歴史一般 0
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五山の送り火「妙」「法」の山の麓を東西に延びる北山通りは、緑にあふれていて、自然環境にも恵まれたところです。最近では、ハイセンスなブティックや飲食店なども軒を並べ、京都でも有数のおしゃれな町というイメージが、すっかり定着してきています。そんな、北山通りの一角、府立植物園の隣にある美術館が「陶板名画の庭」。先日は、ここを訪ねてみました。「京都府立陶板名画の庭」コンクリートの通路が立体的に交差する建物の中、その壁面に、陶板に描かれた世界の名画が展示されているという、ちょっと、一風変わったスタイルの美術館です。陶板画というのも、あまりなじみがないかも知れませんね。これは、原画を撮影したフィルムから写真を製版し、それをいくつもの陶板に転写し焼き上げたもの。これらの陶板を組み合わせていくことにより、様々な名画が再現されています。変色も腐食もしないので、永く保存することができるというのが、その大きな特長。「屋外で鑑賞できる世界初の絵画庭園」というのが謳い文句で、展示されているのは、全部で8作品。もちろん、原画が素晴らしいということもあって、とても、楽しめる空間になっています。それでは、展示されている名画の数々をご紹介していきましょう。まず、一際、目につく巨大な作品が、ミケランジェロの「最後の審判」です。ミケランジェロが、たった1人で6年をかけ描き上げたといわれている大作で、実物は、バチカン宮殿のシスティナ礼拝堂にあります。中央のキリストを中心として、天国へ昇っていく人と、地獄へ堕ちていく人々と。世界の終末と、それに対するキリストの審判の様子を描いたとされる、ミケランジェロ渾身の力作です。陶板による複製であるとはいえ、そのスケールは、かなりの迫力があります。もう一つ、こちらも大作。レオナルド・ダヴィンチの「最後の晩餐」です。キリストが捕まる前の日の夜。12人の弟子たちと食事をとっていたキリストが「汝らのうちの一人が、われを売らん」と、突然、告げたことにより、弟子たちに広がった、驚愕と動揺の瞬間を描いたもの。恐怖のあまり後ろに身をひいているのが、キリストを売ったユダで、画面、左側に描かれています。印象派の名画も何点かあります。これは、ルノアールの「テラスにて」という作品。豊かな色彩で知られるルノアールですが、お母さんと、そばに寄り添う少女の表情が、何とも微笑ましいですね。こちらは、「ラ・グランド・ジャット島の日曜日の午後」という作品。新印象派とも呼ばれたフランスの画家・スーラの代表作で、これにより、点描による絵画を確立したともいわれています。この作品を見ていると、どこか19世紀のヨーロッパを感じさせる、そんな雰囲気があります。印象派の巨匠・モネの睡蓮です。晩年は睡蓮を描くことに没頭したという、まさに彼のライフワークともいえる作品群。絵画人生を睡蓮に賭けた、彼のその情念とは、いかばかりだったのでしょう。こちらは、ゴッホの「糸杉と星の道」この作品にも、彼の独創的なタッチがいきています。「糸杉が僕の頭を占領している。なぜなら、いまだかつて僕の目に映じるようには、誰もこれを描いていないから」ゴッホは、この絵について、そうした言葉を残しているのだそうです。いかにもゴッホらしい、その人となりが伝わってきますね。他に、東洋の作品が2点あります。伝・鳥羽僧正作「鳥獣人物戯画」。京都・高山寺に伝わる絵巻物の傑作ですね。猿や犬などの動物が擬人化され、とてもユーモラスに描かれています。台湾の故宮博物院に所蔵されている「清明上河図」。中国・清朝の頃に描かれたという絵巻物の名作です。以上が、展示されている8作品。実際の原画には、もちろん及ばないとはいうものの、その迫力は、十分に伝わってきます。この陶板画というのは、焼物と芸術が複合した、新たな芸術ジャンルであるとも言われているそうで、一見の価値はあると思います。もし、機会があれば、一度、見に行かれてはいかがでしょうか。
2012年04月22日
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東北地方を襲った、とてつもなく大規模な地震は、原発事故までも併発させ、これまでに日本が経験したことがないほどの大災害となってしまいました。おそらく、この復興までには、まだまだ、いくつものハードルを越えて、長い歳月が必要なのだろうと思います。しかし、こんな時でも、日本人はゆずりあい、支え合い、助け合うことが出来ています。懸命に復興に向けて立ち上がろうとする人。命を懸けて救援に向かう人々。そうした姿をみると、目頭が熱くなり、本当に頭が下がる思いです。たとえ、些細なことでも、自分が今できることを、一人一人がやっていく。被災された方々が、少しでも楽な暮らしができるようにと、今こそ、それぞれが、そうした気持ちを表に出していければと思っています。***私がいつもお世話になっている楽天のお友達、 ハッピーフュチャリストこと柳瀬経子さん は、「イタリア日本文化展とよさこい踊り奉納」というイベントを昨年から企画し、準備を進めてこられてきました。イタリアのソレントで、日本文化の展示とよさこい踊りを披露し、これにより、イタリアで日本の文化を紹介し、日本との交流を深めていこうというのが、この催しの趣旨です。ソレント市からの後援も受け、イタリアでも、このイベントに対する宣伝や呼びかけが進められているようです。開催は、3/26(土)・27(日)の2日間。いよいよ目前に迫ってきました。(この催しの詳細については、 こちら をご覧下さい。)そして、この催しには、私の父が描いた日本画も出品することになっています。日本を象徴するような絵を、ということで父が描き上げたのが、この富士の絵。題して「富士深々」です。この絵を通して、たとえ少しでも、イタリアで日本についての関心を持ってもらうことが出来、また、この絵がイベントの成功に結びつく一助となればと思っております。3/24(水)の便で、この絵もソレントへと旅立ちます。***今回、東北太平洋沖大地震があったことにより、このイベントも中止にしようか、という話もあったそうです。しかし、こんな時だからこそ、逆に、日本のことを知ってもらうために、ソレントに行こうということを決断されたとのこと。イタリアソレント市からも、今回の地震について、お見舞いとお悔やみの連絡があったのだそうです。このイベントが、海外から少しでも日本を勇気づけることが出来る、そんな催しになりますことを、つとに願っております。
2011年03月21日
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私の父は、絵を描くことを老後のライフワークとしていて、、、という話については、以前、このブログでも紹介したことがあります。 こちら 先日、父の家に行くと、「日展に出展したいと思っている。」といって、サイズの大きい描きかけの作品を見せてもらいました。下手の横好きということもありますが、でも、年数をかけて取り組んでいると、それなりに、形になってくるものです。私の家には、父の描いた絵がたくさんあって、ところ狭しとばかりに、部屋の壁をおおっているのですが、その中から、今回は「霞ヶ浦の人形送り」という小品をご紹介したいと思います。茨城県霞ヶ浦地方では、七月に入ると真菰刈りをする。それは真弧馬を作るためである。朝早くから、子供達がこの人形を捧げて、村境のやぶまで送る。香取大明神いくさに勝った。アーヤーイヤイと打ちはやす。七月の人形送りである。霞ヶ浦地方で行われている、民俗を題材にして描いた絵ですね。真弧馬(まこもうま)とは、七夕の夜に飾られていたもので、織姫と彦星が馬に乗って再会できるように願う、という意味合いがあったとされています。七夕の前の日に、川のほとりに群生している真菰を刈り取ってきて、陰干しにしておき、それを馬の形に組み上げました。そして、七夕が終わってからの何日かは、これが、子どもたちのかっこうの遊び道具となったのだそうです。もう一つの人形送りというのは、藁などで巨大な人形を作り、これを村境に運び、さらに、これを村外れで焼いたりしたという年中行事。災いや災いをもたらした悪しきものを、人形に託して異界へと送り返す、そういう意味を持った民間習俗ですね。これらの民間習俗というのは、現代からみれば、たわいもないもののようにも思いますが、でも、当時の人たちにとっては真剣だったわけで、また、こうした習俗というものは、なかなか趣き深くもあります。古くから行ってきた行事を消滅させてしまうのも忍びない、ということで、こうした行事を復活させるという取り組みをされている地域もあるようです。ひな祭りや七夕のようにメジャーな年中行事ではありませんが、それぞれの地域に伝えられている、素朴な習俗も、ぜひ、残していって欲しいものだと思います。こうした、地域の習俗のことを描いた「霞ヶ浦の人形送り」の絵は、私のお気に入りの一枚になっています。
2010年07月18日
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司馬遼太郎さんが、日本国内や海外の各地を旅した旅行記が『街道をゆく』シリーズ。各地の歴史・地理・人物などを、司馬さん独自の視点から執筆されたこの一連の旅行記は、優れた歴史エッセイであり、卓越した文明論でもあると思います。全部で72街道、文庫本にして43巻あり、なかなか全てを読破まではいかないですが、私のお気に入りの作品群の一つでもあります。この『街道をゆく』シリーズの挿絵を担当されていたのが須田剋太画伯。週刊朝日での連載開始当初から、約20年の間、司馬さんに同行してスケッチを重ね、『街道をゆく』の挿絵を描いてこられました。須田画伯は、数々の文化賞・大賞を受賞している人気の画家であり、その奔放な筆致・独特の画風で描かれた挿絵は、絵画作品として見ても優れたものであると思います。そこで今回は、須田画伯の挿絵を中心に、『街道をゆく』の旅のいくつかを紹介したいと思います。「湖西のみち」『街道をゆく』第一回目の旅が「湖西のみち」。歴史のある町といっても、京都・奈良が近代化されているのに対し、近江には風情が残っている、そんな近江国が好きだ、というようなことを司馬さんは書かれていて、そうした意味で、この企画の第一回目の地に近江を選ばれたそうです。【滋賀郡北小松付近】「南伊予・西土佐のみち」松山~大洲~卯之町~宇和島をめぐる旅。挿絵は、宇和島での寄合酒の様子です。【宇和島の季節】「叡山の諸道」比叡山山内と浜大津・坂本など。延暦寺を中心として発達した学問・文化・信仰を訪ねられています。【法華大会の行われる講堂】「阿波紀行」司馬さんは、阿波一国を一文字に流れる吉野川を見て、その下流の大きな野を見たいと仰っていたそうです。【お遍路さん】この『街道をゆく』の中では、同行の須田画伯がいつも登場してきます。おかっぱ頭に、つなぎのジーンズ。独特の眼鏡。道元の禅の世界に傾倒しているという、求道家でもありますが、童心のように豊かな感受性を持っていて、そんな須田画伯を、司馬さんが、暖かいまなざしでユーモラスに描写されています。それが、又、「街道をゆく」シリーズの面白さの一つにもなっているのです。「オランダ紀行」アムステルダム・ライデン・ナールデン・ニューネン・ブリュッセル他日本とオランダとの歴史のつながり、や、何故、オランダでいち早く市民社会が成立したか。オランダの歴史・文化・人に迫ります。【アンネフランクの住んでいた家】この「オランダ紀行」が、連載半ばにして、須田画伯にとって最後の『街道をゆく』になりました。1990年 84才で死去。須田画伯の晩年は、その作品を求める人が群れをなすというほどの盛況で、全ての展覧会が完売に近かったといいます。力強く、インパクトのある須田画伯の挿絵は、整ったきれいな絵とは言えないですが、とても魅力にあふれています。今も、『街道をゆく』の中で、各地の雰囲気を伝え、『街道をゆく』シリーズを豊かに彩ってくれているのです。
2010年01月16日
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芸術の秋。こんな、絵画はいかがでしょうか。 描いた人は、花峰山人(かほうさんじん)。私の父です。30年あまり、趣味で絵を描き続けていて、今も、絵を描くことを中心とした生活を送っています。私とは、離れて暮らしているんですが、訪ねて行くと「この絵は、どう思う」と、書き上げた絵を見せてくれます。自然を題材にした絵が中心で、今は、淀川の情景を描いた一連の絵に力を入れています。 私の家にも、父の描いた額やら掛け軸やらが、いっぱいありまして常に、絵に囲まれて暮らしております。何もない白い紙に、どのように描いてゆくか。絵には、その描く人の、思いや、人となりが現れてくるものと、私は感じています。父の絵がどうかは、わかりませんが、優れた絵は、生活にうるおいを与えてくれるものであると思っています。
2007年11月17日
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少し前ですが、出張で青森に行った時、棟方志功記念館に立ち寄りました。校倉造の小ぢんまりとした建物で、展示室は1フロアのみ。決して広くないのですが、これは「一点一点の作品をじっくりと見て欲しい」という、棟方志功の希望から、あえて広さを抑えているのだそうです。日本が世界に誇る板画家、棟方志功。力感のあるその作品群は、見るものを惹きつけて離さない凄み・迫力がありました。 若き日の棟方志功は、一枚のゴッホの絵に出会った事から、絵画の世界に魅了されました。地元の画家にゴッホの「ひまわり」を見せられてから、志功はたちまち絵画に夢中になり、『わだばゴッホになる』と叫び、絵の道に進むことを決意しました。周囲のものたちは、志功があまりに ゴッホゴッホと言うので、「風邪でもひいたのか」と言ってからかったといいます。記念館の隣の平和公園にある記念碑にも、この志功の有名な言葉が刻まれています。 大正13年(1924年)志功21才の時上京し、独学で油絵を学び始めます。昭和6年(1931年)には、初の版画集「星座の花嫁」を刊行。その後、生命力、躍動感に溢れた力強い傑作を数多く発表していきました。昭和27年(1952年)スイス・ルガノ国際版画展で、優秀賞を受賞。昭和31年(1956年)には、ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展にて日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞。20世紀を代表する、世界的巨匠と呼ばれるようになります。昭和45年(1970年)文化勲章を受賞。棟方志功といえば、大変な近視の為、眼鏡が板に付く程に顔を近づけて、板画を彫るスタイルが特徴的です。又、志功は、板の声を聞き、木の魂をじかに生み出すという意味から、版画ではなく、板画という呼び方をしていました。驚いてもオドロキきれない喜んでもヨロコビきれない悲しんでもカナシミきれない愛してもアイシきれないそれが板画です棟方志功の言葉です。板画を愛し、板画にその生命を燃やし続けた芸術家の姿が、そこにあります。
2007年01月14日
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画:小田野直武 「児童愛犬図」 秋田に行った時、足を伸ばして小田野直武の故郷角館にも行ってみました。冬の時期で町全体が雪につつまれて静かな落ち着いた雰囲気でした。秋田新幹線の停車駅にもなっているのでもっと開けてくるだろうと思いますが、純朴な田舎の城下町といった感じでとてもこの町が気に入りました。直武の生家や歴史館にも行きましたが、秋田蘭画の紹介や小田野直武の年譜等も展示されていましたが、実物の秋田蘭画にはここでも出会えませんでした。 小田野直武は秋田蘭画の代表的な画家である事より、「解体新書」の解剖付図を描いた人として知られています。前回の雑記帳でもふれましたが改めて、その生涯を振り返ってみます。小田野直武は寛延2年(1749年)秋田支藩角館城代の家臣直賢の四男として角館に生まれました。幼い頃から絵を好み八歳頃から仏画等を描き始め、十五歳には藩のお抱え絵師について狩野派の画法を学んだといわれています。 二十五歳の時、領内の鉱山開発のため平賀源内が秋田、角館を訪れます。ここで源内は直武の描いた屏風絵を見せられ、細密で巧みな直武の絵に驚嘆します。源内は物産の図譜製作を手がけていたため細密な絵が描ける画工を探していたところだったので、直武を源内の宿舎によんでもらいました。これが彼の生涯の大きな転機となります。この時直武は初対面の源内から、真上から見た重ね餅を描くようにいわれ二重丸を描いたところ、源内は「これではお盆なのか、ただの二重の輪なのかよく分からない」といい自ら筆をとって直武の描いた二重丸に濃淡をつけて立体的にし、西洋画の遠近法や陰影法を教えたという話が伝えられているそうです。これらの手法は当時の東洋画にはなく、直武の驚きも大きかったでしょう。直武は源内に入門しそばについて西洋画を学びました。やがて源内は鉱山開発の仕事を終えて江戸に戻ります。しかしその直後、秋田藩から直武を産物取立役して源内のもとへ三年間出張させるとの藩命が下ることになります。 この頃江戸では、蘭医の杉田玄白が「解体新書」の翻訳を終えその解剖付図が描ける画工を探していました。江戸に着いた直武は源内から杉田玄白を紹介され、「解体新書」の解剖付図を描くようにいわれ、解剖図の模写に取り組むことになります。半年あまりをかけて直武は解剖付図を描き上げます。「解体新書」の刊行とともに直武の名が高まり、同時に解剖図の模写により直武の画業も進みました。この頃、源内の弟子であった司馬江漢が直武のもとに入門します。江漢はのちに銅版画を創始して日本洋風画の第一人者となる人です。又、同じく蘭画を描いていた藩主佐竹曙山も参勤交代の折には、直武を呼び主従ともに蘭画製作に励むようになります。 やがて、三年の任期をはるかに越え五年が経過した安永六年(1777年)直武は秋田に戻ります。秋田では藩主付きの絵お相手という勤務を命じられます。これより本格的に曙山と直武の蘭画製作がすすめられました。 その年の秋、直武は参勤交代で曙山とともに江戸に出府、しかし、曙山は江戸で病に倒れます。 その一年後、直武は突然藩から国元で遠慮謹慎の旨を申し渡されます。理由は身分もわきまえず画業におぼれ、勤務を怠ったというものでした。身に覚えがない罪により直武は角館に戻り罪に服すことになります。この事について実際の経緯は不明ですが、当時老中田沼意次の権勢が急速に凋落していて、田沼と深く繋がっている源内の屋敷に秋田藩の小姓が出入りするのは危険との判断が藩上層部にあり、曙山が病床にあるのをよい事に直武を江戸から遠ざけたのではないかとも憶測されています。 そんな折、源内が江戸で殺人を犯し捕らえられ、獄死するという事件が起こります。直武はこれを聞いて衝撃を受け、やがて直武も病に伏せます。安永九年(1780年)五月、藩主曙山からの赦免を待ち望みながらも直武は32歳で短い生涯を終えます。曙山からの赦免状が届いたのはその死の翌日だったといいます。 直武の死により秋田蘭画の命も終焉することになりました。しかしながら、その後直武の弟子司馬江漢により、新しい流れとしての洋風画に受け継がれていくことになるのです。
2006年03月22日
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秋田蘭画とは、江戸時代中期東北秋田で描かれた日本での初期洋風画の事です。秋田藩主の佐竹曙山と支藩角館藩士小田野直武の2人が、その代表的な画家とされています。描かれた期間が短いため現存する作品は多くありませんが、本格的に西洋画を学びそれを日本伝統絵画に取り入れた絵には特異な美の世界があります。そんな秋田蘭画に興味がありました。 私が仕事で秋田に行った時に、秋田蘭画を求めて秋田市立美術館(千秋美術館)に行ってみましたが、秋田蘭画のレプリカは飾ってあったものの実物の秋田蘭画は展示されていませんでした。しかたなく、秋田蘭画の絵葉書を買って帰りました。(秋田の人ももっと秋田蘭画をPRすればよいのに・・・) 秋田蘭画が描かれるようになったのは、平賀源内の秋田滞在がきっかけでした。平賀源内は国学・蘭学・科学・物産学などを研究する学者であり、戯作や芝居の台本、狂歌も作ったりと多岐にわたって才能を発揮した才人です。幕閣の実力者であった田沼意次からも信頼され重用されていました。秋田藩は当時財政難に苦しんでいて、領内にある鉱山開発のため源内を招聘したのです。そこで西洋画も習得していた源内が西洋画を教えたのが、秋田で西洋画が描かれるはじまりとなりました。 特に角館の小田野直武に目をかけ、源内が編纂を始めていた物産の図譜を描かせたいという事もあり直武に西洋画の勉強をさせます。やがて、直武を江戸に連れて行き源内の屋敷で5年にわたり江戸暮らしを続けます。その間源内から杉田玄白を紹介され、人体解剖書を翻訳した「解体新書」の編集に参加、彼はその挿絵を描きます。秋田に戻ってから、絵画を自分で描いていた秋田藩主佐竹曙山のお絵かき相手に任命され、曙山のもとで西洋画を描きます。こうして2人で秋田蘭画の製作に励むこととなりました。 しかし、こうした秋田蘭画の製作は永くは続きませんでした。不幸な出来事が相次ぎます。まず、藩主の曙山が病に倒れたのち、今度は直武も突然藩から謹慎処分を命ぜられさらに蟄居中に病の床につきます。さらに江戸で平賀源内が獄死と不幸な事件が続き、そうした中32才の若さで小田野直武はこの世を去ります。 秋田蘭画が描かれた期間は7年ほど、秋田に日本洋風画の光を放ったものの、それを根づかせることなく短い歴史的使命を閉じることになったのです。画:佐竹曙山 「湖山風景図」
2006年03月19日
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