歴史一般 0
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”日本一低い山”というのが大阪にある、ということを知ったのは、つい最近のこと。その山が天保山で、標高はわずかに4.53mしかない!?とか。たまたま、少し天保山の歴史を調べていて、その中で知ったことなのですが、俄然、興味が湧いてきて、先日、天保山へと行ってきました。天保山といえば、今や、大阪でも有数のレジャースポット。海遊館やサンタマリア号遊覧などで、幾度か行ったことはあるのですが、天保山という山があるとは、意識したことがありませんでした。現在、その周辺は、天保山公園として整備されているのだそうです。地下鉄の大阪港駅につくと、この日が日曜日ということもあり、観光に訪れたカップルや親子連れでいっぱいです。大観覧車や海遊館が見えてきましたが、私はそちらではなく、天保山公園へと向かいます。そもそも、天保山というのは、元からあった自然の山なのではなく、人の手で積み上げられた人工の築山でありました。この山が作られたのは、江戸時代末期、天保2年(1831年)のこと。大阪湾に流れ込む安治川の船舶の出入りと洪水の防止のために、川底をさらう大工事が行われ、その土砂が河口に積み上げられて出来上がったのが、天保山でありました。この時、その高さは20mほどあったようです。この工事により、安治川から大坂の町に入る船が、多くなったといい、また、この山が、大阪湾から安治川に入る時の、かっこうの目印になったようです。そのため、この山は出来た当初は「目印山」と呼ばれていたといいます。やがて、この山には、桜や松などの木々が植えられ、茶店なども軒を並べるようになり、人々が集まる歓楽の場へと発展していきました。海や川で舟遊びをする人々も多く、次第に、大坂有数の行楽地になっていきます。天保山公園の入口にある、浮世絵を陶板にしたモニュメントです。当時の天保山の賑わいぶりは、浮世絵の題材としてもしばしば描かれるというほどに、行楽地として人気があったようです。ところが、幕末期になると、天保山を取り巻く状況が変わってきました。安政元年(1854年)。ロシアの軍艦が大阪湾まで入ってきて通商を迫るという事件が起こり、そのため、天保山を防御の拠点にする必要があるということで、天保山は、歓楽の地から西洋式の城塞へと生まれ変わっていくこととなります。この時、天保山に砲台を築くため、山土が削り取られ、山の高さが、7mほどになったのだそうです。慶応4年(1868年)1月。鳥羽伏見の戦いで、敗勢となった幕府軍が大坂城に集結して、軍の建て直しを図ろうとしていました。そうした中、徳川慶喜は、主だった者数名だけを伴って、大坂城を抜け出します。この時、慶喜は安治川を船で下って、天保山の沖合いに出て、ここで停泊していた軍艦・開陽丸に乗り込み、江戸を目指しました。天保山の沖合い・・・慶喜が、江戸へと向かう開陽丸に乗り込んだのは、このあたりだったのでしょうか。 さて、天保山公園です。それほど広い公園ではありません。この公園の中心の広場には、「明治天皇観艦記念碑」が建っていました。 慶応4年(1868年)3月。当時、15才だった明治天皇が、ここで7隻の軍艦の観閲をされたと云い、これが日本で最初の観艦式であったということです。それにしても、”日本一低い山”という天保山とは、いったい、どこにあるのでしょう。・・・・・ありました。天保山山頂を示す、二等三角点です。「明治天皇観艦記念碑」のすぐ横にありました。高さからすると、この地点は、全く高くなく、ここに来るまでに、石段を20段程度上っただけ。現在、標高は、4.53mということです。昭和40年代までは、それでも、まだ、標高が7mあったそうなのですが、地下水の汲み上げが頻繁に行われたために、地盤沈下が進み、今のような標高になってしまったとのこと。しかし、それでも、ここは、国土地理院発行の地形図にも山として名前が記載されているという、正式な山なのです。天保山山岳会という団体もあって、この山岳会では、登山後の希望者には、登山証明書を発行しているそうです。山とは言っても、何だか不思議ですね。ところで、ここ、天保山公園で、もうひとつ珍しいものを見つけました。渡し舟の乗り場です。対岸の桜島地区までを結ぶ、公営の渡し舟ということで、自転車なども乗せて渡れるとのこと。きっと、地元市民の生活の足として利用されているのでしょう。後で調べてみると、大阪市内には、まだ8ヶ所こうした渡し舟が運行されているのだそうです。料金は無料ということで、私も、この渡し舟に乗ってみました。この対岸には、人気のテーマパーク・ユニバーサルスタジオジャパン(USJ)があります。そのためか、外国人や観光客のような人も何人かいました。乗船時間は、わずかに数分。舟はあっという間に、対岸の乗り場に到着しました。向こう岸から見た、天保山周辺。大観覧車の横にあるのが、海遊館です。天保山は、今やすっかり観光スポットとして人気を集めていますが、歴史を振り返ってみると、江戸時代の頃からも、すでに名高い行楽地でありました。いわば、ウォーターフロント開発の草分けのような存在であったとも云えます。そうした歴史の地であるとともに、大阪の、また一味違った側面をも持ち合わせているのが天保山。天保山に今回行ってみて、様々な顔を持った、不思議な魅力がある町であるとそんな印象を持ちました。
2010年08月15日
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「エノキさん」という愛称で地元の人から親しまれている大木と小さな祠。大阪市安堂寺町にある榎木大明神です。 この榎木大明神は、私の通勤路の途中にあって、毎日、この祠を横に見ながら、職場へと向かっていたものでありました。しかし、先月、会社の事務所が移転になったため、今は、この祠の前を通ることもなくなりました。毎日、何気なく歩いていたこの道も、いざ、ここを通ることもないと思うと、一抹の感傷を感じるものです。 この「エノキさん」というのは、思いのほか歴史が古く、樹齢670年と云われていて、楠木正成が植樹したという言い伝えまであるのだそうです。この前の道が熊野街道で、かつては熊野詣や伊勢参りで、多くの人が行き来した道。「エノキさん」はそうした参拝者にとって、格好の道しるべであったのだそうです。豊臣時代から江戸時代にかけては、この地は大坂城内でありました。きっと、この「エノキさん」は、幾多の歴史現場を見てきたのでしょうね。ところで、榎木大明神のこのあたりは、直木賞の由来となったことでも知られる作家、直木三十五の生まれ育った場所でもあります。彼の代表作は、幕末の薩摩藩の動乱を描いた「南国太平記」。直木は、この作品を中心とした作品群により、大衆小説の発展に力を注いだ人でありました。彼の功績を記念し、榎木大明神の傍らには直木三十五の文学碑が立てられています。 「きっとなせる市蔵」 「なせる」 大久保市蔵はそういってうなずくと 吉之助の手を握った 軽輩のすべては同じ心で 磯浜を桜島を眺めていた 直木三十五「南国太平記」よりこの作品は、お由羅騒動と呼ばれる幕末薩摩藩のお家騒動を描いたもので、益満休之助という薩摩藩士が主人公。益満休之助といえば、西郷隆盛の命を受け、江戸で浪人を集め、幕府に対するかく乱工作を行ったことで知られる人物で、この挑発行為が、幕府の主戦派を刺激し、鳥羽伏見の戦いを起こさせたという、討幕戦における陰の仕掛人とも云える人であります。この碑を見るたびに、「南国太平記」を一度、読んでみたいと思っていながらも、いまだ、未読のままです。ところで、この榎木大明神と直木三十五文学碑の管理については、箔美会という地元の有志の方々で、お金を出し合って行われているのだそうです。私も、ここの清掃をされている方を見かけた時には、たまに、声を掛けたりしていましたが、こうした、有志の方たちの地道な活動によって、貴重な遺蹟が守られているのだということを感じます。この安堂寺町だけではなく、有志の手により歴史保存が行われているというケースは、きっと全国にもたくさんあって、こうした地元有志の方の地道な活動が、歴史を伝えていくことを底辺で支えているのでは、ということを感じさせます。榎木大明神と「エノキさん」は、今でも、地元の人たちにとっての土地神さまであり、春のお彼岸の頃には、毎年、お祭りが行われているのだそうです。
2010年07月10日
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先週、ゴールデンウィークの休みを利用して、堺に行ってきました。堺は、室町時代末期には、南蛮貿易により繁栄し、有力商人たちの自治自衛が行われていたことから自由都市と呼ばれていた町。また、歌人・与謝野晶子が生まれ育った町でもあります。堺市は、現在、政令指定都市にもなっていて大阪市に次いで規模の大きな都会ではありますが、それでも、どことなく風情が残っている町であると思います。中でも、宿院(しゅくいん)と呼ばれている地域は、大阪で唯一残っている路面電車(阪堺電車)も走っていて、特に、風情が感じられます。今回は、この宿院を中心とした堺の史跡めぐりを振り返ります。宿院駅と路面電車。 この宿院駅の近くにあるのが、千利休の屋敷址。侘茶を完成させた千利休は、堺で倉庫業(納屋衆)を営む富裕な商家の生まれでありました。 この屋敷跡には、「椿井」と呼ばれる井戸が残っており、利休が茶の湯の際に常用していたものなのだそうです。ここが、利休の茶の湯の原点ともいえる場所、と思うと何かしら感慨が湧いてきます。この近辺には、当時、堺を代表する豪商であった今井宗久・宗薫の屋敷址や利休の師であった茶人・武野紹鴎の屋敷址もあり、往時には、このあたりが堺の町衆文化の中心地であったであろうことが偲ばれます。続いて、次も、宿院駅の近く与謝野晶子の生家跡です。与謝野晶子は、明治11年(1878年)の生まれで、彼女の生家は、ここで菓子商を営んでいたのだそうです。幼い頃から、日本の古典文学に親しんでいだ晶子は、若くして歌の才を発揮していたといい、23才で、駆け落ち同然に妻子のある与謝野鉄幹のもとへと上京するまでの間の青春時代をここで過ごしました。 生家跡に建てられている、与謝野晶子の歌碑です。 海こひし 潮の遠鳴りかぞえつつ 少女となりし 父母の家晶子の、両親やふるさとを偲ぶ想いが伝わってくる歌ですね、もうひとつ、こちらは、JR堺駅前に建つ与謝野晶子の像です。 与謝野晶子は、進歩的で情熱的な女性。ある意味、奔放に生きた生涯であったともいえるのですが、しかし、そんな晶子も、今や歴史・文化のまち堺のシンボルとなっています。堺の史跡めぐり足を伸ばして、さらに続けます。妙国寺というお寺です。戦国時代の創建で、三好氏ゆかりの寺だということですが、その一方、幕末・明治初年の外国人殺傷事件である堺事件ゆかりの寺としても知られています。 堺事件の概略。幕末から明治へと移行していく時代、慶応4年2月のこと。堺は開港地ではなかったのにも関わらず、フランス兵が堺港に上陸してきたことから事件が起こりました。当時、堺の警備にあたっていたのが土佐藩で、上陸して市内を徘徊するフランス兵を静止しようとした土佐藩士との間で発砲事件が起こり、フランス兵10名あまりが殺傷される事態となりました。これが、さらに、国際問題へと発展。責任を追及された土佐藩士11名が切腹することとなりました。 土佐藩士11名の切腹の地が、ここ妙国寺です。堺事件というのは、明治政府の体制が、まだ出来上がっていない時期に起こった対外事件で、責任の所在や賠償金の支払いなど、新政府の対外交渉力の未熟さを露呈した事件となりました。また、森鴎外が「堺事件」という小説を書いていて、その中で、日本の武士道や日本文化の欧米との特異性が描かれたことでも知られています。最後は、堺旧港に建つ、旧堺灯台です。 明治10年に建築された、現存する日本最古の木造灯台であるといわれています。これは堺市民からの寄付と当時の堺県からの補助金によって建てられたもので、昭和43年まで、実用として使われていたのだそうです。堺市内には、この旧堺燈台をモチーフにした電話ボックスや時計台などもあり、堺のまちのシンボル的な存在となっているようです。海に映える六角形のその美しい姿は、確かに、人々に癒しを与える存在であることを感じさせます。今回、行くまでは、堺市というのが、そんなに観光地であるという認識はなかったのですが、ゴールデンウイークであるとはいえ、結構、多くの人が観光に訪れているのには驚きました。観光案内所でレンタサイクルを借りて、堺の町をまわったのですが、このレンタサイクルも朝10時頃には、すべて出払ってしまっていて自転車を借りるのもやっとでした。堺には、他にも鉄砲鍛冶屋敷跡や、伝統産業である刃物の博物館、自転車の博物館などもあり、また、仁徳天皇陵も近くにあります。今回は、あまり時間もなく色々見てまわれなかったのですが、堺は、意外な歴史の宝庫であることを改めて感じました。また、お近くにこられた際には、堺市、一度、行かれてみてはいかがでしょうか。
2010年05月09日
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四条畷は、生駒山脈の麓に位置する大阪北東部の町。南北朝時代には、四条畷の戦いが繰り広げられ、また、楠木正成の長男で”小楠公”と称された楠木正行(くすのきまさつら)が、若くして討死した町でもあります。JR四条畷駅の近くには、楠木正行を祀った四条畷神社があります。この休日、散歩がてら、四条畷市に行ってみました。四条畷神社の入口です。この石段を上がったところに、神社の境内があります。 創建は、明治23年ということで、かなり、新しい神社です。このことは、明治政府が国家政策上建立した神社であるということを示しているといえます。神社の由緒書きには、かつて、別格官幣社であったことが記載されています。神道を国教と位置づけた明治政府は、全国の主要な神社を選別して、格付けを行いました。・天皇家・皇族を祀る神社など、朝廷にゆかりのある神社を官幣社・各地の一宮を中心に選別された国幣社、・国体に功績を挙げた人物を祀る神社として別格官幣社これらの神社は、国が幣物(捧げ物)を定期的に捧げる格式ある神社でありました。別格官幣社とは、日光東照宮(徳川家康)や照国神社(島津斉彬)など、歴史上の人物を祀った神社の中から、明治政府が選抜した神社なのです。 四条畷神社の境内です。落ち着いた雰囲気の、なかなか、いい神社です。清廉とした厳かな気分になります。楠木正行といえば、「太平記」の中で語られた「桜井の別れ」の逸話が有名ですが、四条畷神社の境内には「桜井の別れ」の様子が描かれた石像がありました。 「桜井の別れ」の逸話とは・・・。楠木正成は、湊川出陣にあたり、桜井の駅(現・大阪府三島郡島本町)まで進軍して来た時に、息子の正行を呼び、「兵庫へは討死覚悟で出陣するが、お前は故郷へ帰るように」と告げます。正行は「いかに父上の命とは言えど、年若くとも死出の旅の供をしたい」と願い出ます。正成は、「父の死後は、足利の天下になるであろうが、どこまでも、正統の天皇をお守りせよ それが父への奉公となる。」と諭します。さらに、「これを我が形見にせよ」と後醍醐天皇から賜った短刀を正行に与えました。正成は、さらに、「老いた母の元に帰れ」と正行に告げて、両者は泣く泣く別れて行きました。この話は、戦前には、修身の教科書に必ず掲載され、修身教育の代表的な題材の一つとなっていました。さらには、「青葉茂れる 桜井の 里のわたりの 夕まぐれ……」の歌詞で始まる「桜井の訣別」という唱歌も作られ、これも、戦前よく歌われていました。国が上から忠義・孝行を押し付けた明治~戦前の時代。その反動で、そうした道徳教育をしなくなった戦後。どちらも、極端な行き過ぎだったと思います。忠孝とは古い時代遅れのものである、と片付けてしまうのでなく、今の時代、その精神を見直すことも必要なのではないかと、楠木正行のことを考えながら、そんなことを感じました。
2008年07月26日
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せっかくのゴールデンウィークですから、せめてどこかに出掛けてみたいと思い、近場ではありますが、高槻城跡に行ってきました。高槻城は、南北朝時代に作られたといわれ、戦国時代に至るまで代々入江氏の居城でありました。織田信長の勢力が強まるにつれて、和田氏、続いて高山氏が城主となり、その後、元和3年(1617年)には、徳川幕府が西国監視の重要拠点と位置づけて、大規模な修築工事を行い、天主を備えた近代城郭へと生まれ変わりました。江戸期には、譜代大名の永井氏が13代、220年の間、城主をつとめています。明治維新を経て、明治7年(1874年)石垣の石を鉄道建設に使用するため、高槻城を破却。今は、城跡を示す石碑がある程度で、城跡公園として、すっかり市民憩いの場となっています。 高槻市には来ていても、この城跡公園を訪れたのは、これが初めて。小川や池、噴水、東屋などもあって、くつろげる空間になっていて、なかなか良い公園です。この日も家族連れなどが、多く訪れていました。また、公園内には江戸時代の民家を移設、修復したという歴史民俗資料館や、公園の近くには、近世の高槻と高槻城をテーマに展示を行っている、しろあと歴史館もあり、高槻の歴史にまつわる色々な資料を見学することができます。しかも、うれしいことに、これらは全て入館無料。高槻市は、文化財のPRに結構力を入れているように感じました。城跡公園内には、十字架の形の剣を持った高山右近の像もあります。 高山右近といえば、戦国時代を代表するキリシタン大名。高槻城主であった高山右近は、キリスト教の布教を熱心に行い、当時、領民の8割近くがキリシタンであったといいます。領内には教会が20ヶ所以上あり、天主教会堂では、毎年、クリスマスや復活祭が盛大に催されていました。セミナリオ(神学校)まで設立されていて、高槻を訪れた宣教師はあたかもキリシタン国家のようであると感嘆していたそうです。しかし、高山右近が高槻にいた期間は15年程度と意外と短く、やがて、高槻から明石へと転封になってからは、秀吉の直轄地となったことにより、高槻のキリシタン信仰は、急速に衰えていきました。今回、高槻に行ってみようと思ったのは、そうした、高山右近の足跡や、キリシタンの町であった面影を感じることができるかもしれないという思いがあったためでもありました。 熱心なキリシタンであった高山右近の父が設立したという、高槻天主教会堂の跡。今は石碑が残るのみです。ここからは、キリシタンの遺品や遺構がわずかに発見されているそうですが、本格的な調査は、まだこれからのようです。城跡公園から、阪急高槻駅へと向う道の途中には、カトリック高槻教会(高山右近記念聖堂)があり、ここにも高山右近の像がありました。 大理石で作られたこの像は、高山右近逝去350年を記念して、バチカン市国から贈られたものであると、碑に記されていました。高山右近の生涯は、他のキリシタン大名たちとも違い、かたくななまでに純粋に、キリスト教信仰に捧げたものでありました。高山右近の生涯については、また、日を改めて書きたいと思います。今は、すっかり大阪のベッドタウンとなっている高槻市ですが、この界隈は、城下町であった面影も残っており、町のふっとしたところにも、キリシタンの町であったことを示す石碑が残っていたりします。市内には、他にも歴史遺跡が多いようで、また、いつかの機会に、もう一度行ってみたいと思いました。
2008年05月05日
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『餅くらわんか』などの 河内のことばで、淀川の船客に対し食べ物を売りつける「くらわんか舟」は、江戸時代の評判となっていました。大阪・枚方銘菓の「くらわんか餅」には、その発祥の由来が伝えられています。 枚方市は私の住む町の隣町で、名物とはどんなものかと思い買ってみました。大福・こしあん・しろあんの各5個づつ。まず味見をということで、1個づつ食べてみました。私は甘党なので、こういう類は結構いけます。そこへ妻と子が集まってきて、あっという間になくなりました。特にしろあんに人気が集中して、大福は甘すぎると敬遠されました。結局、不人気の大福を食べ続けることに・・・そうです。親たるものは、子供に食べ物を譲るのです。(ただ、取り合いに敗れただけのことかも知れませんが)「くらわんか舟」は、淀川での独占営業権を幕府から認められていました。その理由として、大阪の陣の時、くらわんか舟の舟頭が、真田の残党に襲われた家康の危難を助けたため、その功により家康から営業権を与えられた。そういう伝承が残っています。実際はそうでないようですが、どうなんでしょうか。「くらわんか餅」についている〔くらわんかの由来〕という栞には次のように書いてあります。--------------------------------------------------------------『くらわんか』とはつまり『食わないか』の口穢い言葉である大阪の陣の砌り淀川畔にて家康の危難を救った舟頭久助に淀川にての船客に対し『くらわんか』と云い乍ら食べ物を売る権利を与えたことにより始まる・・・・・・・人によれば徳川時代に当時の人々事ある毎に是に協力其の度重なる功にめでて淀川にての総べての権利を与えた此の事が前者と混同されて出来たものが由来としての本旨に近いのではなかろうか。--------------------------------------------------------------つまり、「くらわんか舟」は幕府によく協力していたため、営業権を認められていたという事のようです。安藤広重は「京都名所之内 淀川」という絵の中で「三十石船」とその船客相手に飲食物を販売する「くらわんか舟」を描いています。その絵から、舟にかまどを積み煮炊きしながら販売していた様子がわかります。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも「くらわんか舟」の乱暴な言葉使いに怒った弥次さん、喜多さんが、『この舟は、このように物をぞんざいに言うのが名物じゃわい』と他の船客に諭されるくだりが出てきたりします。「くらわんか舟」江戸時代、淀川の船の旅での名物であったようです。
2006年10月22日
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