タンポポ

タンポポ

バンコちゃん


弟がマザコンだとは知らなかったわ(大笑)
母は同じ読み方をする名前を持つ義妹のことは、まんざらでもなく
義妹を敵視することも無く、今に至ります。

母の名前、別の読み方をすると、バンコになるの。
家庭内では、時折、母に「バンコちゃん」と呼びかけることもあるこのごろです。
母も、結構気に入ってるみたい(^^;

日記を書き始めて、あれこれまとめておきたい病にかかりました。
ここは、母のことも少しづつ、まとめておこうと思うページです。


最初は、私は一人で相談しました。
県の老人介護センターの電話相談窓口のようなところを紹介してもらい、電話で以下のことを相談しました。

1・人間ドックのような感覚で(母に悟られず)、母の痴呆度も調べてくれる病院はないか。
2・家族の対処の仕方をサポートしてくれるところはないか。

その時言われたことは、本人に抵抗されても、知らせた上で、痴呆外来へ行くべきこと、
普通の人間ドックに付随している脳ドックでは痴呆の細かい診断は出来ないだろうこと、
そして病院のリストを送ってもらいました。

父はまだ元気で勤めていましたので、病院に連れて行くことを父に勧めたのですが、
歳をとるとそういうこともあるからと、取り合ってくれず、実際に病院に行くにはそれから2年かかりました。

結果は、アルツハイマーでした。

私は強行に勧めることが出来ませんでした。
遠方に住む弟夫婦に、病院で見てもらうことが遅れた結果、もし、重篤な状態になるにしても、
それは、私たちの親が選んだ道として、受け入れていくことしかないと、私は思っているということ。
後で、近くにいるのに何もしなかった娘というレッテルを貼られても、しかたがない、甘んじて受け入れると伝えました。

弟は私の言うことは理解しながらも、やはり母の衰えを認めようとはしませんでした。
「もともと、うっかりさんやから・・・」
まだ、自意識のある母と、気にしながらも目の前の母の衰えを、認めたくない父を引きずって、病院へ連れて行くことは出来ませんでした。

友人の母上に、痴呆かと思われていたのに、脳腫瘍で、手術で完治された方があり、その方のことなど、話題にしながら、
母自身を何とか通院してみようかという気にさせたものの、父がうなずかず、だめになったこともありました。

最終的には退職した父が半年近く毎日、一日中母と過ごしているうちに、驚くようなことが次々見えたようで、
二人で、最初にもらっていたリストの中から、近くの個人病院を選び、出かけたのですが、待合室で母が怒り出してしまって、あえなく退却。

次に行った大学病院の痴呆外来で、やっと落ち着いて見ていただくことができ、今に至っています。

バンコちゃんの異変は、
言動に不自然なことが出てきたことがきっかけでした。
震災の年の年末、弟が結婚しました。
その結婚式に必要だったものを、忘れてきたバンコちゃん。
普段からうっかりサンだけど、肝心なことははずさない人だったのに、なぜ?
と言う気持ちでしたが、そのときは痴呆症にかかっているなんて、考えもしませんでした。

次の年、従姉妹が結婚しました。
バンコちゃんの妹の娘です。
従姉妹のお祝いを叔母連(バンコちゃんの妹連)と私、と一緒にもって行くことになっていたある日
待ち合わせ場所にバンコちゃんが居ない!
家に電話をかけても、出かけているのか、誰も出ない!
待っても待っても、バンコちゃんが現れず、・・・

数時間たって、バンコちゃんは何事も無かったかのように現れました。
叔母の家にはちゃんと到着できたんだけど

何でも、昔ちょっと、お稽古事で一緒だった人が、亡くなったという知らせが、
その方は、身寄りがなく、同じお稽古事に一緒に来ていたお友達が、看取られたとの事、
と言っても、バンコちゃんにとっては、お葬式に伺うほどの親しさでもない人なのに
その方のお住まいと、以前バンコちゃんが住んでいた町が一緒だと言うことで
お葬式屋さんを紹介して欲しい?と言うようなお電話があったそうで・・・

バンコちゃんはそちらへ出かけてしまったのでした。

バンコちゃんは、そういうことをしない人でした。
その日、大事な御用がある。そのことをきっぱりと優先するはずの人でした。

私は行方不明の不安より、母の中で何かが変わったように思えて、不安でなりませんでした。

その後、バンコちゃんは家事が出来なくなっていきます。


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