僕のできる事

僕のできる事

ある男の人生


 一也が、自分の体の動きが気になりはじめたのは、現在十九歳になった息子大が、小学三年のころ、地域の少年サッカークラブにはいっていて、日曜に試合があれば必ず応援にいっていた。
“どうしたの、まっすぐ立てないのと妻の声がした
“どこが、なんでもないよ”
“だったらちゃんとたって応援しなさいよ” といわれてからだから、十年はたっただろうか、一也は三十八歳まで乾物屋をいとなんでいたが、大手スーパー、コンビニエンスの出店攻勢で撤退をせざるをえなくなって、しまい、1987年8月三十一日を持って川崎市幸区河原町店を閉店致します、お客様各位と張り紙をシャッターにとめた時は一也の目に涙がひかっていた。
店を始めてから、十三年働きっぱなしだった、決して店がいやでやめるのではなく、負けて閉めることがくやしかった。
それから,何日間はあるコンビニエンスの本部担当者の、熱心な、勧誘に心を打たれ覚書という仮契約に近い,50万を払い本部は責任を持って立地がよく,売上の上がるという計画書を持って何度も訪問し,毎日決まるまで,訪問してくる日が続き,よい立地が見つかったといっては同行して現場を見に行き,何度目かの立地にここなら売れそうだという感じがするところを、妻に相談もせずに本部担当の山田にお願いをしてしまった。
ここで、一也の悪い癖が出た、妻にはなにも相談せず、父に、土地の権利書を借りてその足で,店を営業していた時に親しくなっていた,当時は平和相互銀行といっていたが,今は住友銀行に吸収されてしまっているが,当時は収入に関係なく,商店街の発展の為に,夢中で仕事をしてぃたという信用もあり、店長室をたずねた,以前から根回しもしてあったのですぐに、五百万円の借り入れは本部の指定する日に入金をする約束をして、家に戻り、妻にいきさつを説明して、詳しいことは本部の担当に説明にきてもらうことにした。
今から十五年前のことではあるが、考えてみれば、あの時妻はどのようにして、覚書の五十万を用立てたのだろう、さて入金日の朝がきて、一也と妻裕子の言い争いがつづいていた。
“如何して今日になって”
“私は、子供をしっかり育てたい”
思わず、一也は、言葉ではかなわないので、
妻の首をしめていたその時
“おかあさん、おとうのいうとおりにしてください”
と、娘希実子6歳、息子雅史4歳の2人が正座をして両手をついて、頭を畳につけて大きな声でさけんでいた。
と同時に電話のベルがなった、
“小野さんですね?”
“はい”
“まだ、入金がされていませんが”
“大変ご迷惑をおかけしました、のちほど、
正式にお詫びにあがります“
“どうしたの、それでいいの”
と妻の問いかけに、
“子供に教えられた、4時頃までに一緒に横浜の本部までいってくれる”
“いいわよ”
娘は行きたくないというので、留守番でのこすことにして、妻と息子と3人で本部を訪ねた。
“この度は、大変お手数をかけました、申し訳ありませんが、もう契約はしないということで了解していただきたいのですが”
“覚書の五十万はかえすことはできませんが
よろしいですか“
“はい、かまいません”
結婚して、7年目にして、一也は、妻と子供に大きな借りをつくってしまった。
それから、しばらくの間、一也は黙って家をでた、コンビニエンスの経営には、家族の協力なくしては、営業が成り立たないことは、
以前から、いろいろと情報を集め十分しっていたにもかかわらず、今回の件は、もともと
言葉の少ない一也にとってただやりたいんだ
やってみなきゃあわからないの繰り返しで、
家族のことも考えず成功することだけを考えて、一人で妄想をして、毎日といっていいほど妻と言い争いをしていた。
家族の長としてはあるまじき行為であったが
一人になって考えたかった。
一也には、高校を卒業して大日本印刷株式会社という印刷業界では、世界で2番という大手の会社に7年勤めている時に、山が好きということで親友に近い付き合いをしている、
水野宮三の、岩手県盛岡にあるとんかつ屋にいた。
事の顛末を説明した。
“とにかく一晩とまってけよ“
店の、暖簾を下ろし、水野は、ひでゆきを、
椀こそば屋に連れて行き一也をたのましてくれた。
“小野、明日帰れよ、奥さんには電話しておいたから”
“すまない、迷惑かけたな”
一也は、帰りの新幹線のなかで、仕事を探そうと決意し、家に戻った。
“お帰り”という妻の声に、返す言葉もなかった。
翌日から、一也の就職戦線が始まった。
当時、川崎の職安は川崎区にあった、


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