育てているのは未来です

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ひかり保育所のはじまり


 当時は、母親が小さい子どもを預けて働くという社会通念がない時代で、農業や漁業など夫婦で仕事をしなければならない人ためのセフティネットとして保育所が存在していました。行政にも、勤め人のための保育園という発想はなく、会社勤めの女性は結婚もしくは出産を機に退職し、子どもは幼稚園に通うといのが常識でした。ところが、日本の高度成長はそれにともなって多くの労働力を必要とするようになり、都会から地方まで一気に女性の社会進出が広がりました。しかし保育という考え方が前述のようなものでしたから、郊外の海や山近くには保育園があっても街中の保育園はとても少なく、まして「乳飲み子を預けて働くなどは母親失格!」という時代でしたから、乳児を預かるようなところはさらに少なかったのです。
 実際、私の同級生でNTTや郵政局などに勤めていた人たちが、仕事を続けたくても預け先が無いと悲鳴を上げていましたので、その人たちの足元を照らす光になればという思いからかり保育所が誕生しました。4畳半と3畳のせまいアパートと、元乳児院の保母だった23歳の家内と、元あゆみ学園職員だった26歳の私に大事な子どもを託すというのは、それだけみなさん切羽づまった状況にあったのだろうと思います。

 その時はゴルフショップを経営していた大家さんは元々銭湯を経営していて、アパートも従業員のためのものでしたが、すでに廃業して隣に銭湯の建物がそのまま残っていました。園児2人でスタートした保育所も一年後には10人を越えるようになり、大家さんにお願いして使わなくなっていた銭湯を借り、夜なべ仕事で浴槽の上に板を張って浴室全体を保育室にしました。男女の浴室と脱衣場とで、3か所の保育室とひと部屋は物置。もちろん私が日曜大工で作りました。
 目の前を国道が通っているので、夏は大きなタライで水遊びをしている子どもたちを、自動車の運転席から珍しそうに見られたものです。
 認可外保育所は「無認可」と呼ばれたように、行政からも社会からもなにか怪しげな闇営業をしている所と考えられていた時代ですから、今のように補助金などあるはずもなく、あるのは若さと情熱、無いのはお金と結構ハッキリしていました。
 小さい子どもたちが多くなったので、当時「カタカタ」と呼んでいた子どものための押し車が欲しくなりましたがお金がなく、高校時代の恩師から自分の子どもの誕生祝にいただいたカタカタで型どりをして、日曜大工でおなじようなものを4台作りました。子どもたちも喜んで遊んでくれましたが、お金と同時に知識もなかったため、ホームセンターで買ってきた厚手の合板の車輪は、雨に濡れて無残にもバラバラに弾けてしまいました。パーチクルボードといって、今でも安い家具のカラーボックスなどに使われているもので水にはきわめて弱い板で作っていたからです。

 私はいろいろと試行錯誤と工夫を重ねながら年齢の高い子どもたちの相手をし、家内は生後まもない子どもたちから1歳くらいまでの子どもの食事もつくりながらお世話をさせていただきました。当時は一時預かりもしていたので、書類に名前や住所は書いていただきますが見ず知らずの方の子どもを預かることもありました。ある日、お預かりした子どものお迎えが夕方になってもないので心配していたら、ほかのご家族が「母親が家出した」と顔色を変えて迎えに来られたこともあったりして、家庭状況の分からない方の子どもを預かるのはなかなかリスクのあることだと実感したものです。

 元々子ども好きでしたしそれなりの使命感もあったので、毎日早朝から夜までの仕事も特に苦痛を感じることはなく、地域のみなさん少しずつ知ってもらえるようにもなって充実した日々をすごしていたある日、急に大家さんに呼ばれて退去してくれと言われ、驚くとともに慌てました。聞いてみると、銭湯とアパートを壊してゴルフショップの入ったテナントビルを建てるというお話でした。今ならそこにテナントで入るというようなことも考えられますが、当時は世間をしらない若造ですからそんなこと思いつくはずもなく、せっかく根付きはじめた場所を出なければならない現実に途方にくれることになりました。ひかり保育所を始めてやっと2年半くらいの頃のことです。


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