還暦雲巣管理人独言(還暦を過ぎたウエブマスターの独り言)

還暦雲巣管理人独言(還暦を過ぎたウエブマスターの独り言)

チャンプ(白井義男選手)





「チャンプ(白井義男選手)」





昨年の大晦日の夜、NHKの紅白歌合戦の裏番組に、K‐1をはじめ総合格闘技の

幾つかの番組、ボブ・サップvs曙の対戦時には視聴率で上回ったとか、また

それらの各会場も数万人の入り、それに比べて、ボクシングは正月の3日に3つ

の世界タイトル戦、テレビの中継は関西では大阪テレビ、会場の入りはせいぜい

数千人止まり、K‐1やプライドの総合格闘技は数万の観客の入りだが、

ボクシングは世界タイトル戦でもテレビ中継がない時もあり、会場の観客数も

数千人どまり。


 ところがボクシングも、1960年代には殆んど毎日ほど何処かのチャンネル

が、しかもゴールデンタイムに放映なんてそんな時代もあって、そんな

ボクシングの黄金時代を築いたのは昨年末に亡くなった、日本人初の世界

チャンピオン、白井義男さんであった、当時の世界チャンピオンというのは

現在とは趣というか、重みが随分と違うのである、現在では世界的に認知されて

いる団体が4団体あり、各団体に世界チャンピオンがいて、階級も細分化されて

いるが、その当時はフライ・バンタム・フェザー・ライト・ウエルター・ミドル・

ライトヘビー・ヘビーの8階級のみで、団体はたった一つであった。


 それと敗戦で打ちひしがれていた日本人にとって、プロレスの力道山、水泳の

フジヤマのトビウオいわれた古橋選手、世界フライ級チャンピオンを獲得した

白井選手の3人はスポーツによる心の支えのような、シンボル的存在であった。


 1943年にデビューした白井は、軍に招集され終戦を迎え、復員してきた

白井選手は、ボクシングへの情熱をあきらめられなかったが、腰痛もあり引退を

真剣に考えていた、48年夏、運命的な出会いがあった、黙々と練習を繰り返す

白井選手を見て、当時GHQに勤務していた元米イリノイ大教授のカーン博士が

目を付け、「世界の器」と白羽の矢を立てた、鋭い左ジャブ、きれいなフット

ワークにカーン博士はひらめきを感じたという、白井選手は最高の伯楽を得て、

奇跡的によみがえった。


 そのコーチのお陰で順調に成長した白井は52年5月、ついに世界フライ級

チャンピオン、ダド・マリノに挑戦した、世論は白井有利ではあったが、世界戦と

いう舞台でさえ日本人は経験がなかった、後楽園球場に詰め掛けたファンは期待と

不安が交錯した、しかし、白井は基本に忠実な自分のボクシングを最後まで守り、

判定勝ちをものにした、その瞬間、球場は地響きがするような大歓声に沸き返っ

た、このときの観客数は4万5千人。


 日本人初の世界チャンピオン獲得で喜びに沸き、興奮のルツボと化した会場も

時間の経過と共におさまり、後楽園球場の特設リングを降りて、リングサイドの

著名人や関係者に挨拶する白井義男選手の肩に手を回しマネージャー兼トレーナー

のカーン博士は、会場の最上階を指差し、「裕福でないが、なけなしの金を叩いて

見に来て応援してくれた、あの人たちにもお礼の挨拶をしなさい、チャンピオンに

なっても謙虚に」と。


 カーン博士は白井選手に、科学的なトレーニングを取り入れ、時には何時間も、

何日も、ナチュラルなタイミングで繰り出される右ストレートの的中率と、威力を

増すために、左のジャブだけを、いろんなタイミングと角度で繰り出す練習など、

徹底的な反復トレーニング、「如何に相手に打たれずに、自分のパンチを当て

る」、そのための練習、この出会いが「拳闘」を「ボクシング」に変え、白井選手

を「拳闘家」から「ボクサー」へと変身させた。



 引退後、テレビなどでボクシングの試合の解説者として、またその他の場面で

見かけても、オシャレでダンデイーな身のこなしで、いつも笑顔を絶やさない、

少したれ目の温厚で、柔和な、元ボクサーの匂いを全く感じさせない好紳士、

決して毒舌ではなかったが、たとえ日本人の人気選手であっても苦言を呈したり、

身贔屓の解説をしなかったり、テレビ局に媚びたり、アナウンサーのコメントに

安易に相槌を打つことはなかった、4度のタイトル防衛後、アルゼンチンで

パスカル・ペレスに敗れ、リターンマッチでも敗れ、その引退後の人生も、

日本人初の世界チャンピオンにふさわしい、絶えず栄光の輝かしいチャンピオン

ベルトを巻き続けたような人生、これはカーン博士からボクシングの技術以外にも

多くのことを学んだ結果であった。


 選手とマネージャーが、現役時代或いは引退後にもめるケースのほとんどが、

お金にまわることが多いが、この二人に関してはまれに見る例外中の例外、

カーン博士は白井選手のファイトマネーの管理を全て任されていたが、引退した

時、今までのファイトマネーに、たったの一円も手をつけることなく、そっくり

全額を白井選手の手元に、この師弟関係の信頼の絆が、身寄りのない生涯独身の

カーン博士が、晩年重度の痴呆になりながらも、白井家の家族の一員として、

特に白井選手の奥さんが介護の心労で入院ということもあったが、手厚い、暖かい

介護を受けながら生涯を過ごすことになった。



 日本人で心から「チャンプ」と呼べるのは、白井義男選手だけの

 ような気がします。






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