂院)を復元して、それをこの博覧会のメインパビリオンとしようとするものなのでありました。残されていた資料を基にして、大極殿・応天門・青龍楼・白虎楼などの建物が、次々と建てられていきます。そして、さらには、このパビリオンの建設と並行して、博覧会の終了後には、この建物を神社として残し、雅やかな京都を後世まで伝えていこう、という意見が市民の間から盛り上がってくることになります。一方で、そうした神社発足のための準備も進められていき、そうした経緯の中から、今に残る平安神宮が生まれてくるわけです。また、博覧会を開催するにあたっては、会場への交通の整備ということも重要でした。これには、市街電車を開業させることとして、そのための工事も急ピッチで進められていきます。開会の2カ月前に、まず、一部の区間が開業。開会日の当日には、博覧会場までの路線が完成しました。これが、日本で初めての電力を動源とした”電車”の走行ということになり、この博覧会においても、これが大きな注目を集めることになります。さらに、もう一つ、この博覧会で注目を集めたイベントがありました。それが、平安時代から明治維新までの歴史・風俗を、時代を下りながら行列を行うというもの。この時代行列が、第一回目の「時代祭」であり、これが、今日まで毎年続けられていく京都の祭典へと発展していくこととなります。明治28年(1895年)4月1日。いよいよ、第4回の「内国勧業博覧会」が開幕しました。この時、会場には、工業館、農林館、器械館、水産館、美術館、動物館などが軒を連ね、連日、多くの来場者が訪れて大変な賑わいをみせたのだそうです。出品された総点数は16万3000点。来場者は、結局、4か月間の会期終了時点で113万人をこえるという大成功となりました。そして、これを契機にして京都の町は、より一層の活況を取り戻していくことになったのでした。さて、それでは、現在の平安神宮について、少し見ていきましょう。朱塗りの大鳥居をくぐって、まっすぐ歩いていくと、そこが平安神宮の正面になります。この門が、博覧会の時に建てられた「応天門」。この門をくぐると、そこに、平安神宮の社殿が広がっています。正面に「大極殿」があり、その左右には「青龍楼」「白虎楼」が建ちます。これらは、博覧会の時、かつての宮殿を5/8の大きさに縮小して作られたものだといい、往時の平安京のたたずまいを再現しようと、建築されたものなのでありました。これが「大極殿」。今は、平安神宮の拝殿となっています。これは「青龍楼」。これも、元の平安京の頃にあった建物を再現したということで、これと同形の建物「白虎楼」と左右対称にして建てられています。平安神宮の周囲には「神苑」と呼ばれる庭園もあります。西庭・中庭・東庭・南庭と、4つの区域に分かれた広大な庭園で、そのうち、西庭と中庭は、博覧会の時、すでに造られていたものなのでありました。この庭を築いたのが、明治を代表する名造園家といわれている七代目・小川治兵衛という人。彼は、博覧会終了後においても、この「神苑」の改良・拡張を20年の歳月をかけて行ったといわれていて、それだけに、とても素晴らしい見事な庭園になっていると思います。この「神苑」は、植物園のような楽しみ方も出来、深山を歩いているかのような部分もあり、東山の借景が美しい回遊式庭園でもあり、と、いくつもの変化に富んでいて、とても楽しめる庭であります。この「神苑」もそうなのですが、平安神宮を訪ねた時には、どこか、明治の頃の京都人の心意気のようなものが、伝わってくるように感じられます。「平安遷都1100年祭」というイベントは、遷都後、衰退していた京都を復興させるために行われた様々な施策の集大成のようなものでありました。その記念行事の一つであった「時代祭」は、その後、平安神宮の祭礼となり、それが、今でも市民が総出で奉仕する、京都市民が主体のイベントとして、現代にまで続けられています。京都を何とか復興したいという、明治の頃の熱い思いと、長い年月、日本の都であったという、京都人の持つプライドのようなものも。平安神宮というのは、まさに、そうした明治の頃の京都の熱気が、綿々と受け継がれてきている神社なのだと思います。
2012年01月15日
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京都の堀川通りから千本通りまでを結んでいる、三条会アーケード街。その賑やかな街路からはずれて、すぐのところに、武信稲荷(たけのぶいなり)という神社があります。この神社の自慢はというと、樹齢850年という榎の大木で、この木は、平安末期に平重盛が安芸の厳島神社から苗木を持ってきて植えたものであると言われていて、高さが23m、幹まわりが4mあるのだそうです。そして、この苔むした老木には、幕末期における、龍馬とお龍のエピソードが伝えられているのです。江戸時代、この武信稲荷神社のすぐ南隣に、六角獄舎という幕府直轄の牢獄がありました。六角獄舎・・・。そうですね。前回の日記にも登場してきました、平野国臣ら三十余名の囚人が、不意に処刑されるという事件があった牢獄です。そして、この六角獄舎というのは、龍馬とお龍の2人にとっても、ゆかりのある場所であったのです。この榎の大木の横には、龍馬とお龍にまつわるエピソードを記した案内板が立てられています。以下、これを要約します。お龍の父は、楢崎将作という勤王家の医師で、当時、安政の大獄により、この六角獄舎に捕らえられていました。龍馬とお龍は、共に何度かここを訪れていたのですが、龍馬自身も追われる身であるため、訪ねていって面会することは叶いません。そのため、龍馬は、この榎の大木に上って、木の上から獄舎の様子をうかがっていたのだといいます。その後、龍馬は命を狙われ追われることとなり、いずこかに姿をくらまします。龍馬の身を案じながら、日々を過ごすお龍。そんなおり、お龍は、二人で何度も訪れた武信稲荷の榎のことをふと思い出し、ここを訪ねます。すると、そこには龍馬独特の字で『龍』の字が彫ってありました。それは、「自分は今も生きていて、京都にいる。」そういう龍馬からの伝言であったのです。これにより、龍馬が京都にいることを知ったお龍は、その後、二人の共通の知人のところを訪ね歩き、やがて二人は、再び出会うことができたのでありました。 榎は「縁の木(えんのき)」とも読まれ、 御神木の榎に宿る弁財天を祀る末社の「宮姫社」は縁結び、恋愛の神としても知られる。 龍馬とおりょうもそんな縁結びの力を頂いた二人である。と、この案内板の説明は、最後に、榎の持つ霊験の力をアピールして締めくくられています。龍馬とお龍、二人の思い出の地でもあったこの榎。今でも、この二人にあやかろうと、この木に手を当て、願いをかける人も多いのだそうです。すぐ隣にある、六角獄舎跡に行ってみました。今では、この場所はマンションになっていて、そのマンションの入口付近には、獄舎跡を示す記念碑がいくつか建てられています。左側は、「日本近代医学発祥の地」の石碑江戸時代の宝暦4年(1754年)、医学者の山脇東洋が、ここで死刑囚の遺体をもらい受け、日本で初めて人体解剖を行ったということを記念するもの。右側が、「平野国臣他数十名終焉の地」の碑です。さて、もう一度、神社に戻ってきました。武信稲荷神社というところは、由来を持つ特徴的な絵馬が販売されているということでも知られているのです。その一つが「勝駒」という絵馬。この絵馬は、「必勝開運」を祈願するものであるということで、かなり古くから、この神社に伝わっている絵馬なのだそうです。豊臣秀吉も、出兵する時にはこれを持参したという話も伝わっている、とても歴史の古い絵馬なのだそうです。そして、こちらは、縁結びの絵馬。「龍馬の伝言…」と、名づけられたこの絵馬は、文字通り、龍馬とお龍のエピソードにもとづいたものです。町の中で、何気なくたたずむ神社ながらも、歴史は古く、、。この武信稲荷という神社は、地味な神社ではあるのですが、なかなか、色々なロマンを秘めている神社であります。
2011年12月11日
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京都土産の定番といえば、やはり、その代表は「生八ッ橋」でしょうか。うるち米の粉にニッキ・砂糖などを混ぜて蒸した生地に、餡を包んだもので、ニッキ以外にも、抹茶、黒ゴマなどの種類があり、さらに、最近では季節に応じて桜風味やカボチャ・栗など、色々なバリエーションのものが販売されています。この「生八ッ橋」は、うちの子供たちにも人気で、お土産に買ってくると、見る間になくなってしまうほどです。一方、こちらは、堅焼せんべいの「八ッ橋」八ッ橋の生地を薄く伸ばして焼き上げたもので、ニッキの香りと、カリッとした歯ごたえが、その特徴。丸い反りがつけられていますが、これは琴の形を模したものだといいます。こちらの方が古くから伝わる、いわば本来の「八ッ橋」なのですが、しかし、こちらは家では人気がありません。買ってきても、いつまでも残ってしまいます。『これが本来と言っても、改良されたものの方が美味しいに決まっている。』とは、次男の弁。それは、そうかも知れないですが、やはり、昔ながらの味は、現代っ子の口には合わないようです。さて、そんな銘菓「八ッ橋」の由来となったといわれているのが、八橋検校という人。筝曲の名手で、日本の筝曲の世界を築いた開祖とも云える人です。八橋検校は、1614年(慶長19年)福島の磐城平に生まれたといわれていて、その後、大坂・江戸・福岡で筝曲を学んで、多くの筝曲を作曲しました。その代表曲と云われているのが 「六段」という曲。いわば、筝曲のスタンダードナンバーともいえるもので、琴の演奏になじみがない人でも、きっと、耳にしたことがある曲なのではないでしょうか。奏法や楽器の改良にも取り組み、当時から、彼の音楽性は高く評価されていたといい、専属の音楽家として、大名に召し抱えられていたこともあるのだそうです。さて、そうした八橋検校と、銘菓「八ッ橋」との関係についてですが、それは、八橋検校の死後の話になります。八橋検校の死後、検校の弟子やその遺徳を偲ぶ人が多く、検校の墓を訪ねる人が、ひきもきらず、長くその列が続きました。そこで、門弟たちが、琴の形をかたどった菓子を作ったことが、その始まりで、やがて、これが墓参りの参道で販売されるようになり、今の「八ツ橋」の形になっていったということのようです。この時、門弟たちは、八橋検校が米びつの底に残った粉で焼き菓子を作っていたということを参考にし、これを作ったのだとも云われています。京都・黒谷にある「金戒光明寺」というお寺です。ここは、幕末期、京都守護職であった会津藩の本陣があった場所としても知られていますが、八橋検校の墓は、ここにあります。金戒光明寺の山門を入ってすぐのところに、「常光院」という塔頭寺院があり、この寺が、別名「八橋寺」とも呼ばれている八橋検校の菩提寺であります。いわば、ここが京銘菓「八ッ橋」発祥の地であったとも言えるでしょう。銘菓として、あまりにも有名になってしまった、京の「八ッ橋」。「八ッ橋」と聞くと、どうしても、このお菓子のことを思い浮べてしまいます。でも、八橋検校自身からすると、お菓子の商標として名が知れるより、もっと本業の筝曲のことにも関心を持って欲しい、と思っているのかも知れません。墓の下の八橋検校は、ひょっとして、苦笑いをしているのかも知れませんね。
2011年11月25日
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京都御所を包み込むようにして、外周に広がる京都御苑。その広大な敷地は、緑あふれる公園となっていて、散策やジョギング、行楽などに訪ねる人も多く、様々な野鳥や昆虫、四季の花々などに出会える自然の宝庫でもあります。京都御所が、宮内庁の管轄になっているのに対して、その外側の御苑を管轄しているのは環境省。時折、自然観察会のような企画や催しも行われているのだそうです。このところ、私の中では、京都御所についての関心が高まっているということもあって、何度か、京都御苑にも足を運んでいるのですが、京都御苑というのも、歩いていると、意外なところに見どころを見つけたりするところです。そこで今回は、京都御苑のあれこれと題して、京都御苑の中の見どころを、いくつかご紹介したいと思います。京都御所の正門ともいえる門が、この建礼門です。この門を入ると、すぐのところに承明門と紫宸殿があります。ただ、この門は天皇陛下だけしか通ることができないということになっていて、天皇陛下がこられた時にしか、開けられることがないのだそうです。また、5月の葵祭と10月の時代祭の時には、毎年、この建礼門の前が祭り行列の出発地点となります。その時期になると、この門前には臨時の店などが立ち並び、多くの人で賑わいます。京都御苑の中には「猿ケ辻」と呼ばれている場所があります。この金網の中には、何が・・・。この金網の中には、木彫りの猿が閉じ込められています。これは、松平定信が御所の再建をしていた時、御所の北東にあたる角が、鬼門の方角になるということで、木彫りの猿を、守り神として、ここに祀ったもの。しかし、その後、この猿が夜な夜な大声を出して、通りを行く人に悪さをするという噂が広まり、とうとう金網の中に入れて、閉じ込めてしまうことになりました。この金網の中の猿には、そうした伝説が伝わっています。この小さな川は「出水の小川」と呼ばれています。元々は「御所水道」といって、琵琶湖疏水が開かれた時に、御所の防火のための水路として、疏水からの水が、ここまで引かれていました。今は、その「御所水道」も廃止されて、現在、ここには井戸水が流されています。夏には、水とふれあえる遊び場となり、多くの親子連れがここを訪れます。京都御苑の中には、神社もいくつかあります。この白雲神社は、元々西園寺家の邸宅の中にあったもの。お公家さんは、東京に移っても、そこに祀られていた神社は、そのまま残されているんですね。この神社の、ご神体として祀られているのが「妙音弁財天坐像」。琵琶を演奏している弁財天としては、日本のルーツであるとも云われていて、国の重要文化財に指定されているのだそうです。清らかな神水が湧き出ているということで、ここに水を汲みに来る人も多く、京都では「御所の弁天さん」として親しまれている神社なのだそうです。こちらの神社は、宗像神社。京都御所の南西にあって、裏鬼門を守るために創建された神社なのだそうです。東京遷都により、お公家さん達が東京に移っていったあと、その屋敷は、ことごとく取り壊されて、京都御苑という公園になったのですが、それでも、わずかに、その屋敷の名残も残されています。その代表とも云えるのが、九条家の茶室であった「捨翠亭」(しゅうすいてい)という建物です。九条池という広い池を中心とした庭の中に建てられた2層の建物で、九条家が別邸として使っていたものでありました。江戸時代・後期の建物ということなのですが、公家の茶室といった風情が残されていて、この建物が、また、趣きがあります。1階と2階のそれぞれに、九条池が眺められるよう縁台が用意されていて、ここから眺める九条池の景色は、最高です。いつまでも眺めていたいと思えるほどに、とても寛げる、おすすめの場所です。九条池のほとりには、神社もあります。厳島神社といいます。平清盛がお母さん(祇園女御)のために安芸の厳島神社を勧請したという由緒を持つ神社で、九条家の鎮守社となっていたものでありました。京都御苑というのは、広いけれども特に何もない公園というように、以前は思っていたのですが、こうして歩いてみると、とても多くの見どころがあるということに気づかされます。これでも、御苑の中の全てを歩いているわけではないので、他にも、意外な見どころがあるのかも知れません。京都御苑というのは、色々なところを歩いてみるだけでも、半日くらいは楽しめそうなところであります。
2011年11月20日
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毎年、春と秋に行われる京都御所の一般公開。訪れたこの日は、あいにくの小雨模様だったのですが、しかし、それにも拘わらず、多くの人が御所の一般公開につめかけていました。一般公開の時の御所への入り口は「宜秋門」。ここでパンフレットをもらって、中へと入っていきます。御所の一般公開というのは、入場料は無料なんです。「宜秋門」を入って、まず、最初の建物が「御車寄」。御所の入口にあたる建物で、牛車や駕籠を寄せて乗降がしやすいように、せり出したような形に作られています。「御車寄」のすぐ隣の建物が「諸太夫の間」。参内した人のための待合所、控えの間です。「虎の間」「鶴の間」「桜の間」と3つの部屋があって、それぞれの部屋にある襖絵の画題にちなんで名前がつけられています。これらの部屋は、身分によって通される部屋が違うのだそうです。「新御車寄」この建物は、大正天皇の即位の礼の時に建てられたものなのだそうで、大正時代以後は、ここが天皇・皇后両陛下の玄関になっているそうです。訪れたこの日は、ここで「雅楽の舞」が催しものとして行われていました。しばし、古えの宮廷音楽の世界を鑑賞です。この丹塗りの門は、「承明門」といいます。ここから、いよいよ、「紫宸殿」「清涼殿」など、御殿の方へと向かっていきます。「紫宸殿」の正面にやってきました。文字通り、この京都御所の中心となっている建物で、天皇の即位式、立太子礼などの最重要儀式が行われる、最も格式が高い正殿であります。大正天皇・昭和天皇の即位の礼も、ここで行われたのだそうです。檜皮葺・高床式という様式の壮麗な宮殿建築なのでありますが、建具に蔀戸が使われているなど、やはり、日本式の御殿という雰囲気があります。「紫宸殿」の内部は、板敷きの広い空間になっていて、その中央には、天皇の座である高御座(たかみくら)と、皇后の座である御帳台(みちょうだい)が置かれていました。これらは、即位の時には欠かせないものだということで、今上天皇の即位の礼があった時には、これを東京まで運んだのだそうです。「紫宸殿」の前庭に植えられているのが、有名な「右近の桜、左近の橘」です。この木は、かつて、それぞれの近くに警備の部署である左近衛・右近衛の建物があったということに由来しているのだそうです。続いて、次は、「清涼殿」へと向かいます。「清涼殿」というのは、本来、天皇が日常お住まいになるための建物であったのですが、次第にここが、儀式や政務を行う場所に、変わっていったもののようで、ここでは、叙位式や四方拝などの行事も行われていたようです。「清涼殿」の建物は、檜皮葺の寝殿造り。「紫宸殿」がいかにも宮殿という感じの造りになっているのに対して、この「清涼殿」の方は、元々天皇の居室であったということもあって、より日本的な落ち着ける建物になっているように思われます。また、「清涼殿」の前庭に植えられている左右の竹も有名です。向かって左(南側)が漢竹(かわたけ)、右(北側)が呉竹(くれたけ)と呼ばれていて、それぞれ、違う種類の竹が植えられています。さて、「清涼殿」からの通路を抜けていくと、目の前に大きく広がっているのが「御池庭」。池と石橋と築山を基調として造られた回遊式の庭園です。そして、この「御池庭」の前に建っている建物が「小御所」であります。「小御所」とは、儀式の間、あるいは参内者との対面の場として使われていた建物なのですが、しかし、「小御所」といって思い起こされるのは、何と言っても、幕末期に行なわれた小御所会議のこと。王政復古のクーデターの後、引き続き行われたこの会議の席上で、徳川慶喜をなぜ排除しようとするのかと、土佐の山内容堂が熱弁を振るったという場面が目に浮かんでくるようです。但し、当時の「小御所」の建物は、その後焼失してしまっているということで、今の「小御所」の建物は、昭和に再建されたものなのだそうです。そして、次が、いよいよ、参観順路最後の御殿。天皇の住まいの場であった「御常御殿」です。「清涼殿」が日常生活の場から、儀式・政務の場へと推移していく中で、天皇が住まう御殿として使われていたのが、この「御常御殿」。東京に遷都されるまでの間、実際に天皇が住まわれていた場所であります。この一角には、孝明天皇が、いつも書見をされていたという小室もあり、また、この前の「御内庭」という庭も、遣り水が常に流されているなど趣向に富み、とても見事でありました。この「御常御殿」というのは、天皇の日常の起居に触れられるようでもあり、何とも、趣きが深く、素晴らしい御殿でありました。建物にしても、その装飾や絵画にしても、調度品にしても、やはり、京都御所の内部は、すごいというのが印象です。前回の日記に書きましたが、京都御所の建物自体は、幕末に再建されたものなので、それほど、古い建物というわけではありません。しかし、それでも、これまで連綿と伝統が受け継がれてきているということが感じられました。やはり、それだけ歴史の重みというものがあるのだと思います。最上級の格式と御殿文化の粋。今回、初めて、京都御所の内部を参観してみて、そこには、日本文化の神髄が流れているようにさえ感じられました。
2011年11月13日
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長きにわたって朝廷が置かれ、天皇が住まう場所であり続けてきた京都御所。その長い歴史を踏みしめながら、京都御所の周辺と御所の周囲に広がる京都御苑を歩いてみました。この塀の向こうが京都御所。もちろん、ここは気軽に中に入れるというわけではありませんが、それでも、春と秋には一般公開されるのが恒例で、それ以外の時でも、事前に申し込みさえすれば、中を拝観させてもらえるのだそうです。ところで、京都に都があった期間というのが、およそ1000年あまり。しかし、その間の期間、ずっと御所がこの場所にあったというわけではなくて、また、御所の建物が古く昔からの建築物が残っているかというと、そういうわけでもありません。今の京都御所というのは、これまで、どういう経緯をたどってきているのか。今回は、京都御所の歴史について、まとめてみたいと思います。桓武天皇が、平安京を造った時。内裏の場所は、今の京都御所より2kmほど西の、千本通りのあたりにありました。当初の平安京の内裏は、大極殿を中心とした豪壮なもので、400年ほどの間は、その場所で経過していくのですが、その間、しばしば火災に見舞われて、その度に、天皇を始め宮廷の人たちは、公家の邸宅へと避難していました。しかし、それが、やがて常態化していき、公家の邸宅に仮住まいをするということが通例となっていきます。これを「里内裏」という言い方をするのですが、この仮住まい先の中心となっていたのが、土御門家の邸宅。この土御門邸のあった場所が、現在の京都御所のあるあたりなのでありました。「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の欠けたることも なしと思へば」藤原道長が、藤原氏の栄華を謳歌していた頃。この有名な歌が詠まれたのも、土御門邸の「里内裏」だったのだそうです。鎌倉時代の初期には、当初の内裏が、またしても炎上。そして、これを最後として、この元の内裏は、ついに再建されることなく、やがて、仮住まいであったはずの土御門「里内裏」が正式な御所となっていきます。その後、応仁の乱や戦国の争乱によって、御所が荒廃。それを信長・秀吉、さらに江戸幕府が、御所の再建に力を注いで、御所としての体裁は、華麗なものになっていきます。しかし、この時の御所というのも、江戸期に炎上してしまいました。次に、御所の再建を行ったのが、老中の松平定信で、定信は、古制を調べて、原初の内裏の姿を復元するという形で、御所の再興を行います。しかしながら、この時の御所も、またしても焼失。その後、幕末の安政期に、また再建されることになるのですが、今に残る京都御所というのは、実は、この時に再建された建物なのであります。炎上と再建を、幾度も繰り返して・・・。こうして、京都御所の歴史をみていくと、現在の天皇家が、これまで必ずしも平穏に推移してきたのではないということを、改めて感じさせられます。幕末期には、この御所の地が政争の舞台となり、また、一度は、ここが戦場ともなりました。上の写真は堺町御門で、この門は、通例、長州藩が警備を担当していた門でありました。尊王攘夷を掲げ、朝廷を支配していた長州が、親幕派の会津と手を結んだ薩摩により、御所から閉め出され、京から追い落とされたというクーデター事件。八月十八日の政変があったのは、この門でのことでありました。京での失地回復を目指した長州が、御所へと攻め込んできた事件。蛤御門の変の舞台となった場所が、この蛤御門です。蛤御門には、今も、当時の銃弾の痕が生々しく残されています。攻勢に出る長州軍の中核となっていたのが、来島又兵衛という部将。又兵衛が打ち取られたことにより、長州軍の壊滅が決定的なものになっていくのですが、蛤御門から入ってすぐにある、この木の下が又兵衛、討死の場所であったと伝えられています。その後、やがて、明治維新となり、都が東京へと移される中、多くの公家たちも、天皇に付き従って東京へと移っていきました。御所をとりまく、この広大な京都御苑というのも、元々は、これら公家たちの屋敷が立ち並んでいた場所なのでありました。御苑の中の、あちらこちらには、こうした公家の邸宅跡を示す石碑が残されています。今や、市民の憩いの場ともなっている京都御苑。しかし、そんな歴史のあとをたどりながら歩いてみると、そこには、天皇家が歩んできた道のりの光と影が、垣間見れるようにも思います。ところで、ちょうど今の時期、御所の一般公開が行われていたので、この機会にと思い、京都御所の中も見学してきました。いわば、天皇家の歴史の光の部分を象徴しているとも言えるのですが、やはり、素晴らしかったです。次回は、この京都御所の中の、様々な御殿のたたずまいについて、書いてみたいと思っています。
2011年11月06日
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心や身体の苦しみを救ってくれるお地蔵様。京都・西陣にある「釘抜地蔵」は、八寸釘と釘抜きが貼り付けられているという、特徴的な絵馬で有名なお寺です。一般には、釘抜地蔵という名で親しまれていますが、実際には、石像寺(しゃくぞうじ)というのが、この寺の正式名称です。この寺も歴史は古く、819年(弘仁10年)といいますから平安時代の初期、弘法大師・空海により創建されたと伝えられています。ということは、元々真言宗のお寺であったわけですが、その後、この寺が再興された時に浄土宗に改宗され、今に至っています。それでも、この寺の境内の雰囲気というのは、どことなく、真言宗であった頃の密教寺院のたたずまいが残っています。地蔵堂。ここには、この寺の本尊である「石造地蔵菩薩像」が安置されています。この地蔵像は、空海が唐から持ち帰った石を自ら刻み、石像としたものなのだそうです。苦しみを抜き取ってくれるお地蔵様として、創建当初から信仰を集め、これが「苦抜地蔵」と呼ばれて、あがめられてきたものなのでありました。しかし、それが、やがて「釘抜地蔵」という名で親しまれるようになっていくのですが、それには、ある伝説が、その由来として伝えられています。(釘抜地蔵の伝説)室町時代の中頃。当時、京都でも有数の大商人であった紀伊国屋道林という人が、何もないのに両手がとても痛み、色々と治療をするも効果がなく、霊験あらたか、との評判の苦抜地蔵にお参りし、願掛けをしました。すると、道林の夢の中にお地蔵様が現れ、「汝のこの痛みは病ではなく、汝が前世で人を恨み人形の両手に八寸釘を打ち込み呪った事がある為、その報いとして、苦しみを受けているのだ。」と告げます。続いて、お地蔵様は、「神通力をもって、恨みの釘を抜き取ってやろう」と言い、2本の釘を指し示しました。道林が夢からさめると、なんと、両手の痛みがたちどころに治っています。急いで苦抜地蔵へお参りに行った道林。すると、何と、その地蔵菩薩の前には、血で赤く染まった2本の八寸釘が置かれていました。それ以来、道林は、100日の間、この地蔵菩薩への参籠を続け、その感謝の気持ちを捧げたと伝えられています。やがて、この話が広まっていったことにより、このお地蔵様は、「くぬき」地蔵から「くぎぬき」地蔵と呼ばれるように変わっていったということです。ところで、この釘抜地蔵に願をかける、やり方には慣わしがあります。参拝者は、まず、この箱の中の竹の棒を年の数だけ手に持ち、お地蔵様にお参りします。その後、地蔵堂を一周して、竹の棒を一本ずつ箱の中に返していきます。これを、竹の棒がなくなるまで参拝を繰り返し、地蔵堂を周り続けるのです。そして、願いごとが叶うと、お礼参りにここを訪れ、八寸釘と釘抜きが貼り付けられた、この絵馬を奉納します。地蔵堂の外周には、奉納された絵馬が、所せましとばかりに、隙間無く並べられていて、これを眺めていると、授けられたご利益に対する、参拝者の方の感謝の気持ちのほどが察せられますね。この寺には、他にも、いくつか見どころがあります。その一つが、地蔵堂の裏にある石造阿弥陀如来像。鎌倉時代の石像であると言われていて、国の重要文化財。両脇に脇侍するのは、観音菩薩と勢至菩薩です。空海が、自ら掘ったとされる井戸。弘法大師・三井の一つであるとされています。他にも、このあたりは、かつて藤原定家の住居があったところであるとも言われていて、境内の墓所には、藤原定家や寂蓮法師の墓などもあるのだそうです。地蔵堂の前に、自由にお茶が飲める休憩所があったので、しばらく、お茶を飲みながら境内の様子をながめていました。広くはない境内なのに、多くの人。この寺には、近隣の方ばかりでなく、遠方からも参拝に来られる方が多いそうで、朝から晩まで、いつも人が絶えないのだそうです。訪れたこの日も、手に竹の棒の束を持ち、地蔵堂を回っておられる方が、何人もおられました。境内は、何とも穏やかな空気に包まれていて、どこかほっとするような気持ちにもなれます。もしも、近しい人が病で苦しむようなことが、もしあれば、ここにお参りに来ようかな。ふと、そんなことを考えたりもしました。「釘抜地蔵」というのは、いかにも苦しみから救ってもらえそうな、そんな雰囲気が漂っているお寺であります。
2011年10月16日
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三年坂・二年坂から清水寺に続くこの一帯は、まさに京都を代表する観光地。修学旅行の学生や、外国人観光客など、この日も多くの人が清水寺に来ていました。清水の舞台に上がると、その見晴らしは爽快で、さすがにここは、何度、訪れてもちょっとした感動が味わえる場所です。この清水寺、もちろん素晴らしいのですが、しかし、今回ご紹介したいのは、この清水の近くで最近見つけた私のお気に入りのお寺。歌の中山とも称される清閑寺というお寺です。そこは、清水の賑わいとは一転して、静けさと癒しの寺。清水寺の南側の裏門から出て、5~6分ほど歩いたところにあります。この間の道が林道のような山道になっていて、昔は、ここからの眺めが素晴らしかったとのこと。多くの歌人が、この眺めを歌に詠んだといい、そのためこの道が、歌の中山と呼ばれるようになったのだそうです。途中には、高倉天皇と六条天皇の御陵もあります。往時は、この御陵も清閑寺の境内だったといいますから、清閑寺というお寺も、かつては、清水寺と肩を並べるほどに大きなお寺だったようです。清閑寺の門前です。小高い山の中腹にあり、周囲には山々の景色が開けていて、狭い境内であるにもかかわらず、とても、開放感があるお寺です。この寺の堂宇はといえば、本堂がたたずむのみ。しかし、この寺は、平安初期の延暦21年(802年)の創建と伝えられ、古くからの歴史を刻んできた古刹なのであります。それだけに、この寺には、いくつかの歴史の逸話も伝えられています。その一つが、「平家物語」にも登場する、高倉天皇と小督局の悲恋のお話。以下は、その概略です。高倉天皇の正室は、平清盛の娘の建礼門院徳子。しかしながら、高倉天皇は徳子に仕えている小督局と恋に落ちます。これを知った義父の清盛は激怒し、小督局を宮中から追放するように命じ、小督は、嵯峨野の小庵に身を隠します。それでも、高倉天皇は、そんな小督を探し出し、再び御所に連れ戻しました。その後、2人の間には、内親王まで生まれることになります。しかし、清盛は、黙ってこれを見過ごすことはありませんでした。やがて、小督の手から内親王を取り上げ、さらに、小督に対して、今度は、出家するようにと命じます。そして、この時、小督が出家したお寺というのが、この清閑寺。以後、小督は、尼として、この地に住まうことになります。ところで、一方の高倉天皇も短命でした。若くして死の床につくのですが、この時、高倉天皇は、「小督のいる清閑寺に墓を作って欲しい。」と、遺言します。こうして、清閑寺の境内に高倉天皇が葬られることとなり、小督は亡くなるまでの間、そのそばで天皇を弔い続けたのだといいます。清閑寺の境内には、小督局の供養塔が残されています。もうひとつ、この清閑寺は、幕末期にも歴史の舞台となっています。それは、西郷隆盛と勤王僧・月照が、将軍継嗣問題や井伊直弼の強権政治に対抗するための方策について、密談を行っていた場所が、この清閑寺であったというお話。清閑寺には、かつて、郭公亭と呼ばれる茶室があって、2人は、ここで密談を続けていたのだと云われています。やがて、この2人は、幕府の追及を受けることになり、月照も薩摩に逃れ、最後は、錦江湾において、2人して投身自殺をはかることとなるのですが、この顛末については、以前に、このブログで書いたことがあるので、興味のある方は こちら をご覧下さい。こうした色々な歴史に思いを馳せながら、静かに京都の町を見下ろすひとときも良いものです。境内には、”要石”と呼ばれる石があって、ここに座って京都の町を見ると、ちょうど、その景色が扇形に広がっているように見えることから、この名がつけられているのだとか。そう、この寺、こうした、様々な由緒を持った寺ではありながら、いつ来ても、ここを訪れる人に出会うことがありません。ほとんど知られていない穴場なんでしょうね。それだけに、この寺にくると、まるで、この場所を独り占めしているかのような感じさえしてきます。とても静かで、いい雰囲気の癒される場所。清水寺の賑わいも良いけれど、その後に、ゆったりとくつろげる、この清閑寺には、とっておきの魅力があります。
2011年10月10日
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瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ百人一首でも有名な崇徳院(崇徳上皇)の歌ですね。この歌は、どんな障害があってもいつかは結ばれるといったような意味の恋の歌であり、また「崇徳院」という落語噺にも取り上げられていて、一般に良く親しまれている歌であると思います。しかし、この歌を詠んだ崇徳上皇という人は、この歌のイメージとは大きく違っていて、実際には、悲運の生涯を送った天皇であり、また、大きな怨みを持って亡くなったことから、その死後、長きにわたって怨霊として恐れられ続けた人でもありました。死後に、怨霊として恐れられた人物としては、他に、長屋王・早良親王・菅原道真などが、挙げられますが、しかし、それらに比べてもこの崇徳上皇の怨念というのは、ことのほか恐れられていたようで、それは、崇徳上皇が、生前から怨霊となって天下を覆すということを明言し、また、その言葉が現実のものになったと信じられていたということにおいて、特徴的なものでありました。崇徳上皇とは、いったいどのような人物で、また、なぜ、そこまで恐れられることになったのか。今回は、そうした崇徳上皇の生涯と、この崇徳上皇が祀られている京都・白峯神宮についてのお話です。***崇徳上皇は、元永2年(1119年)鳥羽天皇の第一皇子として生まれました。しかしながら、その生い立ちというのは、その後の崇徳の人生を方向づけたといえるほどに、不遇なものでありました。崇徳は、出生の当時から、実は鳥羽天皇の子ではなく、鳥羽の祖父である白河法皇が、鳥羽の妻と密通したことにより生まれた子であるとの疑惑が持たれていて、このため、幼い崇徳は、父の鳥羽からも「叔父子」と呼ばれ、あからさまに嫌われて育ったのだと云われています。これは、崇徳には何の罪もないことながら、崇徳は、因果な宿命を背負ったまま成長していくことになります。5才にして、崇徳は即位。幼くして天皇となったわけですが、しかしその実権は、上皇となった鳥羽がもちろん握っており、天皇とはいっても、あくまでも名目だけのものでありました。ところが、しばらくすると、鳥羽の若いお后に新たに子が生まれます。そうなると、鳥羽は、この若いお后の子が可愛くてたまらなくなり、ついには、崇徳を退位させて、この子を天皇に即位させます。近衛天皇です。しかし、この近衛は、若くして亡くなってしまいました。そこで、次の天皇はということで、鳥羽が次に選んだのが、崇徳のすぐ下の弟。これが、後白河天皇となります。こうした中で、崇徳は、自分の子を何とか天皇に就けたい、そうすれば当時の慣習として院政を行うことができ、自分のところに実権がまわってくる。・・・そうした期待を持っていたのですが、父の鳥羽は、崇徳にだけは実権を渡したくないと考えていて、崇徳の直系は、いつのまにやら、主流からはずされていくことになりました。それでも、崇徳は我慢を続けるしかありません。ところが、保元元年(1156年)のこと。鳥羽上皇が、突如、病死します。そして、これをきっかけにして、崇徳と後白河との権力争いが表面化し、事態が急転していくことになります。まず、動いたのが崇徳の側。藤原氏内部の権力争いや源氏・平家の中の内部対立をからめてクーデター計画をたて、やがて、これが戦いにまで発展していきます。世に「保元の乱」と呼ばれているものです。しかし、この戦いは、後白河側の圧倒的勝利に終わりました。あっけないくらいに、戦いは早く終結して、やがて、崇徳は捕らえられ、流刑に処せられることとなります。その配流先は、讃岐国。崇徳は、ここで、9年の間、失意の日々を送ることになります。崇徳は、配流先の讃岐で、毎日毎日、写経を続けたといい、その数は、190巻にも及んだそうです。保元の乱のことは反省しているので、なんとか、罪を許して欲しい・・・この写経は、そうした願いを込め、書き綴ったものなのでありました。崇徳は、赦免されるよう期待を込めて、京の後白河のもとへと、書き上げた経文を送ります。しかし、この経文は、封を開けることもなく送り返されてきました。落胆と怒りに震える崇徳。この時、崇徳は、自分の指先から血を出して、血で、怒りの言葉を経文の最後に書き加えたといいます。「日本一の大魔縁となり 皇を取って民となし民を皇となさん」 天下を覆すために、この経を海に沈め怨霊となって、天皇家の権力を失墜させてやると、いうようなことも、崇徳は、このお経の最後に書き残したのだそうです。長寛2年(1164年)崇徳上皇は、無念の思いを抱いたまま、讃岐の地において亡くなりました。その遺体は、白峯山山頂近くの白峯寺において、荼毘にふされたとされています。しかし、その後、京の都では、様々な天変地異が相次いで起こりました。大火事、疫病、飢饉、など、そして、やがて、これらは、崇徳上皇の怨霊の為せる業であると噂されるようになります。崇徳を追いやった後白河も崇徳の祟りを恐れ、その鎮魂のために、寺社を建てたり、祈祷を行ったりと、必死になって、崇徳の供養を行うようになります。しかし、そうした中で、やがて平家が台頭し・源平の争乱が起こってきます。その結果として、武家による政権が誕生。そして、これは、まさしく、これまでの天皇を中心とする王朝支配の終焉をもたらす、大きな歴史の転換点でもありました。天下を覆してやる、と書き残して死んでいった崇徳の祟り。それが、この王朝支配の終焉をもたらした要因であるのだと、本気で、そう信じられたのでありました。そして、その後も崇徳の怨霊に対する畏れというものは、長く人々の心の中に生き続けていったようです。それから、時代は、はるかに流れて明治維新。明治維新というのは、言うまでもなく、平安朝以来、久方ぶりに、天皇を中心とした新体制が樹立された変革でもあったわけですが、しかし、この時でもなお、崇徳上皇の怨霊に対する畏れが、人々の心の中に残っていました。維新を迎えるにあたって、天皇家が最も心配したのが、崇徳上皇の怨霊であったのです。これから天皇中心の国家を作るが、どうか祟らないで欲しい・・・そうした思いで建立されたのが、京都の白峯神宮であったのです。崇徳上皇の死から700年。時を超えて、なおも生き続けていたという、その衝撃の強さには、すざましいものがあったということができるでしょう。京都、堀川今出川にある、白峯神宮です。慶応4年(1868年)明治天皇が讃岐の白峯から、崇徳上皇の神霊をここに移し、創建された神社です。崇徳上皇を祭神とする神社、ということになるわけですが、しかし、さすがに今は、そうした、恐ろしげな雰囲気というのは、全く感じられません。地域の人が、たえず行き来し、集う、町の神社という感じです。また、ここの境内には「蹴鞠の碑」なるものもあります。これは、元々、この地が飛鳥井家という蹴鞠の宗家の邸宅跡であったということによるもので、それに因んで、この神社も、今では「球技の神様」として人気を集めています。拝殿には、京都パープルサンガからの祈願達成の品が献納されていたり、また、少年サッカーチームが全国からもお参りに来るというほどのサッカー上達祈願の神社でもあります。時代も大きく変わった今、崇徳上皇の神霊も積年の怨みを忘れ、安からかに、少年たちを見守ってくれているのかも知れない。白峯神宮の今のたたずまいには、そんなことも感じさせるような、やすらぎ感がありました。
2011年07月10日
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先日の6月4日は、22回目の結婚記念日。ここ数年は、結婚記念日の近い日に2人でどこかへと出掛けるようにしていて、今年は、1日定期観光バスでの京都めぐりをしてきました。嵯峨・嵐山歩きというコースで、その行程は、大覚寺天龍寺嵐山自由散策(野宮神社)仁和寺龍安寺 です。後半は、雨に降られたものの、ゆっくりと初夏の京都を満喫することが出来ました。まずは、大覚寺です。もともとは、嵯峨天皇の離宮だったものを寺に作り直したという由緒を持つ寺で、空海が、ここで修法を行ったことが、その起源であるとされています。皇族や貴族が住職を務める寺を門跡寺院といいますが、大覚寺という寺は、真言宗の門跡寺院であります。ここには、門跡寺院特有の宸殿という建物があります。平安朝の寝殿造りを思わせる蔀戸の部屋が、なんとも趣きがありました。それと、この寺のもうひとつの見どころは、寺院に隣接している大沢池。嵯峨天皇が、遊興・鑑賞のために造らせたという人工の池で、ここは又、日本最古の池庭園の跡であるとも云われています。秋には、観月の宴が催されるという月の名所であり、また、時代劇の撮影がよく行われている場所としても知られています。続いてバスは、嵐山へ。嵐山では、フリータイムということになっていて、昼食を含めて2時間ちょっと時間があります。天龍寺で解散して、暫しの自由散策です。昼食の前に、まず、天龍寺を参拝しました。天龍寺は、臨済宗の禅寺で、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために建立した寺であります。この寺の建築費を集めるため、元との貿易まで始めたとされているほどに、尊氏は、この建立に力を注いでいたようで、その交易船は「天龍寺船」と呼ばれています。ただ、残念なことに天龍寺の伽藍は、往時の建物が全く残っていません。それは、幕末、蛤御門の変の時に、ここが戦場となって焼けてしまったためで、今ある堂宇のほとんどは、明治以降に再建されたものであります。それでも、この天龍寺の見どころといえば、何といっても、「曹源池庭園」と呼ばれている夢窓疎石作の名庭。国の特別名勝にも指定されており、この庭があることにより、天龍寺は世界遺産にも登録されています。確かに名庭。いつまで見ていても、飽きない庭ですね。その後は、2人で、昼食に湯豆腐御膳を食べ、その後、まだ時間があったので、嵯峨野の路を散策しました。野宮(ののみや)神社です。源氏物語の「賢木」の巻の舞台になったとされている古社で、古代の鳥居の形式を、今に伝える黒木の鳥居が印象的です。私は、普段、おみくじを引いたりはしないのですが、この日は、珍しくおみくじを引いてみました。すると、大吉♪これは、いいことがあるのかな?妻も、おみくじを引きましたが、これもまた、大吉??、、、でも、とてもいいことが、きっとあるのではと期待してしまいますね。自由散策が終わって、続いて次は、仁和寺です。真言宗の門跡寺院ということで、大覚寺と同じような位置づけの寺ということになりますが、ただ、この寺は、宇多天皇が初代の住職になったということがあって、門跡寺院の中でも、最高位の格式を持つ寺であるとされています。仁和寺庭園。中ほどに茶室・飛濤亭、奥には五重塔が見えます。仁和寺では、ここの僧侶の方に、御殿の中を案内して頂きました。国宝・仁和寺金堂です。江戸初期に、京都御所の紫宸殿を移設して金堂としたもので、現存する最古の紫宸殿の建物であるとされています。この国宝・金堂があるということもあって、この仁和寺も世界遺産に登録されています。仁和寺では、もうひとつ、御室桜と呼ばれる桜も有名です。背丈が低く、目の高さで花が咲く遅咲きの桜で、京都では、この桜が咲いたら春も終わりと言われているのだそうです。一度、桜の時期に、訪ねてみたいですね。そして、最後が龍安寺。龍安寺も、世界遺産に登録されている寺院でありますが、ここの見どころは、何といっても、世界的にも名高いという有名な石庭です。大小15個の石が庭を形づくっているのですが、その15個の石のうち、どこから見ても必ずひとつは見えない石があって、15個すべては見えないようになっているとか。そこで、見る位置を色々と変えて、石の数を数えてみました。確かに、14個しか見えません。それでも、実際には、全ての石が見える場所が、1か所だけあるのだそうです。もうひとつ、この龍安寺で有名なものが、知足の蹲踞(つくばい)。水戸黄門として知られている徳川光圀が、この龍安寺に寄進したものなのだそうです。吾唯知足石の中央の四角い部分を、漢字の口に見立てて、上下左右に、口のつく漢字四文字が刻まれています。吾唯知足(われ、ただ足るを知る)何事も不満に思わず、満足する心を持ちなさい。というような意味ですね。雨の龍安寺は、しっとりとして、何とも言えぬ風情がありました。思えば、普段、苦労をかけている妻に対しても、少しは、奥様孝行が出来たでしょうか。仕事や日々の暮らしの中でも、辛いことというのも、確かに多いですが、それでも、今の境遇というのは、とても恵まれている、、、。知足のつくばい、ではないですが、満足できる今の境遇に感謝しなくてはいけないと、そんなことも、この寺めぐりの中で、改めて感じたりしました。
2011年06月19日
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絢爛華麗な桃山文化の粋、二条城。また、この二条城という城は、幾度か歴史の転換点の舞台となってきた場所でもあります。城といっても、実際に戦いの場所になったということはなく、主に、徳川幕府の儀典の場として利用され、また、京都における幕府の威光を示す象徴として、その存在を示してきました。今回は、以前に、二条城に行った時の写真を交えながら、二条城の歴史についてまとめてみたいと思います。二条城が築城されたのは、1603年(慶長8年)のこと。もともとは、徳川家康が征夷大将軍に任命されるにあたり、その京都における居館として、築かれたものでありました。築城については、畿内の諸大名に負担を命じ、城の縄張りについては、築城の上手といわれた藤堂高虎が担当しました。二条城が築かれた頃といえば、大坂に、まだ、豊臣氏があり、徳川と豊臣の間での桎梏が続いていた時期でもあります。加藤清正、福島正則などといった、豊臣恩顧の大名が身辺の警護にあたりながら、豊臣秀頼が大坂城を出て、家康との対面を果たしたのも、この二条城でありました。その後に起こった大坂の陣。この時には、二条城が徳川方の軍議の場所となりました。豊臣滅亡後、今度は、二条城が公武融和の儀典の場として、脚光を浴びることになります。それが、二代将軍・秀忠の娘、和子(東福門院)の後水尾天皇への入内。二条城は、この時に、様々な儀典の舞台となり、そうした中、やがて、徳川の姻戚となった後水尾天皇が、二条城への行幸を果たすことになります。二条城の中でも、国宝に指定されているのが、この二の丸御殿。二の丸御殿が出来上がったのは、1626年(寛永6年)のことで、後水尾天皇が行幸されるのにあたり、二条城を大改築した時に建てられたものでありました。二の丸御殿の内部は、まさに、桃山文化の宝庫ともいえる造りになっていて、特に、大広間-蘇鉄之間-黒書院-白書院と続く各部屋の装飾は絶品で、一枚板を透かし彫りにして、両面で違う模様になるようにした欄間とか、花熨斗形の釘隠し、狩野派の障壁画などには、目をみはるような華麗さがあります。二の丸御殿の西側に広がっているのが二の丸庭園です。この庭は城郭建築における庭園の代表作とも云われていて、小堀遠州による作庭であるとされています。小堀遠州は、寛永の二条城大改修に際しては、その作事奉行も勤めていて、二の丸御殿の美の世界というのも、遠州のプロデュースによる部分が大きいように思われます。また、この二の丸庭園も、後水尾天皇行幸に合わせて造られたものなのでありました。本丸の西南にある、二条城天主跡です。元々は、二条城にも五層からなる天主が聳えていました。しかしながら、1750年(寛延3年)に落雷により焼失。それ以後、再建されることはありませんでした。やがて、その後、二条城は、幕末になり、再び歴史の大舞台に立つことになります。1863年(文久3年)には、徳川家茂が将軍として、230年ぶりに入城。1867年(慶応3年)には、二条城大広間が、徳川慶喜・大政奉還発表の舞台にもなりました。ほどなく、江戸幕府は消滅したわけですから、二条城は、徳川幕府の日の出と日の入り、両方の舞台になったということになります。明治維新後、二条城は新政府により接取され、1868年(明治9年)からは、一時、ここが京都府庁となりました。さらに、その後は宮内省の管轄下に移ることとなり、それ以降、この城は「二条離宮」と呼ばれることとなりました。「二条城」と、一般には呼ばれていますが、実際は、「元離宮二条城」というのがその正式名称。これは、一時、宮内省の管轄であったという歴史があったためなんですね。1939年(昭和14年)になり、宮内省は、「二条離宮」を京都市に下賜。現在は、京都市の所有となっています。平成6年には、世界遺産にも登録された二条城。今も、訪れる人が絶えない京都を代表する観光名所のひとつになっていますね。二条城というのは、様々な歴史と桃山美が凝縮されているということが印象的で、まさしく、文武と格式を兼ね備えた、貴重な文化遺産であると云えるのだと思います。
2011年06月12日
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通常は、観光客に対して門戸を閉ざし、一般の拝観を行っていない大徳寺とその塔頭寺院。しかし、その中でも、普段から観光客を受け入れ、一般の拝観を認めている塔頭寺院もあります。龍源院瑞峯院大仙院高桐院それが、この4ケ寺。先日は、このうちの瑞峯院を除く3ケ寺に行ってきました。それらを訪ねてみると、同じ大徳寺の塔頭とはいいながらも、それぞれ、趣きが全く違っていて、意外なほどに、それぞれが個性的でありました。龍源院ここの方丈は、室町時代の禅宗建築をそのまま残しているとして、重要文化財に指定されています。この寺で特徴的なのは、昭和に作庭されたという大小様々な枯山水庭園が楽しめるということ。一枝坦(いっしだん) 東滴壺(とうてきこ) ?沱庭(こだてい)など、それぞれの庭には、何やら難しげな名前がつけられています。でも、なかなか見事なものですね。禅の現代庭園を見てみたいという人には、おすすめの寺院です。大仙院ここの方丈も室町期の禅宗寺院の遺構がそのまま残っているとして、こちらは、国宝に指定されています。中でも見どころは、玄関と床の間。いづれも、現存する日本最古のものであるとされています部屋には、狩野派の障壁画(重要文化財)が並び、庭園もまた迫力があります。ここの枯山水庭園は、室町時代の作という有名なもので、国の特別名勝にも指定されています。これら、大仙院の文化財と庭園というのは、大徳寺の中でも特にレベルの高いものなのではないでしょうか。しかし、ここの説明をしてくださった方の話しぶりが、私には、どうも、押付けがましく感じてしまいました。文化財が一級品ということはありますが、禅語やお説教を聞いてみたいという人に、おすすめなのかも知れません。高桐院この寺は、ガラシャ夫人の夫としても有名な戦国武将・細川忠興ゆかりの寺。忠興が父・藤孝(幽斎)の菩提を弔うために建立した寺院であります。林の中の閑静な庵という感じで、今回訪れた大徳寺の塔頭寺院の中でも、実は、私はここが一番気に入りました。客殿に入っていくと、その南側が縁で開放されていて、そこに庭が広がっています。「楓の庭」と呼ばれている庭です。一面の苔地の中に、ポツンと灯籠があるだけ。特に何もない、ただの楓の林であるはずなのに、それが何ともいえず、雅趣に富んでいます。忠興という人は、勇猛な武将ではありましたが、その反面、和歌もたしなみ、茶の湯においても「利休七哲」の一人といわれる千利休の高弟でもありました。「三斎」という号でも名を知られていて、当時でも、超一流の文化人であったのだと思います。そう考えると、この庭も、忠興の、文化人としての感性の豊かさが現れているようも感じられます。茶人としての細川忠興(三斎)この高桐院には、忠興や利休ゆかりの茶室や書院もあり、見どころがいっぱいです。茶室・松向軒(しょうこうけん)利休の茶を忠実に継承したといわれる忠興好みの茶室です。広さは二畳台目。秀吉が催した北野大茶会の際に作った茶室を、ここに移築したものであるともいわれています。書院。 意北軒(いほくけん)と名付けられています。もともとは、千利休の邸宅であった建物を移築したものなのだそうです。この後、高桐院もう一方の庭、西庭におりてみました。この西庭にも、歴史の逸話を今に伝える史跡が、いくつか残されているのです。袈裟形の手水鉢加藤清正が朝鮮の役の時に、朝鮮の羅生門の礎石を持ち帰ったものだと云われていて、その後、清正が、忠興に贈ったものとされています。笠欠けの灯籠これはもともと、千利休秘蔵の灯籠で、利休が「天下一」と名付けて大切にしていたものでありました。ところが、秀吉がこれを欲しがって、譲ってくれぬかと言ってきたために、利休はわざとこの裏面を欠けさせて、「惜しくもこれは疵になってしまいました。」といい、秀吉の請いを断ったという逸話がこの灯籠には残されています。裏から見ると、確かに大きく欠けています。後に、利休が切腹と決まった時、利休はこれを忠興に贈与。忠興もまた、この灯籠を、ことの他大切にし、参勤交代の時にさえ、江戸まで、これを持ち歩いたと伝えられています。その後、この灯籠は忠興の死にあたり、その希望により、これが忠興の墓標とされました。この墓には、忠興とともに、ガラシャ夫人が一緒に葬られているのだそうです。***このように、大徳寺の塔頭寺院というのは、戦国武将が建てた寺や、ゆかりの寺というのも、とても多いです。高桐院の他にも、加賀の前田家(芳春院)、福岡の黒田家(龍光院)や三好長慶(聚光院)、石田三成(三玄院)、小堀遠州(孤篷庵)、信長の菩提寺(総見院)などがあります。又、今度、公開される機会があれば行ってみたいですね。大徳寺において、通常、一般公開されている寺院が4ケ寺だけになっているということは、大徳寺を観光地化から守りつつも、世間とのつながりを保っていくのに、丁度よい割合になっているということなのかも知れません。それだけ、大徳寺には、歴史の息吹きが閉じ込められているということなのかも知れない、と、今回、大徳寺を歩いていて、そんなことを感じたりもしました。
2011年05月21日
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毎年、春と秋に行われている京都の非公開文化財、特別公開。これに合わせて、この前のGWは、京都の大徳寺に行ってきました。特に、この大徳寺というお寺は、通常は、一部を除いて一般には公開していないお寺なので、こうした特別公開の時でないと、なかなか見ることが出来ません。そこで、今回のお話は、この大徳寺探訪記。でも、その前に、大徳寺の沿革について、ちょっとお話ししておきましょう。大徳寺は、創建されたのが鎌倉時代の末。大燈国師(宗峰妙超)という僧が開いた臨済宗の禅寺であります。一休禅師や沢庵和尚など、幾多の名僧を輩出したことでも知られ、また、千利休が参禅していたことなどもあって、茶の湯とのつながりが、とても深く、茶の湯に関連した名亭や文化財を多く所有していることも、特徴的であります。ここが、中世以降の日本の文化・芸術に、大きな影響を与え続けてきた寺院であったことは間違いなく、大徳寺全体では、20点近くの国宝を所蔵していて、ちょっとした美術館のような存在ではあります。しかしながら、それも原則は非公開。それが今回、そのほんの一部ではありますが、特別公開によって見ることが出来ます。それでは、大徳寺をちょっと歩いてみましょう。まず、大徳寺の三門。通称・金毛閣です。桃山時代に、千利休を施主として再建された門で、この大徳寺を象徴する建物であるといえます。この楼上に、雪駄履きの利休像を置いたことから、利休不遜であるとして、秀吉の逆鱗を招き、それが利休切腹の原因となったという話でも有名です。金毛閣の後ろには、仏殿・法堂が続きます。仏殿は京都の豪商が、法堂は関東の大名が、それぞれ寄進して、江戸初期に再建されたものです。それに続く建物が、庫裏と方丈。今回は、この内部が特別公開されています。中に入ると、学生アルバイトとおぼしきガイドさん数名が、色々な文化財の説明をしてくれました。内部は、もちろん、写真撮影厳禁です。この方丈での見どころといえば、何といっても、国宝の唐門。華麗な彫刻が散りばめられた四脚門で、桃山時代を代表する唐門というだけあって、とても美しいです。他には、国の特別名勝にも指定されている枯山水の庭園や狩野探幽の襖絵など。ガイドさんから、その由来や見どころなどの話を聞きながら桃山美の世界に浸れました。と、ここまでが、大徳寺の本寺・中心伽藍についてでありますが、大徳寺の敷地内には、他にも、多くの子院があります。禅宗では、この子院のことを、特に”塔頭”(たっちゅう)という言い方をするのですが、大徳寺には、これらの塔頭寺院が、20カ寺以上あり、実は、大徳寺本寺より、これらの塔頭寺院の方に、多くの文化財・見どころがあるのです。こちらも、通常は一部を除き非公開ですから、今回の特別公開というのは、中に入って見ることが出来る数少ないチャンスということになります。今回、訪れた特別公開の塔頭寺院は、真珠庵黄梅院 の2ヶ所。それぞれに、独自の歴史と文化財を持った寺院であります。まずは、真珠庵。真珠庵というのは、”一休さん”ゆかりの寺院。一休禅師を慕い、その高弟たちが開いた庵であります。方丈には、一休の書が掲げられ、又、その奥には一休の遺髪を埋め込んだという一休像が安置されています。そして、部屋の中央には、真珠庵の命名のもとになったともいう真珠で作られた天蓋。他にも、長谷川等伯の襖絵や茶室・庭玉軒などを見ることが出来ました。続いて、次は黄梅院。元々は、織田信長が父・信秀の菩提を弔うために建立したという寺院です。千利休が作ったとされる直中庭という庭園が広がり、そこには、加藤清正が持ち帰ったとされる、朝鮮灯篭などもありました。他に、毛利家のお抱え絵師であった雲谷等顔という絵師が描いた襖絵等。普段は立ち入ることが出来ないこれらの寺院で、絵画や書院・茶室など、茶の湯を中心とした秘蔵の文化財を満喫することが出来ました。ところで、この大徳寺を訪ねて感じることは、その清潔感と潔癖さ。境内の小径などは、常に掃き清められているのか、とても整然としていて、清潔感を感じます。さらに、もうひとつは、賽銭箱のような類のものが、一切ないこと。これは、観光客を受け入れていないということと期を一にするものでありますが、そこからは、厳しく自己の悟境を掘り下げていくという、大徳寺の禅風をうかがうことが出来ます。世俗から一線を画して、自らの禅風を貫いていこうとしている大徳寺。しかし、このことは、同時に、その分収入が入ってこないということでもあり、そうした中で、これだけの寺院を維持していくのは、実際には大変なことなのだと思います。世俗的な欲望を排して、清貧に耐え、修行に専念する。そこからは、大徳寺の僧たちのそうした姿勢が垣間見えるようにさえ感じます。実際、大徳寺塔頭の塔主たちの中には、寺院が観光化していくことに対して、痛烈に批判している人も多いと聞きます。しかし、その反面、それぞれの塔頭寺院においては、自主性が守られているという部分もあり、少数派ではありますが、逆に、積極的に観光客を受け入れようとしている塔頭寺院も中にはあります。現在、大徳寺の中で、拝観料をとり、普段から一般に公開している塔頭寺院というのは4カ寺。いわば、これら”大徳寺の中の観光寺院”の方も、今回訪ねてみたのですが、この続きは、また次回です。
2011年05月15日
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明治時代の京都は、近代化に向けて、とても頑張っていたという印象があります。京都が全国に先駆けて実施した近代化事業としては、小学校の設立、公立病院の開業、洋紙工場の稼動、そして琵琶湖疏水による、発電所の建設、電気鉄道の走行、等があり、当時の京都は、全国の府県のなかでも、最も積極的に近代化に取り組んでいたといえると思います。そうした京都の近代化事業の中でも最大のものであったのが、琵琶湖疏水の開鑿工事。これは、大津の三保ケ崎から京都の蹴上まで、途中3本のトンネルを掘って、琵琶湖の水を京都まで引き入れようとするもので、さらに、これを、舟運・動力発電・用水など、多用途に活用しようとする計画でありました。また、この事業は、当時の日本では、他に例がないほどの大工事・難工事となり、日本人が初めて、外国人技術者の手を借りることなく独力でなし遂げた一大事業でもありました。今回は、この琵琶湖疏水に関連した遺跡を訪ねながら、疏水完成にまつわるお話をまとめてみたいと思います。***ところで、京都は何故、この琵琶湖疏水事業を始めようとしたのでしょう。実は、その最大の目的というのが、明治の京都は、東京遷都によって、すっかりさびれてしまっていて、その京都の町に活気を取り戻し、産業を起こすことにより再生したいという強い願いがあったためでありました。明治時代の京都において、様々な近代化政策が進められたのも、そうした一連の京都復興策でありました。そうした背景の中で行われたのが、琵琶湖疏水の大工事であったのです。そもそも、この事業を構想したのは、第3代の京都府知事である北垣国道という人。北垣は、京都復興のためには、産業の振興が急務であると考えていて、知事に就任するや否や、この事業のための調査・測量を開始し、その結果がまとまると、政府に伺い書を提出して、やがて、それが認可されます。予算総額は、125万円。その費用は、一部は国が負担して、一部は国から借り入れ、残りは、京都府が税収から拠出することになりました。しかし、それでも、京都にとっては、年間予算の十倍以上という膨大な費用が注ぎ込まれることになります。さらに、北垣は、この工事の責任者に、田辺朔郎という東京工部大学校(現、東大工学部)卒の新人を起用します。いや、新人というよりも、実際には、当時の彼は、この年大学を卒業したばかりの学生で、これも大胆な、かなりの思い切った抜擢人事でありました。しかし、結果的には、彼が見込んだ、この人事が事業の成功へと結びついていくことになるのです。1885年(明治18年)琵琶湖疏水の掘削工事が、大津側から始められました。まずは、長等山の第一トンネル。しかし、これは、当時の日本としては、最長の長さのトンネルであり、この事業の中でも、最大の難工事となりました。田辺は、この工事のために、まず、竪穴を掘り、それにエレベーターをつけてそこから東西に掘り進めるといった工法を考え出します。毎日、トンネルに入って現場指揮をする田辺。しかし、照明設備や掘削機械などにしても貧弱なものしかなく、なおかつ、材料にしても限られた予算の中で、やりくりしなければいけません。そのため、レンガが必要となれば、レンガを焼いて作り、材木が必要になれば、山から木を伐りだして材木をこしらえるといった状況で、まさに、手づくりの開通工事となりました。さらには、技術者の不足ということもありました。そのために田辺は、夜に技術者を養成し、昼にはそれを実践させるという、想像を超えるような努力の積み重ねにより、なんとかトンネルを掘り進めていったのです。また、工事の途中、田辺は、疏水の利用方法の検討ということで、アメリカに視察に出かけています。そこで田辺が見てきたものは、当時、実用化されて間もない水力発電でありました。帰国後、田辺は、疏水に水力発電による電力供給機能を追加することを提言。この案が、採用されるることになりました。そして、いよいよ、疏水工事が完成に近づいてきます。そうした中で、もうひとつ田辺が意を用いたことがあります。それが、トンネルや疏水施設のデザインについてでありました。向い合った面は同一構造にする、正面から見た時に左右対称になるようにするなど、疏水全体が統一した美観になるように考えて設計していきました。さらに、伊藤博文・山県有朋・井上馨・三条実美などといった、当時の有力政治家たちに、揮毫を依頼、かれら、明治の元勲たちにより揮毫された文字が、各トンネルの出入口に扁額として彫りこまれ、記念碑的な意匠となるようにデザインしました。1890年(明治23年)第一期の琵琶湖疏水が、ついに完成。明治天皇を迎え、竣工式が盛大に行われました。着工から5年の大工事、しかし、これが京都の活力を取り戻すことにつながっていったのでした。疏水工事の設計及び工事責任者であった田辺朔郎の像です。竣工式の頃の姿を像にしたものなのだそうですが、この時で、田辺は若干28才。しかし、この琵琶湖疎水の完成については、彼の力に負うところが、非常に大きかったということができます。田辺が提案した水力発電所も、この翌年に完成しました。京都・蹴上に作られた、この発電所は、日本で初めてのものでありましたが、そればかりでなく、世界でも2番目に稼動した水力発電所となったのでした。そして、この発電所からの電力供給により、京都に新たな工場が次々と生まれることとなり、やがて、京都の町を、日本初の電気鉄道(路面電車)が走ることになります。これは、蹴上に残る琵琶湖疏水の遺跡のひとつ、「インクライン」と呼ばれているものです。疏水運河が登りになる箇所では、舟を線路上の台車に載せて、引っ張り上げるために、こうした設備が設けられていました。この動力についても、水力発電による電力が用いられていました。南禅寺の境内に残る「水路閣」です。疏水の水は、灌漑用水としても利用されましたが、そのために、京都の北部まで疏水の支流が引かれました。この支流が、南禅寺の境内を通過するために作られた水道橋がこの「水路閣」です。ローマ帝国の水道をイメージしたということで、田辺朔郎の設計・デザインによるものです。疏水の水は、南禅寺から、さらに、銀閣寺の方へと伸びていきます。この間の疏水のほとりを遊歩道として整備されたものが「哲学の道」と呼ばれているもの。今や、すっかり京都の観光名所になっていますね。琵琶湖疏水により、見事に、復興を遂げた京都の町。そして、その陰には、明治の先人たちが積み上げてきた努力がありました。かつては、京都に、活力と発展をもたらしてきた琵琶湖疏水ではありましたが、しかし、それが今では観光名所ともなって、その流れは、現代人にやすらぎを与えてくれる存在になっているといえるでしょう。
2011年05月07日
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平安朝の頃の面影を伝え、静かにたたずむ古社。緑に包まれた山裾に建つ宇治上神社には、古き雅びの風情が今に残されていました。・・・「源氏物語ミュージアムに行ってみたい」と、妻のそんなリクエストに応えて、宇治へと出かけたのは、今年の2月。源氏物語ミュージアムに行くのならば、宇治上神社と宇治神社が、その近くにあるからということで、そこまで足を伸ばした次第。ちょっと前の話になってしまいましたが、今回は、そうした半日宇治散策の時のことを振り返ってみたいと思います。宇治市内の寺社の中では、平等院と宇治上神社の2件が世界遺産(古都京都の文化財)に登録されています。たまたま、この日は、宇治上神社で結婚式があったようで、多くの人が集まっておられました。こうした世界遺産にも指定されているような古社で、結婚式を挙げることが出来るとは、ちょっと意外・・・。というような話をしながら、拝殿・本殿の方へと向って歩いていきます。宇治上神社の祭神となっているのは、応神天皇・仁徳天皇と菟道稚郎子(うじのわきのいらつこ)の3柱。菟道稚郎子という人は、自ら命を絶って兄の仁徳天皇に皇位を譲ったとされている皇子で、その菟道稚郎子を悼んで創建されたのが、この神社の起源であるとも云われています。藤原頼通が平等院を建てた時には、この神社が平等院の鎮守社とされ、篤く信仰を集めたのだそうです。明治まで、この神社は宇治離宮八幡と呼ばれていて、かなりの神域を持っていた神社だったのだそうです。やがて、宇治上神社の境内へ。ここのお守り売場には、「願い人形」といって着物姿の紙人形に願いを託すお守りがありました。願い事を一つだけ、紙に書いて神社に納めます。「ひとつだけ・・・」と、悩みながらも、妻は願い事を書き込んでいました。宇治上神社の拝殿です。鎌倉時代前期の宇治離宮を移築したものであると云われていて、国宝にも指定されています。この檜皮葺きの社殿が、なんとも言えず趣き深くて、また、建物の造りには、寝殿造りの遺構が残されておりまさに、平安貴族の邸宅といった風情が残っています。本殿は、この拝殿の裏にあります。この本殿も国宝で、平安末期である1060年(康平3年)の建築であるとのこと。これが、現存する最古の神社建築であるとされています。この建築年が、平等院の建築年と同じであるということから、平等院の建立と、深いつながりがあるのではないか、とも云われています。本殿内には、中央に応神天皇、左に仁徳天皇、右に菟道稚郎子が祀られているのだそうです。この日は結婚式があったから、ということもあるのでしょうが、この神社を訪れる人が結構多かったです。ちょっと地味な神社ということもあってか、少し前までは、来る人もまばらという状態だったのだそうですが、やはり、これも、世界遺産登録の効果なのでしょう。本殿横にある摂社。春日神社です。これも鎌倉時代の建築で、こちらは国の重要文化財。この春日神社の存在というのは、この神社に対する藤原氏の保護が篤かったということの証でもあります。今でも水が湧き出ているという、菟道稚郎子ゆかりの霊泉。桐原水と呼ばれているもので、宇治七名水のひとつに指定されています。宇治上神社のすぐ近くにある、もうひとつの神社、宇治神社にも行きました。かつて、ここが宇治離宮八幡と呼ばれていた頃には、宇治上神社が上社で、この宇治神社が下社という形になっていたということ。この神社も、小さいながらも、宇治上神社と同じ由緒を持つ神社であります。宇治上神社と宇治神社。どちらも、しっとりとした雰囲気を持つ古社で、まるで、心の深呼吸が出来たかのような、そんな爽快感を感じる神社でありました。そして、その後は、源氏物語ミュージアムで、華やかな平安絵巻の世界を堪能。たまには、妻と2人で出掛けてみるのもいいものですね。短い時間ながらも、とても充実した半日宇治散策となりました。
2011年05月01日
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運転免許を取ったばかりの長男が、「一度、ドライブに連れて行ってやる。」と、かねてより、しきりに言っていて、それならばと、先週の日曜日、息子2人と私の3人で、京都へとドライブに行ってきました。来年、就職活動を迎えるのに、運転免許は必要と、さほど、乗り気でない長男の尻をたたいて、教習所に通わせていたのですが、いざ、運転の教習が始まると、逆に、その運転の楽しさに取りつかれてしまったようです。家に車はないので、レンタカーを借りての半日ドライブとなります。初心者マークを車につけ、少し緊張気味にハンドルを握る長男。いよいよ、京都に向けて発進です。その運転ぶりは、、普通に前に進むことについては、問題はないですが、やはり、車庫入れやユーターンなどの細かい操作や、右折するときに、車が途切れるタイミングを計る事などは、まだ、経験が必要ですね。それでも、性格が現われていて、とても慎重な運転でした。去年開通したばかりの第二京阪高速を使って、そこから京都市内へと入ります。途中で、何度か、私と交代しながらの運転です。しかし、かく言う私も、実際には、3年以上も車の運転をしておらず、多少の心配はあったのですが、それでも、ハンドルを握ってみれば、すぐに勘を取り戻しました。やはり、車の運転というのは、体が覚えているものなのですね。さて、京都市内を観光です。まず、最初に訪れたのが、北野天満宮。天満宮といえば、菅原道真を祀る、学問の神様。3人それぞれが、学問向上を祈りました。北野天満宮 三光門北野天満宮 本殿また、北野天満宮は、豊臣秀吉が千利休を茶頭にして、諸大名や公卿を集め、「北野の大茶会」を催した場所でもあります。そうした石碑も、境内に残されていました。北野大茶湯之址碑太閤井戸次に訪れたのが、桜の神社とも呼ばれている平野神社。桜の季節でもあり、また、この日は桜祭りという祭礼の日であったため、ものすごい人出でありました。人波の中の運転となったのですが、初心者にとっては、ちょっとハードな運転環境だったかもしれませんね。境内が、桜の花でうめつくされた平野神社。50種もの品種の桜を、そこでは見ることができるといいます。もともと、この神社の桜というのは、平安時代、花山天皇が、この境内に数千本の桜を植えたことが、その始まりであるとされていて、桜祭りという祭礼も、花山天皇に由来を持つ古祭なのだそうです。平野神社では、咲き誇る見事な桜を、満喫です。また、ここの神社は、本殿も見どころの一つ。比翼春日造と呼ばれる様式の珍しいもので、三角屋根の春日造が2棟づつつながり、4つの社が並んでいます。平野神社 本殿そして最後は、金閣寺へ。金閣寺 舎利殿池に浮かぶ金色のお堂。その姿には、思わず、息を呑むものがありました。金閣寺には久々に来ましたが、さすがに、京都を代表する観光地ですね、金閣寺 鐘楼ところで、金閣寺では、参拝者が有料で鐘をつくことができます。しかし、今はそれを、鐘をついた人が支払う志納金を義援金にして、震災被災地へ送るという形にされていました。私も、被災された方の暮らしが少しでも楽になりますようにと願いつつ、合掌し、鐘をついてきました。金閣寺からは、再び、長男と運転を交替しながら帰路に向かいます。この数年、全くハンドルを握っていなかったので、ペーパードライバー化しているのでは、という若干の不安も払拭できましたし、また、はじめての実地運転で、自信を深めたであろう長男も、結構、満足深げでした。でも、無事に帰ってこれて良かった。というのが、正直な感想でしょうか。ちょっと、ハラハラしながらではありましたが、久々の半日ドライブとなりました。
2011年04月17日
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京都には長く都があったことから、多くの伝統工芸が栄え、そして、それが今も受け継がれています。中でもその代表格といえるのが、西陣織と呼ばれる絹織物。その絢爛華麗な織物は、平安朝の頃の宮廷の織り集団の技を引き継ぐものであるといわれ、日本の伝統美を象徴するもののひとつであると云うことができます。先日、この西陣の界隈を歩いてみました。西陣のお寺めぐりを通して、西陣の歴史について考えてみたいというのが、今回の記事のテーマであります。まず、訪れたのが、西陣の人たちから「聖天さん」と呼ばれ、親しまれているお寺「雨宝院」。ここには、「染殿井」と呼ばれる井戸があって、この水は、染色に使うとよく染まるといわれていることから、昔は、染物関係の人が、よくこの水を汲みに来ていたのだそうです。ここの境内は、狭いにもかかわらず、いくつものお堂が並び、しかも、松や桜などの樹々が境内をうめつくしているため鬱蒼としていて、まるで、町の中のジャングルのようです。雑然としているといえば、そうなんですが、とても静かで、何の物音も聞こえない、不思議に落ち着ける、魅力のあるお寺です。また、ここは、桜が開花する頃も見ごたえがあるそうです。根元近くからも花を咲かせる、歓喜桜と呼ばれている名木もあり、京都では、隠れた桜の名所として知られているのだそうです。「雨宝院」を出て、町を歩くと、やはり、織物関係の会社が目につきます。中小規模の会社が多いですね。この西陣という名の起こりは、応仁の乱の時に、西軍の本陣が置かれたということによるもの。西陣というのは、そういう地名があるわけではなくて、ただ単に、この地域一帯のことを西陣と呼び習わされてきたわけです。応仁の乱の時には、西陣の職人たちも戦禍をのがれ、堺や奈良に避難をしていました。そして、乱が終息したと聞くと、また、ここへ戻ってきて、西陣の織物業を復興させたのです。そして、その後、西陣は最も繁栄した時代を迎えることになります。次に訪れたのが、「報恩寺」というお寺です。ここの寺の梵鐘は、重要文化財にも指定されているという古鐘で、別称「撞かずの鐘」とも呼ばれています。そして、この鐘が「撞かずの鐘」と呼ばれるに至った由来には、西陣織が盛んだった頃の、哀しい織子の物語が伝えられているのです。報恩寺の鐘は朝夕に撞かれることになっていて、一帯の織屋では、この音で仕事を始め、この音で仕事を終えるようにしていました。 とある織屋に、仲の悪い丁稚と織子がいて、ある時、2人は、夕刻の鐘が何回鳴るかを言い争います。織子は九つといい、丁稚は八つと言い張り、負けた方は何でも言うことをきく、と約束しました。本当の鐘の数は九つだったのですが、ずる賢い丁稚は、寺男に八つの鐘を撞くように頼みます。 そして、その鐘の数を聞くや否や、丁稚は織子を責めたて、織子は、その悔しさのあまり、鐘楼に帯をかけ、首をくくって死んでしまいました。このことがあって以来、お寺も鐘を撞くのをやめてしまい、やがて、この鐘は「撞かずの鐘」と呼ばれるようになりました。ところで、西陣の歴史というのは、幾度となく苦難に見舞われて、また、その度に、復興を遂げるという繰り返しでもありました。中でも、大きな苦難であったと言えるのが天明8年(1788)の「西陣焼け」と呼ばれる大火。この時、西陣の一帯は焼き尽くされ、さらには、機織機3000台余りを失うなど、壊滅的な打撃を受けることとなりました。しかし、そうした中からも、西陣は立ち直り、見事に、再生を遂げたのです。一方、この大火の中でも、奇跡的にも焼けることなく堂宇が残り、地元の人からも不焼寺(焼けずの寺)と呼ばれ、信仰を集めた寺があります。それが、ここ「本隆寺」です。西陣の界隈には、日蓮宗の本山を称する寺が多いのですが、ここもそのひとつですね。ゆったりとした寺のつくりで、何となくホッとできるお寺でありました。その後の西陣は、江戸末期の、奢侈禁止令でも打撃を受け、また、明治維新後の東京遷都により、西陣もさびれて、その活気を失っていきます。京都が、そして織物業が衰退。しかし、ここから、又、新たな西陣の復興が始まることになります。西陣から、何人もの専門家をヨーロッパに留学させ、西洋の先進技術を取り入れることにより、徹底的な近代化を進めたのです。洋式織機の導入による近代化。これにより西陣は、再び、織物の技術革新の先進地として、日本の織物業をリードしていくことになったのでした。西陣の一角にある「西陣織会館」です。ここでは、西陣織の展示や西陣の歴史の紹介の他に、手織りの体験やきもの衣装の体験、着物1日レンタルなども出来るようになっています。さらに、きものショーなども随時行われていて、色々と楽しめる施設になっています。この日もアジア系の団体客がきていて、大層、賑わっていました。近年は、きもの離れが進み、また、このところの不況による節約志向もあって、現在、西陣は大きな不振にあえいでいます。「西陣織会館」で行われている様々な企画というのも、そうした中で、伝統産業や、和装についての楽しさ・素晴らしさを少しでも多くの人に知ってもらおうとするための取り組みでもあります。しかし、これまで、幾度もそうした苦難を乗り越えてきているのが西陣の歴史です。今、また、再び活気を取り戻そうと、新たな切り口を模索している、そんな、西陣の姿をそこに見たような気がします。
2011年03月06日
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今年のNHK大河ドラマ「江 姫たちの戦国」今までのところ、毎週、見ていますが、どうでしょうね。脚本が「篤姫」の田渕久美子さんだということで、期待もあって、確かに、第一話なんかは、感動するシーンあり、息を呑むシーンあり、笑えるシーンありとワクワク感いっぱいだったんですが、その後は、どうも・・・ のような。江のキャラクター設定が、ちょっと、はじけ過ぎのような感じがしています。江たち三姉妹のやりとりも楽しいですし、好奇心いっぱいで、物怖じしない娘として設定されたお江というのもユニークなのだとは思いますが・・・。広く一般の人が楽しめるようにと考えると、そのようになっていくのかもしれません。やがて、豊臣と徳川とに別れて、三姉妹それぞれが異なる道を進んでいった時にどうなるのか、今後の展開に期待したいです。ところで、そうした今年の大河ドラマの主人公である、お江と淀殿にゆかりの寺に、先日行ってきました。京都・三十三間堂の隣にある養源院というお寺です。この「養源院」という寺名は、三姉妹の父・浅井長政の法号に因んだもので、淀殿(茶々)が、父・長政の菩提を弔うために建てた寺であります。創建は、文禄3年(1594年)。この年、長政の21回忌があり、それを記念して、淀殿が秀吉に願って建立したものでありました。ところが、この養源院は、それから25年後の元和5年(1619年)、火災により焼失してしまいます。そこで、その後、崇源院(お江)が、これを惜しんで養源院を再建したのでありました。お江が、夫の徳川秀忠に懇願して、寺の再建が進められ、元和7年(1621年)に完成。現在の養源院は、この時の建物で、ここの本堂は、当時、破却されていた伏見城の遺構を、ここへ移したものなのだそうです。養源院というお寺は、それほど大きくなく、4~5部屋くらいしかありません。しかし、本尊の阿弥陀如来が安置されている仏間には、歴代の徳川将軍の位牌が並べられていて、厳粛な雰囲気があります。ここは、江戸時代を通じて、徳川家の菩提寺であったということで、毎年、ここへは、京都所司代が定期的に参詣していたのだそうです。そうした格式のある寺ということもあるのでしょう、小さなお寺の割には、見どころがいくつかあります。その一つが、鴬張りの廊下。歩くと、キュキュと鳴る仕掛になっている廊下ですね。江戸期の有名な彫刻家・左甚五郎の作であるといわれています。この廊下の上の天井が「血天井」と呼ばれているもの。関ヶ原の合戦の前哨戦であった伏見城攻防戦の時に、鳥居元忠以下、千人余りが伏見城を死守して、非業の最期を遂げました。この時、彼らが自刃した時の板の間を天井に仕立てたものが、この「血天井」です。手や膝の形が血の痕として、天井に残っているということなのですが、そう思って見ていると、確かに生々しくもあります。いわば、捨石として死地に赴いた元忠たちの霊を弔うために、あえて血染めの板の間を天井として残し、その供養としたものなのでありました。そうした意味で、この寺は、鳥居元忠の供養寺でもあるかような感もあります。もう一つ、これら元忠たち将兵を供養するために描かれた絵がこの寺には残されています。それが、俵屋宗達の「杉戸絵」。宗達の出世作であるとも言われていて、重要文化財にも指定されている名作です。この寺の内部は、すべて撮影禁止だったため、この「杉戸絵」の絵葉書を買ってきました。白象、唐獅子、麒麟といった動物を杉の扉に描いたもので、図案化された大胆な構図と、表現の奇抜さが特徴的。白象は、普賢菩薩の乗り物で、唐獅子は文殊菩薩の乗り物であるということから、これにより追悼の思いを込めたということなのだそうですが、そうした湿っぽさは感じさせません。宗達が描き上げた、まさに、江戸時代の霊獣ファンタジーとでもいうべき作品なのではないでしょうか。また、この寺には他に、狩野山楽の襖絵もあり、浅井長政、お市、お江などの肖像画も蔵しているそうです。そして、庭園は小堀遠州作庭のもの。そう考えると、宗達も、狩野山楽も、小堀遠州も浅井の縁者であったり、浅井の家来筋であったりと、浅井家とつながりのある人たちでありました。そういう意味では、ここが徳川家の寺となってからも、なお、浅井氏を偲ぶ人たちの思いは、脈々と続いていたのでは、というように思えてきます。*私が養源院を訪れた、この日にも、やはり、大河ドラマの影響なのでしょうか、10名近くの人がここに来ていました。そうした、ブームをきっかけにしてということでも良いので、少しでも多くの人が、歴史や文化財への興味を広げてもらえたらいいのに、と、この寺を訪ねてきていた人たちを見ていて、そんなことを感じたりしました。
2011年02月06日
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