歴史一般 0
全23件 (23件中 1-23件目)
1
日曜の夜といえば、大河ドラマ。子供の頃から、ずっと、そういう習慣になっていて、私の家では、今でも基本、日曜の夜8時はチャンネルがNHKになってます。でも、今年の「花燃ゆ」は、テレビがついていても、どこか見ているような見ていないような・・・。本来、幕末の長州藩というのは、好きなジャンルのはずだし、話としても面白いはず、と思ってはいるものの、何だかどうもイメージが違います。主演の井上真央は、とても頑張っていると思います。激動の時代を象徴するような事件も色々出てくるし、それなりに、楽しんで見ている部分もありますが、でも、どこか、違和感を感じながら見ているような気がします。「花燃ゆ」については、また今後の展開に期待するとして、それより、来年放送の大河「真田丸」は、大いに期待が持てそうです。脚本が三谷幸喜、主演が堺雅人ですから、それだけでも、興味がそそられますし、最近、その主な配役も発表され、来年は真田幸村で盛り上がりそうな気配です。その最大のクライマックスとなるのは、もちろん大坂の陣。今年はちょうど、大坂冬の陣(1614年)大坂夏の陣(1615年)から、400年にあたるということから、大阪では、色々なイベントも行われています。その関連で、というわけではないですけど、今年は、「大坂の陣検定」なるものも受験しましたし、大坂の陣にゆかりの場所を、色々、訪ね歩いたりもしました。大坂の陣、ゆかりの地めぐり。そうした中から、今年、訪ねた真田幸村にゆかりの場所を以下で、いくつかを、ご紹介したいと思います。三光神社(天王寺区玉造本町14-90)天照大神、月読神、素戔嗚神の三神を祭神とする古社で、中風除けの神としても知られている神社です。ここは、幸村が「真田丸」を築いたという真田山であったとされています。境内には、幸村が本城と真田丸との連絡通路に使っていたとされる抜け穴があり、その入口には、真田幸村像が立てられています。心眼寺(天王寺区餌差町2-22)真田幸村・大助父子を弔うために創建されたとされる寺院。門前には、真田丸出城跡碑が建てられています。茶臼山(天王寺区茶臼山町1-108)茶臼山の麓に、河底池と呼ばれる小さな池がありますが、ここは、平安初期に和気清麻呂が堀川を掘削した痕跡であるとも言われています。冬の陣では徳川家康の本陣、夏の陣では真田幸村がここに本陣をおきました。誉田八幡宮(羽曳野市誉田3-2-8)大坂夏の陣の激戦地のひとつ。真田幸村は誉田八幡宮に陣を敷き、伊達政宗の軍との戦闘を繰り広げました。安居神社(天王寺区逢坂1-3-24)少彦名神と菅原道真を祭神とする神社。夏の陣の時、幸村は、家康の本陣に対して、幾度か突撃を試みましたが、家康を追い詰めたものの、首を取るまでは至らず、最期、ここで腰をおろし休憩しているところを討ち取られました。境内には、真田幸村戦死跡の碑、幸村が休んでいたという「さなだ松」最期の姿を再現したという幸村像があります。大阪城(大阪市中央区大阪城1-1)そして、大坂城。慶長20年(1615年)5月。徳川勢の総攻撃により、大坂城は炎上し、秀頼・淀殿母子は城内の山里曲輪にて自害しました。現在の大阪城天主は3代目。昭和6年、市民の寄付を集め再建されたものです。長きにわたって続いた戦乱の世の、その最後を締めくくったのが大坂の陣。最後にひと花咲かせたい。そこには、様々な立場・境遇の中で、それぞれに賭けた思いがつまっていたように思います。来年の「真田丸」ぜひ、楽しみにしたいと思います。
2015年07月23日
コメント(4)
黒田節というと福岡地方に伝わる民謡というイメージがありますが、その一方、この歌は、昭和初期にレコード化され、大ヒットしたという流行歌としての一面もあります。黒田節が発売されたのは、昭和17年(1942年)のこと。コロンビアレコードから発表されたこの歌は、赤坂小梅という当時の人気芸者がこれを歌い、大ヒットを博したのだといいます。その歌詞はというと、皆さんもご存じの通りの有名なものです。 酒は飲め飲め 飲むならば 日の本一の この槍を 呑みとるほどに 呑むならば これぞ真の 黒田武士黒田節は、民謡のイメージと先に書きましたが、音楽のジャンル分けでいうと、今様という古典歌曲に分類されるのだということ。それが、福岡藩の武士の間で長く歌い継がれ、今日まで伝わっているものだといいます。そして、この黒田節の歌詞というのは、福岡藩に伝わる、あるエピソードがもとになったものなのでありました。*------------*---------------*--------------*福岡藩の武将・母里太兵衛は、ある日、主君・黒田長政の使者として福島正則の元へと使いにいきました。太兵衛は、正則の屋敷で福島正則から酒を勧められます。太兵衛も酒が好きで、酒豪でもありますが、今は主君長政の使者という立場上、酒の勧めを固く断ります。しかし、正則は大盃になみなみと酒を注ぎ、「これを飲み干せたならば、好きな褒美をとらす」となおも、太兵衛に酒を勧めます。それでも、頑なにこれを拒み続ける太兵衛。太兵衛の職務に対するあまりの実直さに業を煮やした正則は、「黒田武士は酒に弱いのう、酒に酔えば何の役にも立たないのではないか」と言い、太兵衛を挑発します。この黒田家の名を愚弄するような正則の挑発に腹を決めた太兵衛。酒がなみなみと注がれた大盃を持ち上げて、一気にこれを飲み干します。「好きな褒美をとらす、と先ほどの仰せ。日本号(ひのもとごう)をぜひ頂戴したい。」「日本号」というのは、正則が豊臣秀吉から賜ったという名槍で、元々は皇室の所有物で、朝廷から「正三位」という官位まで賜ったということから「槍に三位の位あり」と謳われた天下の名槍です。正則にとっては、もちろんかけがえのない福島家の家宝。酒の席での売り言葉とはいえ、「武士に二言は無いはず」と太兵衛に迫られ、断りようのなくなった正則は、天下の名槍日本号を太兵衛に与えることとなります。黒田武士の面目を守り、名槍まで手に入れたという母里太兵衛のこの逸話は、福岡藩において、その後も長く語り継がれていったのでありました。*------------*---------------*--------------*今年のNHK大河ドラマは「軍師官兵衛」。この逸話の主人公・母里太兵衛もドラマの中に登場しています。太兵衛の主君であった黒田長政は、黒田官兵衛の嫡男であり幼名を松寿丸といいました。松寿丸だった頃の長政は、織田信長の人質となり、官兵衛が伊丹の有岡城に幽閉されていた時に、あわや処刑されそうになったところを、竹中半兵衛の機転により助けられたという数奇な体験をした人でもありました。そして、黒田官兵衛。戦国武将の中でも私が最も好きな武将のひとりです。この官兵衛の生涯の中で、最もドラマチックな出来事はといえば、何といっても有岡城幽閉事件でしょう。「軍師官兵衛」の中でも、きっと、クライマックスのひとつになるのだと思います。この事件の詳細については、以前、このブログでも書いたことがあるので、良ければ、一度ご覧ください。 黒田官兵衛と松寿丸「軍師官兵衛」これから、三木城、鳥取城、備中高松城など、城攻めの名場面が色々と出てくるでしょうし、それらも、見どころになってくるのだと思います。そしてまた、「黒田節」のエピソードがドラマの中でどのように描かれるのかということも、楽しみのひとつです。
2014年03月22日
コメント(4)
木下長嘯子というのは、江戸時代の初期を代表する歌人。感情や心の動きを奔放に表現した、その歌が、近世初期の歌壇に新境地を開いたと評価され「歌仙」とも称された人です。細川幽斎から歌を学び、その後は、林羅山・春日局・小堀遠州などとも親交を結んで、当時の文芸界において、リーダー的な存在の人だったと言います。しかし、この長嘯子の実際の本業というのは戦国武将。彼は、秀吉の妻・北政所の甥であり、秀吉からも、数少ない血族のひとりとして取り立てられ、いくつかの戦いにも参戦しましたが、武将としての功績は芳しくなく、結局、武将としてではなく、歌人として、その才能を開花させることになりました。今回は、そうした、武将であり、歌人であった、木下長嘯子の生涯について、まとめてみたいと思います。***木下長嘯子は、その名を勝俊といい、1569年(永禄12年)、北政所の兄である木下家定の長男として生まれました。彼には弟が3人いて、すぐ下の弟が、木下家を継承していくことになる利房。一番下の弟には、関ケ原戦での寝返りで知られることになった小早川秀秋がいます。勝俊は、幼い頃から、北政所の血族として、秀吉に取り立てられ、19才の時に龍野城主、26才の時には若狭・小浜城主となり左近衛権少将という官位まで与えられました。秀吉の親族ということで、順風満帆に出世を遂げていき、武将の才としては平凡ながら、それでも小田原の北条攻めや、朝鮮出兵(文禄の役)にも参陣し、それなりに持ち場をこなしていたようです。勝俊が、和歌の世界に親しみ始めたのは、20才を過ぎた頃から。文禄の役で朝鮮に向かう旅日記の中でも、和歌を詠み、次第に和歌の世界に傾倒していったといいます。しかし、そんな勝俊に、やがて、大きな転機が訪れます。それは、ここまで自分を引き立ててくれた秀吉の死。勝俊という人は、秀吉と北政所のことを心から敬愛していた人で、この秀吉の死により受けた悲しみと、その後の時局の変転が、彼をして和歌の道へと向かわせたということのようです。慶長5年(1600年)秀吉亡き後の天下の覇権をめぐり、徳川家康と石田三成が対立。関ケ原の戦いが起こりました。この時、勝俊は、東軍の家康側についていて、伏見城を防衛するようにと命じられ、伏見に入城します。攻め寄せてくる、石田勢。しかし、この時、勝俊は、あろうことか戦いの直前になって伏見城から脱出します。これが、勝俊、謎の敵前逃亡とされる事件で、このことにより、勝俊は、戦後、家康からその罪を問われ、領地を没収されてしまうことになりました。関ケ原の戦いにおいては、勝俊の弟・小早川秀秋をはじめ、裏切り・寝返りをした武将というのも少なくありませんでした。勝俊も同様に、この一件のため裏切り者と決めつけられてしまうことになります。しかし、この事件を起こした勝俊の、その真意は何だったのでしょう。 あらぬ世に 身はふりはてて大空も 袖よりくもる はつしぐれかな勝俊が、伏見城を退去するときに詠んだとされる歌です。この歌の「あらぬ世に」とは、秀吉が亡くなってしまったということを意味していて、その中で生きてきた自分の時代は、もう終わったのだという感慨がこめられています。秀吉という一つの権威が去ると、また争いを繰り返している。勝俊は、そうした人間の強欲さにも嫌悪を抱き、関ヶ原の戦いを境に、武将としては秀吉に殉じ、この後は文人として生きていこうとする、彼の決意が、この歌に表されています。彼にとって、この事件は、決して裏切りではなく、自らの求める道を歩きはじめるための、第一歩だったということなのかも知れません。これを機に、勝俊は長嘯子と号し、東山の霊山に挙白堂という庵を建て、そこに籠るようになります。しかし、それでも周囲は、そのまま彼を文雅の道に安住させてはくれませんでした。慶長13年(1608年)、父である木下家定が死去。この遺領(備中足守藩)を誰が相続するかということで、問題が持ち上がり、結局は、北政所の周旋により、領地は勝俊が受け継ぐということで落着し、勝俊は、足守藩主として、復活することになります。こうして、再び、藩主の地位に就くことになった勝俊。しかし、そこへ、江戸幕府からの横槍が入ります。この遺領は、兄弟で分割すべきものであるのに、勝俊は、何故、領地を独占しているのか、これは、幕命に反するものである・・・。木下家は改易。結局、弟の利房ともども、幕府から、その藩地を没収されてしまうこととなりました。(利房は、この数年後、遺領を回復しています。) よしあしを 人の心にまかせつつ そらうそぶきて わたるよの中 領地を再び失った勝俊が、隠棲生活に入ったときに詠んだ歌です。世の矛盾や不可解さから達観し、自らは文人として生きていこうとする勝俊の姿が、目に浮かんでくるようです。その後の勝俊は、歌人・長嘯子として、その名を世に馳せ、世間から認められていくことになりました。晩年には、出家した西行が、その昔、暮らしたという、洛西の勝持寺という寺に居を移し、風雅の中で、その余生を送ったのだといいます。 露の身の 消えてもきえぬ置き所 草葉のほかに またもありけり 長嘯子・勝俊の、辞世の歌です。勝俊が亡くなったのは、慶安2年(1649年)のこと。享年、80才。こうして見てみると、木下勝俊(長嘯子)の生涯というのは、ある意味、自分の信念を貫き通した、そんな人生であったと云えるのかも知れません。
2013年05月12日
コメント(6)
「敵は本能寺にあり!」1574年(天正2年)6月2日。中国の毛利勢と対峙している秀吉を援護するようにと命じられていた明智光秀は、主君・織田信長を襲撃するよう、全軍に指示を出しました。この未明には、明智軍が信長の宿泊している本能寺を包囲して攻勢を仕掛け、信長は、側近の森蘭丸に火を放たせた後、炎の中で自害して果てました。世に有名な、本能寺の変です。この時、光秀は、信長の首を上げようと、その遺体を懸命に捜索させたのですが、しかしながら、ついに、それを見つけることはできませんでした。この時、信長の遺体はいったいどうなったのか?これについて、信長の遺体は、この時、密かに持ち出されて、別の場所で弔われたのだという話が、当時から、伝えられています。そして、この遺体を運び出したという人物が、信長と親交の深かった僧・清玉上人であり、その遺骸は、京都の阿弥陀寺という寺に祀られたというもの。今回は、そうした本能寺の変後の信長の遺体にまつわる伝承と、信長の供養を行ったとされる清玉上人についての話を、まとめてみたいと思います。京都・阿弥陀寺に伝わる「信長公阿弥陀寺由緒之記録」という文書。それによると、本能寺の変の時のいきさつとして、こうした話が記されています。*--------光秀謀反の時、清玉上人は、僧20人余りを召し連れて、本能寺に駆けつけました。本能寺へは、裏道から入りましたが、その時すでに、堂宇には火が放たれていて、すでに、信長公は割腹せられたという話を聞きます。ふと見ると、近くの竹林に、10人余の信長の家臣とおぼしき武士が集まって火を焚いていて、清玉上人は、彼らから話を聞き出します。それによると、信長公が割腹される時、死骸を敵に渡すことなかれと言い残され、さりとて、四方は敵兵にて遁れ去る道もなし、やむなく火葬して、隠しおいた上で各々自殺しようと思っているとのこと。「私は、信長公と格別の由縁あるものであるので、火葬は勿論のこと、将来の御追悼をも行いたい」と、清玉上人。さらには、「各々自殺するよりも、むしろ信長公の為、憤死の覚悟で敵にあたって欲しい」と、武士たちを諭します。この話を聞き、大いに喜んだ武士たちは、争うようにして、門前の敵へと向かっていきました。上人はこの遺体を火葬し、白骨を法衣に包んだ上で、本能寺の僧らが逃げるのにまぎれて、本能寺を脱出。寺に戻った上人は、白骨を深く土中に納めた上で、密かに信長公の葬儀を行いました。*--------清玉上人という人は、織田家や信長に対して、大変な恩義を感じていた人だったようです。それというのも、清玉上人は幼い頃に母を亡くしていて、みなし児となった上人を、保護し育てたのが織田家の人々。阿弥陀寺の住職にまでなれたのも、織田家の後ろ盾があったためであり、その後は、信長とも深い親交が続き、正親町天皇からも帰依を受け、阿弥陀寺は勅願寺となっていたほどでした。そのように、織田家と深い縁があるだけに、清玉上人は、変の知らせを受けるや否や、本能寺へと駆けつけたのです。そして、この時、清玉上人は、信長ばかりでなく、その家臣と嫡男・信忠の遺骸をも阿弥陀寺に運び、ここに埋葬したのだと云われています。やがて、光秀を破った羽柴秀吉が、信長の後継として台頭してきます。そうした中で、その秀吉が、この阿弥陀寺にやってきました。秀吉の用件とは、「阿弥陀寺にて信長公の葬儀を行いたい。」という旨を清玉上人に申し付けるためでありました。しかし、これに対して清玉上人「信長公の葬儀は、自分達がささやかながら行っております。改めて信長公の葬儀を行う必要はございません。」と、秀吉からの申し出を突っぱねます。なだめたり、金を積んだりして説得する秀吉。しかし、清玉上人は信念を曲げず、最後までこれに応じませんでした。秀吉も、不承ながら引き下がらざるを得ません。秀吉が、信長の葬儀を自分が仕切る事で、自らの天下を諸大名にアピールしようとしているということを察していた清玉上人は、信長の葬儀を利用しようとしている秀吉のことを、快く思わなかったのでしょう。結局、秀吉は大徳寺において、大々的に信長の葬儀を行なうことになります。しかし、清玉上人の死後、阿弥陀寺は、秀吉の京都の町割り改造により、現在地の寺町へと移転。それに伴って、寺の規模も大幅に縮小されてしまいました。まさに、これは、自分の言う事に従わなかった清玉上人に対する、秀吉の報復であったと云うことが出来るでしょう。京都、寺町今出川に残る阿弥陀寺です。この門前には「織田信長公本廟」という石碑が建てられています。これが本堂です。今は、それほど大きなお寺ではありません。この本堂の中には、織田信長・信忠父子の木像が安置されているのだそうです。阿弥陀寺の墓所には、今も、信長・信忠父子の墓が残っています。向かって右側が信長の墓、左側が嫡男・信忠の墓です。この信長父子の墓石は、その当時のままのものだといいます。その脇には、奮戦の末、共に亡くなった家臣たちも討死衆の墓として葬られていました。 信長の小姓として有名な、森蘭丸ら森三兄弟の墓も、この墓の傍らにあります。左から、蘭丸・力丸・坊丸の墓なのだそうです。秀吉による寺域縮小の後、阿弥陀寺は、参拝する人も減ってしまって、寺は非常に困窮したのだそうです。しかし、その時に、阿弥陀寺の復興に力を注いだのが森蘭丸の子孫の方々だったとか。その後の阿弥陀寺は、森家の援助によって、なんとか維持していけたのだといいます。「信長公阿弥陀寺由緒之記録」という文書は、古い記録が焼け、江戸中期に作り直したものだということから、史料価値が低いとされていて、阿弥陀寺に信長の遺骨が葬られているということは、現在、歴史の定説にはなっていません。しかし、その時の状況や言い伝えからして、この話は信憑性が、高いように思えてなりません。織田家の恩に報い、信長の菩提を弔った清玉上人の一途で純粋な思いは、きっと、今でも、この阿弥陀寺に伝えられているのではないでしょうか。
2011年06月04日
コメント(10)
群雄ひしめく戦国武将の中でも、智謀・人格ともに優れた第一の人物は、黒田官兵衛(如水)なのではないかと、私は思っています。当時の一流中の一流の人物であり、愛情と誠実さを持ちながらもそれを内に秘めていたため、逆に、策士・野心家であるかのように世間からも見られ、損をしていたのではないかとさえ思っています。そうした黒田官兵衛の愛情と誠実さが、一番よく現れていると思われるのが、伊丹・有岡城幽閉にまつわる話です。今回は、そうした黒田官兵衛の有岡城幽閉事件について、以下、天正3年(1575年)官兵衛30才の頃から、話を始めます。当時、黒田官兵衛は、播磨の豪族・小寺政職(まさもと)に仕えていて、その主席家老を務めていました。この頃の播磨地方は、小豪族が割拠している状態で、それぞれが、毛利・織田・三好等、どの勢力につくのが良いか、形勢を伺っていました。そんな中、官兵衛は、早くから織田氏が天下を掌握するであろうと予想し、主君の政職にも、織田につくように提案を続けていました。そこへ、長篠の合戦で、織田氏が天下最強といわれていた武田軍を打ち破ったとの報が入り、小寺氏でも、ついに、織田氏に帰属しようということに決定されました。官兵衛は、信長のいる岐阜城へと向かうことになります。岐阜で信長と対面した官兵衛は、播州諸豪の形勢を的確にまとめて信長に報告。信長は、これを聞いておおいに感心し、播州の経略を羽柴秀吉に指示し、官兵衛にはその案内役をするよう命じました。翌、天正4年。官兵衛は、播州地方の切り取りを開始。最初はうまく進んでいましたが、まもなく、毛利が反撃に出ます。毛利は、播州の諸豪に対して、「信長は残忍である。信長につくと後悔することになる。」というような遊説を行い、これが功を奏して、毛利方になびく豪族が増えていきました。こうした状勢を察した官兵衛は、早急に織田軍を播州に派兵する必要があると考え、信長に派兵を促します。こうした中で、秀吉の中国派兵が決定。しかし、この時、信長は、播州の諸豪が人質を差し出すよう手配せよという条件を官兵衛に出したのです。これを受けた官兵衛、それには、まず、自らが率先して人質を出すことが必要だと考えました。官兵衛は、一粒だねの嫡男・松寿丸(当時9才)を人質に差し出すことに決め、松寿丸を連れて、岐阜へ向かいます。信長は、おおいに喜び、松寿丸は長浜の秀吉のもとに預けられることとなりました。やがて、官兵衛の働きにより、播州の諸豪が相次いで、信長に人質を差し出し始めます。ところが、主君の小寺政職は、こうした官兵衛の独断専行を快く思っていませんでした。やがて、秀吉が官兵衛の居城・姫路城に入りますが、政職は秀吉にあいさつに行こうともしません。そうした中で、天正6年。摂津の武将・荒木村重が、信長に叛旗を翻し伊丹・有岡城に立て籠もるという事件が起こります。さらに、そこへ、主君の政職自身も荒木村重に通じ、織田への反抗を企てているとの知らせまで伝わってきました。政職を説得に向かう官兵衛。すると、政職は、「村重が翻意して、織田方に戻るのであれば、私も織田方につく そなたが、村重を説得しに行ってくれぬか・・・」と官兵衛に頼みます。今度は、村重を説得しに有岡城に向かう官兵衛。しかし、政職は村重と示し合わせ、「官兵衛が、そちらに行くので、官兵衛を捕らえて殺害して欲しい」と村重に伝えていたのでした。有岡城についた官兵衛は、たちまち捕らえられ、城内の牢獄に閉じ込められることになりました。官兵衛が、有岡城に入ったきり戻ってこない・・・。この報を聞いた信長は、てっきり官兵衛が村重とともに寝返ったものと思い激怒します。「人質の松寿丸を殺してしまえ!」当時、長浜城で留守を守っていた竹中半兵衛を呼び出し、そう命じます。「しかたがございません。不憫ながら殺しましょう」と半兵衛。しかし、半兵衛は、松寿丸を殺したことにしておいて、実は、密かに、美濃の自領に松寿丸を隠したのでした。一方の官兵衛。狭い牢で、ため池と大藪に囲まれて日も差さない陰湿な劣悪環境の中、座したままの状態での牢獄生活が続きます。ところが、天正7年になって事態が転回しました。織田勢の滝川一益の軍が、有岡城を攻略したのです。官兵衛も、ようやく、救出されることになりました。しかし、1年ぶりに牢から出てきた官兵衛、満足に立てないばかりか、肉落ち、骨枯れ、全身しらみと蚊に食われていて、頭髪も抜け落ちていました。このため、官兵衛は、終生、禿頭でびっこをひく体になってしまいました。官兵衛救出、この報を聞いた信長は、「官兵衛に合わせる顔がない」と言って嘆き、また、松寿丸が無事であることがわかると、また、大喜びしたといいます。こうして、有岡城落城により、播州の情勢は大きく変わり、毛利方の諸豪は、なだれを打って崩れていったのでした。一方、官兵衛の主君である小寺政職も、この状況をみて逃亡を図りました。ところが、結局はそれも叶わず、再び、官兵衛のもとに戻ってきて、今度は、信長へのとりなしを頼みました。官兵衛にとっては、自分を殺そうとした憎き主君であるはず、しかし、官兵衛は、それでもなお、政職のため信長の許しを乞いに安土へ向うのです。このあたりの官兵衛の、心のうちは、常人でははかり難く、永牢に耐えた精神力や、こうした主家に対する律儀さは尋常ではありません。やわな現代人には想像もつかず、ただただ、感服するばかりです。さて、官兵衛は政職に代わって信長に詫びて、とりなしをしました。しかし、信長の回答は「信頼の置けぬものを家中に入れる訳にはいかぬ」というもの。結局、政職は、その後諸国を彷徨い、流浪のうちに死亡します。しかし、官兵衛と小寺氏との関係は、まだ、続きました。政職には、氏職という嫡男がいて、うつけ、とは云わぬまでも、才の乏しい嫡男でありました。官兵衛、今度は、秀吉に対して、「氏職には罪はありません。私にとっては、旧主の子です。」と訴え、内密に、客分として預かることを黙認してもらいました。時は流れて、松寿丸は成人し、黒田長政と名乗り官兵衛の跡を継ぎました。やがて、黒田家は福岡藩の太守となるのですが、この時も官兵衛は、長政に氏職の世話を頼み、氏職のため、知行地が持てるよう、はからってやったといいます。群雄が輩出された戦国時代・・・。しかし、これだけの智謀と気力、そして誠実さを併せ持った人物は他にはなく、黒田官兵衛は、人格者という面において最高の武将だったのではないでしょうか。ちなみに、この小寺家は、その後も明治維新までの間、黒田藩の客分として続いたそうです。
2010年02月14日
コメント(14)
「人生は重き荷を負ふて遠き道をゆくがごとし」良く知られた徳川家康の名言です。数々の試練を、忍耐と粘りで乗り越えてきた家康にとって、この言葉は、まさに人生の実感だったのではないかと思います。家康が、幼い頃、人質に送られて様々な艱難辛苦を味わったという話は有名ですが、家康の慎重で用心深い性格が形成されたのには、この幼年期の経験が、大きな要因であっただろうと思われます。竹千代と呼ばれていた、少年時代の家康。今回は、そうした波乱に満ちた、家康少年時代のお話です。竹千代が生まれたのは、天文11年(1542年)。父は三河の土豪で岡崎城主であった松平広忠、母は三河刈谷城主・水野忠政の娘・お大でありました。東に今川氏、西に織田氏という両勢力に挟まれていた当時の三河では、小豪族が東西いずれかの勢力に従属しながらも、しのぎを削っており、松平氏も、今川の庇護を受けての領国運営を強いられていました。そうした中、竹千代は、岡崎の地で平穏に暮らすことなく、いくつもの試練の中で育っていくことになります。まず、竹千代、3才の時。母のお大と生き別れになりました。お大の実家、水野氏が織田側についたためで、広忠は、今川から猜疑心を持たれないようにするために、お大を離縁したのです。戦国の弱小国のはかなさと云えるでしょう。後に、家康は、生涯、生母お大の実家、水野氏を大切にし、水野氏から多くを大名として取り立てています。幼い頃に、生き別れになっただけに、母・お大への思慕の念は、非常に強かったのでしょう。竹千代、4才の時には、父・広忠の刺傷事件がありました。岩松八弥という家臣が、岡崎城内で、突然、広忠に斬りつけたのです。幸い広忠の命には別状なく、八弥は家臣に取り押さえられ、斬り捨てられました。この時、八弥は酒乱の体で登城してきて、発狂していたともいい、敵国から買収されたのだとも言われており、真相はよくわからないようです。竹千代、6才の時。今川に人質に出されることになりました。この時、供をつれ岡崎を立つ竹千代を、三河田原の城主・戸田康光が途中で出迎えました。「陸は敵が多く危険があるので、船でお送りしましょう。」という戸田康光。しかし、船に乗り、着いたところは、尾張の織田のもとでした。康光は織田方に内通していて、竹千代一行は織田家に騙し渡されてしまったのです。それでも、父の広忠は、なお、今川氏への臣従を変えることはありませんでした。結局、竹千代は見捨てられたような形となり、以後、2年あまり、尾張で過ごすこととなります。ちなみに、この頃の織田家の当主は、信秀でありましたが、ほどなく、信長がその跡を継いでいます。竹千代が、この頃、信長と会っていたという記録は残っていないようですが、状況から見て、この時、信長と竹千代は交流を深めていたのではないでしょうか。竹千代、8才の時。岡崎で、父の広忠が病死します。これにより、岡崎城には、今川から城代が送られ、今川城代による岡崎支配が行われることとなりました。これ以後、岡崎の家臣たちは、十分な扶持も与えられることなく、百姓仕事をしながらも露命をつなぐというような、貧窮した生活を送ることとなります。同年の11月。今川方に、生け捕りにされていた織田信広と竹千代との人質交換が成立しました。このため、竹千代は、人質として今川に送られることとなり、引き続き、今度は、駿府での人質生活が続いていくことになります。弘治2年(1556年)。今川のもと、竹千代は元服し、松平元信と名乗りました。続いて、今川義元の姪で関口親永の娘・瀬名との婚儀も行われました。瀬名は、後に、築山殿と呼ばれることになる、家康最初の正妻です。一方、その頃、岡崎では、本来の主がいないまま、家臣たちが苦心して領地を守り、竹千代が戻ってくるのを楽しみにしていました。竹千代(家康)と三河衆家臣との間の連帯感・信頼関係は、非常に強いものがあり、これが三河勢の強さの一因ともなっていたのですが、この頃のこととして、こんな逸話が残っています。墓参りで、久々に岡崎に戻ってきた竹千代。その時、老臣の鳥居忠吉は、竹千代を自分の家に連れていき、米穀でいっぱいになった蔵と、うず高く積んだ銭を見せました。「これは、若君ご成長の後、お役に立てて頂こうと思って 城代の目を盗んで、密かに蓄えたものでござる。 やがては、これを使って、良い家臣を召抱えて戦をし、 よい大名になってくだされ。」と言って泣いたので、竹千代も感激のあまり、供に涙しました・・・。竹千代は、幼い頃から、大変な苦労をしながらも、とても素晴らしい家臣たちに恵まれていたのですね。さて、竹千代、改め元信。(さらにその後、元康と改名)今川の配下として、戦いでは、常に困難な部署にまわされ、しかしながら、そこで、目覚ましい活躍をみせて、織田勢を度々破り、今川の強力な前線部隊として、その存在をあらわし始めていました。そうした中で起こったのが、桶狭間の戦いです。永禄3年(1560年)織田信長が、今川の本陣に奇襲をかけて、今川義元を討ち取りました。そして、このことが、家康の生涯を大きく転換させることになります。この時、元康は、今川軍の前線にあり、尾張に侵攻していましたが、やがて、元康のもとにも義元が討ち取られたという知らせが入ってきました。元康も家臣も驚きますが、「確かなことがわからぬうちに退くのは、武士の恥である。 よく確かめた上で、方策を考えよう。」と言って、元康は動こうとしません。そのあと、駿河勢が総退却しており、早々に退陣をという報告にも、なお、動かず、信頼する鳥居忠吉からの急使がきて、はじめて退却を決断したといいます。徹底的といえるくらい慎重であるというのは、家康の特質でありますが、この頃にも、すでに、そうした人格形成が出来上がっていたのでしょう。岡崎城でも、今川の城代が城を捨て、駿府に逃げ帰っていました。「捨て城であるなら拾おう」と元康は言い、岡崎城への入城を果たします。6才の時に人質となり、尾張・駿河と流遇を続けること13年。苦節の末、ついに、独立した岡崎城主となることが出来たのです。元康、19才の時のこと。この後、元康は家康と名を改め、続いて、織田信長と攻守同盟を結ぶことによって、着実にその勢力基盤を固めていきました。その後も、家康は、信長のもと、次いでは、秀吉のもとで忍従を続け、ついには、江戸幕府を開き、徳川300年の礎を築いていきます。家康という人は、重厚な人柄で、また、目先の損得にとらわれることがなかったため、戦国の諸将からも「徳川殿は、頼りになる人」という評判と実績を積み重ねていきました。処世術に長けていたのだともいえますが、それも、幼い頃の労苦に耐え、培った忍耐により備わっていったもの。そうした資質が、家康をして戦国の世の最終勝利者にした、と云えるのではないでしょうか。
2009年08月29日
コメント(8)
3/14(土)15日(日)の2日間、ブログ仲間の ゆうあいママさん からのご紹介で、長宗我部顕彰会主催の「戦国戦記~長宗我部・大友ツアー」に行ってきました。このツアーは高知発着ですが、私は大阪からの参加なので、直接現地に集合です。今回の旅は、長宗我部信親が戦死した「戸次川(へつぎがわ)の戦い」の史跡をめぐり、信親を偲ぶということがメインテーマ。一日目に、まず、戸次川古戦場を訪ねました。戸次川(現・大野川)は大分市を南北に流れる川で、古戦場は、その中流の戸次地区にあります。行ってみると、ゆったりと流れるきれいな川でありました。 「戸次川の戦い」があったのは、天正14年(1586年)。大友宗麟からの救援要請を受けた秀吉は、まず、仙石秀久(讃岐)を軍監に指名して、十河存保(そごうまさやす)(阿波)と長宗我部元親(土佐)の軍を九州征伐の先遣部隊として派兵。それが、北上してきた島津軍と戸次地区で激突したのが、「戸次川の戦い」です。そして、この戦いは、功をあせる仙石秀久の無謀な采配によって、圧倒的に数で勝る島津の大軍に正面からぶつかることとなり、豊臣期最大の激戦ともいわれる過酷な戦いとなりました。大将である仙石秀久は、島津の強襲を受けるやあわてて自領の讃岐まで逃げ帰り、そのため、残された十河と長宗我部軍は、さらなる死闘に追い込まれたといいます。そうした中で、十河存保が戦死。長宗我部軍は、元親は、なんとか逃げ延びたものの、長男の信親が勇敢に戦った末に戦死。さらに、その1000人足らずの軍は全滅しました。 長宗我部信親終焉の地と伝えられている場所です。そこに入ると祟りがあると伝えられていて、今は竹が植えられています。信親終焉の地の横に建立されている地蔵菩薩です。長宗我部の子孫の方と地域の人が協力して、数年前に建立されたもの。さて、「戸次川の戦い」で、もう一つの激戦だったといえるのが鶴賀城の攻防戦。鶴賀城は、大友氏の重要な拠点と位置づけられていて、利光宗魚(としみつそうぎょ)という部将が守っていました。ここでも、島津の猛攻を受けながらも善戦し、城主の宗魚が死んでからもなお、城兵が最後まで戦いを続けたと伝えられています。鶴賀城跡の石碑です。典型的な中世の山城という感じの城で、険しい山を息を切らしながら、皆で、その頂きまで登りました。次に、訪れたのが、今回の目的の一つ、長宗我部信親の墓所です。ひっそりと、しかし、しっかり墓守がされているという感じがしました。同行したメンバーの中には、長宗我部ファンクラブの若い女性の方も数人おられ、酒を供えられていましたし、長宗我部の子孫という老いた婦人は、信親の墓に抱きついて泣いておられました。なにか、、ちょっと感動です。そして、最後に訪れたのが、願行寺というお寺。ここは、長宗我部信親の供養を、今でも続けているというお寺で、長宗我部信親と利光宗魚の位牌が祀られていました。この後の、懇親会では、長宗我部のご子孫という婦人が、ちょうど隣の席だったので、色々と興味深いお話を聞かせて頂きました。私にとっては、単なる歴史物語。しかし、それから何百年も経った今でも、その当事者の方にとっては、決してそうではなく、歴史は今でも生きているということを実感させてくれました。とても、貴重な体験でありました。
2009年03月17日
コメント(9)
戦国時代の九州の2大勢力といえば、大友氏と島津氏。ともに、鎌倉時代からの名家で、大友氏は豊後を中心とした九州北部を支配し、島津氏は薩摩を地盤にとして、九州南部で勢力を固めていました。戦国時代におけるこの両者の激突が、耳川の戦い。戦国期九州の覇権争いの行方を左右したとも言われていて、天下分け目となった決戦でもありました。耳川の戦いがあったのは、天正6年(1578年)で、戦いの主戦場が、日向国高城川周辺であったことから、高城川の戦いとも呼ばれています。この戦いの、そもそもの発端は、大友氏の当主・宗麟のキリスト教信仰にありました。大友宗麟は、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルを府内(現在の大分市)に招いて優遇するなど、キリスト教の布教を奨励し、ザビエルが去ったあとには、自らも洗礼を受けキリシタンになりました。キリスト教に入信した後の宗麟は、キリシタンのみが居住するキリスト教国家の建設を目指して、日向国無鹿(むしか)という地に移ってきます。家督も長男の義統(よしむね)に譲り、妻や一族も連れ、手勢3~4万を率いての移住です。この時期の大友氏は、九州最大の勢力となっていて、豊前・豊後に加えて、筑前・筑後・肥後も併合するなど、九州では、圧倒的な優位を誇っていました。しかし、この日向行きが、結果的に、宗麟にとって、大きなつまずきのもととなりました。無鹿は、島津の勢力範囲に近く、この地域を支配している伊東氏は、大友側の武将ではありましたが、島津との小競り合いを絶えず続けており、宗麟は、そうした危険地帯に、自ら移っていったことになるのです。そうした中、やがて、日向に来ている大友勢に、島津が攻勢をかけました。耳川の戦いの始まりです。当初は大友軍も、兵力の差で島津軍を撃退していましたが、薩摩から、島津義久・義弘兄弟率いる本軍が到着すると戦況は逆転。島津の巧みな釣り野伏作戦にも翻弄され、結局、大友軍は有力な武将を失い、3000人近くの戦死者を出して敗走します。宗麟も、この時、周章狼狽して、豊後へ向けて逃走。あわてたあまり食料を置いたまま逃げ、帰国の途次も、飢えと疲労のため、死ぬほどの苦しみを味わったといわれています。耳川の戦いでの大友氏の大敗。このことは、九州の勢力関係に大きな変化をもたらしました。大友氏と島津氏の力関係が逆転し、島津の勢いがさかんとなり、大友氏は、豊前・豊後と筑前の一部を領するのみで、逼塞状態に追い込まれていきました。そうした中、天正14年(1586年)。宗麟は意を決して京に上り、当時天下を手中にしていた豊臣秀吉に拝謁します。そこで宗麟は、秀吉に島津が横暴であることを唱え、「軍勢を差し向けて頂ければ、拙者がおん先手をつかまつります。」と訴えました。秀吉は、「天下の切り盛りはわしの役目。すぐにやるから、その方は国に戻って準備をしておれ」と出兵を約束します。壮麗な大坂城を目の当たりにし、また、黄金の茶室で接待まで受けた宗麟は、すっかり秀吉に魅せられて、府内に戻っていったといいます。やがて、秀吉の軍が九州に向けて進発を開始。こうして、秀吉の九州征伐が始められることとなるのです。ところで、私、来週、大分の九州征伐古戦場をめぐる旅に行ってきます。ブログ仲間の ゆうあいママさん からのお誘いです。メインの見どころは、戸次川(へつぎがわ)合戦の古戦場。戸次川の戦いは、九州征伐の前哨戦ではありましたが、豊臣期でも最大の激戦であったと云われていて、長宗我部信親の軍が全滅し、信親自身も戦死するなど、壮絶な戦いとなりました。また、府内城など、大友氏ゆかりの史跡も訪れます。次回にでも、この旅のお話を、お伝えできればと思っています。
2009年03月07日
コメント(6)
あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します。1月1日の元旦は、豊臣秀吉の誕生日であると言われています。一介の貧しい百姓の倅から、未曾有の立身出世を続け、戦国の世の天下統一を成し遂げた豊臣秀吉。秀吉が、日本史上屈指の英雄であることから、一年で一番おめでたい日の生まれであるということは、彼の英雄性を象徴しているようでもあります。しかし、秀吉の生年月日については、いくつかの説があり、専門家の間では、秀吉が1月1日生まれであるというのは偽説であると言われているようです。秀吉の生年月日については、母親の大政所もよく覚えていないと語っていたようで、貧しい農家の生まれであるだけに、資料もなく、確かなところはよくわからないというのが、実情であるようです。秀吉の幼名についても、「日吉丸」という名が有名ですが、これも真実ではないようです。確かに、この時代、一介の百姓の倅がつける名前ではないのでしょう。幼青年期の秀吉については、一級資料と呼ばれるような確かな資料には記述がなく、秀吉の前半生については、実際に、はっきりしたことはわかっていないのです。出生から青年期に至るまでの秀吉のことについて、詳細に記述されている資料としては、小瀬甫庵という人の書いた「太閤記」があります。小瀬甫庵は、戦国末から江戸初期にかけて、数名の武将に仕えた医者で、隠居後、色々な武将の事跡をまとめる著述活動を行いました。その中の「太閤記」。しかし、甫庵はこれを読み物としてまとめ、その内容も面白おかしく書いたことから、一般には人気を博し、広く世間に流布していったようです。しかし、一方、この本の内容には嘘が多いということも、当時、定説となっていました。武将の間においては、あまりに嘘が多いと、甫庵は爪はじきにされていたとも言われています。秀吉が1月1日生まれであることや、「日吉丸」という幼名についても、甫庵の創作であると言えます。矢作橋での蜂須賀小六との出会いの話や、信長の草履を秀吉が懐で暖めて待っていた話など、青少年期の秀吉の有名な話は、甫庵「太閤記」が出典となっているものがほとんどなのです。では、秀吉が信憑性の高い歴史資料にいつから登場してくるかというと、永禄11年(1568年)のこと。信長が足利義昭を奉じて入京する際、江州の佐々木氏と戦った記事(「信長公記」)であるようです。この時、秀吉33才。この時には、秀吉はすでに、信長のもとで高級将校の一人となっており、この後、さらに、彼の類まれな機略と度胸と人心掌握力により、織田政権の中心人物へ、さらに、天下人へと駆け上っていきます。一般に信じられていることが、史実とは違うということは、よくある話です。しかし、一面では、この甫庵「太閤記」も、多くの人に出世物語の夢を与えてくれたものであった、とも言えるのかもしれません。と、まあ、相変らずとりとめのない話を、書き綴っている当ブログでございますが、本年も、何卒、よろしくおつきあい願えればと存じます。今年が、皆様にとって良い年でありますように。
2009年01月01日
コメント(20)
戦国時代の覇者となり、中世社会を変革していった織田信長。家柄・官位や寺社勢力などの、既存権力を否定し、経済の自由化や家臣団の再編(軍事の専業化)等を行った変革性。そうした信長の変革性の原点は、その幼少期にも芽生えていたように思えます。信長は、幼名を吉法師といいましたが、幼少の頃から暴れん坊で、当時にあっても、並はずれて奇妙な少年であったようです。今回は、そうした幼少年期の信長についてのお話です。織田信長(吉法師)が生まれたのは、天文3年(1534年)。父の信秀は、尾張を支配する奉行の一人でしたが、その中で台頭し、駿河の今川義元や美濃の斎藤道三とも戦って、その勢力を広げていました。吉法師は、信秀の次男、あるいは三男だったとも言われていますが、母の土田御前が、信秀の正室であったため、嫡男のような扱いで育てられ、2才の時には、那古野城主になっています。吉法師の頃の信長は、城から飛び出して、家来の子どもと相撲をとったり、石合戦をしたりと、毎日、城下をかけまわってばかりいました。そのいでたちも、上半身は裸。半袴の腰には火打ち石の袋など、色んなものをぶらさげ、朱鞘の太刀を縄帯に差して、といった格好で、馬上で柿をかじり、餅をほおばりながら町を歩くなど、全くの変わり者でありました。こうした振る舞いから、「尾張の大うつけ」という評判がたち、その噂は、領内のみならず、近隣諸国まで広まっていました。もうひとつ、少年時代の吉法師の逸話として有名なのが、松平竹千代(後の徳川家康)との交友です。当時、竹千代は、今川義元のもとに人質として送られる途中、護送者の織田方への寝返りがあったため、 織田家に送られてきていました。吉法師は、いつものように、野山を駆けまわったあと、気が向けば、那古野城にやって来ては、8才年下の竹千代のもとを訪れ、持っていた菓子や果物を与えたり、遠慮がちの竹千代を、相撲の相手に引っ張り出して遊んだりしていたと言います。後に同盟関係を結ぶことになる両者の、思えば、不思議な宿縁でありました。天文15年(1546年)吉法師は元服し、織田三郎信長と称します。その後見役としては、重臣の平手政秀がつけられました。信長、13才の時のことです。天文17年(1548年)平手政秀の奔走により、信秀と敵対していた美濃の斎藤道三との間で和睦が成立。信長は、道三の娘・帰蝶と結婚します。通称は、濃姫。和睦のための政略結婚でありました。元服をし、結婚もした信長でしたが、供を引き連れては野山を駆け巡り、放蕩無頼に遊び回る、相変わらずそうした日々を送っていました。しかし、それでも、義父となった斎藤道三は、すでに信長の器量を認めていたようです。天文18年(1549年)信長は斎藤道三と会見。場所は、尾張一宮の聖徳寺でした。この時、信長は、多数の鉄砲隊を護衛として装備させ、正装して現れました。「うつけ者」と評されていた信長の、この対応に道三は大変驚き、道三は、信長を見込むと同時に、この後、「我が子たちはあのうつけの馬をつなぐようになるであろう」と周囲のものに話したと言われています。 天文20年(1551年)信長、18才の時。父の信秀が死亡しました。その葬儀の際の逸話として伝えられている、信長の行動も奇矯です。正装した家臣や一族が居並ぶ中、鷹狩の恰好で、縄帯のまま現れた信長は、抹香を仏前につかみ投げつけ、そのまま立ち去っていきました。この頃に至っても、信長の奇矯な行状は一向に改まっていませんでした。、このため、信長に見切りをつけて織田家を去る者が、その後も続出したといいます。天文22年(1553年)信長の後見役であった平手政秀が自害しました。政秀は、これまで、信長の奇行に手を焼きつつも根気良く信長を諌めてきたのですが、信秀が死去して以降、織田家中が不穏となり、そうした中での自害でありました。しかし、政秀の死についての、信長の衝撃は、大きかったようで、さすがの、信長もこれには嘆き悲しみ、政秀寺という寺まで建立して、政秀の霊を弔ったと言われています。こうした幼少期における、信長の数々の奇行についてどう見るか・・・。これは、周囲を油断させるための偽装であったのではないか、という説もありますが、しかし、これは、計算された偽装ということではなく、やはり、信長の性格だったのではないかと思われます。後年においても、常識はずれの行動の数々を残している信長ですから。信長という人は、一般に、常識と言われていることでも、そのまま受け入れるのではなく、自分で確かめないと気が済まないといった実証主義のような考えを持った人だったのではないかと思うのですが、どうでしょうか。その後、信長は、10年にも及ぶ、弟の信勝との家督争いに勝利し、なんとか、尾張を平定します。その後すぐに起こったのが、桶狭間の戦い。ここで、わずか3000の兵で今川義元の2~3万の軍を撃破した信長は、その武勇を一躍、天下にとどろかせました。そして、その頃には信長は、「尾張の大うつけ」から一転して、気鋭の青年武将となっていたのでありました。
2008年10月12日
コメント(18)
前回の高槻の話の続きのようなものですが、高山右近についてです。右近の父は、摂津国三島郡高山庄(現在の豊能郡豊能町高山)の国人で、高山飛騨守と名乗り、松永久秀、次いで、和田惟政に仕えました。飛騨守は、最初、キリシタン反対派の急先鋒だったのですが、宣教師と論争をしているうちに、逆にキリシタンに好意を持ち、ついに洗礼を受けます。洗礼名は、ダリヨ。翌年には、嫡男の右近も洗礼を受けます。洗礼名は、ジェスト。 高山右近12才の時のことでした。元亀2年(1571年)。飛騨守は、和田惟政の支配下にあって高槻を治めていましたが、この年、主君の惟政が突然戦死します。息子の惟長が後を継ぐことになりますが、その後、内紛が起こり、結局、飛騨守が高槻城主となりました。高山氏が、勢力を伸ばし始めたのは、この頃のことでした。元亀4年(1573年)。飛騨守の隠退により、右近が高槻城主となります。飛騨守は、この後、庶民にキリスト教を布教して廻っていますから、飛騨守は、伝道活動に専念したかったのでしょう。高山右近、この時21才。天正6年(1578年)。信長配下の摂津守護・荒木村重が、毛利方に寝返るという事件が発生します。この時、右近は村重の与力となっていたため、高槻城は、織田信長の軍に包囲されました。右近は、村重と信長を和解させようとしますが、信長は受け入れません。怒った信長は、開城を要求。さもなくば、キリシタンを皆殺しにし、教会を焼き討ちすると宣告してきます。右近は、悩んだ末、信長方につくことを決意。所領の加増と、キリシタン保護の約束をとりつけて、高槻城を開城しました。信長の下に下った右近は、引き続き高槻城主を続けることを承認されます。信長は、全般的にキリシタンに対して好意的だった人で、キリシタンを保護し、安土にも教会を建てることを認めるなどキリスト教が広まっていく機運が高まっていました。そうしたなか、右近も、領内のキリスト教布教について、さらに、力を注いでいきました。当時、高槻では、領民の8割近くがキリシタンになったといわれ、領内には、20にも及ぶ教会や、天主教会堂、セミナリオ(神学校)も作られました。また、右近は領主とは思えないほど、謙遜な態度で領民に接していたといわれ、ある貧しい者が亡くなったときには、右近が、その棺をかつぎ、墓を掘ったという話も残っています。これを見て感激した家臣たちも、争って鍬を取り、墓を掘ったそうです。当時、高槻は、日本でも有数のキリシタンの町となっていたのでした。一方、この頃の右近は、茶の湯をたしなみ、こちらの分野においても、名前が知られるようになっていきました。「南坊」と号し、千利休に弟子入りし、利休七哲と呼ばれる、千利休高弟の一人となっていきます。その後、時代は進み、本能寺の変、山崎の合戦があり、信長に変わって、豊臣秀吉が天下人となりました。大坂城を築城し、徳川家康とも講和、四国を平定します。政権の基盤が固まってきたところで、秀吉は諸大名の配置換えを行いました。高槻にいる高山右近も、秀吉から配置変えを命じられました。天正13年(1585年)明石への転封です。右近は、新たな領地明石でも、キリシタンを中心とした町づくりを手がけていきます。そんな折、右近の生涯を一変させる事件が起こりました。天正15年(1587年)秀吉による、伴天連追放令です。秀吉は、右近に使者を送り、キリスト教の棄教を命じ、右近の神社仏閣破壊行為を糾弾しました。これに対して、右近は、「予はキリシタン宗門と己が霊魂の救いを捨てる意志はない。どうしても捨てよとの仰せならば、領地、並びに明石の所領を関白殿下(秀吉)に返上する。」と回答。右近は折れるだろうと、思っていた秀吉にとって、右近のこの回答は意外だったのでしょう。説得のため、今度は千利休を右近のもとに送ります。しかし、右近は師の説得をも聞き入れませんでした。「キリシタン宗門が、師、君の命よりも重いかどうかは分からないが、一旦、志したことを変えず、志操堅固であることが武士の心意気である。」右近は、利休にそう話したといいます。右近追放。この報は、すぐさま武将の間に広まりました。秀吉の命に従うよう右近を説得する者も少なくなく、結局は、小西行長が右近の身をかくまうことになりました。その後、秀吉の勘気が緩んだのを見た前田利家が右近のために奔走。右近は、前田家に召抱えられることになりました。高山右近、この時36才。その後、25年以上の長きにわたり、重臣として加賀・前田家に仕えることとなります。ただ、前田利家、利長親子はキリシタンに好意を持っていたといわれていて、右近は、新天地の加賀で、キリシタン信仰を続けていきます。時は流れて、慶長19年(1614年)。ちょうど、大坂冬の陣が始まる頃のこと。徳川幕府が、キリシタン追放令を出しました。幕府内部のキリシタンを弾圧し、また、対象となる日本国内のキリシタンの名簿も作られました。そして、その中には、加賀にいる高山右近とその一族の名前も入っていたのです。その情報を入手した前田利長は、家臣に命じ右近に棄教を勧めるよう説得させます。「表向きだけでも信仰を捨てよ」「せめて子や孫たちを棄教させよ」。しかし、右近は既に殉教を覚悟していたのでしょう。今回も、説得に耳を貸すことはありませんでした。右近一族は、幕吏によって捕らえられ、長崎へと向いました。右近たちは、マニラへ追放ということに決定されます。やがて、イエズス会宣教師ら100人とともに長崎を出帆。マニラ到着まで、小型船に詰込まれたままの1カ月の間、悪天候と食糧難で死者まで出る状況の中を、航海が続きます。しかし、マニラ到着後、右近は高熱を発して床に伏し、ついに、帰らぬ人となりました。慶長20年(1614年)享年63才。右近の遺骸は、マニラの教会に葬られました。遠くバチカンにまで聞こえた右近の名は、マニラでもよく知られていて、マニラの人々は手厚く右近を弔ったといいます。高山右近という人は、潔癖すぎるほどの性格の人だったようで、それが、その信仰の深さともあいまって、こうした生涯を送ることにもなったと思われます。高槻カトリック教会にある、高山右近像の台座には、「私によって生きるのはキリストであり、死は利益である。」という聖書の言葉が刻まれていました。右近にとって、死とは神のもとに行けることであり、そうした意味では、右近の生涯は、思う存分信仰に生きた、幸せな生涯であったのではないか、と、そんな思いすらしてきます。
2008年05月11日
コメント(15)
自らを、武神・毘沙門天の生まれ変わりと称し、天才的な用兵で卓越した強さを示した上杉謙信。騎馬軍団を駆使して、戦国最強と謳われた武田信玄。織田信長が最も脅威に感じていた武将は、この2人であったでしょう。信長は、両者と戦うことをできるだけ避けたいと考えていて、同盟を結ぶなど政略をめぐらせて、両者とは対決しないように立ち回っていました。信玄とは、養女を武田勝頼に嫁がせることで同盟を結びましたし、謙信には、たえず手紙を送ったり、所蔵していた「洛中洛外図屏風」を贈ったりして、機嫌をそこねないように、気を使っていました。結局、信長と信玄は戦う機会がありませんでしたが、信長と謙信は、一度だけ戦っています。上杉謙信対織田軍の戦い。それが、手取川の戦いでありました。以下は、手取川の戦いと、そこに至るまでのお話です。元亀3年(1572年)武田信玄は、信長との同盟を破棄して西上を始め、織田軍に迫りました。この時、信長は、上杉謙信に対して、武田信玄という共通の敵に対抗しようという話を持ち掛け、上杉謙信と同盟を結んでいます。この信長と謙信の同盟関係は、その後4年ほど続きました。元亀4年(1573年)織田軍との戦いを目前にしていた、武田信玄が陣中で病死。しかし、このことにより、信長と謙信との関係が変化し始めました。信心深い謙信は、宗教勢力との抗争を繰り返している信長に対し、不快感を表面化させ始めます。天正4年(1576年)上杉謙信が、2万余の大軍を率いて能登に侵攻。能登の領主、畠山氏は七尾城に籠城して抗戦しました。この七尾城は、北陸屈指の堅城といわれた城で、さすがの謙信も攻めあぐみ、上杉と畠山の戦いは、翌年まで、もつれこみます。しかし、一方畠山氏の側も、七尾城内で疫病が発生して、幼年の当主まで病死してしまうなど、次第に、追い詰められていました。結局、畠山氏は信長に救援を求める事を決定。信長は、この救援要請を受け、即座に援軍の派遣を決断します。上杉謙信の軍との対決・・・。そこで信長は、これに備え、これまでにないほどの特別体制をくみました。北陸方面軍の将である柴田勝家を中心として、勝家配下の前田利家、佐々成政、佐久間盛政。それ以外に、丹羽長秀、滝川一益。さらには、中国方面担当の羽柴秀吉まで北陸に送りこみました。これら1万8000人の軍勢を先発隊として、信長自らも3万の軍勢を率いて、後発隊として出陣します。織田軍の主力を総動員といった、層々たる陣容です。天正5年(1577年)柴田勝家の先発隊が進軍を開始。しかし、その頃、七尾城の畠山勢では異変が起きていました。畠山氏の中の、親上杉派が謙信に内通。城内で反乱を起こして、七尾城は落城してしまったのです。上杉謙信も七尾城に入城。さらに、謙信は、信長が援軍を進発させたという知らせを受け、軍を進めて、手取川にほど近い、松任城に入ります。一方、柴田勝家の軍は七尾城の落城を知らないまま、進軍を続けていました。勝家が、七尾城の落城と謙信の軍が松任城に入っていることを知ったのは、七尾城を救援すべく、全軍が手取川を渡り終えたときでした。この状況を知った勝家は、慌てて撤退命令を出します。しかし、その撤退の途上、織田軍は、謙信自らが率いる上杉軍の猛攻撃を受けました。手取川の渡河に手間取っていたこともあって、このときの織田軍はなす術も無く、まさに、上杉軍の餌食となりました。この戦いで、織田軍は2000人近くの死傷者を出し、手取川で溺死したものも、数千人に及んだといいます。結果は、上杉謙信の圧勝でした。この戦い、織田軍は、上杉に不意をつかれたという事もありましたし、信長自身は、戦場に到着していなかったので、厳密には、信長対謙信の直接対決とはいえないでしょう。しかし、正面から両軍主力が戦ったとしたら、やはり、戦場では、上杉謙信が勝っていたのではないかと思われます。個々の兵の強さでは、織田の尾張兵は、上杉の越後兵とは比べ物にならないくらい、圧倒的に越後兵の方が強かんでありました。もっとも、戦略面・戦術面を含めた実際の戦いで、最終的にどうなっていたかは、わかりませんが・・・。この後、謙信は、能登から加賀国の大半を支配下におさめ、翌年には、次なる遠征に向けての準備を始めました。おそらく、信長を打倒し京へ上洛することを計画していたものと思われます。ところが、その出陣の数日前、謙信は春日山城で突如病に倒れました。上杉謙信、急死。享年49才。結局、謙信も、信長と本格的に対戦する前に世を去ることとなりました。信玄の時もそうでしたが、なぜか、2人とも信長と対決する直前に亡くなっています。このあたり、この頃の信長は天佑に恵まれていたと言うべきでしょう。信長包囲網と称される、反信長勢力を四方に抱えながらも、信長が勢力を広げてこられたのも、こうした運の良さも味方したためといえるとも思います。手取川の戦い・・・。本能寺の変で信長が横死する、5年前のことでした。
2007年10月28日
コメント(6)
甲斐の山々 陽に映えて われ出陣に うれいなし戦国の武田軍を謡った「武田節」。私は、この歌は古くからある民謡だとばかり思っていましたが、意外にも新しく、昭和36年に三橋美智也が歌った民謡風の流行歌だということを最近知りました。作詞は米山愛紫で、作曲が明本京静。しかし、この歌は武田軍のエッセンスを上手くまとめられていると思います。往時の武田軍の様子がうかんでくるようです。2番の歌詞には、よく知られた武田信玄の名言が出てきます。 人は石垣 人は城 情けは味方 仇は敵どれだけ城を堅固にしたとしても、人の心が離れてしまったら世を治めることはできない。情けは人をつなぎとめ、国を栄えさせるが、仇を増やせば国は滅びる。といったような意味。戦国を生きぬいた武田信玄の人生哲学です。この言葉の通り、武田信玄はその生涯の中で、甲斐国内に、一度も新たな城を普請することなく、、堀一重の躑躅ヶ崎(つつじがさき)館に居住しました。しかし、この躑躅ヶ崎館。居館とはいっても、実際には城郭同様の防御力を持っていたようです。東西を2つの川に囲まれ、後背には山が控えるというような、天然の要害を利用した構造になっており、周囲にはいくつかの詰め城があり、館の守りを固めていました。また、武田信玄は、信玄堤を築くなど、民政に心血を注いでいたことも、よく知られています。民政が軍事力の基礎であり、戦いの勝敗とは、もともとは、政治の善し悪しにあるということを、信玄はよく知っていたのでしょう。 人は石垣 人は城この言葉にいう、人とは、武田の家臣団はもちろん、領民全体のことをも念頭に置かれているように思います。領主と領民とが、生死を共にするような挙国一致の団結こそ、最も大事である。信玄はそう考えていたのではないでしょうか。NHKの大河ドラマで「風林火山」が取り上げられて、今年、また、武田信玄がクローズアップされていますが、戦国を生き抜いた信玄の人生哲学、時代をこえて、今の世にも、訴えかけてくるものがあります。
2007年10月19日
コメント(11)
家康は、戦国武将の中でも、武田信玄を最も恐れ、また同時に、最も尊敬していたと言います。武田家が勝頼の代で滅んだ時に、家康は信長の許しを得て、旧武田家臣団の多くを召し抱え、そして、そのほとんどを井伊直政に直属させました。武田軍は、揃って赤い具足をつけ、鞍や馬の鞭までも赤い色を使っていた事から、「赤備え」といわれていましたが、井伊直政もそれを継承して、軍装を赤色で統一し、井伊の軍も「井伊の赤備え」と呼ばれるようになりました。もちろん、具足だけではありません。井伊直政は、その軍法や武田軍の持つノウハウの多くを吸収していきました。そして、これは、井伊を徳川の先鋒部隊として強力な軍団にしようと考えた家康の意図によるものでした。「井伊の赤備え」 彦根城博物館蔵 井伊家の祖先は、遠江で井伊荘園の官人を代々務めていた家柄で、その後、今川家に仕えました。しかし、直政が少年の頃には、井伊家も落はくし、遠江を漂浪していたところを、家康に見出されたといいます。家康の側近に仕え、しだいに頭角を表し始めます。井伊直政という人は、思慮深く、周囲にも気を配り、又、非常に口が堅い人でありました。家康が、何か思い違いをしていた時など、まわりに人がいないのを見はからって、そっと家康に忠告したりする事もありました。そんな事から、直政は家康の相談相手のようになっていきます。その反面、一端、戦場に立てば、無類の勇猛さを発揮しました。戦いにおいては、やみくもに突撃を繰り返し、しかも、生涯一度も負けた事がなかったといいます。小牧・長久手の戦いで戦った秀吉も、井伊軍の勇猛さに手こずり、「井伊の赤鬼」とあだ名したといいます。家康は、この直政がお気に入りで、彼には全幅の信頼を寄せていました。関ヶ原の戦いでも、直政は徳川軍の先鋒として、めざましい奮戦をし、戦後の論功行賞では、家康から「創業ノ元勲也」とまで言われ、激賞されました。直政は、石田三成の旧領をそのまま、家康から与えられます。さらに、その時直政は、家康から「西国諸大名の監視」という職責を命じられました。政権として、まだ安定していない徳川家にとって、大坂の豊臣や、加藤、福島など豊臣恩顧の大名島津、毛利など外様の雄藩 京都の朝廷も含めてこれらの勢力は、まだまだ脅威でありました。家康は近江の地に、井伊を置いてこれらの動きに気を配るようにさせたのです。そして、その監視のための拠点として、家康が築城を命じたのが彦根城でありました。しかし、直政は彦根築城を見ることなく、世を去りました。享年42才。関ヶ原で受けた古傷がもとで、亡くなったといいます。彦根城は、2代目直勝の時に工事が始められ、3代目直孝の時に完成しています。その後も井伊家は、藩祖直政が家康から受けた信頼そのままに、徳川譜代大名の筆頭として、幕政の中心となっていきます。そして、西国大名の監視という職責も、井伊家は江戸期を通じて守り続けていきました。幕末、井伊直弼が安政の大獄を行って、反幕勢力を徹底的に取り締まりましたが、それも、この職責が受け継がれていた為、とも言えるのではないでしょうか。
2007年06月09日
コメント(8)
今回の琵琶湖の旅で訪れた安土城址。安土山は標高が199mで、ちょっとしたハイキングになります。信長は、天下布武を天下に印象づける象徴として、この地に、壮大な天主を持つ城・安土城を築きました。安土城の完成は、天正7年(1579年)。金箔の瓦をのせた壮麗な天主が、山上に聳え、天主内部には、狩野派の襖絵や南蛮の文物が置かれ、華麗な装飾がされていたといいます。しかし、本能寺の変で信長が横死したのち、城は炎上。今は石垣が残るのみとなっています。安土城炎上の原因については、明智光秀の軍が火をつけた、又は、信長の次男信雄が誤って焼き払った等、諸説があって、はっきりしていません。そうした、安土城の、他の城にはない特徴。その一つは、天主へ向う大手道です。城への道は、敵兵の攻撃に対し反撃しやすいように、道が曲りくねっているのが一般的ですが、安土城の大手道は、直線になっています。その理由は、信長が正親町天皇を安土城に迎えることを想定し、設計したためでありました。真直ぐに伸びた大手道は、天皇を迎えるためのロイヤルロードだったと言われています。 安土城天主へ向けて、まず、大手道の長い石段を登っていきました。その両側には、羽柴秀吉・前田利家・徳川家康など、家臣の邸宅跡が続いています。石段の所々には、石仏や塔石・墓石なども埋め込まれています。これらは、敵兵をひるませるために配置している、ということですが、私には、既存勢力や中世的な常識を破壊していった信長の反抗心の表れのようにも感じられました。 さらに登っていくと、織田信長の墓所があります。天正11年、羽柴秀吉が信長の遺品を持ってきて、ここに埋葬。織田一族と家臣多数を集めて、秀吉が、信長の一周忌法要を行った場所です。もう少し、登っていくと、安土城天主のすぐ下に、本丸跡があります。発掘調査により、この本丸は、京都御所の清涼殿によく似た構造の建築であったことがわかってきています。この事から、信長はこの本丸に天皇を住まわせる事を考えていたものと推測されます。このすぐ上が天主で、信長はそこに居住します。つまり、自らが天皇の上に立つことを考えていた、そうした可能性が非常に高いと考えられているのです。 安土城の天主跡です。かつて、宣教師のルイス=フロイスが「ヨーロッパにも、あるとも思えない」と言って感嘆したという、五層七階の壮麗な天主の跡。しかし、今は礎石が整然と並んでいるだけ。何か、人の世の栄華のはかなさを物語っているように思われました。織田信長という人は、稀代の革命児でありました。そして、先見性と強いリーダーシップで、中世社会を変革していきました。しかし、安土城址は、そうした信長の野望の果てを垣間見させてくれている。そんな事を感じつつ、山を降りていきました。
2007年06月02日
コメント(8)
大谷吉継と石田三成の2人は仲が良く、戦国時代には珍しく、親友といっていい程の信頼関係があったといいます。年齢もほぼ同じで、秀吉に仕えたのも同じ頃です。羽柴秀吉が、浅井攻めの功により、信長より近江・今浜の領主に任じられたのが、天正元年(1573年)。秀吉は、念願の城主となり、この地を長浜と改名。知行が増えて、家臣団を整える必要から、近江で多くの家臣を召し抱えました。石田三成と大谷吉継が、秀吉の家臣になったのは、この時期でした。2人とも、出身は近江。この時期、秀吉が近江で召し抱えた家臣には、行政や計数など、実務に秀でた武将が多く集まりました。石田三成は、後に豊臣政権の行政実務の中心人物となりますし、他にも、豊臣の五奉行であった長束正家・増田長盛など、行政手腕を発揮する武将を多く輩出しました。大谷吉継も実務能力が買われて、どちらかというと、兵の後方支援の役割を務める事が多かった人でした。近江は、京を控えた琵琶湖の舟運などから、近江商人を生んだ土地柄でもあり、そうした人材が出やすかったという事でしょうか。石田三成、大谷吉継は、ともに、そうした実務能力により頭角を示し始めました。特に、三成は秀吉の側衆として仕え、さらに秘書・官房長官のような役割を務めて出世を遂げていきました。吉継の方は、主に兵站業務です。九州攻めや小田原攻めでは、石田三成と共に、兵站輸送を担当しました。しかし、大谷吉継は、裏方のような担当が多い役回りではありましたが、実戦の武将としても相当の器量があったのではないかと言われています。秀吉が、ある時、「吉継に百万の軍を指揮させ自分は高みで見物したい」と話たことがあり、その時、周りにいた者も皆、ことごとく頷いたという話が残っています。又、人の話をくみとる事に優れていて、調略で敵を味方につける事でも、実績を残しました。そして、秀吉の全国統一後。天正17年(1589年)には、吉継は越前敦賀5万石の領主に任ぜられ、翌年には、三成も近江佐和山城19万石の領主となります。ところが、この時期、吉継は顔面が崩れる難病におかされました。らい病。現代でいうハンセン病であったと思われます。面相が崩れ、人は吉継との接触を避けました。又、この時、彼は失明していたともいいます。吉継も、平素は顔を白布で覆い、顔面の崩れを隠すようになりました。しかし、こうした吉継を避けようともせず、普段通り付き合い、終始、彼をかばったのが、石田三成でした。ある茶席での逸話です。茶碗が吉継に回った時、うみが茶の中に落ちました。茶碗を次の人に回すのですが、皆、飲む真似だけで、感染を恐れて誰も茶を飲みません。ところが、三成が茶碗を取り上げ「喉が渇いたので無礼する」と言って、茶碗の中身をすべて飲み干しました。吉継はこの三成の行動に感動し、深く感謝したといいます。このことが、2人の信頼関係を、さらに固めていった一因になったのかも知れません。秀吉の死後。時代は関ヶ原の合戦へと進みます。徳川家康は、上杉景勝を成敗するとして、会津に向け出兵。吉継も家康からの通達に従い、出兵します。三成はこの時、加藤清正・福島正則らとの争いの結果、佐和山城に謹慎中でしたが、会津攻めには、幼い子息の隼人正を従軍させることになっていました。吉継はその補佐役を頼まれていて、佐和山城に迎えに行きます。そして、吉継が佐和山城に三成を訪ねた時、三成から、徳川を誅するために挙兵することを打ち明けられました。吉継は「必ず失敗する。天下に無用な乱を起こすだけだ。やめろ。」と反対します。吉継も、従軍こそしているものの、真意は家康と景勝を和睦させるために、会津に行くつもりだったのです。しかし、三成。今回の挙兵は、上杉とすでに密約が出来上がっていることを打ち明けます。上杉が挙兵し、その隙に三成が挙兵すると・・・。吉継は10日間にわたって、説得を続けますが、三成の決意は変わりません。吉継は、ついに、三成に協力することを決心しました。「ここまできて、事の成否を論じてもしかたがない。大事を打ち明けてくれたのだから、わしの命はおぬしに預ける」といい。さらに、「ただ、おぬしが檄を飛ばしても普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願うものですら、家康の下に走らせる。ここは毛利輝元か宇喜多秀家を上に立て、おぬしは影に徹せよ」と忠告しました。横柄に、豊臣家の権威で上からものを言うような話し方をするため、相手を敵にまわしてしまう事が多かった三成。吉継は三成の人望の無さを遠慮なく指摘しますが、三成も、これを素直に聞き入れました。三成は、率直に意見を述べる吉継の事を、「真の友垣」と言い、「吉継ほどの友垣を得たのは終生の誇りだ」とまで言って喜んでいたといいます。そして、関ヶ原の戦場。西軍の石田三成方。軍容だけで言えば、圧倒的に有利だったはずですが、全力で戦った西軍勢力は、石田、宇喜多、小西、そして大谷くらいのもの。吉継は正面に陣取っている倍以上の藤堂、京極勢を蹴散らし、時折、宇喜多勢を側面から援護するなど獅子奮迅の戦いぶりを見せました。そして、正午過ぎには、松尾山の小早川秀秋が東軍に寝返り、松尾山を下ります。吉継は、小早川の裏切りを当初から予測していて、小早川勢の進路に沿って、鉄砲隊を埋伏させていました。通過するのを待っていて、鉄砲隊が小早川勢を狙い撃ちします。さらに、前面の藤堂、京極勢を捨てて、全軍で小早川勢に突撃をかけました。これにより、小早川勢は陣を崩され、本陣も後退し松尾山まで一旦退却したといいます。しかし、吉継が小早川の裏切りに備えて置いていた予備軍、脇坂安治らの4隊が、今度は東軍に寝返りました。大谷勢は、側面から総攻撃を受けることとなり、さすがの大谷軍も、これにより瓦解。吉継は自害しました、享年42才。三成の欠点や無謀さを良くわかっていながらも、自分を信じてくれた三成の為に、命を賭けた吉継。戦国の世に、清々しさを感じさせてくれる武将の一人であったと思います。
2007年05月19日
コメント(10)
「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという逸話。お家再興に生涯を賭けた武将・山中鹿之介、講談などに登場するお話です。戦前には、忠義の武将・武士道を称揚する題材として、教科書にも取り上げられていたようです。しかし、講談の話だけでなく、山中鹿之介が主家・尼子家に忠誠を尽くし、戦い続けた事は、史実としても裏付けられている実際にあった話でした。今回は、そうした山中鹿之介、尼子家再興の物語をまとめてみます。尼子家が滅亡したのは、永禄9年(1566年)11月。全盛期には山陰・山陽11ヶ国を有した大大名だった尼子氏ですが、大内・毛利に相次いで領土を侵食され、最後には、毛利勢に攻められ主城・冨田城を開城。当主義久も、毛利に捕らえられ安芸に連行されました。この時、鹿之介22才。尼子家では、多少、名が知られている若手のホープの一人といったところだったでしょうか。特に重臣の家柄ではなかったのですが、諸国を放浪したのち、尼子家再興を志すに至ります。やがて、鹿之介は、京で尼子家の分家の子孫(孫四郎)が僧になっているのを見つけ出し、又、尼子の旧臣たちと連絡を取り合って、尼子家再興を提議し賛同を得ます。そして、孫四郎を還俗させて尼子勝久と名乗らせ、主君として押し立てました。こうして、尼子家再興に向けての活動が始められる事になります。鹿之介ら主従は、まず但馬に出て、そこから隠岐に渡りました。隠岐で勢力を蓄えつつ、出雲の様子を探ろうという算段です。やがて、毛利は大内氏との戦いのため、主立った武将が九州に遠征しました。これは好機とばかりに、鹿之介たちは隠岐から出雲に渡り、七つの城をまたたく間に陥しました。尼子の軍勢は6000名を超え、月山冨田城を除く出雲の大半を手中に収めます。尼子の旧領を一部回復、まずは、まがりなりにも尼子家を再興した形となりました。しかし、それも束の間でした。大内との戦いに勝利した、毛利の主力軍が戻ってきます。毛利勢は、毛利輝元・吉川元春ら一万五千ほどの兵力で、奪われた城を次々と攻め立てました。尼子方も奮戦したものの、抵抗及ばず、主君勝久は隠岐へ逃亡、鹿之助は毛利に捕らえられます。鹿之介は毛利の家臣の家に幽閉されることとなりました。それでも、鹿之介はあきらめません。赤痢に罹ったといっては、厠へ何十回も通い、やがてその隙を見て、厠の樋口から糞まみれになって脱走したといいます。さて、ここからが、尼子家再興の第二幕。連絡を取り合った勝久と家臣たちは、再び京に集結します。当時の京は、織田信長の勢力下にありました。尼子主従は、明智光秀の仲介で信長に謁見し、尼子家再興の志を述べます。彼らは、信長より光秀軍の傘下に入るよう指示され、引き出物を授けられました。天正2年(1574年)。鹿之介は信長の後援により、勝久を奉じて、丹波-因幡へと兵を進めます。因幡では、13の城を陥し、又、尼子の旧恩により馳せ参じるものも多く、3000名が新たに軍に加わったといいます。一時的に、尼子の再興に成功したといえます。しかし、またも、毛利勢です。小早川隆景・吉川元春が率いる大軍が、尼子討伐に押し寄せました。尼子方は次第に圧迫され、天正4年(1576年)秋、京に撤退します。尼子家再興、2度目の失敗です。天正5年(1577年)。羽柴秀吉が中国方面軍司令官に任じられ、信長の対毛利戦争が本格的に始まりました。尼子勢もこれに従軍。攻略した播磨・上月城の守備を任されます。しかし、秀吉が安土に戻っている隙をみて、またまた毛利の大軍が押し寄せました。周辺の諸大名も、次々と毛利方になびいていきます。尼子の籠る上月城は、孤立しました。秀吉もすぐに、播磨に戻りますが、圧倒的な毛利軍のために手が出せません。この状況を聞いた信長は、秀吉に対し、「尼子にこだわらず、上月城は捨てよ」と、命じます。秀吉も信長の命には服さざるを得ません。しかし、鹿之介に対しては、「合図に応じて、突出されたし、それを待って貴軍を収容する。」との密使を送ります。これに対して鹿之介「自分一人なら斬り抜けられるが、士卒はそうはいかない。おのれ一人助かって士卒を見殺しに出来ない。」と云い、申し出を断りました。そして、尼子勢はついに毛利に降伏。勝久が切腹し、その替わりに士卒は助命することが条件でした。鹿之介は吉川元春の手勢に捕縛され、輝元の下に連行されます。勝久亡き後、しかし、鹿之介はまだ、完全にはあきらめていませんでした。吉川か小早川に復讐する機会を狙っていたのです。護送されていく鹿之介。備中甲部川の渡しに、さしかかりました。鹿之介は石に腰掛け、渡し舟が来るのを待っていました。そこへ、背後から斬りつけられます。鹿之助は川に飛び込みました。すると、もう一人が川に飛び込み、鹿之介の頭を押さえつけます。最初の一人も飛び込み、鹿之介の足を押さえます。毛利方が送った刺客でした。鹿之介は絶命。 享年34才でした。山中鹿之介の尼子家再興の話を思う時、彼のお家再興にかける執念の凄ましさには驚かされます。戦国の世の諸侯の栄枯盛衰は、茶飯事のこと。こうまで、お家再興にこだわり続ける例は、他にありません。尼子家のさして重臣でもなかった鹿之介が何故そこまで・・・という理由は良く分からないようです。しかし、社会秩序が安定した江戸時代になると、鹿之介の行動は、お家を思う忠臣の鑑として称揚されていきました。江戸時代の倫理感からの評価としては頷けるものです。なお、鹿之介。講談などの影響で、一般的には鹿之介の名で知られていますが、 正しくは、通称 鹿介(しかのすけ)のようです。名は幸盛と云いました。
2007年04月14日
コメント(16)
NHK大河ドラマ「風林火山」。毎週、楽しみに見ております。最初は、山本勘助って地味だし、華やかさもないし、配役もどうかな? という事もあって、正直それほど期待していなかったんですが、第2回まで見て、 いや これはいける と思いを改めました。内野勘助の熱演、脇役陣の確かな演技、緊迫感のあるドラマの展開 などこのままの調子で進めば、ますます、ドラマに引き込まれていきそうです。この後の、中だるみ、尻すぼみがないよう期待します。それと、Gackt謙信の出来がどうなのかも気になるところです。ところで、山本勘助は伝説の軍師といわれています。実在した人物かどうかも、話題になっています。それは、歴史家が一級資料と認める、信憑性の高い資料に山本勘助の名前が現れないために、その事歴・経歴に疑問が持たれている事によります。現在知られている山本勘助の活躍ぶりは、おもに、江戸初期に出版された「甲陽軍艦」という書物に記されたものです。この「甲陽軍艦」の作者は、甲州流軍学の兵学者小幡勘兵衛であるとされていますが、実際には、これを書き始めたのは、僧になっていた勘助の息子であるようです。彼は、武田信玄の事蹟を集め、編纂し、その中で父を軍師山本勘助として登場させました。それを、小幡勘兵衛が加筆し、武田家家臣・高坂弾正の遺稿と称して出版。そうした、経緯で「甲陽軍艦」は生まれました。しかし、江戸時代からもその記述には誤りが多いと指摘され、又、創作と思われる部分が多いと言われています。近年、「市川文書」と呼ばれる資料が発見され、山本勘助は実在していた事が裏づけられました。現在のところ、山本勘助は実在の人物であるが、軍師という重責を負う人物では、無かったのではないか、と言ったところが、一般的な見解でしょうか。それは、そうとしてドラマとは事実を描く事が目的ではありませんし、描かれる人間の生き様や、恋愛や、スリル、スペクタクルなどを見るものに与えるエンターテイメントなのだと思います。「風林火山」今後の展開が楽しみです。
2007年01月20日
コメント(4)
大河ドラマ「功名が辻」。いよいよ関が原の合戦、佳境に入ってきました。「功名が辻」では秀吉の描き方が、原作と違うのが不満ですがそう言いながらも続けて見ています。ドラマの進行からは、先走りしますが、以下、新領主山内と地生えの旧領主長曽我部との確執について。山内一豊は小山会議での発言が認められて、関が原戦後の論考考証で、家康から土佐24万石を与えられました。旧領掛川6万石からの大抜擢でした。とはいうものの、土佐は関が原で西軍に属して敗れた長曽我部の旧領。長曽我部の勢力がそのまま残っており、土佐を治めるにあたり、一豊は大きな抵抗を受ける事となります。長曽我部家では、まず旧領回復の嘆願をしようと、当主盛親が自ら大阪に上りました。しかし、反対に徳川から過去の弟殺しの罪を問われ、京に幽閉されてしまう事になります。同時に、長曽我部家の土佐召し上げも、これにより確定しました。盛親は、山内氏に城地を明け渡すよう命じた朱印状を国元に送り、服従を指示しますが、土佐領内は収まりませんでした。長曽我部の家老や上層部は、時勢と諦め服従の命に従いましたが、一領具足とよばれる下級の家臣は、頑として受け付けません。激しい抵抗活動が、繰り広げられる事になります。一領具足という呼び名は、一領の具足・1頭の馬しか持たず戦場を駆け回った事からそう呼ばれていました。土佐独特の軍制で、普段は百姓をし、いざ合戦となれば軍陣に参加、長曽我部元親が四国制覇を行った時の、中核部隊でありました。一豊は弟の康豊を土佐に派遣し、浦土城の引渡しを命じますが、一領具足はこれを拒否、籠城して抵抗しました。激闘の末、開城・降伏。270人あまりの一領具足が斬首されたといいます。康豊はなんとか浦土城の受け取りに成功します。やがて、一豊が土佐に入りました。しかし、一領具足の抵抗はなおも続きます。土佐各地で反乱が相次ぎ、又山内の家臣が襲われる事件も頻発。ゲリラ戦の様相を呈してきました。一領具足にすれば、それまでは武士として認められ、田畑からの収穫も無税であったものが、すべて否定されたわけで、憤懣やるかたなしという状況だったのです。しかし、一豊は一領具足を弾圧し、反乱の根絶を目指しました。相撲好きな一領具足を集めようと相撲大会を企画。種崎浜で行われた相撲大会で、一領具足へ向けて一斉射撃を行いました。50人余りの一領具足たちが殺害されたといいます。しかし、これにより一領具足の反乱がなくなったわけではなく逆に、一領具足の山内に対する恨みは増幅していく事になります。一領具足の反乱が収束したのは、一豊の次の代忠義の頃です。野中兼山が藩政改革を行い、一領具足に郷士という身分を与え武士として認めた事によります。これにより、元山内侍の上士と元長曽我部侍の郷士という土佐独特の二重構造が生まれる事になりました。郷士は藩主に拝謁する事が認められず、参政権もなく、上士とは様々な点で差別されていました。その後も両者の間には、微妙な対立関係が続いていきます。幕末期、土佐藩から尊王攘夷運動に参加する志士が多く輩出しました。そのほとんどすべてが、郷士階級のものたちでした。土佐勤王党を組織し、武市半平太や坂本竜馬、中岡慎太郎など幕末の動乱に際して大きな役割を果たしました。又、幕末の土佐藩では、藩上層部(上士)は公武合体派で、下層部(郷士)は尊王攘夷派という二重構造が生まれましたが、その遠因は山内と長曽我部の対立にあったのです。
2006年10月29日
コメント(2)
松阪公園内にある歴史民族資料館では、ちょうど「蒲生氏郷生誕450年展」が催されていました。「あっ、蒲生氏郷」と次男。こちらは、プレステ2のゲーム信長の野望で鍛えてあるので武将の名前だけは良く知っています。一方、妻と長男は興味なさげです。「まあ、時間もないし・・・」と歴史民族資料館の前を素通りしました。蒲生氏郷が松阪城を築いたのは天正16年(1588年)。当時、四五百(よいも)の森と呼ばれていた一帯の田野を開き、都市計画をもって町づくりをし、江戸時代にわたっての繁栄の基礎を築きました。氏郷がこの地を"松阪"と名付けたといいます。元来蒲生氏は近江の国・日野を根拠とする古くからの家柄で、近江の守護六角氏の家老を務めていました。織田信長が足利義昭を奉じて上洛する際、六角氏は信長軍と戦って破れ蒲生氏は信長に降伏します。この時氏郷13才、やがて信長の側近に仕える事になります。初陣から戦功をあげ、その武勇により将来が期待され、信長のお気に入りとなります。本能寺の変の時には信長の妻子を守って日野に入り光秀と対峙しました。その後、豊臣秀吉に仕えます。この人、姻戚関係がなかなか凄いんです。正室には信長の次女の冬姫を娶り。妹は秀吉の側室となり三条殿と呼ばれました。信長は義父にあたり、秀吉は義弟にあたる事になります。秀吉が家康と戦った小牧・長久手の戦いでは、退却戦の殿を務める等の功をあげそれらにより伊勢で12万石を与えられました。氏郷が松阪城を築いたのはこの時期です。氏郷の本貫地日野は近江商人発祥の地といわれており、商業の盛んな土地でした。松阪を拓くにあたり日野から商人を連れてきたといわれています。秀吉の九州征伐では、一番乗りで敵城を破る等の武功を続け、勇名を高めていきますが、やがて転機が訪れます。小田原の北条攻めです。小田原戦後の論功考証で氏郷は、松阪から会津42万石に転封される事となります。石高からいえば出世になりますが、氏郷は「たとえ大領であっても、奥羽のような田舎にあっては本望を遂げることなどできぬ。小身であっても、都に近ければこそ天下をうかがうことができるのだ」と嘆いたといいます。氏郷を会津に移す意図について、一つは関東へ国替えとなった家康を牽制する事。二つ目は奥羽の梟雄伊達政宗の動きを監視する事でした。又、秀吉が大器の武将氏郷を中央に置いておくことを恐れた為とも言われています。実際、これ以降の彼は、伊達政宗との確執に明け暮れる事になります。奥州で大規模な一揆が発生、政宗はその鎮圧を命ぜられても理由をつけて容易に動きませんでした。氏郷も鎮圧のため出兵しますが、戦いに難渋し政宗との対立を深めていきます。氏郷は”政宗が一揆を扇動している”と秀吉に訴え、やっとの思いで一揆の鎮圧に成功します。朝鮮出兵の陣。九州名護屋で氏郷は病に倒れます。加療のため京に送られますが伏見城内でその生涯を閉じました。享年40才。蒲生氏郷は色々な才能を持った武将でした。武将としては、厳しい軍律を持ちその手法は信長譲りであるといわれ、兵の進退は整然としていたといいます。松阪で行った町作りは、会津でもその才が発揮されました。商人を連れて会津に入部し、会津若松の町づくりの基礎を作りました。若松の地名も氏郷が始めたものと言われています。商業の重要性がわかっている武将でもありました。又、レオという洗礼名を持つキリシタン大名でもあり、茶道をたしなみ、利休七哲の一人に数えられる風流人でもありました。和歌や漢詩も多く残しています。限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風 氏郷辞世の歌です。俺の人生はこの程度でない・・・という遂げ切れなかった思いが氏郷にあったのではないかと思います。
2006年07月02日
コメント(6)
もう一人、戦国時代とっておきの悪人がいます。ほとんど合戦をすることなく、裏切り・毒殺・結婚詐欺などの謀略を駆使して、2カ国を手に入れた宇喜多直家です。 宇喜多直家は備前浦上氏に属する小豪族でしたが、まず近隣の豪族に自分の娘を嫁がせて婿にし、狩を催した時に人をやって暗殺し城を奪います。続けて、備前の大豪族であった義理の父を酒宴によんで斬殺、着実に身代を増やしていきます。最後には浦上氏に滅ぼされた主家の赤松氏に取り入り、主家復興の名目で浦上を攻めついに備前一国を切り取ります。 次は美作の国。美作は当時、後藤氏と谷川氏が半国ずつ領有していましたが、まず後藤氏の娘を妻にもらい隙を見て後藤氏を毒殺。谷川氏にも妹を嫁がせておいてこれも毒殺。美作一国を手に入れました。 しかし、やがて西からは毛利勢が、東からは織田勢が勢力を伸ばしてきます。始めは毛利に従属し織田勢に対抗して播磨の国に進出しますが、織田勢の勢いが盛んなのをみて、今度は羽柴秀吉のとりなしにより織田方につきます。 戦国の時代は、酷烈で、油断も隙もなかったので、生ぬるい根性では生きて行けなかったのですが、これらの話には人間らしい暖かさが感じられません。 しかしそんな直家も最後に残したものがあります。死の直前秀吉に対して、一人息子の八郎の事を宜しく頼むと必死に訴えたのです。この子がのちの宇喜多秀家です。秀吉はこのため終世この子を可愛がり養子にしようとまでしました。悪人といわれる人も最後のどこかには本性としての、情をもっているのではないでしょうか。
2006年03月05日
コメント(9)
戦国時代の武将たちの中で一番の悪人は誰でしょう。悪人といっても、どういう基準で悪人と判定するかによって結果が違いますそこは独断と偏見で勝手に選んでみました。又、時代的には秀吉が天下統一をするまでの期間としています。殺生関白と呼ばれたとんでもない天下人、豊臣秀次などは除外しました。 主家を滅ぼしたという意味での悪人の代表は明智光秀でしょう。突然本能寺に信長を襲った事は戦国時代で最も衝撃を与えた大事件。でも光秀は悪人という人柄でなく、教養のあるインテリであり常識人であったと思います。それだけに、先取的な信長には相当なストレスを感じていたことと同情します。むしろ織田信長の方が比叡山焼き討ちや長島一向一揆弾圧等、戦いに関係のない多くの一般人を殺戮したとう点では一番の悪人といえるかもしれません。しかし、彼は戦国のスーパースターであり悪人というイメージではありません。 蝮とよばれた斎藤道三は、一介の油売りから美濃の国主に登りつめましたが、そのためには利用できるものは利用し自分にとって価値がなくなると始末するといった冷酷さがあります。釜茹での刑を行うに、その妻や親兄弟に釜を焚かせたといった話も残っています。 しかしその上をいく悪人はやはり松永久秀でしょう。信長が家康に対して久秀のことを「この老人は、人がひとつとしてなし得ないことを3つ行っている。主家の三好に叛いた事、将軍を殺害したこと、大仏殿を消失させたこと、普通のものは一つとしてようせぬことであるが、それを3つともやってのけた人でござるよ」と話したそうです。それまでに大仏を消失させた人物は平安末期の平重衡だけですし、現役の将軍を殺害したのは足利義教を殺害した赤松満祐と足利義輝を殺害した久秀だけです。実績?の上で松永久秀が三拍子揃っています。
2006年03月04日
コメント(0)
出張で東京に向かう途中、掛川駅付近。 新幹線の車窓から、掛川城が見える度に山内一豊のことが頭に浮かんでいました。掛川城は一豊が小田原攻めの後に城主となり、関ヶ原戦後土佐に移るまでの間過ごした城です。 今年は、「功名が辻」が大河ドラマに取り上げられているため、掛川城も脚光を浴びている事と思います。小さな山の上に建っている掛川城はなんとなく可愛らしく、微笑えましいようにさえ思われます。まるで愚直なかわいらしさがある一豊のように・・・。 山内一豊とその妻といえば、名馬購入事件が有名です。以下はその概略。 ある日、安土城下で馬市があり一豊はそこで名馬を見つけます。しかしその金額は黄金十枚と言われ、貧乏な一豊はとても手が出ないと家に帰って妻の千代に話をします。すると、千代は黄金十枚を持ってきて「これで馬を買ってください。実は婚ぐ時に父から夫の大事の時に使うように渡されたお金なのです。」と夫の前に差し出します。一豊はこれで名馬を買い、その後京で馬揃えがあり、一豊の名馬が信長の目に止まる事になります。「貧しい中でも武士のたしなみを忘れぬ良い心掛け」と賞賛を浴び出世の糸口を掴んだというお話。 ただ、この名馬購入事件はつじつまが合わないところもあり、近年真偽の程は疑わしいといわれているようです。土佐山内家にもその話は伝わっていないとのこと。しかしながら、この話は誇張されているとしても実際に似たようなことがあったように思うのです。一豊は何らかの方法(例えば、懇意の馬商人がいたとか、他の交換条件を出して値切ったとか)で名馬を手に入れた。その後、その名馬が評判になり、妻のへそくりをからめた話に広がっていったのではないか。そんな風にも思われます。 いずれにせよ、「功名が辻」は中々良いドラマに仕上がっていると思います。今後の展開が楽しみです。
2006年02月27日
コメント(2)
全23件 (23件中 1-23件目)
1